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栃木市岩舟町小野寺の藤坂峠に建つ石碑 [石碑]

栃木市の中心市街地から西隣の佐野市葛生地区に自動車で抜けるルートは、現在3ルートが有ります。
ひとつは北東側から新会沢トンネルを抜けて会沢町に入る①「国道293号線ルート」、
新会沢トンネル.jpg
(国道293号線の新会沢トンネル。右側道路奥には旧「会沢隧道」有り。それぞれ一方通行)

二つ目は東側の柏倉町から、琴平神社が祀られている鞍掛山を越え長坂町に入る②「県道210号線ルート」、
琴平峠.jpg
(県道210号線鞍掛山の峠、佐野市と栃木市との境界)

そして三つ目は南東側の小野寺町から藤坂峠を越えて中町に入る③「県道282号線ルート」になります。
藤坂峠脇の石碑2.jpg
(県道282号線藤坂峠、佐野市と栃木市との境界)

これらの三つのルートを走って栃木市街地中心の倭町交差点から、佐野市葛生駅前までの距離と所要時間を私の車のカーナビにて検索してみました。
検索結果は、①国道293号線ルート:17.2kmで27分間。②県道210号線ルート:16.7km、31分間。③県道282号線ルート:16.8km、29分間。その違いは距離にして500メートル程度、所要時間も4分間程の差異しか有りません。
倭町交差点と葛生駅前との2点間の直線距離は11.4kmです。その最短距離に一番近いルートは、②の県道210号線ルートなのですが、鞍掛山の峠の標高が約310メートルと他の2ルートより高く、その為山間部ではヘアピンカーブなど含めて大小40か所のカーブを走るため、所要時間が一番掛かってしまう結果になりました。
一方走行距離が一番長い北回りの、①国道293号線ルートが、所要時間が一番短くなっています。ちなみのこのコースの標高の最高点は会沢トンネル部で約180メートル、一方南回りの小野寺町の藤坂峠の標高は一番低く約160メートルになっていました。

今回紹介する石碑は、この一番標高が低い小野寺町から佐野市中町に抜ける、藤坂峠の佐野市との境界手前、道路の右手脇の雑木の中に隠れる様に建てられています。
藤坂峠脇の石碑3.jpg
(県道282号線の道路脇、雑木に埋もれるように建つ石碑)

車を道路脇に止め、石碑の内容を確認するためガードレールをまたいで雑木の中へ。
石碑は道路から見えた物のほか、少し小さな石碑そして石仏3体が並んで祀られています。
藤坂峠脇の石碑1.jpg
(雑木林の中に、大小2基の石碑と、馬頭観世音などと刻された石仏が建つ)

一番大きな石碑には「隧道竣工記念碑」そして碑銘の左横に小さく「栃木懸會議員野尻金一郎書」、その下に更に小さな文字で「石工小田鐵碩」と刻されています。碑銘の文字を記した「野尻金一郎」という人物は肩書に有る通り、昭和9年(1934)の県議会補選に当選し、同10年9月まで県政発展に貢献。同年12月推されて第12代小野寺村長となり、同20年(1945)12月まで務め、戦時下の最も困難で多難な時代の村政につくした人です。<石崎常藏著の「栃木人」より>
碑陰には工事に関係した人達の名前が列記されているようですが、雑木が石碑に覆いかぶさるようになって上部が確認できない状態です。下部に≪小野寺村長 野尻金一郎、仝前村長 越沼忠三郎、仝助役 栗原真三郎、仝収入役 阿部善三郎≫等31名の名前が確認できます。
隧道竣功記念碑1.jpg隧道竣功記念碑2.jpg
(碑面に「隧道竣工記念碑」と大きく刻くされている)(碑陰は雑木に覆われ確認出来ない)

その右隣に建てられた石碑には「殉難者之碑」の文字。碑陰を見ると、「昭和十年三月二十七日殉難」として4名の人の出身地と名前。又、「仝年七月八日殉難」として1名の名前が刻されています。そして左端に「建碑寄附者」として、「一金拾五圓也 佐野町 金井歯科醫院」、その下に「一金拾圓也 岩舟村 川島石材店」が確認できます。この隧道工事にて亡くなられた方々を慰霊する為に建てられた石碑です。
殉難者之碑1.jpg殉難者之碑2.jpg
(「殉難者之碑」と刻された石碑)       (碑陰には工事中に亡くなられた5名の名前が)

現在は切り通しになっているこの藤坂峠に、かっては隧道(トンネル)が造られていたことを、これらの石碑が伝えています。それではこの「藤坂隧道」は昭和10年頃に造られたようですが、何時また姿を消してしまったのか。
私の手元に国土地理院発行5万分1「栃木」の地形図が3枚有ります。それらを広げて見ると、明治42年発行の地形図には確かにトンネルは出来ていません。次の昭和32年発行の物に、小野寺の中妻を北上する道路が葛生町との境界線付近で破線で記されています。またその右横の境界線の両側にトンネルの記号らしき物が記されていますが、道路はつながっていません。そして三枚目の平成11年発行の地形図では、すでにトンネルは消えています。ただ道路東側に石碑の地図記号が記されています。

文章での説明が上手くないので、概略図を用意しました。中央の石碑記号のある場所が「藤坂峠」、峠の南西側に標高324メートルの諏訪岳、北東側にはかって標高344メートルの絹ヶ岳が有りましたが、現在は石灰採掘のため姿を消しています。そしてその絹ヶ岳の北麓に有った切通坂を越えて東西に通っていた県道126号線はその区間の通行が出来なくなってしまいました。
藤坂峠周辺概略図.jpg
(藤坂峠の有る佐野市と栃木市との境界付近の概略図)
※略図中、茶色で描いた道路は明治42年発行の5万分1地形図「栃木」を参考にしています。

藤坂隧道に話を戻します。殉難者之碑より隧道は昭和10年頃に完成したのは確かなようです。それでは何時消えたのか、それを確認する為、岩舟町の資料を調べてみました。そして判明しました。
まず、岩舟町が昭和49年3月に発行した「岩舟町の歴史」の中に掲載された年表を確認すると、≪昭和10年(1935)藤坂隧道開通≫の記載が有ります。又、同じく岩舟町が昭和52年(1977)に発行した「二十年の歩み 岩舟町合併20周年記念特集号」に掲載された年表に、≪昭和46年(1971)2月藤坂トンネル取りこわし工事≫の記載が有り、「姿を消した藤坂トンネル」と説明された「トンネル」の写真が掲載されています。
写真を見た限りでは、トンネルの幅や高さは分かりませんが、入り口側から出口側が見えることから、そんなに長くなかった(20メートル程か)様です。
なぜこの年藤坂トンネルが取り壊されたものか、その理由を記したものは確認できません。それ以降ここ藤坂峠は幅広の切通しと変わり、現在では多くのダンプカーが往来する道路となっています。
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南柏倉から皆川城内町を貫流して永野川に合流する藤川に架かる橋を巡る [栃木市の橋梁]

今回は、柏倉町から皆川城内町の中央部を貫流する川に架けられた橋を、巡りたいと思います。
川の名前は「藤川」。その源流は柏倉町の西の端、佐野市(旧葛生町)との境界を成し、琴平神社が祀られている鞍掛山(標高338メートル)の南麓の沢水になります。
琴平神社参道登り口.jpg藤川上流端.jpg
(琴平神社参道登り口)             (県道の北側山中に消えてゆく藤川最上流)
丁度琴平神社の参道登り口から東方向の皆川城内町に向かう県道126号線に沿って、「藤川」も東に向かって流れています。
県道126号線標識.jpg県道126号線.jpg
(県道126号線の路線標識)        (県道の右手を流れる藤川)

参道登り口前より少し県道を70メートル程下がって行くと、道路右手に鞍掛山北麓の沢と南麓の沢から流れ出た二筋の水の流れが合流しているのが、確認できます。
そこから更に600メートル程行った所で、これまで南側の山裾を流れていた「藤川」が、県道と交差して、道の左側(北側)に流れを変えますが、この所に架けられた橋が「柏倉橋(かしわくらはし)」です。
柏倉橋.jpg柏倉橋銘板.jpg
(柏倉橋より西方鞍掛山を望む)               (柏倉橋の橋銘板)

橋は特別な高欄は無く、白いガードレールが設置されているだけです。当初はこのガードレール部分に、嬌名と河川名の銘板が取り付けられていたようですが、盗難にあったのか現在は見当たりません。幸い橋桁に取り付けられている銘板は残っておりましたので、「柏倉橋」の嬌名を確認することが出来ます。
柏倉橋から300メートル程下ると、道路右手奥の山懐から一直線に水路が迫ってくるのが見える、「滝の沢」
です。土石流危険渓流の注意標識が立てられています。この沢水が藤川に落ちる地点で、藤川が県道の北側から南側に流れを変えます。ここに架かる橋の高欄も白色のガードレールで、表示版は何も設置されていません。ただ橋詰めに「一級河川最上端」と刻した石柱が目に留まりました。
橋の北東側に立派な長屋門を構えたお屋敷が見えます。
無名の橋1.jpg一級河川上流端の標柱.jpg
(橋詰に「一級河川上流端」の石柱が立てられた名前の分からない橋)

次の橋は250メートル程下がると現れました。そしてその先にもう一つ橋が架かっています。その間僅か40メートル程です。この場所で藤川の流れは県道の南側から北側に、そしてそこでU字ターンして、すぐまた県道の南側に流れを戻しています。
無名橋が二つ.jpgU字蛇行.jpg
(二つの名前表示の無い橋が連続する)    (県道北側でU字状に流れる藤川)

昔の道路はこの藤川の流れの北側を迂回していましたが、現在は橋を二つ架けて直線道路に成った様子が覗えます。
ここから100メートル程先に、栃木市の「ふれあいバス・皆川樋ノ口線」の折り返し点「南柏倉公民館前」バス停が左手に有った。更に500メートル程緩やかな下り道を進むと、県道から右手に折れて南側の打越(おっこし)の南麓に抜ける市道14266号がS字状に進み、その途中に藤川に架かる橋の高欄が見える。
土橋橋.jpg
(県道から南側を望むと、S字状の道路上に橋の高欄が見える)

橋の元に向かうと、高欄の親柱に橋銘板が設置されているのを確認できます。
土橋橋銘板.jpg土橋橋銘板2.jpg
(藤川に架かる「土橋橋」の橋銘板)     (藤川なのに「柏倉川」と表示されている)

橋の名前は「土橋橋」、チョッと妙な感じのする名前ですが、恐らくこの名前はこの場所には以前は土橋が有って、地区の人達が「土橋」「土橋」と呼んでいた事で、新しく橋が架け替えられた時、そのまま命名したものと思われます。ちなみのこの周辺の小字名に「土橋」という名は確認出来ません。
もう一つ妙に感じたのは「橋銘板」にある川の名前です。「藤川」では無く「柏倉川」となっています。こちらも恐らく地元の人達はこの川は柏倉を流れている川であるから単純に、「柏倉の川」で「柏倉川」をそのまま使用したものと考えます。この藤川の支流で北柏倉地区を流れているのが「柏倉川」と呼ばれています。ですからそれを「北柏倉川」と、そしてこちらを「南柏倉川」と呼べばスッキリします。が、下流域で皆川城内町の流れはどう呼べば良いのか。基をただせば、なぜ「藤川」と呼ばれるようになったものか、それも疑問に思います。
一筋に流れる河川では、このように地域で名前が変わる例はいくつも有りますが。

ここから市道を進み次の橋を探します。次の橋は市道のすぐ左側の田んぼへ向かう場所に有りました。幅員が狭いので車では通行できません。この無名の橋を渡り、藤川の左岸の土手道を歩いていきます。
藤川の左岸を川沿いの土手道を進むと次の橋も無名橋、更にその次の橋も無名橋です。
無名橋Ⅰ.jpg無名橋Ⅲ.jpg
(藤川には地元の人達の農作業の便に寄与するため、小規模の橋が多く架けられています)

藤川の下流側の先に皆川城址の城山を望むことが出来ます。
この藤川はあの皆川城址の南側を流れています。先はまだ遠いです。
続く無名橋.jpg
(水田地帯の中を流れる藤川、下流奥に皆川城址の城山が望める)

県道126号線に戻り皆川城内町に入っていきます。次に藤川がこの県道と交差する所は、「醍醐橋」です。その間藤川にはいくつかの土橋が架けられていますが、農作業の便に寄与する程度の小さな「橋です。
一方この「醍醐橋」は高欄を備えたコンクリート桁橋ですが、残念ながら橋銘板などは見当たりません。
この橋の名前もどのような経緯で付けたものか興味があります。「醍醐」の意味を調べてみると、≪五味の中で最も美味い味、最も優れている≫と、なかなか立派な意味のようです。更に調べてみたいと思います。

次の橋は「伊勢屋橋」です。栃木市史民族編の中に「皆川宿」の絵図が掲載されています。「皆川小学校」の文字が見えますからいつごろの様子になるのでしょうか。この絵図の中心を右から左へ走る道路が現在の「主要地方道栃木佐野線」その北側の町屋の裏手を街道と並行して描かれているのが藤川です。
ここで現在の(有)日向野建設(絵地図では醤油醸造所・幸島本家)の前で北側に入る細い道路が有ります。
路地の左角には「造酒屋(幸島分家)」、右角には「いせや(旅籠)」、路地を進むと藤川に架かる橋が有り(現在の伊勢屋橋です)、橋を渡った左側に「うらいせや(旅籠)」が描かれています。
私が1982年1月に現地を巡った時撮影した写真が有ります。店の看板には「幸島商店」と見えます。
1982年1月撮影幸島商店.jpg元旅籠いせや跡.jpg
(伊勢屋橋に向かう路地西側角の家屋)    (同じく路地東側角に建っていた家屋)

なぜ「伊勢屋橋」と命名されたか理由は明快になりました。
1982年1月伊勢屋橋.jpg伊勢屋橋銘板.jpg
(かつての伊勢屋橋は今も変わりありません。左奥に金剛寺本堂が見えます)

次の橋は現在の皆川中学校の構内に架けられた「希望の橋」です。1988年3月に校舎側と川向こうのグランドとの間に架けられた歩道橋です。
希望の橋(1993年5月).jpg希望の橋銘板.jpg
(皆川中学校の校舎北側、グラウンドへ続く「希望の橋」 後方に皆川城址)

次の橋は皆川中学校の東側を北に抜ける道路に架けられています。「仲倉橋」です。現在の橋は1988年6月に架け替えられています。私が初めてこの地域の橋を撮影した橋の写真と並べてみます。
1982年1月仲倉橋.jpg2013年5月2日仲倉橋.jpg
(架け替え前の仲倉橋、皆川城址南麓に皆川中学校の校舎)(現在の仲倉橋)

次の橋は「落矢橋」で、現在の橋は2000年3月に架け替えられています。同様に以前の写真と並べてみます。
1982年1月落矢橋.jpg2013年落矢橋.jpg
(架け替え前の落矢橋)              (現在の落矢橋)

この橋の名前も興味があります。何か歴史的な物語がそこに有るのではと。
先ほどの仲倉橋ともの落矢橋との間で、北側から柏倉川が合流してきています。そして藤川はこの後大きく流れを南に変えて、県道に架かる「新皆橋」の下を抜けて南流していきます。
新皆橋3013年7月.jpg
(主要地方道栃木佐野線と藤川の交差点に架かる「新皆橋」、上流側から撮影)

主要地方道栃木佐野線を渡り藤川右岸沿いの道を歩きます。
新皆橋のすぐ下流側に橋名表示の無い小ぶりの橋が架けられています。現在の橋は他と同様白色のガードレールの有る形状ですが、私が初めて来た1982年1月の時はコンクリート製の高欄が有り、そこ橋の上で地元の子供たち数人が遊んでいる風景でした。最近は街中を歩いてもなかなか人の姿を見かける事が少なくなりました。
1982年1月新開橋下流の橋.jpg2013年7月新開橋下流の橋.jpg
(架け替え前の橋の様子)          (現在の橋、上を走るのは市道14254号線)

更に下流に向かって行きます。藤川はここで東北自動車道の下を抜けて、東にゆっくり流れを変えていきます。高速道路の両側には側道が設けられていますが、その側道もその西側で山にさえぎられて無くなるため、この側道を利用する人は多くないと思われます。私も高速道路のアンダーを抜けて南側の田園地帯に。藤川の左岸を進み、途中無名の橋を一つ過ぎて、藤川最下流に架かる「砂畑橋」に向かいます。
2013年5月2日砂畑橋上流橋.jpg2013年5月2日砂畑橋上流方向.jpg
(高速道路の南側、中央奥に写る建物は栃木特別支援学校)(砂畑橋より上流方向を望む)

「砂畑橋」は市道14232号線が通っています。まっすぐ北上すれば東宮神社の参道前に出ます。現在の橋は1981年2月に架け替えられています。橋の上から下流側を望むと、前方奥で北から流れてきた永野川の右岸に合流しているのが確認できます。
2013年5月2日砂畑橋より下流方向を.jpg
(砂畑橋の上より下流側、永野川との合流点を望む)

これで柏倉町から皆川城内町を横断するように流れてきた藤川の橋梁巡りを終了します。
最後に今回見て回った藤川流域の概略図を準備しました。文章では伝えられなかった姿を、別の角度から確認できればと思います。
藤川流域橋梁分布図.jpg
(藤川流域橋梁設置分布概略図。赤点が橋が架けられている場所を表しています)

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栃木市小野口町、廻峠に建つ石碑 [石碑]

栃木市街地からお隣の佐野市に行くための道筋は幾つか有りますが、その中の一つ県道75号(栃木佐野線)は、栃木市街中央の倭町交差点を起点に、西に進み皆川地区・岩舟町小野寺地区を抜け、佐野市の伊勢山町に至る道路が有ります。
今回紹介する石碑は、この道路の脇に建てられています。その場所は旧栃木市の西の端に位置する小野口町で、県道75号がほぼ南側を並行して走る東北自動車道と交差するトンネルを抜け、東北自動車道の南側に移り、そこで大きくカーブして再び東北自動車道の下を潜って北側に戻っている所で、その大きくカーブする道路の形状から「廻峠」と呼ばれている所です。
廻峠.jpg
(大きく右にカーブするその先は岩舟町小野寺に向かう。写真右脇に石碑が見える。)

石碑の道路に向かった面には、「道路改修記念碑」と大きく刻されています。碑面の左側に「大蔵政務次官 松村光三書」と記されています。
この松村光三氏は、栃木町出身の衆議院議員で、昭和3年(1928)第16回衆議院議員総選挙に出馬して当選。この石碑の建立された昭和14年4月当時は、平沼内閣にて大蔵政務次官の要職に在りました。

道路改修記念碑表.jpg道路改修記念碑裏.jpg
(道路に向けて建てられた「道路改修記念碑」)(碑陰には多くの寄附者と関係者の名が)

石碑の建つロケーションを明確にするため、周辺の概略地図を描いてみました。
小野口町廻峠付近概略図.jpg
概略地図の右側が小野口町、そして左側が岩舟町小野寺となります。右上から左方向にゆったりとした曲線を描く道路(赤線表示)が東北自動車道で、この区間は昭和47年(1972)に開通しました。そして高速道路に沿うように走る道路が県道栃木佐野線で、地図中央下部で高速道路の南側に飛び出した状態になっています。その南側に飛び出た場所に今回紹介する石碑が建てられています。
概略地図は背景を緑色と黄緑色とに塗り分けましたが、これは標高100メートルの等高線を境に、塗り分けました。100m以下が黄緑、100m以上が緑としました。色分けで分かるように丁度廻峠の場所が標高100メートルを超えています。その名前の通り峠になっていることが確認できます。
明治42年及び昭和32年に発行された国土地理院5万分1地形図を確認すると、峠の南側に(標高223m)、そして峠の北側に(標高299m)の数字が記されていました。
平成11年発行のものには、それらの数字は無くなっています。そして周辺には4つのゴルフ場が造られています。おそらくこれらのゴルフ場の造成で周辺の地形が変わったためと思われます。
ただ、ここ廻峠のルートは今も昔もほとんど変わっていません。

ここ小野口町の地名について、㈱平凡社発行の「日本歴史地名大系 第9巻 栃木県の地名」にては、≪小野口村:現在栃木市小野口町 志鳥村の西に位置し、北東は皆川城内村。西は蓬莱山および太平山系の廻路(廻峠)を経て三杉川上流の八幡沢で小野寺に入るので、この地名が生じたと思われる。古代の東山道、中世の鎌倉街道の支道といて、廻峠を越えて東進する北路があったと思われる。この峠は小野寺保と皆河庄の境をなし、戦国時代には皆川氏・佐野氏両勢力の境界であり、番所が設けられ、南東部には皆川城の出城小屋城(堤崎城)が存在した。≫と解説されています。
堤崎城址.jpg
(小野口町勝見沢付近より北東方向、右手の山が堤崎城址。中央奥に皆川城址)

皆川城内町からここ廻峠を越えて西に進むと、小野口町の西端に至る。国土地理院発行の2万5千分1の地形図を見るとこの三杉川上流域に「八幡沢」という地名が記されています。
平成19年当時に岩舟町教育委員会が発行した「岩舟町文化財・史跡めぐりノート」を開くと、「2、村檜神社」のところで、≪村檜神社は、大化2年(646)に熊野大神と日枝大臣をむかえてまつったといい、誉田別命が祭神である。光孝天皇(884~887)の頃には、栃木市小野口町八幡沢にあった八幡神社を合祀し、それ以後、同神社を八幡様というようになった。≫と記されています。
この地名の「八幡沢」の呼称に関しては普通に「はちまんさわ」とは呼ばないようです。先の国土地理院の地形図にも「八幡沢」にルビがふられていました。それがどう言う訳か地形図の発行版によって違いが確認されました。
昭和40年版には「ハチメ」、次に発行された昭和44年版では「やちめ」、そして昭和49年版では「やつめ」とその都度変わっています。その後は平成15年版まで「やつめ」で変わっていませんでしたが、最新版の平成25年版でなぜか最初の「はちめ」に変更されています。なぜこうなったか理由が知りたいものです。

だいぶ回り道をしましたが、石碑に戻ります。
「道路改修記念碑」です。碑陰を見ると、碑の左上部に一部欠損が有り、文字が欠落していますが、その他ははっきりと読むことが出来ました。
碑陰には大勢の名前が刻されていますが、上部3分の2ほどは寄附者芳名と金額が連なっています。下部には、工事関係者の名前になります。
P1530524.jpg
(石碑の碑陰下部には工事関係者の名前が刻されています)

改修工事の内容がどのようなものであったかは記されていませんでしたが、「昭和4年6月起工 昭和9年5月竣工」そして、「維持 昭和14年4月14日爲記念建之」「荒川次男書」などと刻されています。

栃木市史 史料編近現代Ⅰの河川整備の中に、≪明治29年は7月と9月に大出水があった。特に9月の出水の場合は、9月9日、利根川・渡良瀬川合流点下流の栗橋あたりの水位が17.25尺(約5.23m)と上昇、翌日一時減少したが、引き続いて豪雨があったため、11日・12日にかけて再び増水している。さらに台風の進路にあたったため、一層その被害を大きくし、堤防の決壊・人家の倒壊、道路の破損等はもちろん、県下全般にわたって、農作物の被害も甚大となった。≫の記事を見る。この時、小野口地内においては、破損した道路の補修に、人夫130人の修労力寄附を行っています。
地元にとってこの道路はまさにライフラインで有ることは、今も昔も変わっていないのです。
私がこの2月3日に、現地に出かけ石碑の写真を撮りに行った時も、地元住民の皆さんが総出で、廻峠の道路周辺に捨てられたゴミの収集活動をされている場面に出会いました。

石碑の寄附者芳名の最初は、皆川村で寄付額は250円、次は幸島基太郎氏で150円、この人物は皆川村の第9代と第14代の村長を務めていました。 同じく150円を関東自動車會社が、又、碑のタイトルを書いた衆議院議員の松村光三氏が100円。その他55名の名前が刻されています。それから字内寄附者が74名、名を連ねています。金額では2円から何んと1人で1500円寄附した人も。
近郷からもそれぞれ寄附が集められています。
栃木市58名(82円50銭)、皆川宿18名(26円)、小野寺新田23名(26円)、志鳥25名(24円80銭)、他に三五馬場・新井・北柏倉・南柏倉・松原新田・大皆川・小野寺山中・荒宿正念路・小野寺田代・岩出・泉川・鳥江戸・滝入と多くの地区から寄附金が寄せられていました。

この道路改修費が全体でどれくらい掛かっていたのか、私には分かる術は有りませんが、多くの地域住民の善意と地元住民の思いが結実して、その当時としては立派な道路がそこに現れたものと想像つきます。その思いがこの大きな石碑となって、それを今に伝えていると思います。



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パソコンが何とか復旧しました。

この2月1日、私のパソコンが突然起動しなくなってしまいました。
電源をオンしてもウインドウズが、立ち上がらないのです。訳が分からず出来そうな対応を色々と試みたのですが、ますます泥沼に沈んでいくような状態に陥ってしまいました。
PC故障1.jpgPC故障2.jpg
メーカーの電話サポートでも解決することが出来ず、残る道としてメーカーに送って修理して貰うことになりました。初期化をすれば修復することは出来るのですがその場合パソコン内に保存してある写真などのデータが消えてしまう為、メーカでハードデスク内のデータを取り出して貰う方向を採りました。
メーカーの話で修理に3~4週間ほど掛かると言われましたが、どうしても保存データを無事に残したい為、選択の余地は有りません。最悪パソコンは新しく買い替えても中身のデータを助ける方向でメーカーに依頼しました。
結果として3週間も掛からず21日に私の手元に無事戻ってきました。
さっそくパソコンを起動して、保存データの確認を。幸いデータも残っているようです。ただしパソコン本体は初期化されている為、後付のプリンターやスキャンなどのソフトを改めてインストールする必要が有りました。
次にインターネットの接続で又手こずることに成りました。このソネットにつながらないのです。
またまたメーカーに助けを求めました。原因は初期化に伴い、インターネットエクスプローラのバージョンも初期状態に戻っていたのでした。遠隔サポートサービスにて最新のバージョンに変えて無事ソネットを使えるようになりました。
やっとの事で故障した前の状態近くまで、復旧して来ました。
普段は便利この上ないツールですが、故障すると全くのブラックボックスと変わってしまいます。メーカーの話ではパソコン本体自体が古くなっているので、また何時故障するか分からないと、言われています。
でも、今は以前のように順調にブログを書いています。パソコンが機嫌を損なわないよう祈りつつ。




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柏倉川に架かる橋梁を巡る。 [栃木市の橋梁]

今回は、柏倉川に架かる橋を巡ります。
柏倉川はその名前の通り、栃木市街地の西方、皆川地区柏倉町の西北端、佐野市葛生地区との境界を成す山塊より湧き出る沢水に、その源を発する河川です。その後聖徳太子神社が祀られている「柏倉温泉太子館」の前を縦断した後、東南東に流れて皆川城内町の街中で、同じく西側から流れて来た藤川の左岸に合流をしています。

私が、この柏倉川に架かる橋の名前を求めて、初めて柏倉川の流域を訪れたのは、今から37年前の1月の事でした。以下に紹介するのはその時撮影をした写真です。下流側から遡っています。
①最初の写真は柏倉川の一番下流部に架かる「観音橋」で、柏倉側はこの後南側を流れている「藤川」に合流しています。橋の右手に橋の名前に成った「観音堂」が見えます。この写真ではまだ昔の姿の藁葺屋根ですが、現在は建て替えられて瓦葺の立派な堂宇に変わっています。又、バックには皆川城址の城山の南麓に建つ「皆川中学校」の校舎が見えています。
1982年1月観音橋.jpg

②次の写真は「谷津橋」です。「観音橋」の一つ上流側に架かる橋です。橋名の「谷津」は、この地区の字名に因ったものです。高欄も新しく感じます。「谷津橋」の銘板が確認出来ます。
1982年1月谷津橋.jpg

③三枚目の写真は「久保山橋」ですが、この橋は県道126号(栃木田沼線)を西に走り柏倉町に入った所、県道から脇道を少し北に入った所に架かっている橋です。橋名の由来は確認出来ませんでした。
1982年1月久保山橋.jpg

④次は「石尊橋」です。県道126号から右に分かれ、「太子館」方面への道を進むと、道路が柏倉川の右岸から左岸に渡る所の橋に成ります。橋名はこの橋の北方に位置する山の山頂に祭られた「石尊神社」に因んで命名されました。
1982年1月石尊橋.jpg

⑤次の写真は柏倉川に架かる橋では無く、柏倉温泉「太子館」の池に架けられていた橋を撮影した物です。柏倉川はこの池の東側を北から南に、聖徳太子神社の参道を横切る様に流れていました。当然参道にはその当時は苔生したコンクリート製の桁橋が架けられていましたが、高欄には橋名などの表示は見られませんでした。
1982年1月太子館.jpg

柏倉川は聖徳太子神社が祀られている「寺山」の北側の山麓に沿って、柏倉町北西の山懐に入って行きます。この先は道路と河川が交差を繰り返している為、その交差地点に橋が架けられています。最初に現れる橋が⑥「種入橋」その後⑦「たつみがえり橋」そして最後が⑧「栃目木橋」と成ります。
1982年1月種入橋.jpg
(種入橋を上流側から撮影。バックに写るのが寺山、左奥先端部に聖徳太子神社)
1982年1月たつみがえり橋.jpg
(たつみがえり橋の横に「一級河川上流端」の標柱が建てられています。)
1982年1月栃目木橋 (1).jpg
(栃目木橋を下流側から撮影。道も流れもまだ山中に向かって続いています。)

この最後の「栃目木橋」を確認・撮影をして戻りました。その当時私が橋探索に利用していたのは、国土地理院発行2万五千分1の地形図でしたが、その当時も現在の最新版に於いても、太子館より奥の地点で道路と河川が交差するポイントは上記の3ヶ所で、そこから先は道路も無くなるし、川の記載も無くなっています。
今回改めて現地に向かったのは、ゼンリン住宅地図にて更に上流に橋が記載されている事を確認した為です。
今回は全てを確認していませんが、平成に成ってから機会あるごとに撮影した写真を含め、以下紹介をしていきます。
①観音橋:平成15年(2003)6月に新しい橋に架け替えられています。
2013年7月観音橋.jpg
                     (2013年7月撮影)
②谷津橋:河川の護岸工事が行われた結果か、橋が架け替えられています。
2013年5月谷津橋.jpg
                     (2013年5月撮影)
③久保山橋:河川の護岸工事が行われていますが、橋は以前のままです。
2013年5月久保山橋.jpg
                     (2013年5月撮影)
④石尊橋:橋は新しく架け替えられ幅が広くなっています。「せきそんばし」です。
2013年5月石尊橋.jpg
                      (2013年5月撮影)
⑤柏倉温泉太子館入口に架かる橋:新しい橋に架け替えられています。
2015年1月太子館.jpg
                      (2015年1月撮影)
⑥種入橋:以前のままの橋です。「たねいりはし」の表示に成っています。
2015年1月種入橋.jpg
                       (2015年1月撮影)
⑦たつみがえり橋:以前のままの橋です。
2015年1月たつみがえり橋.jpg
                        (2015年1月撮影)
⑧栃目木橋:以前のままの橋です。「とちめきはし」の表示に成っています。
2019年1月栃目木橋.jpg
                         (2019年1月撮影)
⑨空久保橋:今回初めて確認をしました。「そらくぼはし」の表示に成っています。
2019年1月空久保橋.jpg
                         (2019年1月撮影)
柏倉川の橋銘板コレクションです。
観音橋銘板.jpg谷津橋銘板.jpg
久保山橋銘板.jpg石尊橋銘板.jpg種入橋銘板.jpg
たつみがえり橋銘板.jpg栃目木橋銘板.jpg空久保橋銘板.jpg
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群馬県板倉町の雷電神社を詣でました。 [建物]

今日、群馬県邑楽郡板倉町の雷電神社に行って来ました。
板倉雷電神社4.jpg
(板倉雷電神社、本社正面を大鳥居を通して撮影しました)

境内の周りには今、蠟梅の黄色い花が咲き、ほのかな甘い香りが溢れていました。
平日の為か参道の茶店は開いておりませんでしたが、参拝に来られた人が、蠟梅や社殿をバックに写真を撮られていました。
板倉雷電神社3.jpg
(社殿前には蠟梅の黄色い花が、ほのかな香りを発しています)
蝋梅.jpg
(咲き始めた蠟梅の黄色い花、バックは雷電神社社殿屋根の千木)

私も本社から奥宮などを、社殿に施された多くの素晴らしい彫刻装飾を観賞しながら参拝して廻って来ました。

<本社・社殿正面>
拝殿正面彫刻.jpg
拝殿正面彫刻1.jpg拝殿正面彫刻2.jpg

<本社・社殿左側面>
本殿左側面彫刻.jpg
本殿左側面彫刻2.jpg本殿左側面彫刻1.jpg

<本社・社殿後面>
本殿北面彫刻.jpg
本殿北面彫刻1.jpg

<本社・社殿右側面>
本殿右側面彫刻.jpg
本殿右側面彫刻1.jpg本殿右側面彫刻2.jpg
上の写真左側に写る彫刻が描く物語が、私が唯一分かった「浦島太郎」の作品です。
「竜宮城の乙姫様に見送られ、左脇に土産の玉手箱を抱え、海亀の背に乗って帰る浦島太郎の図です。」
その他の彫刻が表す物語も有名な物なのでしょうが、私には思い当たる物は浮かんできませんでした。


<奥宮・社殿正面>
奥宮正面.jpg
奥宮向拝部彫刻.jpg
奥宮向拝部彫刻1.jpg奥宮向拝部彫刻2.jpg

此処、板倉の雷電神社は昔から栃木町の人達からも、篤く信仰されていたと聞きます。
社殿前の大鳥居の脇に有る手水舎は江戸時代に、そんな栃木町の雷電講が寄附をしたもので、水舎脇に建てられた石碑には、「栃木町同盟講社」と「水舎寄附」の文字が刻されています。碑陰には栃木町で良く見聞きされる人達の名前がズラッと並んで刻されています。残念ながら表面に苔が付いたり風化等により判別が出来ない名前も多くなりました。

板倉雷電神社1.jpg板倉雷電神社2.jpg
(社殿前大鳥居横の水舎)              (水舎の傍に建てられて石碑)

私の叔父からも、「若い頃は自転車の載って参拝して、御札を頂いて来た。」と、懐かしく話してくれます。今では自動車で40分足らずで行くことが出来ますが、車が今の様に発達していなかった頃は、延々と広がる田んぼの中の道を、ペダルを漕いで行かなければならなかった。それでも往きは下りで多少は楽だったものが、復路は上り坂と成る為、大変だったと思われます。

見事な彫刻作品を鑑賞し、蠟梅のほのかな香りを嗅いで、家路に着きました。
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三池炭鉱の産業遺産を巡る [建物]

この正月休みを利用して九州北部を旅した。目的地は二ヶ所、長崎市と大牟田市です。
長崎市では眼鏡橋を、そして大牟田市では明治日本の産業革命遺産として平成27年(2015)7月に世界文化遺産の構成資産として登録された三池炭鉱関連資産を見て廻りました。

大牟田市の三池炭鉱を訪れたのは世界遺産に登録された事とは別に、その地が栃木市と少なからず繋がりが有ったからです。私が栃木工業高校を卒業する数年前の昭和39年(1964)に、栃木市に三井三池製作所栃木工場が誘致され、私の同級生の中からも多くが就職していました。
大宮町・国府町の萱場地内の工場敷地は32,769坪の広大な土地で、南側は県道宇都宮街道、北側は東武宇都宮線とに挟まれ、北西部には東武野州平川駅が有り通勤には便利な場所です。
私の就職したのは宇都宮市内の工場でしたから、通勤時の電車の窓から良く三井三池製作所を眺めていました。線路際にタンクやパイプが複雑に入り組んだ、石油コンビナートなどで良く見かけるプラントの小規模な施設が設置されていました。
同社に就職したクラスメートの話でも、仕事の関係で出張する事が多い、現地で組み立て作業を行う為と、良く話していました。

(株)三井三池製作所が三井鉱山(株)より分離独立して設立されたのは、昭和34年(1959)でしたが、この頃国内の石炭産業は斜陽化により大量解雇が行われ、三池争議などの労働争議が起きていた時期であり、栃木工場にも九州から大勢の社員が移って来ていたと云います。
三井三池製作所栃木工場では、忘年会などの飲み会の時には、必ず「三池炭鉱節」を歌って盛り上がっていたと聞きました。故郷を懐かしんでいたのかも知れません。
「月が〜あ 出た出た、月が〜あ 出た。三池炭鉱の 上に〜い出た。あんまり 煙突〜が 高い〜いので。さ〜あぞや お月さん けむた〜あかろ。 サノヨイヨイ。」
そんな歌の歌詞に出てくる、煙突を私も一度見てみたいと、この大牟田の地を踏んだのでした。

長崎市を出て、諫早市を経由、有明海に沿って走り、回りこんで大牟田市に到着したのは、14時30分。
私はこれまでイメージだけで、三池炭鉱はもっと福岡県の北域に有るものと勝手に思っていました。それが実際は福岡県の南西端、熊本県との県境、有明海に面した土地で、三池炭鉱の一部、万田坑は熊本県荒尾市に成ります。
まず、JR鹿児島本線の大牟田駅前の観光案内所に寄って、観光パンフレットを貰いました。

最初に「三池炭山創業碑」を見る為駅近くの笹林公園へ。昭和5年(1930)に建てられた石碑の側面には、官営時代を中心に三井による経営が始まる以前の、三池炭山の歴史が刻されていました。
次に向かったのは、目的の煙突です。それは明治28年(1888)開坑の、三池炭鉱の主力坑の一つ、宮浦坑跡(宮浦石炭記念公園)に1本建っていました。
煉瓦積みの煙突の高さは31.2m、直径は上部が2.9m、下部が4.3m、使用されている耐火赤煉瓦約138,000枚と説明板に記されていました。
以前は、大浦坑、勝立坑、万田坑など明治時代の坑口には、いずれもこのような煉瓦の煙突が建てられていましたが、現在はこの1本だけが残されているのだそうです。
三池炭山創業碑.jpg宮浦石炭記念公園.jpg
(三池炭山創業碑)                (宮浦石炭記念公園に建つ煙突)

次に向かったのは「宮原坑」。明治31年(1898)の開坑です。さすが世界遺産に登録されているだけ有って、広い駐車場が整備されています。その先に我が国で現存する最古の鋼鉄製櫓という、明治34年築の「第二竪坑櫓」が聳え立っています。
宮原坑1.jpg
(宮原坑第二竪坑櫓と巻揚機室)
櫓の高さ:22.05m、鋼板リベット止めラチス組み。櫓上部に取り付けられた滑車(シーブ)に、巻揚機からの鋼索(ワイヤーロープ)を介して、竪坑内にケージを吊り下げ、支える役割を持っています。人馬昇降、排水、揚炭機能を担っていました。
宮原坑2.jpg宮原坑3.jpg
(巻揚機室)                     (排水管)

車を更に南に走らせ県境を越えて、熊本県荒尾市原万田へ。
「万田坑」は明治35年(1902)の開坑。宮原坑に続き開鑿された坑口で、当時炭鉱業界の模範となるような坑口施設を作るため三井が総力を挙げて建設したと説明されています。
明治時代に作られた炭鉱施設としては、わが国最大規模を誇っていました。
万田抗1.jpg
(万田坑)

現地に着いた時は既に最終入場時間を過ぎていた為、門の中に入場する事が出来ず、外観見学のみと成りました。

大牟田市まで来たついでに、市役所に立ち寄り、マンホールカードを貰ってきました。
大牟田市役所.jpg大牟田市マンホールカード.jpg
(国登録有形文化財指定の、大牟田市役所本庁舎旧館)  (大牟田市マンホールカード)

大牟田市のマンホールカードのデザインと成っているのは、大牟田市公式キャラクターの「ジャー坊」君です。昨年のゆるきゃらグランプリーに於いて、最後までトップ争いを行い残念ながら一位の座を逃しましたが、投票活動における組織票争い等で、全国的なニュースとなり、一躍有名になったキャラクターです。
背景に「三池炭鉱宮原坑」が描かれています。
訪れた日が1月4日(金)、丁度仕事始めで市役所が開いていたので、カードを入手出来ました。ラッキーでした。
尚、三池炭鉱の見どころはまだまだ有るので、機会が有ればまた訪問したいと思っています。
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長崎眼鏡橋と諫早眼鏡橋 [橋梁]

私の蔵書の中に「眼鏡橋 -日本と西洋の古橋-」と言うタイトルの1冊の本が有ります。
工学博士太田静六著で、昭和55年10月20日初版発行です。
眼鏡橋の本.jpg
その頃私は、栃木市内の河川に架けられた橋の写真を、探し回っては撮影して歩いていましたので、書店でこの本を見付け、ページをめくってみて、そこに多くの石橋の写真が掲載されていたので、早速購入したものです。
そこにはヨーロッパの今から2000年以前に建設された多くの石造りのアーチ橋・水道橋の写真などと共に、日本の九州地方に分布する石造りアーチ橋の写真が多数掲載されていました。
石造りのアーチ橋は栃木市内では、私の知っている限りでは、錦着山東南麓に架かる「八雲橋」ただ一ヶ所です。大正5年6月に石工の大塚藤吉さんに依って完成されたもので、どのような経緯で石造りのアーチ橋の形を採ったのか興味が有ります。
八雲橋1.jpg八雲橋2.jpg
(錦着山南東麓、風野堀に架かる石造りアーチ橋) (要石に陽刻された「八雲橋」の文字)

抑々、日本における石造りアーチ橋の分布は、そのほとんどが九州地方に偏っていると云います。上記の本に依ると造られた年代が分かっている中で一番古いと云われるのが、長崎市の中島川に架かる、あの有名な眼鏡橋で、寛永11年(1634)に長崎の唐寺・興福寺2代目住職黙子如定(もくすにょじょう)が架けたとされています。その後、明治の末までに架橋された石造りアーチ橋の数は、一番多いのは熊本県で150橋前後。次は鹿児島県ですがその数は熊本の半分以下の70橋位。三番目が大分県の50橋で、四番目が長崎県の約35橋であると書かれています。
私はこの「眼鏡橋」の本を入手してから、一度は長崎を訪れて実際に長崎眼鏡橋を見てみたいと思っていましたが今回、正月休みを利用してやっと見て来る事が出来ました。
現在の長崎眼鏡橋は、上記の本が発行された昭和55年の2年後、昭和27年(1982)の7月に発生した長崎大水害で半壊した為、翌年の10月に修復されたものです。
 <長崎眼鏡橋のデータ>
   ・橋の長さ:22m、橋の幅:3.65m、川面までの高さ:5.46m、
   ・2つの半円を描く石造り2連アーチ橋
   ・昭和35年(1960)、国の重要文化財に指定される。
 
私が実際に橋の上に立ったのは1月3日の午後3時30分、幸いに空は真っ青に晴れ渡り、風も無く最高の観光日和に成っていました。
長崎眼鏡橋の撮影ポイントは、下流側に架かる「袋町橋」の上からと、眼鏡橋と袋町橋の中間点の川の中に設けられた飛び石からの2ヶ所、二連アーチ橋が川面に映った姿が、まさに眼鏡の形を見せてくれています。
この日も多くの観光客がこの姿を写真に収めて居りました。
長崎眼鏡橋1.jpg長崎眼鏡橋2.jpg
(下流側「袋町橋」の上から撮影した「長崎眼鏡橋」) (左岸下流側親柱に「眼鏡橋」の文字)

長崎眼鏡橋3.jpg長崎眼鏡橋4.jpg
(下流側の川中に渡された飛び石上から撮影) (左岸上流側に建てられた「黙子如定の像」)

前出の「眼鏡橋」の本によると、≪中島川には橋が多く、かつ江戸時代には固有名詞がなく、呼ぶのに不便であったので、「長崎図誌」の著者が、上流の阿弥陀橋を第一橋として、順次下流の橋に番号をつけたという。例えば眼鏡橋は第十橋といった具合である。 (中略) なお現在の橋銘は地元の研究家、宮田安氏の説によると、明治15年頃に、当時の漢詩人、西道仙がつけたものが大部分だという。≫ 
第一橋から紹介すると、①阿弥陀橋、②高麗橋、③大井手橋、④編笠橋、⑤古町橋、⑥一覧橋、⑦芊原橋、⑧東新橋、⑨魚市橋、⑩眼鏡橋、⑪袋町橋、と成っています。

昭和57年(1982)に発生した長崎大水害により6つの石橋が全壊、眼鏡橋と袋町橋は半壊しています。半壊の2橋はその後復原修復され、その他の石橋は架け替えが行われました。
残念ながら今回私は、上記の全ての橋を見て来る事は出来ませんでしたが、機会が有ればまた訪問したいと思っています。
すすき原橋.jpg
(東新橋の橋上より上流方向を写す。手前の車が通行するのが「芊原橋」その奥が「一覧橋」)

翌日は、諫早眼鏡橋を見る為長崎市を後にしました。諫早市は長崎市の東隣りに位置しており、長崎自動車道を利用すると諫早眼鏡橋の有る諫早公園に、40分程で到着しました。
諫早眼鏡橋は、石造りアーチ橋の中では、一番早く国の重要文化財に指定されたものです。
昭和33年11月の指定は、長崎眼鏡橋の指定(昭和35年2月)より1年3ヶ月早いものでした。
<諫早眼鏡橋のデータ>
   ・橋の長さ:49.25m、橋の幅:5.5m、アーチ頂上の下面から常水面まで5.4m
   ・半円よりは小さな欠円の石造り2連アーチ橋
   ・一つのアーチスパンは17.35m、アーチ面を形成する円の半径は9.7m
   ・天保9年(1839)の架橋
諫早眼鏡橋1.jpg
(諫早公園内の池に移設された諫早眼鏡橋)

この眼鏡橋は、元は直ぐ北側を流れる本明川の450m程下流側に架けられていたものです。
前出の「眼鏡橋」の本によると、≪本明川は昔から氾濫の歴史を繰り返してきた。(中略) 昭和32年7月25日から26日にかけて襲来した未曽有の集中豪雨による大氾濫の結果、全市が水没して死者行方不明者数十人を出すという諫早史上、最大の惨事をひきおこした。(中略) この時に起こった本明川の氾濫が如何に凄まじいものであったかは言語に絶する程で、本明川に架けられていた昭和の現代橋はみな流失した。その中で、ただ一つ石造眼鏡橋だけが頑として動かず、そのため上流から流下してきた流木その他が眼鏡橋に塞止められてダム状になり、このダム状に溜まった濁水が、堤防を破って市街に奔流したため被害を一層大きくする結果と成った。≫
その昔、洪水のたびに橋が流出しては、不便を感じていた為、頑丈な石橋を架けたのだが、橋が壊れなかった事で、堤防の方が壊れたのだと、何とも言えない現実でした。その結果、この眼鏡橋を爆破して壊してしまえと云う市民の声が湧きあがり、それもやむなしと云う状況に成りました、一方当時の市長さんや有識者達に依る文化財保護運動とも相まって、眼鏡橋を解体して他の場所に移建する事となって現在の場所に設置されたと、その経緯が記されています。

諫早眼鏡橋2.jpg
(諫早眼鏡橋の五分の一の縮尺で精巧に作られた、本物そっくりのミニ眼鏡橋)
上の写真は、諫早公園の一角で見つけた、諫早眼鏡橋の精巧な五分の一縮尺で造られた模型だそうです。実際の眼鏡橋を諫早公園に移築復元する為に、橋の組立て方や強度など技術的なデータを収集する目的で造られたものと、脇に建てられた「眼鏡橋模型建設記念碑」にその経緯が記されていました。

眼鏡橋見学の後、商店街に設置されている眼鏡橋をデザインしたマンホール蓋の撮影と、そのマンホール蓋の図柄を採用したマンホールカードを貰って、長崎県を後にしました。
諫早眼鏡橋3.jpg諫早眼鏡橋4.jpg
(諫早市のデザインマンホール蓋)         (諫早市が配布しているマンホールカード)
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2019年の元旦、いつもの年と変わらぬ一日を過ごす。 [歩く]

明けましておめでとうございます。
2019年1月1日、我家では例年と変わらぬ、穏やかな一日で迎えました。と言うものの実は少し違う、例年家族四人が揃って新年を迎えるのだが、娘が年末年始の休みを利用して旅行に行ったため、親としては少し不安な日々を過ごしている。
一人欠けると倅としては退屈になると思ったのか、何を考えてかジグソーパズルを買って里帰りをして来ました。昨夜はNHKの紅白歌合戦を観戦しながら、年越しそばを頂いた。
今朝は起きられれば初日の出を見ようかと思いきや、目覚めたのは7時を回っていました。新聞を取りに東向きの玄関のドアを開けると、眩しいほどの太陽の光が射しこんで来ました。思わず玄関先で初日の出を拝んでいました。
元旦の我家の行事は、ニューイヤー駅伝のテレビを見ながら、御屠蘇とお雑煮を頂く。今年は食事の後テレビを見ながら、ジグソーパズルに取り掛かる事に。絵柄は正月らしく「富士山」、パッケージから500ピースを取り出す、先ずは簡単な周囲のピースを並べて枠を完成そこから中に攻め込む。
しかしピースはどれも同じに見える。早々に絶望感が広がる。こんなのとても無理だ。年寄りには根気が欠如して来ている。後は倅に任せて届いた年賀状を見て、出していなかった人への年賀状を印刷。その間ジグソーパズルの富士山の姿が徐々に姿を現してきています。午後一時ごろには残り少なくなったピースが面白いように隙間を埋めて遂に完成しました。
ジグソーパズル「富士山」.jpg
(500ピースのジグソーパズルで見せる「朱に染まる絶景富士」)

ニューイヤー駅伝を見終えてから、初詣に出掛けます。朝から御屠蘇を頂いているので車は利用できませんから、例年通り歩いて神明宮へ向かうことに。昨日からずっと飲んだり食べたりで、運動不足気味に成っていますから、少し歩く必要が有ります。まずは新栃木駅前の郵便局へ回り、年賀状を投函。そこから駅東へ抜け、今泉保育園前から神田町へ。杢冷川の東雲橋を渡りそこから真直ぐ進むと目的の神明宮に至る。
神明宮は拝殿前から参拝者の列が伸びています、最後尾は昨年と同等大鳥居の所。
午後3時40分に列の後に付きます。行列のその先の神明宮拝殿の大屋根が新春の西陽を受けています。
初詣「神明宮」.jpg
(2019年最初の西陽を受ける神明宮拝殿の大屋根)

初詣を済ませて一路我が家への道を戻ります。歩いていると薄っすらと汗をかいて来ました。風も無く穏やかな新年の初ウォーキング。今日の歩数は11,217歩でした。
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皆川先祖譜代家臣録と佐山信濃守政道

今から40年も前の話ですが、「栃木市の歴史」や「栃木の民話」など多くの著書を持つ日向野徳久先生の講演を聞きに行った時の事です。≪栃木市内でこうした郷土の歴史の話をすると、良く「我家の先祖は皆川の家臣だった。」とか、逆に「△△町の〇〇と言うものだけれど、我家の先祖は皆川の家臣ではないでしょうか」などの質問がされます。≫と。
実は私も同じような疑問を持ったことが有り、本宅に質問をした事が有りました。答えは簡単、「家は百姓の出だ」で、それ以上話になりませんでした。
そこで今回は皆川家の家臣団に付いて調べてみました。
栃木市図書館に行くと。「皆川廣照伝」という近藤兼利著、昭和33年8月15日発行の本の中に附録として、「皆川先祖譜代家臣録(千八百余名記載)」と言う資料が、巻末に掲載されています。
資料を見ると「皆川城内村」「柏倉町」「岩出村」など地域別に大勢の氏名が羅列されています。そして資料内には(慶長十六年十一月六日家臣帳)の文字や資料末尾の所に、
    皆川家臣一千七百八十有余者 奉納祠堂物米三百五十俵 
   右所志者奉手向乎歴代之尊霊者也
    干時寛永乙亥年九月   日
此処に記された日付を見ると、慶長16年(1611)は皆川広照が松平忠照お家騒動により改易され、栃木城が取り潰しと成った慶長14年から2年後に当たります。家臣帳がこの年何の目的で作られたのか。
又、寛永乙亥年は1635年の事、既に皆川広照は歿しています。
この「皆川先祖譜代家臣録」を分析すると、名前が記された村落は北は眞名子村や大柿村・深沢村、南は赤間村・江川村・小池島村、東は原宿村・木野地村・川原田村、そして西は大久保村・柏倉村・小野口村・立花村・白岩村などのと、戦国時代に皆川領のほぼ全域に渡っています。皆川領は北東側は宇都宮氏や壬生氏、南東側は小山氏し、西側は佐野氏と境を成す南北に細長い領域を有していました。

この家臣録に出てくる苗字の数は408、総記載者名は1,795名に及びます。
地域的に見て行くと名前の掲載が多いのは「皆川城内村」と「栃木村」が同数で164名、当然と言えば当然の結果なのでしょう。次は「眞名子村・木村・高谷大和」の三地域まとめてに成りますが116名。次も複数地域の合計に成りますが「富田村・茂呂宿村」と「原宿村・吹上村・片柳村」とが同数で106名。6番目が「山田村」97名、7番目「武井村・牛久村」75名、8番目「川連村」70名、9番目「横堀村」69番目」、10番目「薗部村」60名。と言った状況に成っています。

次に1,795名の氏名を見て行きます。その中でもっとも多く見られる苗字は「関口氏」で68名居ります。特に多く分布する地域は大皆川村・柏倉村でそれぞれ10名居ります。さらに細堀村と新井村で合わせて10名、小野口村・皆川城内村でそれぞれ5名などです。
次に多かったのは「熊倉氏」と「大橋氏」で、共に36名の名前が見えました。熊倉氏は16名が川連村に名を連ねていました。一方大橋氏は川原田村に10名、真名子村・木村・高谷大和に合わせて10人、そして皆川城内村と岩出村にそれぞれ5名と成っていました。
次が「石川氏」34名、その内7名が志鳥村に名前を連ねていました。5番目に多く見られたのは「寺内氏」です、29名有りました。多く見られた地域は大皆川村で9名確認出来ました。
以下、「渡部氏」28名、「大島氏」23名、「田村氏」22名、「山田氏」20名、「鈴木氏」20名となっています。
こうして見て行くと自分と同じ苗字がどうなっているか気になって来ますが、「佐山」姓は「青木氏」・「田中氏」・「日向野氏」・「山井氏」などと同じく16名確認出来ました。特徴的なのは16名中10名が「曲ヶ島村・中根村」に10名が集中して見られた事です。そして「栃木村」3名、大皆川村2名、薗部村1名と言った分布に成っています。「佐山」という同一苗字でも調べてみると地域によって使用している家紋に違いが見られます。岩舟町曲ヶ島では「下がり藤」紋。栃木市大町では「丸に抱き柏」、平柳町では「丸に蔦」、薗部町では「丸に隅立て四つ目」、大皆川町では「梅鉢」や「丸に横木瓜」などを確認しています。家臣録には有りませんでしたが藤岡町緑川の集落も「佐山」姓が多く見られますが、この地域では「丸に橘」紋が確認されました。
下がり藤.jpg丸に抱き柏.jpg丸に蔦.jpg
(下がり藤)             (丸に抱き柏)          (丸に蔦)
丸に隅立て四つ目.jpg梅鉢.jpg丸に横木瓜.jpg
(丸に隅立て四つ目)        (梅鉢)             (丸に横木瓜)

「皆川正中録」の「巻之三」に佐山信濃守政道という人物が登場して来ます。そのくだりを少し抜粋してみます。≪草倉の陣中より緋縅しの鎧に下り藤の紋付けたるを着し、鹿角の前竪物の兜を着て栗毛の駒の太く逞しきに、皆川家より拝領の二つ巴の紋つけたる鞍置きたるに打乗りて、大薙刀を持ち進出て申しけるは、「朝倉殿の目覚ましき御働き感じ入り候。某は皆川山城守の家臣佐山信濃守政道と申す者なり。少しく御相手仕らん」と大薙刀を水車の如く振廻して切ってかかるを心得たりと互いに切結ぶに、・・・・・(後略)≫と、記されています。佐山信濃守政道の付けた紋所は「下がり藤」。岩舟町曲ヶ島の「佐山氏」の先祖という事に成ります。
ちなみに現在のゼンリン住宅地図にて、岩舟町曲ヶ島における苗字の分布を調べてみると、名前が掲載されてい「佐山」姓は65世帯で一番多くなっています。次が「葛生」姓が34世帯、3番目が「茂呂」姓で13世帯と成っています。(掲載氏名総数217世帯、平成27年12月31日現在栃木市町内別人口一覧における岩舟町曲ヶ島の世帯数は306と成っています。) その中でも一番南の端、西側に藤岡町赤麻、南側に藤岡町中根と境を成す「字向」の約30軒の集落に於いては殆どが「佐山」姓を名乗っています。他の姓を持つ家は6軒程確認されました。
こうして「皆川先祖譜代家臣録」を見てみると、色々興味の有る事や、疑問に思う事などが出て来ます。更に調べて行きたいと思います。

今回、参考にさせて頂いた資料
     皆川廣照伝    近藤兼利編        昭和33年8月15日発行
     考註皆川正中録 日向野徳久考訂並考註 昭和38年11月3日発行
     ゼンリン住宅地図栃木(岩舟町)2017
     
  
  
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