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栃木市道1009号線、都賀町大柿中郷に建つ石碑 [石碑]

今回の石碑は、栃木市道1009号線の道路脇に建てられています。と言っても、市道1009号線が何所なのか分からないと思いますので説明しますと、都賀町大柿を通過する国道293号を「大柿十字路」から西走すると、道路右手に野の花自然園「花之江の郷」、そこを通過すると右手に分岐する道路が現れます。この右手の細い道路が国道293号の旧道に成り、現在はこの分岐点を起点に市道1009号線と成っています。ここから逆川に沿って西走すると信号機のある丁字路が有りますが、市道1009号線はそのまま直進します。旧国道はここを左折していました。以前は直進方向には「この先行き止まり」の案内が有った記憶が有りますが現在は見当たりません。直進した先に「ハーモニーヒルズゴルフクラブ」への入口が出来た為でしょうか。丁字路をそのまま直進、ゴルフ場の入口を通過すると道路右側に薬師堂が現れます。
薬師堂.jpg
(信号機の有る丁字路から600m、道路脇に建つ薬師堂。西側から撮影)

その先200mで逆川に架かる「中郷橋」を渡り更に250m進むと道路が少し北方向に向きを変えます、今回紹介する石碑はこの道路が方向を変える地点に建てられています。
石碑の建つ場所.jpg
(道路脇に建つ石碑、道路はここから北北西に向きを変えています)

市道1009号線は更に北北西方向に遡ること1200m進むと、逆川に架かる「新野上橋」が現れます。
新野上橋.jpg新野上橋銘板.jpg
(逆川に架かる「新野上橋」、左側の古い橋は「野上橋」です。北側より撮影)(橋銘板)

「新野上橋」を渡って200m先で、西方町真名子に入ります。西方町真名子に入って300m、逆川に架かる「真上橋」の上に達します。この橋の手前で分岐が有り右に折れる細い道が市道1009号線になります。この先は山を越えて1本北側の沢を流れる赤津川を渡り、栃木市立真名子小学校北側を東走して、県道37号(栃木粟野線)に突き当たります。しかしこのルートで都賀町大柿と西方町真名子間を通行するのは地元民がほとんどで、まさに地元の生活道路と思われます。私もこのルートで通過したのはこれまで3回だけです。一度は山の中を抜ける途中で、道路の前方に2匹の小鹿が現れ、私の車に驚いて山の中に逃げて行きました。西方町の真上や小沼では、こうしたシカやイノシシに田畑を荒らされるのを防ぐために、田畑の周囲に電気柵をめぐらしています。

尚、分岐を直進して「真上橋」を渡る広い道路は、市道2006号と名称が変わり、西方町真上を山の奥に進んでいきます。
真上橋.jpg真上橋銘板.jpg
(逆川に架かる「真上橋」を北側から撮影。)                  (橋銘板)

「真上橋」を渡って市道2006号を1700m程進むと、前方には砕石工場が現れ、道路はその工場の中に入って行く様な感じと成る為。道路の探索はここまでとし、引き返すことに。
工場敷地入口に架かる逆川の橋の脇に「一級河川上流端」の石柱が建てられています。
逆川大和砕石㈱入口の橋.jpg
(市道2006号の先に現れる「大和砕石(株)真名子工場」)

平日にこの真上への道路に入ると、この砕石工場関係のダンプカーが引っ切り無しに通行していますが、日曜日に訪れるとダンプカーの姿は消え、ほとんど車の通行は無くなります。

以上の文章での説明ではなかなか上手く言い表せていないので、逆川流域の概略図を作成しました。
逆川流域概略図.jpg
(逆川流域概略図)

それでは市道1009号の脇に建てられた石碑をジックリ観察します。
石碑の正面.jpg石碑の裏面.jpg
(石碑の表面中央に大きく竣工記念碑と刻されています)(碑陰には碑文が刻されています)

石碑正面右側には「中郷野上線道路改修」、中央に大きく「竣工記念碑」、そして左側に「昭和五十三年九月吉辰」そして「勲五等土屋大□書」と刻されています。碑陰には碑文が右半分に、そして左側半分に「土地提供者」や「記念碑建設委員」「寄附者芳名」などが刻されています。
碑文は読みにくかったですが何とか読めましたので、書き写してみました。
碑文書き写し.jpg
(碑陰に刻された碑文と関係者の名前一覧を書き写しました)

碑文冒頭の「中郷野上両部落」は、都賀町大柿の地名。続く「幹線道路延長2,476米」に相当するのは、信号機の有る丁字路から西方町真名子との境界までの距離に相当します。
この道路改修によりそれまで劣悪な環境に有った町道が改善されたことが、碑文に記されています。

この石碑の外に市道1009号の先、真上橋を渡って進む市道2006号の道路脇にも同様の竣工記念碑が建てられていました。石碑正面右側には「都賀真上線村道改修工事」と有ります。
都賀野上線村道改修工事竣工記念碑.jpg
(西方町真上、市道2006号脇に建つ「竣工記念碑」)

碑陰に事業概要が刻されていますが、その中に「工事延長 二千七十米」と有りますが、この距離は市道1009号の西方・都賀の境界から、真上橋をわたり市道2006号をずっと遡って、大和砕石(株)真名子工場までの距離に相当します。
これら2基の石碑により都賀町大柿宿坪の丁字路から大和砕石(株)真名子工場に至る約4,500mの道路の改修の歴史を今、振り返ることが出来るのでした。
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今日からマンホールカード第10弾が配布開始しました。 [マンホールカード]

これまで4ヶ月間隔で新しいマンホールカードが追加配布されて来ていましたが、今年4月の配布がシステム変更の都合とかで延期された為、昨年12月の第9弾から8ヶ月が経った今日8月7日、待望の第10弾が配布開始されました。
この第10弾で新たに配布されるマンホールカードは、47自治体61種類との事。
我が栃木県内では、宇都宮市と鹿沼市の2種類が新たに加わりました。

早速、宇都宮市と鹿沼市とを回って、この2枚をゲットして来ました。
宇都宮市2マンホールカード.jpg鹿沼市マンホールカード.jpg
(今日ゲットした、宇都宮市と鹿沼市が第10弾にて配布を開始したマンホールカード)

宇都宮市の配布場所はJR宇都宮駅構内の「宇都宮市観光案内所」の為、駅前の駐車場に車を止めて行きました。県都の表玄関に位置する為途中交通渋滞で時間をロスしましたが、幸い一番近くの駐車場が空いていたので20分以内で済み、駐車料金も掛かりませんでした。
それでもシッカリ「餃子像」を写真に収めてきました。実際の餃子をデザインしたマンホール蓋の設置場所は宇都宮市の中心「二荒山神社」の直ぐ東側、宮島町の老舗餃子店などが立ち並ぶ「餃子通り」です。今回は時間が無かったので、前に餃子を食べた時に撮影した写真を添付いたします。
餃子像.jpg宇都宮設置場所.jpg
(JR宇都宮駅西口バスロータリーの2階に建つ「餃子像」)(設置場所の餃子通り)

次は鹿沼市の配布場所、「まちの駅、新・鹿沼宿」を目指します。
宇都宮から鹿沼街道を西走する事40分程で到着、夕方5時半を回っていたのでこちらの駐車場も空きが有りました。本館内の案内処で無事にカードをゲットしました。
カードに描かれているデザインマンホール蓋の設置場所は、まちの駅から南へ50メートル程の石橋町交差点北東側歩道上に有ります。
まちの駅新鹿沼宿.jpg鹿沼市設置場所.jpg
(「まちの駅新鹿沼宿」駐車場入口に建つ常夜灯)(設置場所の古峯原宮通り北側歩道)

今回の第10弾では、お隣茨城県で4種類、群馬県で1種類、埼玉県が3種類、福島県1種類が新たに加わりました。又、計画を立てて収集して行きたいと考えています。

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「道の礎」に刻まれた歴史の一コマ [石碑]

東北自動車道栃木インターチェンジ出口から県道栃木粕尾線に出て左折、直ぐ東北自動車道の下を潜り抜けると、右手側道の脇に少し雑木が茂っている。
現在の様子.jpg
(通称鍋山街道を北上して、東北自動車道の下を抜けた右手側道脇に雑木が茂る)

雑木に隠れる様に一基の石碑が建っています。雑木の右側は東北自動車道の側道で、その右手奥に見えるこんもりとした小丘が、吹上町と野中町との境が山頂を通る米山。そしてこの石碑の建つ場所も野中町ながら、直ぐ北側の田んぼは吹上町と言うロケーションになります。

今から4年前の、2015年11月29日に撮影した頃は、まだ雑木も小さく石碑の姿は見えていました。
2015年11月29日撮影.jpg
(2015年11月29日撮影、東北自動車道側道脇に建つ石碑)

以前に撮影をした石碑の写真には、石碑の表面に雑木の枝が枯れた状態でこびり付いていますが、何とか碑文を読むことが出来ました。石碑上部の篆額には篆書体文字が陽刻されています。最初は何んと書いてあるのか全く分からず、調べて行くうちに右から左に「道の礎」(みちのいしずえ)と記されていることが分かりました。この篆額の文字を記した人物は、この石碑が建てられた昭和47年(1972)11月当時の栃木市長だった、柴新八郎氏です。
石碑全景.jpg篆額部.jpg
(石碑前景と石碑上部篆額部分。2015年3月11日撮影)

碑文を読み移しました、文末に昭和四十七年十一月吉日東北自動車道吹上地区地権者会と記して締めています。比較的新しい石碑で、現代仮名遣いの文章で、私にも容易に読むことが出来ます。
石碑には直ぐ脇を走る東北自動車道が計画され竣工開通するまでの間、地元地権者の対応が記されています。
≪昭和41年10月通過路線が確定発表されたが地区民の予想に反して美田の中央を縦断した為一同驚愕憤激し路線の変更を叫び猛反対運動を展開した≫と、ではその当時地元吹上地区の人達が描いたルートはどんなものだったのでしょうか。確かに岩舟小野寺地区から皆川小野口地区はそのルートの大部分が、太平連山の西側から北側の山裾を縫う様に通っています。又、都賀地区から西方地区も観音山から西方城址の有る城山の東側の山裾を走っています。それに対して皆川地区の東部から吹上地区の全ルートに関しましては、ほとんどが開けた田んぼの中を通過しています。
元々栃木市の周辺は豊かな水田が多く、その為工業団地造成も思う様に進まない土地柄でしたから、この東北自動車道路で多くの田んぼが潰れるのは、どれだけ無念な思いだったものか。その気持ちが碑文の最後に見られました。
≪思うにこの道の礎は正に父祖の培いし流汗の農地である 茲に国土開発と地域発展に寄与する為先祖伝来の土地を提供し併て地権者会の活躍を後世に伝えるためこの碑を建立する≫と。

碑文部.jpg碑文書き写し.jpg
(碑文部分を読み、そのまま書き写してみました)

東北自動車道と北関東自動車道の交差する、この栃木市に生活する一人として、東西南北のどこへでも容易にアクセスする事が可能になっています。この便利さを享受出来る幸せをもっと感謝しなければならないのかも知れません。「道の礎」と記された石碑は、そんな事を思い起こさせるものでした。
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いよいよ夏本番、今日我家のヒマワリも開花しました [草花]

今日、ついに関東地方も梅雨明けをむかえたと、ニュースで報じていました。
そして、この日を待っていたかの様に、我が家のヒマワリも開花を始めました。
ヒマワリ1.jpgヒマワリ2.jpg

天気予報ではこの後一週間、晴れ時々曇りのお天気マークがズット並んでいます。
いよいよ夏本番、先週末エアコンのフィルター掃除を済ませておいて良かったです。

そして今日の夕方、早々に戸締りをしてエアコンを付けて、気持ちよく夕食を済ませ7時のテレビニュースを見ていた時です。突然の停電。我家だけでは有りません。辺り一面どの家も電気が付いていません。
雷が鳴っている様子も無く、原因が分かりません。
停電は意外と長く続いていました。急に暑くなった影響で、多くの家庭でエアコンを使い出した為と言う訳では無いでしょうし、何か事件か事故が発生したのか、サーバーテロが起こったのか。色々と思い巡らします。

20分間以上停電していたでしょうか、突然電気が復旧。テレビ画面は何事も無かったように放送を続けています。臨時ニュースも何も有りません。8時45分からの首都圏ニュースでもまったく停電の話題は出て来ません。我家の感覚では重大事件です。大規模停電発生です。
この辺限定の停電だったのかな?原因が不明のままではチョッと不安です。明日の新聞ニュースに出ないか気になります。

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千塚町八幡宮境内に建つ石碑 [石碑]

栃木市の北西部星野町から、鍋山町・大久保町・梅沢町・尻内町と寺尾地区を、南東方向にほぼ一直線に流れ下った永野川が、吹上地区の仲方町と千塚町との境界付近から、流れを僅かに南に変えて吹上地区の西部に位置する千塚町と宮町のほぼ中央部を南流しています。
今回訪れた千塚八幡宮は、栃木の市街地から県道32号(栃木粕尾線)を北に走り、千塚小学校の先の歩道橋の架かる交差点を左折し、西に向かい永野川に架かる「千塚橋」を渡り、永野川の西岸域側にせり出している足尾山地の東の縁、山裾から少し石段を上がった所に祀られています。
千塚町八幡宮.jpg
(千塚橋の西方300メートル、道路の右側に参道入口の石の鳥居)

参道登り口に建つ案内板によると、主祭神誉田別命(ほんだわけのみこと)、境内地1,577坪、旧社格指定村社、本殿一間社流造柿葺、拝殿入母屋造瓦葺と成っています。
千塚八幡宮社殿.jpg
(石段を上った先に現れる、八幡宮社殿)

今回の石碑は八幡宮の社殿に向かって右隣に建てられています。
石碑全景.jpg
(社殿右手に建つ石碑)

石碑の上部篆額には「御大典記念」と有ります。
篆額.jpg
(石碑上部、「御大典記念」と篆書体文字が陽刻されています)

碑文最後に記されている「昭和3年11月吉辰」で明らかなように、篆額に有る「御大典」とは昭和天皇の即位の礼から大嘗祭等の一連の儀式を総称した言葉の様です。この年昭和3年には、日本各地で御大典を記念した行事や事業が計画執り行われたようです。そしてそうして実施された事業内容を記した記念の石碑が各地に建立されています。
ちなみに、この篆額の文字は、碑文冒頭に記されている「内務大臣、望月圭介」によるもので、この人物は御大典の時(昭和3年)、内務大臣に就任して御大典の警備最高責任者でした。

碑文に目を通します。昭和の初期に建立された石碑ですが、ありがたいことに非常に読みやすい、漢字とひらがなの文章です。明治期の漢文体や、戦前の漢字とカタカナで埋め尽くされた碑文は、とても読み解くことが難解な石碑が多いのですが。

碑文写し.jpg碑陰写し.jpg
(碑文を読みうつしました)            (碑陰の寄附者芳名一覧)

碑文によりますと御大典記念事業として、八幡宮氏子らが相談をして神社拝殿の改築、境内の整備を行った事などが記されています。そして、碑陰にはこの事業に寄付を行った多くの人達の名前が連ねられています。その数は、篤志寄附者として52名、寄附者として115名の名前と寄附の内容が記されています。
寄附金の額を集計してみると3,755円。最高寄附金は300円、一番多い寄付金額は6円で34名おりました。
これらの金額は現在の価値にしてみるとどの程度になるものか、昭和初期の物価などを調べて私なりに推定を試みました。その結果として寄付金の合計は2,854万円程度になるものと思われます。300円は現在では200万円以上となり、まさに高額寄附者と言うことにまります。
寄附者115名に内容を見ていくと、高久姓が一番多くて35名、次に横倉姓13名、その後には柴姓9名、名渕姓・臼井姓7名と続いています。
現在の千塚町の主要苗字をゼンリン住宅地図にて確認してみると、一番多い苗字はやはり高久さんで37軒、二番目は柴さんで10軒、三番目は臼井さんで9軒、次が熊倉さん、横倉さんで共に8軒、続いて琴寄さん7軒、名渕さん6軒となります。
千塚町の主要苗字の分布は昭和初期も現在もほとんど変わっていない事が分かりました。
また寄附者の名前の中に「保知戸」という珍しい苗字を見つけました。この苗字は2004年度版栃木市電話番号帳を見ると市内に8軒有りますが、その内5軒が千塚町に分布をしています。
この苗字は他に多く見られた「高久」や「横倉」「琴寄」と言うかつての皆川家臣団に当たるか、寛永12年の「皆川先祖譜代家臣録」(近藤兼利著「皆川廣照伝」附録)を開いてみると、「保知戸」の苗字は確認できませんでしたが、千手村の中に「宝冶戸」と言う苗字の人物が4名おります。この姓に関係するものと推定いたします。
この千手村とは現在の千塚町の一部のかつての名前で、「千塚」と言う地名は明治8年6月に「千手村」と「犬塚村」とが合併して生まれた地名だそうです。(「吹上地区小字の由来」吹上地区まちづくり協議会編集発行)

今年は今上天皇の即位の礼が行われます。「令和御大典の年」です。令和の時代が平和で豊かな時代になることを願いたいと思います。



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神明宮の神幸祭を見て来ました [祭]

今日未明に栃木市内で拳銃の発砲事件が発生したと言うニュースを、昼のテレビニュースで知りました。
犯人が拳銃を持ったまま逃走していると言う事で、街の中はどうなっているのかチョッと心配になりました。
今日、栃木の街中は旧栃木町五ヵ町の総鎮守「神明宮」の夏祭り「神幸祭」が行われる日だからです。
でも夕方、耳を澄ますと街の方向から微かに、祭太鼓の音が聞こえて来ています。無事行われている様で、夕食後ウォーキングを兼ねて、祭り見物に出かけてきました。
いつものウォーキングルートを歩いて、祭会場となっている大通りへ向かいました。
巴波川行燈祭.jpg
(街中ウォーキングルートは幸来橋から巴波川沿いを歩いて駅前を回りこんで大通りへ)

栃木駅前を回りこんで大通りへ。南関門道路を北上して巴波川に架かる「関門橋」を渡る辺りから、前方が賑やかになって来ました。交通規制が惹かれる文化会館入口交差点の先に、丁度御神輿が到着して休憩に入るところです。
神明宮神幸祭1.jpg
(倭町三枡屋本店さん前に到着した御神輿)

ここで一旦担ぎ手さん達の休憩がとられるようで、御神輿は台の上に置かれましたので、近くに寄って写真を撮ってきました。
神明宮神輿.jpg
(「神明宮」と記した弓張提灯を四方に取り付けた御神輿、重量感タップリです)

この御神輿、私も今から30年程前の若かった頃に、担がせて頂きました。見ていると今でもその時の重量が肩に圧し掛かってくる様です。この神幸祭は栃木旧5ヵ町のお祭りですから、御神輿はこの各町内を隅から隅へと回って歩くために、早朝から神明宮を出発しましたが、午前中は万町東裏通りや旭町神明宮裏通り、旭町五丁目内を回って、それからやっと大通りに出てきました。(今でもそれは変わっていないのではと思いますが)その為か午前中は担ぎ手が十分集まらず、御神輿の重量でドンドン下がってつぶされそうになり、リーダーからは「みっともない担ぎはするな、上げろ上げろ」と、何度も発破を掛けられたものでした。その時は祭りの後、数か月胸が圧迫されるような痛みが続いた記憶が残っています。
旧栃木町五ヶ町提灯.jpg
(旧栃木5ヶ町の高張提灯が勢ぞろい、旭町の提灯が後ろに隠れていてチョッと残念)

そして、御神輿とは切って離すことが出来ないのが祭囃子。この地囃子を聞くのは私は大好きです。大太鼓に付け太鼓、大鼓・小鼓はリズミカルに打ち鳴らされる、そして鉦に調子よく流れる横笛の音色。
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(例年通り神幸祭に花を添える、旭五お囃子保存会の山車)
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(私が見物していた時演奏していたのは、藤岡町蛭沼の囃子保存会の人達でした)

何時までも見物をして、お囃子を聞いていたかったのですが、大通りの歩道に並ぶ露店の店先を見ながら帰路につきました。万町交番前は警察官が立って交通規制をされておりました。
ウォーキングルートは更に北上し、北関門道へ入ります。ここまで来ると祭の喧騒もすっかり遠ざかり、いつもの風景が周りを包んでいます。

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五羽の子ツバメが、無事揃って巣立って行きました。 [自然の恵み]

今朝、一番に玄関先のツバメの巣を確認しました。巣にツバメの姿は有りません。昨夜はどうやらツバメは戻ってこなかったようです。これで完全に巣立っていったと感じました。空は久しぶりの青空が広がっています。
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(今朝、7月17日9時頃撮影、ツバメの姿が消えた巣)

ツバメ達の巣立ちの準備は7月11日頃から見られる様になりました。狭い巣の中で羽を広げ「羽繕い」をしたり、巣の縁につかまって羽をバタバタさせ、羽ばたきの訓練をするツバメの姿が見られました。
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(7月11日16時頃、狭い巣の中で羽を広げるツバメ、他のツバメが窮屈そう)

7月13日の朝、家の周りを数羽のツバメが飛び回り騒いでいるように見えます。もしかしたら我家のツバメが飛び出したのかと、急いで巣を確認するとそこにはまだ五羽のツバメが並んでいました。その巣の近くを飛び回るツバメ、親ツバメもその中にいるのでしょうか。「皆も飛び出してごらん」と、誘っている様にも見えます。
その内、意を決したように一羽が羽ばたいて巣を飛び出して、近くの電線に止まりました。
そのて又一羽、又一羽と巣から飛び立ちました。でも後の二羽はまだその時では無い様です。
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(7月13日11時頃撮影、残った二羽はまだ飛ぶ気は無さそうです)

その日の夕方、巣をのぞいてみると、シッカリ五羽のツバメが揃って、親ツバメから餌を貰っていました。
まだ巣立ちには成らないようです。
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(7月13日16時頃撮影、五羽のツバメが揃っていました)

7月14日の14時過ぎに巣を確認すると、なんとツバメの姿が無く、みんな巣から飛び立っていました。
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(7月14日14時30分撮影、ツバメの姿が無くなった巣)

しかし、その日の夕方には一羽のツバメが巣に戻っているのを確認しました。
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(7月14日18時頃撮影、一羽のツバメが戻っています。)

その日も結局夜には、五羽のツバメが巣に居るのを確認しました。まだこの巣が良い様です。
翌日7月15日も昼間五羽のツバメはみんな巣を飛び出していましたが、やはり夕方になると、巣に戻っているのです。
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(7月15日18時頃撮影、たくましくなった五羽のツバメが巣の中で休んでいます。)

そして翌日7月16日、とうとうこの日はツバメは一羽も巣に戻って来ませんでした。
そして今朝、空っぽになったツバメの巣だけが残りました。完全に巣立ったようです。付近の電線にツバメの姿は見えません、でもしばらくは近くで飛び回っているのかもしれません。
秋になり南の国へ旅立つ為の体力を付け、無事に海を渡ってほしいものです。
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もすこし様子を見て、この巣も処分していきます。
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大皆川町の田んぼ脇に建てられた「報徳碑」 [石碑]

栃木市街地の西方に、かつての皆川村の大字のひとつ大皆川、現在の栃木市大皆川町と言う地域が有ります。、北側の千塚町や宮町から南流してきた永野川が、太平連山から北東部に張り出した舌状台地に、行く手を阻まれた形で大きく円弧を描いて、その流れを東方向に変える、その内側となる永野川右岸に位置しています。
永野川の西から南西側の対岸は皆川城内町、南東側は岩出町と成っています。
今回の石碑はそんな大皆川町の西域、家屋脇水田の畔の上に建てられています。
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(家屋をバックに水田に面して建つ石碑3基)(一般の石碑より厚さが薄い)

私が撮影に訪れた日は、梅雨の冷たい雨がシトシトと降っていました。
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(3基並ぶ石碑は、中央が碑文を刻した主碑、両側は普通碑陰に刻される関係者芳名一覧)

中央に建つ石碑の表面に刻された文字を書き写しました。□は判読する事が出来なかった文字の箇所になります。
報徳碑(碑文).jpg
石碑上部の篆額の文字「報徳碑」は、建立時に陸軍大将従二位勲一等伯爵であった、山縣有朋によるもの。碑文は大日本帝国神道修正教官長の新田邦光の撰文であるとが、碑文冒頭に刻されています。明治初期の日本政界及び宗教界で活躍された人物の名前でまず驚かされます。
碑文は「晃山峩峩 永川滾滾」と韻を踏んで始まっています。「こうざんがが えいせんこんこん」これは何を描写したものか、私のお粗末な頭で考えてみた。「晃山峩峩」は皆川の地の南側に東西に連なる「晃石山」を最高峰に連なる山々の事か、そして「永川滾滾」とは皆川の地を貫流する「永野川」の流れを詩的に表現したもの。次に続く「螺貝丘」は通称「法螺貝城」と呼ばれた「皆川城」の事。やっとの事でそこまで読み込むのですが、その後が続かない。どのように読んで行けば良いのか、遅々として読み進むことが出来ない。
「文糸翁」とか「關口保」「長沼五郎秀宗」など単語として読みとれますが、文章として成り立たない。「長沼五郎」と云えば1159年頃に小山城を築いた、下野大掾「小山政光」の二男「宗政」で、下野国芳賀郡長沼に居を構え「長沼氏の祖」が思い浮かんできますが。又、「秀宗」の名前は、第二次皆川氏の祖の事と思われます。西隣、皆川城内町の金剛寺境内に有る、皆川家歴代祖廟の中に「初祖長沼秀宗公」と記された墓石が見られます。その説明文に「永享元年(1429)会津田島より移住」と記されています。
金剛寺の伝によると秀宗は下野国に移り、初め岩田郷皆川庄滝の入に住み、その後白山台に移った。更に観音山に築城したとしています。
皆川家累代墓所.jpg皆川秀宗の墓.jpg
(金剛寺、皆川家歴代祖廟)      (長沼秀宗公墓前に立てられた表示版)

こうして観るとこの「報徳碑」の人物は皆川家に関係した人との推定が成される。碑文にはその人物の人となりが、縷々と記されていますが、私には難解な漢文で読み切れません。
このブログで前に紹介した、細堀町の田んぼの畔に建てられた石碑の場合の様に「大川鴻山先生碑」と有れば、誰の為に建てられた石碑か一目瞭然なのですが、今回の石碑はその人物にたどり着くことがなかなか出来ません。
碑文の最後に記された日付けは、「紀元貮千五百五十五祀愛景」と記されています。これは西暦にすると「1895年」、この年日本は日清戦争に勝利し下関にて「日清講和条約」が締結された時です。

次に中央に建つ主碑の両側の石碑に目を向けてみます。
まず左側の背の高い石碑。上部に「主師高恩」の文字。その下に多くに人物の名前が連ねられています。その筆頭には、「衆議院議員の新井章吾」皆川村の北東側に隣接する吹上村の出身。次に「県会議員の高久倉蔵」、この人は同じ皆川村出身で、大皆川の東隣り泉川の生まれ。この人物は後に第九代皆川村長や、明治41年(1908)の第10回衆議院議員選挙にも当選して活躍をした人の様です。≪石崎常蔵著「栃木人・明治・大正・昭和に活躍した人びとたち」を参照させて頂きました。≫
その他には「里長」「親友」「親戚」故旧」「門人」「世話人」等の名前が続いています。
日付けは「明治廿八年七月」と刻されています。
主師高恩(左).jpg主師高恩(右).jpg
(碑に向かって左側に建つ「主師高恩」碑)  (碑に向かって右側に建つ「主師高恩」碑)

そして、右側の小ぶりな石碑を見ると、左側の石碑同様「主師高恩」と有ります。
その筆頭には「門人」として、「村長関口豊次郎」の名前。村長とはもちろん地元皆川村の長になります。
「門人学友」の次に「皆川旧臣」として7名の名前が連なっています。下段には「門人」そして「発起人」達の名前になります。下段は雑草に遮られて名前が確認できない所が有りました。

改めてこれらの石碑の主人公は誰なのか考えてみます。
「門人」とする名前が多く連なっている所から、先の細堀町の石碑「大川鴻山先生」の「錬武館」のような剣道場を設けて多くの門下生を教えた人物なのか。明治初期の大皆川の教育機関を調べてみると、明治5年8月2日に日本最初の近代的学校制度を定めた「学制」が太政官より発せられると、栃木の周辺地域でもそれぞれの村で私塾的な教育施設が出来てきます。大皆川にも関口源治氏による「分校国宝舎」が開校しています。この人は先に記した村長関口豊次郎氏の父親になります。しかし碑文の中に「源治」の名前は見つかりません。発起人の名前の中に「関口」と言う文字が多くみられますし、碑文の中にも「關口」の名前も認められますから、関口姓の人物で間違いないと考えますが、この石碑の建つ地区「西大皆川」には現在も約100軒の住居が有りますが、その内関口姓は13軒確認されますので、特定は出来ません。昭和33年8月15日発行「皆川廣照伝」(編者:近藤兼利)の付録「皆川先祖譜代家臣録」の中にも、大皆川に「關口」姓が10名分確認されますから、ここからも絞り込みは出来ません。(皆川先祖譜代家臣録の中に収められている「關口」姓の人物は一番多く68名数えられています。)
この石碑に関しては今後も調査を進めていきたいと考えています。

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今日も、ツバメ成長中 [自然の恵み]

今日も5羽のツバメのヒナは元気で親ツバメから餌を貰っています。
かなり体も大きくなり、胸には白い毛も現れています。
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(丸々と太った5羽のヒナ達。窮屈そうに身を寄せています。7月9日朝撮影)

でも、ここまで来るまでに今年も色々有りました。
今年の6月26日に4羽のヒナを確認しましたが、その後ヒナが6羽孵った事が7月1日に分かりました。
親が餌を運んでくると、その気配でヒナ達は一斉に大きく嘴を開けて、餌を貰おうとします。
よく見ていると、巣の前列に先に孵ったヒナ4羽が陣取り、後方にまだ成長僅かなヒナが一生懸命首を伸ばして餌を貰おうとしています。が、なかなか餌に有りつけません。
前列のふてぶてしい顔をしたヒナ達は、親が車で巣にもたれてジッと待っていますが、その後方でお腹を空かしたヒナが一生懸命嘴を開け、首を精一杯伸ばして、餌をせがんでいる姿が少し切なく見えました。
その時ある不安がよぎりました。

翌日の朝、その不安が的中しました。玄関の床の上に1羽のヒナが落ちていました。
気が付いたときはまだ小さく動いていましたので、何とかしなくてはと思いました。
実は昨年も1羽のヒナが同じように巣から落ちていたので、すぐ巣に戻しましたが、その後又落ちてしまったのです。
インターネット上には「巣からヒナが落ちて困った、どうすればいいか」と言う書き込みが結構あります。
その中に確かにヒナが落ちた場合戻しても又落ちる、仮の巣を設けてやればヒナの声に親ツバメが気付けば又面倒見てくれる。と有ったので、さっそく小箱を用意して玄関の外灯の上に設置してみたが、親が怪しんで近づかない。翌日箱の中をのぞくとまだヒナが小さく鳴きながら体を動かしていたので、今度は思い切り巣の近くに仮の巣を移して設置してみました。
すると親ツバメは一層警戒して仮の巣に近づきません。落ち着かない様子で辺りを飛び回り、それでも何とか巣の中にいる5羽のヒナには餌を運んでいました。
やはり一度見放されたヒナは助からないのか。
昨年も結果的に4羽のヒナが大きく成長した時は巣が小さく見えました。今年は5羽、今も押し競まんじゅう状態に見えます。
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(昨年、成長した4羽のヒナ、巣が小さく見えます。2018年6月撮影)

一昨年、2017年には巣全体が落ちてしまった事が有りました。この時は箱の中に落ちた巣ごと入れて、玄関の外灯の上に設置しました。
この時は親ツバメもヒナの見放さないで育てて無事5羽が巣立ちました。
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(一昨年、巣全体が落下し、玄関外灯の上に設置した箱で子育てを継続。)
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(広い箱の巣で大きく成長した5羽のヒナ達。2017年7月撮影)

その後仮の巣に親ツバメも慣れたのか、箱の上に止まって休む姿が見られましたが、中のヒナが無事なのか確認するのも不安で、しばらく様子を見る事に。
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(巣の脇に設置した仮の巣にとまる親ツバメ、巣には5羽のヒナが覗く)

7月7日の朝、思い切って仮の巣の中をのぞいてみました。すると不思議なことに箱の中は空っぽになっていました。どうした事なのか、謎が深まりました。
なぜヒナが巣から落ちてしまったのか。
ヒナが誤って巣からのり出して、自ら落下したのか。?
他のヒナ達に追い出されるように落下したのか?
こんなことは無いと考えるが、6羽は多すぎると親の手によって放り出されたのか?
実際今も巣の中はすし詰め状態。6羽だったらどうなったものか。又巣ごと下に落下してしまうのでは。
色々想像してしまいます。
それにしてのヒナの死骸は何所に消えてしまったのか。
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(親ツバメが近づくと、大きく嘴を開けて、えさを求める5羽のヒナ達)

早く5羽揃って巣立って欲しいと思っています。
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今日、ツバメのヒナが頭を出しました。 [自然の恵み]

今年も我家の玄関先に、ツバメの夫婦が現れたのは、5月の下旬。
玄関ポーチの陰、外から見えないいつもの場所に、せっせと藁くずなどを運んで、巣作りを始めたのは5月の28日でした。
ツバメの雛誕生1.jpg

それからもうすぐ1カ月が経過しようとする昨日今日、巣の中から産毛の様な影が、時折目撃するようになりました。例年の事でツバメの夫婦が交代で抱卵する姿がいつも目に入ってきていましたが、それほど気にすることも無く経っていました。
そして今日、親ツバメが巣に戻ってくると、巣から首を伸ばして餌を貰うヒナの姿が確認されました。
ツバメの雛誕生2.jpg

一羽、二羽、三羽。まだ全部で何羽いるかは分かりません。
ツバメの雛誕生3.jpg

これから日に日に成長して、巣から体を乗り出して親から競うように餌を貰う姿が戻ってきます。
心配になることも沢山有ります。
これまでも、巣が落ちてしまったり、ヒナが巣から落ちてしまったり、蛇が玄関のドアノブから登ろうとしていたりと。巣の下に大量の糞が落とされるのもこれからです。
今年も無事に巣立つまで又、目が離せなくなります。
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