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2018年09月| 2018年10月 |- ブログトップ

栃木市嘉右衛門町通りにかわいい例幣使の行列が

本日、栃木市嘉右衛門町通りの、油伝味噌店より岡田記念館(代官屋敷)までの間で、地元の栃木第三小学校の4年生の児童による、「子ども例幣使行列」が行われました。
畠山陣屋跡前を通過する例幣使行列.jpg
(岡田記念館の畠山陣屋跡の前を進む「子ども例幣使行列」)

日光例幣使は江戸時代、正保4年(1647)から毎年4月の日光東照宮の例大祭に奉幣する為に、朝廷から派遣された奉幣使で、慶応3年(1867)まで221年間、1回の休みも無く続けられました。
日光例幣使は、毎年4月1日に京都を発って中山道を下り、上野国の倉賀野宿にて中山道より分かれて、佐野の天明宿から犬伏を抜けて私達の栃木市に入り、岩舟町・大平町そして栃木の市街地中心を抜けて、ここ嘉右衛門町通りに入って来ます。
嘉右衛門町通りを抜けた先は、都賀町・西方町を抜け、鹿沼市楡木にて日光西街道(壬生通り)に合わさり、4月15日に日光に到着するのが慣例に成っていました。
平澤商事前を通過する例幣使行列.jpg
(嘉右衛門町通りの老舗の一つ平澤商事前を通過する「子ども例幣使行列」)

この「子ども例幣使行列」は今年で4回目になるそうです。かつて日光例幣使街道となった、嘉右衛門町通りの有る地元、栃木第三小学校の4年生の児童が、「郷土の歴史」の学習の中で、自ら例幣使の行列に扮して、かつての例幣使街道に思いを馳せる。参加した児童達はどのような思いを感じたでしょうか。
その「子ども例幣使行列」の先に立ち、横や後ろに立って行列を見守る、印半纏を着た人達がいます。
この嘉右衛門町の通りは、普段は人の通りも少なくひっそりとした感じの通りですが、今日はこの子供達の行列を見に来た、児童の家族の人達や、御近所の皆さんで大混雑に成りました、その見物客の群れが行列の進行と共に移動、次第に人の群れが大きく成って行きます。そして私が予想していた以上に、この通りの自動車の通行量も激しく交通の整理も大変そうに感じました。
交通整理する旦那衆.jpg
(行列の周囲で通行車の誘導や見物人の整理をする、印半纏を着た旦那衆)

印半纏を着た人達は、この行事を共催している「栃木の例幣使街道を考える会」や、「嘉右衛門町伝建地区まちづくり協議会」の皆さんでしょうか、地元自治会やコミュニティーの会長さん、そして嘉右衛門町通りの老舗の店主の顔も見えます。
「子ども例幣使行列」に寄り添って、見物人の整理や案内、通行する車の誘導等を行い、子供達の行列が安全に進むように見守っておられました。こうして一つの行事を通して多くの人達が協力し、大きな輪になっている事を今回感じる事が出来ました。今後ともこの「子ども例幣使行列」が恒例となり、人と人との交流の場のひとつに成ればと思いました。
嘉右衛門町通りの旦那衆.jpg
(行列途中の休憩で、嘉右衛門町神明神社前で記念写真に写る印半纏の旦那衆)

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栃木城址に建つ石碑について [石碑]

栃木市城内町一丁目、市立栃木第四小学校東側の住宅街の中に、小丘と小さなL字形の堀の有る公園が整備されています。
栃木城址2.jpg
(栃木城址公園。栃木城の名残りとして、小丘の北西側に土塁と堀が残っています)

栃木市役所のホームページに依ると、「栃木城址公園」に付いて≪市立栃木第四小学校の東側に残る館城の跡:天正19年(1591)皆川広照が築き、18年後の慶長14年(1609)広照が徳川家康の怒りに触れ、取り壊されました。現在あるのは、東丸の北西部の土塁と堀の一部が残り、堀ぎわには昔の名残を留める武家屋敷の白壁の塀がおよそ30軒残っています。≫と紹介しています。
坂本邸1.jpg
(栃木城址の北西脇に見える、武家屋敷の名残りを残す建物)
栃木城址説明板.jpg
(公園内には栃木城址の説明板が建てられています)

公園の広さは3,600.6㎡。主な施設として噴水・池・記念碑・トイレ・水飲み・四阿・ベンチ・遊具(すべり台、砂場、ラダー)が整備されています。
栃木城址1.jpg
(城址の小丘上に一基の大きな石碑が建っています。写真右手奥。)

それでは石碑の元へ。栃木城址に建つ石碑、恐らく「栃木城」の由緒に付いて記されているものと予想していましたが、その考えは外れておりました。
石碑の上部に刻された篆額の文字は、私には全く読む事が出来ません。
揮毫部分1.jpg
(石碑上部に刻されている、解読困難な四文字の篆書体の漢字)
とりあえず写真に収めて、調べる事で何とか解読出来ました。右から左へ「陰徳陽光」と書かれている様です。その意味を解く為「四字熟語」に有るか調べてみると、「陰徳陽報」と言う一字違いの言葉が見つかりました。この言葉は、中国前漢武帝の時代に編纂された「淮南子(えなんじ)」の巻十八、人間訓で≪誰にも知られないように善い行いをすると、必ずよい報いがあるということ。≫と出ていました。恐らく石碑の「陰徳陽光」も同様の意味が込められている様に思われます。

次に碑文を読んで行こうと思いますが、これまた難解な漢文体です。背の高い石碑ですので、一行に64文字、13行(最後の行は58文字)という事で、ビッシリと826個の漢字が刻されています。
碑文部分1.jpg
(826個の漢字が整然と刻された碑文の一部)

とても読み下す事が出来ませんが、碑文の文字を部分的に読んで繋げていくと、おおよその内容が理解出来て来ました。
先ず碑文一行目に「坂本金一郎」や「明治二十二年四月町村制施行翌月選挙栃木町助役」の文字。碑文中ほどに「君重任助役七回補佐町長三世在職實二十三年終始一貫忠実奮勵」、そして碑文後半に「翁家譜又見其履歴先祖素手于藤原氏中世永禄元亀頃爲皆川山城守之家臣主家滅亡前賜其城址是城内之所存名」などと刻されています。これらの文言よりこの石碑は、明治22年4月の町村制施行から、初代の栃木町助役と成り、その後23年間の在職中「根岸政徳」「大塚惣十郎」「櫻井源四郎」の三代の町長に仕えた、坂本金一郎氏の顕彰碑で有る事がわかりました。

その碑文の後に四言十六句が古詩の形で添えられています。その詩の部分を抽出します。
  主将奏功 侍良参謀 主人興家 有内助籌 三代町長 助役忠實 終始一貫 奏功輔弼
  今也発展 市制新施 斯月斯日 將建頌碑 内外祝福 大擧盛式 神靈有感 亦應無極

下野新聞社が昭和47年に発行した「郷土の人々 栃木・小山・真岡の巻」に、この坂本金一郎氏に関する記事が載っています。
≪太っ腹の坂本助役≫として、≪初代の助役は明治22年の町村制施行から44年までつとめた坂本金一郎氏である。坂本は城内町の大地主で、初代戸長高田俊貞のもとで副戸長をつとめていた。仕事に精通し少しぐらいの事にはびくともしない、ふとっ腹の助役であり、根岸政徳・大塚惣十郎・櫻井源四郎・望月磯平と四代の町長につかえてきた。明治42年には自治功労者として知事表彰を受けています。≫と紹介されていました。補佐をした町長が、三代と四代と解釈の仕方で差が現れたものと思われますが、どちらにしても栃木町の創成期に、首長を補佐して多くの事業を推し進めてこられた方です。

碑文全文を必死に書き写しました。文字が小さくなって読み難いと思いますが、興味の有る方は是非現地にて直接石碑を確認下されば幸いです。
栃木城址に建つ石碑の碑文.jpg
(書き写した碑文全文)

石碑の建立年月は碑文最後の日付けとすれば、「昭和十二年四月」と刻されています。
碑文の撰ならびに書は、「従四位勲四等七十七翁安達常正」と刻されています。
安達常正と云う人物は、教育者で明治39年(1906)5月22日に栃木県師範学校長として栃木県に赴任されて来ました。その後、大正10年(1921)9月に奈良県女子師範学校長と成っています。


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秋晴れの夏日 [自然の恵み]

今朝は、稲刈りのコンバインの音で目を覚まされました。
日曜日の朝はゆっくりですが、外に出ると10月とは思えない太陽の陽射しが肌を指してきました。
見上げると空は真っ青です。その青い空をジッと見ていると、やはり秋です。トンボが沢山飛び交っています。
庭の蠟梅の枝の先には、そのトンボ達が止まって休んでいました。
真っ青な空にトンボ1.jpg
(蠟梅の枝の先に止まるトンボ達)
真っ青な空にトンボ2.jpg真っ青な空にトンボ3.jpg

昼過ぎにはデスク上の温度計は32.4℃を表示していました。先日、もう使わなくなった扇風機をそろそろ片付けようと思っていた所ですが、今日はそんな扇風機を再び使用していました。まだ暫らくは様子を見ましょうか。

夕方には家の横の田んぼも、すっかり稲刈りが終わっていました。
これから日に日に秋が深まって行きます。
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栃木市箱森町の五家について

私が住む栃木市箱森町には、かつてこの地にて勢力を揮っていた「箱森の五家」と言われる、五つの氏族が有ったという事を、最近聞きました。
私自身もこの地に生まれてからずっと住んでいますが、父の代に移って来て商売を始めていますので、完全によそ者に成ります。実際我家の苗字は箱森には、2軒しか見当たりません。
では「箱森の五家」とはどんな人達なのか、この地域に多く見られる苗字に付いて、ゼンリン住宅地図を基に調べてみました。
結果、上位の四家は容易に判明する事が出来ました。
圧倒的な第1位は「森戸」さんで、82軒が箱森町全域に分布している事を、確認出来ました。そして第2位となったのは「稲葉」さんで29軒有りました。第3位は「日向野」さんの28軒。そして第4位は「長江」さん27軒です。
第5位に入った苗字は「鈴木」さんで、第4位の長江さんと同数の27軒確認されました。しかし「鈴木」さんと言う苗字は栃木県の苗字ランキングの1位で栃木市に於いても、特に箱森町に多く有る苗字では有りません。
その反面、1位の「森戸」さん、3位の「日向野」さんと言う苗字は、苗字の全国ランキングでは共に3千番代と少なく、全国的な苗字では有りません。ただ都道府県の分布的には栃木県が一番多くなっています。その栃木県内であって、栃木市が一番多く、更に箱森町が栃木市内でも一番多く集まっている苗字なのです。
まさに箱森町の苗字と言っても過言では有りません。
昭和60年版のゼンリン住宅地図を基に、箱森町における主要苗字の分布状態を図にしました。
箱森町における主要家名分布図(縮小版).jpg
先に記したデーターは2016年版の住宅地図に依る為、数値的に多少の差異が有りますが、その傾向性は殆ど変っていません。
分布図を見ると緑色のプロットがまず目につきますが、これが「森戸」さんです。
箱森地内には幾筋かの川の流れが有りますが、東の境に沿って流れてるのが「巴波川」で、現在大町や小平町との境界を成しています。その西側に見えるのが「荒川」、そして旧赤津川の蛇行している河道が見えます。この旧赤津川沿いに多くの緑色の点が分布しています。そしてその西側の十二社神社の周りにも緑色の点が見えます。更にそこから南方向に目を向けると、鷲宮神社の南側、悪五郎堂の周辺にも緑色の点が集中しているのが確認出来ます。
箱森町の悪五郎堂(神社)に関しては、今年の7月20日のこのブログで紹介していますが、森戸家の先祖と言われる長沼宗光の隨神仏と云われる阿弥陀仏と観音の二体を安置、又悪五郎の霊をも合祀していたもので、元は鷲宮神社境内内に建てられていましたが、明治維新の神仏分離に伴い、数回場所を変え現在の地に納まりました。悪五郎堂の屋根の鬼瓦には、森戸家の家紋と同じ「丸に橘」の紋が付いています。
悪五郎堂鬼瓦.jpg
(箱森町の悪五郎堂の屋根の鬼瓦に付けられた「丸に橘」紋)
第2位となった「稲葉」さんは、弦巻神社の西側の字御辺北西部に集中しています。又、第3位の「日向野」さんは鷲宮神社の北東側、館野川の南側から清水川の右岸に集中して分布している事が分かります。
私が一番興味を持っている苗字が、第4位の「長江」さんです。館野川の源流となるかつての字舘野や鷲宮神社の直ぐ西側の字御辺に集中しています。
字舘野の地は、北側に大沼が有り西側は大沼から流出した水の流れが反時計回りに大きく円弧を描いて、南側の舘沼に繋がり、まるで堀割の役目を担っている様です。そしてこの三方を守られた内側が字舘野で、かつては「箱森城(舘野城)」が有ったと所に成ります。そしてまさにこの場所に「長江」さんが沢山住んでおられます。現在その中央部付近に、石の鳥居を建てた小さな神社が祀られています。社殿前に建てられた新築記念の石碑には「長江八幡宮」と刻されています。
長江八幡宮1.jpg長江八幡宮2.jpg
(箱森地内、かつての字舘野の中ほどに祀られている「長江八幡宮」)
そして、字御辺もかつての館跡で弦巻神社や鷲宮神社が祀られ、この地域の中心地的存在の場所でした。こうした場所に居を構えていた「長江」一族は、やはり特別な存在で有ったのではと考えられます。
弦巻神社.jpg箱森鷲宮神社.jpg
(弦巻神社参道入口の鳥居、奥小丘上に石の祠有り)(箱森・鷲宮神社)
それでは箱森五家の残りの一つは何家なのか。箱森地内で6番目に当たるのが、「田村」さんで18軒程確認されます。十二社神社周辺と鷲宮神社周辺にまとまって見えます。ただ「田村」さんと言う苗字は全国ランキングでも56位で、栃木市内でも樋ノ口町や城内町方面に多く確認される苗字に成り、箱森町との特異な関連性は確認出来ません。

次に住宅地図では無く、電話帳から苗字と箱森町との関連性について調べてみました。電話帳の方が同じ苗字が並んでいる為集計は意外とスムースに出来ました。但し最近は携帯電話やプライバシー保護の高まりで、電話帳への掲載が減少している為、今回調べた電話帳は2003~2004年版で、個人欄に出ているデーターを集計しています。
結果は、住所が箱森町の電話番号の軒数の多い順に、下表の様になりました。
電話帳掲載軒数1.jpg
(電話帳にて箱森町の掲載軒数が10軒以上確認出来た苗字一覧)

この電話帳からの調査結果でも、「森戸」さんの苗字は箱森町に集中している事が明瞭です。市内に160軒の「森戸」さんの内、43.13%となる69軒が箱森町に有ります。第二位は箱森町の北隣りに位置する川原田町で17軒です。
第2位は「日向野」さん、栃木市内130軒の23.85%31軒、そして南隣りの薗部町に9軒確認されました。
第3位の「長江」さんは更に特異な状況で、栃木市内に32軒しか無いのに、その81.25%の26軒が箱森町に住んでいます。
長江さんの苗字について、これまで私は勝手な想像を描いていました。それは会津田島に所替えののち、下野国都賀郡に来た時に会津から同行した家臣の一部が故郷長江郷の地名を名乗ったのではと。しかし最近色々文献を調べてる中で、「栃木の苗字と家紋・下巻」(遲澤俊郎著・発行下野新聞社)の中に、「長江」姓に関する記事が掲載されていました。それによると、≪その家系を記述すると、初代義景は桓武平氏の流れを引く鎌倉権五郎景政の孫に当たり、摂津国西成郡長江庄に居住したため、長江太郎と称した。(中略)、十二代目の長江七郎景綱が箱森長江氏の初代である。二歳の時、父景平を河内国金剛山で亡くしたが、母方の実家長沼氏に養育され、長沼氏の一族筥村氏の領する箱森の地に貞和三年(1347)17歳の時に居住したと記録されている。その子孫は長く皆川氏に仕えたという。≫と、記されていました。
第4位「鈴木」さんは、箱森町に22軒有りますが、栃木市内に336軒も有るので、その比率は6.55%で箱森町との特異性は感じられません。
一方、第5位の「稲葉」さんは、同じく箱森町22軒ですが、栃木市内の軒数が75軒と少ない為比率的には29.33%と高くなっています。
電話帳での調査結果でも、箱森五家の内「森戸」「日向野」「長江」「稲葉」の四つの苗字は、箱森町との強い関連性が確認出来ました。が、やはり残りの一つがハッキリ出来ません。

困った時は、現場確認です。箱森町のかつての中心はやはり「鷲宮神社」の祀られている、字御辺周辺です。鎌倉時代後期の正慶2年(1333)の頃、遁世した第七代長沼城主長沼宗光(俗称悪五郎)が皆川庄筥森に移り、如来堂(後の松樹院)を建て、念仏三昧に暮らしたと伝えられる所。その近くに有る地域の墓地を調べてみました。
鷲宮神社東隣の墓地.jpg
(鷲宮神社境内の東隣りにの墓地、奥に見える瓦葺きの屋根が鷲宮神社拝殿)
墓地内には高さ3メートル程の大きな墓標が沢山建てられています。そのほとんどが「箱森の五家」に当たる苗字が大書されたものです。
「森戸家累世之墓」「日向野本家累世之墓」「稲葉家累代之墓」「長江家歴代之神靈」これら四家の苗字の他にも「小川家累世之墓」や「荒井家累世之墓」も目に留まりました。
他には箱森町地場産業の一つ瓦製造業の「幸田家」や「神谷家」などの名前も見られました。
もう一つ余談に成りますが、私が以前に錦着山(別名箱森山)の山内に建つ石碑に付いてこのブログの中で紹介をしていますが、その中で「錦着山護国神社」の境内の片隅に建つ1基の石碑に、明治10年西南の役にて戦没された「田村半次」さんの碑が有りましたが、その「田村半次」さんのお墓がこちらの墓地に祀られておりました。
田村半次之碑.jpg田村半次之墓.jpg
(錦着山護国神社境内に建つ「田村半次之碑」)(字御辺の墓地に眠る「田村半次之墓」)
ちなみに電話帳調査による「田村」さんは第6位で箱森町内に18軒有りますが、栃木市内183軒の分布では、樋ノ口町22軒で、箱森町は2番目に成っています。

箱森の五家の残り一つの苗字は「小川」さんだと云う話が有ります。また「荒井」さんだと言う人も。
電話帳調査では、「小川」さんは箱森町内に7軒、栃木市内には87軒見られますから比率は8.05%です。
「小川」さんに関しては、「栃木郷土史」(栃木郷土史編纂委員会著)の、第二章皆川氏の進出と土豪の分解過程の「箱森村」の中に、≪土着勢力の一翼をなしたものに、小川伊兵衛があったが、同家は、家臣団に編入される前帰農してしまった。やはり、大沼東南方に小川八幡神社があったことが、古記録に見えている。≫と、かつては土着土豪の一つであった事が記されています。
又、「荒井」さんは6軒、ただ市内には33軒と少ない為比率は18.18%と高く、市内では箱森町が一番多くなっています。

栃木市史資料編近世(栃木市発行)第一章領地と支配の中に、「元禄17年(1704)2月、慈眼山金剛寺諸堂修復勧化牒」と言う資料が掲載されています。その中に「皆川先祖譜代家臣次第不同」が有りその内「箱森村」には先の氏族の先祖と考えられる名前が17名記されています。内訳は「日向野」さんが4名、「森戸」さんが2名、「小川」さんが3名、「稲葉」さんが2名、「荒井」さんが2名、「田村」さんが1名、そしてこれまで出ていなかった「膝付」さんが2名、「大根田」さんが1名となっていました。ちなみにこの時の箱森村の名主として「日向野安右衛門」の名前が記されています。
現状、ここまでしか手元情報が有りません。五家を確定する為には、もっと地元の人達から話を聞くしか有りません。
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