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マンホールカードを求めて山梨県へ [マンホールカード]

先月の7月6日に埼玉県所沢市のマンホールカードを貰いに行ってきた結果、栃木県に隣接する県(福島・茨城・群馬・埼玉)のマンホールカードを全て入手しました。少し集中して集めて回ったので、暫らく収集活動を休んでいました。
8月に入って、マンホールカードも第5弾52種が新たにお目見え致しましたが、その中には残念ながら栃木県内の名前は有りませんでした。近県では福島県が「いわき市」「二本松市」「桑折町」の3枚、茨城県は「鹿嶋市」の1枚、群馬県も「流域下水道(玉村町)」の1枚、埼玉県は「上尾市」と「吉川市」の2枚がこの第5弾で追加されましたが、それぞれが離れていて、1日2ヶ所以上を訪れるのは少し厳しそうです。
8月のお盆休みの間、家族が揃った所で皆でドライブに行くついでにマンホールカードをゲットしようと言うこととなりました。そこで少し効率よく廻れるルートを検討した結果、思い切って高速道路を活用して、チョッと遠方に成りますが、山梨県から長野県へのルートで、5ヶ所を廻るプランを作成、実行に移しました。
最初は、東北道から圏央道そして中央道と乗り継いで、山梨県中央市の王穂庁舎に行き、最初の1枚をゲットしました。初めてのオレンジ色のカードです。(マンホールカードは北海道、東北、関東と言った地区ごとにカードの色を統一してあります。ちなみに関東地区は青色、東北地区は緑色です。)
中央市王穂庁舎.jpg中央市.jpg
(山梨県中央市王穂庁舎)                (中央市のマンホールカード)
次は山梨県甲斐市へ向かいます。この間は9キロメートル弱の距離、一般道を走って移動します。
一般道を走る魅力は途中でその土地土地のマンホールを発見する事です。
次の配布所までの間、6種類のマンホール蓋を写真に収めました。どのマンホール蓋のデザインもとても魅力的な図柄です。その一つ一つにその地域のシンボルを描いています。
中央市玉穂.jpg中央市1.jpg中央市2.jpg
昭和町.jpg甲斐市1(山梨県).jpg甲斐市竜王.jpg
雨が降ったり止んだりの天候だったので、マンホール蓋も濡れていて図柄が不明瞭の物も有ります。
次の目的地は山梨県甲斐市の竜王庁舎です。
甲斐市竜王庁舎.jpg甲斐市.jpg
(山梨県甲斐市竜王庁舎)                  (甲斐市のマンホールカード)
最初の中央市と同様にここ甲斐市においても、マンホールカードを配布する窓口で、アンケートへの記載が有り、何処から来たのかとか年齢などですが。名簿式に記入するものを見ると、その日だけでも結構な人が収集に訪れている事が分かります。茨城県や東京都など、私たち同様遠方から来ていました。

次は長野県諏訪市です。その間距離は約65キロメートル。ここは中央道に乗って移動しました。出来れば一般道を利用したいのですが、移動時間節約の為仕方ありません。
諏訪市流域下水道庁舎.jpg諏訪市流域下水道.jpg
(長野県諏訪湖流域下水道事務所)         (長野県流域下水道マンホールカード)
下水道事務所の正門入口脇に綺麗なカラーデザインのマンホール蓋が設置されていました。ありがたく写真に収めて来ました。
茅野市.jpg長野県岡谷市汚水3.jpg長野県下諏訪市.jpg
長野県原村.jpg長野県諏訪市.jpg長野県富士見町1.jpg
これらのマンホール蓋のデザインは草花をモチーフにした図柄で、着色されていると、とてもマンホールの蓋とは思えない程カラフルで綺麗な物ばかりです。

次の目的地は長野県安曇野市です。この間は42キロメートルの距離が有るので、長野自動車道を利用して移動をしました。
安曇野市の配布所は「アクアピア安曇野」です。
アクピア安曇野.jpg安曇野市流域下水道.jpg
(アクアピア安曇野)                 (長野県流域下水道のマンホールカード)
配布所では良く他の収集者と思われる人とすれ違います。この安曇野でも小さな子供を連れた家族連れが後から入って来ました。みんなこの休みを利用して収集している様です。普段働いている人達は、平日しか配布をしていないカードをゲットする事は難しいですから、お役所関係は休みにならないお盆休みの期間はねらい目かも知れません。
安曇野市犀川3.jpg安曇野市穂高1.jpg安曇野市豊科1.jpg
安曇野市周辺でも3種類のマンホール蓋を写真に収めました。

マンホールカードだけを要領よくゲットして回ろうと計画していましたが、車を走らせて途中デザインの異なるマンホール蓋を見付けると、つい寄り道をしてしまう為、大きく時間をロスしてしまいました。
計画ではこの後上信越自動車道を走って長野市へ行き、善光寺を参拝し更にその先の飯山市のマンホールカードをゲットする予定でしたが、時間的にこの先に進むのは無理そうなので、更埴ジャンクションで群馬方面へルートを変更し、家路を急ぎました。13時間のマンホールカード収集ドライブでした。
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延長堀を探る [栃木市の河川と橋]

今日は、暑くなる前に都賀町平川から大宮町に灌漑用水を送っていた「延長堀」を自転車に乗って探って来ました。朝日はまだ厚い雲に遮られ、自転車を走らせると爽やかな空気が肌を撫でて行きます。
平柳郵便局の角で宇都宮街道から分かれて北方向へ。東武宇都宮線野州平川駅の東側で踏切を渡ります。
野州平川駅1.jpg野州平川駅2.jpg
(東武宇都宮線野州平川駅)
前から栃木市街地を流れる川に架けられた橋の名前に興味を持って、休日を利用しては市内の橋を探し求めていました。その手助けと成ったものは「ゼンリン住宅地図」。そこで県道2号線(宇都宮街道)の「印役」付近に三ヶ所、橋の名前を見付けました。「国宮橋」と「羽黒橋」そして旧道筋に「二ツ木橋」です。
国宮橋.jpg羽黒橋.jpg
(県道2号線に架かる橋、「国宮橋」と「羽黒橋」。ゼンリン住宅地図抜粋、個人情報は削除)
県道2号線は道路拡張工事の為、昔の場所に現在橋の名残りは有りません。確かに良く見ると道路の左右に水路らしきものを見つける事が出来ますが、普通に道路を走っていると全く気付きません。
私が1980年に撮影した時には「国宮橋」の以前の親柱が残っていましたが、「羽黒橋」「二ツ木橋」は橋の名前を確認するものは有りませんでした。
国宮橋1.jpg国宮橋2.jpg
(旧「国宮橋」の親柱。1980年撮影)   (国宮橋が架かっていた辺りの最近の様子)
二ッ木橋1.jpg二ッ木橋2.jpg
(最近の「二ツ木橋」付近、建物は「印役公民館」)(1980年当時の「二ツ木橋」付近)
もう1ヶ所の「羽黒橋」の場所は、「萱場地蔵尊」近くに有りましたが、以前の様子も写真に残っていません。「延長堀」の文字はその「羽黒橋」の下流部分に記されていました。
「延長堀」に関する資料はこれまで見つける事が出来ていません。ですからこの「延長堀」の文字をどのように呼ぶのかも自信が有りません。「のぶながぼり」と言うのか、「えんちょうぼり」と言うのか。
「栃木市史」史料編・近現代Ⅱの中に旧国府村の江戸時代の開田の記事が掲載されている中に、≪円長沼:大塚地内にあり、開田1町余歩≫n文字を確認しました。「円長沼」と「延長堀」違うものかもしれませんが何か関係が有る様な。
その様な疑問だらけの「延長堀」。それらしき所をグーグル地図で確認して、いざ現地確認に出掛けました。
今回巡った場所を国土地理院の地形図を基に概略図を作成しました。
延長堀の流れ.jpg
(栃木市大宮町、野州平川駅周辺の概略図)
都賀町平川公民館付近1.jpg
(大宮町北隣り、都賀町平川の公民館付近に有る池)
最初に確認した所は、都賀町平川公民館付近、近くに火の見櫓と消防小屋、そして薬師堂に厳島神社が周囲を道路に囲まれた一角にあり、その横に弁天池と思われる小さな池、中之島の木々が水面に移り、チョッとした趣を醸し出しています。現在の池とは違う「弁天沼」が実際に有ったそうです、≪池には清水が湧出していて魚も沢山いて、岸には桜の大樹が三本あり春は見事な花で村人の憩いの場所だった≫と、厳島神社の説明板に記されています。昭和35年(1960)頃道路拡幅によって埋められたと有りました。
都賀町平川公民館付近2.jpg
(平川公民館の西側を北西方向から流れてくる水路。左奥の森が羽黒神社)
公民館の南側から北西方向に、幅2~3メートル程の水路が伸びています。水路の両岸には水田が広がりその向こうに大きな森が有ります。旧平川村の村社「羽黒神社」が祀られています。
羽黒神社1.jpg羽黒神社2.jpg
(羽黒神社正面鳥居と社殿)    (神社境内の東脇を流れる水路に御手洗場か?)
この羽黒神社の東を流れる水路の下流、県道2号線(宇都宮街道)に架かっていた「羽黒橋」の橋名はこの神社の名前を採ったものでは無いかと、私が勝手に考えています。
この水路の上流を辿って行くと、栃木ミツカンの工場西側から更に北に遡ります。その先は都賀町東部を潤した「桑原用水」に繋がっており、最終的には思川の取水点にたどり着く様です。
今回は上流の探索はここまでとして、ここから下流に向かいます。
分岐に建つ石碑1.jpg分岐の道標.jpg
(野州平川駅から北上して来た道の分岐点に建つ石碑)(石碑の脇に立てられている道標)
水路に沿って道を戻り、野州平川駅から北上して所に有った分岐点へ。分岐に古い石塔が建てられています。石の表面に刻された文字は風化が激しくハッキリ確認出来ません。台座部分には「大字平川」と刻されています。その脇に建つ案内板にはY字路の右方向は「栃木市大塚町」、左方向「都賀町合戦場・鹿沼街道」、Y字の上に「平川」と記されています。この分岐から少し南側に羽黒神社脇を流れて来た水路が北西から南東に流れ、この水路を境に左岸(北側)が「都賀町平川」、右岸(南側)は「大宮町」と成ります。
そしてこの場所に架かる橋の下流側で水路は分岐して真直ぐ南東方向に向かう主流は「古河産機システムズ(株)栃木工場」の北側から東側へ回り込む様に流れて、東武宇都宮線の下を抜け「萱場地蔵尊」の元に向かっています。
一方分岐を南方向に流れる水路は東武宇都宮線の下を抜け、「日本コークス工業」の西側を南流、国宮橋の元に向かっています。
涸沼1.jpg
(古河産機システムズの工場北側、グーグルマップに小さな池が描かれた場所)
次に訪れた所は、グーグルマップに池らしく見えた場所です。その場所は住宅地の奥に有りましたが、そこは柵で囲われていて、窪地と成っていますが水は無く、夏草が生い茂って鬱蒼としていました。私の予想としてはこの場所が「延長堀」の源流となる湧水地ではないかと予想していた所ですが?枯れていました。
萱場地蔵尊1.jpg
(県道2号線の北脇に祀られている、萱場地蔵尊)
萱場地蔵尊2.jpg
(萱場地蔵尊の北側で確認した水路には、水が音を発てて流れています)
萱場地蔵尊の場所には水路は有りません。その裏手(北側)で水路の水は暗渠と成って地蔵尊の下を流れている様で、その先は県道を越えた南側、大山整形外科の脇で水路と成って姿を現し、その先の住宅街の中へ消えています。
四季の森へ.jpg
(大山整形外科の南側で水路はほぼ直角に曲がって、東方向「四季の森」の住宅地へ)
四季の森西側.jpg
(四季の森住宅地の西側で再び方向を直角に変え、南へ真直ぐと流れる水路)
大山整形外科さんの南側に広がる水田地帯は平成十六年以降すすめられた土地改良事業の竣工によって、その地を流れる水路も大きく姿を変えました。田圃の中を一直線に走る水路に昔の水路の面影を探すことは不可能な様です。
昔有った「羽黒橋」の下を流れた「延長堀」の水はそのルートを変えはしましたが、国府地区と大宮北地区の田んぼの中を今も流れています。
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満福寺用水跡(栃木市)を探る [栃木市の河川と橋]

江戸時代の宝暦九年(1759)卯三月の日付が記された「栃木町絵図」を撮影した写真が、栃木市史資料編近世の巻頭口絵に掲載されています。見開きで2ページに渡る写真、上側が西の方向に、従って右側が北に成ります。栃木町の中央を貫通する往還(日光例幣使街道)が写真中央を一本横に走っています。
街道を挟んで間口が狭く奥行きの長い、短冊状の屋敷割が町の北の端から南の端までぎっしりと並んでいます。言葉だけでは上手く説明できないので、宝暦九年の栃木町絵図を基に簡略化した模式図を描いて見ましたので、併せて見て下さい。
宝暦九年栃木町絵図を基にした概略模式図.jpg
写真の右端中央に「北」の文字が記されています。この所は栃木町の北の出入り口となっており、木戸が設けられていました。その木戸の外側に小さな橋が描かれています。その脇に「萬榮橋」と書かれています。栃木町北側の平柳新地との境を流れる堀割に架けられた石橋の名称と思われます。
文化二年(1805)二月に記された「栃木町明細書上帳」に依れば、≪上町入口 一、石橋壱ヶ所 但し川巾七尺(約2メートル)、長サ一間余(約1.8メートル)横巾九尺(約2.7メートル)と記されています。
この堀割は栃木町の北側にその当時有った「大ぬかり沼」から流れ出た用水堀で、栃木町北西部(現在の櫻井家裏手の水門の有る所)にて流れは3方向に分岐した流れのひとつです。
水路の分岐1.jpg萬福寺用水1.jpg
(栃木町の北の端櫻井家裏手の水門)(分岐した流れの一つは櫻井家北側を東に向かう)
栃木町北の木戸外にて往還に架かる石橋の下を流れ、東側の街並みの裏手で流れを南に変えるこの堀割は「満福寺用水」と呼ばれました。
今日はこの「満福寺用水」の跡を、絵図に描かれたルートを辿って、その名残を見付けて来ました。
萬福寺用水2.jpg萬福寺用水3.jpg
(元の上町東裏通り、用水堀の形跡無し)(近龍寺山門前付近、この道路沿いを南流していた)
近龍寺山門前、石畳の道路西側部分に沿って、チョッと気になる2本の平行の切り込みが付けられています。この部分に以前水路が有ったのではと勝手に考えています。
萬福寺用水4.jpg萬福寺用水5.jpg
(元の中町東裏通り、手前マンホールの下は)(旭町大場医院の西側付近)
神明宮の参道を過ぎて南に来ると、石畳は無くなり普通のアスファルトの道路に変わっています。ここでも道路の西側に沿ってマンホールが続いて確認出来ます。このマンホールの列が途中から道路の東側に移り、旭町大場医院付近を南に続いています。
萬福寺用水6.jpg萬福寺用水7.jpg
(中央の石畳部分は、元東銀座通りと呼ばれた道)(縞鋼板の蓋の下が用水堀の名残りか)
大場医院の南側の石畳道路(元東銀座通りと呼ばれていた)の先には道路が無く、ただ家と家との間には縞鋼板を並べて蓋をした空間が伸びています。この縞鋼板の蓋を並べた路地の様な空間はその後方向を東に変えて、東側の道路に出るとそこで再び流れを南に変えて、南側に有る定願寺裏の墓地の中に真直ぐ伸びています。
萬福寺用水9.jpg萬福寺用水14.jpg
(定願寺裏手墓地内を北から南の鉄製の扉へ、マンホールを設置したコンクリート道が伸びる)
定願寺裏手墓地の中に北側の鋼鉄製の門扉から南側の門扉まで、マンホール蓋が設置されたコンクリート製の通路が伸びています。この所が以前の用水堀の跡と考えられます。
宝暦九年の栃木町絵図では用水堀はこの定願寺敷地内で切れています。この先はどうなっているか探りました。
萬福寺用水8.jpg萬福寺用水10.jpg
(定願寺南側道路に、墓地南側の鋼鉄製門扉から続く水路)(更に南側の住宅地の中へ)
定願寺墓地内を縦貫したマンホールを設置したコンクリート製の通路は、鋼鉄製の門扉の外側も同じように南に向かって続き、又、南側の住宅街の間へ伸びています。更にその先へ回り込んでみます。
萬福寺用水12.jpg
(マンホールを設置したコンクリート製の通路は、その南側を流れる巴波川へ伸びています)
萬福寺用水13.jpg
(巴波川左岸に見つけた万福寺用水の落ち口。奥に見える橋は「新橋」です)

宝暦九年の絵図に描かれた「満福寺用水」は暗渠化され、又一部は鋼板の蓋で覆われているものの、その絵図に描かれたルートの通りに現在も残っておりました。

しかし、今回辿ったルートは「満福寺用水」の全てなのか、これだけではむしろ「定願寺用水」と呼ばれるべきではとの、疑問が生まれます。もう一度元の絵図を確認しますが、栃木市史に掲載された写真では、東側がトリミングでカットされて分かりません。別の「栃木郷土史」と言う本の巻頭口絵に同様に宝暦九年の絵図と同時に天明七年の栃木町絵図もサイズが小さいですが掲載されていました。これらの絵図には「満福寺」の更に東側、現在の栃木文化会館北側で杢冷川に架かる「旭橋」の所まで確認する事が出来ます。
私が作製した模式図にはその部分まで描いていますが、それに依りますと神明社地の周辺や満福寺の南側には田んぼが広がっていて、そこの周辺縦横に水路が確認出来ます。
これらの水路の元を辿ると、近龍寺の北側で先の用水堀から東に分岐しているのが、天明七年の絵図にて確認出来ます。
こちらの、神明宮東側から満福寺周辺を廻って、水路の名残りや形跡を探しましたが、確認出来ませんでした。ただ現在栃木文化会館の北側から真直ぐ北にのびている道路沿いに、雨水を受ける暗渠化された水路を確認しました。これが昔の満福寺用水のもう一つのルートの跡か、更に確認が必要です。
萬福寺用水14.jpg
(近龍寺北東側の田村家東側の道路に設置された排水溝が南に続いています。)
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栃木市箱森町のこと [地図]

私が生まれ、そして現在に至るまで60年以上住んでいる「箱森町」。しかし、箱森町の事に関しては、殆んど分かっていません。最近に成って、自分が住む町にどのような歴史が有ったのか興味が湧いてきて、少しづつ調べ始めています。
私はこの町で生まれましたが、私の父は入舟町で生まれています。そして私の祖父は大皆川村で生まれています。ですから私の家には箱森町に関する情報は何も残っていません。

まずは現在の箱森町について確認をしたいと思います。
箱森町概略図.jpg
上の図は現在の箱森町のエリアーを概略図に表わしたものです。
北側は川原田町と野中町、西側は新井町と泉川町、南側は薗部町の一丁目と3丁目そして柳橋町に接しています。南東の端で入舟町と僅かに接しています。そして東側は錦町と小平町そして大町とに接しています。
大町との境界は概ね巴波川の流れに沿っています。西側は昔、風野村の集落中央を南北に走る道路を境に東側は箱森、西側を新井と泉川とに分かれました。現在、道路の西側に沿って暗渠化された水路が南の錦着山方向に伸びています。
風野町.jpg
(元風野町の通りを北側から錦着山方向を望む。道路西側に暗渠化された用水路)
「風野堀」と呼ばれる用水堀で、錦着山の東側に架かる「錦橋」の下を流れ、カッパ寿司さんの西側に残る石橋アーチ橋の「八雲橋」の下流で、錦着山の南側を西から流れて来た「東郷堀」と合流して南隣りの薗部町1丁目と3丁目の境として南に伸びています。
2013年風野堀(錦着山より).jpg
(錦着山上より北方向を撮影。写真中央に「風野堀」、右半分「箱森」左「泉川」と成ります)
箱森町の中央部を「栃木環状線」が通り、東端には「栃木粟野線、南側に「栃木佐野線」そして中央を北西側栃木インター方面に伸びる「栃木粕尾線」の県道が通っています。
外環道西.jpg
(栃木外環道の箱森町歩道橋上から南西方向を撮影。太平山を正面に望む)
外環道東.jpg
(栃木外環道の箱森町歩道橋上から北東方向を撮影。イオンやコジマの看板)

箱森町の現在の人口は、5,448人(2017年7月31日現在)ですが、この人数は旧栃木市ないの町内では、大宮町の6,923人に次いで2番目に多い町内と成っています。次いで平柳町(4,899人)、片柳町(4,703人)、薗部町(3,866人)と続いています。ここで、薗部町や片柳町などは町内が更に区割りされ、一丁目・二丁目・三丁目などに分かれています。その為、薗部町一丁目は栃木女子高から錦着山にかけての一画、四丁目は永野川の西側から太平山遊覧道路に至る一画と広い薗部町の中で、どの辺りか範囲を狭める事が出来ます。片柳町も同様で一丁目から五丁目と五つの区域に分割されています。
箱森町の場合、そのような分割が有りませんから、住居表示の何番何号で位置を調べますが、番号表示も1番から53番まで有る為、番号を言われても箱森町のどの辺りに成るか、全く見当が付きません。
ちなみに1番は「特別養護老人ホーム」辺りで、「錦着山」は8番に成ります。「イオン栃木店」辺りが37番です。箱森町の北東隅となる「アップル薬局はこのもり店」が53番でした。
私が子供の頃に住んでいた所は、箱森一丁目と成っていました。国土地理院昭和40年3月30日発行の2万5千分1地形図「栃木」には、箱森町の所に「一丁目」の文字の他、「東部」・「西部」の記載が確認出来ます。確かに私が子供の頃は、「箱一」とか「箱東」そして「箱西」という呼び方をしていました。
栃木市は栃木県で最初に、昭和38年8月1日付けにて、新住居表示への変更を実施しました。第一次として市街地中心を対象に実施しました。この時は箱森町は対象外でしたが、昭和45年3月1日の第二次で、箱森町も「〇番-〇号」へと変更が行われています。

ただ、現在も箱森町は自治会の名称として以前の様な、「箱森町一丁目自治会」とか「箱森町西部自治会」、「箱森町中央自治会」、「箱森町東部自治会」が使われています。以前の東部自治会は「中央」と「東部」に分かれています。
箱森一丁目 公民館.jpg箱森町中央公民館.jpg
(箱森町一丁目公民館)                (箱森町中央公民館)
箱西公民館.jpg箱森町東部公民館.jpg
(箱森町西部公民館)                 (箱森町東部公民館)

「箱森」と言う地名は何時ごろ現れたのでしょうか。詳しい事は分かりません。
集落の状況について私達が確認する手段としては、古地図の様なものが有ればと思いますが。この周辺の古地図は、宝暦9年(1759)の「栃木町絵図」、天明7年(1787)の同じく「栃木町絵図」、そして天保8年(1837)の「栃木町並栃木續新田村屋舗図面」、更に古い年代のものでは「天和」(1681~1683)の元号が記された「小平柳村」の絵図が確認されますが、残念ながら「箱森」を描いた絵図などは、まだ見た事が有りません。
私が見た事の有る「箱森村」の様子を記した最も古い地図は、明治に入ってからのもので、明治19年7月発行の迅速測図「栃木」2万分1です。
この地形図を見ると、明治初期の箱森村の集落の様子が細かく描かれています。最も人家が密集している地区は、現在「箱森町西部」の公民館の有る鷲宮神社の西側周辺、そして現在の「箱森町中央公民館」が建つ十二社神社の周辺、そしてもう一ヶ所は旧赤津川の東側(現在なかつぼクリニック)周辺に集落が形成されています。
鷲宮神社.jpg
(鷲宮神社の周辺は、明治の初期に箱森村で最も大きな集落が有りました。)
十二社神社.jpg
(十二社神社南側の細い道を進むと、箱森西部の舘野へ通じています。)
この内、鷲宮神社を中心にひらけた場所は、大正6年7月30日発行の2万5千分1地形図「栃木」には、「御邊」と言う地名が大きく記されています。「御邊」と言う地名は何を意味するものなのか、私はずっと以前から気に成っていました。それに対する情報が栃木市教育委員会が平成27年3月31日に発行した、「栃木市遺跡分布地図」と題した冊子の中に有りました。
そこには「舘野城・御辺館地籍図」が掲載されていて、横に解説文が載っています。
≪御辺館 : 栃木県教委1982では、鷲宮神社あたりを城郭推定地としているものの、現地に遺構は存在しない。地籍図調査においては、字御邊に水路で囲まれる四角い空間が見受けられ、ここを御辺城と想定したものと考えられる。≫
御辺.jpg
(写真右側が周囲を堀の様に囲まれた館跡の地。奥の林の様になっているのが古墳)
現地に行くと、鷲宮神社の裏手に今も周囲に濠の様な地形が残る少し回りより高くなった土地を見る事が出来ます。その土地の西側に沿った道を北に少し入った林の中に、小さな小丘が有りその上に小さな石の祠が祀られています。手前に一つ鳥居が建てられていますが、何という神社なのか。この件も先ほどの冊子に記載が有り、小丘は径21メートル、高さ3メートルの古墳で、遺跡の名前は「鶴巻古墳」と記されています。
≪円墳、墳頂部に神社有、明治期に刀出土、県風土記の丘資料館1987≫と備考欄に記されています。
弦巻神社1.jpg弦巻神社2.jpg
(御辺の館跡の脇の道を入ると鳥居が有り、その先の小丘上に祠が祀られています)

元々、この御辺を中心とした地域が、古墳が残り、館の址が残り、集落も大きく形成されている等から、箱森村の中心だったものと考えられます。先ほどの冊子にはもう一つ「御邊」の北側に「舘野城」と言う遺跡についても説明しています。
≪舘野城 : 栃木市教委1990では、御辺館の北西を舘野遺跡としている。地籍図調査では、字舘堅(やかた)に、水路で囲まれた楕円形の空間があり、城郭遺構であったと考えられる。現在遺構としては、地籍図上南側の幅のある堀が池となって残っている。≫と、記しています。
「舘野」に関しては8月2日に「箱森町内を流れる館野川について」と題して載せています。
箱森町舘野周辺地図.jpg文色分け道路の説明.jpg
(箱森町の昔からの中心とされる、「御辺」や「舘野」周辺の様子を概略図にしました)
箱森町に館や城が有ったとは、まったく知りませんでした。
尚、河合町にある熊野神社(開明橋の橋詰に祀られています)は、元箱森に有った熊野神社を分祠したものと云われていますが、私はその元の熊野神社を探して箱森町の中を捜し歩きました。町内には多くの屋敷神社が有りましたが、結局探し求めていた熊野神社は取り壊されて無くなっているという事でした。その熊野神社が有った場所と云われるのが、小野産業㈱栃木工場の西側、蕎麦店「山成」さん辺りだったようです。今も大きな木が一本残っています。
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栃木市吹上町の街中を貫流する水路 [栃木市の河川と橋]

栃木市吹上町に、西隣の大森町から流入して、街中を東に南に流れを変えながら、南隣りの野中町で赤津川に架かる長宮橋の直ぐ下流側右岸に落ちる、一筋の細い水路が有ります。
以前から市内の河川と橋とを巡っていて、この吹上町の水路も気に成っていました。
今日は台風一過の影響か、早朝から青空が広がり太陽が容赦なく照り付けています。日中にはこの夏一番の暑さになるとの予報で、行動するなら朝のうちにと決め、さっそく吹上町の水路に向かいました。
自転車を走らせ風を切ると、意外に気持ち良く感じます。早起きは三文の徳と言いますが、さっそく効果が出ました。水路の途中で出会った地元の方に声を掛けて、「この水路の事を地元の方は何と呼んでいまか?」と聞くと、「まぐさっ堀」と教えた頂けたのです。
これまで色々資料を探していたのですが、この水路の名前を記したものが見つかっていませんでしたから、貴重な情報を得ることが出来ました。
吹上町の水路「まぐさっ堀」の流れを概略図にしました。
「まぐさっ堀」は図の左上「サントリー」の工場の有る山間から流れ始め、仲方町から大森町を流れ、吹上町に流れ込んでいます。
まぐさっ堀22.jpg
(まぐさっ堀は概略図の左上「サントリー」から流れ、右下の野中町で赤津川に落ちています)
さっそく上流側から水路に沿って自転車を走らせましたので、写真で途中の風景を確認して行きます。
まぐさっ堀1.jpg
(まぐさっ堀の上流部も流れ。正面奥はサントリーの工場に成ります。)
この辺りの水路は古い護岸が残っています。近くに国土地理院の四等三角点「大森72.5m」が有ります。一方赤津川との合流点にも四等三角点「前原59.7m」が有りますから、「まぐさっ堀」は比高12.8mを流れ下っている事が分かります。
まぐさっ堀2.jpgまぐさっ堀3.jpg
(仲方町から大森町へ一直線に流れ)(水路脇の道がS字に曲り水路右岸に変わります。)
大森町はこの水路とほぼ平行に走る南側の県道栃木粕尾線との間を、平成以降土地区画整理事業を進め、碁盤の目の様に縦横直交する造成が行われ、新しい住宅地が出来上がって来ました。
水路沿いにも多くの新しい住宅が見られます。その為大森町の水路の護岸も新しくなってます。
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(途中、草むらの上空を沢山のトンボが朝日に羽をかがやかせて飛んでいました)
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(大森町の鹿島大明神の赤い鳥居の前を流れる)
鹿島大明神の鳥居は、平成27年にそれまでの鳥居が撤去され、現在の新しい鳥居に再建されました。
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(水路前方に吉野工業所の変電所が)  (水路北側山際の立派なお屋敷が)
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(前方山の中腹に吹上中学校)(水路脇の立て看板に「吹上中生徒のトレーニングコース」と)
表通りから路地に入ると住宅地の裏を流れ、木々が生い茂っている為か水路の北側には苔生した土地が広がっています。水路も夏草に覆われています。水路の脇に立てられた看板には、≪この道路は吹上中生徒の、トレーニングコースです。自動車の乗り入れは、ご遠慮願います≫と記されています。今朝も水路沿いで男の子が一人でランニングをしていました。私の脇を抜ける時「おはようございます」と挨拶をしてくれました。
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(住吉神社は吹上町の鎮守) (元吹上城の長屋門)
住吉神社は旧吹上村の中心地、神社参道入口の西隣りには当時吹上村の役場が有りました。現在もその名残が幾つか残っております。道路脇に役場入口の石柱が建っています。右側の石柱には≪栃木縣下都賀郡≫左側の石柱には≪吹上村役場≫と刻されています。この場所から南に向かう道路に進みます。
道路左手に趣きある長屋門が建っています。元吹上城の長屋門跡と云われています。
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(専福寺)         (専福寺の裏手を西から東に流れる。水路脇の石仏)
少し南に自転車を走らせると道路右手に大きな屋根が目に入ります。浄土宗の寺院「天神山専福寺」の本堂です。境内東側の塀際に多くの石仏が並べて祀られています。このお寺は都賀三十三薬師霊場5番札所と成っていました。水路はこの寺院裏手(北側)を西から真直ぐ東へ流れています。お寺の北西部に小さな橋が有り、橋詰に一基、享保4年(1719)と刻された青面金剛像を刻した石仏が祀られています。今から298年も前に建てられたものです。
横に架かる橋は、高欄など無いただの桁橋ですが橋桁側面に橋名が刻されています。
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(橋桁に刻された「横宿橋」の文字)(水路には綺麗な水が流れていました)
風化が進んでいる為ハッキリと分かりませんが、右から左へ「横宿橋」と辛うじて読む事が出来ます。水路には綺麗に澄んだ水が流れ、緑色の水草が流れになびいています。
水路はその先で住宅を迂回するように回り込み、その先で南に向きを変えています。
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(橋桁に刻された「新屋敷橋」の文字)(「新屋敷橋」の下流側、南に向かって流れる)
お寺の脇の道を南に進むと、東西に走る道路に突き当たります。左に折れて行くと、南流する水路に架かる橋に出ます。こちらの橋も先ほどの橋同様に橋桁の横に橋名が刻されています。「新屋敷橋」と有ります。こちらの方がハッキリと読む事が出来ました。
「新屋敷」も先ほどの「横宿」も橋が架けられた場所の小字に成っています。
「新屋敷橋」の下を抜けると、水路は南に向かっています。
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(前方奥に太平の山並み、その手前に東北自動車道を望む)
水路を探して自転車を走らせると野中町の長宮神社が祀られている米山の西方で水路を跨ぐ田んぼの中を進む道路の入口の橋を見付けました。橋の上から南西に向かう道路の先に、東北自動車道そして太平の山並みが望めます。水路は真直ぐ南の方向、東北自動車道の方向に伸びています。
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(写真右手に見えるのが東北自動車道、中央奥の森の様にこんもりした小高い山の南側中腹に野中町の長宮神社が祀られています。)
東北自動車道の側道近くで水路は直角に向きを東に変えています。そしてそのまま東に進み高速道路の下を潜って東側を南流する赤津川に合流します。
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(赤津川、手前右側に合流する「まぐさっ堀」、長宮橋より撮影)
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(仲方町から大森町・吹上町を流れた水はここで赤津川に落ちています。)
ここで吹上町を流れる「まぐさっ堀」のルートを探るのは終わりですが、まだ一つ疑問が残っています。
この合流点の赤津川は、昭和26年に完成をした分水路で、それ以前の赤津川はここより上流点で東の方向に蛇行して流れて行ってしまいます。
「まぐさっ堀」はそれより以前に有りました。明治17年に発行された迅速測図には吹上村の中を流れる水路が描かれています。しかし新屋敷以南の流れがハッキリと確認出来ません。水路は何処へ流れていたのか、まだ見つけられていません。

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百八燈流し(栃木市巴波川) [祭]

今日、8月6日は栃木市夏の風物詩「巴波川、百八燈流し」が行われました。
昼間は久々にうだる様な暑さが戻り、我家はまるで蒸し風呂状態、夕方には家の中より外に出た方が、風も有って気持ち良く感じる様になって来たので、歩いて百八燈流しが行われる、巴波川の幸来橋に向かいました。東の空には丸い月が顔を出していました。
幸来橋の袂に到着した頃には、巴波川の川面に幾つもの燈籠がほのかな光を発して流れています。
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川の両岸には御神船が来るのを待つ人達が、思い思いの場所を見付けて、その時を待っています。
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私も人垣の合間を見付け待つ事に。御神船が来るまで、川面を流れて行く燈籠のほのかな光のあとを目で追います。多くの燈籠が風の影響で、川の左岸寄りに流れて行きます。
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ただ一燈だけで流れるもの、三燈四燈とまとまって流れるものなど。燈籠には奉納した人の願いが書かれています。
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静に流れる燈籠を眺めている内に、下流側から待ちかねた御神船が川を遡って来ました。
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私の目の前を通過した御神船は幸来橋の直ぐ下で停泊、上流から神様が乗った小舟を待ちます。
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神様をお迎えした後、神主さんの指示に従い会場にいる人達と共に御神事が執り行われました。
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御神事を終えた後、御神船は又川を下って行きますが、この時を待っていた様に川岸の人だかりの中から、「こちらに下さい!」「こっちに投げて!」「お願いします!」などの掛け声が飛び交い始めました。
それに応じて御神船から、それまで船べりに立てられ火を燈していたロウソクが船上から岸に向かって投げられます。お産をする家ではこのロウソクに火を燈すと、ロウソクが燃え尽きるまでに赤ちゃんが生まれると言われ、出来るだけ短いロウソクを競って取っていたと、昔から言われています。
私は、そんなやり取りを後にして、大通りで行われている踊りの会場に移動しました。
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箱森町内を流れる館野川(栃木市)について [栃木市の河川と橋]

私の家の脇を流れる清水川に「中乃橋」と称する小さなコンクリート橋が架かっています。現在の橋は昭和5年6月の架設と、その親柱に刻されております。この「中乃橋」の直ぐ上流側右岸部に合流する水路が有ります。この水路が「館野川」に成ります。
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(清水川に架かる「中乃橋」、右手の水路が「館野川」の落ち口)(中乃橋の親柱)

「館野川」の川幅は「清水川」と同じようで、見た目で2メートル程で、現在はどちらもコンクリート製の水路と成っています。特に「館野川」の下流部はその流れがクランク状に成っていて、水路の脇の道も狭かった為、時々自動車が脱輪するトラブルが起こっていた為、現在は暗渠化され水路の上も車が通行できるように改修されました。
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(「く」の字に見えるのは暗渠化された館野川)
中流域もここ数年でコンクリート製の水路に改修されています。
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(コンクリート製の水路に改修された、館野川の中流域)
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(改修前の館野川、2014年1月撮影)     (改修後の館野川、2015年2月撮影)
ただ上流域はまだ未改修で夏のこの時期は雑草が生い茂る昔のままの川の姿を留めています。それもあと数年中には全てコンクリート製の水路に変わるものと思われます。
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(栃木環状線下流部の館野川、夏草が生い茂る。2017年7月撮影)
元々この「館野川」の水源は、箱森町の北西部、現在の「セレモニーフラワーホールつかさ」さんの付近に有った、「大沼」の出水でした。明治17年発行の「迅速測図・栃木」の地形図には、その大沼がハッキリと描かれ、そこから流れ出した水の流れが一筋確認する事が出来ます。現在も迅速測図に描かれた川の流れに相当する水路の面影を確認することが出来ます。それが現在の「館野川」と呼ばれるもので、その名前の由来は大沼から流れ出た水が、西から南そして東方向へと大きくカーブを描いて流れるその内側となる地名が「舘野」と言う字名で有ったことから、その地名を採って「館野川」と呼ばれるようになったものと思われます。
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(「セレモニーフラワーホールつかさ」さん南側の水路)(近くに見る段差は標高50メートル地点)
現在、大沼は埋め立てられて当時の姿を留めていません。今、館野川の一番西側には大雨の際に一時的に雨水を蓄える貯水池が設けられています。
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(館野川の一番西側の地点に設けられた貯水池。フェンスで囲まれています。)
この貯水池から清水川への合流点までの流路延長は約480メートルと短く、箱森町内の一部を流れるだけの川で、昭和40年3月に発行された地形図からは、その流路も記されなくなってしまいました。

ここ数年前からここ舘野の西方で、大規模な宅地開発が進められ、沢山の真新しい家が建てられて来ています。館野の貯水池脇の道路を西に進むとその住宅地に通じています。
箱森町の西部も大きく変わり始めてます。
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