So-net無料ブログ作成
前の10件 | -

柏倉川に架かる橋梁を巡る。 [栃木市の橋梁]

今回は、柏倉川に架かる橋を巡ります。
柏倉川はその名前の通り、栃木市街地の西方、皆川地区柏倉町の西北端、佐野市葛生地区との境界を成す山塊より湧き出る沢水に、その源を発する河川です。その後聖徳太子神社が祀られている「柏倉温泉太子館」の前を縦断した後、東南東に流れて皆川城内町の街中で、同じく西側から流れて来た藤川の左岸に合流をしています。

私が、この柏倉川に架かる橋の名前を求めて、初めて柏倉川の流域を訪れたのは、今から37年前の1月の事でした。以下に紹介するのはその時撮影をした写真です。下流側から遡っています。
①最初の写真は柏倉川の一番下流部に架かる「観音橋」で、柏倉側はこの後南側を流れている「藤川」に合流しています。橋の右手に橋の名前に成った「観音堂」が見えます。この写真ではまだ昔の姿の藁葺屋根ですが、現在は建て替えられて瓦葺の立派な堂宇に変わっています。又、バックには皆川城址の城山の南麓に建つ「皆川中学校」の校舎が見えています。
1982年1月観音橋.jpg

②次の写真は「谷津橋」です。「観音橋」の一つ上流側に架かる橋です。橋名の「谷津」は、この地区の字名に因ったものです。高欄も新しく感じます。「谷津橋」の銘板が確認出来ます。
1982年1月谷津橋.jpg

③三枚目の写真は「久保山橋」ですが、この橋は県道126号(栃木田沼線)を西に走り柏倉町に入った所、県道から脇道を少し北に入った所に架かっている橋です。橋名の由来は確認出来ませんでした。
1982年1月久保山橋.jpg

④次は「石尊橋」です。県道126号から右に分かれ、「太子館」方面への道を進むと、道路が柏倉川の右岸から左岸に渡る所の橋に成ります。橋名はこの橋の北方に位置する山の山頂に祭られた「石尊神社」に因んで命名されました。
1982年1月石尊橋.jpg

⑤次の写真は柏倉川に架かる橋では無く、柏倉温泉「太子館」の池に架けられていた橋を撮影した物です。柏倉川はこの池の東側を北から南に、聖徳太子神社の参道を横切る様に流れていました。当然参道にはその当時は苔生したコンクリート製の桁橋が架けられていましたが、高欄には橋名などの表示は見られませんでした。
1982年1月太子館.jpg

柏倉川は聖徳太子神社が祀られている「寺山」の北側の山麓に沿って、柏倉町北西の山懐に入って行きます。この先は道路と河川が交差を繰り返している為、その交差地点に橋が架けられています。最初に現れる橋が⑥「種入橋」その後⑦「たつみがえり橋」そして最後が⑧「栃目木橋」と成ります。
1982年1月種入橋.jpg
(種入橋を上流側から撮影。バックに写るのが寺山、左奥先端部に聖徳太子神社)
1982年1月たつみがえり橋.jpg
(たつみがえり橋の横に「一級河川上流端」の標柱が建てられています。)
1982年1月栃目木橋 (1).jpg
(栃目木橋を下流側から撮影。道も流れもまだ山中に向かって続いています。)

この最後の「栃目木橋」を確認・撮影をして戻りました。その当時私が橋探索に利用していたのは、国土地理院発行2万五千分1の地形図でしたが、その当時も現在の最新版に於いても、太子館より奥の地点で道路と河川が交差するポイントは上記の3ヶ所で、そこから先は道路も無くなるし、川の記載も無くなっています。
今回改めて現地に向かったのは、ゼンリン住宅地図にて更に上流に橋が記載されている事を確認した為です。
今回は全てを確認していませんが、平成に成ってから機会あるごとに撮影した写真を含め、以下紹介をしていきます。
①観音橋:平成15年(2003)6月に新しい橋に架け替えられています。
2013年7月観音橋.jpg
                     (2013年7月撮影)
②谷津橋:河川の護岸工事が行われた結果か、橋が架け替えられています。
2013年5月谷津橋.jpg
                     (2013年5月撮影)
③久保山橋:河川の護岸工事が行われていますが、橋は以前のままです。
2013年5月久保山橋.jpg
                     (2013年5月撮影)
④石尊橋:橋は新しく架け替えられ幅が広くなっています。「せきそんばし」です。
2013年5月石尊橋.jpg
                      (2013年5月撮影)
⑤柏倉温泉太子館入口に架かる橋:新しい橋に架け替えられています。
2015年1月太子館.jpg
                      (2015年1月撮影)
⑥種入橋:以前のままの橋です。「たねいりはし」の表示に成っています。
2015年1月種入橋.jpg
                       (2015年1月撮影)
⑦たつみがえり橋:以前のままの橋です。
2015年1月たつみがえり橋.jpg
                        (2015年1月撮影)
⑧栃目木橋:以前のままの橋です。「とちめきはし」の表示に成っています。
2019年1月栃目木橋.jpg
                         (2019年1月撮影)
⑨空久保橋:今回初めて確認をしました。「そらくぼはし」の表示に成っています。
2019年1月空久保橋.jpg
                         (2019年1月撮影)
柏倉川の橋銘板コレクションです。
観音橋銘板.jpg谷津橋銘板.jpg
久保山橋銘板.jpg石尊橋銘板.jpg種入橋銘板.jpg
たつみがえり橋銘板.jpg栃目木橋銘板.jpg空久保橋銘板.jpg
nice!(0)  コメント(0) 

群馬県板倉町の雷電神社を詣でました。 [建物]

今日、群馬県邑楽郡板倉町の雷電神社に行って来ました。
板倉雷電神社4.jpg
(板倉雷電神社、本社正面を大鳥居を通して撮影しました)

境内の周りには今、蠟梅の黄色い花が咲き、ほのかな甘い香りが溢れていました。
平日の為か参道の茶店は開いておりませんでしたが、参拝に来られた人が、蠟梅や社殿をバックに写真を撮られていました。
板倉雷電神社3.jpg
(社殿前には蠟梅の黄色い花が、ほのかな香りを発しています)
蝋梅.jpg
(咲き始めた蠟梅の黄色い花、バックは雷電神社社殿屋根の千木)

私も本社から奥宮などを、社殿に施された多くの素晴らしい彫刻装飾を観賞しながら参拝して廻って来ました。

<本社・社殿正面>
拝殿正面彫刻.jpg
拝殿正面彫刻1.jpg拝殿正面彫刻2.jpg

<本社・社殿左側面>
本殿左側面彫刻.jpg
本殿左側面彫刻2.jpg本殿左側面彫刻1.jpg

<本社・社殿後面>
本殿北面彫刻.jpg
本殿北面彫刻1.jpg

<本社・社殿右側面>
本殿右側面彫刻.jpg
本殿右側面彫刻1.jpg本殿右側面彫刻2.jpg
上の写真左側に写る彫刻が描く物語が、私が唯一分かった「浦島太郎」の作品です。
「竜宮城の乙姫様に見送られ、左脇に土産の玉手箱を抱え、海亀の背に乗って帰る浦島太郎の図です。」
その他の彫刻が表す物語も有名な物なのでしょうが、私には思い当たる物は浮かんできませんでした。


<奥宮・社殿正面>
奥宮正面.jpg
奥宮向拝部彫刻.jpg
奥宮向拝部彫刻1.jpg奥宮向拝部彫刻2.jpg

此処、板倉の雷電神社は昔から栃木町の人達からも、篤く信仰されていたと聞きます。
社殿前の大鳥居の脇に有る手水舎は江戸時代に、そんな栃木町の雷電講が寄附をしたもので、水舎脇に建てられた石碑には、「栃木町同盟講社」と「水舎寄附」の文字が刻されています。碑陰には栃木町で良く見聞きされる人達の名前がズラッと並んで刻されています。残念ながら表面に苔が付いたり風化等により判別が出来ない名前も多くなりました。

板倉雷電神社1.jpg板倉雷電神社2.jpg
(社殿前大鳥居横の水舎)              (水舎の傍に建てられて石碑)

私の叔父からも、「若い頃は自転車の載って参拝して、御札を頂いて来た。」と、懐かしく話してくれます。今では自動車で40分足らずで行くことが出来ますが、車が今の様に発達していなかった頃は、延々と広がる田んぼの中の道を、ペダルを漕いで行かなければならなかった。それでも往きは下りで多少は楽だったものが、復路は上り坂と成る為、大変だったと思われます。

見事な彫刻作品を鑑賞し、蠟梅のほのかな香りを嗅いで、家路に着きました。
nice!(0)  コメント(0) 

三池炭鉱の産業遺産を巡る [建物]

この正月休みを利用して九州北部を旅した。目的地は二ヶ所、長崎市と大牟田市です。
長崎市では眼鏡橋を、そして大牟田市では明治日本の産業革命遺産として平成27年(2015)7月に世界文化遺産の構成資産として登録された三池炭鉱関連資産を見て廻りました。

大牟田市の三池炭鉱を訪れたのは世界遺産に登録された事とは別に、その地が栃木市と少なからず繋がりが有ったからです。私が栃木工業高校を卒業する数年前の昭和39年(1964)に、栃木市に三井三池製作所栃木工場が誘致され、私の同級生の中からも多くが就職していました。
大宮町・国府町の萱場地内の工場敷地は32,769坪の広大な土地で、南側は県道宇都宮街道、北側は東武宇都宮線とに挟まれ、北西部には東武野州平川駅が有り通勤には便利な場所です。
私の就職したのは宇都宮市内の工場でしたから、通勤時の電車の窓から良く三井三池製作所を眺めていました。線路際にタンクやパイプが複雑に入り組んだ、石油コンビナートなどで良く見かけるプラントの小規模な施設が設置されていました。
同社に就職したクラスメートの話でも、仕事の関係で出張する事が多い、現地で組み立て作業を行う為と、良く話していました。

(株)三井三池製作所が三井鉱山(株)より分離独立して設立されたのは、昭和34年(1959)でしたが、この頃国内の石炭産業は斜陽化により大量解雇が行われ、三池争議などの労働争議が起きていた時期であり、栃木工場にも九州から大勢の社員が移って来ていたと云います。
三井三池製作所栃木工場では、忘年会などの飲み会の時には、必ず「三池炭鉱節」を歌って盛り上がっていたと聞きました。故郷を懐かしんでいたのかも知れません。
「月が〜あ 出た出た、月が〜あ 出た。三池炭鉱の 上に〜い出た。あんまり 煙突〜が 高い〜いので。さ〜あぞや お月さん けむた〜あかろ。 サノヨイヨイ。」
そんな歌の歌詞に出てくる、煙突を私も一度見てみたいと、この大牟田の地を踏んだのでした。

長崎市を出て、諫早市を経由、有明海に沿って走り、回りこんで大牟田市に到着したのは、14時30分。
私はこれまでイメージだけで、三池炭鉱はもっと福岡県の北域に有るものと勝手に思っていました。それが実際は福岡県の南西端、熊本県との県境、有明海に面した土地で、三池炭鉱の一部、万田坑は熊本県荒尾市に成ります。
まず、JR鹿児島本線の大牟田駅前の観光案内所に寄って、観光パンフレットを貰いました。

最初に「三池炭山創業碑」を見る為駅近くの笹林公園へ。昭和5年(1930)に建てられた石碑の側面には、官営時代を中心に三井による経営が始まる以前の、三池炭山の歴史が刻されていました。
次に向かったのは、目的の煙突です。それは明治28年(1888)開坑の、三池炭鉱の主力坑の一つ、宮浦坑跡(宮浦石炭記念公園)に1本建っていました。
煉瓦積みの煙突の高さは31.2m、直径は上部が2.9m、下部が4.3m、使用されている耐火赤煉瓦約138,000枚と説明板に記されていました。
以前は、大浦坑、勝立坑、万田坑など明治時代の坑口には、いずれもこのような煉瓦の煙突が建てられていましたが、現在はこの1本だけが残されているのだそうです。
三池炭山創業碑.jpg宮浦石炭記念公園.jpg
(三池炭山創業碑)                (宮浦石炭記念公園に建つ煙突)

次に向かったのは「宮原坑」。明治31年(1898)の開坑です。さすが世界遺産に登録されているだけ有って、広い駐車場が整備されています。その先に我が国で現存する最古の鋼鉄製櫓という、明治34年築の「第二竪坑櫓」が聳え立っています。
宮原坑1.jpg
(宮原坑第二竪坑櫓と巻揚機室)
櫓の高さ:22.05m、鋼板リベット止めラチス組み。櫓上部に取り付けられた滑車(シーブ)に、巻揚機からの鋼索(ワイヤーロープ)を介して、竪坑内にケージを吊り下げ、支える役割を持っています。人馬昇降、排水、揚炭機能を担っていました。
宮原坑2.jpg宮原坑3.jpg
(巻揚機室)                     (排水管)

車を更に南に走らせ県境を越えて、熊本県荒尾市原万田へ。
「万田坑」は明治35年(1902)の開坑。宮原坑に続き開鑿された坑口で、当時炭鉱業界の模範となるような坑口施設を作るため三井が総力を挙げて建設したと説明されています。
明治時代に作られた炭鉱施設としては、わが国最大規模を誇っていました。
万田抗1.jpg
(万田坑)

現地に着いた時は既に最終入場時間を過ぎていた為、門の中に入場する事が出来ず、外観見学のみと成りました。

大牟田市まで来たついでに、市役所に立ち寄り、マンホールカードを貰ってきました。
大牟田市役所.jpg大牟田市マンホールカード.jpg
(国登録有形文化財指定の、大牟田市役所本庁舎旧館)  (大牟田市マンホールカード)

大牟田市のマンホールカードのデザインと成っているのは、大牟田市公式キャラクターの「ジャー坊」君です。昨年のゆるきゃらグランプリーに於いて、最後までトップ争いを行い残念ながら一位の座を逃しましたが、投票活動における組織票争い等で、全国的なニュースとなり、一躍有名になったキャラクターです。
背景に「三池炭鉱宮原坑」が描かれています。
訪れた日が1月4日(金)、丁度仕事始めで市役所が開いていたので、カードを入手出来ました。ラッキーでした。
尚、三池炭鉱の見どころはまだまだ有るので、機会が有ればまた訪問したいと思っています。
nice!(0)  コメント(0) 

長崎眼鏡橋と諫早眼鏡橋 [橋梁]

私の蔵書の中に「眼鏡橋 -日本と西洋の古橋-」と言うタイトルの1冊の本が有ります。
工学博士太田静六著で、昭和55年10月20日初版発行です。
眼鏡橋の本.jpg
その頃私は、栃木市内の河川に架けられた橋の写真を、探し回っては撮影して歩いていましたので、書店でこの本を見付け、ページをめくってみて、そこに多くの石橋の写真が掲載されていたので、早速購入したものです。
そこにはヨーロッパの今から2000年以前に建設された多くの石造りのアーチ橋・水道橋の写真などと共に、日本の九州地方に分布する石造りアーチ橋の写真が多数掲載されていました。
石造りのアーチ橋は栃木市内では、私の知っている限りでは、錦着山東南麓に架かる「八雲橋」ただ一ヶ所です。大正5年6月に石工の大塚藤吉さんに依って完成されたもので、どのような経緯で石造りのアーチ橋の形を採ったのか興味が有ります。
八雲橋1.jpg八雲橋2.jpg
(錦着山南東麓、風野堀に架かる石造りアーチ橋) (要石に陽刻された「八雲橋」の文字)

抑々、日本における石造りアーチ橋の分布は、そのほとんどが九州地方に偏っていると云います。上記の本に依ると造られた年代が分かっている中で一番古いと云われるのが、長崎市の中島川に架かる、あの有名な眼鏡橋で、寛永11年(1634)に長崎の唐寺・興福寺2代目住職黙子如定(もくすにょじょう)が架けたとされています。その後、明治の末までに架橋された石造りアーチ橋の数は、一番多いのは熊本県で150橋前後。次は鹿児島県ですがその数は熊本の半分以下の70橋位。三番目が大分県の50橋で、四番目が長崎県の約35橋であると書かれています。
私はこの「眼鏡橋」の本を入手してから、一度は長崎を訪れて実際に長崎眼鏡橋を見てみたいと思っていましたが今回、正月休みを利用してやっと見て来る事が出来ました。
現在の長崎眼鏡橋は、上記の本が発行された昭和55年の2年後、昭和27年(1982)の7月に発生した長崎大水害で半壊した為、翌年の10月に修復されたものです。
 <長崎眼鏡橋のデータ>
   ・橋の長さ:22m、橋の幅:3.65m、川面までの高さ:5.46m、
   ・2つの半円を描く石造り2連アーチ橋
   ・昭和35年(1960)、国の重要文化財に指定される。
 
私が実際に橋の上に立ったのは1月3日の午後3時30分、幸いに空は真っ青に晴れ渡り、風も無く最高の観光日和に成っていました。
長崎眼鏡橋の撮影ポイントは、下流側に架かる「袋町橋」の上からと、眼鏡橋と袋町橋の中間点の川の中に設けられた飛び石からの2ヶ所、二連アーチ橋が川面に映った姿が、まさに眼鏡の形を見せてくれています。
この日も多くの観光客がこの姿を写真に収めて居りました。
長崎眼鏡橋1.jpg長崎眼鏡橋2.jpg
(下流側「袋町橋」の上から撮影した「長崎眼鏡橋」) (左岸下流側親柱に「眼鏡橋」の文字)

長崎眼鏡橋3.jpg長崎眼鏡橋4.jpg
(下流側の川中に渡された飛び石上から撮影) (左岸上流側に建てられた「黙子如定の像」)

前出の「眼鏡橋」の本によると、≪中島川には橋が多く、かつ江戸時代には固有名詞がなく、呼ぶのに不便であったので、「長崎図誌」の著者が、上流の阿弥陀橋を第一橋として、順次下流の橋に番号をつけたという。例えば眼鏡橋は第十橋といった具合である。 (中略) なお現在の橋銘は地元の研究家、宮田安氏の説によると、明治15年頃に、当時の漢詩人、西道仙がつけたものが大部分だという。≫ 
第一橋から紹介すると、①阿弥陀橋、②高麗橋、③大井手橋、④編笠橋、⑤古町橋、⑥一覧橋、⑦芊原橋、⑧東新橋、⑨魚市橋、⑩眼鏡橋、⑪袋町橋、と成っています。

昭和57年(1982)に発生した長崎大水害により6つの石橋が全壊、眼鏡橋と袋町橋は半壊しています。半壊の2橋はその後復原修復され、その他の石橋は架け替えが行われました。
残念ながら今回私は、上記の全ての橋を見て来る事は出来ませんでしたが、機会が有ればまた訪問したいと思っています。
すすき原橋.jpg
(東新橋の橋上より上流方向を写す。手前の車が通行するのが「芊原橋」その奥が「一覧橋」)

翌日は、諫早眼鏡橋を見る為長崎市を後にしました。諫早市は長崎市の東隣りに位置しており、長崎自動車道を利用すると諫早眼鏡橋の有る諫早公園に、40分程で到着しました。
諫早眼鏡橋は、石造りアーチ橋の中では、一番早く国の重要文化財に指定されたものです。
昭和33年11月の指定は、長崎眼鏡橋の指定(昭和35年2月)より1年3ヶ月早いものでした。
<諫早眼鏡橋のデータ>
   ・橋の長さ:49.25m、橋の幅:5.5m、アーチ頂上の下面から常水面まで5.4m
   ・半円よりは小さな欠円の石造り2連アーチ橋
   ・一つのアーチスパンは17.35m、アーチ面を形成する円の半径は9.7m
   ・天保9年(1839)の架橋
諫早眼鏡橋1.jpg
(諫早公園内の池に移設された諫早眼鏡橋)

この眼鏡橋は、元は直ぐ北側を流れる本明川の450m程下流側に架けられていたものです。
前出の「眼鏡橋」の本によると、≪本明川は昔から氾濫の歴史を繰り返してきた。(中略) 昭和32年7月25日から26日にかけて襲来した未曽有の集中豪雨による大氾濫の結果、全市が水没して死者行方不明者数十人を出すという諫早史上、最大の惨事をひきおこした。(中略) この時に起こった本明川の氾濫が如何に凄まじいものであったかは言語に絶する程で、本明川に架けられていた昭和の現代橋はみな流失した。その中で、ただ一つ石造眼鏡橋だけが頑として動かず、そのため上流から流下してきた流木その他が眼鏡橋に塞止められてダム状になり、このダム状に溜まった濁水が、堤防を破って市街に奔流したため被害を一層大きくする結果と成った。≫
その昔、洪水のたびに橋が流出しては、不便を感じていた為、頑丈な石橋を架けたのだが、橋が壊れなかった事で、堤防の方が壊れたのだと、何とも言えない現実でした。その結果、この眼鏡橋を爆破して壊してしまえと云う市民の声が湧きあがり、それもやむなしと云う状況に成りました、一方当時の市長さんや有識者達に依る文化財保護運動とも相まって、眼鏡橋を解体して他の場所に移建する事となって現在の場所に設置されたと、その経緯が記されています。

諫早眼鏡橋2.jpg
(諫早眼鏡橋の五分の一の縮尺で精巧に作られた、本物そっくりのミニ眼鏡橋)
上の写真は、諫早公園の一角で見つけた、諫早眼鏡橋の精巧な五分の一縮尺で造られた模型だそうです。実際の眼鏡橋を諫早公園に移築復元する為に、橋の組立て方や強度など技術的なデータを収集する目的で造られたものと、脇に建てられた「眼鏡橋模型建設記念碑」にその経緯が記されていました。

眼鏡橋見学の後、商店街に設置されている眼鏡橋をデザインしたマンホール蓋の撮影と、そのマンホール蓋の図柄を採用したマンホールカードを貰って、長崎県を後にしました。
諫早眼鏡橋3.jpg諫早眼鏡橋4.jpg
(諫早市のデザインマンホール蓋)         (諫早市が配布しているマンホールカード)
nice!(0)  コメント(0) 

2019年の元旦、いつもの年と変わらぬ一日を過ごす。 [歩く]

明けましておめでとうございます。
2019年1月1日、我家では例年と変わらぬ、穏やかな一日で迎えました。と言うものの実は少し違う、例年家族四人が揃って新年を迎えるのだが、娘が年末年始の休みを利用して旅行に行ったため、親としては少し不安な日々を過ごしている。
一人欠けると倅としては退屈になると思ったのか、何を考えてかジグソーパズルを買って里帰りをして来ました。昨夜はNHKの紅白歌合戦を観戦しながら、年越しそばを頂いた。
今朝は起きられれば初日の出を見ようかと思いきや、目覚めたのは7時を回っていました。新聞を取りに東向きの玄関のドアを開けると、眩しいほどの太陽の光が射しこんで来ました。思わず玄関先で初日の出を拝んでいました。
元旦の我家の行事は、ニューイヤー駅伝のテレビを見ながら、御屠蘇とお雑煮を頂く。今年は食事の後テレビを見ながら、ジグソーパズルに取り掛かる事に。絵柄は正月らしく「富士山」、パッケージから500ピースを取り出す、先ずは簡単な周囲のピースを並べて枠を完成そこから中に攻め込む。
しかしピースはどれも同じに見える。早々に絶望感が広がる。こんなのとても無理だ。年寄りには根気が欠如して来ている。後は倅に任せて届いた年賀状を見て、出していなかった人への年賀状を印刷。その間ジグソーパズルの富士山の姿が徐々に姿を現してきています。午後一時ごろには残り少なくなったピースが面白いように隙間を埋めて遂に完成しました。
ジグソーパズル「富士山」.jpg
(500ピースのジグソーパズルで見せる「朱に染まる絶景富士」)

ニューイヤー駅伝を見終えてから、初詣に出掛けます。朝から御屠蘇を頂いているので車は利用できませんから、例年通り歩いて神明宮へ向かうことに。昨日からずっと飲んだり食べたりで、運動不足気味に成っていますから、少し歩く必要が有ります。まずは新栃木駅前の郵便局へ回り、年賀状を投函。そこから駅東へ抜け、今泉保育園前から神田町へ。杢冷川の東雲橋を渡りそこから真直ぐ進むと目的の神明宮に至る。
神明宮は拝殿前から参拝者の列が伸びています、最後尾は昨年と同等大鳥居の所。
午後3時40分に列の後に付きます。行列のその先の神明宮拝殿の大屋根が新春の西陽を受けています。
初詣「神明宮」.jpg
(2019年最初の西陽を受ける神明宮拝殿の大屋根)

初詣を済ませて一路我が家への道を戻ります。歩いていると薄っすらと汗をかいて来ました。風も無く穏やかな新年の初ウォーキング。今日の歩数は11,217歩でした。
nice!(0)  コメント(0) 

皆川先祖譜代家臣録と佐山信濃守政道

今から40年も前の話ですが、「栃木市の歴史」や「栃木の民話」など多くの著書を持つ日向野徳久先生の講演を聞きに行った時の事です。≪栃木市内でこうした郷土の歴史の話をすると、良く「我家の先祖は皆川の家臣だった。」とか、逆に「△△町の〇〇と言うものだけれど、我家の先祖は皆川の家臣ではないでしょうか」などの質問がされます。≫と。
実は私も同じような疑問を持ったことが有り、本宅に質問をした事が有りました。答えは簡単、「家は百姓の出だ」で、それ以上話になりませんでした。
そこで今回は皆川家の家臣団に付いて調べてみました。
栃木市図書館に行くと。「皆川廣照伝」という近藤兼利著、昭和33年8月15日発行の本の中に附録として、「皆川先祖譜代家臣録(千八百余名記載)」と言う資料が、巻末に掲載されています。
資料を見ると「皆川城内村」「柏倉町」「岩出村」など地域別に大勢の氏名が羅列されています。そして資料内には(慶長十六年十一月六日家臣帳)の文字や資料末尾の所に、
    皆川家臣一千七百八十有余者 奉納祠堂物米三百五十俵 
   右所志者奉手向乎歴代之尊霊者也
    干時寛永乙亥年九月   日
此処に記された日付を見ると、慶長16年(1611)は皆川広照が松平忠照お家騒動により改易され、栃木城が取り潰しと成った慶長14年から2年後に当たります。家臣帳がこの年何の目的で作られたのか。
又、寛永乙亥年は1635年の事、既に皆川広照は歿しています。
この「皆川先祖譜代家臣録」を分析すると、名前が記された村落は北は眞名子村や大柿村・深沢村、南は赤間村・江川村・小池島村、東は原宿村・木野地村・川原田村、そして西は大久保村・柏倉村・小野口村・立花村・白岩村などのと、戦国時代に皆川領のほぼ全域に渡っています。皆川領は北東側は宇都宮氏や壬生氏、南東側は小山氏し、西側は佐野氏と境を成す南北に細長い領域を有していました。

この家臣録に出てくる苗字の数は408、総記載者名は1,795名に及びます。
地域的に見て行くと名前の掲載が多いのは「皆川城内村」と「栃木村」が同数で164名、当然と言えば当然の結果なのでしょう。次は「眞名子村・木村・高谷大和」の三地域まとめてに成りますが116名。次も複数地域の合計に成りますが「富田村・茂呂宿村」と「原宿村・吹上村・片柳村」とが同数で106名。6番目が「山田村」97名、7番目「武井村・牛久村」75名、8番目「川連村」70名、9番目「横堀村」69番目」、10番目「薗部村」60名。と言った状況に成っています。

次に1,795名の氏名を見て行きます。その中でもっとも多く見られる苗字は「関口氏」で68名居ります。特に多く分布する地域は大皆川村・柏倉村でそれぞれ10名居ります。さらに細堀村と新井村で合わせて10名、小野口村・皆川城内村でそれぞれ5名などです。
次に多かったのは「熊倉氏」と「大橋氏」で、共に36名の名前が見えました。熊倉氏は16名が川連村に名を連ねていました。一方大橋氏は川原田村に10名、真名子村・木村・高谷大和に合わせて10人、そして皆川城内村と岩出村にそれぞれ5名と成っていました。
次が「石川氏」34名、その内7名が志鳥村に名前を連ねていました。5番目に多く見られたのは「寺内氏」です、29名有りました。多く見られた地域は大皆川村で9名確認出来ました。
以下、「渡部氏」28名、「大島氏」23名、「田村氏」22名、「山田氏」20名、「鈴木氏」20名となっています。
こうして見て行くと自分と同じ苗字がどうなっているか気になって来ますが、「佐山」姓は「青木氏」・「田中氏」・「日向野氏」・「山井氏」などと同じく16名確認出来ました。特徴的なのは16名中10名が「曲ヶ島村・中根村」に10名が集中して見られた事です。そして「栃木村」3名、大皆川村2名、薗部村1名と言った分布に成っています。「佐山」という同一苗字でも調べてみると地域によって使用している家紋に違いが見られます。岩舟町曲ヶ島では「下がり藤」紋。栃木市大町では「丸に抱き柏」、平柳町では「丸に蔦」、薗部町では「丸に隅立て四つ目」、大皆川町では「梅鉢」や「丸に横木瓜」などを確認しています。家臣録には有りませんでしたが藤岡町緑川の集落も「佐山」姓が多く見られますが、この地域では「丸に橘」紋が確認されました。
下がり藤.jpg丸に抱き柏.jpg丸に蔦.jpg
(下がり藤)             (丸に抱き柏)          (丸に蔦)
丸に隅立て四つ目.jpg梅鉢.jpg丸に横木瓜.jpg
(丸に隅立て四つ目)        (梅鉢)             (丸に横木瓜)

「皆川正中録」の「巻之三」に佐山信濃守政道という人物が登場して来ます。そのくだりを少し抜粋してみます。≪草倉の陣中より緋縅しの鎧に下り藤の紋付けたるを着し、鹿角の前竪物の兜を着て栗毛の駒の太く逞しきに、皆川家より拝領の二つ巴の紋つけたる鞍置きたるに打乗りて、大薙刀を持ち進出て申しけるは、「朝倉殿の目覚ましき御働き感じ入り候。某は皆川山城守の家臣佐山信濃守政道と申す者なり。少しく御相手仕らん」と大薙刀を水車の如く振廻して切ってかかるを心得たりと互いに切結ぶに、・・・・・(後略)≫と、記されています。佐山信濃守政道の付けた紋所は「下がり藤」。岩舟町曲ヶ島の「佐山氏」の先祖という事に成ります。
ちなみに現在のゼンリン住宅地図にて、岩舟町曲ヶ島における苗字の分布を調べてみると、名前が掲載されてい「佐山」姓は65世帯で一番多くなっています。次が「葛生」姓が34世帯、3番目が「茂呂」姓で13世帯と成っています。(掲載氏名総数217世帯、平成27年12月31日現在栃木市町内別人口一覧における岩舟町曲ヶ島の世帯数は306と成っています。) その中でも一番南の端、西側に藤岡町赤麻、南側に藤岡町中根と境を成す「字向」の約30軒の集落に於いては殆どが「佐山」姓を名乗っています。他の姓を持つ家は6軒程確認されました。
こうして「皆川先祖譜代家臣録」を見てみると、色々興味の有る事や、疑問に思う事などが出て来ます。更に調べて行きたいと思います。

今回、参考にさせて頂いた資料
     皆川廣照伝    近藤兼利編        昭和33年8月15日発行
     考註皆川正中録 日向野徳久考訂並考註 昭和38年11月3日発行
     ゼンリン住宅地図栃木(岩舟町)2017
     
  
  
nice!(0)  コメント(0) 

佐野市を、天明宿中心に歩いて巡って来ました。 [歩く]

今日は「歴史と文化を歩く会-栃木」の12月例会で、メンバーなど17名と、お隣佐野市に出掛けて、天明宿を中心に史跡や神社・仏閣などを歩いて巡りました。
コースは、JR佐野駅から城山公園⇒観音堂⇒安蘇沼氏古城跡⇒オシドリ伝説の歌碑⇒金町通り・金吹通り⇒宝龍寺⇒金山神社⇒観音寺⇒惣宗寺(厄除け大師)⇒例幣使街道⇒JR佐野駅です。
佐野の街にはラーメンを食べに良く出かけていますし、3年程前には例幣使街道を歩いて、佐野の街を西から東へ横断した事も有りますが、今回のコースでは初めて行く場所が殆んどでした。
最初の「城山公園」は、駅の北側に隣接する史跡公園です。JR両毛線と東武佐野線とが乗り入れる駅舎は、平成15年(2003)に橋上駅に建て替えられた為、改札口を出た所の南北自由連絡通路を、北口「城山公園方面」に進むと、直接城山公園の芝生の広場に出る事が出来ます。
佐野駅.jpg南北連絡通路.jpg
(橋上駅舎の佐野駅)          (南北自由連絡通路、正面奥が北口、城山公園方面)

この公園は「佐野城跡」と言う佐野市の指定史跡に成っており、「ふるさと佐野100選」の案内板によると、≪三の丸・二の丸・本丸・北出丸の4つのゾーンからなる。明治22年9月、公園として開設された 春日岡城跡・佐野城跡とも言われるが、城は未完成のまま廃城となる。本丸の高さは約55.8m 南北約305m、東西約110m≫と記されています。
史跡佐野城址の碑.jpg佐野城址説明板.jpgふるさと佐野100選.jpg
(史跡 佐野城跡の碑) (佐野城跡案内板)         (ふるさと佐野100選案内碑)

ここで20分程自由散策と成りましたが、ここでそんなに時間取るのと始め思いましたが、園内を巡ると意外と広く、案内板の説明文を読んだり、石碑を見て歩くとあっと言う間に出発の時間に成っていました。
公園内の橋1.jpg公園内の橋2.jpg
(二の丸・本丸間の空堀に架かる橋)      (本丸・北出丸間の空堀に架かる橋)

次の目的地「観音堂」に向け城山公園を後にします。途中、久保町に有る真言宗豊山派の「金成院」と「西宮(蛭子)神社」に立ち寄り、その由緒沿革等を記した記念碑等を確認しました。
金成院.jpg蛭子神社.jpg
(久保町の遍明山金成院本堂)           (久保町の西宮神社、蛭子神社とも)

金成院の由来については境内に建てられた「山内整備事業記念碑」より抜粋すると、≪抑 大日如来を本尊とする金成院は、明治41年金胎寺・成就院・光明寺が合寺して成立した。金胎寺は、はじめ小野寺保に「八幡山松樹院金胎寺」として創建されたが、天文年間佐野秀綱により吉水郷に移され、更に元亀2年秀綱の曾孫昌綱によって再建されたと伝える。慶長7年唐沢山城主佐野信吉は、幕命により春日岡(城山公園)に新たな築城の工を起こし、天命の街割りを行った。金胎寺もその一環として吉水郷より現在地に移築された。(中略) 成就院は金胎寺第三世妙慶の開山になる寺であり、光明寺は朝日森天満宮別当で金胎寺の隠居寺であった。(後略)≫と記されていました。
西宮(蛭子)神社の説明板によると、「蛭子」には「ヒルコ」とルビがふられています。その下に「えびす様」と成っています。由緒沿革には≪(前半略) 当地西宮神社は「栃木県神社誌」によると大永3年(1523年)今から486年前、佐野根古屋青柳(今の栃本)に勧進したのが始まり唐沢城主佐野盛綱が祭るその後、唐沢の居城が春日岡(城山公園)に移るに伴い、東組屋敷に祭る。(中略) 元和2年(1616年)393年前小山城主本多上野介正純に給れ、翌元和3年社は正純の命により安蘇沼北久保に所替となる(現在地) (後略)≫と有りました。

西宮神社より東方向に向かう細い道を進むと観音山公園への登り坂に成ります。この小丘の東側中腹に引地山日向寺観音堂とその北隣りに日枝神社が祀られています。
この観音堂が栃木県内に分布する、「下野坂東三十三観音霊場」のひとつ、第二十七番札所・富岡の「引地山観世音」に成ります。栃木市の三級山近龍寺(二十四番)や出流山満願寺(二十九番)なども同じ霊場に入っています。
引地山観音堂.jpg日枝神社.jpg
(富岡町、引地山日向寺観音堂の彫刻)     (富岡町、日枝神社の彫刻)

≪後醍醐天皇の頃、富士泉応院の法師が天皇より賜わった観音像を同天皇の子、護良親王の死を悲しんだ南の局が泉応院から譲りうけて祀ったのが始まりで、当時は山の西に草庵を建て根光寺と言った。根光寺は南朝方であることから、北朝方の足利氏ににらまれ、本尊は沼に捨てられてしまった。その後越名の漁夫の網にかかり、阿武塚沼のほとりに安置されたが、阿曽沼の殿様に毎夜観音様が夢枕に立ち、元の所に帰りたいと云うので、永享三年富岡の岩山に移し、引地山日向寺観音堂と成りました。≫と伝えられます。
お隣に建つ日枝神社社殿ともども向拝部虹梁の龍の彫刻がなかなか立派な物です。

次の目的地は県道67号(桐生岩舟線)を横断して、南側の浅沼町へ向かいます。
ここに鎌倉時代に阿曽沼出羽守広綱が創建したと云う、浅沼八幡宮が有ります。社殿に向かい境内の右隅に一基の大きな石碑が建てられています。「佐野市指定史跡 阿曽沼城之跡」と刻され、その碑陰には朗々と歌われる詩歌の如き碑文が刻まれています。
浅沼八幡宮.jpg阿曽沼城之跡碑.jpg
(浅沼八幡宮社殿)                    (佐野市指定史跡 阿曽沼城之跡の碑)
碑文冒頭部を抜粋してみます。≪今ひらけゆく浅沼のあたり、むかし佐野庄阿曽沼郷の地、火山灰洪積地のはて、黒々とした沈黙をたたえる水面を、おしどりの遊ぶ、安蘇の沼のほとりであった。 鎌倉に源氏の幕府はじめられようとする十二世紀末、阿曽沼城は阿曽沼民部四郎広綱によってこの地に築かれ、以来四百年 戦国のおたけび山野を駆けるさなかまて、城の盛衰は、阿曽沼氏歴代とともにあり、その哀歓は、浅沼の地と人とともにあった。・・・(後略)・・・≫

そしてこの境内のいっかくに建てられた、「おしどり塚歌碑」も見学しました。
おしどり塚の歌碑.jpgふるさと佐野100選2.jpg
(浅沼八幡宮境内のおしどり塚歌碑) (ふるさと佐野100選「おしどり塚歌碑」)

ふるさと佐野100選「おしどり塚歌碑」説明文によると、≪自然石を使った碑面に「日くるればさそいしものを 安蘇沼のまこもがくれの ひとりねぞうき」とあり、裏面には天保2年(1831)とある。碑はもと相生町の千鳥が渕にあったが、明治年間に現在地へ移したものといわれ、昭和44年市の有形文化財に指定された。≫

佐野市の鳥に指定され、佐野駅前広場のモニュメントとして、この目地を訪れる人を迎え送る。又、佐野市の下水道のマンホール蓋の中央に描かれる、「おしどりのつがい」の姿がこの地に有る事を今回知る事が出来ました。
おしどり像.jpgおしどりマンホール蓋.jpg
(佐野駅前広場のおしどりのモニュメント)  (佐野市街地に設置されているマンホール蓋)

次はいよいよ「天明宿」へ入ります。
佐野東高校(元の佐野女子高)の脇を抜け、金屋下町・金吹町・金屋仲町と右に左に通りを抜けて、大祝町の宝龍寺へと歩を進めます。
元影澤医院.jpg日本基督教団佐野教会.jpg
(金屋仲町の元影澤医院の建物)     (国登録文化財の日本基督教団佐野教会)
影澤医院の建物は現在「日本クリケット協会」の本部と成っています。佐野市は、「クリケットのまち佐野」・「日本のクリケットの聖地」を目指して活動を展開しています。

細い路地をくねくねと歩きやっと次の目的地、大祝町の宝龍寺に到着。ここの見学は市指定文化財の「銅造阿弥陀如来座像」です。
宝龍寺.jpg銅造阿弥陀如来座像1.jpg
(大祝町の宝龍寺)                   (宝龍寺境内の銅造阿弥陀如来座像)
この阿弥陀如来座像は横に立てられた説明文によると、元禄七年(1694)天明の鋳工 丸山孫衛門尉藤原信次の作。像の高さは409cm。
この後に見学した、金井上町の観音寺に有る、同じく「銅造阿弥陀如来座像」は、寛文九年(1669)斎藤伝七郎久重、太田小左衛門尉藤原秀次、大川久兵衛藤原信正等三人の天明鋳物師たちの合作。
像の高さは313cm。こちらも市指定文化財に成っています。
観音寺.jpg銅造阿弥陀如来座像2.jpg
(金井上町の観音寺)                  (観音寺境内の銅造阿弥陀如来座像)

金井上町の観音寺への途中、「かねがみさま」と呼ばれて、鋳物師たちの信仰を集めていた「金山神社」にも立ち寄りました。
金山神社.jpg金山神社本殿.jpg
(金山神社拝殿正面扉に施された彫刻)       (金山神社本殿の彫刻)

観音寺の次に訪れたのは、西隣りに当たる「惣宗寺」です。佐野厄除け大師の名前で広く知られている寺院で、毎年正月三箇日の初詣には大勢の初詣客で大混雑となります。私もこれまで何度も訪れていますが、今回の参拝させて頂きました。
惣宗寺.jpg東照宮.jpg
(惣宗寺本堂の大伽藍)            (佐野東照宮社殿は県の有形文化財に指定)

最後の見学地は、又天明宿の町並みを見ながら、金井上町から大和町・天明町を歩き、大蔵町の星宮神社に向かいます。途中江戸街道では2階建て蔵造り、外壁は黒漆喰の呉服商の旧店舗「太田邸」や、昭和2年築の洒落た洋館「小島邸」を、そしてかつての日光例幣使街道(現県道67号)にて、江戸後期から明治に建てられた見世蔵が軒を連ねている風景を見せています。これは同じ例幣使街道の宿場町として栄えた「栃木の町並みにも共通するものです。
太田家住宅.jpg洒落た洋館.jpg
(太田邸の見世蔵を見学するメンバー)         (小島邸の洒落た洋館)
日光例幣使街道.jpg土佐屋の名残.jpg
(日光例幣使街道に見世蔵が並ぶ)     (土蔵の屋根のハナブカに土佐の文字)

栃木市の多くの見世蔵の屋根、鬼瓦の前にちょこんとついている「ハナブカ」、目的は良く理解していませんが装飾のひとつと思います、現在の味噌饅頭店「新井屋」の屋根のハナブカを見ると「土佐」と読める。これはこの建物が旧土佐屋薬局の一つの名残りと思われます。
この味噌饅頭店の横の道を北に進んで行くと大蔵町の星宮神社に突き当たります。

星宮神社銅造鳥居.jpg星宮神社拝殿.jpg
(星宮神社の銅造鳥居を見学する)     (星宮神社拝殿)
星宮神社の銅造鳥居は、≪享保二十乙卯年(1735)三月金屋町総鋳物師棟梁大工職という刻名がある。天明鋳物の名匠たちが協力し、天明宿の総氏子が奉納した明神鳥居である。昭和33年に市の有形文化財に指定された。高さ424cm、柱周囲106.05cm≫(ふるさと佐野100選説明文より)

ここから佐野駅まで戻り解散と成りました。
今回佐野市天明宿を巡り、あらためて天明は鋳物の街であることを実感しました。市内のいたる所に鋳物の作品を見る事が出来ました。今回天候にも恵まれ気持ち良く歩く事が出来ました。本日の私の総歩数は20,092歩に成りました。
天明鋳物の公衆電話ボックス.jpg
(佐野の街中に建つ天明鋳物製の公衆電話ボックス)
nice!(0)  コメント(0) 

地元栃木市のマンホールカードをゲットして来ました。 [マンホールカード]

今日12月14日(金)、マンホールカードの第9弾が配布開始されました。
今回はやっと地元栃木市のマンホール蓋がカード化されたので、さっそく配布場所と成った「栃木市観光協会」の「観光総合案内所」(栃木市倭町14-1)に行って、ゲットして来ました。
栃木市マンホールカード.jpg場所配布.jpg
(栃木市のマンホールカード) (カードを配布している栃木市観光協会の観光総合案内所)

自宅から歩いてカードが貰えるのは最初で最後でしょう。
地元の御馴染みのデザインマンホール蓋のカードを手にして、ひとり満足しています。
明日は同じく今日配布開始と成った、佐野市の「さのまるくん」デザインのカードでも貰いに行こうか、それとも思い切って日光いろは坂を登って、日光市のカードをゲットするか、又楽しみが出来ました。
nice!(0)  コメント(0) 

栃木市のマンホールカードが出来ました [マンホールカード]

本日、下水道広報プラットホーム(GKP)のインターネットホームページに、同プラットホームが企画・監修している「マンホールカード」の、第9弾にて配布される内容が公開されました。
今回新たに配布が開始されるものは60種類、この中に私がずっと待っていた1枚が有りました。それは私の地元「栃木市」のマンホールカードです。
私がこのマンホールカードの存在を知り、収集を始めたのが今から2年前です。2016年8月の第2弾配布の中に、栃木県の自治体で最初に足利市が名乗りを上げ、新聞の栃木版にそのニュースが掲載されたのを見て興味を持ったのが初めてでした。
足利マンホールカード2.jpg足利マンホールカード1.jpg
(栃木県内最初のカードとなった足利市のマンホール蓋とそのモデルの足利学校門)

以前からマンホール蓋のデザインが自治体によって異なるのを写真に撮って、県内各地はもとより近県まで足を延ばして多くのデザインマンホール蓋の写真を収集していたので、このマンホールカードの収集も始めた訳です。
今現在で丁度100枚のマンホールカードを収集しましたが、以前から地元のカード発行をズーット期待して待ち続けていたので、今回のニュースには喜んでいます。
今回配布される栃木市のカードのデザインは、旧栃木市内ではおなじみの図柄に成ります。それは栃木市観光のシンボル的な風景、巴波川とそこに泳ぐコイ、そして川沿いに連なる黒塀と土蔵「塚田歴史伝説館」、その左下に「新生栃木市」の市章が描かれたデザインです。
このデザインマンホール蓋は、旧栃木市内の街中を歩けばどこでも見る事が出来るものですが、ただカラー版の蓋はこれまで有りませんでした。それが今年の3月の末に偶然カラフルに色付けされた蓋を、旧栃木市役所別館近くの路上で発見しました。この時私はいよいよ4月の第7弾でカードが出るのではと、密かに期待を膨らませておりました、がそれは見事に裏切られました。そして8月の第8弾でも空振り、少し諦めていましたが今回見事にカード化が実現しました。
栃木市マンホールカード1.jpg栃木市マンホールカード2.jpg
(今回カード化される栃木市のマンホール蓋とモデルと成った巴波川の風景)

101枚目の節目のカードは地元栃木市のカードと決めました。
そして今回の驚きはもう一つ有りました。栃木県内で同時に3ヶ所、カードが配布される事に成ったのです。栃木市とお隣「佐野市」そして「日光市」です。栃木県内で3枚同時発行は今回が初めてです。
配布開始となる12月14日(金)が今から待ち遠しいです。


nice!(0)  コメント(0) 

秋深まる栃木市郊外を走る [自然の恵み]

今年も今日から12月に突入しました。今朝も冷え込みは少なく、暖かな日が始まりました。
昨日も一日風も無く穏やかで暖かかったので、久しぶりに自転車に乗って、栃木市郊外の紅葉を探して走り回りました。
太平山の南麓、大平町下皆川の両毛線に沿う道路を、南に下り大平町富田の旧例幣使街道富田宿を走り抜けて、更に街道から外れて南方向岩舟町静和に入ります。
下皆川の秋景色.jpg
岩舟町静和の東光寺薬師堂前の大銀杏が黄色く色付いています。
東光寺大銀杏の黄葉.jpg
ここで東武日光線の踏切を渡り、真直ぐ南に走ります。我家から南方向への関東平野はなだらかな下り坂になるので、快適に自転車を進める事が出来ます。南に行くという事は、逆に帰りは登り道に成るのですが、それでも関東平野、極端な勾配は無く体力の落ちた私でも、何とか走れる環境です。
東武日光線静和役付近で再び線路を渡り、国道50号線の高架橋下を潜って赤塚山の裾野を時計方向に回り込み、岩舟町静和から岩舟町静へ。

岩舟町静は西に足尾山地の南の先端「三毳山」が南北になだらかな曲線を描いて広がっているのを望む事が出来ます。(写真下)
午後に成ってしまうと太陽が山の西側に掛かってしまう為、少しシルエットに成って来てしまいます。山並みの右側一番高い所が三毳山の主峰「青竜ヶ岳」(229m)、そして左側の高くなっている所が「中岳」(210m)です。
岩舟町静の秋景色三毳山.jpg

北の方向には遠く太平の山並みが東西に連なっています。右奥に「太平山」(341m)、中央一段と高く突き出てるのが、連山の最高峰「晃石山」(419m)、そして左に連なるのが「馬不入山」(345m)。手前の色付いた山肌を見せているのが「冨士山」(94m)に成ります。(写真下)
岩舟町静の秋景色.jpg

東側には先ほど走って来た赤塚山、そして直ぐ目の前には色付き始めた里山がせまります。
岩舟町静の紅葉1.jpg岩舟町静の紅葉2.jpg

ここから家に戻る事にしました。ここ静和の標高は27m程度、我家の有る箱森町の標高は約49m、従ってその比高は22mに成ります。この22mを登って行く事に成りますが、この2点間は直線距離で10kmも有りますからその間の平均勾配は僅か0.1度程度で、登り坂とは言えませんがそれでも往路の快適感は消え、所によっては必死でペダルを漕がないと、前に進まなくなります。幸い昨日は無風状態だったので助かりました。富士山の裾野を回り込んで北上、復路は太平の山々を左に見て箱森町に戻りました。

大平町西山田の秋景色.jpg
(大平町富田西部より望む太平の山並み、山麓には西山田のぶどう団地が広がっています)

久しぶりのサイクリングでしたが、天候に恵まれて気持ち良く廻ってこられました。走った距離は約30kmでした。
nice!(0)  コメント(0) 
前の10件 | -