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惣社町に建てられた石碑 [石碑]

栃木市惣社町に有る石碑を探そうと、国土地理院発行の二万五千分の一地形図を開きました。栃木市総社町を見る為には「栃木」の地形図では無く、「小金井」を見る必要が有ります。その地形図にて記念碑の地図記号の箇所を探していくと、総社町内に二ヶ所の記念碑記号を確認出来ました。
記念碑の地図記号が記されていた場所は、一つは大神神社の境内(添付概略図の1を記した記念碑地図記号)、そしてもう一つは惣社町の東端、「栃木市惣社東産業団地」内(添付概略図の2を記した記念碑地図記号の場所)に有りました。
最初の「大神神社」の境内に建つ石碑は、芭蕉句碑を指すものと思われます。この境内には他にも沢山の石碑が建てられています。
芭蕉句碑1.jpg芭蕉と室の八島.jpg
(大神神社境内に建つ芭蕉句碑)  (句碑の横に建てられた説明板)
この芭蕉句碑が建立されたのは明治2年(1869)3月ですが、地形図上に記念碑記号が記されたのは昭和63年発行の地形図からです。その前の昭和55年発行の地形図では、大神神社の参道入口、一の鳥居付近に記念碑記号が記されました。この地図記号を付した理由は分かりません。

もう一つ、「栃木市惣社東産業団地」内に建つ石碑について、私はこれまでその存在を知らなかったので、さっそく現地に行って確認をして来ました。この思川右岸の壬生町と惣社町の境界近くに記念碑地図記号が記されたのは、昭和55年発行の地形図からに成ります。
石碑は産業団地内の緑地公園の道路脇に建てられています。記念碑が3基そして小さな石の祠が、コンクリートの基礎の上に綺麗に並んで建てられています。
惣社町石碑1.jpg
(栃木市惣社東産業団地内に建つ石碑群)
この石碑の建っている場所は、地形図に記されている点と約100メートルずれています。恐らく石碑が元建っていた場所より産業団地の造成の際に移設されたものと思われます。又、3基の石碑と石の祠が以前もまとまって建てられていたのか、別々の場所に建っていたものを、造成時に現在地にまとめられたものかも確認出来ていません。
先ずこれらの石碑等の内容を確認して行きたいと思います。向かって一番左、一番大きな石碑。正面上部に右から左へ「揚水記念」、その下側に碑文が縦書きに刻されています。
≪本用水ハ旧十一人堀ト稱シ☐蓋シ天保年間惣社小倉川沿十一人共力川原ノ堆地ヲ開田シ灌漑用水堀ヲ設ケジナラム明治維新後開拓工事速進シ開田拾壱町五反歩ニ達ス然ルニ用水不足ノ折遇昭和六年小倉川砂利會社ニ於テ砂利採取ノ為ノ用水益不足ス依テ田所有者野中銀治大貫七郎荒川守正荒川悠助大貫久次郎出井茂喜ノ六氏代表トナリ縣ヘ☐状シ會社☐交渉ス結果揚水器械一万円ニテ設備シ灌漑ニ便セリ≫その後に≪正六位勲四等功五級野中猪三郎撰文並謹書≫そして左下隅に≪森戸六泉刻≫と石工の名が見えます。
碑陰には耕地所有者34名の氏名が順序不同で刻され、その後に発起者8名の氏名が並んでいます。
最後に建碑の日付でしょうか≪昭和十八年二月十一日≫と有りました。
揚水記念碑(表).jpg揚水記念碑(裏).jpg
(揚水記念の碑・表)                 (揚水記念の碑・裏) 
揚水記念碑(碑文写し).jpg 
(「揚水記念」の碑文を書き写しました)

その右隣り、石の祠は「水神社」と刻されています。祠の左側面に「昭和十八年二月十一日」と刻されています。この日付、上記の石碑に刻された日付と全く同じです。石碑の建碑に合わせてこちらの祠も祀られたことが分かりました。
水神社.jpg
(水神社、揚水記念碑と同じ日に祀られています)

祠の右隣りの一回り小さな石碑、正面中央上から下に大胆に書きなぐった文字で、≪旧十一人堀用水灌漑水路改修記念≫と刻されています。その右側には≪栃木☐☐土地改良事業 工事延長二千三百米 昭和二十八年三月三十日竣工≫と、そして東側には≪集☐暗渠六十米 工費金八拾万圓 補助井戸機械☐☐費金弐拾六万圓 昭和三十一年三月竣功≫そしてその下側に工事委員11名の氏名が刻されています。
碑陰には工事応援者(3名)や工事委員(10名)、そして工事関係者の氏名(35名)が刻されています。
旧十一人堀用水灌漑水路改修記念碑(表).jpg旧十一人堀用水灌漑水路改修記念碑(裏).jpg
(旧十一人堀用水灌漑水路改修記念の碑、表面と裏面)
旧十一人堀用水灌漑水路改修記念碑(碑文写し).jpg
(「旧十一人堀用水灌漑水路改修記念」の碑文を書き写しました)

右端に建つ一番小さな石碑は、正面上部に「墾田紀念之碑」、その下側に碑文が刻されていますが、苔がf着してたり風化が激しかったりで、思うように文字を判読する事が出来ません。確認出来た文字から内容を読み取ると「相謀り明治35年開墾を発起、大正6年1月16日竣工、この碑を大正7年1月16日建設した」その後に、≪正六位勲四等功五級野中猪三郎撰並書≫そして左下端に≪石工 松村三瓢彫刻≫と読み取れました。
碑陰には≪下都賀郡国府村大字惣社字馬☐☐二三八七番三町二反歩≫その後に墾田建碑人7名の氏名が並んで刻されています。
墾田紀念之碑(表).jpg墾田紀念之碑(裏).jpg
(墾田紀念之碑、表)              (墾田紀念之碑・裏)
墾田紀念之碑(碑文写し).jpg
(「墾田紀念之碑」の碑文を書き写しました。判読出来ない文字が多く成っています)

これら3基の石碑の関係は、右端の「墾田紀念之碑」が大正7年の建碑で一番古く、次いで左端の「揚水記念」が昭和18年。真ん中の石碑が戦後で昭和31年と言う順序に成ります。又、大正7年と昭和18年の碑文は、野中猪三郎氏の撰並びに書に成ります。

私は地元では無いのでこの碑文の中に出てくる「十一人堀」の所在が何処なのか断定する事が出来ません。国土地理院の地形図には記されていないですが、上記の旧十一人堀の記念碑と関係の有りそうな石碑が、同じく惣社町に建っていました。場所は県道2号線の南側、総社町田中の集落の北外れ、道路脇に水田をバックに背の高い石碑が建てられています。(添付概略図の3を記した記念碑地図記号の場所)
旧四ケ村樋門再鑿碑.jpg
(惣社町田中の集落の北の外れに建つ石碑、左手奥の森は大神神社)
旧四ケ村樋門再鑿碑(碑文写し).jpg
(「旧四カ村樋門再鑿碑」の碑文を書き写しました)

石碑正面には上から下に「旧四カ村樋門再鑿碑」と大きく刻されています。竣工したのは大正五年六月、建碑されたのは昭和三年十一月、これは先の「墾田紀念之碑」とほぼ同時期に建てられています。
惣社町には江戸時代に開発された「四カ村用水」と称した灌漑用水が有りました。四カ村とは壬生・惣社・田・大光寺です。惣社・田・大光寺の三カ村は理解できますが、壬生が此処に有る事がなかなか理解できません。用水の流れは惣社の北東部に接する柳原地内に於いて、小倉川(現思川)より取水、壬生・惣社・田・大光寺の四カ村を灌漑しています。当初の開田は五反歩でした。

惣社町に有ったこれらの用水の形跡が何か無いか、明治初期に作成された地形図(通称迅速測図)を細かく確認すると、惣社地内に青く染められた筋が目につきました。
先ず惣社町の北東の端、「柳原」との境に小さな沼が描かれています。そこから流れ出した水の流れが南に向かって伸びています。「北原」の集落の北東辺りで東方を流れる小倉川からの水路が合流しています。そこから「北原」と「台」の集落の東側を南に流れ、現在の県道2号線を過ぎる辺りで今度は流れが左右に分岐しています。東南方向に進む本流は「田中」の集落の東方で再び小倉川の戻って行きます。一方南西方向の支流は「田中」の北側付近で大きく西に流れ、「内匠屋」の集落の西側で南に流れを変え、田村に入り「田本」の観明寺の東、愛宕山神社を抜けて南の星宮神社方向へ流れています。この用水の流れを概略図にしてみました。
惣社町周辺概略図.jpg
(明治初期の栃木市惣社町付近の概略図、破線部は現在の主要交通網)

惣社地区を流れていた用水路や柳原との境に有った沼跡辺りは、現在市道1022号線が走っています。
石碑を見て行くと、その地域の歴史を僅かながら思い描く事が出来ました。



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栃木市泉川町の稲荷神社 [栃木市の神社]

栃木の市街地から県道75号線(栃木佐野線)を西に向かい、錦着山の北西部にて赤津川に架かる「泉橋」を渡ると、その先に直ぐ信号機の有る交差点、そこを右折して北方向に進みます。
この道路は現在市道1021号線と言う1級幹線に成っていますが、明治の初期に発行された地形図には「従出流村至栃木町道」と、栃木町と寺尾・出流方面とを繋ぐ幹線道路でした。これは明治中期以降に鍋山の石灰を栃木町へ運ぶ為の「鍋山人車鉄道」の軌道が敷設される「鍋山新道」が出来る迄、まさに重要な道路で有りました。
コンビニの有る交差点から入って暫らくすると、道路左手前方の田んぼの先、木立の中に石の鳥居が見えて来ます。ここが今回紹介する、旧泉川村社の「稲荷神社」に成ります。
稲荷神社3.jpg
(2018年7月撮影、市道1021号線より左奥の稲荷神社を望む)

「栃木県神社誌」を開くと、栃木市泉川町352番地 旧村社として、主祭神 稲荷神。配神 稲倉魂命。境内神社 鹿島神社・星宮神社・八坂神社と有ります。
稲荷神社2.jpg
(稲荷神社社殿を参道入口の鳥居手前より撮影)

神社の由緒沿革として、≪後花園天皇の頃、嘉吉2年(1442)伊勢内外より遷座し祀り、稲荷神社と称し奉り享徳年間(1452~1454)、檜村と称した事が有る。その当時檜の大樹が有って、幹中より清水が湧いたのでその後、泉川と変更した。≫と、そして≪本社に現存する大欅は、その大樹である檜を中心として、2本の欅を植付たものが、檜をかこんで、現在周囲が二丈四尺(7.27メートル)余となり、一本の様に見える程成長した。この大欅は享徳年間に植樹したといわれる。天保十二年(1841)の頃、本殿及び拝殿を改築して現在に至っている。≫と記されています。

私が2013年の秋に訪れた時には、この大欅は無くなっていました。
先ほどの神社の東側を南北に走る市道1021号線を更に北に進むと、新井町の旧村社「天満宮」の東脇を舐めるように通過していますが、この天満宮社殿の直ぐ手前左脇にドッシリと根を張る立派な大欅が聳えています。この大欅も近年大きく成りすぎた為上部を詰めてしまいましたが、栃木市が天然記念物に指定している「大欅」です。
一方、こちらの稲荷神社境内に聳えていた欅も、私がまだ若かった頃に見た時は大きく感じました。1979年の3月に遊び半分でその欅の根元に登り、大地に映った木の影を写真に収めました。その影を見ると確かに神社誌に記されたように幹が2本に分かれて写っていました。
1979年3月稲荷神社 欅1.jpg1979年3月稲荷神社 欅2.jpg
(1979年3月撮影、稲荷神社境内の大欅)(大地に伸びる大欅の影、同日撮影)

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栃木市野中町、永宮橋が新しくなりました。 [栃木市の橋梁]

栃木市野中町の北側から西側へと流れる赤津川に、最近新しい橋が開通いたしました。
この新しい橋は、野中町から吹上町に向かう、市道2042号線が赤津川を渡る箇所に成ります。
橋の名前は「永宮橋」です。
永宮橋1.jpg永宮橋2.jpg
(この3月新しい姿を現した「永宮橋」)         (橋桁に取り付けられた橋銘板)

この辺は、ウォーキングでたまに歩いて来る所で、2年前に来た時に赤津川左岸に沿った道路に迂回路が作られ、川の土手で護岸工事らしき光景が目に留まりました。その時考えた事は、どんな内容の工事をしているのか。新しい橋を架けているのかとも考えましたが、直ぐ上流に橋は架かっているし、工事個所の川の右岸の先には東北自動車道が走って、橋を作っても取り付け道路のルートが思い描けませんでした。
永宮橋8.jpg
(赤津川左岸沿いの道路に作られた迂回道路と工事用スーパーハウス)

今年の3月に出掛けた時にその疑問は解けました。そこには既に橋桁が掛かっていました。しかし、まだ取り付け道路がどうなるのかは、見られませんでした。 
永宮橋9.jpg 
(新しい橋桁が架けられています。手前は旧永宮橋の高欄)

4月に確認した時は、橋桁を覆っていた足場も外されて、高欄が取り付けられて、橋自体は完成している様でしたが、まだ取り付け道路は出来ていません。
橋桁の横には既に橋の銘板が取り付けられていました。橋梁名は「永宮橋」、その下側の日付は「2018年3月」が架橋年月。
永宮橋3.jpg
(新しい「永宮橋」より上流側を望む。古い「永宮橋」とその後方の小丘「米山」が見える)
新しい「永宮橋」への取り付け道路は、左岸側は直ぐ川に沿っている以前の道路に接続。又右岸側は橋詰から大きく円弧を描いて、上流側の旧橋の橋詰の所で、これまでの道路に接続して、東北自動車道のアンダー方向に進みます。私の期待は新しい橋から新しいルートの新道が作られるのではと、例えば橋の左岸側は橋から真直ぐ東方向に抜けて、栃木市総合運動公園北側の道路につなげるのではなどと、勝手に想像をしていたのです。

尚、新しい「永宮橋」の約60メートル上流側に架かっている古い橋も、橋名は同じ「永宮橋」です。
この古くなった橋が架けられたのは、昭和26年(1951)です。既に架橋後67年間にもなり、以前からその寿命が懸念されていて、架け替えか補強補修か検討されていた時、あの、今から3年前の9月9日から10日にかけての豪雨に伴い、橋の通行が危険となって通行止めの処置が取られていたのです。
永宮橋4.jpg
(2015年9月10日以降通行止めとなった「永宮橋」)
この時に、この赤津川の下流に架かっていた、「田原橋」と「鹿嶋森橋」が橋脚の損壊や流失の被害を受けてその後取り壊し処理され「廃橋」となっています。
田原橋.jpg鹿嶋森橋.jpg
(2015年9月10日の豪雨の被害で廃橋となった、「田原橋」と「鹿嶋森橋」の被災状況)

ただ、「永宮橋」はその後応急的な補強がされて、再び通行が可能になっていました。その時私は、補強する事で新しい橋への架け替えは無いのだと考えました。でも今、見事に新しい橋が架けられ安心して通行する事が可能になったのです。

この「永宮橋」の橋名の由来はなんなのか、その一つとして、橋の上流右岸、東北自動車道のアンダーを抜けた先、野中町と吹上町の境界が山の頂上を通る「米山」と言う、標高82メートル程の小丘の南端に石の鳥居が建てられています。
永宮橋5.jpg
(東北自動車道のアンダーを抜けた先に現れる石の鳥居の有る小丘「米山」)

この「米山」の野中町側の山の中腹に祀られている神社が、「長宮神社」と言う野中町の旧村社に成ります。
永宮橋6.jpg永宮橋7.jpg
ただ、橋名は「永宮」の漢字ですが、神社名は「長宮」となっています。この相違は何なのか、私にはまだ回答を見付けられておりません。
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おやま田んぼアート2018を巡る [祭]

初めて6月中に梅雨開け宣言が出された今年、連日気温が35℃を超える中、車を走らせて小山市で今年も開催されている「おやま田んぼアート2018」の4つの会場を見て廻り、併せて各会場に設置されたスタンプも記念に押してきました。
最初に訪れた会場は栃木の市街地から一番近い、「美田会場」です。この会場には二つの田んぼアートが作られていますが、思川の右岸土手の上から見えたのは、現在ロシアにて開催されているサッカーワールドカップで活躍が注目されている「本田圭佑選手」の姿です。
本田選手.jpg

同じ美田会場のもうひとつのアートは、栃木ゴールデンブレーブスのチーム名と野球選手のユニホームを着た、「おやまブランド公認キャラクターの政光くん」を描いている様ですが、こちらは高い位置から眺める場所が有りませんので、全体を撮影することが出来ませんでした。両毛線の電車に乗って窓越しに見る様になっている様です。一部だけ撮って来ました。
栃木ゴールデンブレーブス.jpg

次は小山市の東側、絹会場です。この会場は去年と同様、手塚治ワールド。今年は「鉄腕アトム&ジャングル大帝」がたんぼアートで描かれています。本当に良く表現されています。会場にはたんぼアートの「原画」や実際の田んぼに描く為の「平面図」などが展示されていました。
鉄腕アトム.jpg

次は間々田会場です。
こちらの会場は、背景に思川の桜堤や、遠く太平山や晃石山などの山並みが連なっています。周辺は紫陽花が色とりどりに咲いていますが、もう見頃は過ぎていました。田んぼアートは「弱虫ペダル」と言う、週刊少年チャンピオンに連載されているスポーツ自転車漫画だそうです。
泣き虫ペダル.jpg

最後は渡良瀬遊水地会場(生井桜堤)です。
こちらのアートは可愛らしい「ハローキティ」です。真っ青な空の下、緑色の田圃をキャンバスに描かれたアート。キティちゃんの小さく黒い目がこちらを見つめています。
ハローキティー.jpg

今年も楽しく見て回る事が出来ました。

話しは田んぼアートから少し外れますが、6月30日のテレビニュースで、JR西日本・山陽新幹線にて「ハローキティ新幹線」が運行を開始したとして、ピンク色のリボンを車体にペイントした新幹線が発車する映像が流れていました。
サンリオの人気キャラクターは、日本中いや世界中で知られています。
先日、サンリオのテーマパーク「サンリオピューロランド」が有る多摩市に行ってきました。そこでハローキティがデザインされたマンホールカードを入手しました。ハローキティの話題として合わせて紹介します。
多摩市1.jpg多摩市2.jpg


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今朝、ツバメが巣立ちました [自然の恵み]

今朝、いつものように玄関先のツバメの巣を見ると、昨夜までいたツバメの雛の姿が消えていました。
4羽揃ってパッと消えました。巣立った様です。
巣立ちの後.jpg
(6月29日午前5時50分撮影、巣立ちの後ひっそりとしたツバメの巣)

昨年のツバメの家族と比較すると、巣作りから巣立ちまで丁度半月早い日程でした。昨年は途中で巣が落下、私が設置した段ボール箱の仮の巣で育てられました。
今年は1羽が巣から落ちて死んでしまいましたが、残りの4羽はスクスク大きくなり、昨日の様子では、もう巣からはみ出しそうな状態で何時巣立っても良い体格に成っていました。
大きくなったツバメ.jpg
(6月28日午前7時45分撮影、親にも勝る体格となって巣からはみ出そうな子ツバメ達)

しかし、突然いなくなると一抹の寂しさを感じます。外に出て朝から晴れ上がった空を眺めていると、私の上空を5・6羽のツバメが、ぐるぐると飛び回り、玄関の巣の近くを旋回し始めました。
今朝、巣立ちをしたツバメの親子でしょう。暫らく私の頭上を飛び回った後、一斉に我家の屋根の上を越え西の方向へ飛んで行ってしまいました。
ツバメの去った空.jpg
(ツバメの家族が飛び去った西の空、青い空に白い雲が、今日も暑くなります)

今日も又暑くなりそうです。飛び立ったツバメの子供達もこれから厳しい自然の中で生きて行かなければなりません。
来年も又、姿を見せてくれるのか、長旅の無事を祈っています。
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ツバメの雛、大きくなりました [自然の恵み]

玄関先のツバメの巣を眺めてみると、雛の姿がやけに良く見えます。雛が巣から体を大きくせり出している為です。
この間までは、巣から頭だけをのぞかせ、親ツバメが来ると首を伸ばしクチバシを大きく開いて餌を貰っていたのに、今は巣から体を大きく出して、親が運んでくる餌を食べています。
ツバメの雛1.jpg
(巣から体を大きくせり出させ、餌を待つツバメの雛達)
ツバメの雛2.jpg
(親ツバメから餌を入れて貰おうと大きくクチバシを広げる雛達)
ツバメの雛3.jpg
(餌を口に入れた一羽)
最初巣の中には雛が5羽いましたが、1羽は巣から落ちて死んでしまっています。この死んだ雛は一度巣から落ちそうになっている所を発見、何とか巣の中に戻してあげたのですが、その後玄関ポーチのタイルの上で息絶えていたのでした。
ツバメの雛5.jpg
(4日前はまだ巣から頭を少し覗かしているだけでした)
ツバメの雛4.jpg
(親ツバメが来た時、必死に首を伸ばし餌を貰おうとする雛達でした)

もうしばらくすると巣から飛び立つ為の、羽ばたきの動作を見せる様になるはずです。
今年も、もう直ぐ巣立ちの日を迎えます。
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栃木市大平町蔵井の明治天皇遺蹟 [石碑]

栃木市大平町蔵井に、明治天皇が御野立された地を記念して建立された石碑が、良く管理された状態で残っています。
蔵井の天皇遺蹟.jpg
(大平町蔵井の東端の地に建つ、護国殿や石碑)
私がこの石碑に初めに出会ったのは、3年程前の事に成ります。大平町の東域を流れる巴波川と永野川の二筋の河川の中間部を北から南に縦断する様に流れる杣行木川(そまゆきがわ)を、流れに沿って歩いた時でした。
石碑の建っている所は、大平町蔵井の東端、大平町上高島との境界近くに有ります。上高島の集落の中に鎮座している鹿島神社の前を東西に走る道路を、西方向に200メートル進むと、杣行木川に架かる橋の上に出ますが、その橋の北東側橋詰に成ります。
上高島の鹿嶋神社.jpg杣行木川に架かる橋.jpg
(大平町上高島の鹿島神社)       (鹿島神社の西方を流れる杣行木川に架かる橋)
それでは石碑を見て行きます。3年前に撮影した時には、まだ石碑にそれほど興味が無かったので、碑面に刻された文字をどう読んだらいいか分かりませんでした。最近、天皇の聖蹟を記念して建てられた石碑を見て歩き、そこに刻された漢字の読み方も大分理解して来ました。
この石碑正面の文字は「篆書体」で「天皇駐蹕之所(てんのうちゅうひつのところ)」となります。
蔵井の天皇駐蹕記念碑.jpg天皇駐蹕之所(大平町蔵井).jpg
(「天皇駐蹕之所」と刻された石碑)          (碑陰に刻された碑文を書き写しました)
石碑の裏側に刻された碑文には、
≪惟レ明治四十年十一月陸軍大演習ヲ常毛ノ野ニ挙行セラルルニ際シ 畏クモ同月十六日 天皇陛下 下都賀郡瑞穂村大字蔵井ノ地ニ御野立アラセラレテ親シク諸兵ヲ統監シ給フ・・・・・・(後略)≫と、記されています。
この、明治40年11月の陸軍大演習に関しては、茨城県の結城小学校に大本営を置き、栃木県の南部から茨城県結城市を中心に挙行されたものです。
栃木市史では、栃木中學校(現栃木高等学校)を行在所や大本営を置いて行われた、明治32年の近衛師団機動演習での明治天皇の栃木行幸や、大正7年の陸軍特別大演習での大正天皇の栃木行幸については、記されていますが、この明治40年の件は載っていません。
田代善吉著の「栃木縣史・皇族系図編」によると、「明治40年11月16日に明治天皇が栃木停車場より馬車にて、藤岡街道に出て、瑞穂村蔵井の林間に設けられた「御野立場」に午前10時に到着。終始大演習を御統裁。午後3時30分、「御野立場」を後に、栃木停車場より結城行在所に御還幸された。」事が記されています。
石碑には更に下記の如くあります。
≪・・(前略)・・・・記念ノタメ此故ヲ以テ瑞穂南尋常小學校建設シ御駐蹕ノ碑ヲ御野立場ニ建テ 聖駕ノ蹟ヲ不朽ニ傳フト共ニ・・・・・(後略)≫
瑞穂南尋常小學校は明治43年、瑞穂西尋常小学校と瑞穂南尋常小学校を統合して建てられています。
ちなみにこの碑文の撰文者は、当時の下都賀郡長吉屋雄一(女流作家、吉屋信子の父)。
石碑は明治44年、瑞穂村による建立です。

現在、陸軍大演習が展開された地域は、昭和40年代の土地改良事業により大きくその姿を変え、瑞穂南尋常小学校は大正13年名称を「瑞穂南尋常高等小学校」と改称、その後の昭和6年4月17日に瑞穂東尋常高等小学校、同校川連分教場と一緒に廃止され、瑞穂村全村一校となり「瑞穂尋常高等小学校」と称し、現在の大平東小学校の地に移されてます。

一方、この時大本営が置かれた茨城県結城市の地は何処なのか先日現地を訪問して来ました。
結城小学校はその東側に結城城址、西側には市役所、南側に県立結城第一高校が隣接する中心地に有りました。その小学校の南西部、御幸通りと玉岡通りとの交わる辺りに現在「文化の広場」と称して整備した地に、「明治天皇結城大本営」の碑を初め、「日露戦役記念」の忠魂碑、「駐蹕之遺蹟」の石碑の他、「結城行在所跡」の説明板などが建てられています。
結城の明治天皇大本營.jpg結城の駐蹕之遺蹟.jpg
(結城小学校の南西部「文化の広場」) (「駐蹕之遺蹟」碑、後方に結城小学校が有る)
駐蹕之遺蹟(結城市).jpg
(「駐蹕之遺蹟」碑陰に刻された碑文を書き写す)
結城諸学校門柱.jpg結城小学校正門.jpg
(行在所が置かれた結城小学校の門柱) (結城小学校正門)

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栃木市の太平山あじさい坂が見頃に [草花]

今日、早朝に太平山のあじさい坂を登り、色とりどりに咲いた紫陽花の花の写真を撮って来ました。
太平山あじさい坂0.jpg太平山あじさい坂6.jpg
(あじさい坂の上り口)                (登り口左手、大平山般若寺、通称六角堂)
太平山あじさい坂12.jpg太平山あじさい坂13.jpg
(六角堂境内より、正面奥高台の石碑は平岩幸吉氏善行旌表碑)(六角堂境内にて)
あじさい坂を登って行くと、両側に品種の異なる紫陽花が、青や紫、そしてピンクや白色と鮮やかに咲き誇っています。
太平山あじさい坂1.jpg太平山あじさい坂2.jpg
太平山あじさい坂3.jpg太平山あじさい坂4.jpg
太平山あじさい坂5.jpg太平山あじさい坂11.jpg

紫陽花の花を撮影していると、その脇を色々な人達が通り過ぎて行きます。中年の御夫婦や若いカップル、ビシッと山歩き姿をした御婦人のグループ、観光バスで来られた一団、一人山歩きを楽しむ男性等々。互いに「おはようございます」と挨拶を交わして登って行きます。その背中を見送り、又、色や形の良い紫陽花を探す。
太平山あじさい坂7.jpg太平山あじさい坂10.jpg

石を敷き詰めた石段を登って行くと、正面に「太平山」の額を掲げた大きな鳥居が現れます。あじさい坂はここまで、この先は太平山神社の石段に変わります。
今、太平山のあじさい坂は紫陽花の花が丁度見頃を迎えました。
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栃木城内町に建つ大正天皇野立記念の碑 [石碑]

これまで数回に渡って、栃木市内に残る天皇の御聖蹟に建てられた記念の石碑について書いて来ましたが、今回新たに一ヶ所確認出来ましたので紹介いたします。
今回の石碑は、栃木市城内町二丁目の愛宕神社境内に建てられていました。
城内町愛宕神社1.jpg城内町愛宕神社2.jpg
(小山街道、両毛線跨線橋東側の愛宕神社)

城内町二丁目の愛宕神社は、県道栃木・小山線を小山方面に走らせ、JR両毛線跨線橋の所で左側側道に入ると、直ぐその先道路左手に木々の茂る小丘が目に入って来ます。この小丘上に祀られているのが愛宕神社に成ります。そしてその道路際に目指す石碑が建てられています。
石碑正面.jpg碑陰.jpg
(大正7年陸軍特別大演習、11月18日栃木城内の御野立所記念碑)

石碑の正面には大きく「聖駕駐蹕記念碑」、その左脇に「陸軍大将松川敏胤謹書」と刻されています。
又、その碑陰には以下の碑文が刻されています。
     ≪ 今上講武于常毛之野閲兵于栃木之郊駐蹕于城内
       賜謁於將校實大正七年十一月十八日也栃木町民
       不堪欣躍建立記念之碑以傳              
       聖跡於無窮                        
       大正八年十月   栃 木 町 長  榊原經武謹撰
                    正五位勲三等日髙秩父謹書≫

この石碑がこの地に建てられた経緯は、田代善吉著の「栃木縣史・皇族・系図編」や「栃木市史資料編近現代Ⅰ」の第四節「天皇の行幸」に詳しく記されています。
大正7年11月13日より11月19日の7日間、栃木縣立栃木中學校(現、栃木高等学校)に大本営を置かれ、近衛師団を始め第一、第二、第八、第十三、第四、第十五の七個師団ならびに重砲兵第一旅団、交通兵団の一部を以て、栃木・茨城両県の広野に於いて陸軍特別大演習を実施。
11月13日の午後3時55分、御召列車は予定通りに栃木停車場に到着、御馬車にて行在所へ。翌14日は茨城県下館の演習地へ。15日は同じく新治の演習地、16日結城の演習地へと仰出された。11月17日は早朝より秋雨冷涼を冐して錦着山御野立所にて演習に臨み、次いて同午後1時栃木第二尋常高等小学校校庭にて参集した大演習参加将校等と御講評所に臨まれた。
翌18日は小山の閲兵式場に臨まれ式を終えた後、その場の最終地点に続く『栃木城内の地にて馬車より下りて、予め整列して迎え奉る在郷軍人将校に謁を賜い御少憩』されていますので、この事を末永く伝える為にこの地に記念碑を建てたのでした。
大正天皇は同18日午後2時30分、大本営から栃木町と大宮村の接続地に設けられた賜饌場に臨み、文武百官及外国武官吏員名望家等六千余人を召され、宴を共にされています。
そして翌11月19日、予定通り特別大演習の御統裁を終了され午前8時35分大本営を後にして御還幸されました。

こうして大正7年11月の陸軍特別大演習に関わった各所に、記念の塔や石碑が建立されたのでした。
改めて栃木市内の記念碑の場所を以下に記します。
  ①県立栃木高等学校構内    :「大本營記念」      大正9年11月建立
  ②錦着山山上            :「聖駕駐蹕記念塔」  大正8年10月建立
  ③市立栃木中央小学校校庭   :「聖駕駐蹕記念之碑」 大正8年10月建立
  ④城内町二丁目愛宕神社境内 :「聖駕駐蹕記念碑」   大正8年10月建立
  ⑤今泉町二丁目賜饌場跡    :「親臨賜宴之處」    大正8年 2月建立
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今日の一枚(餌をねだるツバメの雛達) [自然の恵み]

今日、玄関先のツバメの巣に、親に大きく口を開き、首を精一杯に伸ばして、餌をねだる雛の姿を確認しました。
餌をねだるツバメの雛たち.jpg

6月7日の朝、玄関ポーチのタイルの上に小さな卵の殻を発見してから1週間、今日まで雛の姿を確認出来なかったので、チョッと心配をしていました。ですから雛が親から餌を口の中に入れて貰っている姿、元気そうな雛のクチバシ5つを確認した時は、あー元気に孵化出来たんだと安心を致しました。

今、ツバメの両親が入れ替わり立ち代わり飛んできては、雛達が大きく開けた口の中に、餌を押し込んでいます。まだ目が見えないのでしょうか?親ツバメが飛び去ると5羽の雛達は、巣の中に隠れる様に姿が見えなくなりますが、親が飛んでくると其の気配を感じてか、一斉にクチバシを大きく開けて、巣から首を突き出して餌をせがんでいます。

これから当分我家では玄関ポーチに落された沢山の糞を片付ける仕事が増える事に成ります。

まだ心配は残っています。昨年玄関ポーチの上に落ちて巣が壊れたのも、此の頃だったからです。5羽の雛が餌を求めて動く振動が大きくなるのでしょうか。
今年の巣作りは昨年に比べて非常にスピーディーであっさりと完成した感じでしたが、上手に出来上がったのか、その結果が分かるのはこれからです。

今年も、5羽の雛が全員無事に巣立っていく事を願っています。
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