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真岡市長沼の宗光寺 [堂々巡り]

真岡市の南西部、南隣りは茨城県筑西市、西隣りは下野市と小山市に接する地区は、平成21年(2009)3月23日に真岡市に編入されるまでは芳賀郡二宮町、更に遡ると昭和29年(1954)5月3日に、久下田町・長沼村・物部村の1町2村が合併する前の長沼村でした。
現在、二宮町も長沼村もその区域が何処であるか、グーグルマップで検索しても表示してくれません。真岡市内を更に分割して検索するには、かつての大字名に成るのでしょうか、その区割名での検索に成ります。
明治22年(1889)4月1日に長沼村が誕生しましたが、この時合併をした以前の村は、上大曽村・上谷貝村・谷貝新田・砂ヶ原村・青田村・掘込村・大道泉村・太田村・鷲巣村・古山村・西大島村・上江連村の12の地区で構成されていました。
現在のこれら12地区の分布状態を概略図示すると以下の図の如くに成ります。明治初期のそれぞれの境界は、鬼怒川左岸一帯の大規模な土地改良事業が行われて変化している為、昔の姿を留めていないと考えますが、その分布は現状から推察する事は可能でしょう。
旧長沼村の区割り.jpg
(かつての芳賀郡長沼村12郷の現在の区割り分布概略図)

ただ現在の地域名の中には、かつての太田村の地域を「真岡市太田」で検索しても表示してくれません。その他の11地域は、「真岡市上大曽」とか「真岡市上谷貝」等の名前で全てその地域を確認出来ます。
それでは太田村はどうなったのでしょうか。私は地元に住んでいませんので推測に成りますが、先の概略図に有る「真岡市長沼」の地区が、かつての太田村に比定されるものと考えます。
(財)日本地図センターが発行する、「明治前期測量2万分1フランス式彩色地図」の中に、明治19年1月の「栃木縣下野國河内郡本吉田村及芳賀郡太田村」と題した地図が有ります。
この地図の右下部分に「鬼怒川」の流れが描かれその左岸に「太田村」の文字が見えます。その村名の下に「八幡社」、更のその左下辺りに「大道泉村」の村名も確認出来ます。
ここで「八幡社」と有るのは、長沼八幡宮に成ります。
長沼八幡宮社殿.jpg長沼八幡宮参道.jpg
(長岡八幡宮の拝殿)                 (春には約350mの参道に桜のトンネルも)

その社殿鳥居の前から南に向かって真っすぐに伸びる道路は参道、更に南に目を向けると地図の右下角近くに、「宗光寺」の文字が記されています。
この「宗光寺」が今回訪れた天台宗の準別格大寺、「新御堂山 円頓止観院 宗光寺」(しんみどうさん えんどんしかんいん そうこうじ)に成ります。
長沼宗光寺山門.jpg
(宗光寺山門、「新御堂山」の扁額が掲げられています)
長沼宗光寺1.jpg
(宗光寺本殿、右手前は新しくなった客殿)
長沼宗光寺鐘楼&阿弥陀堂.jpg
(手前鐘楼、奥に建つのが阿弥陀堂)
大銀杏.jpg冬の大銀杏.jpg
(山門前から南100mに建つ薬師堂前に聳える大銀杏)(落葉後の大銀杏、その大きさが分かる)

下野新聞社発行の「とちぎの天台の寺めぐり」(天台宗栃木教区宗務所編集)より「宗光寺」の由緒に付いて抜粋させて頂くと、≪宗光寺は嘉祥元年(848)に慈覚大師円仁によって開かれた。建久4年(1193)に長沼宗政の主君である源頼朝の本願により、「新御堂」を建立した。≫と、有ります。
慈覚大師円仁と言えば、その幼少期に栃木市岩舟町の下津原や小野寺にて修行を積み、比叡山にて最澄の教えを受け遂に第三代天台座主に成られました。
由緒は更に続きます、≪弘安9年(1286)に長沼宗光が比叡山よい盛海僧正を迎えて宗光寺を中興した。≫と。ここで最初に出て来た「長沼宗政」とは、下野国大掾小山政光の三男、従五位上、淡路守、五郎左衛門尉です。元暦元年(1184)、芳賀郡長沼郷太田村に「長沼城」を初めて築いたと伝えられています。
長沼城は宗光寺の位置から北東側、北宿集落付近に有った様ですが、現在は城址の姿を全く留めておりません。城址の南側、宗光寺東門脇駐車場から東に、現在轟々と勢いよく流れる用水堀を渡った少し先に、長沼宗光公の墓と伝えられる墓石が一基建っています。
用水路.jpg長沼宗政公の墓.jpg
(宗光寺の東側を満々として水が流れる農業用水路)  (伝、長沼淡路守宗政公之墓)

又、この寺院の名前にもなっている、宗光寺中興「長沼宗光」は長沼系図によると、長沼の祖「宗政」から7代の城主で、従五位下、駿河守、監物、藤五郎。この人無双の豪勇にして世に悪五郎と呼ばれ、鎌倉に出て征夷大将軍久明親王に仕え、軍功により菊紋を賜わりました。後に遁世し鎌倉大御堂に入り、正慶二年(1333)皆川庄筥森に来て、草庵を建てて念仏三昧に入り、観応二年(1351)八月六日79歳で入寂したと云います。栃木市のそれも私の家の近く箱森町内に建つ「悪五郎堂」は長沼宗光の隨身仏といわれる阿弥陀仏と観音の二体を安置し、又悪五郎の霊をも合祀してある。(現在仏像は別に保管されている様です)
※悪五郎堂に付いては、今年7月20日にここで紹介しました。
こうした関係から以前から真岡市長沼の地の宗光寺には興味を持っていた訳です。
真岡市長沼宗光寺周辺概略図.jpg
(現在の宗光寺周辺の概略地図)

今回、宗光寺周辺を歩いて回りました。宗光寺の東側を流れる用水の水量の多さに少し恐怖を感じる程、激しく音を発てて流れていました。この水は鬼怒川から取水した物でしょうか。用水路を満々と流れていました。
宗光寺から南西の方向鷲巣に、鷲宮神社が祀られています。
鷲宮神社(真岡市鷲巣).jpg
(真岡市鷲巣の鷲宮神社)
平成二十七年(2015)に本殿を修復し、境内を整備したと云う事で、全体的に整然としていました。参道入口脇に建てられた記念碑に神社の由来等が記されていました。その中で気になったのが、陰暦十一月初酉日例祭(とりのまち)が行われ、神前に鶏卵や、つとっこ(卵の形をした餅を藁づとにいれたもの)を供える古式の伝統が今なお氏子たちによって受け継がれている。と記されていました。この「つとっこ」と言うものがどういうものか見た事が有りませんが、栃木市箱森町の鷲宮神社の秋の例祭の日には、米の粉で作った卵型の団子を藁にくるんだ物が売られ、それを食べると風邪に罹らないと言われています。何か似たものを感じました。
鷲宮神社(箱森).jpg鷲宮神社(箱森)米団子.jpg
(栃木市箱森町の鷲宮神社)           (11月の例祭日に販売される米団子)

もう一つ気になった事が、かつてこの地に有った長沼城は、別名その形がきんちゃくに似ていた事から錦着城と呼ばれていたそうです。 そして又、我が箱森町に有る小丘は、同様に形がきんちゃくに似ていた為に、巾着山とか現在では錦着山と成っています。
第7代長沼城主の長沼宗光公がその晩年を過ごした箱森の地、そこには何か彼の地「真岡市長沼」と共通した雰囲気が有ったのでしょうか。

※今回参考にした文献は
  ・栃木の城           編著者下野新聞社  発行下野新聞社
  ・とちぎの天台の寺めぐり  編集天台宗栃木教区宗務所 発行下野新聞社
  ・下野長沼氏          著者江田郁夫   発行戎光祥出版
  ・栃木縣誌           著者舟橋一也   発行歴史図書社
  ・校訂増補 下野国誌    再校訂徳田浩淳  発行下野新聞社
      



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