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日光例幣使街道、犬伏宿周辺を歩く [歩く]

今日は、日光例幣使街道の宿場の一つ、犬伏宿周辺の神社仏閣などを歩いて巡ってきました。
「歴史と文化を歩く会-栃木-」の6月例会で、20名のメンバーが参加しました。
昨日は一日激しい雨が降り続いていた為、今日の天気を心配していましたが、開けてみれば雨も止んで、曇り空で日差しが遮られている為、暑くもならず絶好のウォーキング日和となりました。
私の住む栃木市には日光例幣使街道の13宿の内、「富田宿」・「栃木宿」・「合戦場宿」・「金崎宿」の4つの宿が有りますが、今回向かった佐野市にも「天明宿」と「犬伏宿」の2つの宿場が有りました。
「天明宿」周辺は、昨年12月の例会で歩いていますので、今回の「犬伏宿」はそれに続くものです。
堀米付近略図.jpg犬伏宿概略絵図.jpg
(今回歩いた犬伏宿周辺の様子を資料の古地図を基に概略図に描いてみました)

栃木駅に集合してJR両毛線にて佐野駅へ。佐野駅北口を出てさっそく犬伏宿に向かいます。
最初に向かったのは犬伏上町の台元寺です。
台元寺1.jpg台元寺2.jpg
(犬伏上町に入るとすぐ道路の右手に佐野百観音のお寺、台元寺です)
台元寺は佐野市仏教会が2015年5月31日に発行した小冊子「縁 出会いにありがとう」の中で、≪佐野厄よけ大師(惣宗寺)第13世三海大僧正が慶長6年(1601)3月創立。県重要指定文化財であり、佐野ブランド認定寺院である「佐野百観音」は天明鋳物で造られ、100箇所ある日本百観音霊場全ての観音さまを一ヶ所で参拝することができる。≫と、紹介をしています。しっかりと参拝をさせて頂きました。

次に見学をしたのは「光徳寺」です。街道を東に進み犬伏中町と下町の境となる交差点を右に入ります。南に少し進むと右手に「西蓮寺」、その山門前を過ぎた先、道路の左側の現れる山門が「光徳寺」になります。
光徳寺1.jpg光徳寺2.jpg
(山門を潜り光徳寺境内へ)               (天満宮の祠横に神木の「びゃくしん」)
上記の小冊子には、≪当寺は唐沢山の城主藤原藤太秀郷の娘富士姫と家臣の柏崎光徳(藤原道真良臣の一人)との悲恋の末、富士姫が佐野の川瀬(犬伏中町のお姫河原)に身を投じ、この事を光徳聞き富士姫を探すと水中に金像の弥陀の護身仏あり(関川町三杉川)、光徳弥陀の金像を引揚げ本尊とし一宇を建立す。光徳がその後出家し富士姫の菩提を弔う。秀郷これを聞きさらに一寺を建立し東明山天幡院光徳寺と号す(光徳寺縁起より)光徳寺はこのように千年余の昔から地域に根ざした寺です。≫と、紹介されています。
又、境内には「ふるさと佐野100選」の、「光徳寺のびゃくしん」が有ります。光徳寺開基の柏崎光徳のお手植えの神木として伝えられている。常緑喬木で中国や朝鮮に多く、わが国には少なく貴重なものであり、昭和34年に市の天然記念物に指定されています。

街道に戻り更に東に進むと、道路右手に市立犬伏小学校が。この場所にはかつて犬伏宿の本陣が有った跡となりますが、その面影を残すものは何も有りません。小学校前の街道に渡した歩道橋を登り、犬伏宿北側の脇道を北進して「大庵寺」へ向かいます。
歩道橋の上から犬伏宿の街道を眺めることに。
犬伏宿の通り(東).jpg
(東方向を望む。道路右手が犬伏小学校、街道奥突き当たりの小丘が米山古墳)
犬伏宿の通り(西).jpg
(西方向を望む。手前信号機交差点を左方向に入った所が「光徳寺」になります。)

大庵寺への参道入口角に「南無阿弥陀仏」と陰刻した常夜灯が建てられています。参道を進んで山門を潜ると駐車場の有る境内へ。境内には多くの石仏や石碑が建てられています。
大庵寺1.jpg大庵寺2.jpg
(街道からの入口に建つ常夜灯)           (緑豊かな大庵寺境内)
大庵寺3.jpg
(多くの石仏を見学する歩く会メンバー)

次に向かうのは犬伏町の鎮守「鷲宮神社」です。一度街道に出て、西方向に歩き犬伏上町に戻り、そこで北に進む道に入ります。道路の前方に鳥居が覗いています。街道から鳥居までは約300メートル程有ります。その途中で道路右手に風情のある塀が現れました。鷲宮神社の社務所の様です。門扉を入ったすぐ右手に「史跡大桝塚古墳と刻された石の標柱が建っています。
鷲宮神社への道.jpg大桝塚古墳の標柱.jpg
(鷲宮神社社務所の風情ある塀。道路奥に鳥居が)  (史跡大桝塚古墳の標柱)
「大桝塚古墳」はこの標柱の当方に見える小丘。説明によると≪この古墳は2段に築かれた方墳で、周囲の平地に濠跡と思われる低地があり、その外側に小土手の一部が残っている。盗掘の跡がなく、よく保存されている。大きさは、下段底部の径36.3m、上部の径25.4m、高さ5.45mである。≫と成っています。

鳥居の方へ進むと、次第に鳥居が大きくなってきます。鳥居を潜って社殿前に向かいます。
鷲宮神社鳥居.jpg鷲宮神社.jpg
(鷲宮神社参道入り口に建つ石の鳥居)     (境内にはご神木となる見事な杉の木が)
「鷲宮神社の杉」は「ふるさと佐野100選」にも成っています。≪樹高約20m、直径1.5m、樹齢は約600年≫との説明が有りました。

最後に向かったのは堀米町、天明宿から北上した街道が突き当たった場所に建つ「妙顕寺」です。
妙顕寺1.jpg妙顕寺2.jpg
(一直線に伸びる犬伏宿の街道の西側の端に位置する日蓮宗の寺院「妙顕寺」)
先の小冊子によると、≪当山の草創は、永仁二年(1294)中老僧天目上人の開創。唐沢城家老若田部源五良光盛公の屈請により一宇を創し、山を開本と称し寺を妙顕と号す。是即ち本国土妙一時開顕の意なり。慶長七年(1602)唐沢城天明春日山移築に際し当山も春日山城鬼門除として現地に移る。妙顕寺は日蓮宗の由緒寺院、本山の称号で呼ばれる。≫と、紹介されています。
又、「佐野市観光協会・佐野市観光立市推進課」の発行する、佐野観光ルートガイドの小冊子「佐野めぐり」の中で、≪妙顕寺本堂の扁額「開本山」は甲申事件で日本に亡命した金玉均の書によるもの≫との、紹介がされています。
妙顕寺4.jpg妙顕寺3.jpg
(左、井伊家と右、藤原家の累代尊霊供養の石碑)  (「金玉均」書による「開本山」の扁額)
堀米町と井伊家との関係は、寛永10年(1633)近江彦根藩領となり、万治2年(1659)には堀米村に彦根藩佐野領15ヵ村を取り仕切る彦根藩の陣屋が置かれた事によります。日光例幣使街道が整備されると堀米町は犬伏町の加宿となっています。嘉永6年(1853)3月日光社参の帰途領内を巡視した井伊直弼は、当地に有った飯売旅籠を全廃させることも有りました。天応寺には井伊直孝・直澄・直弼の墓碑が有ります。(「角川日本地名大辞典9栃木」より抜粋)

妙顕寺を後にして、佐野駅に戻りました。
本日も多くの発見が有りました。歩いた総歩数は、15,572歩になりました。
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小山市の摩利支天塚・琵琶塚の両古墳から天平の丘公園周辺を歩く [歩く]

今日、「歴史と文化を歩く会-栃木-」の5月例会にて、小山市の摩利支天塚と琵琶塚の二つの前方後円墳から、下野市の天平の丘公園周辺を歩いて巡ってきました。
まず栃木の街から、歩き始める思川に架かる大光寺橋近くまで、栃木市のふれあいバスを利用して移動しました。
ふれあいバス.jpg大光寺橋プレート.jpg
(思川に架かる大光寺橋近くまでバスで移動)  (大光寺橋から美田東部頭首工を望む)
大光寺橋を渡って歩くのは、現在の橋が完成した渡り初めの日(2016年3月12日)に歩いた以来です。
現在、栃木県ではアフターデスティネーションキャンペーンに合わせて「とちぎ橋カード」24種類を配布していますが、その1枚にこの「大光寺橋」が栃木市で初めてカード化されています。
又、同じく今年小山市が市内の土地改良区が管理している「土地改良施設」の写真をカード化して配布した中に、ここ大光寺橋上流部に設置されている「美田東部頭首工」も有ります。
橋カード.jpg土地改良施設カード.jpg
(大光寺橋のとちぎ橋カード)        (美田東部頭首工の小山市土地改良施設カード)
大光寺橋のカードの写真は、上空からのアングルで、手前が新しい橋でその上流側に、前の橋が写っています。更にその後方に美田東部頭首工も見えます。現在は中央の古い大光寺橋は解体撤去されて無くなっています。このカードの写真は貴重な一枚です。
また、こうしたカードは多くの貴重な情報を提供してくれます。カードの裏面にその施設の構造や歴史など色々な豆知識が載っています。

横道にそれました元に戻します。大光寺橋を渡りきると下野市に入ります。道路の左手に寺院が見えてきます。浄土真宗本願寺派紫雲山蓮華寺です。本堂の手前右側の掲示板に「親鸞聖人花見ヶ岡大蛇済度之縁起」の紹介が有りました。
蓮華寺.jpg大蛇済度の物語.jpg
(紫雲山蓮華寺)                 (掲示板にて見える、大蛇済度之絵伝)

ここから車道から分かれ、右手の細い野道に入ります。「関東ふれあいの道」になります。
関東ふれあいの道1.jpg関東ふれあいの道2.jpg
(入口に建てられた道しるべ)          (途中にも「関東ふれあいの道」の道標が)
20分ほど雑木林や田畑の中の細い道を進むと、再び車道に出ます。県道18号です。この道は「旧日光西街道(壬生通り)」になります。ここを南方向に歩くと早々に道路の両側に小さな塚が現れます、「飯塚一理塚」です。
飯塚一里塚(東).jpg飯塚一里塚(西).jpg
(史跡、飯塚一里塚・東側)                (史跡、飯塚一里塚・西側)
一里塚を過ぎると、街道の東側田畑の先、杉木立が林立する中に、滑らかな曲線を描く前方後円墳が見えてきます。今回の目的地のひとつ、「琵琶塚古墳」です。
日光西街道より琵琶塚古墳を望む.jpg
(旧日光西街道壬生通りから眺める琵琶塚古墳、木立の中に緩やかな曲線を覗かせている)

琵琶塚古墳を横目に、まずはその先に有る同じく前方後円墳の「摩利支天塚古墳を目指して歩きます。

摩利支天塚古墳の頂上には、摩利支天尊を祀った社殿が建てられており、登り口には石の鳥居も建てられています。
摩利支天塚古墳入口.jpg摩利支天塚古墳上に建つ社殿.jpg
(摩利支天塚古墳登り口前に建つ鳥居)  (墳頂に祀られた社殿に向かう石段)
摩利支天塚古墳について、登り口に建つ説明文を紹介すると、
≪摩利支天塚古墳は、隣接する琵琶塚古墳とともに県内で最大の規模を誇る大形の前方後円墳です。後円部の墳頂には後年になって摩利支天社が祠られ、今に至っています。墳丘は自然の微高地を利用して築かれたもので、その周囲には幅20mを越える大規模な周湟がめぐらされています。(中略) この古墳の築造年代は、5世紀末から6世紀初頭と推定されます。(後略)≫
      墳形:前方後円墳  全長:約117m 
      前方部:幅約75m、高さ約7m 
      後円部:直径約70m、高さ約10m 
      昭和53年7月21日、国の史跡に指定されています。
摩利支天塚古墳説明板.jpg摩利支天塚古墳を降りる.jpg
(摩利支天塚古墳の説明板)            (摩利支天塚古墳を後にするメンバー)

次にすぐ北側に有る、琵琶塚古墳に向かいました。
琵琶塚古墳説明板.jpg琵琶塚古墳に登る.jpg
(琵琶塚古墳の説明板)                (琵琶塚古墳を登る)
この古墳は先の摩利支天塚古墳より前の、大正15年2月24日に国の史跡に指定されました。
築造年代は6世紀前半で摩利支天塚古墳に次ぐものと考えられていると、記されています。
古墳の規模は 墳形:前方後円墳  全長:約123m 
          前方部:幅約70m、高さ約9m 
          後円部:直径約75m、高さ約11m 
この日、これらの古墳には多くの見学者が訪れていました。
琵琶塚古墳を見学する小学生達.jpg
(琵琶塚古墳を見学する小学生達)
琵琶塚古墳を降りる.jpg
(琵琶塚古墳を下りる)
東方向からの琵琶塚古墳.jpg
(東方向から望む琵琶塚古墳全容)

昨年(2018)4月にこの琵琶塚古墳の近くに開館した、「国史跡摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館」を見学して、下野市の天平の丘公園へ向かいます。
古墳資料館.jpg古墳資料館展示室.jpg
(史跡摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館)     (古墳資料館展示室内)
天平の丘公園は、雑木林の中に広がっていました。まず名前が気になる「紫式部の墓」の元に向かいました。
天平の丘公園1.jpg紫式部の墓.jpg      
(天平の丘公園の案内板が有りました)    (「紫式部の墓」と言われる五輪の塔)
「紫式部の墓」と言われる五輪の塔は、鎌倉時代の様式。この地方の豪族が供養塔として建立したものと言われています。この付近は「紫」という地名であることから、そのように言われるようになったと、説明板に記されていました。
天平の丘公園の中を歩いていると、木々の緑が木漏れ日に輝いて気持ちの良い風景に包まれたようです。
天平の丘公園2.jpg 
(天平の丘公園の中は木漏れ日に輝く木々の緑が目に優しかった)

その後は「下野風土記の丘資料館」を見学し、国分寺跡を通ってスタート地点の大光寺橋を目指しました。
しもつけ風土記の丘資料館.jpg大光寺橋.jpg  
(しもつけ風土記の丘資料館)         (スタート地点の大光寺橋を渡る)

本日の歩数は、17,126歩(約1km)でした。
今回の参加者17名、全員最後まで元気で歩き通しました。
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2019年の元旦、いつもの年と変わらぬ一日を過ごす。 [歩く]

明けましておめでとうございます。
2019年1月1日、我家では例年と変わらぬ、穏やかな一日で迎えました。と言うものの実は少し違う、例年家族四人が揃って新年を迎えるのだが、娘が年末年始の休みを利用して旅行に行ったため、親としては少し不安な日々を過ごしている。
一人欠けると倅としては退屈になると思ったのか、何を考えてかジグソーパズルを買って里帰りをして来ました。昨夜はNHKの紅白歌合戦を観戦しながら、年越しそばを頂いた。
今朝は起きられれば初日の出を見ようかと思いきや、目覚めたのは7時を回っていました。新聞を取りに東向きの玄関のドアを開けると、眩しいほどの太陽の光が射しこんで来ました。思わず玄関先で初日の出を拝んでいました。
元旦の我家の行事は、ニューイヤー駅伝のテレビを見ながら、御屠蘇とお雑煮を頂く。今年は食事の後テレビを見ながら、ジグソーパズルに取り掛かる事に。絵柄は正月らしく「富士山」、パッケージから500ピースを取り出す、先ずは簡単な周囲のピースを並べて枠を完成そこから中に攻め込む。
しかしピースはどれも同じに見える。早々に絶望感が広がる。こんなのとても無理だ。年寄りには根気が欠如して来ている。後は倅に任せて届いた年賀状を見て、出していなかった人への年賀状を印刷。その間ジグソーパズルの富士山の姿が徐々に姿を現してきています。午後一時ごろには残り少なくなったピースが面白いように隙間を埋めて遂に完成しました。
ジグソーパズル「富士山」.jpg
(500ピースのジグソーパズルで見せる「朱に染まる絶景富士」)

ニューイヤー駅伝を見終えてから、初詣に出掛けます。朝から御屠蘇を頂いているので車は利用できませんから、例年通り歩いて神明宮へ向かうことに。昨日からずっと飲んだり食べたりで、運動不足気味に成っていますから、少し歩く必要が有ります。まずは新栃木駅前の郵便局へ回り、年賀状を投函。そこから駅東へ抜け、今泉保育園前から神田町へ。杢冷川の東雲橋を渡りそこから真直ぐ進むと目的の神明宮に至る。
神明宮は拝殿前から参拝者の列が伸びています、最後尾は昨年と同等大鳥居の所。
午後3時40分に列の後に付きます。行列のその先の神明宮拝殿の大屋根が新春の西陽を受けています。
初詣「神明宮」.jpg
(2019年最初の西陽を受ける神明宮拝殿の大屋根)

初詣を済ませて一路我が家への道を戻ります。歩いていると薄っすらと汗をかいて来ました。風も無く穏やかな新年の初ウォーキング。今日の歩数は11,217歩でした。
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佐野市を、天明宿中心に歩いて巡って来ました。 [歩く]

今日は「歴史と文化を歩く会-栃木」の12月例会で、メンバーなど17名と、お隣佐野市に出掛けて、天明宿を中心に史跡や神社・仏閣などを歩いて巡りました。
コースは、JR佐野駅から城山公園⇒観音堂⇒安蘇沼氏古城跡⇒オシドリ伝説の歌碑⇒金町通り・金吹通り⇒宝龍寺⇒金山神社⇒観音寺⇒惣宗寺(厄除け大師)⇒例幣使街道⇒JR佐野駅です。
佐野の街にはラーメンを食べに良く出かけていますし、3年程前には例幣使街道を歩いて、佐野の街を西から東へ横断した事も有りますが、今回のコースでは初めて行く場所が殆んどでした。
最初の「城山公園」は、駅の北側に隣接する史跡公園です。JR両毛線と東武佐野線とが乗り入れる駅舎は、平成15年(2003)に橋上駅に建て替えられた為、改札口を出た所の南北自由連絡通路を、北口「城山公園方面」に進むと、直接城山公園の芝生の広場に出る事が出来ます。
佐野駅.jpg南北連絡通路.jpg
(橋上駅舎の佐野駅)          (南北自由連絡通路、正面奥が北口、城山公園方面)

この公園は「佐野城跡」と言う佐野市の指定史跡に成っており、「ふるさと佐野100選」の案内板によると、≪三の丸・二の丸・本丸・北出丸の4つのゾーンからなる。明治22年9月、公園として開設された 春日岡城跡・佐野城跡とも言われるが、城は未完成のまま廃城となる。本丸の高さは約55.8m 南北約305m、東西約110m≫と記されています。
史跡佐野城址の碑.jpg佐野城址説明板.jpgふるさと佐野100選.jpg
(史跡 佐野城跡の碑) (佐野城跡案内板)         (ふるさと佐野100選案内碑)

ここで20分程自由散策と成りましたが、ここでそんなに時間取るのと始め思いましたが、園内を巡ると意外と広く、案内板の説明文を読んだり、石碑を見て歩くとあっと言う間に出発の時間に成っていました。
公園内の橋1.jpg公園内の橋2.jpg
(二の丸・本丸間の空堀に架かる橋)      (本丸・北出丸間の空堀に架かる橋)

次の目的地「観音堂」に向け城山公園を後にします。途中、久保町に有る真言宗豊山派の「金成院」と「西宮(蛭子)神社」に立ち寄り、その由緒沿革等を記した記念碑等を確認しました。
金成院.jpg蛭子神社.jpg
(久保町の遍明山金成院本堂)           (久保町の西宮神社、蛭子神社とも)

金成院の由来については境内に建てられた「山内整備事業記念碑」より抜粋すると、≪抑 大日如来を本尊とする金成院は、明治41年金胎寺・成就院・光明寺が合寺して成立した。金胎寺は、はじめ小野寺保に「八幡山松樹院金胎寺」として創建されたが、天文年間佐野秀綱により吉水郷に移され、更に元亀2年秀綱の曾孫昌綱によって再建されたと伝える。慶長7年唐沢山城主佐野信吉は、幕命により春日岡(城山公園)に新たな築城の工を起こし、天命の街割りを行った。金胎寺もその一環として吉水郷より現在地に移築された。(中略) 成就院は金胎寺第三世妙慶の開山になる寺であり、光明寺は朝日森天満宮別当で金胎寺の隠居寺であった。(後略)≫と記されていました。
西宮(蛭子)神社の説明板によると、「蛭子」には「ヒルコ」とルビがふられています。その下に「えびす様」と成っています。由緒沿革には≪(前半略) 当地西宮神社は「栃木県神社誌」によると大永3年(1523年)今から486年前、佐野根古屋青柳(今の栃本)に勧進したのが始まり唐沢城主佐野盛綱が祭るその後、唐沢の居城が春日岡(城山公園)に移るに伴い、東組屋敷に祭る。(中略) 元和2年(1616年)393年前小山城主本多上野介正純に給れ、翌元和3年社は正純の命により安蘇沼北久保に所替となる(現在地) (後略)≫と有りました。

西宮神社より東方向に向かう細い道を進むと観音山公園への登り坂に成ります。この小丘の東側中腹に引地山日向寺観音堂とその北隣りに日枝神社が祀られています。
この観音堂が栃木県内に分布する、「下野坂東三十三観音霊場」のひとつ、第二十七番札所・富岡の「引地山観世音」に成ります。栃木市の三級山近龍寺(二十四番)や出流山満願寺(二十九番)なども同じ霊場に入っています。
引地山観音堂.jpg日枝神社.jpg
(富岡町、引地山日向寺観音堂の彫刻)     (富岡町、日枝神社の彫刻)

≪後醍醐天皇の頃、富士泉応院の法師が天皇より賜わった観音像を同天皇の子、護良親王の死を悲しんだ南の局が泉応院から譲りうけて祀ったのが始まりで、当時は山の西に草庵を建て根光寺と言った。根光寺は南朝方であることから、北朝方の足利氏ににらまれ、本尊は沼に捨てられてしまった。その後越名の漁夫の網にかかり、阿武塚沼のほとりに安置されたが、阿曽沼の殿様に毎夜観音様が夢枕に立ち、元の所に帰りたいと云うので、永享三年富岡の岩山に移し、引地山日向寺観音堂と成りました。≫と伝えられます。
お隣に建つ日枝神社社殿ともども向拝部虹梁の龍の彫刻がなかなか立派な物です。

次の目的地は県道67号(桐生岩舟線)を横断して、南側の浅沼町へ向かいます。
ここに鎌倉時代に阿曽沼出羽守広綱が創建したと云う、浅沼八幡宮が有ります。社殿に向かい境内の右隅に一基の大きな石碑が建てられています。「佐野市指定史跡 阿曽沼城之跡」と刻され、その碑陰には朗々と歌われる詩歌の如き碑文が刻まれています。
浅沼八幡宮.jpg阿曽沼城之跡碑.jpg
(浅沼八幡宮社殿)                    (佐野市指定史跡 阿曽沼城之跡の碑)
碑文冒頭部を抜粋してみます。≪今ひらけゆく浅沼のあたり、むかし佐野庄阿曽沼郷の地、火山灰洪積地のはて、黒々とした沈黙をたたえる水面を、おしどりの遊ぶ、安蘇の沼のほとりであった。 鎌倉に源氏の幕府はじめられようとする十二世紀末、阿曽沼城は阿曽沼民部四郎広綱によってこの地に築かれ、以来四百年 戦国のおたけび山野を駆けるさなかまて、城の盛衰は、阿曽沼氏歴代とともにあり、その哀歓は、浅沼の地と人とともにあった。・・・(後略)・・・≫

そしてこの境内のいっかくに建てられた、「おしどり塚歌碑」も見学しました。
おしどり塚の歌碑.jpgふるさと佐野100選2.jpg
(浅沼八幡宮境内のおしどり塚歌碑) (ふるさと佐野100選「おしどり塚歌碑」)

ふるさと佐野100選「おしどり塚歌碑」説明文によると、≪自然石を使った碑面に「日くるればさそいしものを 安蘇沼のまこもがくれの ひとりねぞうき」とあり、裏面には天保2年(1831)とある。碑はもと相生町の千鳥が渕にあったが、明治年間に現在地へ移したものといわれ、昭和44年市の有形文化財に指定された。≫

佐野市の鳥に指定され、佐野駅前広場のモニュメントとして、この目地を訪れる人を迎え送る。又、佐野市の下水道のマンホール蓋の中央に描かれる、「おしどりのつがい」の姿がこの地に有る事を今回知る事が出来ました。
おしどり像.jpgおしどりマンホール蓋.jpg
(佐野駅前広場のおしどりのモニュメント)  (佐野市街地に設置されているマンホール蓋)

次はいよいよ「天明宿」へ入ります。
佐野東高校(元の佐野女子高)の脇を抜け、金屋下町・金吹町・金屋仲町と右に左に通りを抜けて、大祝町の宝龍寺へと歩を進めます。
元影澤医院.jpg日本基督教団佐野教会.jpg
(金屋仲町の元影澤医院の建物)     (国登録文化財の日本基督教団佐野教会)
影澤医院の建物は現在「日本クリケット協会」の本部と成っています。佐野市は、「クリケットのまち佐野」・「日本のクリケットの聖地」を目指して活動を展開しています。

細い路地をくねくねと歩きやっと次の目的地、大祝町の宝龍寺に到着。ここの見学は市指定文化財の「銅造阿弥陀如来座像」です。
宝龍寺.jpg銅造阿弥陀如来座像1.jpg
(大祝町の宝龍寺)                   (宝龍寺境内の銅造阿弥陀如来座像)
この阿弥陀如来座像は横に立てられた説明文によると、元禄七年(1694)天明の鋳工 丸山孫衛門尉藤原信次の作。像の高さは409cm。
この後に見学した、金井上町の観音寺に有る、同じく「銅造阿弥陀如来座像」は、寛文九年(1669)斎藤伝七郎久重、太田小左衛門尉藤原秀次、大川久兵衛藤原信正等三人の天明鋳物師たちの合作。
像の高さは313cm。こちらも市指定文化財に成っています。
観音寺.jpg銅造阿弥陀如来座像2.jpg
(金井上町の観音寺)                  (観音寺境内の銅造阿弥陀如来座像)

金井上町の観音寺への途中、「かねがみさま」と呼ばれて、鋳物師たちの信仰を集めていた「金山神社」にも立ち寄りました。
金山神社.jpg金山神社本殿.jpg
(金山神社拝殿正面扉に施された彫刻)       (金山神社本殿の彫刻)

観音寺の次に訪れたのは、西隣りに当たる「惣宗寺」です。佐野厄除け大師の名前で広く知られている寺院で、毎年正月三箇日の初詣には大勢の初詣客で大混雑となります。私もこれまで何度も訪れていますが、今回の参拝させて頂きました。
惣宗寺.jpg東照宮.jpg
(惣宗寺本堂の大伽藍)            (佐野東照宮社殿は県の有形文化財に指定)

最後の見学地は、又天明宿の町並みを見ながら、金井上町から大和町・天明町を歩き、大蔵町の星宮神社に向かいます。途中江戸街道では2階建て蔵造り、外壁は黒漆喰の呉服商の旧店舗「太田邸」や、昭和2年築の洒落た洋館「小島邸」を、そしてかつての日光例幣使街道(現県道67号)にて、江戸後期から明治に建てられた見世蔵が軒を連ねている風景を見せています。これは同じ例幣使街道の宿場町として栄えた「栃木の町並みにも共通するものです。
太田家住宅.jpg洒落た洋館.jpg
(太田邸の見世蔵を見学するメンバー)         (小島邸の洒落た洋館)
日光例幣使街道.jpg土佐屋の名残.jpg
(日光例幣使街道に見世蔵が並ぶ)     (土蔵の屋根のハナブカに土佐の文字)

栃木市の多くの見世蔵の屋根、鬼瓦の前にちょこんとついている「ハナブカ」、目的は良く理解していませんが装飾のひとつと思います、現在の味噌饅頭店「新井屋」の屋根のハナブカを見ると「土佐」と読める。これはこの建物が旧土佐屋薬局の一つの名残りと思われます。
この味噌饅頭店の横の道を北に進んで行くと大蔵町の星宮神社に突き当たります。

星宮神社銅造鳥居.jpg星宮神社拝殿.jpg
(星宮神社の銅造鳥居を見学する)     (星宮神社拝殿)
星宮神社の銅造鳥居は、≪享保二十乙卯年(1735)三月金屋町総鋳物師棟梁大工職という刻名がある。天明鋳物の名匠たちが協力し、天明宿の総氏子が奉納した明神鳥居である。昭和33年に市の有形文化財に指定された。高さ424cm、柱周囲106.05cm≫(ふるさと佐野100選説明文より)

ここから佐野駅まで戻り解散と成りました。
今回佐野市天明宿を巡り、あらためて天明は鋳物の街であることを実感しました。市内のいたる所に鋳物の作品を見る事が出来ました。今回天候にも恵まれ気持ち良く歩く事が出来ました。本日の私の総歩数は20,092歩に成りました。
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(佐野の街中に建つ天明鋳物製の公衆電話ボックス)
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久しぶりのナイトウォーク [歩く]

今年も早いものでお盆が過ぎました。会社によっては9連休と言う長期のお盆休みも、明日が最終日に成ります。テレビのニュースでは、お盆休みを海外で過ごした人達の帰国ラッシュとなっている空港の様子や、故郷に帰省していた人達の、Uターンラッシュが始まった高速道路の様子などが映されています。
そんな今日は、久々の清々しい秋を思わせるような天候に成り、我家では今日一日、クーラーも扇風機もお休みさせる事が出来ました。
先日まで連日猛暑で、空には毎日の様に入道雲がモクモクと湧いていましたが、今日は秋を思わせる空の雲、夕方からは赤く色付き、見事な夕焼けとなりました。
夕焼け.jpg
(夕焼の空をバックに、何やら何羽もの鳥が飛び回っていました)

太陽が沈んだ後は、爽やかな風が残りました。これまで蒸し暑さで外出する事を控えていましたが、今日は久しぶりに夕暮れの街へ、歩きに出かけました。
歩き出すと早速遠くからお囃子の音が、風に載って聞こえて来ました。太鼓の音のする方へ足が向きます。音の出どころは、柳橋町の納涼祭の会場でした。住宅街の空地に櫓が組まれ、紅白の幕そして提灯が下がっています。浴衣姿の婦人や、駆けずり回る小さな子供達。チョッと会場に留まり祭りの気分に浸りました。
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(住宅街の中の広場で行われていた、柳橋町の納涼祭)

そこから又歩いて幸来橋へ回ります。橋の上から巴波川の両岸に並んだ行燈の光りが、川面に映って輝いています。正面上空には、三日月も輝いていました。幸来橋から巴波川左岸の道を、行燈の切り絵を見ながら遡り、倭橋から常盤橋迄遡りました。
巴波川行燈祭.jpg巴波川行燈祭2.jpg
(幸来橋の上から巴波川下流側を)       (倭橋の上より行燈の光りを捉える)

そこから、大通りへ出て北方向へ歩いて行くと、遠くから「アンコール・アンコール」の掛け声が聞こえて来ました。泉町の雲龍寺の方向からでした。こちらでも境内で納涼祭が行われていました。雲龍寺にはこれまで何度も訪れていますが本堂の扉が解放しているのは初めて見ました。そしてその本堂中央奥に鎮座している不動明王像を偶然にも拝む事が出来ました。これはとてもラッキーな事でした。
満足して帰路に付きました。
本日の総歩数は、10,058歩に成りました。久しぶりのウォーキングに満足しました。
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桜の花びらが舞い散る、皆川城内を歩く [歩く]

連日、季節外れの暑い日が続いています。今も私の上の温度計は24.8℃を表示しています。
恐らく正午前後の屋外、太陽が照り付ける所では、25℃越えの夏日に成っていたと思われます。
そんな中、今日「歴史と文化を歩く会-栃木」の4月例会で、栃木市皆川城内町周辺を歩いて巡って来ました。今回の目玉は皆川城内町の新町から北隣りの宮町に続く、永野川左岸の満開の桜堤を歩くコースに成っています。
スタート地点は皆川城址の南麓、皆川公民館駐車場。ここで今回の案内をして頂く、「皆川地区街づくり協議会歴史文化部会のメンバーの方達と合流、出発です。
皆川公民館.jpg城山の桜.jpg
(スタート点の皆川公民館駐車場)    (城山を見上げると、満開の桜が迎えています)
まず最初は、全員が元気な内に皆川城址の城山(標高147メートル)を攻略する作戦。
皆川城址公園案内図.jpg
(城山登り口に建てられた「皆川城址公園案内図」、後方に城山の頂上が覗く)
城山南麓中ほど、公民館の裏手附近の登り口から、時計回りに山の西側から裏手に回り、そこから一気に山頂を目指しました。
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(城山の南面を登る道を右手に城山の西側から北側へ)(城山に見られる竪堀のひとつ)
城山の北面は杉が茂り、太陽の陽射しを遮ってくれる為、登り坂で厳しい所でしたが、それほど汗をかかずに登ることが出来ました。
城山北側の谷.jpg城山を登る2.jpg
(北側斜面は杉の林、花粉が少し気になった)    (山頂に向ってひと踏ん張りです)
山頂に建てられた展望台に昇ると、そこは360度を見渡せる絶好のロケーションでした。
城山山頂展望台.jpg山頂からの眺め.jpg
(山頂に建つ「皆川城址」の石碑と展望櫓)    (城山の山頂、展望櫓からの眺望)
山頂からの眺めを暫し楽しんだ後、下山。
山を下る.jpg井戸跡.jpg
(足元に気を配り、山を下りる)          (見はらし平より城南桜平方向を)

次の目的地は城山から南西方向500メートル程の所に有る、皆川家の菩提寺「金剛寺」に向かいます。
金剛寺.jpg皆川家墓所1.jpg
(皆川家の菩提寺「慈眼山金剛寺」)        (市指定史跡「皆川家歴代祖廟」)
金剛寺の住職さんに案内して頂き、第5代の皆川広照公などの皆川家十八代の当主と奥方の墓地や、本堂内に納められている市有形文化財「皆川広照公着用南蛮胴具足」や、広照公が茶の湯で親交が有った、千利休の弟子山上宗二より贈られた、利休茶の湯秘伝書「山上宗二記」などを拝見する事が出来ました。
皆川家墓所2.jpg皆川広照公の墓.jpg
(左手奥の宝篋印塔型のお墓が皆川広照公のものです)(五代、皆川広照公の墓)

次に訪れたのが浄土宗の寺院「家康山照光寺」です。県道栃木佐野線から南に入る参道。その突き当りに見えるお堂は呑龍堂。本堂は参道を進んで行くと右側に現れて来ます。私はこちらの寺院には4年ぶりにの再訪に成りますが、現在本堂を新築中との事で、真新しい6.5間四方の木造宝形銅板葺の建物に変わっていました。
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(新築された照光寺本堂)            (平成26年2月3日撮影、以前の本堂)
こちらでも住職さんより貴重なお話を沢山伺うことが出来ました。

予定時間をかなりオーバーをしてきて、宮の桜堤から今一番離れた地点に成っています。やむおえず予定していた東宮神社には寄らないで永野川左岸の桜堤に直行する事に成りました。
桜堤の南の端にたどり着いたのは、丁度12時になるところ。既に結構足に疲れが溜まって来ています。ここから宮の橋まで1キロメートル以上にもなる桜のトンネルが続きますが、この長さが少し恨めしくも感じられます。
通常の年で有れば丁度満開になる頃ですが、今年は異常な暑さで少し緑色の葉が混じり、桜の下の道路は散った桜の花びらで、ピンクの絨毯の様にも見えます。ただ桜吹雪の中を歩く事で、何とか疲れを癒してくれます。
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(少し緑色が目につきますが見事な桜のトンネル。少し遅れて来てしまいました)
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(永野川の右岸から。奥に見える桜並木が先ほど歩いた桜堤に成ります)
宮の橋を渡って永野川の右岸に出ます。
栃木市の聖地公園の前を抜け、持明院山門脇の枝垂桜を堪能して、出発地点の皆川公民館駐車場に無事到着しました。今回の歩数は16,079歩(約9.6km)に成りました。
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(別峰山持明院山門前の枝垂れ桜を観賞)
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新栃木駅前の巴波桜が満開に [歩く]

昨日のウォーキング途中、新栃木駅入口交差点の足利銀行新栃木支店角に薄ピンク色の花を付けた街路樹が目に留まりました。
この桜の樹は数年前より新栃木駅前通りの新しい目玉として、植樹が行われてきている桜の街路樹で、栃木街に因んだ桜の品種「巴波桜」です。
歩くコースを少し変更して、新栃木駅前に向かいました。
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東武日光線新栃木駅前から西に向かう道路は、駅前から大通り(主要地方道宇都宮亀和田栃木線)までの約500メートルの道路(県道新栃木停車場線)に現在まで植樹が進んで来ています。将来的にはその先の主要地方道栃木粕尾線の東北自動車道栃木インターまでこの巴波桜の植樹を行って、桜の並木を作って行く計画の様です。
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現在、最初に植樹された駅前広場の樹は3メートル程の高さまで成長してきて、駅前を鮮やかに彩っています。それぞれの樹には植樹に協力している嘉右衛門町や泉町、大町などの地元自治会や会社・団体のネームプレートが付いています。
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その後、突然降り出した雨に暫し雨宿りをしつつ、今日は良く歩きました歩数計は「16,677歩」、約10キロメートルも歩きました。
帰りがけに、私の一番お気に入りの桜見ポイント、巴波川の小平橋袂の桜の開花状態を確認して帰りました。蕾は大分膨らんで来ています。

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久しぶりの太平山(栃木市) [歩く]

今日、ほんと久しぶりに太平山(おおひらさん)を歩いて来ました。最近は平らな所を歩くのは、それほど苦に成っていないウォーキングですが、登り坂はかなり負荷が掛かるのか、直ぐに息が切れてしまいます。
今回は、車で太平山神社表参道を、六角堂前の駐車場まで登り、そこをスタート点として太平山神社拝殿前まで表参道を登りました。
駐車場から六角堂まで距離として100メートル足らず、比高は僅か15メートル、ここで早くも自分の体が重く感じて来ます。先が思いやられます。
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(太平山神社表参道、あじさい坂登り口。赤い幟は連祥院六角堂)
太平山神社拝殿前の標高は約260メートル、駐車場は約100メートルですから、比高は約160メートルです。登り始めの通称「あじさい坂」は自然石を敷き詰めた路面で、足を置く場所に注意しつつ坂を登ります。
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(6月中旬から7月上旬にかけて参道の両側はアジサイの花で溢れる)
あじさい坂を半分以上来た辺りで、これまでは道路から少し奥に入った場所に有った、田村律之助の台座に載った胸像が道路脇移動して建てられていました。
この田村律之助の胸像については、このブログの2015年11月19日に紹介をしています。
そこから少し登ると青銅製の大きな鳥居の前に出ます。太平山神社の表参道には幾つかの鳥居が建てられておりますが、大きなものとしては永野川の二杉橋を渡った西の橋詰に参道を跨ぐ様に建つ大きな鳥居が、神社の「一の鳥居」と言えるか、そしてこの鳥居が「二の鳥居」となるのでしょうか。「神額」の文字は「太平宮」です。
田村律之助胸像.jpg太平山神社二の鳥居.jpg
(田村律之助胸像)         (参道の中腹に建つ青銅製の鳥居)
鳥居の右側を迂回する参道を進むと驚きです、鳥居の裏手の位置に有った朱塗りの「神橋」の姿が無くなっているのです。恐らく2015年9月10日に発生した豪雨の被害で「神橋」も破損してしまったのでしょう。傍らに今もその残骸が残っていました。あの時の豪雨の影響でこの「あじさい坂」も大きな被害を受けて一時通れなくなっていましたが、「神橋」も被害を受けていたとは知りませんでした。この朱塗りの「神橋」も太平山神社表参道のひとつのシンボルでした。少しでも早く復旧して、再びその優雅な姿を見せて欲しいと思います。
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(神橋は2年前の豪雨被害により姿を消した) (1981年に撮影した朱色鮮やかな神橋)
神橋の上の水屋では、パイプから勢いよく水が吹き出し、「太平山」と大きく刻した盥漱石から溢れ出しています。ここまで「あじさい坂」を登って来ましたが、坂道の脇を勢いよく音を発てて流れ落ちていた水は、ここから流れ出していた様です。参道はこの先のご神木を回り込む様に続いています。
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(御水屋の盥漱石から水が溢れる)         (天を突く様にそびえ立つご神木)
ご神木を回り込んだ右手の石垣の前に、「水戸天狗党太平山本陣跡」の案内が建てられています。この角を曲がった先から、太平山神社本殿前に続く本格的な石の階段が現れます。この一直線に登る石段、途中休み休み息を整えながらい、一段一段足を運んでいきます。水戸天狗党太平山滞陣跡1.jpg表参道3.jpg
(水戸天狗党太平山本陣跡)   (太平山神社本殿前まで一直線に続く石段)
石段の途中で、自動車が通行する遊覧道路を渡り、その先に建つ朱塗りの隨神門を潜ります。
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(遊覧道路と表参道との交差部に建つ隨神門)
門を潜ると再び目の前に石段が上へと続いています。ここもただ一歩一歩、重い体を上に運びます。本殿前から一段下がった場所に、又、大きな青銅製の鳥居が有ります。私的にはこの鳥居が「三の鳥居」だと思っています。太平山神社のホームページに掲載されている境内案内にはそのような事は記されていませんから、これは私の私的な思いです。なお、この鳥居の神額の文字は「三光神社」となっています。
表参道4.jpg三光神社神額.jpg
(隨神門の先に続く石段、その先に本殿が覗く) (三光とは日・月・星のことです)
石段をやっとの思いで登りきると、目の前に太平山神社の拝殿が現れます。まずはお参りを済ませます。
太平山神社拝殿.jpg
(太平山神社拝殿)
神社の境内を少し散策、東側の見晴台から栃木市の町並みを眺め、我家の場所を確認します。
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(境内社のうち手前の星宮神社の建物は、明治以前の神仏混合の名残りです。)
神社境内から謙信平の方向に移動します。謙信平にはまだ陽射しが残って、一部色付き始めた紅葉が迎えてくれます。
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(謙信平では一部紅葉が始まっていました)
謙信平の先の駐車場からは太平山の南側が開けて、遠く東京方面まで展望出来ますが、今日は霞んで良く見えませんでした。
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(中ほどに見える流れは「永野川」、新しく立て替えられた大平中学校や磯山も望めます)
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少し南西方向には太平山から続く岩船山、その奥には三毳山が望めます)
下りは「少年自然の家」から「つつじ園」の方向に歩きました。
つつじ園を下る.jpgつつじ園を下る2.jpg
(つつじ園の有る下り道)
途中、木々の合間から北東方向、錦着山周辺に光が射してハッキリと確認出来る様になりました。遠く地平線に見える建物は、壬生町羽生田に新しく現れた「ファナック」の工場の様です。
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(つつじ園途中の木の間から見えた展望)
時折登り降りする自動車に注意して、六角堂前の駐車場に戻って来ました。出発してから丁度一時間のウォーキングでした。最初の20分間はひたすら登りで苦しかったですが、神社にお参りしたり、展望や紅葉などを楽しみながら歩く事が出来ました。本日の総歩数は6,501歩でした。
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(六角堂前駐車場に建つ、「太平山案内図」です。)
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雨の中、栃木市ウォーキング大会に参加してきました。 [歩く]

先週と同様に、台風22号接近により前線が刺激され朝から雨の一日と成りました。
今日は「第5回来て見て歩こう、あったか栃木市ウォーキング大会に参加をして来ました。第1回から30キロコースを歩いて来ていましたが、年々歩くのがつらく感じられて来ていたので、今年は申し込みが少し遅くなり、覚悟を決めて申し込みに行った時には、30キロコースは定員オーバーに成っていました。という事で今年は、渡良瀬遊水地内を歩く11キロのコースを歩く事にしました。
朝からの雨で少し参加を躊躇しましたが、電話で確認をすると「開催します」との回答。早速会場となる「藤岡総合体育館」へ。会場に着くと駐車場に入る車で渋滞。こんな悪天候でもみんな参加してくるものだと感心してしまいます。
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(雨と言う悪天候にも関わらず、集合した参加者)
8時から出発式、鈴木栃木市長の挨拶から、本日のスペシャルゲスト「ワイルドだぜぇ!」のスギちゃんから激励の挨拶などが有り、8時20分から30キロコース、20キロコース、そして11キロコースの順に出発となりました。
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(挨拶をする鈴木俊美、栃木市長)      (今回のスペシャルゲスト「スギちゃん」)
スタートゲートで市長やスペシャルゲスト「スギちゃん」に見送られていざ雨の中を傘を差して出発です。
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(鈴木市長による号砲で出発する参加者)
体育館の裏手から渡良瀬遊水地の土手の上の道を南へ歩き、北エントランスへ向かう。
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(渡良瀬遊水地を囲む土手の上の道へ)
旧谷中村合同慰霊碑の南、渡良瀬遊水地北エントランスから遊水地の中に入って行きます。
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(土手から降りて渡良瀬遊水地の中へ)
気が付くと、出発ゲートで私達を見送ってくれた「スギちゃん」が前を歩いています。横に並んで「こんにちは」と声を掛けて、暫らく話を交わしながら歩きました。
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(雨の中、合羽を着て歩く、今回の特別ゲスト「スギちゃん」)

2年前に小島よしおさんがゲストの時も雨だった事、昨年はモデルの石川恋さんと言うと、プロゴルファーの「石川遼」さん。とチョッと聞き違いされた様なので、ビリギャルの本の表紙に載った女優さんですと説明。少し考えた後「あの美しい方ですか」と分かった様。地元の出身なんですよ。と付け加えた。
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(第三回ゲスト、「小島よしお」さん) (第四回ゲスト、「石川恋」さん)
その後「スギちゃん」が「足が痛くなった」と言うと、周りの人から「ワイルドじゃないぜぇ!」と冷やかされていました。そこで「スギちゃん」と分かれて先へ。
谷中湖の北西部で周囲を回る道路に突き当たる、そこを左に折れて谷中湖を時計回りで回る格好で北水門方向に歩いて行く。
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(右手に谷中湖を見ながら歩く)
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(谷中湖の北水門の脇を歩く)
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(谷中湖河畔の木々も秋色に色付いています)
ハートの形をした谷中湖の、ハート形の上部の凹んだ付近で、谷中湖から離れる。
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(ハート形の谷中湖周辺の案内板)
旧谷中村役場跡などの有る「谷中村史跡保全ゾーンを真直ぐ北に抜け、西谷中橋を渡って、ヨシ原浄化ゾーンへ。
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(雑木の奥にヨシ原が広がっています。)
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(西谷中橋を渡る。遊水地を一望できるウォッチングタワーも通過)
遊水地を東西に横断する道路を東の方向に進み、谷中橋を右に眺めながら、遊水地内を北西から南東に流れる渡良瀬川に架かる新赤麻橋の西橋詰から、渡良瀬川右岸の堤上の道を北西方向に遡る様に歩いて行きます。
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(現在は通行止めとなっている旧谷中橋を右手に見る)
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(新赤麻橋、西橋詰)
コースマップには「眺望good!」「一望Point」と案内が載っていますが、そこには一面に涸れた茶褐色のヨシ原が雨空に霞んで広がっていました。
途中から堤上の道から降りて、渡良瀬川脇の道を歩く。堤の上は風当たりが強く、下に降りてヨシ原に入ると少し雨傘を叩く雨も和らいだ感じになりました。
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(渡良瀬遊水地内は色んな構造物が設置されています。)
前方に見えてきた堤を越えた所が、9キロポイントです。残りは後2キロ、頑張ろう。
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(もう直ぐ9キロポイントとなる土手越え)
藤岡運動公園内の木々も色付き始めています。最近の雨の為落葉して、茶色の絨毯の様にも見えます。
この辺りには、子供の幼稚園の芋掘り後、土手で芝滑りをして遊んだ思い出が有ります。
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(落葉が絨毯の様です)
いよいよゴールゲートが見えて来ました。スタッフの方達が拍手をして迎えてくれます。「お疲れさま」と。
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(無事にゴールです。スタッフの方達が迎えてくれています)
ゴールの所で、ゲストの「スギちゃん」が出迎えていてくれます。いつの間に、私の前へ前へと先回りをしています。いつ抜かれたのか?さすがに「ワイルドだぜ!」
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(「スギちゃん」もゴールで出迎えてくれました。「スギちゃん」もお疲れ様でした。)
ゴール後会場に出店していたお店によって、パック詰めのお赤飯と饅頭とを買って、家路を急ぎました。

今日の総歩数は、17,345歩に成りました。
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(今回参加賞のピンバッチとコースに落ちていたドングリ)
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日光例幣使街道「富田宿」を歩く [歩く]

今年も10月の声を聞いて、昼間のウォーキングも苦に成らない陽気になって来ました。
先日も久しぶりで「日光例幣使街道」の「富田宿」を歩いて来ました。
この街道は、私が若かった頃は栃木から佐野や藤岡方面に行くとき、必ず通る所でしたが、現在は「富田宿」の町並みの直ぐ西側を並行する形で、片側二車線の「富田バイパス」を通る為、この旧道を車で通行する事は無くなりました。
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すっかり交通量の少なくなったこの街道を、のんびりと周りの景色を眺めながら歩き、途中街道筋から脇道にも入り込んで、富田宿を満喫しました。
例幣使の一行が通った様に富田宿南の、古橋村(現在の栃木市岩舟町静和)との境界から歩き、宿内を南から北に縦貫して、北の宿外れで下皆川村(現在の栃木市大平町下皆川)との境界まで歩きます。
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大平町が昭和57年3月31日に発行した「大平町誌」には、「富田宿」の項に≪富田宿が例幣使街道の宿駅となったのは、公式には正保三年(1646)からであるが、実際には元和三年(1617)徳川家康の霊柩を日光に埋葬する為、3月29日霊柩を奉護する行列がこの地を通行したときにはじまるということが出来る。≫と記しています。又、富田村の中を通過する往還の長さは「25町58間」(約2.83km)、そしてこの内富田宿を形成するのが「12町12間」(約1.33km)、宿の入口と出口にそれぞれ木戸が設けられた。としています。しかし現在街道を歩いても木戸がどの辺りに有ったのか記すものは何も有りません。
栃木県文化協会が昭和53年10月31日に発行した「栃木の街道」の「日光例幣使街道・富田宿」の中で、≪富田宿右手に薬師堂が有るが、ここが富田宿の入口で、往還には木戸が有った。≫と記していますが、現在は薬師堂が何処に建てられていたのか、確認出来ませんでした。
現在、岩舟町と大平町の境界付近を流れる小河川(河川名は上流の大平町側では「猿淵川」、下流の岩舟側では「静和川」)と呼ばれています。)に架かる橋(正明橋)を渡り、暫らく行くと右側に、小さな神社が祀られています。社殿前の鳥居は小柄で有りますが重量感の有る物。扁額等が無い為、神社名や祭神等は分かりません。その神社の先を進むと又街道の右側に火の見櫓が見えて来ます。この辺までに恐らく宿の入口となる木戸が有ったのでしょう。
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火の見櫓の脇を過ぎて150m程行くと、左に入る細い道が有り、その角に「真言宗豊山派 玉正寺」と大書した看板が建てられています。その脇に「富田坊玉正寺」と刻した古い石柱。ここから西に向かうと140m程、現在は富田バイパスの西側にその寺院は有ります。
「光明山持光院玉正寺」は大同二年(807)玄意法師の創立と云います。天正十九年(1591)徳川家康より朱印地10石与えられています。春には境内の梅や桜の花が咲き誇ります。
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歩を先に進めます。少し先に信号機の有る、少し広い道路と交差します。交差する道路は県道311号線(小山大平線)、右に曲って500m程行くと東武日光線の踏切となります。その踏切の直ぐ北側に「新大平下駅」が有ります。交差点の北西側角の家の門脇に「日光例幣使街道 富田宿本陣跡」と刻した石碑が建てられています。
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先に掲示した富田宿の概略図ではこの場所は十字路では有りません。西に抜ける道は無く元は丁字路で、この突き当りに陣屋が有ったと思われます。
更に北上すると、道路左手に「八坂神社」が祀られています。
「八坂神社」は旧村社、主祭神は「素盞鳴命」。永享年間(1429~1441)、富田氏が中根に築城の折りに城内に牛頭天王を祀ったのを、寛永十七年(1640)現在の地に移したと伝えられています。(大平町誌より)
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八坂神社を過ぎて更に北に歩を進めると、又道路の左側にポツンポツンと2棟モダンな洋風の木造建築の建物が現れます。最初の建物は「五月女醫院」、
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そして次の建物が「大平下病院」の文字が確認出来ます。
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これまでほぼ真直ぐ北に向かって進んで来た街道筋も、この大平下病院の辺りから緩やかな曲線を描いて、北東方向に向きを変えていきます。丁度カーブした辺りに左に入る細い道路が県道312号線(大平下停車場線)で、ここ例幣使街道からJR両毛線「大平下駅」前までの200m程の区間です。
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駅に入る丁字路を越えた所に、今度は通りの右手に連子格子の家なども有って、かっての富田宿の面影を伝えています。
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本陣跡の有った交差点から大分進んできました。そろそろ富田宿の出口の木戸が有った辺りに来ている筈です。残念ながら現在はその場所を記すものは何も有りません。すると前方の道路が急に広がる場所に出ます。街道の右手に朱塗りの堂宇が2棟建っています。街道近くに建つ二間四面、向拝付銅板吹きの屋根、最近塗り替えられたように鮮やかな朱色の堂宇。正面に「地蔵尊」と記した扁額が掲げられています。
その地蔵尊の手前で、道路から更に奥に入った間口3間・奥行き2間、同じく朱塗りの建物。正面に掲げられた扁額に「冨明山新田院 宗光寺」と記されています。時宗の寺院 開基は小山七郎左衛門宗光。沿革はこの寺は中世より時宗大本山相模国藤沢の遊行寺(元は清浄光寺)の末寺。かつて小山宗光は時宗を深く信仰していたので、永正二年(1505)この地に一寺を建立し、自分の名前をとって宗光寺と名付けた。(大平町誌より)
この場所の先で街道は異常に広くなっています。現在の道路は真直ぐに抜けていますが、明治初期の様子を表した「迅速測図」を良く観察すると。この場所で街道は少し筋違いになって右にずれています。これは私の勝手な予想ですが、この筋違いだった場所が、かって富田宿の出口の木戸が有った所ではないかと考えています。
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そこから更に先に進むと、春には桜の花がトンネルの様になる桜通りの交差点を抜けた所、街道左手に朱塗りの鳥居が建つこじんまりとした社が現れます。鳥居の横に「樋下正一位稲荷神社」とした表示が有ります。
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その前を過ぎて暫らく進むと街道は再び県道11号に合流する交差点に出ます。この交差点の所で県道には行かず、そこから再び右手斜め前方に進む細い道路が、かつての例幣使街道に成りますが、その道路もその先は新たに区画整理された住宅街に変わり、かつての街道筋は無くなってしまいました。
現在県道の交差点から少し入った道路脇に忘れられたように、火口や傘など上部が落ちてしまった常夜燈が建っています。常夜燈の手前には一対の狛犬が残っています。
常夜灯の竿の部分と言うのでしょうか、正面に「太平山」、右側面に「日光山」、左側面「御神社」、そして背面には建立年月でしょうか「文政二皇紀己卯十一月」と刻されていました。文政二年は1819年に成ります。
この常夜灯の建つ位置は、富田村と下皆川村との境界に当たる所に成ります。
常夜燈1.jpg常夜燈2.jpg
ここでかつての富田村を縦貫する日光例幣使街道の南の古橋村の境界から、北の下皆川村の境界の区間を、ずっと見て歩きました。まだまだ分からない所が多い「富田宿」、また何時か歩いて見たいと思います。


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