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新しい「橋カード」、集め始めました [コレクション]

今日、橋カード3種類をゲットして来ました。
東雲さくら橋(表).jpg東雲さくら橋(裏).jpg
(橋カード「東雲さくら橋」の表面)       (橋カード「東雲さくら橋」の裏面)

これらのカードは、この4月より新たに配布を開始した「とちぎ橋カード」で、昨年行われた栃木県のデスティネーションキャンペーンの一環で配布された「とちぎ橋カード」に続くものです。
昨年2018年にカードになった橋は、県北の那珂川に架かる「晩翠橋(ばんすいきょう)」など10橋梁でしたが、今年(2019年)は枚数が増えて、24橋梁がカードに成りました。
橋カード2018.jpg橋カード2019.jpg
(昨年配布された「橋カード」)          (今年配布されている「橋カード」)

明日から世間では10連休と言うことで、海外へ出かける人達や、故郷に帰る人達の大移動が始まります。我家ではこれといった予定も無く、遠出をして渋滞に巻き込まれるのもかなわないので、時間の余裕を見て栃木県内のこれらの「橋カード」を集めて回ろうかとも考えています。
今回の「橋カード」の多くが、県内各地域の道の駅が配布場所となっていますから、道の駅でその地域の物産を見たり食べたりするのも楽しみの一つです。





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栃木市細堀町の水田脇に建つ「大川鴻山先生碑」 [石碑]

栃木市内に建てられている石碑を探し求めて、日々市内を歩き回っています。太平山や錦着山をはじめ、第二公園内などは、多くの石碑が確認できます。その他市内の神社仏閣にも必ずと言っていいほど、石碑が建てられています。
これまでもこの「巴波川日記」の中で、幾つも紹介をしてきましたが、今回は細堀町の水田の脇に建てられた石碑です。細堀町は旧栃木市内吹上地区に有り、町の中央を赤津川が北から南に貫流、東側には東北自動車道がやはり南北に走り、東北側に北関東自動車道との栃木都賀ジャンクションが見える。西側には足尾山地の南東端となる、標高183メートルの鴻巣山(別称、富士山)を中心に150メートル程度の低い山々が連なっています。
鴻巣山遠望.jpg
(細堀町の水田から西方の山並みを望む。山頂に展望タワーが見えるところが鴻巣山。写真中央右側、水田の先に石碑が建てられているのが見えます。)

栃木の市街地から向かうと、東北自動車道の狭いアンダーを抜けるか、吹上町から赤津川沿いの道を北上するルートと成る為、赤津川沿いを歩く事以外、私個人では滅多にこの地に踏み入れることは無い場所でした。
その細堀町を地形図で確認をしていたところ、田んぼの道路脇に石碑の地図記号を発見、さっそく現地確認をして写真に収めました。
大川鴻山先生碑1.jpg
(綺麗に整えられた石碑廻り)
石碑の正面上部に、「大川鴻山先生碑」の文字が陽刻されています。
大川鴻山先生碑2.jpg
(顕額の文字は侍従長海軍大将正三位勲一等功三級の鈴木貫太郎による)

碑文.jpg碑陰.jpg
(石碑正面、碑文)             (碑陰には多くの氏名がびっしりと刻されています)

碑文は海軍主計中将従四位勲二等刑部齊の撰並びに書と記されています。
「大川鴻山先生」とはどんな人物なのか、碑文にはその人の生い立ちから、慶応元年(1865)野州吹上村(現在の栃木市細堀町)に生まれる。名は元太郎。少年時代より武道を志し、明治28年(1895)鹿島神伝心影流相伝の免許を受け、秘奥皆伝を許され、第17代を承継しました。武道家として大成、明治31年(1898)に自邸に附設した道場「練武館」を設けています。又、栃木武徳会支部の創立や剣道の中等学校正科編入・剣道型の普及等に力を尽くし、大正6年(1917)武徳会本部大会に際して総裁 久邇宮殿下より精錬證を拝受、大正12年(1923)摂政宮殿下(後の昭和天皇)の拝謁を賜る。身老齢に達しても常に野に在り、地元青年育成に尽くしたこと等、記されています。
大川鴻山先生碑文.jpg
(碑文を書き写しました。ただしカタカナはひらがなに変えています。)

栃木市史(通史編)の「近代教育制度の発足」の項に、この「練武館」の事が記されています。
≪所在 吹上村大字細堀、 師範 大川元太郎、 大川元太郎は鴻山と号した。慶応元年生、明治28年鹿島神伝神影流の免許皆伝をうけ、同31年自邸に道場練武館を設け、剣道を教えた。 その門下の有段者は五十余人にのぼった。≫

碑陰に刻された「門人」を見ると、地元吹上96名を含む200名程の名前が連ねています。その上部には「後援団」として120名(その筆頭に代議士松村光三氏の名前も見られます)
多くの賛同者を得てこの碑が建てられました。碑文の最後の日付けは昭和6年(1931)11月3日と成っています。

大川元太郎が「鴻山」と号したのは、生まれ育った細堀の地から望む「鴻巣山」から採ったのではないかと、これは私の勝手な想像に過ぎませんが。

ちなみに、「大川」という姓は2003年~2004年版の電話帳を見ると61軒、その内細堀町が17軒で一番多くなっています。次に多いのが神田町7軒、3番目が今泉町で5軒となります。
尚、細堀町で特徴的な苗字は「玉田」姓になり、8軒です。少ないですが栃木市全体でも20軒しか見られませんから、4割が細堀町に集中していることに成ります。
昭和33年8月15日近藤兼利氏が著した「皆川廣照伝」の付録「皆川譜代家臣録」を見ると、「大川」姓が3名見えるが、全て細堀村でした。又、「玉田」姓は15名見えますが、その内9名が細堀村に名を連ねていました。

田んぼ沿いに建てられた1基の石碑から、栃木市の一つの歴史に触れることが出来ました。





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ポケットチェンジして来ました

「ポケットチェンジ」という、余った外貨を電子マネーに交換出来る便利な物が有ることを、最近知りました。
我家にも僅かですが外貨が眠っていました。田舎町では簡単に両替してくれる金融機関がないので、いつか又行く機会が有れば、その時にでも利用しようと考え、そのまま手元に残ったままになっていました。が、今の状態ではもう海外へ出かける事も考えられなくなって来ているので、思い切って交換しようと東京まで出かけてきました。
関東地方で「ポケットチェンジ」が設置されているのは、成田や羽田の空港以外でも都内に何カ所か確認できたので、東京駅近くの設置施設向かいました。
持ち込んだ外貨は、米ドルと中国元の紙幣とコイン、そしてタイバーツ(紙幣のみ対応)の3種類、紙幣・硬貨合わせて約32,000円。
首尾よく交換出来れば、帰りに美味しいものでも食べてこようと。
「ポケットチェンジ」の操作は、簡単な物でしたが、初めて利用するので、思わぬ失敗を繰り返してしまいました。
紙幣投入口から紙幣5・6枚をまとめて差し込んだところ、機械は一度飲み込んだ後吐き出してきました。紙幣がバラバラと床に落ちたので慌てて拾い集めました。周りに誰も見ている人が居なかったので、良かったです。紙幣は1枚づつ挿入すれば問題なかったのです。
中国元はスムースに交換出来ました。タイバーツは2枚、旧紙幣が投入しても戻ってきてしまいました。最後に一番交換レートの高い「アメリカドル」、1ドル約108円、1枚づつ差し込んだのですが、どうしても戻ってきてしまい、両替不可となってしまいました。(原因は旧紙幣で機械が対応していない為でした)
米ドル紙幣は、私が37年前に初めて海外に出かけた時の記念で、$1・$2・$5・$10・$20・$50のピン札をとって置いたもので、改めて現在流通の紙幣のデザインと異なっていました。
当時のレートは1ドル約250円の時代でしたから、現在は半分以下に成っているのに、更に交換出来ないとなると少しショックです。
一方、アメリカの硬貨は交換出来ましたが、ペニー(1セント)が60個ほど有りましたが、一回の投入が20個までと言うので、全部処理しても60円ほどなので止めました。5セント・10セント・25セント・50セントは交換しました。
1ドル硬貨が2枚有りましたが、大きくて投入口に入らず持ち帰りました。
米ドル.jpg
(交換が出来なかった旧ドル紙幣と1ドル硬貨)

結果として交換できたのは約18,000円、期待した金額までいかなかった。やはり米ドルの紙幣が旧札で機械が対応していなかった影響が大きかった。それと「ポケットチェンジ」、操作が簡単で何の手続きも必要が無いので便利な分少し交換率が低かったかな。それでも交換出来なければただの紙切れ同然ですから、少しでも交換出来て良かった。又、いい経験をさせて貰いました。

交換所の近くで、日本銀行本店の建物や、最近発表された日本の新しい1万円札のデザインの顔となる人物「渋沢栄一」氏の銅像を見る事が出来ました。偶然ですがどれもお金に関係していました。
日本銀行本店.jpg渋沢栄一の銅像.jpg
(日本銀行本店の建物)               (常盤橋近くに建つ渋沢栄一の銅像)



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カイドウが満開になりました [草花]

我家の猫の額、いや、ネズミの額ほどの庭の隅に有るハナカイドウが満開になりました。
園芸にはほとんど興味が無く、庭の草木の手入れもしていませんが、春になると自然と目を出してきて、色々と花を咲かせてきています。
今、一番鮮やかなピンクの花を付けているのがハナカイドウです。
ハナカイドウ1.jpg
ハナカイドウ2.jpg
そして今、ナツツバキには新芽が育ってきて、黄緑色が目立って来ています。これらの木々は肥料も何もやらないのにドンドン育ってしまい、毎年伸びた枝木を切るのが大変になってきています。
ナツツバキ.jpg
何時かは処分しなければと考えていますが、今はまだ殺風景な我家の庭に彩りを添えてくれているので、今しばらくは、面倒を見ていこうかとも思っています。
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栃木市内の桜巡り [自然の恵み]

今日は栃木県議会議員選挙の投票日、昨日まで栃木市内を6名の候補者が選挙カーで、遊説していました。今日は風も無く朝から穏やかな陽気に包まれています。私も昼過ぎに自転車で近くの投票所へ向かいました。
小平橋の桜3.jpg
(満開になった小平橋の桜)
途中の小平橋袂で満開の桜を写真に収め、投票を済ませた後、市内の桜を求めて自転車のペダルを踏みました。巴波川右岸の道を幸来橋から巴波川橋方向に走らせ、瀬戸ヶ原公園へ。
この界隈は栃木市観光の中心の為か、今日も沢山の観光客が来ていました。
瀬戸ヶ原公園の桜.jpg
(瀬戸ヶ原公園の桜、手前が九十九曲り用水)
更に南に下ると栃木カトリック教会にも桜の木が有りました。
栃木カトリック教会の桜.jpg
(栃木カトリック教会の桜)
次は少し市街地から西に走って芝塚山へ向かいました。
芝塚山の桜.jpg
(芝塚山の桜)
芝塚山には数本の桜の木が有り満開になっていました。芝塚山西側の栃木商業高校でも、正門付近の桜が満開になっていました。ここから栃木バイパスを通って錦着山へ。
錦着山麓の桜.jpg
(錦着山南麓駐車場の桜)
錦着山南麓の駐車場は満車状態です。今日はまさにお花見日和になりました。
錦着山の西方を流れる永野川の緑地公園の桜も、薄ピンクの幕を張ったようです。
永野川緑地公園の桜.jpg
(永野川右岸、緑地公園の桜)
一昨日まで季節外れの寒さで、桜も開花を渋っていましたが、昨日今日の陽気で一斉に開花をしたようです。春はやっぱり桜、どこも綺麗に花を付けていました。

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栃木市街地でも桜が満開に [自然の恵み]

今朝も冷え込みがきつかったですが、昼過ぎになると一変して、暖かい空気を感じるようになりました。
そこで、さっそくカメラをぶらさげて栃木の街中に有る桜スポットを巡ってみました。
一昨日、車で大平町の桜通りを通過したのですが、一足早く満開になって、見事な桜のトンネルが見られましたので、栃木の街中も見頃になっているはず。
まずは我家の近く、巴波川・小平橋の桜です。
小平橋の桜1.jpg
(小平橋脇の桜、だいぶ開花してきています。今週末が見頃)
小平橋は私の街中ウォーキングのコースで、必ず渡る橋ですから、この時期は桜の開花状態を見るのが、一つの楽しみです。
妙唱寺境内の枝垂桜も満開になっていました。
次は旧栃木市役所別館東側、元県庁堀沿いの枝垂桜。こちらも満開です。
旧栃木市役所別館の桜.jpg
(元県庁堀の水面に満開に咲いた枝を垂らしています。)
今年度からいよいよ後方に建っている「旧栃木市別館」の建物の改修工事が開始される様です。そして新しく「文学館(仮称)」として整備されます。この際建物南東部に増築された部分が解体撤去されて、建築当時の形に復原されるようですので、その工事の都合上この枝垂桜が残されるのかどうか気になります。残されることを信じています。
定願寺墓地南側の1本の桜の木もピンクの花びらを満開に付けていました。
栃木第四小学校校庭の桜ももうすぐ満開です。
栃四小の桜.jpg
(春休みで児童の姿が見えない校庭の桜)
栃木文化会館駐車場の桜は、開花が遅れているのか、満開はもう少し後になりそうです。
次は第二公園の桜です。公園中央の噴水池脇の桜はほぼ満開、大きく育った柳の新芽が緑色に光っていました。池の周りは小さい子を連れたカップルの姿や、走り回る子供達がいました。
第二公園の桜.jpg
(噴水池の水面近くまで伸ばした枝にも、満開の桜の花が)
公園北側に祀られた栃木町の総鎮守「神明宮」の、本殿脇の桜の木も満開で、後方の本殿もすっかり隠れてしまっています。僅かに上方に千木と鰹木とがのぞいて見えます。
神明宮の桜.jpg
(神明宮の本殿前南側、本殿を隠すように咲く桜)
巴波川は今年も、川に渡したロープに多くの小さな鯉幟が付けられ、風に吹かれて川面を元気に泳いでいるようです。倭橋を渡り川の西側に。かって「いりふね保育園」だった跡地に残された桜の老木も満開に花を付けていました。
旧いりふね保育園跡の桜.jpg
(保育園の建屋も解体撤去され、更地となり園児の姿も消えさびしそうな桜木)
栃木の町の中を桜の花を求めて歩き回ること3時間、14,597歩の花見ウォーキングでした。
最後に又小平橋を渡り、我が家に戻ります。
小平橋の桜2.jpg
(往きに見た時より開花が進んだ様に見える小平橋の桜)
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枝垂桜三昧 [自然の恵み]

4月に入り、昨日は新元号「令和」が発表されました。平成も今月限りになります。
その平成最後の桜を求めて近くの桜の名所を巡ってきましたが、東京では満開と言われるソメイヨシノは、ここ数日肌寒い日が続いている為か、栃木周辺ではもう少し先になりそう、今は枝垂桜が見頃になっていました。
最初は小山市飯塚の琵琶塚古墳脇の枝垂桜です。
古墳の脇を走る道路沿いには八重桜の並木になっていますが、こちらはまだまだ開花は先のようです。ただ1本有る枝垂桜が丁度見頃になっていましたので、写真に収めてきました。
天地を桜の花のピンクと菜の花のイエロウとでサンドイッチ状態になっているのが、琵琶塚古墳です。
「6世紀前葉に築かれた栃木県最大級(墳丘長124.8メートル)の前方後円墳です。大正15年に国史跡に指定されました。」<国史跡摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館資料より抜粋>
ここ数年古墳の発掘調査が行われていましたが、調査は完了したのか綺麗に整備されて、二つのピークを持つなだらかな稜線が左右に広がっています。
琵琶塚古墳と枝垂れ桜.jpg
(琵琶塚古墳と枝垂桜)
次のポイントを求めて栃木市の北の端「西方町へ」
西方城址の南東側山裾に有るお屋敷の門の脇に見事な枝振りの枝垂桜が、まだ山陰に入る前で太陽の光を浴びて輝いて見えました。
「この枝垂桜は、栃木県名木100選の一つ、室町時代に植えられたようである。樹齢推定約560年、樹高約8メートル」<栃木市文化財マップより抜粋>
西方町の枝垂れ桜.jpg
(西方町本城の枝垂桜)
更に次のポイントに移動します。次は都賀町富張にある長福寺の枝垂桜です。
寺の東側には北から南に赤津川が南流しています。
こちらのお寺の境内には樹齢が350年や250年の枝垂桜が、今まさに満開となって枝一杯に花を付け、その重さで枝が地面まで垂れ下がっているようです。
都賀町長福寺の枝垂れ桜.jpg
(都賀町富張、長福寺の枝垂桜)
青空の下見事に咲いた枝垂桜を堪能することが出来ました。


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下野市天平の丘公園の下野淡墨桜が満開に [自然の恵み]

今日、昼過ぎ頃から花曇りの天気から青空が広がり、気温もドンドンと上昇して来たので、桜の名所を何所か見てこようと、車で下野市の天平の丘公園に向かいました。
ソメイヨシノはさすがにまだだろうと思い、ここには色んな品種の桜が有るので、早咲きの桜をあてにしてきましたが、予想通り会場に着くとピンクの花を付けた木々が目に入ってきました。
史跡国分尼寺跡.jpg
「史跡下野国分尼寺跡」近くの駐車場に車を止めて、ピンク色に染まる木々の有る方へ行くと、すでに桜の木の下では、花見の宴に興ずる一団が下りました。風もなく暖かい日差しの中、子供と芝生の上でボール遊びや、バトミントンをする家族連れなどで、元気な声が飛び交っていました。
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枝振りもよく立派な木が大きく広げた枝いっぱいに薄ピンクの花びらを付けています。何の品種か近くに立てられた案内板を確認すると「下野淡墨桜(しもつけうすずみさくら)」と紹介有れています。
淡墨桜3.jpg
「下野淡墨桜」の特徴は、ピンクのつぼみから淡白色に花が咲き、満開を過ぎるとうすずみをかけたような色に変わるところから名づけられた。3月下旬が見ごろ。と説明が有りました。
現在はまだうすずみ色に変わっていませんので、これからが本当の見ごろを迎える様です。
淡墨桜2.jpg
まだ五分咲き程の木々も有りますから、これからが一段と華やかになっていきます。
「天平の花まつり」会場には、この外にもすでに満開を迎えている木々が有りました。
神代桜.jpg山高神代桜.jpg
「神代桜」や「安行寒桜」などの品種が枝いっぱいに花を付けて華やかでした。
安行寒桜.jpg
天気予報では明日は朝から青空が広がり、花見に絶好の日和になるようです。
家の近くの巴波川小平橋の桜が、私の一番お気に入りの場所ですが、今日の陽気でグッと蕾も膨らんで、木全体も薄っすらとピンク色を帯びてきました。今週末が見ごろになりそうです。楽しみです。

 
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栃木市吹上地区の米山に登る [石碑]

栃木市吹上地区の米山は標高86メートル程、周囲約500メートルの小丘。周辺田畑の標高が60メートル程有りますから比高としては26メートル程になります。
米山遠望1.jpg
(赤津川に架かる平和橋上から上流側を望む。正面奥の小丘が米山です。)

近くの三角点は米山から北西650メートルの吹上中学校の校舎南側に有り標高は81.7メートルですから、米山の山頂は丁度吹上中校舎の2階ほどの高さになります。東側を赤津川が南流しています。山の南東側半分が野中町で、南側中腹に長宮神社が祀られています。この神社は明治40年10月15日吹上村大字野中の神饌幣帛料供進指定村社となっています。
長宮神社入り口.jpg
(米山の南端部に建つ長宮神社の石の鳥居)
長宮神社境内.jpg
(鳥居を潜り杉木立の中の参道を進むと高台に社殿が見えてくる)
神楽殿.jpg社殿.jpg
(中段部に建つ神楽殿)      (上段部の拝殿、左横に「水神社」等の境内社が並ぶ)

山の北西側半分は吹上町で、山頂近くには墓地が有り、中央部に米山薬師如来の石仏が祀られています。
この米山薬師は、この吹上の地に昔から住まわれている塩田家が一族の永遠の繁栄を祈願して、新潟県の上越市と柏崎市との境に聳える霊峰米山(標高993メートル)の山頂に祀られている米山薬師を勧請されたと云われています。米山薬師は三河(愛知県)の鳳来寺薬師と、日向(宮崎県)の法華嶽薬師と共に、日本三薬師の一つとして知られています。
米山薬師入口.jpg米山薬師.jpg
(米山薬師への階段と脇に建つ石碑) (山頂部墓地内に鎮座する米山薬師如来)

米山薬師が祀られている塩田家一族の墓地への入口は、米山の西側に有りました。周辺には最近新しい住宅が建てられ、以前は道路脇に建てられていた案内の石碑も現在は米山登り口階段脇に移されています。
上端が尖った自然石の案内の石碑には「日本三體米山薬師」「塩田一族之墓入口」、そして碑陰には「紀元貮千六百年 昭和拾五年五月 一族一同 式臺 本碑 建之」と刻されています。
「栃木口語り 吹上 現代故老に聴く」(野村敬子・原田遼・共編、2010年11月10日 瑞木書房発行)の書籍の中にこの米山薬師のお話が詳しく語られています。その中に≪米山の薬師様への石段は六十三段ですが、この六十三段は七×九で七難九厄をよけるとされています。登ることに意味があります。≫と述べられています。私も一段一段数えて石段を登ってみました。確かに63段を数えました。

墓地のほぼ中央に米山薬師が祀られています。薬師様はお座りになられ、両手で薬壺を持たれています。後方の大きな舟形光背には、「奉本願吹上村米山薬師」と「寛文四甲辰禾五月八日」の文字が並んで刻されています。寛文4年は1664年で甲辰の年で、今から355年前に建てられた薬師如来様です。

この塩田家墓地の一段高くなった右奥の墓所に大きな石碑が建てられています。
塩田家譜之碑.jpg碑銘.jpg
(塩田家墓地の右奥に建つ石碑)   (石碑上部の碑銘、篆書体文字が陽刻されています)

石碑上部の碑銘には「鹽田家譜之碑」と篆書体にて陽刻されています。碑文に目を移すと、先頭行に少し大きな文字で「鹽田氏畧譜碑」と、ただ本文は容易に読むことが出来ません。私の苦手な漢文の文章体で、どのように読んでいいのか皆目見当が付きません。見たこともない漢字を含めて646文字が整然と並んで刻されています。
最終行に、「明治三十九年九月二十九日  當家十一代孫奥造朝眞謹撰并書」と有り、この碑文が書かれた日付けと、文を作り清書した人物が「塩田奥造」であることがわかりました。
塩田氏畧譜碑(吹上町).jpg
(石碑の碑文部分を書き写してみました。難読文字も多く読み間違いも有りますが)

「塩田奥造」と言う人物に付いては、いまさら紹介するまでも無い、栃木市吹上町出身の偉人の一人です。
下野新聞社が昭和47年4月7日に発行した「郷土の人々(栃木・小山・真岡の巻)」より抜粋させて貰いますと、≪塩田は、吹上村の名主嘉門の長男として嘉永二年十月十五日に生まれた。壬生天狗党事件、出流天狗党事件のさい、吹上藩士として活躍、その後官軍に味方して会津戦争に参加している。明治にはいって五年に吹上村外九ヵ村の戸長となり、十三年県議、二十二年田中正造が議長のとき副議長をつとめた。二十三年新井とともに衆議院に打って出て三回当選した。しかし、ニ十七年の衆院選に敗れるとあっさり政界を去り、東京火災保険会社取締役となり実業界に入った。(後略)≫、その後も多くの銀行・保険・殖産等数々の事業に関係し活躍をし、昭和2年(1927)2月6日、79歳で亡くなられています。

米山よりの展望.jpg
(米山の山上からの展望)

米山からの展望は雑木が生い茂っている為、木々の間より吹上の町を垣間見る程度でした。
最後に米山薬師様にお参りして、山を下りました。

<今回参考にさせて頂いた文献>
・「郷土の人々(栃木・小山・真岡の巻)」下野新聞社・昭和47年4月7日発行
・「栃木人(明治・大正・昭和に活躍した人びとたち)」石崎常藏・2017年4月1日発行
・「栃木口語り 吹上 現代故老に聴く」野村敬子・原田遼・共編、2010年11月10日 瑞木書房発行
・「吹上地誌(中部編)」吹上地区まちづくり協議会・平成22年1月26日発行
・「吹上郷土誌」吹上尋常高等小学校・大正2年8月25日発行



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栃木市岩舟町小野寺の藤坂峠に建つ石碑 [石碑]

栃木市の中心市街地から西隣の佐野市葛生地区に自動車で抜けるルートは、現在3ルートが有ります。
ひとつは北東側から新会沢トンネルを抜けて会沢町に入る①「国道293号線ルート」、
新会沢トンネル.jpg
(国道293号線の新会沢トンネル。右側道路奥には旧「会沢隧道」有り。それぞれ一方通行)

二つ目は東側の柏倉町から、琴平神社が祀られている鞍掛山を越え長坂町に入る②「県道210号線ルート」、
琴平峠.jpg
(県道210号線鞍掛山の峠、佐野市と栃木市との境界)

そして三つ目は南東側の小野寺町から藤坂峠を越えて中町に入る③「県道282号線ルート」になります。
藤坂峠脇の石碑2.jpg
(県道282号線藤坂峠、佐野市と栃木市との境界)

これらの三つのルートを走って栃木市街地中心の倭町交差点から、佐野市葛生駅前までの距離と所要時間を私の車のカーナビにて検索してみました。
検索結果は、①国道293号線ルート:17.2kmで27分間。②県道210号線ルート:16.7km、31分間。③県道282号線ルート:16.8km、29分間。その違いは距離にして500メートル程度、所要時間も4分間程の差異しか有りません。
倭町交差点と葛生駅前との2点間の直線距離は11.4kmです。その最短距離に一番近いルートは、②の県道210号線ルートなのですが、鞍掛山の峠の標高が約310メートルと他の2ルートより高く、その為山間部ではヘアピンカーブなど含めて大小40か所のカーブを走るため、所要時間が一番掛かってしまう結果になりました。
一方走行距離が一番長い北回りの、①国道293号線ルートが、所要時間が一番短くなっています。ちなみのこのコースの標高の最高点は会沢トンネル部で約180メートル、一方南回りの小野寺町の藤坂峠の標高は一番低く約160メートルになっていました。

今回紹介する石碑は、この一番標高が低い小野寺町から佐野市中町に抜ける、藤坂峠の佐野市との境界手前、道路の右手脇の雑木の中に隠れる様に建てられています。
藤坂峠脇の石碑3.jpg
(県道282号線の道路脇、雑木に埋もれるように建つ石碑)

車を道路脇に止め、石碑の内容を確認するためガードレールをまたいで雑木の中へ。
石碑は道路から見えた物のほか、少し小さな石碑そして石仏3体が並んで祀られています。
藤坂峠脇の石碑1.jpg
(雑木林の中に、大小2基の石碑と、馬頭観世音などと刻された石仏が建つ)

一番大きな石碑には「隧道竣工記念碑」そして碑銘の左横に小さく「栃木懸會議員野尻金一郎書」、その下に更に小さな文字で「石工小田鐵碩」と刻されています。碑銘の文字を記した「野尻金一郎」という人物は肩書に有る通り、昭和9年(1934)の県議会補選に当選し、同10年9月まで県政発展に貢献。同年12月推されて第12代小野寺村長となり、同20年(1945)12月まで務め、戦時下の最も困難で多難な時代の村政につくした人です。<石崎常藏著の「栃木人」より>
碑陰には工事に関係した人達の名前が列記されているようですが、雑木が石碑に覆いかぶさるようになって上部が確認できない状態です。下部に≪小野寺村長 野尻金一郎、仝前村長 越沼忠三郎、仝助役 栗原真三郎、仝収入役 阿部善三郎≫等31名の名前が確認できます。
隧道竣功記念碑1.jpg隧道竣功記念碑2.jpg
(碑面に「隧道竣工記念碑」と大きく刻くされている)(碑陰は雑木に覆われ確認出来ない)

その右隣に建てられた石碑には「殉難者之碑」の文字。碑陰を見ると、「昭和十年三月二十七日殉難」として4名の人の出身地と名前。又、「仝年七月八日殉難」として1名の名前が刻されています。そして左端に「建碑寄附者」として、「一金拾五圓也 佐野町 金井歯科醫院」、その下に「一金拾圓也 岩舟村 川島石材店」が確認できます。この隧道工事にて亡くなられた方々を慰霊する為に建てられた石碑です。
殉難者之碑1.jpg殉難者之碑2.jpg
(「殉難者之碑」と刻された石碑)       (碑陰には工事中に亡くなられた5名の名前が)

現在は切り通しになっているこの藤坂峠に、かっては隧道(トンネル)が造られていたことを、これらの石碑が伝えています。それではこの「藤坂隧道」は昭和10年頃に造られたようですが、何時また姿を消してしまったのか。
私の手元に国土地理院発行5万分1「栃木」の地形図が3枚有ります。それらを広げて見ると、明治42年発行の地形図には確かにトンネルは出来ていません。次の昭和32年発行の物に、小野寺の中妻を北上する道路が葛生町との境界線付近で破線で記されています。またその右横の境界線の両側にトンネルの記号らしき物が記されていますが、道路はつながっていません。そして三枚目の平成11年発行の地形図では、すでにトンネルは消えています。ただ道路東側に石碑の地図記号が記されています。

文章での説明が上手くないので、概略図を用意しました。中央の石碑記号のある場所が「藤坂峠」、峠の南西側に標高324メートルの諏訪岳、北東側にはかって標高344メートルの絹ヶ岳が有りましたが、現在は石灰採掘のため姿を消しています。そしてその絹ヶ岳の北麓に有った切通坂を越えて東西に通っていた県道126号線はその区間の通行が出来なくなってしまいました。
藤坂峠周辺概略図.jpg
(藤坂峠の有る佐野市と栃木市との境界付近の概略図)
※略図中、茶色で描いた道路は明治42年発行の5万分1地形図「栃木」を参考にしています。

藤坂隧道に話を戻します。殉難者之碑より隧道は昭和10年頃に完成したのは確かなようです。それでは何時消えたのか、それを確認する為、岩舟町の資料を調べてみました。そして判明しました。
まず、岩舟町が昭和49年3月に発行した「岩舟町の歴史」の中に掲載された年表を確認すると、≪昭和10年(1935)藤坂隧道開通≫の記載が有ります。又、同じく岩舟町が昭和52年(1977)に発行した「二十年の歩み 岩舟町合併20周年記念特集号」に掲載された年表に、≪昭和46年(1971)2月藤坂トンネル取りこわし工事≫の記載が有り、「姿を消した藤坂トンネル」と説明された「トンネル」の写真が掲載されています。
写真を見た限りでは、トンネルの幅や高さは分かりませんが、入り口側から出口側が見えることから、そんなに長くなかった(20メートル程か)様です。
なぜこの年藤坂トンネルが取り壊されたものか、その理由を記したものは確認できません。それ以降ここ藤坂峠は幅広の切通しと変わり、現在では多くのダンプカーが往来する道路となっています。
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