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五羽の子ツバメが、無事揃って巣立って行きました。 [自然の恵み]

今朝、一番に玄関先のツバメの巣を確認しました。巣にツバメの姿は有りません。昨夜はどうやらツバメは戻ってこなかったようです。これで完全に巣立っていったと感じました。空は久しぶりの青空が広がっています。
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(今朝、7月17日9時頃撮影、ツバメの姿が消えた巣)

ツバメ達の巣立ちの準備は7月11日頃から見られる様になりました。狭い巣の中で羽を広げ「羽繕い」をしたり、巣の縁につかまって羽をバタバタさせ、羽ばたきの訓練をするツバメの姿が見られました。
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(7月11日16時頃、狭い巣の中で羽を広げるツバメ、他のツバメが窮屈そう)

7月13日の朝、家の周りを数羽のツバメが飛び回り騒いでいるように見えます。もしかしたら我家のツバメが飛び出したのかと、急いで巣を確認するとそこにはまだ五羽のツバメが並んでいました。その巣の近くを飛び回るツバメ、親ツバメもその中にいるのでしょうか。「皆も飛び出してごらん」と、誘っている様にも見えます。
その内、意を決したように一羽が羽ばたいて巣を飛び出して、近くの電線に止まりました。
そのて又一羽、又一羽と巣から飛び立ちました。でも後の二羽はまだその時では無い様です。
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(7月13日11時頃撮影、残った二羽はまだ飛ぶ気は無さそうです)

その日の夕方、巣をのぞいてみると、シッカリ五羽のツバメが揃って、親ツバメから餌を貰っていました。
まだ巣立ちには成らないようです。
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(7月13日16時頃撮影、五羽のツバメが揃っていました)

7月14日の14時過ぎに巣を確認すると、なんとツバメの姿が無く、みんな巣から飛び立っていました。
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(7月14日14時30分撮影、ツバメの姿が無くなった巣)

しかし、その日の夕方には一羽のツバメが巣に戻っているのを確認しました。
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(7月14日18時頃撮影、一羽のツバメが戻っています。)

その日も結局夜には、五羽のツバメが巣に居るのを確認しました。まだこの巣が良い様です。
翌日7月15日も昼間五羽のツバメはみんな巣を飛び出していましたが、やはり夕方になると、巣に戻っているのです。
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(7月15日18時頃撮影、たくましくなった五羽のツバメが巣の中で休んでいます。)

そして翌日7月16日、とうとうこの日はツバメは一羽も巣に戻って来ませんでした。
そして今朝、空っぽになったツバメの巣だけが残りました。完全に巣立ったようです。付近の電線にツバメの姿は見えません、でもしばらくは近くで飛び回っているのかもしれません。
秋になり南の国へ旅立つ為の体力を付け、無事に海を渡ってほしいものです。
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もすこし様子を見て、この巣も処分していきます。
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大皆川町の田んぼ脇に建てられた「報徳碑」 [石碑]

栃木市街地の西方に、かつての皆川村の大字のひとつ大皆川、現在の栃木市大皆川町と言う地域が有ります。、北側の千塚町や宮町から南流してきた永野川が、太平連山から北東部に張り出した舌状台地に、行く手を阻まれた形で大きく円弧を描いて、その流れを東方向に変える、その内側となる永野川右岸に位置しています。
永野川の西から南西側の対岸は皆川城内町、南東側は岩出町と成っています。
今回の石碑はそんな大皆川町の西域、家屋脇水田の畔の上に建てられています。
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(家屋をバックに水田に面して建つ石碑3基)(一般の石碑より厚さが薄い)

私が撮影に訪れた日は、梅雨の冷たい雨がシトシトと降っていました。
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(3基並ぶ石碑は、中央が碑文を刻した主碑、両側は普通碑陰に刻される関係者芳名一覧)

中央に建つ石碑の表面に刻された文字を書き写しました。□は判読する事が出来なかった文字の箇所になります。
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石碑上部の篆額の文字「報徳碑」は、建立時に陸軍大将従二位勲一等伯爵であった、山縣有朋によるもの。碑文は大日本帝国神道修正教官長の新田邦光の撰文であるとが、碑文冒頭に刻されています。明治初期の日本政界及び宗教界で活躍された人物の名前でまず驚かされます。
碑文は「晃山峩峩 永川滾滾」と韻を踏んで始まっています。「こうざんがが えいせんこんこん」これは何を描写したものか、私のお粗末な頭で考えてみた。「晃山峩峩」は皆川の地の南側に東西に連なる「晃石山」を最高峰に連なる山々の事か、そして「永川滾滾」とは皆川の地を貫流する「永野川」の流れを詩的に表現したもの。次に続く「螺貝丘」は通称「法螺貝城」と呼ばれた「皆川城」の事。やっとの事でそこまで読み込むのですが、その後が続かない。どのように読んで行けば良いのか、遅々として読み進むことが出来ない。
「文糸翁」とか「關口保」「長沼五郎秀宗」など単語として読みとれますが、文章として成り立たない。「長沼五郎」と云えば1159年頃に小山城を築いた、下野大掾「小山政光」の二男「宗政」で、下野国芳賀郡長沼に居を構え「長沼氏の祖」が思い浮かんできますが。又、「秀宗」の名前は、第二次皆川氏の祖の事と思われます。西隣、皆川城内町の金剛寺境内に有る、皆川家歴代祖廟の中に「初祖長沼秀宗公」と記された墓石が見られます。その説明文に「永享元年(1429)会津田島より移住」と記されています。
金剛寺の伝によると秀宗は下野国に移り、初め岩田郷皆川庄滝の入に住み、その後白山台に移った。更に観音山に築城したとしています。
皆川家累代墓所.jpg皆川秀宗の墓.jpg
(金剛寺、皆川家歴代祖廟)      (長沼秀宗公墓前に立てられた表示版)

こうして観るとこの「報徳碑」の人物は皆川家に関係した人との推定が成される。碑文にはその人物の人となりが、縷々と記されていますが、私には難解な漢文で読み切れません。
このブログで前に紹介した、細堀町の田んぼの畔に建てられた石碑の場合の様に「大川鴻山先生碑」と有れば、誰の為に建てられた石碑か一目瞭然なのですが、今回の石碑はその人物にたどり着くことがなかなか出来ません。
碑文の最後に記された日付けは、「紀元貮千五百五十五祀愛景」と記されています。これは西暦にすると「1895年」、この年日本は日清戦争に勝利し下関にて「日清講和条約」が締結された時です。

次に中央に建つ主碑の両側の石碑に目を向けてみます。
まず左側の背の高い石碑。上部に「主師高恩」の文字。その下に多くに人物の名前が連ねられています。その筆頭には、「衆議院議員の新井章吾」皆川村の北東側に隣接する吹上村の出身。次に「県会議員の高久倉蔵」、この人は同じ皆川村出身で、大皆川の東隣り泉川の生まれ。この人物は後に第九代皆川村長や、明治41年(1908)の第10回衆議院議員選挙にも当選して活躍をした人の様です。≪石崎常蔵著「栃木人・明治・大正・昭和に活躍した人びとたち」を参照させて頂きました。≫
その他には「里長」「親友」「親戚」故旧」「門人」「世話人」等の名前が続いています。
日付けは「明治廿八年七月」と刻されています。
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(碑に向かって左側に建つ「主師高恩」碑)  (碑に向かって右側に建つ「主師高恩」碑)

そして、右側の小ぶりな石碑を見ると、左側の石碑同様「主師高恩」と有ります。
その筆頭には「門人」として、「村長関口豊次郎」の名前。村長とはもちろん地元皆川村の長になります。
「門人学友」の次に「皆川旧臣」として7名の名前が連なっています。下段には「門人」そして「発起人」達の名前になります。下段は雑草に遮られて名前が確認できない所が有りました。

改めてこれらの石碑の主人公は誰なのか考えてみます。
「門人」とする名前が多く連なっている所から、先の細堀町の石碑「大川鴻山先生」の「錬武館」のような剣道場を設けて多くの門下生を教えた人物なのか。明治初期の大皆川の教育機関を調べてみると、明治5年8月2日に日本最初の近代的学校制度を定めた「学制」が太政官より発せられると、栃木の周辺地域でもそれぞれの村で私塾的な教育施設が出来てきます。大皆川にも関口源治氏による「分校国宝舎」が開校しています。この人は先に記した村長関口豊次郎氏の父親になります。しかし碑文の中に「源治」の名前は見つかりません。発起人の名前の中に「関口」と言う文字が多くみられますし、碑文の中にも「關口」の名前も認められますから、関口姓の人物で間違いないと考えますが、この石碑の建つ地区「西大皆川」には現在も約100軒の住居が有りますが、その内関口姓は13軒確認されますので、特定は出来ません。昭和33年8月15日発行「皆川廣照伝」(編者:近藤兼利)の付録「皆川先祖譜代家臣録」の中にも、大皆川に「關口」姓が10名分確認されますから、ここからも絞り込みは出来ません。(皆川先祖譜代家臣録の中に収められている「關口」姓の人物は一番多く68名数えられています。)
この石碑に関しては今後も調査を進めていきたいと考えています。

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今日も、ツバメ成長中 [自然の恵み]

今日も5羽のツバメのヒナは元気で親ツバメから餌を貰っています。
かなり体も大きくなり、胸には白い毛も現れています。
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(丸々と太った5羽のヒナ達。窮屈そうに身を寄せています。7月9日朝撮影)

でも、ここまで来るまでに今年も色々有りました。
今年の6月26日に4羽のヒナを確認しましたが、その後ヒナが6羽孵った事が7月1日に分かりました。
親が餌を運んでくると、その気配でヒナ達は一斉に大きく嘴を開けて、餌を貰おうとします。
よく見ていると、巣の前列に先に孵ったヒナ4羽が陣取り、後方にまだ成長僅かなヒナが一生懸命首を伸ばして餌を貰おうとしています。が、なかなか餌に有りつけません。
前列のふてぶてしい顔をしたヒナ達は、親が車で巣にもたれてジッと待っていますが、その後方でお腹を空かしたヒナが一生懸命嘴を開け、首を精一杯伸ばして、餌をせがんでいる姿が少し切なく見えました。
その時ある不安がよぎりました。

翌日の朝、その不安が的中しました。玄関の床の上に1羽のヒナが落ちていました。
気が付いたときはまだ小さく動いていましたので、何とかしなくてはと思いました。
実は昨年も1羽のヒナが同じように巣から落ちていたので、すぐ巣に戻しましたが、その後又落ちてしまったのです。
インターネット上には「巣からヒナが落ちて困った、どうすればいいか」と言う書き込みが結構あります。
その中に確かにヒナが落ちた場合戻しても又落ちる、仮の巣を設けてやればヒナの声に親ツバメが気付けば又面倒見てくれる。と有ったので、さっそく小箱を用意して玄関の外灯の上に設置してみたが、親が怪しんで近づかない。翌日箱の中をのぞくとまだヒナが小さく鳴きながら体を動かしていたので、今度は思い切り巣の近くに仮の巣を移して設置してみました。
すると親ツバメは一層警戒して仮の巣に近づきません。落ち着かない様子で辺りを飛び回り、それでも何とか巣の中にいる5羽のヒナには餌を運んでいました。
やはり一度見放されたヒナは助からないのか。
昨年も結果的に4羽のヒナが大きく成長した時は巣が小さく見えました。今年は5羽、今も押し競まんじゅう状態に見えます。
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(昨年、成長した4羽のヒナ、巣が小さく見えます。2018年6月撮影)

一昨年、2017年には巣全体が落ちてしまった事が有りました。この時は箱の中に落ちた巣ごと入れて、玄関の外灯の上に設置しました。
この時は親ツバメもヒナの見放さないで育てて無事5羽が巣立ちました。
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(一昨年、巣全体が落下し、玄関外灯の上に設置した箱で子育てを継続。)
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(広い箱の巣で大きく成長した5羽のヒナ達。2017年7月撮影)

その後仮の巣に親ツバメも慣れたのか、箱の上に止まって休む姿が見られましたが、中のヒナが無事なのか確認するのも不安で、しばらく様子を見る事に。
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(巣の脇に設置した仮の巣にとまる親ツバメ、巣には5羽のヒナが覗く)

7月7日の朝、思い切って仮の巣の中をのぞいてみました。すると不思議なことに箱の中は空っぽになっていました。どうした事なのか、謎が深まりました。
なぜヒナが巣から落ちてしまったのか。
ヒナが誤って巣からのり出して、自ら落下したのか。?
他のヒナ達に追い出されるように落下したのか?
こんなことは無いと考えるが、6羽は多すぎると親の手によって放り出されたのか?
実際今も巣の中はすし詰め状態。6羽だったらどうなったものか。又巣ごと下に落下してしまうのでは。
色々想像してしまいます。
それにしてのヒナの死骸は何所に消えてしまったのか。
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(親ツバメが近づくと、大きく嘴を開けて、えさを求める5羽のヒナ達)

早く5羽揃って巣立って欲しいと思っています。
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今日、ツバメのヒナが頭を出しました。 [自然の恵み]

今年も我家の玄関先に、ツバメの夫婦が現れたのは、5月の下旬。
玄関ポーチの陰、外から見えないいつもの場所に、せっせと藁くずなどを運んで、巣作りを始めたのは5月の28日でした。
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それからもうすぐ1カ月が経過しようとする昨日今日、巣の中から産毛の様な影が、時折目撃するようになりました。例年の事でツバメの夫婦が交代で抱卵する姿がいつも目に入ってきていましたが、それほど気にすることも無く経っていました。
そして今日、親ツバメが巣に戻ってくると、巣から首を伸ばして餌を貰うヒナの姿が確認されました。
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一羽、二羽、三羽。まだ全部で何羽いるかは分かりません。
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これから日に日に成長して、巣から体を乗り出して親から競うように餌を貰う姿が戻ってきます。
心配になることも沢山有ります。
これまでも、巣が落ちてしまったり、ヒナが巣から落ちてしまったり、蛇が玄関のドアノブから登ろうとしていたりと。巣の下に大量の糞が落とされるのもこれからです。
今年も無事に巣立つまで又、目が離せなくなります。
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小山市のたんぼアートを巡ってきました。 [自然の恵み]

すっかり恒例となった「小山市たんぼアート」、今年もそんな時期がやってきました。
毎年楽しんで観ていますが、今年はどんな図柄の作品を見せてくれるのかと、会場となる小山市内の4会場を巡ってきました。
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栃木市から一番近い会場は「美田会場」。両毛線の鉄橋が架かる思川上流側右岸に有ります。
今年のアートは手塚治虫の少女漫画「リボンの騎士」で、白馬に乗ったリボンの騎士サファイア王女が綺麗に描かれ?ています。
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美田会場から思川を渡り東に向かい、新国道4号を越え「絹会場」へ。
こちらのアートは自転車競技を題材とした渡辺航の少年漫画「弱虫ペダル」から、こちらも毎年作品に成っています。
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次は間々田会場です。今年は何時も作品を観る場所に太陽光パネルが設置された関係で少し移動していますが鑑賞する上では何の支障も有りません。アートは会場近くの間々田八幡宮で毎年5月に開催される祭「間々田のじゃがまいた」を描いた作品です。
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最後は渡良瀬遊水地の北側、生井の桜堤から鑑賞する「渡良瀬遊水地会場」
今年のアートは小山市のマスコットキャラクター「政光くんと寒川尼ちゃん」に栃木市のマスコットキャラクター「とち介」が仲間入りした作品です。今年の4月からこの生井の桜堤(接続する停留所は栃木市側の部屋南部桜づつみ公園)で小山・栃木両市のコミュニティーバスが接続する事と成った事で、たんぼアートの作品でも両市のキャラクターがこの場所で一緒になりました。
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今年はどの作品にも記されていますが、「小山市制65周年」です。ますます元気な小山市がどの作品からも感じられました。
ここの所大気が不安定な日が続いて、今日も曇り空から雨となり傘を差しての鑑賞となりました。
昨年は6月29日に巡りましたが、今年はまだ少し早かったかもしれません。今度の週末から7月上旬が見頃になるので、その頃もう一度見て回りたいと思います。


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マンホールカード収集を楽しむ [マンホールカード]

私がマンホールカードを集め始めたのは、第2弾(2016年8月)で足利市のマンホールカードが配布される新聞記事を読んでからですが、それまでは自治体を象徴する風景やキャラクター、花木や鳥獣をデザインしているマンホール蓋の魅力に心引かれて、県内から近県の市町村各地を訪れて写真に収めていましたので、その延長線上でマンホールカード収集も始めるきっかけになったのです。
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(栃木県内のマンホールカード、10種類)

マンホールカードは配布する自治体が指定する場所に出向くことで、一人一枚を無料で入手出来るカードです。昨年(2018年)12月の第9弾の発行で、478種類のカードが配布されています。
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(茨城県内のマンホールカード、12種類)

私も現在までコツコツと各地を訪れて1枚1枚枚数を増やし、今日現在で133種類を収集しています。
昨日(6月21日)には福島県の田村市から本宮市、そして猪苗代町を回って、福島県の17枚を全て手にしました。これで、地元栃木県内発行の10枚を始め、茨城県12枚、群馬県12枚、千葉県12枚も入手。埼玉県は32か所全ての配布地を訪れていますが、現在北本市だけ入手出来ていません。先月北本市役所下水道課窓口を訪れたところ、在庫キレとなって配布終了、追加配布日程は現在未定と言う担当者のお話でした。
福島県内のマンホールカード1.jpg福島県内のマンホールカード2.jpg
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(福島県内のマンホールカード、17種類)

ただこのような事は、初めてでは有りません。越谷市や二本松市の配布窓口でも、空振りして、再訪問でやっと入手をしていますから。逆に白井市の様に在庫が無くなって配布が中断していたが、数日前に配布を再開したと言う出来事も有りました。事前に確認して行けば無駄足を踏むことも無いのですが。
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(群馬県内のマンホールカード、12種類)

最近、マンホールカードの人気が上昇してきた為か、インターネット上で売買されているものを、よく見かけますが、今の所マンホールカードの発行は期間限定の配布ではなく、無くなっても増刷して再配布されていますから、別に慌てる事も無く、自分のペースで現地の観光も合わせて出かけて収集するのが、このマンホールカード収集の良さだと考えています。
実際、今年の正月休みを利用して北九州方面を旅行した際には、長崎県で3枚・佐賀県で4枚・福岡県1枚を入手して来ました。
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(北九州旅行時に収集した長崎・佐賀・福岡のマンホールカード、8種類)

今後の収集計画もいくつか検討しています。山形県天童市周辺自治体が発行するカードが7種類有、スムースに回れば一気に7枚収集出来る範囲に有り、今年のお盆の休みに決行出来るか。新潟県もこれまで2回出かけていますが、まだ未収集が10種類有り、長岡・燕・柏崎方面、新潟市内・阿賀野・新発田方面、そして村上方面と最低でもあと3回は訪れる必要が有りそうです。
こうして、地図上で収集ルートを検討するのも楽しみの一つに成っています。
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(千葉県内のマンホールカード、12種類)

マンホールカードはこれからもドンドン新しいものが発行されて来るため、今回全部集め終わったと喜んでいる栃木県内でも、お隣の群馬や茨城もまた訪問する事になるのでしょう。そしてそこに又新しい発見が有ります。楽しみは尽きません。

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巴波川に新しい橋が架かりました [栃木市の河川と橋]

先日、久しぶりに巴波川の上流域までウォーキングしました。
ひとつの目的は、巴波川の源流の一つ、川原田町の白地沼の南側、二股沼に整備していた「巴波川第5・第6遊水池」の現状を見てみようと思っていたからです。
そうしたら驚きです、予想もしなかった所で新しい橋が巴波川に架かっているでは有りませんか。
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(川原田町前野を流れる巴波川に新しい橋が架かっています)

この場所は栃木市大町と川原田町との境界近く、巴波川が「川原田東市営住宅」の東側を北から南に流れた後、向きを南西方向に変え、西側を南北に縦断する県道37号(県道栃木粟野線・通称粟野街道)に行く手を塞がれた形となった巴波川の流れは、再び道路から離れ流れを南東方向に変え、街道から離れ南側で大町の「とちぎメディカルセンターとちのき」の東側を南流していく、巴波川と粟野街道とが最接近する所です。
前原橋(2019年6月).jpg前原橋(2017年12月).jpg
(左側に巴波川・右側粟野街道、北側から撮影) (2017年12月撮影のほぼ同地点)

この場所には以前にも、車が通行可能なコンクリート製の桁橋が架けられていましたが、ハッキリした取り付け道路も無い様な所でした。
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(新しい橋の高欄に「前原橋」の橋名が)  (以前掛かっていた桁橋。2016年3月撮影)

巴波川流域では現在河川整備が進められてきていますが、この下流側でも昨年(2018年)の8月ごろまでの計画で、堤防・法面保護のための護岸整備工事が行われていました。
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(新しい橋の下流側、高欄に「巴波川」の銘板)    (以前の下流側の巴波川の様子)

橋桁には新しい橋銘板が確認できます。
それによると、橋梁自体は今年の3月に完成したようです。ただまだ取り付け道路が整備出来ていない様で、通行出来ない様にロープが張られています。
取り付け道路が整備されることで、この巴波川左岸地域の道路網の環境も改善されていくものと期待されます。
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(新しい橋の橋銘板)



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太平山から富士山を遠望 [自然の恵み]

今日の夕方、少し時間が有ったので車で、太平山に登ってきました。特に何か目的が有った訳ではなく、ほんとチョッと軽いドライブといった感じです。
遊覧道路の桜並木は、すっかり緑のトンネルに変わっています。少し薄暗くなってきていたので、ヘッドライトを点灯。時々すれ違う対向車両もシッカリと点灯をしてきます。
太平山神社の表参道に建つ、随神門の前を通過してお店が並ぶ謙信平に出てくると視界が開け、南西の方向にはまだ明るい空が残っています。
見るとその空と大地の境に薄っすらと富士山のシルエットが見えたので、謙信平の駐車場に車を止め、いつもバックに入れてあるコンパクトカメラで、撮影を試みました。
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(太平山から南西方向、約141km。均整のとれた姿を見せる富士山)

手前に広がる関東平野はすでに影となって、黒い大地に変わっていますが、ところどころ水をはった水田が鏡のように僅かに光って見えます。
ここ、太平山は「関東の富士見百景」の一つにもなっていますから、気象条件が良ければ見られますが、実際はその機会に出会わすのはなかなか有りません。
もっとも、富士山などの写真を撮り続けている人は、気象の変化を絶えず注視して、今日は「霧が立ち込めるぞ」とか「夕焼け雲が広がるぞ」とか、予測して撮影ポイントに陣取って、カメラを据えてその時をジックリと待つと言います。

富士山が見えたので、東京スカイツリーも見えるのではと、目を凝らして地平線に沿って探していくと、それらしい影を確認することが出来ました。
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(太平山から南の方向、約73km。地平線から線上に突き出た東京スカイツリー)

コンパクトデジタルカメラで最大にズーミングして手持ち撮影、オートフォーカスが上手く機能しない。それでも何とか東京スカイツリーの姿を撮影できました。(写真中央奥、地平線上に一際高く突き出しています) 
写真の真ん中辺に広がる建屋群は、いすゞ自動車(株)栃木工場の様です。手前には大平町の水田地帯が広がっています。

暗くなる前に太平山を下り、家路につきました。




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日光例幣使街道、犬伏宿周辺を歩く [歩く]

今日は、日光例幣使街道の宿場の一つ、犬伏宿周辺の神社仏閣などを歩いて巡ってきました。
「歴史と文化を歩く会-栃木-」の6月例会で、20名のメンバーが参加しました。
昨日は一日激しい雨が降り続いていた為、今日の天気を心配していましたが、開けてみれば雨も止んで、曇り空で日差しが遮られている為、暑くもならず絶好のウォーキング日和となりました。
私の住む栃木市には日光例幣使街道の13宿の内、「富田宿」・「栃木宿」・「合戦場宿」・「金崎宿」の4つの宿が有りますが、今回向かった佐野市にも「天明宿」と「犬伏宿」の2つの宿場が有りました。
「天明宿」周辺は、昨年12月の例会で歩いていますので、今回の「犬伏宿」はそれに続くものです。
堀米付近略図.jpg犬伏宿概略絵図.jpg
(今回歩いた犬伏宿周辺の様子を資料の古地図を基に概略図に描いてみました)

栃木駅に集合してJR両毛線にて佐野駅へ。佐野駅北口を出てさっそく犬伏宿に向かいます。
最初に向かったのは犬伏上町の台元寺です。
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(犬伏上町に入るとすぐ道路の右手に佐野百観音のお寺、台元寺です)
台元寺は佐野市仏教会が2015年5月31日に発行した小冊子「縁 出会いにありがとう」の中で、≪佐野厄よけ大師(惣宗寺)第13世三海大僧正が慶長6年(1601)3月創立。県重要指定文化財であり、佐野ブランド認定寺院である「佐野百観音」は天明鋳物で造られ、100箇所ある日本百観音霊場全ての観音さまを一ヶ所で参拝することができる。≫と、紹介をしています。しっかりと参拝をさせて頂きました。

次に見学をしたのは「光徳寺」です。街道を東に進み犬伏中町と下町の境となる交差点を右に入ります。南に少し進むと右手に「西蓮寺」、その山門前を過ぎた先、道路の左側の現れる山門が「光徳寺」になります。
光徳寺1.jpg光徳寺2.jpg
(山門を潜り光徳寺境内へ)               (天満宮の祠横に神木の「びゃくしん」)
上記の小冊子には、≪当寺は唐沢山の城主藤原藤太秀郷の娘富士姫と家臣の柏崎光徳(藤原道真良臣の一人)との悲恋の末、富士姫が佐野の川瀬(犬伏中町のお姫河原)に身を投じ、この事を光徳聞き富士姫を探すと水中に金像の弥陀の護身仏あり(関川町三杉川)、光徳弥陀の金像を引揚げ本尊とし一宇を建立す。光徳がその後出家し富士姫の菩提を弔う。秀郷これを聞きさらに一寺を建立し東明山天幡院光徳寺と号す(光徳寺縁起より)光徳寺はこのように千年余の昔から地域に根ざした寺です。≫と、紹介されています。
又、境内には「ふるさと佐野100選」の、「光徳寺のびゃくしん」が有ります。光徳寺開基の柏崎光徳のお手植えの神木として伝えられている。常緑喬木で中国や朝鮮に多く、わが国には少なく貴重なものであり、昭和34年に市の天然記念物に指定されています。

街道に戻り更に東に進むと、道路右手に市立犬伏小学校が。この場所にはかつて犬伏宿の本陣が有った跡となりますが、その面影を残すものは何も有りません。小学校前の街道に渡した歩道橋を登り、犬伏宿北側の脇道を北進して「大庵寺」へ向かいます。
歩道橋の上から犬伏宿の街道を眺めることに。
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(東方向を望む。道路右手が犬伏小学校、街道奥突き当たりの小丘が米山古墳)
犬伏宿の通り(西).jpg
(西方向を望む。手前信号機交差点を左方向に入った所が「光徳寺」になります。)

大庵寺への参道入口角に「南無阿弥陀仏」と陰刻した常夜灯が建てられています。参道を進んで山門を潜ると駐車場の有る境内へ。境内には多くの石仏や石碑が建てられています。
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(街道からの入口に建つ常夜灯)           (緑豊かな大庵寺境内)
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(多くの石仏を見学する歩く会メンバー)

次に向かうのは犬伏町の鎮守「鷲宮神社」です。一度街道に出て、西方向に歩き犬伏上町に戻り、そこで北に進む道に入ります。道路の前方に鳥居が覗いています。街道から鳥居までは約300メートル程有ります。その途中で道路右手に風情のある塀が現れました。鷲宮神社の社務所の様です。門扉を入ったすぐ右手に「史跡大桝塚古墳と刻された石の標柱が建っています。
鷲宮神社への道.jpg大桝塚古墳の標柱.jpg
(鷲宮神社社務所の風情ある塀。道路奥に鳥居が)  (史跡大桝塚古墳の標柱)
「大桝塚古墳」はこの標柱の当方に見える小丘。説明によると≪この古墳は2段に築かれた方墳で、周囲の平地に濠跡と思われる低地があり、その外側に小土手の一部が残っている。盗掘の跡がなく、よく保存されている。大きさは、下段底部の径36.3m、上部の径25.4m、高さ5.45mである。≫と成っています。

鳥居の方へ進むと、次第に鳥居が大きくなってきます。鳥居を潜って社殿前に向かいます。
鷲宮神社鳥居.jpg鷲宮神社.jpg
(鷲宮神社参道入り口に建つ石の鳥居)     (境内にはご神木となる見事な杉の木が)
「鷲宮神社の杉」は「ふるさと佐野100選」にも成っています。≪樹高約20m、直径1.5m、樹齢は約600年≫との説明が有りました。

最後に向かったのは堀米町、天明宿から北上した街道が突き当たった場所に建つ「妙顕寺」です。
妙顕寺1.jpg妙顕寺2.jpg
(一直線に伸びる犬伏宿の街道の西側の端に位置する日蓮宗の寺院「妙顕寺」)
先の小冊子によると、≪当山の草創は、永仁二年(1294)中老僧天目上人の開創。唐沢城家老若田部源五良光盛公の屈請により一宇を創し、山を開本と称し寺を妙顕と号す。是即ち本国土妙一時開顕の意なり。慶長七年(1602)唐沢城天明春日山移築に際し当山も春日山城鬼門除として現地に移る。妙顕寺は日蓮宗の由緒寺院、本山の称号で呼ばれる。≫と、紹介されています。
又、「佐野市観光協会・佐野市観光立市推進課」の発行する、佐野観光ルートガイドの小冊子「佐野めぐり」の中で、≪妙顕寺本堂の扁額「開本山」は甲申事件で日本に亡命した金玉均の書によるもの≫との、紹介がされています。
妙顕寺4.jpg妙顕寺3.jpg
(左、井伊家と右、藤原家の累代尊霊供養の石碑)  (「金玉均」書による「開本山」の扁額)
堀米町と井伊家との関係は、寛永10年(1633)近江彦根藩領となり、万治2年(1659)には堀米村に彦根藩佐野領15ヵ村を取り仕切る彦根藩の陣屋が置かれた事によります。日光例幣使街道が整備されると堀米町は犬伏町の加宿となっています。嘉永6年(1853)3月日光社参の帰途領内を巡視した井伊直弼は、当地に有った飯売旅籠を全廃させることも有りました。天応寺には井伊直孝・直澄・直弼の墓碑が有ります。(「角川日本地名大辞典9栃木」より抜粋)

妙顕寺を後にして、佐野駅に戻りました。
本日も多くの発見が有りました。歩いた総歩数は、15,572歩になりました。
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東武佐野線田沼駅前公園に建つ「日本列島中心の町」の碑 [石碑]

元号が令和に変わってから最初に訪れた石碑は、東武佐野線田沼駅前の公園に建てられています。
日本列島中心の町1.jpg
(東武佐野線田沼駅を出て、右手方向に進むと目的の石碑は、公園の中に有ります)

高さ1メートル程、幅2メートル弱か、厚さは50センチメートルほどの直方体。正面に「日本列島中心の町」その下側に、「東経139°30′21″」そして「北緯36°30′54″」。そして石碑の右下隅に「佐野市」と記したプレートが設置されていますが、元は「田沼町」と陰刻されていました。元々「日本列島中心の町」と称して町をアピールしたのは「田沼町」ですが、2005年2月28日に葛生町と共に佐野市と一緒になったので、田沼町の名前の上に「佐野市」のプレートを設置したようです。
又、石碑左下側には日本列島の形が線刻をされています。その他には、碑陰や側面等には何の表示も有りませんので、何時頃設置されたものかなど、確認できませんでした。
日本列島中心の町2.jpg
(大きな直方体の石の正面に「日本列島中心の町」の文字、下に経緯度が刻される)

日本列島中心位置の定義付けに関しては、石碑の隣に説明板が添えられています。それによりますと、
「北海道最北端①」と「九州最南端②」から、それぞれ同じ距離となる「日本海側③」と太平洋側④」を算出します。そしてこの2点を結んだ線の中間点の場所として、その地点がこの田沼町に存在します。と記されています。
日本列島中心の町3.jpg
(日本列島の中心「田沼町」の定義付けの説明板)

実際どうなのか私なりに確認を試みました。専門的な計算方法など解りませんから、グーグルマップを利用して①から④のそれぞれの場所を探してみました。違っているかも知れませんがその結果は、石碑に記された経緯度の地点が上記の定義付けに一致する事を確認出来ました。
日本列島中心の町4.jpg
(石碑に記された経緯度の地点が、日本列島中心の中心の定義に一致した検証図)

北海道最北端①の地点は「宗谷岬」で、九州最南端②の地点は「佐多岬」は容易に決まりますが、③と④の2点は探索する為に何度もポイントを変えて、①と②から同距離に有る場所を見つけています。結果として日本海側の地点③は新潟県上越市五智4丁目近辺で、①と②からの距離は約980km。太平洋側の地点④は茨城県神栖市須田浜海岸近辺で、①と②からの距離は約1,082km。そしてその③と④の地点を結んだ線の中間点を求めると、その地点は③及び④から約135kmとなり、石碑に記された経緯度となりました。

ところが、気になることが一つ見つかりました。グーグルマップで石碑で記された経緯度の数値を入力してその場所を検索したところ、そこには「栃木県佐野市秋山町」の地名が現れたのです。「秋山町」はかつては「田沼町」ではなく、北東側に位置する「葛生町」の地名です。
そこで、手元に有る国土地理院、平成元年6月1日発行の2万5千分の1の地形図「中粕尾」を広げて確認をすると、「東経139°30′21″、北緯36°30′54″」の地点は、田沼町側に位置しています。但し葛生町との境界線まで僅か50メートル程しか無い山中でした。
そして、もう一つ判明したことは最新版の「中粕尾」の地形図(平成26年10月1日発行)で同じ経緯度の場所を確認すると、場所が変わっています。その地点は以前の地図よりも南南東方向に約460メートルもずれていました。現在は田沼町と葛生町は合併により佐野市に変わっている為、その間の境界線は地図上には表示されていませんが、その場所はかつての葛生町(現在の秋山町)に入っています。

平成元年と平成26年発行の地形図を重ねて観ると、経緯度を合わせた場合表示されている地形の場所が一致しないことに気付きました。この違いの原因は日本の測量の基準が、「日本測地系」から「世界測地系」へ変えられた為で、平成13年(2001)6月に測量法改正案が国会で成立しています。
※素人の私には理屈が難しすぎるので、興味の有る方は(一財)日本地図センター発行の「二万五千分の一地形図が変わった 進化する地図の世界」(大竹一彦、秋山実 著)を参照して下さい。

ちなみに田沼駅及び石碑の建つ所の現在の住所は「佐野市栃本町」であり、石碑に刻された経緯度の所在地はこの場所ではありませんし、石碑に表示された経緯度の地点も「田沼町」ではありませんから、「日本列島中心の町」として「田沼町」から「佐野市」に変更したのはそのような背景が有ったものかと思われます。

それにしても、かつて「田沼町」の人達が、自分の町が「日本列島の中心である」という定義を見つけた事は素晴らしい郷土愛に基づくものと、改めて感心をしました。
色々な事を再認識をさせられた、石碑に出会うことが出来ました。
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