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栃木市嘉右衛門町通りにかわいい例幣使の行列が

本日、栃木市嘉右衛門町通りの、油伝味噌店より岡田記念館(代官屋敷)までの間で、地元の栃木第三小学校の4年生の児童による、「子ども例幣使行列」が行われました。
畠山陣屋跡前を通過する例幣使行列.jpg
(岡田記念館の畠山陣屋跡の前を進む「子ども例幣使行列」)

日光例幣使は江戸時代、正保4年(1647)から毎年4月の日光東照宮の例大祭に奉幣する為に、朝廷から派遣された奉幣使で、慶応3年(1867)まで221年間、1回の休みも無く続けられました。
日光例幣使は、毎年4月1日に京都を発って中山道を下り、上野国の倉賀野宿にて中山道より分かれて、佐野の天明宿から犬伏を抜けて私達の栃木市に入り、岩舟町・大平町そして栃木の市街地中心を抜けて、ここ嘉右衛門町通りに入って来ます。
嘉右衛門町通りを抜けた先は、都賀町・西方町を抜け、鹿沼市楡木にて日光西街道(壬生通り)に合わさり、4月15日に日光に到着するのが慣例に成っていました。
平澤商事前を通過する例幣使行列.jpg
(嘉右衛門町通りの老舗の一つ平澤商事前を通過する「子ども例幣使行列」)

この「子ども例幣使行列」は今年で4回目になるそうです。かつて日光例幣使街道となった、嘉右衛門町通りの有る地元、栃木第三小学校の4年生の児童が、「郷土の歴史」の学習の中で、自ら例幣使の行列に扮して、かつての例幣使街道に思いを馳せる。参加した児童達はどのような思いを感じたでしょうか。
その「子ども例幣使行列」の先に立ち、横や後ろに立って行列を見守る、印半纏を着た人達がいます。
この嘉右衛門町の通りは、普段は人の通りも少なくひっそりとした感じの通りですが、今日はこの子供達の行列を見に来た、児童の家族の人達や、御近所の皆さんで大混雑に成りました、その見物客の群れが行列の進行と共に移動、次第に人の群れが大きく成って行きます。そして私が予想していた以上に、この通りの自動車の通行量も激しく交通の整理も大変そうに感じました。
交通整理する旦那衆.jpg
(行列の周囲で通行車の誘導や見物人の整理をする、印半纏を着た旦那衆)

印半纏を着た人達は、この行事を共催している「栃木の例幣使街道を考える会」や、「嘉右衛門町伝建地区まちづくり協議会」の皆さんでしょうか、地元自治会やコミュニティーの会長さん、そして嘉右衛門町通りの老舗の店主の顔も見えます。
「子ども例幣使行列」に寄り添って、見物人の整理や案内、通行する車の誘導等を行い、子供達の行列が安全に進むように見守っておられました。こうして一つの行事を通して多くの人達が協力し、大きな輪になっている事を今回感じる事が出来ました。今後ともこの「子ども例幣使行列」が恒例となり、人と人との交流の場のひとつに成ればと思いました。
嘉右衛門町通りの旦那衆.jpg
(行列途中の休憩で、嘉右衛門町神明神社前で記念写真に写る印半纏の旦那衆)

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栃木城址に建つ石碑について [石碑]

栃木市城内町一丁目、市立栃木第四小学校東側の住宅街の中に、小丘と小さなL字形の堀の有る公園が整備されています。
栃木城址2.jpg
(栃木城址公園。栃木城の名残りとして、小丘の北西側に土塁と堀が残っています)

栃木市役所のホームページに依ると、「栃木城址公園」に付いて≪市立栃木第四小学校の東側に残る館城の跡:天正19年(1591)皆川広照が築き、18年後の慶長14年(1609)広照が徳川家康の怒りに触れ、取り壊されました。現在あるのは、東丸の北西部の土塁と堀の一部が残り、堀ぎわには昔の名残を留める武家屋敷の白壁の塀がおよそ30軒残っています。≫と紹介しています。
坂本邸1.jpg
(栃木城址の北西脇に見える、武家屋敷の名残りを残す建物)
栃木城址説明板.jpg
(公園内には栃木城址の説明板が建てられています)

公園の広さは3,600.6㎡。主な施設として噴水・池・記念碑・トイレ・水飲み・四阿・ベンチ・遊具(すべり台、砂場、ラダー)が整備されています。
栃木城址1.jpg
(城址の小丘上に一基の大きな石碑が建っています。写真右手奥。)

それでは石碑の元へ。栃木城址に建つ石碑、恐らく「栃木城」の由緒に付いて記されているものと予想していましたが、その考えは外れておりました。
石碑の上部に刻された篆額の文字は、私には全く読む事が出来ません。
揮毫部分1.jpg
(石碑上部に刻されている、解読困難な四文字の篆書体の漢字)
とりあえず写真に収めて、調べる事で何とか解読出来ました。右から左へ「陰徳陽光」と書かれている様です。その意味を解く為「四字熟語」に有るか調べてみると、「陰徳陽報」と言う一字違いの言葉が見つかりました。この言葉は、中国前漢武帝の時代に編纂された「淮南子(えなんじ)」の巻十八、人間訓で≪誰にも知られないように善い行いをすると、必ずよい報いがあるということ。≫と出ていました。恐らく石碑の「陰徳陽光」も同様の意味が込められている様に思われます。

次に碑文を読んで行こうと思いますが、これまた難解な漢文体です。背の高い石碑ですので、一行に64文字、13行(最後の行は58文字)という事で、ビッシリと826個の漢字が刻されています。
碑文部分1.jpg
(826個の漢字が整然と刻された碑文の一部)

とても読み下す事が出来ませんが、碑文の文字を部分的に読んで繋げていくと、おおよその内容が理解出来て来ました。
先ず碑文一行目に「坂本金一郎」や「明治二十二年四月町村制施行翌月選挙栃木町助役」の文字。碑文中ほどに「君重任助役七回補佐町長三世在職實二十三年終始一貫忠実奮勵」、そして碑文後半に「翁家譜又見其履歴先祖素手于藤原氏中世永禄元亀頃爲皆川山城守之家臣主家滅亡前賜其城址是城内之所存名」などと刻されています。これらの文言よりこの石碑は、明治22年4月の町村制施行から、初代の栃木町助役と成り、その後23年間の在職中「根岸政徳」「大塚惣十郎」「櫻井源四郎」の三代の町長に仕えた、坂本金一郎氏の顕彰碑で有る事がわかりました。

その碑文の後に四言十六句が古詩の形で添えられています。その詩の部分を抽出します。
  主将奏功 侍良参謀 主人興家 有内助籌 三代町長 助役忠實 終始一貫 奏功輔弼
  今也発展 市制新施 斯月斯日 將建頌碑 内外祝福 大擧盛式 神靈有感 亦應無極

下野新聞社が昭和47年に発行した「郷土の人々 栃木・小山・真岡の巻」に、この坂本金一郎氏に関する記事が載っています。
≪太っ腹の坂本助役≫として、≪初代の助役は明治22年の町村制施行から44年までつとめた坂本金一郎氏である。坂本は城内町の大地主で、初代戸長高田俊貞のもとで副戸長をつとめていた。仕事に精通し少しぐらいの事にはびくともしない、ふとっ腹の助役であり、根岸政徳・大塚惣十郎・櫻井源四郎・望月磯平と四代の町長につかえてきた。明治42年には自治功労者として知事表彰を受けています。≫と紹介されていました。補佐をした町長が、三代と四代と解釈の仕方で差が現れたものと思われますが、どちらにしても栃木町の創成期に、首長を補佐して多くの事業を推し進めてこられた方です。

碑文全文を必死に書き写しました。文字が小さくなって読み難いと思いますが、興味の有る方は是非現地にて直接石碑を確認下されば幸いです。
栃木城址に建つ石碑の碑文.jpg
(書き写した碑文全文)

石碑の建立年月は碑文最後の日付けとすれば、「昭和十二年四月」と刻されています。
碑文の撰ならびに書は、「従四位勲四等七十七翁安達常正」と刻されています。
安達常正と云う人物は、教育者で明治39年(1906)5月22日に栃木県師範学校長として栃木県に赴任されて来ました。その後、大正10年(1921)9月に奈良県女子師範学校長と成っています。


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秋晴れの夏日 [自然の恵み]

今朝は、稲刈りのコンバインの音で目を覚まされました。
日曜日の朝はゆっくりですが、外に出ると10月とは思えない太陽の陽射しが肌を指してきました。
見上げると空は真っ青です。その青い空をジッと見ていると、やはり秋です。トンボが沢山飛び交っています。
庭の蠟梅の枝の先には、そのトンボ達が止まって休んでいました。
真っ青な空にトンボ1.jpg
(蠟梅の枝の先に止まるトンボ達)
真っ青な空にトンボ2.jpg真っ青な空にトンボ3.jpg

昼過ぎにはデスク上の温度計は32.4℃を表示していました。先日、もう使わなくなった扇風機をそろそろ片付けようと思っていた所ですが、今日はそんな扇風機を再び使用していました。まだ暫らくは様子を見ましょうか。

夕方には家の横の田んぼも、すっかり稲刈りが終わっていました。
これから日に日に秋が深まって行きます。
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栃木市箱森町の五家について

私が住む栃木市箱森町には、かつてこの地にて勢力を揮っていた「箱森の五家」と言われる、五つの氏族が有ったという事を、最近聞きました。
私自身もこの地に生まれてからずっと住んでいますが、父の代に移って来て商売を始めていますので、完全によそ者に成ります。実際我家の苗字は箱森には、2軒しか見当たりません。
では「箱森の五家」とはどんな人達なのか、この地域に多く見られる苗字に付いて、ゼンリン住宅地図を基に調べてみました。
結果、上位の四家は容易に判明する事が出来ました。
圧倒的な第1位は「森戸」さんで、82軒が箱森町全域に分布している事を、確認出来ました。そして第2位となったのは「稲葉」さんで29軒有りました。第3位は「日向野」さんの28軒。そして第4位は「長江」さん27軒です。
第5位に入った苗字は「鈴木」さんで、第4位の長江さんと同数の27軒確認されました。しかし「鈴木」さんと言う苗字は栃木県の苗字ランキングの1位で栃木市に於いても、特に箱森町に多く有る苗字では有りません。
その反面、1位の「森戸」さん、3位の「日向野」さんと言う苗字は、苗字の全国ランキングでは共に3千番代と少なく、全国的な苗字では有りません。ただ都道府県の分布的には栃木県が一番多くなっています。その栃木県内であって、栃木市が一番多く、更に箱森町が栃木市内でも一番多く集まっている苗字なのです。
まさに箱森町の苗字と言っても過言では有りません。
昭和60年版のゼンリン住宅地図を基に、箱森町における主要苗字の分布状態を図にしました。
箱森町における主要家名分布図(縮小版).jpg
先に記したデーターは2016年版の住宅地図に依る為、数値的に多少の差異が有りますが、その傾向性は殆ど変っていません。
分布図を見ると緑色のプロットがまず目につきますが、これが「森戸」さんです。
箱森地内には幾筋かの川の流れが有りますが、東の境に沿って流れてるのが「巴波川」で、現在大町や小平町との境界を成しています。その西側に見えるのが「荒川」、そして旧赤津川の蛇行している河道が見えます。この旧赤津川沿いに多くの緑色の点が分布しています。そしてその西側の十二社神社の周りにも緑色の点が見えます。更にそこから南方向に目を向けると、鷲宮神社の南側、悪五郎堂の周辺にも緑色の点が集中しているのが確認出来ます。
箱森町の悪五郎堂(神社)に関しては、今年の7月20日のこのブログで紹介していますが、森戸家の先祖と言われる長沼宗光の隨神仏と云われる阿弥陀仏と観音の二体を安置、又悪五郎の霊をも合祀していたもので、元は鷲宮神社境内内に建てられていましたが、明治維新の神仏分離に伴い、数回場所を変え現在の地に納まりました。悪五郎堂の屋根の鬼瓦には、森戸家の家紋と同じ「丸に橘」の紋が付いています。
悪五郎堂鬼瓦.jpg
(箱森町の悪五郎堂の屋根の鬼瓦に付けられた「丸に橘」紋)
第2位となった「稲葉」さんは、弦巻神社の西側の字御辺北西部に集中しています。又、第3位の「日向野」さんは鷲宮神社の北東側、館野川の南側から清水川の右岸に集中して分布している事が分かります。
私が一番興味を持っている苗字が、第4位の「長江」さんです。館野川の源流となるかつての字舘野や鷲宮神社の直ぐ西側の字御辺に集中しています。
字舘野の地は、北側に大沼が有り西側は大沼から流出した水の流れが反時計回りに大きく円弧を描いて、南側の舘沼に繋がり、まるで堀割の役目を担っている様です。そしてこの三方を守られた内側が字舘野で、かつては「箱森城(舘野城)」が有ったと所に成ります。そしてまさにこの場所に「長江」さんが沢山住んでおられます。現在その中央部付近に、石の鳥居を建てた小さな神社が祀られています。社殿前に建てられた新築記念の石碑には「長江八幡宮」と刻されています。
長江八幡宮1.jpg長江八幡宮2.jpg
(箱森地内、かつての字舘野の中ほどに祀られている「長江八幡宮」)
そして、字御辺もかつての館跡で弦巻神社や鷲宮神社が祀られ、この地域の中心地的存在の場所でした。こうした場所に居を構えていた「長江」一族は、やはり特別な存在で有ったのではと考えられます。
弦巻神社.jpg箱森鷲宮神社.jpg
(弦巻神社参道入口の鳥居、奥小丘上に石の祠有り)(箱森・鷲宮神社)
それでは箱森五家の残りの一つは何家なのか。箱森地内で6番目に当たるのが、「田村」さんで18軒程確認されます。十二社神社周辺と鷲宮神社周辺にまとまって見えます。ただ「田村」さんと言う苗字は全国ランキングでも56位で、栃木市内でも樋ノ口町や城内町方面に多く確認される苗字に成り、箱森町との特異な関連性は確認出来ません。

次に住宅地図では無く、電話帳から苗字と箱森町との関連性について調べてみました。電話帳の方が同じ苗字が並んでいる為集計は意外とスムースに出来ました。但し最近は携帯電話やプライバシー保護の高まりで、電話帳への掲載が減少している為、今回調べた電話帳は2003~2004年版で、個人欄に出ているデーターを集計しています。
結果は、住所が箱森町の電話番号の軒数の多い順に、下表の様になりました。
電話帳掲載軒数1.jpg
(電話帳にて箱森町の掲載軒数が10軒以上確認出来た苗字一覧)

この電話帳からの調査結果でも、「森戸」さんの苗字は箱森町に集中している事が明瞭です。市内に160軒の「森戸」さんの内、43.13%となる69軒が箱森町に有ります。第二位は箱森町の北隣りに位置する川原田町で17軒です。
第2位は「日向野」さん、栃木市内130軒の23.85%31軒、そして南隣りの薗部町に9軒確認されました。
第3位の「長江」さんは更に特異な状況で、栃木市内に32軒しか無いのに、その81.25%の26軒が箱森町に住んでいます。
長江さんの苗字について、これまで私は勝手な想像を描いていました。それは会津田島に所替えののち、下野国都賀郡に来た時に会津から同行した家臣の一部が故郷長江郷の地名を名乗ったのではと。しかし最近色々文献を調べてる中で、「栃木の苗字と家紋・下巻」(遲澤俊郎著・発行下野新聞社)の中に、「長江」姓に関する記事が掲載されていました。それによると、≪その家系を記述すると、初代義景は桓武平氏の流れを引く鎌倉権五郎景政の孫に当たり、摂津国西成郡長江庄に居住したため、長江太郎と称した。(中略)、十二代目の長江七郎景綱が箱森長江氏の初代である。二歳の時、父景平を河内国金剛山で亡くしたが、母方の実家長沼氏に養育され、長沼氏の一族筥村氏の領する箱森の地に貞和三年(1347)17歳の時に居住したと記録されている。その子孫は長く皆川氏に仕えたという。≫と、記されていました。
第4位「鈴木」さんは、箱森町に22軒有りますが、栃木市内に336軒も有るので、その比率は6.55%で箱森町との特異性は感じられません。
一方、第5位の「稲葉」さんは、同じく箱森町22軒ですが、栃木市内の軒数が75軒と少ない為比率的には29.33%と高くなっています。
電話帳での調査結果でも、箱森五家の内「森戸」「日向野」「長江」「稲葉」の四つの苗字は、箱森町との強い関連性が確認出来ました。が、やはり残りの一つがハッキリ出来ません。

困った時は、現場確認です。箱森町のかつての中心はやはり「鷲宮神社」の祀られている、字御辺周辺です。鎌倉時代後期の正慶2年(1333)の頃、遁世した第七代長沼城主長沼宗光(俗称悪五郎)が皆川庄筥森に移り、如来堂(後の松樹院)を建て、念仏三昧に暮らしたと伝えられる所。その近くに有る地域の墓地を調べてみました。
鷲宮神社東隣の墓地.jpg
(鷲宮神社境内の東隣りにの墓地、奥に見える瓦葺きの屋根が鷲宮神社拝殿)
墓地内には高さ3メートル程の大きな墓標が沢山建てられています。そのほとんどが「箱森の五家」に当たる苗字が大書されたものです。
「森戸家累世之墓」「日向野本家累世之墓」「稲葉家累代之墓」「長江家歴代之神靈」これら四家の苗字の他にも「小川家累世之墓」や「荒井家累世之墓」も目に留まりました。
他には箱森町地場産業の一つ瓦製造業の「幸田家」や「神谷家」などの名前も見られました。
もう一つ余談に成りますが、私が以前に錦着山(別名箱森山)の山内に建つ石碑に付いてこのブログの中で紹介をしていますが、その中で「錦着山護国神社」の境内の片隅に建つ1基の石碑に、明治10年西南の役にて戦没された「田村半次」さんの碑が有りましたが、その「田村半次」さんのお墓がこちらの墓地に祀られておりました。
田村半次之碑.jpg田村半次之墓.jpg
(錦着山護国神社境内に建つ「田村半次之碑」)(字御辺の墓地に眠る「田村半次之墓」)
ちなみに電話帳調査による「田村」さんは第6位で箱森町内に18軒有りますが、栃木市内183軒の分布では、樋ノ口町22軒で、箱森町は2番目に成っています。

箱森の五家の残り一つの苗字は「小川」さんだと云う話が有ります。また「荒井」さんだと言う人も。
電話帳調査では、「小川」さんは箱森町内に7軒、栃木市内には87軒見られますから比率は8.05%です。
「小川」さんに関しては、「栃木郷土史」(栃木郷土史編纂委員会著)の、第二章皆川氏の進出と土豪の分解過程の「箱森村」の中に、≪土着勢力の一翼をなしたものに、小川伊兵衛があったが、同家は、家臣団に編入される前帰農してしまった。やはり、大沼東南方に小川八幡神社があったことが、古記録に見えている。≫と、かつては土着土豪の一つであった事が記されています。
又、「荒井」さんは6軒、ただ市内には33軒と少ない為比率は18.18%と高く、市内では箱森町が一番多くなっています。

栃木市史資料編近世(栃木市発行)第一章領地と支配の中に、「元禄17年(1704)2月、慈眼山金剛寺諸堂修復勧化牒」と言う資料が掲載されています。その中に「皆川先祖譜代家臣次第不同」が有りその内「箱森村」には先の氏族の先祖と考えられる名前が17名記されています。内訳は「日向野」さんが4名、「森戸」さんが2名、「小川」さんが3名、「稲葉」さんが2名、「荒井」さんが2名、「田村」さんが1名、そしてこれまで出ていなかった「膝付」さんが2名、「大根田」さんが1名となっていました。ちなみにこの時の箱森村の名主として「日向野安右衛門」の名前が記されています。
現状、ここまでしか手元情報が有りません。五家を確定する為には、もっと地元の人達から話を聞くしか有りません。
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巴波川日記、5年目に入りました。

このブログ「巴波川日記」を書き始めたのは、丁度4年前の2014年9月24日でした。
書き始め当時は、毎日更新を重ねていましたが、それが次第に2日に1回となり、週2回更新となり、最近は週1回の更新も崩れ始めています。当初は撮り溜めた写真も豊富にあり、又それまでずっと温めていた記事も有り、書き続けましたが、現状は書きたいテーマは幾つも有るのですが、バックデータを揃える事に手間が掛かって、なかなかまとまりません。又、年と共に記憶力も低下、集めた資料も何処に書き留めたか、探し出すのに四苦八苦しています。
今日、5年目を迎えて改めて、身近なテーマとその時々の風景などを届けて行きたいと思っています。
そういう事で、写真は今日の我家の周りの、秋の風景3点です。
今、私の住む箱森町は、住宅化の波の中僅かに残された田んぼの畦や、清水川の土手などに彼岸花が満開に成っています。田圃にはたわわに実を付けた稲穂が、頭を垂れています。今年も良く実りました。豊作でしょう。
箱森町の秋景色1.jpg
箱森町の秋景色2.jpg
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毎年見る風景ですが、今年はいつもより彼岸花が目につきました。
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鹿沼市中粟野のかかし祭と彼岸花を見て来ました [祭]

鹿沼市中粟野にて、毎年9月に開催されている「かかし祭」に、行って来ました。
鹿沼市口粟野の南のへりを東西に横断する県道15号(鹿沼足尾線)から、粟野川を遡る様に北西方向に伸びる県道246号(草久粟野線)に入り、中粟野に入ります。道路の右側に「遊の郷直売所」が現れます。ここで駐車場に車を停めて、県道の左手奥に目を向けると、稲刈りが済んだ田んぼの先に何やら、等間隔に立っているのが見えます。
入粟野かかし祭.jpg
(県道246号を登って行くと道路左手奥に、沢山のかかしが並んで立っています)

多くの趣向を凝らした「かかし」が並んでいます。今回はどんな作品が出来上がったのか楽しみです。ひとつひとつ見て行くと、なかなか凝った作品が沢山有りました。
やはり「かかし」のモデルとなっているのは、今年色々な事でニュースや話題になった人達でした。
先月日本テレビの番組「24時間テレビ・愛は地球を救う」で、今年はマラソンからトライアスロン方式となり無事に完走を果たした、「みやぞん」さん。かかしの顔の表情や頭の形が本人の特徴を良く表現していて、私の評価では一番の出来と感じました。また、行方不明の2歳の男の子を発見した「スーパーボランティアの尾畠春夫」さんをモデルにした「かかし」は、3作品も出ていました。
みやぞんさんのかかし.jpgスーパーボランティア尾畠さんのかかし3.jpg
(特徴が良く表現された「みやぞん」さんのかかし)(赤いタオルを鉢巻にした「尾畠」さんのかかし)
スーパーボランティア尾畠さんのかかし1.jpgスーパーボランティア尾畠さんのかかし2.jpg
(こちらも尾畠さんをモデルにしたかかし。やはり赤いタオルの鉢巻姿が欲しい)

他には、この9月16日付にて芸能界を引退する「安室奈美恵」さん、プロ野球メジャーリーグで大活躍の「大谷翔平」さん、そして今年8月15日に死去された「さくらももこ」さんの作品「ちびまる子ちゃん」をモデルにした「かかし」なども有りました。
また、シンプルな「案山子」の作品も懐かしく、顔に架かれた「へのへのもへ」がとても愛嬌が有りました。
へのへのもへじ1.jpgへのへのもへじ2.jpg
(やはり、かかしの顔は「へのへのもへじ」が良く似合う)

ユニークなかかし作品を見た帰り、県道246号を約800メートル程戻った道路脇に、火の見櫓が建っています。その道路反対側に脇道が有り、入口に「彼岸花群生地」の大きな案内板が建てられています。
道路脇の駐車スペースに車を停めさせて頂き、見に行きます。
彼岸花群生6.jpg彼岸花群生2.jpg
(彼岸花群生地入口の案内板)   (粟野川左岸に広がる彼岸花の群生地)

群生地は粟野川左岸の雑木林の中に有り、粟野川に架かる「名武戸橋(なぶとばし)」を渡ると群生地に下りる通路が有ります。
まだ少し時期が早かった様ですが、それでも黄緑色をバックに鮮やかな赤い彼岸花が、まさに群生して咲いていました。
彼岸花群生1.jpg
(木々の間に群生する彼岸花、まだ少し早かったかな)

白い彼岸花も咲いていました。実際に見るのは初めてです。
彼岸花群生3.jpg彼岸花群生4.jpg
(赤い彼岸花に混じって、白い彼岸花もポツリポツリ見られました)

日没近く、柔らかな太陽の光が群生地を照らしています。彼岸花が一段と鮮やかに輝いていました。
彼岸花群生5.jpg
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栃木名産「かんぴょう」、夕顔の実の皮剥き天日干し風景 [懐かしい写真]

古い写真アルバムをめくっていたら、今から40年程前の「かんぴょう」生産農家の風景を撮影した写真が出て来ました。その当時は、社会人に成って、宇都宮に通勤するする様になり、電車の窓から見えた風景の一つでした。緑の畑の中に大きく育った夕顔の実。農家の前庭一杯に整然と並べられた細い帯状の夕顔の実。毎年7月から8月にかけて目にした風景でした。
天日干しの為に、1.5メートル程の高さに通された細い竹竿に間隔を空けて掛けられた、約4センチメートル幅に剥かれた白い夕顔の実。その風景を写真に収めたいと、干瓢生産農家にお邪魔して撮影させて貰いました。
夕顔の実を収穫する.jpg夕顔剥き.jpg
(畑から大きく育った夕顔の実を収穫)  (干瓢剥き専用機を使い夕顔の実を帯状に剥く)

天日干し1.jpg天日干し3.jpg
(細い帯状に剥かれた夕顔の実を、家族総出で竹竿に間隔を空けて掛けて行く)

天日干し4.jpg天日干し2.jpg
(青空の下、リボン状に剥かれた夕顔の実が、母屋前の庭一杯に干され白く輝く)

天日干し5.jpg天日干し6.jpg
(天日干しにより乾燥してしわしわとなった夕顔の実)

こんな風景も、現在はあまり目にする事が無くなりました。でもスーパーマーケットに行くと「夕顔の実」の絵が描かれ「栃木名産 干瓢」と印刷されたパッケージに入った商品が並んでいます。生産地住所には「栃木県壬生町」と有ります。
今も県内で生産は続いています。40年前と同様のスタイルで行われているのかどうかは分かりませんが。
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永野川に架かる二杉橋と睦橋 [栃木市の河川と橋]

現在、栃木市街地の西域を流れる「永野川」に渡された橋梁は、錦着山西側の「上人橋」、下って「高橋」そして「睦橋」、次が県道の太平山公園線の「二杉橋」、そして「大柳橋」の5カ所です。この内明治期初期に発行された地形図の中に記された橋梁は、「睦橋」と「二杉橋」の二橋だけに成ります。
実際は仮橋の様なものが架けられていたか分かりません。明治14年(1881)12月17日付けにて、薗部村戸長の篠木惣吉より第二代栃木県令藤川為親宛てに作成された「下都賀郡薗部村・村誌」には、≪長野川渡セシ橋梁≫として下記の記載が認められます。
  字岩崎
  一、板橋 渡り拾間 横六尺
  字坂下ヨリ錦着山通
  一、板橋 渡り拾間 横六尺
  字藪合ヨリ太平山道
  一、板橋 渡り拾間 横四尺
  字坂下同南栃木町道
  一、板橋 渡り拾弐間 横六尺
これら板橋が架けられた場所が、何処に当たるのかは更に調査したいと思っています。

ここでは明治初期作成された地形図に記載された、先の二橋に付いて筆を進めたいと思います。
先ずは「睦橋」です。
現在の睦橋は、平成9年(1997)3月の橋銘板が付いています。架橋場所は明治初期の地形図上に記された架橋箇所とほぼ同一の場所に成ります。
睦橋1.jpg
(現在の睦橋を上流側より撮影、後方は太平山)
睦橋3.jpg睦橋2.jpg
(睦橋東橋詰より上流側を望む。高橋と右手奥錦着山)  (睦橋高欄のモニュメント)
その前の睦橋は現在の橋より下流側に、迂回する様に架けられていました。そして今回新しい橋に架け替える時に、旧橋を残したまま最初の架橋場所に戻したものと考えます。
睦橋周辺概略図.jpg
(睦橋周辺概略図 ( )内は旧字名です)
睦橋4.jpg
(右のメイン道路の先に現在の睦橋、左側の細い道路の先に旧睦橋が有った)
1988年11月睦橋.jpg
(現在は撤去されているが、旧睦橋。1988年11月撮影)
1997年11月旧睦橋.jpg1997年11月新旧睦橋.jpg
(睦橋の脇、永野川沿いの堤道を走る西中生達)(旧睦橋の奥に新睦橋が写る写真)

次は「二杉橋」です。
二杉橋.jpg
(永野川上流左岸より撮影した二杉橋、西橋詰に大きく変わった鳥居が建っています)
現在の二杉橋は昭和60年(1985)3月に竣功しました。架橋箇所は、県道太平山公園線でも有る為、架け替え前と同一ですが、橋の両側に広い歩道部分を確保し、渡る人や車にやさしい橋に生まれ変わりました。
橋の西詰に道路を跨ぐ様に建てられている、太平山神社の鳥居も通過車両に考慮して一段と大きな鳥居に変更されました。
二杉橋高欄.jpg二杉橋橋脚.jpg
(高欄のデザインは何を表しとものか?)  (現在の二杉橋の橋脚と下部構造)

昭和54年(1979)4月に、以前の二杉橋の所で大勢の釣り人が、永野川に釣り糸を垂れている光景を写真に収めていました。
1979年4月永野川.jpg
(二杉橋と下流側大堰との間で釣り糸を垂れる釣り人達。後方は太平山)
1979年4月二杉橋付近.jpg
(大勢の釣り人の奥に、架け替え前の二杉橋の姿が写っています。)
1979年4月永野川二杉橋.jpg
(二杉橋の橋脚上に陣取って釣る人も。川の上流側奥に錦着山が見える)
二杉橋(1981年撮影).jpg
(1981年に撮影した架け替え前の二杉橋、左端に鳥居が覗くが小さく分かり難い)

現在の橋が架けられ位置は、架け替え前と同じ所ですが、明治初期作成の地形図に記された橋の位置と異なっています。明治初期に架けられた橋の位置は、現在位置より下流側で、橋の取り付け道路も左岸は橋詰に祀られている二杉神社の南側(現在は北側)を通っていた様です。
二杉橋周辺概略図.jpg
(二杉橋周辺概略図、二杉橋を渡って直線状に伸びる道路が、太平新道)
明治の初期にはまだ太平新道は出来ていませんでした。
その当時の二杉橋を渡る道路は、現在の西中学校の北側、そして栃木商業高等学校の南側を東西に走る道路を西に真直ぐに来て永野川の手前で二杉神社の社殿を避ける様に少し南側にカーブして、永野川を渡っていました。
「二杉橋」については、以前(2016年2月13日)にこの「巴波川日記」にて紹介しましたが、その時は架橋の場所が現在と違っていた事に気が付いていませんでしたので、今回追加して紹介しました。

※今回参考にさせて頂いた資料・文献は、
  ・明治前期測量2万分1フランス式彩色地図「栃木」 (財団法人日本地図センター発行)
  ・村誌 下都賀郡薗部村
  ・薗部乃里 (大塚紀子著)
  ・Google マップ
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第6回栃木市民スポーツフェスティバルを観戦しました [祭]

昨日、8月19日に開会式が行われた栃木市民スポーツフェスティバルが、のべ4日間の日程で栃木市総合運動公園を中心に、多くの競技種目で猛暑を吹き飛ばす様な熱戦が繰り広げられ終了いたしました。

今年の開会式は、例年の陸上競技場が工事で利用できない為、本球場で執り行われました。又、例年は栃木市内の体育協会の各支部の選手役員の入場行進で始まりましたが、今年は猛暑の中での式典との事で、入場行進や式進行も短縮した形で実施されました。

開会式の後は、9時30分ごろから社会人軟式野球・ソフトボール(壮年男子と一般女子)・フットベースボール(一般女子と学童)・ソフトテニスの競技が各会場にて戦いの火蓋が落されました。更にレクリェーションとして綱引きや玉入れそして長縄とびの3競技に小学生や一般男女が参加し、体育館内で始まりました。
各競技の選手さんは、それぞれ地域の為に、優勝10点・準優勝8点・3位6点の得点を目指し、力を合わせて頑張っていました。
長縄とびは全員が気持ちを一つにして揃って飛ぶのが、意外と難しいものだなと見ていて感じました。
長縄飛び.jpg
(体育館で行われたレクリエーション競技の一つ、長縄とび)

私も3日間各競技会場を巡って、地元のチームの応援をしました。会場が運動公園とは別だった、8月20日のゲートボール(会場は泉川町の栃木市屋内運動場)と、8月26日のターゲットバードゴルフ(会場は都賀町赤津ターゲットバードゴルフコース)の2競技は残念ながら観戦しませんでした。8月25日は土曜日の為か、行われた競技も3種目と少なかったので、ジックリと観戦できました。

ソフトボールは40歳以上の壮年男子と一般女子、初日に1回戦がそして最終日26日に準決勝・決勝が行われ、炎天下の中熱戦が繰り広げられていました。
ソフトボール1.jpg
(ソフトボール壮年男子、ベテランの選手たちが汗を流して走り回っていました)
ソフトボール女子.jpg
(ソフトボール一般女子、スピードの有る投球。私にはとても打てそうに有りません)

オープン競技のフットベースボールは、一般女子と学童の2種目が行われました。この競技をジックリ見るのは今回初めてで、競技ルールも知りませんでしたが、独特のルールで最初良く飲み込めませんでしたが、見ていると結構楽しめました。
フットベースボール.jpg
(フットベースボール学童、勢いよくボールを蹴り上げていました)
フットベースボール3.jpg
(フットベースボール一般女子、優勝の喜びを爆発させていました)

多目的広場で行われたゲートボールは競技開始が8時30分と早かったですが、それでも早朝から多くの選手が会場入りして、暑さを凌ぐ為木陰を選んで支部毎に集まっていました。
ゲートボール1.jpg
(グランドゴルフ開会式)
ゲートボール2.jpg
(多目的広場一杯に設定されたコースに、多くの選手が技を競っていました)

学童軟式野球は支部内のチームの連合も有り、ユニホームの違いが有りますが、プレーは良く連携して戦っていました。5・6年生だけと思わせる体格のチームや、まだ小さな学年の児童も参加するチーム、そして女の子も頑張っているチーム等色々です。
学童野球2.jpg学童野球1.jpg
(学童軟式野球、本球場でも試合が行われました)(この選手なかなかの強打者の様です)
学童野球4.jpg
(学童軟式野球表彰式、優勝したのは第10支部の吹上地区でした)

体育館の主競技場では、25日にバレーボール(一般女子)が、26日はソフトバレーボール(一般女子と男女混合)が行われていました。バレーボールは9人制、最近は6人制が主流と思いますが、私が中学・高校の頃はこの9人制だったので、サーブ権を取らないと得点につながらない、1セット21点とかローテーションしないとか、懐かしいルールです。一方ソフトバレーボールは、4人制でボールが柔らかく大きい。1セット15点でローテーションが有るのは6人制バレーボールに近いかな。こちらもスピーディーな展開で見ていて楽しかったです。
バレーボール.jpg
(9人制バレーボール試合会場の様子)
ソフトバレー.jpg
(ソフトバレーボールの試合会場の様子)

体育館の補助競技場では卓球競技が行われていました。卓球には硬式とラージボールが有ると言いますが、その違いが良く分かりません。私が中学生の頃は栃木市内に何カ所か卓球場が有りましたから、友達と良く遊びに行っていましたが、あくまでも遊びでした。
卓球.jpg
(補助競技場の中では多くの卓球台が並び、激しい戦いが行われていました)

最終日遅くまで試合が行われてたのは、テニスです。テニスの試合会場は観客席にも屋根が無く、全く日陰になるところが有りません。ベンチに座るとそこも焼ける様に暑くなっていました。見ているだけで汗がにじみ出て来ますから、プレーしている選手は尚更大変だなと思いました。
硬式テニス.jpg
(テニスコートではまさに炎天下、暑いプレーが展開していました)

見ているこちらも熱中症に成りそうな猛暑の中で、各種の競技が繰り広げられていましたが、選手の皆さんは暑さにも負けず、それぞれの競技に集中をしてプレーしていました。大会の結果はどうなったのか、そこまでは見て来ませんでしたが、途中経過の様子では、各競技優勝の10点や準優勝の8点を多く取っていたのは大平支部でした。昨年第5回大会も大平支部が総合優勝をしていましたから、今年も又かも知れません。ただ今年はこれまでの所、第10支部(吹上地区)も高得点を多く獲得しているので最終的にどうなったか、最終結果がどうなるか楽しみです。
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真岡市長沼の宗光寺 [堂々巡り]

真岡市の南西部、南隣りは茨城県筑西市、西隣りは下野市と小山市に接する地区は、平成21年(2009)3月23日に真岡市に編入されるまでは芳賀郡二宮町、更に遡ると昭和29年(1954)5月3日に、久下田町・長沼村・物部村の1町2村が合併する前の長沼村でした。
現在、二宮町も長沼村もその区域が何処であるか、グーグルマップで検索しても表示してくれません。真岡市内を更に分割して検索するには、かつての大字名に成るのでしょうか、その区割名での検索に成ります。
明治22年(1889)4月1日に長沼村が誕生しましたが、この時合併をした以前の村は、上大曽村・上谷貝村・谷貝新田・砂ヶ原村・青田村・掘込村・大道泉村・太田村・鷲巣村・古山村・西大島村・上江連村の12の地区で構成されていました。
現在のこれら12地区の分布状態を概略図示すると以下の図の如くに成ります。明治初期のそれぞれの境界は、鬼怒川左岸一帯の大規模な土地改良事業が行われて変化している為、昔の姿を留めていないと考えますが、その分布は現状から推察する事は可能でしょう。
旧長沼村の区割り.jpg
(かつての芳賀郡長沼村12郷の現在の区割り分布概略図)

ただ現在の地域名の中には、かつての太田村の地域を「真岡市太田」で検索しても表示してくれません。その他の11地域は、「真岡市上大曽」とか「真岡市上谷貝」等の名前で全てその地域を確認出来ます。
それでは太田村はどうなったのでしょうか。私は地元に住んでいませんので推測に成りますが、先の概略図に有る「真岡市長沼」の地区が、かつての太田村に比定されるものと考えます。
(財)日本地図センターが発行する、「明治前期測量2万分1フランス式彩色地図」の中に、明治19年1月の「栃木縣下野國河内郡本吉田村及芳賀郡太田村」と題した地図が有ります。
この地図の右下部分に「鬼怒川」の流れが描かれその左岸に「太田村」の文字が見えます。その村名の下に「八幡社」、更のその左下辺りに「大道泉村」の村名も確認出来ます。
ここで「八幡社」と有るのは、長沼八幡宮に成ります。
長沼八幡宮社殿.jpg長沼八幡宮参道.jpg
(長岡八幡宮の拝殿)                 (春には約350mの参道に桜のトンネルも)

その社殿鳥居の前から南に向かって真っすぐに伸びる道路は参道、更に南に目を向けると地図の右下角近くに、「宗光寺」の文字が記されています。
この「宗光寺」が今回訪れた天台宗の準別格大寺、「新御堂山 円頓止観院 宗光寺」(しんみどうさん えんどんしかんいん そうこうじ)に成ります。
長沼宗光寺山門.jpg
(宗光寺山門、「新御堂山」の扁額が掲げられています)
長沼宗光寺1.jpg
(宗光寺本殿、右手前は新しくなった客殿)
長沼宗光寺鐘楼&阿弥陀堂.jpg
(手前鐘楼、奥に建つのが阿弥陀堂)
大銀杏.jpg冬の大銀杏.jpg
(山門前から南100mに建つ薬師堂前に聳える大銀杏)(落葉後の大銀杏、その大きさが分かる)

下野新聞社発行の「とちぎの天台の寺めぐり」(天台宗栃木教区宗務所編集)より「宗光寺」の由緒に付いて抜粋させて頂くと、≪宗光寺は嘉祥元年(848)に慈覚大師円仁によって開かれた。建久4年(1193)に長沼宗政の主君である源頼朝の本願により、「新御堂」を建立した。≫と、有ります。
慈覚大師円仁と言えば、その幼少期に栃木市岩舟町の下津原や小野寺にて修行を積み、比叡山にて最澄の教えを受け遂に第三代天台座主に成られました。
由緒は更に続きます、≪弘安9年(1286)に長沼宗光が比叡山よい盛海僧正を迎えて宗光寺を中興した。≫と。ここで最初に出て来た「長沼宗政」とは、下野国大掾小山政光の三男、従五位上、淡路守、五郎左衛門尉です。元暦元年(1184)、芳賀郡長沼郷太田村に「長沼城」を初めて築いたと伝えられています。
長沼城は宗光寺の位置から北東側、北宿集落付近に有った様ですが、現在は城址の姿を全く留めておりません。城址の南側、宗光寺東門脇駐車場から東に、現在轟々と勢いよく流れる用水堀を渡った少し先に、長沼宗光公の墓と伝えられる墓石が一基建っています。
用水路.jpg長沼宗政公の墓.jpg
(宗光寺の東側を満々として水が流れる農業用水路)  (伝、長沼淡路守宗政公之墓)

又、この寺院の名前にもなっている、宗光寺中興「長沼宗光」は長沼系図によると、長沼の祖「宗政」から7代の城主で、従五位下、駿河守、監物、藤五郎。この人無双の豪勇にして世に悪五郎と呼ばれ、鎌倉に出て征夷大将軍久明親王に仕え、軍功により菊紋を賜わりました。後に遁世し鎌倉大御堂に入り、正慶二年(1333)皆川庄筥森に来て、草庵を建てて念仏三昧に入り、観応二年(1351)八月六日79歳で入寂したと云います。栃木市のそれも私の家の近く箱森町内に建つ「悪五郎堂」は長沼宗光の隨身仏といわれる阿弥陀仏と観音の二体を安置し、又悪五郎の霊をも合祀してある。(現在仏像は別に保管されている様です)
※悪五郎堂に付いては、今年7月20日にここで紹介しました。
こうした関係から以前から真岡市長沼の地の宗光寺には興味を持っていた訳です。
真岡市長沼宗光寺周辺概略図.jpg
(現在の宗光寺周辺の概略地図)

今回、宗光寺周辺を歩いて回りました。宗光寺の東側を流れる用水の水量の多さに少し恐怖を感じる程、激しく音を発てて流れていました。この水は鬼怒川から取水した物でしょうか。用水路を満々と流れていました。
宗光寺から南西の方向鷲巣に、鷲宮神社が祀られています。
鷲宮神社(真岡市鷲巣).jpg
(真岡市鷲巣の鷲宮神社)
平成二十七年(2015)に本殿を修復し、境内を整備したと云う事で、全体的に整然としていました。参道入口脇に建てられた記念碑に神社の由来等が記されていました。その中で気になったのが、陰暦十一月初酉日例祭(とりのまち)が行われ、神前に鶏卵や、つとっこ(卵の形をした餅を藁づとにいれたもの)を供える古式の伝統が今なお氏子たちによって受け継がれている。と記されていました。この「つとっこ」と言うものがどういうものか見た事が有りませんが、栃木市箱森町の鷲宮神社の秋の例祭の日には、米の粉で作った卵型の団子を藁にくるんだ物が売られ、それを食べると風邪に罹らないと言われています。何か似たものを感じました。
鷲宮神社(箱森).jpg鷲宮神社(箱森)米団子.jpg
(栃木市箱森町の鷲宮神社)           (11月の例祭日に販売される米団子)

もう一つ気になった事が、かつてこの地に有った長沼城は、別名その形がきんちゃくに似ていた事から錦着城と呼ばれていたそうです。 そして又、我が箱森町に有る小丘は、同様に形がきんちゃくに似ていた為に、巾着山とか現在では錦着山と成っています。
第7代長沼城主の長沼宗光公がその晩年を過ごした箱森の地、そこには何か彼の地「真岡市長沼」と共通した雰囲気が有ったのでしょうか。

※今回参考にした文献は
  ・栃木の城           編著者下野新聞社  発行下野新聞社
  ・とちぎの天台の寺めぐり  編集天台宗栃木教区宗務所 発行下野新聞社
  ・下野長沼氏          著者江田郁夫   発行戎光祥出版
  ・栃木縣誌           著者舟橋一也   発行歴史図書社
  ・校訂増補 下野国誌    再校訂徳田浩淳  発行下野新聞社
      



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