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地元栃木市のマンホールカードをゲットして来ました。 [マンホールカード]

今日12月14日(金)、マンホールカードの第9弾が配布開始されました。
今回はやっと地元栃木市のマンホール蓋がカード化されたので、さっそく配布場所と成った「栃木市観光協会」の「観光総合案内所」(栃木市倭町14-1)に行って、ゲットして来ました。
栃木市マンホールカード.jpg場所配布.jpg
(栃木市のマンホールカード) (カードを配布している栃木市観光協会の観光総合案内所)

自宅から歩いてカードが貰えるのは最初で最後でしょう。
地元の御馴染みのデザインマンホール蓋のカードを手にして、ひとり満足しています。
明日は同じく今日配布開始と成った、佐野市の「さのまるくん」デザインのカードでも貰いに行こうか、それとも思い切って日光いろは坂を登って、日光市のカードをゲットするか、又楽しみが出来ました。
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栃木市のマンホールカードが出来ました [マンホールカード]

本日、下水道広報プラットホーム(GKP)のインターネットホームページに、同プラットホームが企画・監修している「マンホールカード」の、第9弾にて配布される内容が公開されました。
今回新たに配布が開始されるものは60種類、この中に私がずっと待っていた1枚が有りました。それは私の地元「栃木市」のマンホールカードです。
私がこのマンホールカードの存在を知り、収集を始めたのが今から2年前です。2016年8月の第2弾配布の中に、栃木県の自治体で最初に足利市が名乗りを上げ、新聞の栃木版にそのニュースが掲載されたのを見て興味を持ったのが初めてでした。
足利マンホールカード2.jpg足利マンホールカード1.jpg
(栃木県内最初のカードとなった足利市のマンホール蓋とそのモデルの足利学校門)

以前からマンホール蓋のデザインが自治体によって異なるのを写真に撮って、県内各地はもとより近県まで足を延ばして多くのデザインマンホール蓋の写真を収集していたので、このマンホールカードの収集も始めた訳です。
今現在で丁度100枚のマンホールカードを収集しましたが、以前から地元のカード発行をズーット期待して待ち続けていたので、今回のニュースには喜んでいます。
今回配布される栃木市のカードのデザインは、旧栃木市内ではおなじみの図柄に成ります。それは栃木市観光のシンボル的な風景、巴波川とそこに泳ぐコイ、そして川沿いに連なる黒塀と土蔵「塚田歴史伝説館」、その左下に「新生栃木市」の市章が描かれたデザインです。
このデザインマンホール蓋は、旧栃木市内の街中を歩けばどこでも見る事が出来るものですが、ただカラー版の蓋はこれまで有りませんでした。それが今年の3月の末に偶然カラフルに色付けされた蓋を、旧栃木市役所別館近くの路上で発見しました。この時私はいよいよ4月の第7弾でカードが出るのではと、密かに期待を膨らませておりました、がそれは見事に裏切られました。そして8月の第8弾でも空振り、少し諦めていましたが今回見事にカード化が実現しました。
栃木市マンホールカード1.jpg栃木市マンホールカード2.jpg
(今回カード化される栃木市のマンホール蓋とモデルと成った巴波川の風景)

101枚目の節目のカードは地元栃木市のカードと決めました。
そして今回の驚きはもう一つ有りました。栃木県内で同時に3ヶ所、カードが配布される事に成ったのです。栃木市とお隣「佐野市」そして「日光市」です。栃木県内で3枚同時発行は今回が初めてです。
配布開始となる12月14日(金)が今から待ち遠しいです。


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秋深まる栃木市郊外を走る [自然の恵み]

今年も今日から12月に突入しました。今朝も冷え込みは少なく、暖かな日が始まりました。
昨日も一日風も無く穏やかで暖かかったので、久しぶりに自転車に乗って、栃木市郊外の紅葉を探して走り回りました。
太平山の南麓、大平町下皆川の両毛線に沿う道路を、南に下り大平町富田の旧例幣使街道富田宿を走り抜けて、更に街道から外れて南方向岩舟町静和に入ります。
下皆川の秋景色.jpg
岩舟町静和の東光寺薬師堂前の大銀杏が黄色く色付いています。
東光寺大銀杏の黄葉.jpg
ここで東武日光線の踏切を渡り、真直ぐ南に走ります。我家から南方向への関東平野はなだらかな下り坂になるので、快適に自転車を進める事が出来ます。南に行くという事は、逆に帰りは登り道に成るのですが、それでも関東平野、極端な勾配は無く体力の落ちた私でも、何とか走れる環境です。
東武日光線静和役付近で再び線路を渡り、国道50号線の高架橋下を潜って赤塚山の裾野を時計方向に回り込み、岩舟町静和から岩舟町静へ。

岩舟町静は西に足尾山地の南の先端「三毳山」が南北になだらかな曲線を描いて広がっているのを望む事が出来ます。(写真下)
午後に成ってしまうと太陽が山の西側に掛かってしまう為、少しシルエットに成って来てしまいます。山並みの右側一番高い所が三毳山の主峰「青竜ヶ岳」(229m)、そして左側の高くなっている所が「中岳」(210m)です。
岩舟町静の秋景色三毳山.jpg

北の方向には遠く太平の山並みが東西に連なっています。右奥に「太平山」(341m)、中央一段と高く突き出てるのが、連山の最高峰「晃石山」(419m)、そして左に連なるのが「馬不入山」(345m)。手前の色付いた山肌を見せているのが「冨士山」(94m)に成ります。(写真下)
岩舟町静の秋景色.jpg

東側には先ほど走って来た赤塚山、そして直ぐ目の前には色付き始めた里山がせまります。
岩舟町静の紅葉1.jpg岩舟町静の紅葉2.jpg

ここから家に戻る事にしました。ここ静和の標高は27m程度、我家の有る箱森町の標高は約49m、従ってその比高は22mに成ります。この22mを登って行く事に成りますが、この2点間は直線距離で10kmも有りますからその間の平均勾配は僅か0.1度程度で、登り坂とは言えませんがそれでも往路の快適感は消え、所によっては必死でペダルを漕がないと、前に進まなくなります。幸い昨日は無風状態だったので助かりました。富士山の裾野を回り込んで北上、復路は太平の山々を左に見て箱森町に戻りました。

大平町西山田の秋景色.jpg
(大平町富田西部より望む太平の山並み、山麓には西山田のぶどう団地が広がっています)

久しぶりのサイクリングでしたが、天候に恵まれて気持ち良く廻ってこられました。走った距離は約30kmでした。
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那須塩原市、板室温泉神社境内に建つ常夜燈 [石碑]

北の大地、札幌から初雪のニュースが届けられました。記録上最も遅い初雪だそうです。
確かに私の住む栃木市でも、これまでのところ毎日本当に暖かい日が続いて来ていますが、それでも少しづつ朝夕の寒さは増して来ているのも感じられます。
我家でも今日、やっと炬燵を出しました。炬燵に入るとなかなか出るのが億劫になって来ます。

先週の事ですが、那須塩原市の板室温泉に紅葉を見に行って来ました。時期的には少し遅い感じでした。私はあまり混雑する処が苦手な方ですので、少し紅葉のピークを過ぎてから、残り少なくなった紅葉を楽しみました。
板室温泉は、那須温泉と塩原温泉との丁度間に位置する、こじんまりとした温泉地で、私は今回初めて訪問をしました。東北自動車道の黒磯板室インターチェンジで降り、その後県道369号黒磯田島線(板室街道)をひたすら山に向かって進んで行き、那珂川支流の木の俣川に架かる「木の俣橋」を通過する事、800メートル程分岐と成ります。
木の俣橋.jpg
(那珂川支流、木の俣川に架かる「木の俣橋」)
木の俣渓谷の紅葉1.jpg木の俣渓谷の紅葉2.jpg
(木の俣橋下流側は公園として整備され、木の俣渓谷に沿って散策出来ます)

手前の道路標識で、直進「那須湯本12km」「板室温泉1km」、左方向「深山5km」を確認。そのまま直進しますが、ここで道路は県道266号中塩原板室那須線(板室街道)と変わります。
直進する事1キロメートル、那珂川に架かる「幾世橋」を渡ると、板室温泉街へ。200メートル程進むと、道路右側に那須塩原市の公共駐車場(公衆トイレ完備)。ここに車を停めて街中を散策します。
駐車場から山方向に200メートル程歩いて行くと、右側に郵便局。そして左側には小川が流れ、朱色に塗られてコンクリート桁橋が架かっています。親柱には「大黒橋」の表示、下を流れるのは温泉街らしく「湯川」。
対岸に広がるのは、那珂川左岸に広い敷地を持つ温泉旅館「大黒屋」さんらしい。湯川沿いの木々はまだ紅葉が残って良い感じになっています。
大黒橋1.jpg大黒橋2.jpg
(那珂川支流、湯川に架かる「大国橋」)
そこを過ぎて300メートル程、細くなった温泉街の道を進むと左側に「内湯温泉・加登屋本館」さんの趣の有る建物が目を引きます。更にその先に「温泉神社参道入口」の案内板。加登屋本館さんの裏手を流れる湯川に架かる橋を渡ると、温泉神社への案内板。「神社まで200メートル」の言葉に引かれて参道を登ります。
板室温泉加登屋本館.jpg板室温泉湯川.jpg
(趣の有る「加登屋本館」さんの建物)(湯川に架かる橋を渡り、右岸の温泉神社参道へ)
参道は良く整備されていて登り易くなっています。それでも登り坂は最近きつく感じる様になりました。紅葉した木々も大分散ってしまい、参道は落葉で埋もれる様です。
板室温泉神社参道1.jpg板室温泉神社参道2.jpg
(板室温泉神社への参道は落葉が一杯でしたが、歩きやすく整備されていました)

温泉神社の境内に到着、さっそく石の鳥居を潜り、拝殿に向かい参拝をします。
板室温泉神社拝殿.jpg
(板室温泉神社の鳥居越しに拝殿を望む)
境内の案内板によると、≪神社の創建は寛文二年(1662)、本殿は文政十年(1827)に当時の神社世話人であった、柏谷治右衛門、大国屋利兵衛、江戸屋藤右衛門の三人による寄進で、再建されたと云われています。柱や壁面に松竹梅や孔雀・竜などの見事な彫刻が施されています。板室は江戸時代には黒羽藩領でしたが、拝殿入口近くには弘化三年(1846)に大田原城主が寄進した、一対の石灯籠が残っています。≫と記されています。
拝殿の前から境内を望むと、鳥居の先に一基の石灯籠がシルエットと成っていました。
板室温泉神社2.jpg
(温泉神社拝殿前より境内を望む、鳥居の先に一基の石灯籠が建つ)
その鳥居の前に建つ一基の石灯籠が気に成ったので、その周りをぐるりと回り、石に彫られた文字などを探ってみました。
常夜燈1.jpg常夜燈2.jpg
石灯籠の竿の部分、神社拝殿に向かった面、正面となるのでしょうか、「常夜燈」と大きく刻されています。右下隅に「好文軒」そして左下隅には「室竜水謹書」と見えます。左側側面には建立年か、「寛政十戊午年八月吉祥日」と刻されています。西暦1798年と言うと第11代徳川家斉の世、松平定信による寛政の改革が行われた後に成ります。そしてその日付の下側には、小さな文字で名前が刻されています。「室井新右衛門」「室井権兵衛」「室井長兵衛」「高根沢新八」間を開けて左隅に「高根沢☐ヱ門」の名前が連なっています。次に右側側面には「願主」として二人の名前が見えます。「江戸屋勝右衛門」そして「大国屋彦兵衛」。そして背面には「一金貮両 名主 室井新右衛門」「大山田村」、「石工 深澤治助知直」など。
更に竿と基礎石の間の石の周囲にも多くの寄付をした人達の名前や金額が刻されていますが、その中に下の写真に見られる「油料」を寄付した名前の中に「杤木」の文字を見付けました。
常夜燈3.jpg
まず「油料」の文字の次に、「杤木☐弓村 貮朱 川連定之丞」そして次に五人を置いて、「杤木中丁 一同 釜屋長七」と読めます。一人目の村名の一文字が読めませんが、人物名から現在の栃木市大平町真弓と思われます。又、栃木に付いては江戸時代は、木偏に万で「杤」と云う字を書いていました。一説には「十千木(とちぎ)」という処から「木」が「千」の「十」倍で「万」となるので「杤」としたとか。
「杤木中丁」というのは、現在の栃木市倭町に成ります。そこの「釜屋長七」とはどんな人物だったのか。
栃木から遠く離れたこの地に建つ石灯籠、そこに残る文字に興味は尽きません。
紅葉を見るには少し遅いと思ってきましたが、この温泉神社境内からの紅葉は、まるで燃え盛る炎の様に見えました。
板室温泉神社1.jpg
板室温泉の紅葉1.jpg板室温泉の紅葉2.jpg
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栃木県内各市で、新しいデザインのマンホール蓋を設置 [コレクション]

最近、全国的にマンホールカードの人気が高まり、多くのコレクターが各地を訪れています。
私もそのブームに乗って地元栃木県を中心に集めて、現在99枚。後1枚で100枚の大台に乗りますが、その1枚がなかなか。来月には新たに第9弾が発行されるので、栃木県内で発行されることを期待しています。
一方そんなマンホールカードの影響によるものか、デザインマンホール蓋への注目度も、これまで以上に上がって来ている様です。その証拠に、今年度栃木県内で新しいデザインによる、ご当地マンホール蓋の設置があちこちで行われています。それはマンホールカードと共に発表されるものと、将来的にカードの発行も予定されつつ、先行して新しいマンホール蓋のデザインを発表、設置するケースも少なくありません。
マンホールカードの発行はこれまで、4月・8月・12月の年3回の頻度で発行されて、1回の発行種類も制限が有る為、発行を希望する自治体が多ければ、順番待ちという事に成ります。自治体によっては既に2種類も3種類も出している所も有ります。
マンホールカードを発行することによって、コレクターが現地を訪れて来ますから、観光PRの一助にもなっています。
2018年、今年これまで栃木県内で、新しいデザインのマンホール蓋を設置したのは、私が確認している物で11種類も有ります。(幾つか紹介します。)
とちまるくん.jpgさのまる.jpg日光連山とSL大樹.jpg
(栃木県)               (佐野市)             (日光市)
彫刻屋台.jpgみるふぃ&キティ.jpg餃子通り.jpg
(鹿沼市)               (那須塩原市)          (宇都宮市)

私は、マンホールカードの第一弾が発行された、2016年4月の前から、デザインマンホール蓋の写真を撮影していました。そして2016年10月21日、このブログで栃木県内のマンホール蓋をほぼ全部収集してとしてまとめて掲載しました。しかし、その後もこうして新しいデザインのマンホール蓋が作られ設置されています。カラーマンホール蓋も多くなりました。
現時点で私が収集した栃木県内のデザインマンホール蓋の種類は80種、その中でカラーのマンホール蓋は40種と成っています。

又、撮り尽くしたはずと思っていましたが、見逃していた以前からのデザインマンホール蓋もまだ有る様で、これらを最近も偶然に見つけたりしています。
都賀町1.jpg都賀町集排.jpg
(旧都賀町のデザインマンホール蓋) (今年見つけた都賀町集排のデザインマンホール蓋)
写真右は、今年7月に都賀ターゲットバードゴルフ赤津コース近くの道路で発見した、都賀町集落排水のデザインマンホール蓋です。図柄は旧都賀町章、町の花「キキョウ」、そして魚が泳ぐ川の流れなどが描かれています。川は地区内を流れる「赤津川」や「荒川用水」でしょうか。
写真左は、都賀町の通りで良く見るマンホール蓋です。図柄は旧都賀町章、町の花「キキョウ」、そして都賀町に三ヶ所文化財に指定されている、「獅子舞」に成ります。

国分寺町2.jpg国分寺集排.jpg国分寺集排(菊).jpg
(国分寺町集排、水車)    (国分寺町集排、ハト)    (国分寺町集排、キク)
上の3枚の写真は、全て旧国分寺町のデザインマンホール蓋です。
水車の絵柄は栃木市から小金井街道を進み、花見が丘から姿川辺りで良く目にするマンホール蓋ですが、ハトとキクの絵柄のマンホール蓋は今年に入って撮影した物です。中央の「ハト」の絵柄に付いては以前からインターネットにて存在を確認していましたが、これまで旧大字国分寺周辺を何度となく探索していましたが、どうしても発見できませんでした。ハトやキクの絵柄のマンホール蓋は旧大字国分寺を大きく離れた、JR小金井駅の東側、新国道4号線近くで、まさに遭遇しました。絵柄と成った「ハト」は旧国分寺町の鳥、「キク」は旧国分寺町の花でした。この辺りは昔は大字柴と云い、此処もまた旧国分寺町の範囲だった事を、この時知りました。旧国分寺町は予想以上に広い範囲にまたがっていました。

こうして見ると、栃木県内にも、まだまだ私が発見していないデザインマンホール蓋が有るのかも知れません。これからも気を付けて道路上をチェックして行きたいと思いました。
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私が撮り続けた、栃木秋祭りの思い出 [懐かしい写真]

今年、2018年は栃木市秋祭り、人形山車出御の年です。以前は5年間隔でしたが、2006年以降は2年に1度の出御に変更と成りましたので、祭り好きにとっては歓迎する所です。
「写真撮影が趣味」と言うより、運動するのが苦手で、人と交流する事もそんなに得意でなかったので、一人で楽しめる写真撮影が、その頃の私には打って付けだったのかも知れません。
今、秋祭りの日が近く成って来て、ふと、私がこれまで撮影して来た祭りの写真を見返してみました。
古いアルバムには、ピンボケした物や、色褪せてしまったカラー写真も多いですが、そんな写真を眺めていると、忘れてしまったその頃の風景が、断片的ですが蘇えって来るのでした。

私が初めて人形山車を撮影したのは、昭和41年(1966)でした。まだ白黒フィルムでしたし、高校生で金銭的余裕も無かったので、撮影した枚数はたったの6枚でした。それも何故か夜間で山車も小屋の中に入った状態での撮影でした。なぜ昼間の写真を撮らなかったのか、それは思い出せません。
1966秋2.jpg1966秋1.jpg

次が5年後の昭和46年(1971)です。この頃にはカラーフィルムも使い始めていました。撮影枚数は24枚でした。
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2枚の写真とも、倭町の大通りに有った歩道橋付近で撮影した物、1枚は歩道橋の上から人形山車を撮っています。歩道橋が設置して有った場所は、現在の「蔵の街第一駐車場」の前に成ります。その為万町一・二・三丁目の人形山車はこの歩道橋の下を潜る事が出来なかったので、ここでUターンして戻る事に成りました。又、通りを横断する電線等も多かった為、山車の巡行時は、山車の上層部や人形を下げていました。

5年後の昭和51年(1976)は、市制40周年に当たりました。この年私はカラーフィルム2本57枚、モノクロフィルム1本39枚の写真を撮りまくっています。
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写真は2枚とも秋祭り名物の「ぶっつけ」の様子を写しています。上記の歩道橋を挟んで倭町二丁目「神武天皇」の山車(左側)と、万町一丁目「天照大神」の山車(右側)とのぶっつけです。
そして右のモノクロ写真は、歩道橋を潜って万町側に巡行して来た室町「桃太郎」の山車(手前)と、それを迎える万町一丁目・ニ丁目の山車とのぶっつけの様子です。
この年見られたのは、倭一「獅子頭」、倭二「神武天皇」、倭三「静御前」、万一「天照大神」、万二「関羽雲長」、万三「素盞嗚尊」、泉「諌鼓鶏」でした。

昭和56年(1981)の秋祭りは、初めて第二小学校の校庭に勢揃いをした人形山車を見る事が出来ました。これまでは大通りでの巡行だけの撮影でしたが、この頃から勤めていた会社も土曜休日に変わった事で、広範囲での撮影が可能になりました。各町内から第二小学校へ向かう途中、常盤橋を渡る山車や、入舟町や湊町を巡行する山車の様子を撮影しました。
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この年、私は人形山車の巡行の写真を70枚撮りましたが、その中にこれまでずっと参加していた倭町三丁目の「静御前」の姿が写っていません。

昭和61年(1986)の秋祭りも、70枚の写真を撮っています。この年は祭りの期間中に、昭和58年から始められた「第4回とちぎ・太平山・蔵の街マラソン大会」が行われ、大通りを駆け抜けるランナーに声援を送る様に、山車の上からお囃子が打ち鳴らされていました。
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大町の人形山車「弁慶」が初めてお目見えしたのは、この年からです。又、この年は市制50周年のパレードに「日の出町青年部はやし連」が鎧武者姿の「源義経」を載せた車で参加をしています。もう1枚の写真は「ぶっつけ」ですが、これまで多くの「ぶっつけ」の様子を撮影して、何時もその時の祭りの雰囲気に呑まれて思うような写真を撮る事が出来ません。夜の「ぶっつけ」はストロボを使うと、手前が白く飛んでしまったり、影の無いフラットな写真で物足りません。この写真も色々工夫した1枚です。まだテクニック不足でした。

平成3年(1991)、時代は昭和から平成に移り、最初の秋祭りです。67枚の写真が残りました。
この年、栃木文化会館北側駐車場に勢揃いした人形山車を見に行きました。
この栃木文化会館駐車場に各町内の山車が一堂に揃うのは前回の昭和61年からで、それまでの会場だった第二小学校校庭は、蔵の街マラソン大会のスタート・ゴール会場と成っていた為、その前昭和58年に元栃木刑務所跡に完成した「栃木文化会館」の駐車場に変わっていました。
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人形山車が整列すると、北向きとなる為撮影するのに逆行気味と成り上手く撮れません。これも私の技量不足ですが。尚、この年は友好親善都市の北海道滝川市から、「しぶき祭」の行燈山車が秋祭りに参加して、祭会場を盛り上げていました。

平成8年(1996)の秋祭りは、人形山車が巡行するメイン会場の大通り無電柱化がなされた事で、巡行する時も人形を下げず豪華な山車の姿を見る事が出来ました。又この年、県立栃木高校が創立100周年の記念する年という事で、それを祝う為に万町一・二・三丁目の人形山車が、栃木高校の正門内まで巡行しています。
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平成12年は、西暦2000年という節目の年と成り、栃木市では多くの大きな事業が完成した年という事で、5年毎に開催していた秋祭りの人形山車巡行を、4年目のこの年特別に行っています。
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そして平成13年(2001)に、これまで5年毎に行っていた定期の人形山車巡行を開催しました。これは特別巡行した前年に続き2年連続、秋祭りに人形山車が繰り出すことに成ったのでした。
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祭期間中、天候に恵まれた事も有り、50万人お越える人出に成り、大通りは身動きが出来ないほどと成りました。

平成18年(2006)の秋祭りは、残念ながら私は仕事の関係で地元に居なかった為、見る事が出来ませんでした。この年も前回にもまして大勢の見物客が訪れたと聞いていました。
これがきっかけとなったのか、この後人形山車の出御が5年に1度から、2年に1度に変わっています。
そして2年後の平成20年(2008)も人形山車が出御したのですが、私はまだ地元に帰って来ていませんでしたので、この時もパスです。

平成22年(2010)の3月、私は4年ぶりに地元に戻りましたので、その年の秋祭りは久しぶりに見に行くことが出来ました。この頃は手持ちのカメラもデジタル式と成った為か、撮影枚数は150枚以上とまさに撮りまくっていました。この後、平成24年、平成26年、平成28年と毎回とちぎ秋祭りを楽しんでいます。
最後に、最近の祭りで撮影した各町内の人形山車等を紹介します。

室町.jpg
(室町 桃太郎)
倭一.jpg
(倭町一丁目 獅子頭)
倭二.jpg倭三.jpg
(倭町二丁目 神武天皇)              (倭町三丁目 静御前)
萬一.jpg萬二.jpg
(万町一丁目 劉備玄徳)               (万町二丁目 関羽雲長)
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(万町三丁目 張飛翼徳)                (泉町 諌鼓鶏)
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(嘉右衛門町 仁徳天皇)                   (大町 弁慶)

今週末に向け、今秋祭りの準備が進んでいます。後はお天気次第です。私も又カメラをぶらさげて出かけたいと、今から楽しみにしています。
秋祭り前1.jpg秋祭り前12.jpg
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巴波川の竹あかり [祭]

11月に入って、今年も栃木市街地の中央部を貫流する巴波川河畔に、竹あかりの柔らかな光が戻って来ました。
幸来橋と下流の巴波川橋との間、その左岸に続く「塚田歴史伝説館」の黒塀を背景に、今年は二筋の光りの列が現れました。
竹あかり1.jpg
(幸来橋の上から下流側巴波川左岸、竹あかりの光りが続く)

その竹あかりの光りは巴波川上流側にも続き、倭橋から更にその上の常盤橋橋詰まで伸びています。
竹あかり2.jpg
(倭橋の上から上流側巴波川左岸にほのかに続く竹あかり。)
巴波川の波立つ川面が、街頭の光りを反射しています。

竹あかりの上端部分斜めにカットされた部分に、その竹あかりのデザインを細工した製作者の名前が表示されていますが、そこには昨年同様に県立栃木工業高校の生徒さんの名前と、更に今年は市内の小学校・中学校の児童や生徒の皆さんの名前も沢山見られました。

常盤橋南西橋詰近くの、横山郷土館前には今年も竹あかりのほのかな光が輝いていました。
竹あかり3.jpg
(巴波川右岸、横山郷土館前を飾る竹あかり)

竹あかり4.jpg竹あかり5.jpg
(竹あかりのデザイン、色々なパターンで表現されています)

竹あかりを眺めながら、陽が暮れた栃木の街中を歩いて来ました。
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太平山(おおひらさん)の名前について

自分ではまだまだ元気だと思っているのですが、最近「加齢」が原因と言われる病気に、罹りはじめています。目は加齢黄斑変性に、この9月中旬ごろからは、帯状疱疹に罹り一ヶ月以上もその痛みに耐えて来ています。最近大分痛みも和らいで来ましたが、自然と体を動かす事を避ける生活に成っています。
先日開催された「第6回栃木市ウォーキング大会」についても、第1回から毎年参加して来ましたが、今年は参加を見合わせました。
今は、図書館で借りて来た本を読んだり、インターネットで国土地理院の地図を見たりして、過ごしています。

今回はそんな生活の中で、最近気に成っている「太平山」(おおひらさん)の名前に付いて、少し調べてみました。
太平山遠望.jpg
(栃木市街地の西に聳える「太平山」、栃木市役所駐車ビルからの遠望)

「太平山」(おおひらさん)は、栃木市民であれば、その呼び方を間違える事は無いでしょうが、漢字で「太平山」と書いて「おおひらさん」と読むのは、全国的にも我が栃木市だけでした。
栃木市図書館にて、「日本山名辞典・改訂版」(2011年8月10日・三省堂発行)を見ると、「太平山」と付いた山名は次の4種類が有る様です。
   ①たいへいざん・・・・・・・・・6座(秋田県3・山形県1・東京都1・島根県1)
   ②たいへいやま・・・・・・・・・1座(秋田県)
   ③おおひらさん・・・・・・・・・・1座(栃木県)
   ④おおへらやま・・・・・・・・・・1座(福岡県)
全体としても「太」の漢字を当てているのは上記の9座だけに成ります。
それに対して「大」の漢字を使う「大平山」は90座も有り、呼び方も次のように8種類も有ります。
   ①おおひらやま・・・・・・・・・・59座
   ②たいへいざん・・・・・・・・・・12座
   ③おおだいらやま・・・・・・・・・・9座
   ④おおひらさん・・・・・・・・・・・・5座
   ⑤おおびらさん・・・・・・・・・・・・2座
   ⑥おおだいらさん・・・・・・・・・・1座
   ⑦だいひらやま・・・・・・・・・・・・1座
   ⑧たいへいやま・・・・・・・・・・・・1座
この中で栃木県内に有るのは、栃木市の「おおひらさん(太平山)」と、日光市の「たいへいざん(大平山)」そして、芳賀郡の中央部、益子町と茂木町の境にある「おおひらさん(大平山)」の3座です。
ただ、芳賀郡に有る「おおひらさん」は国土地理院の地形図では「芳賀富士」と記されています。所在地は益子町大平と成っていますから、「大平山」とも呼ばれますが、標高272mの山ですがその姿が富士山に似ている事から「芳賀富士」の名前で呼ばれる事が一般的なのでしょう。
日光市の「たいへいざん」は他に「おおひらやま」とも呼ばれる、中禅寺湖の南方にある標高1960mの山で、その南麓には渡良瀬川の源流の一つ松木川が流れています。

栃木市の「おおひらさん(太平山)」の山上東側には、「太平山神社(おおひらさんじんじゃ)」が鎮座していますが、「太平山」と名付けたのは「山名」か「神社名」か、どちらが先か少し調べてみましたが分りませんでした。
太平山神社3.jpg太平山神社1.jpg
(表参道中間点に建つ「隨神門」の神額)        (太平山神社・社殿)
太平山神社2.jpg太平山神社4.jpg
(表参道、あじさい坂先の青銅製鳥居神額)(社殿前三光台下に建つ青銅製鳥居神額)
「太平山神社」もかつては、色々と別の名前も有った様ですが。

話しは変わりますが、私の母校「栃木西中学校」の校歌は、この「太平山」から歌い始めます。
栃西中正門.jpg栃西中校歌.jpg
(栃木市立栃木西中学校正門より)                (栃西中校歌の1番歌詞)

≪おおひらやまにみはるかす ゆたけきひろの さかえあり・・・・・・≫
「おおひらさん」では無く、「おおひらやま」と歌います。なつかしい。


栃木市の山「太平山」は「大」では無く「太」の「おおひらさん」です、色々読み方書き方有りますが、間違い無いようにしましょう。


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薗部用水竣功記念の碑と片柳用水之碑について [石碑]

栃木市薗部町3丁目、錦着山の南西側、永野川に架かる上人橋の南東橋詰に、栃木市水道庁舎が有りますが、その庁舎正門東側の道路脇に、高さが3メートル以上にもなろう石碑が一基建てられています。脇に聳える大きな木の枝に覆われている為、大きいのですがチョッと見逃され易い石碑です。
私も最近に成って、この石碑の存在に気付きました。
栃木市水道庁舎.jpg薗部用水竣功記念碑.jpg
(栃木水道庁舎正門の手前木の影に建つ石碑)  (木の枝で碑文が読み難くなっている)

石碑正面上部の篆額を確認すると、「薗部用水竣功記念」と刻されています。この篆額の文字は「栃木縣知事小平重吉書」と有ります。そしてその篆額の下に、「1951」の数字が大きく刻されています。この数字は更にその下に刻されている碑文より、薗部用水の竣工年であることが判明しました。
篆額部分.jpg
(石碑正面上部、篆額には「薗部用水竣功記念」、その下に「1951」の数字も)

幸い碑文は私が苦手な漢文体では無く、口語体に成っています。ただ、「ひらがな」では無く「カタカナ」が使われ、句読点の無い文章の為、少し手こずりましたが読む事が出来ました。
少し長文に成ってしまいますが、碑文の全文を記して行きます。(ひらがなに変えています。)
≪薗部町の大偉業であった耕地整理は明治三十八年成ったが安定用水の便なく不安は絶えなかった僅かに長宮約八町歩開田の為新設した俗称三角池は永野川流床の影響により湧水枯渇しその用をなさず年々用水不足の悩みは続けらん特に大正十二年関東大震災後は一層この悩みを増した遂に数十ヵ所の灌漑井の設置もみたがその負担は莫大かてて加えて農地改革に遭遇し解決不容易ならざるものがあった茲に栃木市永年の懸案にある赤津川改修は吹上村地内より分水永野川に放流の計画であることを知る斯くては当町三区用水事情は益々悪化を来たしその上洪水時の被害を併せ考え西部片柳平井の二ヶ町と共に赤津川改修反対同盟に参加し赤津川改修期成同盟と対立して運動を展開した偶栃木市会議長出井喜三郎殿同副議長大垣庄司殿栃木警防団長本澤與四郎殿この対立を案じ調停に立つ同じ想に奔走した寺内顕は分水赤津川を渇望の用水に利することに着眼し一項を加えて調停の円満解決をみる爾後分水工事進渉するに従い下田三合免長宮耕作者有志は相謀り基礎的計画を樹て各方面に交渉す然るに窃にこれを利せんとするあり事業遂行は困難を極めた茲に用水期成委員長糸井米蔵副委員長前橋泰一郎仝牛久幸一仝日高謹一郎の四氏は憤然として立ち一致協力一年に亘る寝食を忘れての東奔西走に凡ゆる障害を克服しこの間増山主一氏の後見と助力は遂に昭和二十五年十月赤津川筋に作物施設並に河川敷占用許可に成功して薗部用水誕生の緒はなつくよって薗部用水組合を結成し新たに委員二十三名を挙げ分担を定め組織的活動を開始用水取入口は赤津川改修附帯工事に用水路は土地改良工事としての要請は県当局の採択する処となり昭和二十五年十一月取入口樋門工事に着工続いて栃木県技師大阿久甲子三殿の設計監督の下に樋門排口下流水路の築溝に着手遂に昭和二十六年四月三十日鉄筋混凝土開閉式樋門及び伏越樋管二ヶ所暗渠五ヶ所延長壱千五百六十五米余待望の薗部用水は竣工した本事業に対して関係諸庁の甚大な援助と平井町の応援泉川有志の協力泉川入田用水の水利権加入の容認等々大方の御援助によって竣工をみたこの用水は今や滔々と長宮十町三合免五反田下田二十五町歩に灌漑し贔て本田全域に及ぶ幾年月悩みに悩んだ用水不安は一掃され豊に実る稲田を見る毎にこの難事業を完成された郷土の先達に敬虔な感謝の誠を捧げ農民道に癒々精進すべき絆にせんと銘して建つ≫とし、日付は≪昭和二十六年五月三日≫そして撰文は「寺内顕」氏、書は「鳩山武男」氏、碑文を刻んだのは「森戸清泉」氏と成っています。

「薗部用水竣功記念」の碑.jpg碑文一部.jpg
(石碑正面の雰囲気)            (碑文の一部を撮影しました)

そして、今回はもう一基「片柳用水之碑」も併せて、石碑の内容について探りたいと思います。
「片柳用水之碑」は、栃木市片柳町二丁目に有る「いずみ公園」の北東側角部に建てられています。
いずみ公園1.jpgいずみ公園2.jpg
(いずみ公園、この下を片柳用水が流れる) (いずみ公園の表示、左奥に石碑)
こちらの石碑の存在は結構前から分かっていました。25年前に子供達を連れて、この「いずみ公園」で遊んで以来、何度か足を運んでいました。この石碑の碑陰を最初に撮った写真は1994年3月12日の日付が写り込んでいます。
この石碑が建立された時期は、碑文末尾の日付より「昭和62年(1987)4月吉日」と有り、石碑の中では比較的新しいものです。碑の正面には大きく「片柳用水之碑」、その下に「栃木市長 永田英太郎」と刻されています。そして碑陰には、「栃木県文化財保護審議会会長 日向野徳久撰、栃木市文化功労者 池澤 洸謹書」の碑文が刻されています。
片柳用水之碑(正面写真).jpg片柳用水之碑(碑陰写真).jpg
(「片柳用水之碑」の正面)             (「片柳用水之碑」の碑陰)

こちらの碑文も長文ですが、比較する為にも全文紹介したいと思います。
≪片柳用水之記≫と題されています。≪片柳用水は大皆川不動出水に源を発す。これを永野川に落し、水丈に応じ泉川村地内大口堰場に蛇籠と並杭を以て川幅一面に締切り片柳村田地五十余町歩岩出村田地六町歩の用水に分つ。片柳村は地頭所より不動尊別当宝珠院に毎年御供米二斗七升を献納するのが江戸時代からの慣習であり、岩出村用水堀に対しわが用水堀を東郷堀といい、戦国時代末期皆川俊宗がこの地を支配せし時に起源す。水路は箱森村西南端を経薗部村を縦断して片柳村に入り、江戸時代には東片柳村西片柳村の境界をなした。明治四十年大字薗部の耕地整理により同地内におては河身を変更して現況の如くなり。大正五年片柳用水組合は永野川左岸皆川村大字泉川字下元の山林一反三畝歩を購入、同地に池を掘り東郷堀水量の増加を図った。これより後開田は増加の一途を辿り、鶴巻堰御前大堰卵塔場堰杭堰塚田堰殻田堰漆田堰高堤堰を以て六十二町七反七畝を潤し用水組合員百二名に及ぶ。昭和二十四年赤津川分水工事施工に伴い用水取入口の破壊されることを危惧したが、県当局も片柳用水の重要性を認識新取入口を設置、土手敷及び赤津川川敷等約六十二メートルの間に暗渠を設け永野川の水を取入れ灌漑に支障なきを図った。さらい耕作者一同は永久施設としての確保を願い同三十一年栃木県知事に請願、県単独事業を以て電動機を設置して解決を得た。然し同三十三年頃より東郷堀流域の都市化著しく用水堀は生活用排水路と化し汚染甚だしく、鑿井して電動機を以て揚水灌漑するのやむなきにいたり水利組合の機能を喪失した。よって同六十年組合員一同相謀り片柳土地区画整理組合の事業遂行を機に都市下水道幹線水路に供し、水利組合を解散することを決議し市当局の援助を得てこれが完成を見るに至った。
嗚呼 中世末以来すてに四百余歳その間清冽な水の滾々としてこの沃野を潤し此の地を養い来たりし東郷堀はいまここに下水道と化す。まさに桑滄の変を目のあたりする思いして深き感慨に堪えず浅学を顧みずその由来を叙べる次第である。≫

これら2基の石碑の共通点及び相違点は何か、「薗部用水」と「片柳用水」は何処に有ったのか、二つの石碑の碑文の中には幾つかの地名が出て来ています。まず「薗部用水」の碑文の中には、「薗部町」「長宮」「三角池」「赤津川」「永野川」「下田」「三合免」「平井町」「泉川」「五反田」などが確認出来ます。一方「片柳用水」の碑文には、「大皆川」「泉川村」「片柳村」「岩出村」「宝珠院」「東郷堀」「箱森村」「薗部村」「赤津川」などの地名が確認出来ます。
これらの地名の位置関係を知る為、一枚の概略図を用意しました。
石碑の建立場所.jpg
(薗部町周辺概略図 今回紹介する2基の石碑の建つ場所も図中に記しました。)

概略図には「永野川」「赤津川」「東郷堀」「片柳用水」の川筋がどのように流れているか知る事が出来ます。しかし、ここには「薗部用水」が何処なのか記載されていません。それは私自身が今もって「薗部用水」の位置を確認出来ていないからです。
「薗部用水竣功記念」の碑文の中には、「薗部用水」の位置を示す内容は記されていません。それは碑文を撰文された方が、石碑建立発起人のひとりであり、薗部町用水組合の顧問と云う立場の人物で、薗部用水を知り尽くしていた為、特に碑文に記すまでも無かった、むしろこの「薗部用水」を竣功に至るまでの多くの難問を解決しつつ、完成に導いた経過を碑文に刻んで後世に伝え残したかった気持ちの表れと考えられます。
現在の薗部町は、昭和45年の住居表示変更実施により薗部町一丁目から四丁目と分かれていますが、明治14年の「下都賀郡薗部村 村誌」によると、その頃の薗部村の範囲は以下の様に記されています。
  一、 東ハ下都賀郡栃木町ト巴波川ヲ以界ス
  一、 西ハ同郡岩出村ト沢切ヲ以界ス
  一、 南ハ同郡片柳村ト太平道ヲ以界ス
  一、 北ハ同郡箱森村ト片柳村用水堀を以界ス
村誌・下都賀郡薗部村(表紙).jpg薗部村誌(村の境界).jpg
(下都賀郡薗部村 村誌の表紙)       (薗部村村誌の冒頭部分抜粋)

その当時薗部村の東は巴波川まで有りました。昭和12年に栃木町から栃木市と成った時にそれまで薗部町の字であった、「字鶉島」辺りが「入舟町」「錦町」に、「字祝町」辺りが「祝町」、「字藤宮」「字柳橋」「字三ツ橋」辺りが「柳橋町」と成り、栃木市薗部町から分かれています。
「薗部用水竣功記念」の碑文に出てくる地名にその当時の字名が現れています。先の「村誌」末尾に明治初期の薗部村の地図が折り込まれて添付されています。以下その地図の一部を抜粋添付します。
薗部村村誌折込図(一部抜粋).jpg
(薗部村村誌の末尾に折り込み添付されている地図の抜粋)
地図左側に太い濃い蛇行線で描かれているのが永野川、右上に斜めに太く直線的に描かれているのが「田沼道」、現在の栃木県道75号(栃木佐野線)、その間地図の中央部を上から下へ細かく蛇行している太い線が「片柳村用水堀」に成ります。地図上部に位置する「箱森村」との境界と成っています。
少し文字等が読めない為、薗部町六道付近の主な字名を記した概略図を作成しました。描いた道路状況は明治前期測量の迅速測図を参考にしています。
旧薗部村の主な字名分布.jpg
(明治初期の薗部村の主な字分布概略図)

明治14年の薗部村村誌に「片柳村用水堀」の存在が確認出来ましたが、それではもう一つの石碑「片柳用水之碑」の碑文から、その実態を検証して行きたいと思います。
碑文は≪片柳用水は大皆川不動出水に源を発す。≫と云う文言から始まっています。この片柳用水の源流と云う「大皆川不動出水」の場所は何処なのか、碑文に≪片柳村は地頭所より不動尊別当宝珠院に毎年御供米二斗七升を献納するのが江戸時代からの慣習であり・・・≫と記されています。宝珠院は現在も大皆川町に有る天台宗の寺院で、感應山寶珠院皆川寺といい、嘉祥三年(850)慈覚大師円仁の開基と伝えられています。現在その本堂に向かって左手方向に「不動堂」が建てられています。
宝珠院.jpg不動堂.jpg

御堂の正面右に「不動尊由来」と題した説明額が掲示されています。そこに、
≪この不動尊は、寶珠院住僧義寛和尚の建立で(年代不詳)はじめ東大皆川地区にあった。「不動裏」「御手洗」の地名が残っている。ところが年月を経て老朽化したので、明治40年(1907)現在地に移築、再び倒壊のおそれが出たため、平成元年(1989)当山檀徒と大皆川町信徒の皆様の浄財により新築再建されました。≫と記されています。元々「大皆川不動出水」はこの不動尊を冠した出水で、現在はその名残を見る事は出来ません。ただ、明治19年8月の作成された迅速測図「栃木縣下野國下都賀郡皆川城内村」を見ると、千塚・宮方面から南流して来た永野川の流れが、南側岩出村の舌状台地に阻まれ流れを大きく東に変える内側に位置する大皆川村の中ほど、55と朱書きされた等高線の境に、小さな湖沼が描かれています。それから流れ出した水路が永野川の左岸をほぼ並流し、その先にて錦着山の裾野に沿って西側から南側へと流れ、元栃木県令別荘の所で錦着山東側から流れて来た「風野堀」と合わさり、薗部村地内を流れる「片柳村用水堀」へと繋がっています。
現在は少し流路は変わっていますが、大皆川町の南側を永野川の左岸に沿って東に流れ泉川町に入り、「タキザワハム泉川工場」の北側を流れ、赤津川に架かる「九反田橋の西側で永野川に落ちている水路が、かつての「大皆川不動出水」からの流れに相当するものと思われます。
現在の風景を流れに沿って追ってみます。
大皆川不動出水跡付近.jpg
①明治前期測量地図に現れていた湧水地の有ったと推定される付近。写真左奥の大きな瓦屋根が覗いていますが、宝珠院本堂の屋根に成ります。
大皆川の水路.jpg
②大皆川町の南を流れる永野川の左岸の田圃。写真左側に永野川の土手が見えます。又、写真右奥に皆川城址となる「城山」。明治前期作成の地図に現れている水路は、田圃の北のへり55メートル等高線の下を東に流れていました。
大皆川の水路2.jpg
③水路は雑草が生い茂る荒地を抜け泉川町方向に流れています。写真右奥に「タキザワハム泉川工場」の建屋が見えます。
泉川町の水路.jpg
④タキザワハム泉川工場の北側を流れて、工場東側に流れて来ました。
赤津川九反田橋.jpg
⑤永野川と赤津川との合流点近く、赤津川に架かる「九反田橋」。大皆川町から流れて来た水路は写真左奥に写る赤く塗られた水門を潜り永野川に落ちて行きます。手前に写る水門は赤津川分水路の新たな「片柳用水」の取入口です。
東郷堀取入口.jpg
⑥上の取入口から入った水は、土手の下を潜って東側に抜けて来ます。その先は土手と田圃の間を暗渠に成って流れています。
東郷堀暗渠部出口.jpg
⑦暗渠部を抜けて再び顔を見せた水路。永野川の左岸土手の東側を土手に沿って南に下って流れています。水路の先に錦着山が見えます。
しかしこれは現在の姿、風景です。「片柳用水之碑」では、大皆川不動出水から流れ出した水を、≪これを永野川に落し、水丈に応じて泉川村地内大口堰場に蛇籠と並杭を以て川幅一面に締切り・・・≫そして片柳村と岩出村のそれぞれの取り分で分けたと記しています。一度永野川の流れに落して、改めて永野川から取り入れていたので先の明治前期に作成された水路とは流れが異なっています。
それでは永野川へ何処で落として、何処で取水したのか。大皆川不動出水は何処に有ったのか。

栃木市図書館で「角川 日本地名大辞典9栃木県」(角川書店)の「大皆川村」のページを調べると、≪村の東端字不動裏に不動堂があり・・・≫と記しています。確かに先に記載した宝珠院不動堂の「不動尊由来」に中でも≪はじめ東大皆川地内にあった。≫と、記していましたから、不動出水も大皆川のもっと東方向、泉川との境近くに有った事に成ります。
大正6年7月発行の2万5千分1栃木の地図の永野川の流れに沿って大皆川と泉川の境界付近を虫眼鏡で追ってみたが、やはり地形図にはそれらしい沼や永野川への落ち口も確認出来ませんでした。ただその下流にて、永野川右岸から岩出村方向に向かって水路が描かれています。又、更にその下流永野川左岸、現在のさくら保育園の辺りから、錦着山西側から南側に伸びる水路が描かれています。
これらが片柳用水之碑に有る「岩出村用水堀」と「東郷堀」だと一人確信しました。
それから「角川 日本地名大辞典」でもう一つ発見しました。それは「泉川村」のページの中に≪大皆川村の湧水から引いた三ツ又堀≫です。この堀が先に私が思い違いをした、大皆川村から泉川村を流れ現在の九反田橋の近くで永野川に落ちる水路であると。

話しは少し変わります。「片柳用水之碑」の碑文では、≪岩出村用水堀に対しわが用水堀を東郷堀といい、戦国時代末期皆川俊宗賀この地を支配せし時に起源す。≫と、片柳用水堀の名前を「東郷堀」と伝えていますが、前に記している様に明治前期までは、「片柳村用水堀」と有り、まだ「東郷堀」とはなっておりません。
「東郷堀」と云う名称は、明治38年3月起工して明治40年3月に竣功した大事業、薗部町耕地整理に伴い、これまで錦着山の南麓から東方向に箱森村との境を流れ、かつての字五反田から、字亀甲渕、そして字下田方向に流れ、現在の栃女高辺りの字御前ノ木の東側を南流、片柳村に流れ込んでいた流路を、現在の様な直線状の水路に変更しています。
薗部町記念塚から錦着山方向.jpg錦着山よりの東郷堀.jpg
(薗部町記念塚手前、東郷堀に架かる日進橋上より)(錦着山上より東郷堀を望む)

この耕地整理事業以前の薗部村の農地は道路が網の目状に入り組んだ状況でしたが、耕地整理にて区域内の道路を明治24年に初代栃木町長根岸政徳の尽力によって改修された太平新道を基準に、並行直角に整備しています。合わせて区域内の水路も同様に変更され、片柳村用水堀も現在の様に、錦着山南麓より直線状に進み、太平新道に直角に交わるルートに成りました。しかし太平新道を越えた南側は耕地整理の区域外の為、水路は太平新道に沿って栃女高の前を東進して、字御前ノ木の南東端で従来の用水堀に繋がれ、太平新道を潜り南側の現在の片柳郵便局の東横から、片柳村の従来の水路を流れる形に成ったものと思われます。
旧片柳用水(女子高東).jpg女子高南側の片柳用水.jpg
(栃女高の東側に暗渠と成って残る旧片柳用水) (栃女高の南側を流れる片柳用水)

そしてこの耕地整理の完成の後、出来上がった堀に付いて「片柳堀」という事も有りましたが、丁度日露戦争も終わりになり、最後に大勝利を得た、露軍バルチック海軍を撃滅した日本海軍司令官東郷平八郎閣下の名を残したいと、耕地整理事務所のメンバーの発言で異議なく「東郷堀」と名付けられたというエピソードが、栃木市老人クラブ連合会の伝承作業として作成された「栃木市の社寺Ⅱ」の中に記されています。
私はその資料の中に記された「一文」に、又、多くの疑問を抱く事に成りました。その一文とは、
≪この堀は阿部氏の屋敷(旧栃木県令別荘跡)の南端から箱森町との境を流れて片柳町の用水堀に灌ぐ堀で薗部町の用水には使用できなかったのです。≫と記されているのです。
薗部町の中央部を縦貫する「東郷堀」を流れる用水を、地元薗部町は利用できない。それでは薗部町の用水はどうしていたのか。と? 一方、薗部用水イコール東郷堀だ、という話も耳にします。まだまだ調べたいことは山積みです。

「薗部用水竣功記念」の碑が建立されたのは、昭和26年5月3日と碑文最後に刻されています。この年同様に赤津川分水工事も竣功しています。そこには薗部用水の取入口を赤津川改修附帯工事とするなど歩調を合わせて進めた内容も碑文に見えます。そしてこの事業の中で≪関係諸庁の甚大な援助と平井町の応援泉川有志の協力泉川入田用水の水利権加入の容認等々大方の御援助によって・・・・≫と記された通り、「泉川入田用水の水利権を得られたことが、どんな影響をもたらしたのか、農業経験の無い私にとって用水の水利権は、なかなか理解が困難な問題として残ってしまった。

今、薗部町1・2・3丁目及び片柳町1・2丁目の区域は宅地開発が進み、農地は点在する程度の住宅街に変わっています。
薗部町に残る水田.jpg
(薗部町1丁目地内に残る田んぼ。写真中央奥に正覚寺 右端に錦着山)

「片柳用水之碑」の碑文の最後で以下の様に結んでいます。
≪嗚呼 中世末以来すでに四百余歳その間清冽な水の滾々としてこの沃野を潤し此の地を養い来たりし東郷堀はいまここに下水道と化す。まさに桑滄の変を目のあたりする思いして深き感慨に堪えず浅学を顧みずその由来を叙べる次第である。≫
農業用水路としての役目を終えた「東郷堀」には、今殆んど水は流れていません。ただ降雨後の雨水の排水路とし、今後も地域の為に残って行くのでしょう。
東郷堀の現在2.jpg東郷堀の現在1.jpg
(現在の薗部町記念塚脇の東郷堀)    (今、すっかり水が消えた東郷堀)

今、片柳町2丁目いずみ公園の下流域、新しい住宅の建ち並ぶ中、整備され真直ぐと流れる水路沿いの桜並木、春には水路をピンクに染めていました。
片柳用水と桜1.jpg片柳用水と桜2.jpg
(元片柳用水路沿いの桜並木 2014年3月撮影)

「薗部用水」と「片柳用水」の2基の石碑、その碑文の中で多くの事を語っています。そして私に多くの疑問を抱かせました。やがてこれらの石碑も風化し文字も薄れ、忘れ去られるのかも知れません。

(参考資料)
薗部村村誌・栃木市史(通史編)・とちぎの天台の寺めぐり(天台宗栃木教区宗務所編)・わが町さんぽ(長沼英雄著)・銀治のブログⅢ歴史と文化を歩く(夢野銀次著)・栃木市の社寺Ⅱ(栃木市老人クラブ連合会編)・明治前期測量2万分1フランス式彩色地図「下都賀郡栃木町と皆川城内村」(日本地図センター)・日本地名大辞典(角川書店)・2万5千分1栃木地形図(大正6年7月30日・大日本帝国陸地測量部・現国土地理院発行)
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栃木市嘉右衛門町通りにかわいい例幣使の行列が

本日、栃木市嘉右衛門町通りの、油伝味噌店より岡田記念館(代官屋敷)までの間で、地元の栃木第三小学校の4年生の児童による、「子ども例幣使行列」が行われました。
畠山陣屋跡前を通過する例幣使行列.jpg
(岡田記念館の畠山陣屋跡の前を進む「子ども例幣使行列」)

日光例幣使は江戸時代、正保4年(1647)から毎年4月の日光東照宮の例大祭に奉幣する為に、朝廷から派遣された奉幣使で、慶応3年(1867)まで221年間、1回の休みも無く続けられました。
日光例幣使は、毎年4月1日に京都を発って中山道を下り、上野国の倉賀野宿にて中山道より分かれて、佐野の天明宿から犬伏を抜けて私達の栃木市に入り、岩舟町・大平町そして栃木の市街地中心を抜けて、ここ嘉右衛門町通りに入って来ます。
嘉右衛門町通りを抜けた先は、都賀町・西方町を抜け、鹿沼市楡木にて日光西街道(壬生通り)に合わさり、4月15日に日光に到着するのが慣例に成っていました。
平澤商事前を通過する例幣使行列.jpg
(嘉右衛門町通りの老舗の一つ平澤商事前を通過する「子ども例幣使行列」)

この「子ども例幣使行列」は今年で4回目になるそうです。かつて日光例幣使街道となった、嘉右衛門町通りの有る地元、栃木第三小学校の4年生の児童が、「郷土の歴史」の学習の中で、自ら例幣使の行列に扮して、かつての例幣使街道に思いを馳せる。参加した児童達はどのような思いを感じたでしょうか。
その「子ども例幣使行列」の先に立ち、横や後ろに立って行列を見守る、印半纏を着た人達がいます。
この嘉右衛門町の通りは、普段は人の通りも少なくひっそりとした感じの通りですが、今日はこの子供達の行列を見に来た、児童の家族の人達や、御近所の皆さんで大混雑に成りました、その見物客の群れが行列の進行と共に移動、次第に人の群れが大きく成って行きます。そして私が予想していた以上に、この通りの自動車の通行量も激しく交通の整理も大変そうに感じました。
交通整理する旦那衆.jpg
(行列の周囲で通行車の誘導や見物人の整理をする、印半纏を着た旦那衆)

印半纏を着た人達は、この行事を共催している「栃木の例幣使街道を考える会」や、「嘉右衛門町伝建地区まちづくり協議会」の皆さんでしょうか、地元自治会やコミュニティーの会長さん、そして嘉右衛門町通りの老舗の店主の顔も見えます。
「子ども例幣使行列」に寄り添って、見物人の整理や案内、通行する車の誘導等を行い、子供達の行列が安全に進むように見守っておられました。こうして一つの行事を通して多くの人達が協力し、大きな輪になっている事を今回感じる事が出来ました。今後ともこの「子ども例幣使行列」が恒例となり、人と人との交流の場のひとつに成ればと思いました。
嘉右衛門町通りの旦那衆.jpg
(行列途中の休憩で、嘉右衛門町神明神社前で記念写真に写る印半纏の旦那衆)

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