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私が撮り続けた、栃木秋祭りの思い出 [懐かしい写真]

今年、2018年は栃木市秋祭り、人形山車出御の年です。以前は5年間隔でしたが、2006年以降は2年に1度の出御に変更と成りましたので、祭り好きにとっては歓迎する所です。
「写真撮影が趣味」と言うより、運動するのが苦手で、人と交流する事もそんなに得意でなかったので、一人で楽しめる写真撮影が、その頃の私には打って付けだったのかも知れません。
今、秋祭りの日が近く成って来て、ふと、私がこれまで撮影して来た祭りの写真を見返してみました。
古いアルバムには、ピンボケした物や、色褪せてしまったカラー写真も多いですが、そんな写真を眺めていると、忘れてしまったその頃の風景が、断片的ですが蘇えって来るのでした。

私が初めて人形山車を撮影したのは、昭和41年(1966)でした。まだ白黒フィルムでしたし、高校生で金銭的余裕も無かったので、撮影した枚数はたったの6枚でした。それも何故か夜間で山車も小屋の中に入った状態での撮影でした。なぜ昼間の写真を撮らなかったのか、それは思い出せません。
1966秋2.jpg1966秋1.jpg

次が5年後の昭和46年(1971)です。この頃にはカラーフィルムも使い始めていました。撮影枚数は24枚でした。
1971秋1.jpg1971秋2.jpg

2枚の写真とも、倭町の大通りに有った歩道橋付近で撮影した物、1枚は歩道橋の上から人形山車を撮っています。歩道橋が設置して有った場所は、現在の「蔵の街第一駐車場」の前に成ります。その為万町一・二・三丁目の人形山車はこの歩道橋の下を潜る事が出来なかったので、ここでUターンして戻る事に成りました。又、通りを横断する電線等も多かった為、山車の巡行時は、山車の上層部や人形を下げていました。

5年後の昭和51年(1976)は、市制40周年に当たりました。この年私はカラーフィルム2本57枚、モノクロフィルム1本39枚の写真を撮りまくっています。
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写真は2枚とも秋祭り名物の「ぶっつけ」の様子を写しています。上記の歩道橋を挟んで倭町二丁目「神武天皇」の山車(左側)と、万町一丁目「天照大神」の山車(右側)とのぶっつけです。
そして右のモノクロ写真は、歩道橋を潜って万町側に巡行して来た室町「桃太郎」の山車(手前)と、それを迎える万町一丁目・ニ丁目の山車とのぶっつけの様子です。
この年見られたのは、倭一「獅子頭」、倭二「神武天皇」、倭三「静御前」、万一「天照大神」、万二「関羽雲長」、万三「素盞嗚尊」、泉「諌鼓鶏」でした。

昭和56年(1981)の秋祭りは、初めて第二小学校の校庭に勢揃いをした人形山車を見る事が出来ました。これまでは大通りでの巡行だけの撮影でしたが、この頃から勤めていた会社も土曜休日に変わった事で、広範囲での撮影が可能になりました。各町内から第二小学校へ向かう途中、常盤橋を渡る山車や、入舟町や湊町を巡行する山車の様子を撮影しました。
1981秋1.jpg1981秋4.jpg
1981秋3.jpg1981秋2.jpg

この年、私は人形山車の巡行の写真を70枚撮りましたが、その中にこれまでずっと参加していた倭町三丁目の「静御前」の姿が写っていません。

昭和61年(1986)の秋祭りも、70枚の写真を撮っています。この年は祭りの期間中に、昭和58年から始められた「第4回とちぎ・太平山・蔵の街マラソン大会」が行われ、大通りを駆け抜けるランナーに声援を送る様に、山車の上からお囃子が打ち鳴らされていました。
1986秋4.jpg1986秋1.jpg
1986秋3.jpg1986秋2.jpg

大町の人形山車「弁慶」が初めてお目見えしたのは、この年からです。又、この年は市制50周年のパレードに「日の出町青年部はやし連」が鎧武者姿の「源義経」を載せた車で参加をしています。もう1枚の写真は「ぶっつけ」ですが、これまで多くの「ぶっつけ」の様子を撮影して、何時もその時の祭りの雰囲気に呑まれて思うような写真を撮る事が出来ません。夜の「ぶっつけ」はストロボを使うと、手前が白く飛んでしまったり、影の無いフラットな写真で物足りません。この写真も色々工夫した1枚です。まだテクニック不足でした。

平成3年(1991)、時代は昭和から平成に移り、最初の秋祭りです。67枚の写真が残りました。
この年、栃木文化会館北側駐車場に勢揃いした人形山車を見に行きました。
この栃木文化会館駐車場に各町内の山車が一堂に揃うのは前回の昭和61年からで、それまでの会場だった第二小学校校庭は、蔵の街マラソン大会のスタート・ゴール会場と成っていた為、その前昭和58年に元栃木刑務所跡に完成した「栃木文化会館」の駐車場に変わっていました。
1991秋3.jpg1991秋2.jpg1991秋4.jpg1991秋1.jpg

人形山車が整列すると、北向きとなる為撮影するのに逆行気味と成り上手く撮れません。これも私の技量不足ですが。尚、この年は友好親善都市の北海道滝川市から、「しぶき祭」の行燈山車が秋祭りに参加して、祭会場を盛り上げていました。

平成8年(1996)の秋祭りは、人形山車が巡行するメイン会場の大通り無電柱化がなされた事で、巡行する時も人形を下げず豪華な山車の姿を見る事が出来ました。又この年、県立栃木高校が創立100周年の記念する年という事で、それを祝う為に万町一・二・三丁目の人形山車が、栃木高校の正門内まで巡行しています。
1996秋4.jpg1996秋3.jpg
1996秋2.jpg1996秋1.jpg

平成12年は、西暦2000年という節目の年と成り、栃木市では多くの大きな事業が完成した年という事で、5年毎に開催していた秋祭りの人形山車巡行を、4年目のこの年特別に行っています。
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そして平成13年(2001)に、これまで5年毎に行っていた定期の人形山車巡行を開催しました。これは特別巡行した前年に続き2年連続、秋祭りに人形山車が繰り出すことに成ったのでした。
2001秋1.jpg2001秋2.jpg
祭期間中、天候に恵まれた事も有り、50万人お越える人出に成り、大通りは身動きが出来ないほどと成りました。

平成18年(2006)の秋祭りは、残念ながら私は仕事の関係で地元に居なかった為、見る事が出来ませんでした。この年も前回にもまして大勢の見物客が訪れたと聞いていました。
これがきっかけとなったのか、この後人形山車の出御が5年に1度から、2年に1度に変わっています。
そして2年後の平成20年(2008)も人形山車が出御したのですが、私はまだ地元に帰って来ていませんでしたので、この時もパスです。

平成22年(2010)の3月、私は4年ぶりに地元に戻りましたので、その年の秋祭りは久しぶりに見に行くことが出来ました。この頃は手持ちのカメラもデジタル式と成った為か、撮影枚数は150枚以上とまさに撮りまくっていました。この後、平成24年、平成26年、平成28年と毎回とちぎ秋祭りを楽しんでいます。
最後に、最近の祭りで撮影した各町内の人形山車等を紹介します。

室町.jpg
(室町 桃太郎)
倭一.jpg
(倭町一丁目 獅子頭)
倭二.jpg倭三.jpg
(倭町二丁目 神武天皇)              (倭町三丁目 静御前)
萬一.jpg萬二.jpg
(万町一丁目 劉備玄徳)               (万町二丁目 関羽雲長)
萬三.jpg泉町.jpg
(万町三丁目 張飛翼徳)                (泉町 諌鼓鶏)
嘉右衛門町.jpg大町1.jpg
(嘉右衛門町 仁徳天皇)                   (大町 弁慶)

今週末に向け、今秋祭りの準備が進んでいます。後はお天気次第です。私も又カメラをぶらさげて出かけたいと、今から楽しみにしています。
秋祭り前1.jpg秋祭り前12.jpg
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栃木名産「かんぴょう」、夕顔の実の皮剥き天日干し風景 [懐かしい写真]

古い写真アルバムをめくっていたら、今から40年程前の「かんぴょう」生産農家の風景を撮影した写真が出て来ました。その当時は、社会人に成って、宇都宮に通勤するする様になり、電車の窓から見えた風景の一つでした。緑の畑の中に大きく育った夕顔の実。農家の前庭一杯に整然と並べられた細い帯状の夕顔の実。毎年7月から8月にかけて目にした風景でした。
天日干しの為に、1.5メートル程の高さに通された細い竹竿に間隔を空けて掛けられた、約4センチメートル幅に剥かれた白い夕顔の実。その風景を写真に収めたいと、干瓢生産農家にお邪魔して撮影させて貰いました。
夕顔の実を収穫する.jpg夕顔剥き.jpg
(畑から大きく育った夕顔の実を収穫)  (干瓢剥き専用機を使い夕顔の実を帯状に剥く)

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(細い帯状に剥かれた夕顔の実を、家族総出で竹竿に間隔を空けて掛けて行く)

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(青空の下、リボン状に剥かれた夕顔の実が、母屋前の庭一杯に干され白く輝く)

天日干し5.jpg天日干し6.jpg
(天日干しにより乾燥してしわしわとなった夕顔の実)

こんな風景も、現在はあまり目にする事が無くなりました。でもスーパーマーケットに行くと「夕顔の実」の絵が描かれ「栃木名産 干瓢」と印刷されたパッケージに入った商品が並んでいます。生産地住所には「栃木県壬生町」と有ります。
今も県内で生産は続いています。40年前と同様のスタイルで行われているのかどうかは分かりませんが。
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栃木工業高校写真クラブの思い出 [懐かしい写真]

私が写真を始めたのは中学生の頃、家に有ったカメラを持ち出しては、学校の同級生の写真を遊び半分で撮っていました。オリンパスカメラでハーフサイズ、今もネガが保存されています。
西中2.jpg西中1.jpg
(1965年10月撮影、栃西中の校庭南側に人家は少なかった)(懐かしの木造校舎)

高校に入ると早速写真クラブに入りました。が、その頃1年生では私ともう一人だけ、先輩も数人しか居なかったと思います。最初は本館の化学室(物理室だったか)の暗室を部室として使用していたのですが、その後すぐに教室棟2階西側階段下の収納庫の様な部屋に移動となりました。
部員4.jpg写真展.jpg
(暗室内での写真の焼付け作業)       (第一回学校公開での写真クラブの作品展)
その頃、顧問の先生は機械材料を教えていた先生でした。それでも先生はあまり顔を出さず、結構勝手に活動をしていた記憶が有ります。
2年生に成った年、電子科に女子の生徒が入学して来て、我が写真クラブにも確か3名の女子が入部して来ました。
私が3年生に成った時も、部員は十数名でしたが、結構まとまりが有って、良く撮影旅行に行っていました。

1968年5月には中禅寺湖に出掛けました。この時は第一いろは坂を歩いて登りました。途中からガスが掛かり視界が悪くなりましたが、その頃はまだ車の通行もそれほど多くなく危険は感じませんでした。(1965年10月に第二いろは坂が開通していたので、従来の第一いろは坂は下り専用に成っていました。)
いろは坂1.jpgいろは坂4.jpg
(距離の短い第一いろは坂を歩いて登り中禅寺湖へ向かう)
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8月の夏休みには益子町へ撮影旅行。栃木から両毛線・水戸線そして下館駅から真岡鉄道に乗り換えて益子町へ。
ここで初めて登り窯を知りました。ここでも又良く歩きました。西明寺まで道は写真を見ると当時はまだ砂利道でした。畑には1メートル程に育ったタバコが、一面に大きな葉を広げていました。
益子1.jpg益子2.jpg
(益子の町で初めて登り窯を見る)     (西明寺への道は長閑な自然が溢れていました)
益子3.jpg益子4.jpg
(西明寺への砂利道を登る)           (西明寺三重塔)

翌1月には宇都宮の二荒山神社の初詣風景を撮影に行きました。そのころ女性は日本髪を結って晴れ着を着て初詣をしていました。
二荒山神社1.jpg二荒山神社2.jpg
(上野百貨店屋上より二荒山神社を)    (望遠レンズの先に捕えた被写体は?)
二荒山神社3.jpg二荒山神社4.jpg
(昭和40年代の初詣には、和服姿の女性が多く見られました)

あれから早いもので50年の月日が経ちました。最近、昔のアルバムを開くと一枚一枚の写真に撮影をした時の場面がよみがえってきます。そこには懐かしい多くの友の顔が笑顔で並んでいます。
段ボール箱一杯に詰まった写真のネガ、そろそろ処分しようか。
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太平山神社の三光台 [懐かしい写真]

私が若かった頃撮影をした写真帳の中に、太平山神社で写した少し変わった写真が出て来ました。
1973年7月に撮影をしたもので、現在では既に無くなっている、太平山神社拝殿前の表参道の石段を登って来た脇に有った建物の中に飾られていた奉納額の写真です。
奉納額3.jpg
(数多くの奉納額が掲示された建物の内部)
建物外観の写真は写していませんでしたので、記憶の中に僅かに残っているだけです。上の写真を見ると、吹き抜けの窓の外に少し写っている建物は、拝殿の前に出る時最後に潜る門で、太平山神社のホームページの中で納められたいる「太平山ハイキングMap」に「勅使門」と説明されている朱塗りの門と思われます。
表参道石段.jpg勅使門.jpg
(表参道石段の奥に見える朱塗りの門)    (勅使門を潜ると拝殿の前に出る)

奉納額2.jpg奉納額4.jpg
明治45年7月17日、栃木理髪業組合が創立10周年を紀念して奉納した「大鏡」。
その鏡の中にも多くの奉納額が写って見えています。他に「花鳥百人一首」と題した奉納額も有りました。
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上の写真に見える奉納額は、栃木県河内郡薬師寺村大字仁良川の金子傳吉さんが、明治25年9月18日に奉納したもので、太平山神社表参道の様子を描いた絵です。「神橋」「隨神門」「鳥居」など明治中期の表参道の姿を窺い知ることが出来ます。

昭和9年6月10日田代善吉著、下野史談會が発行した「栃木縣史 神社編」の第四節に「縣社大平山神社」の中に神社の建築物について記されています。そこには
 ・境内は  壹萬六千四百二十五坪
 ・御本殿  明治十四年の新築  六坪
 ・御拝殿  明治九年新築   總坪十五坪
 ・社務所  天保十年六月建設 總坪数三十三坪
 ・神楽殿  明治六年六月建設 總坪 六坪
 ・隨神門  享保八年八月建設 二階建十坪六合
 ・納額殿  嘉永元年七月建設 二十一坪六合
 ・神  橋  延寶五年八月建設 
 ・水  屋  嘉永五年八月建設
この中で、本殿や拝殿・社務所・隨神門は、ほぼそのままの姿を現在に残していると思いますが、「神楽殿」は場所を少し後方に引き、リフォームして現在は「福神社」となっています。従って現在も代々神楽の奉納はこの社殿で行われている様です。
1966年3月神楽殿.jpg福神社.jpg
(1966年3月撮影、神楽殿)           (2013年1月撮影、福神社)

表参道の中ほどに架けられていた「神橋」は、1981年撮影した時はまだ鮮やかな朱色と黒の擬宝珠を持つ橋が架かっておりましたが、今年(2018年6月18日)訪れた時は、その姿は無く丸太3本を渡した「仮橋」に成っておりました。
神橋1.jpg神橋2.jpg
(1981年撮影、太平山神社の神橋)     (2018年撮影、丸太3本を渡した仮橋)
 
上記の建物の名前の中に「納額殿」と称する嘉永元年(1848)に建てられた建築物は何処に有ったのか、最初に私が撮影した奉納額が多数飾られていた建物がこの「納額殿」だったのかも知れません。1958年頃の太平山神社社殿群の写真の中に、拝殿と向かい合う建物が「納額殿」に当たるか?現在は「三光台」となっています。
1958年太平山神社境内.jpg2018年太平山神社境内.jpg
(1958年頃の社殿群、左側建物が「納額殿」か) (2018年現在の状況、左側「三光台」)

三光台は昭和49年(1974)12月に竣工してから、太平山神社の行事の会場などに使われて来ています。
三光台1.jpg三光台3.jpg
(太平山神社では一年間を通して多くの神事・祭事が行われています)

又、晴れて空気の澄んでいる日には、三光台より筑波山の霊峰も手に取る様に望む事が出来ます。
三光台からの眺望.jpg
(三光台より東南東方向を望むと、霊峰筑波山が関東平野の奥に見えます)

この「三光台」の三光とは、太平山神社に祀られている「日・月・星」の三座の神様で、太平山神社はかつては「三光神社」とも称されていました。表参道の三の鳥居の神額にはこの「三光神社」の名称が記されています。
三光神社の神額.jpg
(「三光神社」の神額が掲げられている、三の鳥居)

※参考文献:太平山神社ホームページ、田代善吉著「栃木縣史・神社編」、栃木市勢要覧
   
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栃木市における釜屋号 [懐かしい写真]

今日、関東地方の梅雨明け宣言が有りました。私の住む栃木市も連日30℃を越える暑い日が続いていましたから、「やっと梅雨明け宣言が出たな。」と言った感じです。今後の天気予報を見ても最高気温が35℃から40℃に迫る日が続きそうで、毎日冷たいものばかり取り過ぎて、お腹の方も大分疲れて来ています。
ここは鰻でも食べてスタミナを付けたいところです。もう直ぐ7月25日、土用の丑の日です。市内の鰻屋さんも忙しくなります。
栃木市内にも多くの鰻を扱うお店が有りますが、その中のひとつに「釜屋」さんが有ります。創業は明治2年と言う老舗に成ります。
蒲焼釜屋1.jpg蒲焼釜屋2.jpg
(現在の釜屋さんの店舗入口)       (玄関に掛かる釜屋さんの店舗暖簾)
現在の店舗は城内町2丁目に有りますが、以前は河合町の巴波川に架かる「開明橋」の南東橋詰で営業されていました。
手元の「栃木県営業便覧」(明治40年10月発行)を見ると、そこには「釜屋」とでは無く、「鳥屋」と記されています。釜屋さんは元々は鳥料理がメインだったのでしょうか?確かに釜屋さんで頂く焼き鳥、とても美味しいです。
1979年4月開明橋と釜屋.jpg
(巴波川の開明橋の橋詰で営業していた「釜屋」さん。1979年4月撮影)
栃木の市街地には以前、「釜屋」という屋号を用いていたお店が多く見られました。 私が子供の頃、「釜芳さん」とか「釜重さん」とか言うお店の名前を耳にした事が有ります。
そこで、先ほどの「栃木県営業便覧」を調べて、明治40年当時栃木町で「釜屋号」を付けた商店を見付けて行くと、9店舗有りました。
①釜屋   善野喜平    味噌醤油醸造元  室町(現在はNTT東日本栃木ビル.)
②釜屋號  早乙女峰次郎 美術両中形小紋更紗問屋 倭町(元蔵の街第三駐車場)
③釜芳   伊藤芳次郎  砂糖石油肥料食塩商 倭町(現在は足利銀行栃木支店)
④釜屋號  善野伊平   呉服太物商      倭町(現在は中原証券栃木支店)
⑤釜屋   竹澤傅次郎  醤油味噌漬物和洋酒瓶詰 万町(栃木信用金庫本店)
⑥釜屋號  長谷川峰七 染物業          旭町(場所不明、神明宮の東方?)  
⑦釜屋號  篠山長平   染物業         片柳(現在は境町19 駐車場)
⑧釜屋   篠山傅吉   製茶煙草商      相生町(現在は室町4 ミツワ通り)
⑨釜屋號  金子忠吉  萬染物業        入舟町(現在錦町11 かねこ整骨院)
  ※屋号・氏名等は掲載内容、( )内は所在箇所の現在の状況です。
釜長.jpg
(境町、旧例幣使街道沿いの染物業「釜長」さん⑦の当時の様子。1978年6月撮影)

釜屋号に関する外の資料を探してみると、栃木市図書館に明治31年(1898)12月発行の「日本全国商工人名録 全」が有りました。この商工人名録は全国的にその頃の商人工人を調べた名簿で、栃木町では97名掲載され、その内8名の釜屋が名を連ねています。
①釜屋  伊藤善次郎  萬町  麻苧商   (現在万町6 空き店舗)
②釜屋  坂本重藏   倭町   麻苧商  (現在は倭町8 再開発中)
③釜屋  大塚金兵衛  室町  呉服太物商 (現在は室町6 デニーズ駐車場)
④釜屋  大塚敬吉   倭町   呉服太物商 (現在は倭町8 再開発中)
⑤釜屋  前澤藤平   萬町   絲類商   (現在は万町4 快眠館大二)
⑥釜屋  善野喜平   室町   醤油醸造  (現在は室町12 NTT東日本栃木ビル)
⑦釜屋  舘野茂吉   泉町   肥料商   (現在は泉町3 旧例幣使街道に東面)
⑧釜屋  伊藤芳次郎  倭町   砂糖商   (現在は倭町11 足利銀行栃木支店)
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(泉町、旧例幣使街道、嘉右衛門町通り入口に建つ「釜平」さん、舘野家住宅兼店舗)

明治31年の商工人名録の中で釜屋号と記した8店舗の内、明治40年発行の営業便覧で釜屋号が付記されなかった商店が5軒(①釜善、②釜重、③釜金、④釜敬、⑥釜平)そして店舗名自体が確認出来なかった⑤釜藤の1軒でした。この釜藤と言うお店は大正時代の萬町(大通り)の店舗名を記した資料によると、営業便覧に出ている「正直屋」と言う、洋傘製造帽子各種の店舗の南隣りに、「釜藤」の名前が出ています。
これまでの資料で確認された釜屋号の店舗は15に成ります。が、この中には最初に話題にした鰻の釜屋さんは出ていません。又、現在も質店を続けている万町の「釜佐」さんも出て来ていません。

図書館で更に資料を確認して行くと、栃木商工会議所が発行した、「栃木商工案内 昭和十年版」の中に釜屋号の店舗を確認する事が出来ました。
 <商号> <営業別>  <営業所>    <氏名>
①釜藤    糸綿        萬町     合名会社釜藤商店
②釜平    履物(肥料)   泉町      舘野惣吉
③釜屋    金物        萬町      田村福三郎
④釜忠    染物業      錦町      金子愛之助
⑤釜伊    呉服太物     倭町      善野碩之助
⑥釜重    麻眞縄      本町      坂本 喬
⑦釜重    荒物(立麻)   萬町      坂本千代三郎
⑧釜芳    砂糖石炭茶製粉 倭町     釜芳商店
⑨釜屋    川魚(蒲焼)    河合町    渡邊為吉
⑩釜佐    質商        萬町      善野佐次平
この資料で新たに確認された店舗は、5軒(③・⑥・⑦・⑨・⑩)と成り、合計20店舗です。
釜屋金物店1.jpg
(現在万町山車会館入口南側の空き店舗が釜屋号③の金物店でした。1994年8月撮影)
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(現在も質商を営む、「釜佐」善野家土蔵。現在は「とちぎ蔵の街美術館」と成っています)

更に、栃木の街の中を歩いていると、今も釜屋号の看板を掲げた店舗を確認出来ます。店舗の名前は「釜利」さんです。大正時代の万町大通りの店舗名を記した資料の中にも、「釜利」(ポンプ屋)と出てました。
釜利.jpg
(万町、出井書店から北側3軒目に、「釜利」と記した看板を掲げた店舗)

今回確認出来ただけでも、栃木市内で釜屋号を付けた店舗は21軒有りました。栃木県の県都「宇都宮市」には栃木市よりはるかに多い屋号を付けた店舗が有りますが、釜屋号の店舗はそんなに多くは有りません。それではなぜ栃木の街にこんなに釜屋号を付けた店舗が現れたのでしょうか。
そんな疑問に答える資料となる書籍が最近発行されました。石崎常蔵氏が著した「栃木人 (明治・大正・昭和に活躍した人びとたち)」です。その本の中に正に「釜屋考」としてまとめて有ります。私が以前から興味を持っていた「釜屋号」について今回さらに踏み込む貴重な資料を多く提供して頂けました。参考にさせて頂きました。

栃木町にて最初に「釜屋号」を名乗ったのは、何時の頃で誰だったのか。
江戸文学研究家の林美一氏の著書「歌麿が愛した栃木」(昭和47年9月発行)の中に、初期の善野家の様子が記されています。以下はその要約です。
≪宝暦年間(1751~1763)に近江の守山から、この栃木に来て土着した善野一族は苦労の末に成功をして財を築きました。善野御三家と言うと、「釜喜」・「釜佐」・「釜伊」という事に成りますが、まず最初は善野喜左衛門が「釜屋号」を名乗りました、「釜屋の喜左衛門」略して「釜喜」となります。初代「釜喜」です。そしてこの初代がその弟に2代目喜兵衛として「釜喜」を譲り、その後喜佐衛門は別家をして「善野佐次兵衛」を名乗ります。これが「釜佐」の始まりに成ります。即ち「釜喜」と「釜佐」の初代は同一人物という事に成ります。もう一つの「釜伊」の始まりは、釜喜の2代目の長男が3代目釜喜を継ぎ、弟の伊兵衛が「釜伊」の初代を名乗ったものと云われています。≫
「栃木人」の中で石崎氏は、≪このように「釜屋」は栃木地方の善野三家の成功によって、「信用」のブランドと認められ使用された。≫と記しています。
この事が栃木の街に多くの「釜屋号」の商家が現れた大きな要因と言って良いのかも知れません。

そんな「釜屋号」も時代の流れの中で次第に消えて少なくなってしまいましたが、喜多川歌麿の肉筆画の大作「雪月花」三部作のひとつ「深川の雪」が長い間所在不明と成っていたものが、平成24年(2012)に発見された事で、再び脚光を浴びることと成った,栃木の豪商「釜伊」と、歌麿の作品中に狂歌が載る通用亭徳成こと「釜喜」の4代目善野喜兵衛。これからもずっと栃木の「釜屋号」を大切に語り継いでいきたいものです。

足利学校から鑁阿寺へ [懐かしい写真]

私は足利の町が好きで、若かった頃は良く出かけていました。両毛線の電車に揺られて足利駅へ、そして足利学校から鑁阿寺界隈を当ても無く歩く。社会人なりたての私に与えられて時間は日曜日だけ、その頃は土曜休みなど考えてもいなかった。仕事で休日出勤すると、1カ月間の内自由に成れる時間はそう無かった。
そんな時代だったからか、日曜日の鑁阿寺境内に有った広場は、市民の憩いの場所で何時行っても沢山の人が休日を楽しんでいる様だった。
境内の南西部に広場が有って、その中央部に1本大きな銀杏の木、その周りにベンチが有り天気の良い日は、その木陰に大勢の市民が身を寄せる様に集まっていました。
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(足利鑁阿寺境内南西部広場中央部の銀杏の木陰に集う足利市民、1974年5月5日)
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(1974年6月16日、今日も木陰は満員状態)
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(木陰では一斗缶に将棋盤を広げてお年寄りが将棋の真剣勝負中)

又、その頃足利を訪れるもう一つの楽しみは、毎年5月のゴールデンウィークを中心に開催されていた、「足利まつり、ヤングヤング大行進」のパレードを見る事でした。(その頃は私もヤングでした)
足利祭り2.jpg足利祭り1.jpg
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(1974年5月の足利まつり、ヤングヤング大行進)
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(1977年5月の足利まつり風景)
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(1978年5月の足利まつり風景)

それから、足利の町もご無沙汰をしていたが、昨日久しぶりに足利学校から鑁阿寺界隈を訪れました。
日本最古の学校として国指定史跡となる足利学校には、1974年4月最初に訪れました。その頃の記憶は「学校門」「字降松(かなふりまつ)」「孔子廟」が撮影した写真に残るだけでした。
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(1974年4月撮影、足利学校の学校門)
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(1974年4月撮影、「孔子廟杏檀門」の手前右側に「字降松」が見える)
孔子廟1.jpg孔子廟2.jpg
(1974年6月撮影、廟周囲に廻らされた築地越しに孔子廟を望む)

現在、足利学校は孔子廟の東側に「方丈」や「庫裡」「庭園」等が復元され、綺麗に整備されていました。
足利学校全景1.jpg
(東側を通る国道293号の歩道橋上から足利学校を写す)
学校門1.jpg
(現在の学校門)
足利学校聖廟1.jpg
(孔子廟の中央に祀られているのが「木造孔子坐像」右側に「木造小野篁坐像」)
足利学校聖廟裏手1.jpg
(孔子廟の北西角方向より写す)
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(平成二年に孔子廟の東隣りに復元された「方丈」
足利学校北庭園1.jpg
(同じく平成二年に方丈の裏手に復元された「北庭園」、奥に写るのが孔子廟)

閑静な雰囲気の足利学校を後にして、鑁阿寺に向かいます。鑁阿寺に向かう通りもすっかり観光客向けの食事処やお土産物店が立ち並び、平日にもかかわらず団体の観光客の方々が、ボランティアガイドに案内されていました。
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(鑁阿寺に向かう大日大門通り、平日でも観光客の姿も多い)

鑁阿寺の境内は栃木市の旧県庁堀の様に、周囲を堀が廻らされています。南側中央部の堀に架けられた屋根付きの太鼓橋は鑁阿寺の正面入口に当たり、橋を渡ると大きな山門(仁王門)が建っています。
鑁阿寺太鼓橋1.jpg
(鑁阿寺の正面堀に架かる屋根付きの太鼓橋を東横側から写す)
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(太鼓橋正面とその後ろに山門)
山門の右横に上部に「御橋再建」と刻された石碑が有ります。碑の正面右側に「安政三年丙辰十一月建之」、中央に「寄附連名碑」そして左下に「発起人 小俣宿 木村半兵衛」「補助 桐生町 松屋元右衛門」「補助 學校 牛窪平兵衛」と3名の名が刻されています。碑陰には碑銘に有る通り、寄付金の額と寄付者の名前が連ねて刻されています。ちなみに発起人の木村半兵衛が筆頭に有り「35両」となっています。丁度今から160年前に再建されたことが分かります。
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(本堂手前左側に樹齢550年以上と云われ、天然記念物の大銀杏が目を引きます)
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(鎌倉時代の建物で、平成25年国宝に指定された金剛山鑁阿寺の本堂)
境内には他に国指定の重要文化財の「経堂」と「鐘楼」、栃木県指定有形文化財として、「御霊屋」「多宝塔」「太鼓橋」「山門」「東門」「西門」等が建っています。

参拝した日が平日だった為か、寺院堂塔周辺には参拝者も多く見受けられましたが、境内南西部の広場には殆んど人の姿が見られませんでした。広場中央の銀杏の木の根元のベンチも無くなっていました。人影が無いと鳩も寄って来ません。一方入口の太鼓橋周辺には今日も沢山の鳩が群がっていたのですが。
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(その木陰に大勢の市民が集っていた銀杏の木は、今日ひっそりとしていました)

栃木皆川街道、湊町通り界隈 [懐かしい写真]

私が昭和43年(1968)に撮影をした湊町通りの写真が1枚有ります。
1968年湊町通り1.jpg
(昭和43年撮影、湊町通り)
写真はナガサワ商店の前辺りから東方に向かって、湊町通りを写したもので、高村洋品店の交差点付近で道路は「く」の字に曲って、その先の巴波川に架かる「幸来橋」は見えません。
通りの両側には店舗が軒を連ね、お店の前には自転車が何台も停められています。

平成20年(2003)1月に、今度は高村洋品店付近から西方向を撮影した写真には左端に正喜屋の暖簾とくさ餅の幟旗が店先に見えるのみで、その先の家は店先のガラス戸やシャッターは閉じられたままです。
そして昨年(2015)4月に撮影した写真では通りに面した場所は駐車場に変わり、ただ正喜屋さんの店前だけは以前と変わりなく幟旗が写っていました。その幟旗も今は見る事が出来なくなりました。
2003年1月湊町通り1.jpg2015年4月12日湊町通り1.jpg
(平成20年1月撮影)             (平成17年4月撮影)

高村洋品店の交差点の東側には以前、栃木警察署湊町派出所は建っていましたが、現在はポケットパークになっています。ポケットパークの東隣りに建つ小井沼商店の土蔵は、以前の姿を留めています。
小井沼商店1.jpg1978年12月湊町交番3.jpg
(平成26年11月撮影小井沼商店土蔵)    (昭和53年12月撮影湊町派出所)

江戸時代には巴波川に架かる幸来橋(江戸時代には念仏橋とか天王橋などと呼ばれていたそうです)の東橋詰に栃木町の木戸が有り、橋を渡った西側は木戸の外、片柳村になります。幸来橋を渡って西に160メートル程行ったナガサワ商店の所で道は、右の皆川方面に向かう「主要地方道栃木佐野線(県道75号)」と、太平山神社表参道につながる「県道269号」とに分岐しますが、この県道269号から真直ぐ皆川街道を抜けて中野病院方向に抜ける細い道を境に、道路の南側が湊町(旧片柳村)、道路の北側は祝町(旧薗部村)となっています。

明治初期に栃木町に栃木県の県庁が置かれましたが、場所は巴波川の西側で実際は栃木町では無く、薗部村字鶉島でした。周囲に濠を廻らした県庁敷地の正面から真直ぐ南に抜けた道路は、皆川街道のナガサワ商店の所に出ていました。現在栃木中央小学校として栃二小と統合された栃一小の正門前の道路が、旧栃木県庁の正門への道路でした。
1965年4月栃一小正門1.jpg2013年栃一小正門.jpg
(昭和40年4月撮影、栃一小正門)          (平成24年3月撮影、栃一小正門)

弘化3年(1846)の「片柳新田 字上河岸 絵図」という、念仏橋(現在の幸来橋)の西橋詰の巴波川沿いに広がる旧片柳河岸の屋敷割の様子を描いた絵図が有ります。
この絵図に「元亀橋」と記された橋の絵が描かれています。その場所は念仏橋から皆川往還と記された道を西方向に70メートル程行った所、現在の湊町派出所跡のスポットパークの南側、この元亀橋の下を流れた水は更に南側の徳田商店土蔵脇の暗渠の中を流れ、下流側で白旗山勝泉院裏手方向から流れて来た、巴波川支流の「清水川」に合わさります。この清水川はそこから東に流れて、巴波川右岸(西側)沿いの道路に架かる「湊橋」(絵図の中では「相橋」と記されています)の下を抜けてその先で巴波川に合流しています。
御用蔵1.jpg
(徳田商店土蔵の脇、暗渠になっています)

明治40年10月1日発行の「栃木県営業便覧」をめくってみると、現在の徳田商店さんの所には、「小間物袋物材料造 花材料壜細工材料 商 仁科屋號 大久保岩雄」と記されています。仁科屋は弘化3年の絵図には、「利右衛門」と記されています。ここが江戸期に片柳河岸で日光御用の諸荷物を独占して扱っていた船積問屋の仁科利右衛門の屋敷や土蔵の跡の一部になります。

現在、この湊町通り沿いの商店も年々少なく成って来ていて寂しい限りです。先の栃木県営業便覧には多くの職種の店が記されていますが、その中で現在もこの湊町通りにて営業をされている店舗は、「谷津薬舗」さん(以前は皆川街道北側、醸造業谷田吉右衛門と書かれた西隣に、薬種店として記されています)と、創業が明治元年と言う「小井沼商店」さん(以前から現在の場所に有り「茶砂糖商」と記されています)の2店舗が確認出来るだけです。
1965年8月幸来橋.jpg
(昭和40年8月撮影、幸来橋。橋南西部にお店を構えた「谷津薬舗」さん)

最近、栃木の市街地を歩いていると、空き地やそれを利用した駐車場が急に増えて来た感じがします。ここ湊町通りも状況は同じ様です。





宣教師アンドレス居宅 [懐かしい写真]

栃木市入舟町、旧県庁堀の内側に、宣教師アンドレスが住んでいた洋館が建っていました。
この写真は、私が1978年5月に撮影したもので、その時は何も知らずに、ただ旧県庁堀沿いに建つ、古い洋館という事で、写しました。
1978年5月撮影宣教師アンドレス居宅.jpg
(以前宣教師アンドレスの居宅だった洋館。右奥に栃二小の校舎の屋上部分が見える。)
1978年5月撮影宣教師アンドレス居宅2.jpg1978年5月撮影宣教師アンドレス居宅3.jpg
(この頃、県庁堀の西側は原っぱが多かった)  (県庁堀に映るアンドレス邸)

この写真の建物が、宣教師アンドレス居宅ではないかと分かったのは、栃木郷土史編纂委員会が昭和52年(1977)8月20日に発行した「栃木郷土史」の、第三章県庁設置より移転までの記事の中に、
≪官舎は敷地西側にあった。県令官舎は今の宣教師アンドレス居宅の位置に、参事は今の小根澤登馬雄宅、その南側は凡て県属僚の官舎、錦着山西南側の家宅は知事の別荘であった。・・・・(後略)≫
との注記を見付けたからです。残念ながらこの洋館はすでに立て替えられていて、見る事は出来ません。

ただ、アンドレスさんがどの教会の宣教師だったのか、その本の中には記載されていません。栃木市内のキリスト教会の歴史的な事は全く分かっていませんが、私の生活圏の中で目に留まった教会の建物は、栃木駅近く、境町の「栃木カトリック教会」と入舟町の元栃木町役場庁舎東側に建つ、「栃木聖アルバン教会」の二つです。(他にも栃木市内には多くの教会が有るのでしょうが)
栃木カトリック教会.jpg
(境町と富士見町の境界を成す九十九曲用水の左岸(東側)に建つ栃木カトリック教会)
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(入舟町の旧県庁堀南東角、旧栃木町役場庁舎の東側に建つ栃木聖アルバン教会)

「栃木聖アルバン教会」の沿革につきましては教会のホームページに詳しく記されています。現在の地に礼拝堂が建てられたには、昭和3年(1928)ですが私が子供の頃に、礼拝堂の脇の建物で珠算塾が開かれていました。明治40年10月1日に発行された「栃木県営業便覧」には、県庁堀の漕渠に架かる「学橋」の南東橋詰には、「宮島耳鼻科医院」の名前が見えます。平成2年(1990)現在の礼拝堂に建て替えられる前の、と煉瓦積みの門扉は宮島耳鼻科医院」当時のものでした。昭和56年2月26日発行された「ふるさとの思い出写真集・栃木」(日向野徳久編著・国書刊行会発行)の中に、「宮島耳鼻咽喉科医院」の写真が載っていますが、そこに煉瓦造りの門扉を見る事が出来ます。
聖公教会1.jpg聖公教会2.jpg
(栃木聖アルバン教会の旧拝礼堂と現在の礼拝堂)

巴波川河畔を飾る行灯 [懐かしい写真]

今年も栃木の市街地を貫流する巴波川の河畔に、行灯の灯がともっています。
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(現在行われている、巴波川の行灯まつりの様子)
巴波川行燈1.jpg巴波川行燈3.jpg
行灯には「横山郷土館」や「旧栃木町役場庁舎」など、市内の観光スポットを切り絵で表した、「岩舟石の資料館」の元館長、故川島健三郎さんの作品が使われています。

この巴波川河畔を飾る行灯は、私が子供の頃にも見られました。それは栃木市無形文化財に指定されている、巴波川の夏のイベント「百八灯流し」に合わせて、富士見町を流れる巴波川から分流した「九十九曲り用水」河畔で行われた、川柳行燈です。以下の写真は昭和44年(1969)8月に撮影したものです。
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富士見町の川沿いにズラッと立てられた行灯の一つ一つに、スポンサーに関する川柳と水墨画が描かれていた記憶が有ります。どんな川柳だったか良く覚えていませんが、「松栄の寿司を涙で食べており」、こんな作品が有ったような。行灯に描かれた川柳は、現在も地元で活躍している「不二見川柳社」の皆さんの作品だったと聞いています。

又、この頃は「百八灯流し」の会場、巴波川橋の下流部三番堰付近の川の上に舞台を組んで、歌やマジックショーなどが催され、巴波川橋の橋の上や川べりには見物客が溢れ、身動きが出来ないほどだった事が、思い出されます。
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(巴波川橋の上に溢れる見物人のシルエットと、光り輝く舞台)
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(巴波川の川面に写る舞台)        (舞台周りを飾るスポンサー名の入った行灯)

そして、昭和47年(1972)8月には、栃木青少年ホーム利用者の皆さんが作った川柳や水墨画の行灯が祭り会場に華を添えていた事も有りました。
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行灯の一つに夏祭りを詠んだ川柳が有りました。「出不精が 子にせがまれて 夏祭り」甚句さんの作品です。

現在の行灯も数年後には、懐かしい夏祭りの思い出になっているのかも知れません。
今年ももうすぐ、巴波川の「百八灯流し」が行われます。この日は12時から21時まで、蔵の街大通りや銀座通りなど、各所で色々な催しが行われる「蔵の街サマーフェスタ2016」です。楽しみです。




栃木市街地に有った建物 [懐かしい写真]

今回は以前栃木の市街地で見かけた建物で、現在はすでに無くなって、見る事が出来なくなった写真を紹介したいと思います。これらの写真は私が40年ほど前に撮影をしたものです。
最初は旭町の神明宮参道、現在の蔵の街観光館脇の道を入った左手に有った、通称「蔵のアパート」です。
蔵のアパート.jpg
(蔵のアパート、道路正面突き当りが神明宮)
この写真の建物は、栃木市出身で長崎市に住んでいる田村家の方が、平成4年5月に栃木市に寄贈されました。明治40年発行の「栃木県営業便覧」を調べると、大通りの神明宮入口左側の角、現在の蔵の街観光館の場所に、「麻荒物商、八百屋号 田村金五郎の名前が記されています。通称「八百金」と呼ばれていたそうです。大通りに面した見世蔵を現在観光案内や物産店とし、その裏に続く土蔵群は整備してお食事処や多目的ホールとして活用。栃木市の観光拠点の一つに成っています。
蔵のアパート3.jpg蔵のアパート2.jpg
(左手前の土蔵が現在の「蔵の街観光館」)(現在は綺麗に生まれ変わった土蔵群)

参道を神明宮に向かって進むと、鳥居を潜った先、やはり左側に有ったのが、藤沼写真館の建物です。
藤沼写真館.jpg
(藤沼写真館)
神明宮に詣でる時には、この前を必ず通りお店の前のショーウインドウに飾られた写真を眺めるのも楽しみでした。七五三祝いの記念写真などが飾ってありました。

神明宮に隣接する第二公園の南側に有る、三鬼尊で有名な万福寺北側の築地塀です。
萬福寺北側築地塀.jpg
(万福寺の築地塀)
この築地塀とその奥の竹林が、落ち着いた風情を漂わせていて、私の好きな風景でした。何度も足を運んでは、同じ風景を撮影していました。
雪の萬福寺築地塀.jpg萬福寺北側築地塀2.jpg

近龍寺の南門から神明宮の大鳥居の前を横切って南に抜ける道路と、東銀座通りとがぶつかる角に、昔「勧工場」と呼ばれた建物が有りました。
勧工場.jpg
二階窓の鎧戸が珍しく感じて、写真に収めました。

煉瓦造りの倉庫と思しき建物の写真、撮影場所が今一つはっきりしませんが、倭町の大通りから西に入った道路沿いに有った記憶が残っています。
煉瓦倉庫.jpg
(煉瓦造りの倉庫)
煉瓦倉庫2.jpg煉瓦倉庫3.jpg
(ドアの取っ手や蝶番のデザインが面白い)

今ではすでに姿を変えたり、取り壊されて無くなっています。
最近、栃木の街の中を歩いていると、空き地が増えて今まで見えなかった風景が現れたりしています。何時も脇を通っていたのに、無くなってしまうと時々、ここにはどんな家が有ったのか思い出せない事が有ります。そんな昔の事など知らない若い人たちが、どんどん増えているのでしょう。
今回紹介した建物なども、昔はどんな様子だったのか、私にも分からないのと同じように。






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