So-net無料ブログ作成
前の10件 | -

「帝室技藝員畫伯草雲田崎翁墓」が建つ西方町真名子、梅樹谷(真上) [石碑]

栃木市の北域、西方町真名子に真上と称する地区が有ります。
この「真上」と言う地区は、真名子の一番西の端、赤津川の支流で都賀町大柿の中央を西から東に流れる逆川を遡っていき、都賀町大柿北西域の野上を抜けた北隣に当たります。
都賀町と西方町との境界点から、300メートル程北上すると、分岐が現れます。ここまで走って来た道路は市道1009号線、この分岐を右に曲がって行く方が市道1009号線となり、この分岐から更に直進する道路は市道2006号線となります。先月8月20日に「栃木市道1009号線、都賀町大柿中郷に建つ石碑」と題したブログにて、この市道2006号線は山に向かって登って行くと砕石工場に行き当たり、その先は工場の私有地に入って行く雰囲気で、道路が行き止まりの様に書きましたが、それに対してそのブログを読んで下さった方からコメントが有り、この道路その先も有り工場を抜けると更に林道が続き、最終的には鹿沼市立粟野中学校付近で、県道17号(鹿沼足尾線)に行き着くようで、実際にその道路を走られた写真を載せたブログを教えて頂きました。ただその様子は道路上に倒木や落石の跡などが見られ、簡単には通過できない感じです。そのブログを書いた方は自転車でその林道を踏破した様で、なかなかの冒険家と言った感じが覗われました。
話を戻します、その市道2006号線を1200メートル程進んだ道脇に一本の木製の道標が建てられています。ただ表記がかすれてしまいハッキリ読み取ることが出来ません。車を止めてよく確認すると、「田崎草雲墓地」と書かれています。
道標.jpg墓地への道.jpg
(墓地入口道路脇に建つ標柱) (墓地は逆川に架かった橋を渡った先を右へ)

車を道路の脇に寄せて止め、見学する事にします。
田崎草雲の墓地は道路脇を並行して流れている逆川に架かる小さな橋を渡った先を右手の坂道を登った所に有るようです。橋を渡った所に墓地への道案内と「草雲先生について」と題した、西方村教育委員会と西方村文化財保護委員会とが、昭和五十九年九月十九日に建てた案内板が有りました。
案内標識.jpg早雲先生の説明板.jpg
(橋を渡った前方に建てられた案内表示)   (「草雲先生について」の説明板も)

そこから坂を少し登ると前方に数基の墓石が目に入ってきます。が、その手前に道路を遮る3本の細い電線が有ります。この周辺はシカやイノシシそしてクマなどの出没で、田畑が荒らされる為、多くの田畑の周囲には電気を流した電気柵が設置されています。
ここから先に進めません、あきらめて道路まで戻った時、近くの畑で雑草を草刈り機で刈ってる人が見えたので、声を掛けて「電気柵で田崎草雲の墓まで行くことが出来ない」事を話すと、電線にフックが有るからそれを外して通ることが出来ると教えて頂けました。
確かに電線に取っ手が付いていて、そこを持ってフックを外すことが出来ました。無事に電気柵を抜けて墓地の元へ。
入口の電気柵.jpg田崎早雲墓地.jpg
(墓地への道を遮る電気柵)         (田崎草雲墓地の標柱の後ろが田崎翁の墓)

「西方村指定史跡 田崎草雲墓地」と記した標柱の奥に、「帝室技藝員畫伯草雲田崎翁墓」と大きく陰刻された墓石が有りました。  

私が「田崎草雲」の存在を知ったのは、今から45年前に遡ります。昭和49年(1974)4月に足利市を訪れ「足利学校」や「鑁阿寺」などと共に「草雲美術館」を見学した時です。
早雲美術館1.jpg早雲美術館(1974年4月).jpg
(「足利市草雲美術館」1974年4月撮影)

そしてその後、市内の書店で「画聖田崎草雲」と題する荒川敏雄著(アポロン社)を見つけ購入蔵書としました。今回改めて読み直し、田崎草雲の生涯を追いました。
そしてなぜ足利を中心に活躍した人物の墓が、この真名子の山奥に有るのか納得できました。その部分を抜粋させていただきます。
≪少年のころ父常蔵に一度連れて行かれたことのある野州真名子(現在の栃木県上都賀郡西方村真名子)の羽山家を訪ねた。草雲の祖父は羽山家から江戸の田崎家へムコ養子に入り足利藩に仕えた。つまり羽山家は草雲の宗家であった。≫この本が発行されたのは昭和47年5月20日ですが、現在「野州真名子」は栃木市西方町真名子と変わっています。
田崎草雲20歳から21歳の事でした。13歳の時に母親が亡くなり、継母との間には溝が深まって行った。17歳で花鳥画で頭角を現し、18歳の時「草雲」と改名、両刀を捨てて画道に生きる事を決意した。ついに20歳の夏敢然として脱藩し、ひとり遊歴の旅に出た。その頃のことに成ります。

墓地入口に建てられた「草雲先生について」の文中、≪先生は恩義ある真名子をこよなく愛し梅樹谷(真上)に幾度か足を運び家族と談笑し往時を追懐したり、後年足利の白石山房にて多くの門人を育成し明治31年9月1日84歳をもって永眠さる。遺言により此の地梅樹谷に分骨し墓碑を建立し之を祀る≫と、記されています。

田崎草雲翁の墓碑は祖父の出身である、羽山家の墓地の向かって右隣に建てられています。
再び荒川敏雄著「画聖田崎草雲」の「病床日誌」より、≪明治31年(1898)7月10日、真名子村の羽山謙吉氏来房、翁、川島平五郎氏ら三名で、翁の先祖の墓碑建立を相談す。碑銘は次の通り。
  聴真院釈蓮居士     文化九季壬申正月十日  田崎甚内
  能生院釈尼妙蓮大姉  文化二季亡卯六月七日  同   妻
             明治三十一年季成戌七月  田崎 芸 建之 ≫ 

田崎草雲翁墓碑.jpg先祖の墓碑.jpg
(田崎草雲翁の墓碑)              (草雲建之の先祖の墓碑)

栃木市の北域、梅樹谷(真上)にひっそりと建つ画聖田崎草雲翁とその先祖の墓碑でした。
nice!(0)  コメント(0) 

旧栃木町役場庁舎の改修工事が進んでいます。 [建物]

今日、旧栃木町役場庁舎改修工事見学会に参加して来ました。

「旧栃木町役場庁舎」は、明治の初期に栃木県庁庁舎が初めて建設された跡地となる、「旧県庁堀」内の南東角地部分に、大正9年4月に起工し、大正10年11月に竣功しました。
旧栃木町役場庁舎1.jpg
(旧栃木町役場庁舎、背の高い木は「ヒマラヤ杉」樹齢は推定90年程か)

設計は町の技師をしていた堀井寅吉氏。木造2階建、塔屋付の洋風建築に成ります。最初の建物の設計図を銅版エッチングしたものが掲示されています。そこには建物の「北面」と「東面」の外観図や、1階と2階のフロアー図、そして建築工事概要などが記されており、初期の建物の様子がつぶさに知る事が出来ます。
銅板エッチングの庁舎設計図.jpg
(正面玄関左脇に設置された「栃木町役場庁舎設計図」の銅版エッチング)

栃木市では平成31年(2019)3月より建物の改修工事に着手しています。
改修工事の内容については、①建築当時の姿に復原する事。但し当初西側に付随していた建物は除く。②可逆性の確保。これは耐震性の確保等の補強材を鉄骨等で加えるが、元の建物にあえて溶け込ませないで、補強の為当初には無い構造物とハッキリ判別できるようにし、将来更に良い工法で補強が可能になった時は、追加補強を撤去することが出来る様にしておくこと。③誰もが安心して利用できる建物として改修(バリアフリー対策)の3つが工事に際しての基本方針(見学会配布資料より参照)
建築中の写真.jpg棟札に記された上棟式参加者名.jpg
(見学会会場に掲示された建築当時の様子の写真と上棟式日付や関係者名を記した棟札)

改修工事は令和3年(2021)1月までの工期を予定しています。現在は、1階の床や天井を解体し、基礎工事の準備中とのことです。
本日の見学会は市内でも珍しい大正時代の洋館の、改修中しか見る事が出来ない、床下や木組みなどを直接見る事が出来るチャンスと言うので、参加申し込みをしました。

私は栃木第二小学校(現、栃木中央小学校)で子供時代を過ごしました。大人になってからもこの「旧栃木町役場庁舎」は、とても好きな建物で、四季折々写真に収めてきました。
1994年6月15日撮影栃二小屋上より.jpg
(1994年6月、栃木第二小学校(現、栃木中央小学校)の屋上より撮影)
旧栃木町役場庁舎2.jpg1974年6月旧栃木町庁舎.jpg
(2019年9月、旧県庁堀漕渠より)  (1974年6月撮影、ヒマラヤ杉はまだ低かった)
旧栃木町役場庁舎(2013年7月撮影).jpg
(2013年7月撮影、栃木市役所別館として利用されている頃)
枝垂れ桜と2019年4月.jpg2000年頃旧栃木町庁舎.jpg
(2019年4月撮影、東側の枝垂れ桜) (2010年頃撮影、コブシの木はすでに伐採)

午前10時集合で、参加者が集まってきました。大型台風が近づいて来ている為、天候が気になりましたが、台風前で気温が上昇、日差しがきつく、建物の陰に入って待ちました。
旧栃木町役場庁舎3.jpg
(改修工事の為、周囲に仮囲いが設置されています。)

見学会の始めに栃木市教育委員会事務局文化課の担当者さんから説明を聞いて、改修工事現場での見学開始となりました。
旧栃木町役場庁舎6.jpg旧栃木町役場庁舎5.jpg
(改修工事見学会の担当職員さんと参加者たち、ヘルメットを被って見学しました。)

旧栃木町役場庁舎7.jpg
(入口から入って所定の見学場所から。床や天井が撤去された内部)

天井の太い梁1.jpg天井の太い梁2.jpg
(天井部分には太い梁が見えます) (梁は2本の柱をボルトで繋いだ合せ梁に成っています)
梁の材料は国産材では無くて、北米産の米松との事。寒い地方の木材の為硬い材料である。
梁の長さは、当時の荷車や船で輸送している為、短く途中で継いで使用して有るのが確認出来ました。

旧栃木町役場庁舎8.jpg
(床下基礎部分、大谷石が積まれています)

基礎部分(内観).jpg基礎部分(外観).jpg
(床下換気の目的で取り付けられた基礎部分の換気口。外観は綺麗に形成されています)

天井裏の構造.jpg天井部分.jpg
(天井裏の木組み構造が見られます)     (天井が有った時の風景です)

旧栃木町役場庁舎(2010年6月撮影).jpg東側増築部解体撤去.jpg
(建屋東側の増築部分)     (改修で建築当初に戻す為、増築部は解体撤去されました)
昭和12年~13年頃、栃木市制が施行された当時に増築された東側の建屋は、今回大正10年の建築当時に戻す為、解体撤去されました。その脇に有った枝垂れ桜は今のまま残される様です。
尚、ヒマラヤ杉はドンドン大きく高く成長しているので、少し心配です。写真で撮影しても建屋がだんだん隠れる様に成ってきています。少しダイエットさせられれば良いのではと思います。
見学会場では色々と説明が有り、大変勉強になりました。

令和4年度(2022)には生まれ変わった建物を見る事が出来ます。その時が今から楽しみです。

nice!(0)  コメント(0) 

日中の暑い最中に停電に襲われました。

今日は恒例の「蔵の街花火大会」が開催されました。
以前は永野川の河川敷まで歩いて、近くで花火の醍醐味を肌で感じていたのですが、ここ数年は少し遠いですが自宅の窓越しの花火見物で満足しています。クーラーの効いた部屋で食事を採りながらの花火見物も、また格別です。
蔵の街花火大会2.jpg
(食事をしながら、窓越しに花火を満喫しました)
蔵の街花火大会1.jpg

のんびりと花見見物を楽しんでいますが、実は今日の午後2時過ぎ頃でした。部屋でパソコンに向かいデータ入力作業を行っていた時です、突然パソコンの画面が消えてしまいました。エアコンも扇風機も停止。電気が切れたようです。エアコン使いすぎ?すぐに配電盤のブレーカーを確認しましたが、ブレーカーはどれも落ちていません。「停電だ。」
今日は朝から日差しが強く残暑が半端ない。台風が接近している影響で、熱気を押し上げてきている所為なのか。そんな時に「停電」。
暫らく待機していても、電気が復旧して来ない。そうこうしている内に部屋の温度は34℃を越える勢い。
冷蔵庫に保管していた保冷剤で体を冷やし、保冷シートを首に貼る。
一向に電気が復旧しないので、外の様子を確認する為、自転車で通りに出ると、理髪店の赤白青の看板はクルクルと回っているではないか、信号機も正常。「えっ、どうなっているの」。急いで戻りお隣に声をかけてみると、停電していないと言う。「えっ、我家だけ停電なの!」
そこで、東京電力に電話を掛けることに。電話で状況を説明すると、直ぐに現状確認に伺いますとの事。
待っている間、スマートメーターを確認してみたところ、表示が出ていませんでした。
スマートメーター.jpgスマートメータ(停電中).jpg
(スマートメーター)             (通電が無い為か、表示が消えている)

一次側に電気が来ていないようです。屋内の問題では無いのでは。屋内で漏電すれば漏電ブレーカーが作動する筈だし。などと色々原因を考えてしまいます。
1時間ほどで東京電力の方が到着しました。すると車から梯子を出すと、我家の脇に建つ電信柱に梯子を架けて登って行きました。「メインブレーカーを落として下さい。」と言われたので、ブレーカーを落とすと、電柱の上で何やら作業を始めました。
何をするのか下でその様子を観察していると、引込線でしょうか、ペンチで切断をしました。電気は来ていないのか。感電しないのかと、見ていて心配になります。すると腰に付けた工具袋から大きな圧着工具取り出して作業をしています。そんなに長い作業では無く。「ブレーカーのスイッチを戻して下さい。」と声が掛かりました。スイッチを上げると、電気が入ったようです。換気扇や冷蔵庫が動き出しました。
電信柱1.jpgスマートメーター(復旧後).jpg
(作業が行われた電信柱))      (電気が復旧して表示が現れました)

停電の原因を訪ねると、引込線についているヒューズみたいな物が切れていたので交換したとの事。
暑さや寒さで経年劣化して切れたのではとの説明。

無事に停電が復旧したことで、今こうして空調の効いた部屋で、蔵の街花火大会を満喫する事が出来ました。

nice!(0)  コメント(0) 

太平山あじさい坂駐車場入口脇に建つ「射撃場建設記念」の碑 [石碑]

栃木市の中心から太平山へ一直線に登る県道269号(太平山公園線)。その終点、あじさい坂登り口の手前右手にある「あじさい坂駐車場」。この駐車場の入口右脇に1基の石碑が建てられています。
「市営あじさい坂駐車場」は無料休憩所や公衆トイレもあり良く整備されていてます。あじさい祭開催期間中は有料になりますが、通常は無料で利用できます。駐車場に車を止めて石碑を見学します。
1太平山六角堂前駐車場.jpg県道269号標識.jpg
(県道269号の終点、あじさい坂登り口付近、お食事処「福松家」さんの先に駐車場)

太平山麓射撃場建設記念1.jpg
(あじさい坂駐車場入口右脇、石垣の上に建つ石碑)

駐車場入口脇、石垣の上に建つ石碑、下側部分は雑草で隠れて読むことが出来ません。碑陰に回り込んでみると、小さな文字で大勢の方の名前が並んで彫られています。
その右端に少し大きな字で「栃木懸猟友會下都賀支部」でしょうか、下の方がやはり雑草に隠れてしまっています。
石碑正面全体.jpg碑陰.jpg
(石碑正面、下側が雑草で隠れて読めません) (碑陰には大勢の人の名前が並んでいます)

石碑正面上部の篆額に篆書体文字で「太平山麓」と陽刻されています。その下石碑右側に「昭和三十年」まで読めます。その下には「十一月」とまで写った写真が私のアルバムに残っていました。
そして石碑の中央には、「射撃場建設記念」と力強い文字が陰刻されています。
篆額部分.jpg石碑正面.jpg
(篆額部分、「太平山麓」と陽刻されています)(石碑正面中央に、「射撃場建設記念」)

左側には「第七代栃木市長」の文字下側は雑木に隠れて見えません。
栃木市役所のホームページで歴代市長を調べてみると、「7代 栃木理一」で就任1951年(昭和26年)4月24日、退任1955年(昭和30年)1月25日と記されています。
石碑の日付けは昭和30年11月と成っていますから、すでに退任されていることに。
昭和55年(昭和30年)3月16日付で、大島定吉氏が第8代栃木市長に就任をしています。石碑の建立に向けて多少の時間的ずれが生じていたようです。

碑陰に並んでいる人達の名前を確認できる範囲で書き写してみました。やはり石碑下部が下草に隠れて見えませんでしたので。
射撃場建設記念碑(碑陰表示内容書き写し).jpg
(碑陰に刻されている文字を書き写しました)

栃木市地区・寺尾地区・吹上地区を始め、壬生地区・小野寺地区・豊田地区・寒川地区など、かつての下都賀郡内各地区ごとの猟友会会員や役員の名前がぎっしりと記されています。

昭和46年8月25日発行の「栃木市政だより」の記事の中に、「昭和46年度狩猟者(初心者向)講習会のお知らせと言うものが載っています。その記事の中に、実技の場所として「栃木市平井町697の4、狩猟会下都賀支部射撃場」と記載されていました。

私がまだ子供の頃、太平山に遊びに行ったとき、この射撃場から聞こえる銃声に引かれて、射撃場内を覗いた経験が有ります。猟銃を持った大人の人達が、銃を構え、合図をするとどこからか的が飛び出して行く。その的を見事に撃ち落とすのを目撃したのです。

射撃場と言えば猟銃が必要ですが、かつて栃木市には「オリン晃電社」と言う猟銃の製造会社が有りました。私が中学生の頃栃木市街地を撮影した写真の中に、その当時5階建のビルがまだ珍しい昭和40年・41年の晃電社ビルが写っているものが有りました。
1965年3月大通り1.jpg元晃電社ビル(1966年4月).jpg
(昭和40年3月撮影、大通り奥の高いビルが晃電社)(昭和41年4月撮影、第一銀行奥が晃電社)

1986年度版のゼンリン住宅地図でビルの建っている場所を確認すると、表記には≪NIKKOゴルフ銃砲 (株)晃電社 5F≫と成っていました。
私が上の写真を撮影した1965年頃、近所に晃電社で通訳の仕事をしているという人が、引っ越してきました。通訳と言う言葉に子供心にすごい人が来たと思った記憶が有ります。
その当時オリン晃電社は、日本屈指の銃器製造メーカーだったと言います。20歳代の頃にはオリン晃電社に勤めている友人もおりました。
もちろん現在は「オリン晃電社」も「晃電社ビル」も有りません。このビルの跡地は現在「万町ポケットパーク」と成っています。

そして、太平山麓の射撃場も、いつの間にか姿を消し、その射撃場跡も今は駐車場となり、昔の面影は全く残っておりません。

では、射撃場はどうなったのでしょうか、今、栃木市尻内町から国道293号を通って都賀町大柿方面に進むと、都賀カンツリー倶楽部の手前に、「NIKKO SHOOTING RANGE」と記した大きな看板が建っています。和訳すれば「ニッコー射撃場」となります。そこで国道から北側に入る坂道を登って行くと、突然銃声音が飛び込んできました。そのまま進んでいくと、広い駐車場に多くの車が止まっていて、多くの猟銃を持った人達が、崖に向かって飛んでゆく的を撃ち落としている風景が広がっていました。
ニッコー射撃場1.jpg
ニッコー射撃場2.jpg
(ニッコー射撃場では休日、多くの方が射撃の訓練をしていました)

私の子供の頃は、街中で空気銃を打っている人を見かけましたが、今は規制が厳しくなりました。それでも私が勤務していた会社では狩猟を趣味にしていた人が結構居て、「解禁になったぞ」など話しているのを耳にしていました。リタイヤーした現在はそうした外の情報が入らなくなってしまいました。
それでも、最近テレビニュースなどで、クマやイノシシが出没して被害が発生、地元の猟友会の方が出動したなどと、良く聞く様になりました。

1基の石碑を調べているうちに、昔の記憶が色々と思い出されたり、現在の射撃場の様子を知ることが出来ました。
nice!(0)  コメント(0) 

街路樹の百日紅の花が満開です [草花]

箱森町には栃木市街地から放射状に延びる10本の県道の内、3本が通っています。
町の東端を北に向かう県道37号(栃木粟野線)と、西端を西北西に向かう県道75号(栃木佐野線)、そしてもう1本は栃木インターチェンジの入口が有る県道32号(栃木粕尾線)で、町の中央部を北西方向に延びています。
そして今、この県道32号の道路の両側に植えられている街路樹の、百日紅の濃いピンクの花が満開にに成っています。
百日紅の街路樹1.jpg
百日紅の街路樹2.jpg百日紅の街路樹3.jpg
百日紅の街路樹4.jpg
百日紅の街路樹5.jpg

今日、栃木市は4日ぶりに30℃を越え、湿度も高く蒸し暑い1日となりました。それでも8月も後2日、市内の小中学校は9月2日(月)が2学期の始まりと聞きました。秋はもうそこまで来ています。
nice!(0)  コメント(0) 

第7回栃木市民スポーツフェスティバルで地元を応援してきました [祭]

毎年8月に行われている、栃木市民スポーツフェスティバルが今日、4日間の日程を全日好天に恵まれ終了しました。
今年で第7回目となる今回の大会は、8月18日の日曜日に栃木市総合運動公園陸上競技場での開会式に栃木市長並びに栃木市議会議員各位、そして栃木市内各地域の選手役員等が参加して実施されました。
開会式1.jpg
(栃木市総合運動公園陸上競技場での開会式、選手団の入場行進)
市長挨拶.jpg市議会議長挨拶.jpg
(大川栃木市長さんの主催者挨拶)      (大阿久市議会議長さんの来賓挨拶)
選手団の入場行進が行われている間、主催者側席に立つ「とちすけ」が、行進の音楽に合わせて、その短い脚を上げてズット一緒に行進の動きをしているのが、とてもかわいらしかったです。暑い日だったので大変だった事でしょう。

開会式終了後、さっそく総合運動公園体育館を主会場に、各種競技種目ごとに試合が始められました。出来るだけ多くの競技場に出向いて応援をしようと思いましたが、18日に行われた競技は、体育館で一般と小学生による、綱引き・玉入れ・長縄跳び。野球場では社会人軟式野球や壮年男子と一般女子のソフトボール。多目的広場では学童及び一般女子のフットベースボール。テニスコートではソフトテニス。と盛りだくさんで、応援できなかった競技も有りました。
軟式野球1.jpg軟式野球2.jpg
(社会人軟式野球)
女子ソフトボール2.jpg女子ソフトボール1.jpg
(一般女子ソフトボール)
フットベースボール1.jpgフットベースボール2.jpg
(一般女子フットベースボール)        (全員揃って拳を上げ勝利を喜ぶ選手たち)

19日月曜日にはゲートボールの種目だけが、泉川町の栃木市屋内運動場で行われました。
ゲートボール2.jpgゲートボール1.jpg
(ゲートボールの試合会場、泉川町に有る屋内運動場)

24日土曜日も天候に恵まれ、野球場では学童の軟式野球。多目的広場にてグランドゴルフ。そして体育館主競技場にて一般女子と男女混合のソフトバレーボールが実施されました。
学童野球1.jpg学童野球2.jpg
(学童軟式野球)
グランドゴルフ1.jpgグランドゴルフ2.jpg
(多目的広場で行われたグランドゴルフ)
ソフトバレー1.jpgソフトバレー2.jpg
(体育館主競技場のソフトバレーボール)

そして本日25日日曜日、朝の内は秋を思わせるような涼しい風が吹いていましたが、次第に暑さを増して体育館の中の競技は応援するのも少し大変でいた。そんな事を言うと、競技をしている選手に申し訳ないですが。
今日、大会最終日もこれまでの競技の決勝戦や、新たに体育館補助競技場で卓球(硬式とラージボール)。体育館主競技場にて一般女子バレーボール。テニスコートにて硬式テニスが行われました。又遠く離れた都賀町赤津の「赤津ターゲットバードゴルフコース」でターゲットバードゴルフの試合が行われましたが、こちらには応援に行けませんでした。
男子ソフトボール.jpg男子ソフトボール2.jpg
(壮年男子のソフトボール)
卓球1.jpg卓球2.jpg
(体育館補助競技場では硬式とラージボールの卓球試合が行われる)
硬式テニス2.jpg硬式テニス1.jpg
(テニスコートの硬式テニス)
バレーボール1.jpgバレーボール2.jpg
(体育館主競技場で行われた一般女子のバレーボール)

各競技場では、選手たちが日ごろの練習の成果を発揮して、熱戦が繰り広げられていました。
最後に観戦した一般女子バレーボール(9人制)の決勝戦では、驚くほど粘り強いラリーの応酬で、応援しているこちらも拳に力が入り、見ているだけでなぜか疲れてしまうほどでした。結局フルセットの上最後も20点同点でジュースとなり、最後まで目の離せない試合でした。試合終了後は観客席から両方のチームに惜しみない拍手が贈られていました。
この市民スポーツフェスティバルが終わると、今年の夏も終わりを告げるようなそんな気持ちで、栃木総合運動公園を後にしました。

nice!(0)  コメント(0) 

山形県寒河江市に残る旧西村山郡役所と郡会議事堂 [建物]

先日、山形県をマンホールカード収集の為に訪れました。山形県には2013年4月に山寺(宝珠山立石寺)を訪れて以来になります。今回は東根市を始めに2・3カ所を巡り、寒河江市に向かいました。
寒河江駅前の観光案内図を確認すると、近くの寒河江公園の一画「さくらの丘」に郷土館を発見、せっかくここまで来たので、寄り道して見学をすることにしました。

寒河江市郷土館の建物は、旧西村山郡役所と旧西村山郡会議事堂という、2棟の県指定有形文化財で構成されています。
郷土館に到着したのは、午後2時30分を過ぎていたため、東向きの郡役所は太陽が西に傾き始めて、写真撮影は逆行状態になってしまいました。
旧西村山郡役所全景.jpg
(旧西村山郡役所、正面より撮影)
この建物は、明治11年12月の竣工。案内板によると山形県内はもとより、全国的にも最も早い時期の郡役所の様です。
旧西村山郡役所斜景.jpg
(旧西村山郡役所、向かって左斜め方向より撮影)

では、この旧西村山郡とはどこなのか、山形県は大きく4つの区域に分割されています。北東側は新庄市を中心に真室川町、金山町、最上町、舟形町、鮭川村、戸沢村、大蔵村の「最上地域」。北西側は酒田市・鶴岡市を中心に遊佐町、三川町、庄内町の区域で「庄内地域」。県南地域は米沢市を中心に白鷹町、南陽市、高畠町、川西町、長井市、小国町、飯豊町の区域で「置賜地域」。そして県央部に位置する区域は、山形市を中心に天童市、東根市、尾花沢市、大石田町、村山市、河北町、寒河江市、西川町、大江町、朝日町、中山町、山辺町、上山市を含む地域でここが「村山地域」となる。

この村山地域が、明治11年(1878)に行政区域として、東西南北の4つの区域に分割発足しています。そしてその一つが、「西村山郡」ですが、この西村山郡を構成したのは、現在の「寒河江市」「河北町」「西川町」「朝日町」「大江町」の1市4町でしたが、現在も残る西村山郡は市制を敷いた「寒河江市」を除く前記の4町で構成されてます。
ちなみにこの明治11年8月には、栃木でも都賀郡が下都賀郡と上都賀郡とに分かれています。

太政官が「郡区町村編成法を布告したのが明治11年7月ですから、早くもその年の12月4日に、この郡役所の建物が建築されたことに成ります。この時の山形県令はその後、栃木県の第三代県令となった、「鬼県令」「土木県令」とも呼ばれた、三島通庸でした。

三島通庸(みしまみちつね)と山形県との関わりは、明治7年(1874)12月3日に酒田県令となったのが初めてで、その後三島は翌明治8年8月31日、坂田県を鶴岡県に改め、県庁を鶴岡に移しています。そして明治9年8月22日には、鶴岡・旧山形・置賜の三県を統一させた山形県を誕生させ、初代の県令となりました。

そして、旧西村山郡の初代郡長となった人は「海老名季昌(えびなすえまさ)」という人物で、幕末に会津藩家老を務めた人です。

話を建物に戻します。この建物はもともとは寒河江南町に有った寒河江代官所跡地に建てられています。現在地には≪明治初期の洋風建築の遺構として価値が高いことから移築復元して永久に保存することにしたものである。≫と案内板に記されていました。
旧西村山郡役所案内板.jpg
(旧西村山郡役所の説明板)

擬洋風建築は、一見洋風に見える建物に和風の意匠が取り込まれ上手く融合させた建物。
洋風意匠として、下見板張り壁、バルコニー、ファンライト、デンティル、玄関ポーチ・柱、上げ下げ窓など。
和風意匠として、垂木・装飾、幕板・装飾など。
上下開閉窓.jpg上下開閉窓2.jpg
(下見板張り壁と上げ下げ窓)         (デンティル・軒蛇腹と垂木装飾)
郷土館内部展示.jpg
(郷土館内部展示の様子)

郡役所に向かって、左手方向に建つ旧西村山郡会議事堂
旧西村山郡会議事堂全景.jpg
(旧西村山郡会議事堂正面)

旧西村山郡会議事堂斜景.jpg
(旧西村山郡会議事堂、向かって左斜め方向より撮影)

旧西村山郡会議事堂案内板.jpg
(旧西村山郡会議事堂の説明板)
郷土館内部展示2.jpg
郷土館内部の展示の様子。ドア上のアーチ状採光窓がファンライトです)

明治初期の建築物で空調設備など無い為、見学していても暑くて大変でしたが、担当の職員の方に館内を説明・案内して頂いたので、色々なお話を伺う事が出来ました。
山形県内にはこの様な明治初期の擬洋風建築の郡役所が他にも残っているとの事、機会が有ったら又山形県を訪れてみたいと思いました。
nice!(0)  コメント(0) 

栃木市道1009号線、都賀町大柿中郷に建つ石碑 [石碑]

今回の石碑は、栃木市道1009号線の道路脇に建てられています。と言っても、市道1009号線が何所なのか分からないと思いますので説明しますと、都賀町大柿を通過する国道293号を「大柿十字路」から西走すると、道路右手に野の花自然園「花之江の郷」、そこを通過すると右手に分岐する道路が現れます。この右手の細い道路が国道293号の旧道に成り、現在はこの分岐点を起点に市道1009号線と成っています。ここから逆川に沿って西走すると信号機のある丁字路が有りますが、市道1009号線はそのまま直進します。旧国道はここを左折していました。以前は直進方向には「この先行き止まり」の案内が有った記憶が有りますが現在は見当たりません。直進した先に「ハーモニーヒルズゴルフクラブ」への入口が出来た為でしょうか。丁字路をそのまま直進、ゴルフ場の入口を通過すると道路右側に薬師堂が現れます。
薬師堂.jpg
(信号機の有る丁字路から600m、道路脇に建つ薬師堂。西側から撮影)

その先200mで逆川に架かる「中郷橋」を渡り更に250m進むと道路が少し北方向に向きを変えます、今回紹介する石碑はこの道路が方向を変える地点に建てられています。
石碑の建つ場所.jpg
(道路脇に建つ石碑、道路はここから北北西に向きを変えています)

市道1009号線は更に北北西方向に遡ること1200m進むと、逆川に架かる「新野上橋」が現れます。
新野上橋.jpg新野上橋銘板.jpg
(逆川に架かる「新野上橋」、左側の古い橋は「野上橋」です。北側より撮影)(橋銘板)

「新野上橋」を渡って200m先で、西方町真名子に入ります。西方町真名子に入って300m、逆川に架かる「真上橋」の上に達します。この橋の手前で分岐が有り右に折れる細い道が市道1009号線になります。この先は山を越えて1本北側の沢を流れる赤津川を渡り、栃木市立真名子小学校北側を東走して、県道37号(栃木粟野線)に突き当たります。しかしこのルートで都賀町大柿と西方町真名子間を通行するのは地元民がほとんどで、まさに地元の生活道路と思われます。私もこのルートで通過したのはこれまで3回だけです。一度は山の中を抜ける途中で、道路の前方に2匹の小鹿が現れ、私の車に驚いて山の中に逃げて行きました。西方町の真上や小沼では、こうしたシカやイノシシに田畑を荒らされるのを防ぐために、田畑の周囲に電気柵をめぐらしています。

尚、分岐を直進して「真上橋」を渡る広い道路は、市道2006号と名称が変わり、西方町真上を山の奥に進んでいきます。
真上橋.jpg真上橋銘板.jpg
(逆川に架かる「真上橋」を北側から撮影。)                  (橋銘板)

「真上橋」を渡って市道2006号を1700m程進むと、前方には砕石工場が現れ、道路はその工場の中に入って行く様な感じと成る為。道路の探索はここまでとし、引き返すことに。
工場敷地入口に架かる逆川の橋の脇に「一級河川上流端」の石柱が建てられています。
逆川大和砕石㈱入口の橋.jpg
(市道2006号の先に現れる「大和砕石(株)真名子工場」)

平日にこの真上への道路に入ると、この砕石工場関係のダンプカーが引っ切り無しに通行していますが、日曜日に訪れるとダンプカーの姿は消え、ほとんど車の通行は無くなります。

以上の文章での説明ではなかなか上手く言い表せていないので、逆川流域の概略図を作成しました。
逆川流域概略図.jpg
(逆川流域概略図)

それでは市道1009号の脇に建てられた石碑をジックリ観察します。
石碑の正面.jpg石碑の裏面.jpg
(石碑の表面中央に大きく竣工記念碑と刻されています)(碑陰には碑文が刻されています)

石碑正面右側には「中郷野上線道路改修」、中央に大きく「竣工記念碑」、そして左側に「昭和五十三年九月吉辰」そして「勲五等土屋大□書」と刻されています。碑陰には碑文が右半分に、そして左側半分に「土地提供者」や「記念碑建設委員」「寄附者芳名」などが刻されています。
碑文は読みにくかったですが何とか読めましたので、書き写してみました。
碑文書き写し.jpg
(碑陰に刻された碑文と関係者の名前一覧を書き写しました)

碑文冒頭の「中郷野上両部落」は、都賀町大柿の地名。続く「幹線道路延長2,476米」に相当するのは、信号機の有る丁字路から西方町真名子との境界までの距離に相当します。
この道路改修によりそれまで劣悪な環境に有った町道が改善されたことが、碑文に記されています。

この石碑の外に市道1009号の先、真上橋を渡って進む市道2006号の道路脇にも同様の竣工記念碑が建てられていました。石碑正面右側には「都賀真上線村道改修工事」と有ります。
都賀野上線村道改修工事竣工記念碑.jpg
(西方町真上、市道2006号脇に建つ「竣工記念碑」)

碑陰に事業概要が刻されていますが、その中に「工事延長 二千七十米」と有りますが、この距離は市道1009号の西方・都賀の境界から、真上橋をわたり市道2006号をずっと遡って、大和砕石(株)真名子工場までの距離に相当します。
これら2基の石碑により都賀町大柿宿坪の丁字路から大和砕石(株)真名子工場に至る約4,500mの道路の改修の歴史を今、振り返ることが出来るのでした。
nice!(0)  コメント(1) 

今日からマンホールカード第10弾が配布開始しました。 [マンホールカード]

これまで4ヶ月間隔で新しいマンホールカードが追加配布されて来ていましたが、今年4月の配布がシステム変更の都合とかで延期された為、昨年12月の第9弾から8ヶ月が経った今日8月7日、待望の第10弾が配布開始されました。
この第10弾で新たに配布されるマンホールカードは、47自治体61種類との事。
我が栃木県内では、宇都宮市と鹿沼市の2種類が新たに加わりました。

早速、宇都宮市と鹿沼市とを回って、この2枚をゲットして来ました。
宇都宮市2マンホールカード.jpg鹿沼市マンホールカード.jpg
(今日ゲットした、宇都宮市と鹿沼市が第10弾にて配布を開始したマンホールカード)

宇都宮市の配布場所はJR宇都宮駅構内の「宇都宮市観光案内所」の為、駅前の駐車場に車を止めて行きました。県都の表玄関に位置する為途中交通渋滞で時間をロスしましたが、幸い一番近くの駐車場が空いていたので20分以内で済み、駐車料金も掛かりませんでした。
それでもシッカリ「餃子像」を写真に収めてきました。実際の餃子をデザインしたマンホール蓋の設置場所は宇都宮市の中心「二荒山神社」の直ぐ東側、宮島町の老舗餃子店などが立ち並ぶ「餃子通り」です。今回は時間が無かったので、前に餃子を食べた時に撮影した写真を添付いたします。
餃子像.jpg宇都宮設置場所.jpg
(JR宇都宮駅西口バスロータリーの2階に建つ「餃子像」)(設置場所の餃子通り)

次は鹿沼市の配布場所、「まちの駅、新・鹿沼宿」を目指します。
宇都宮から鹿沼街道を西走する事40分程で到着、夕方5時半を回っていたのでこちらの駐車場も空きが有りました。本館内の案内処で無事にカードをゲットしました。
カードに描かれているデザインマンホール蓋の設置場所は、まちの駅から南へ50メートル程の石橋町交差点北東側歩道上に有ります。
まちの駅新鹿沼宿.jpg鹿沼市設置場所.jpg
(「まちの駅新鹿沼宿」駐車場入口に建つ常夜灯)(設置場所の古峯原宮通り北側歩道)

今回の第10弾では、お隣茨城県で4種類、群馬県で1種類、埼玉県が3種類、福島県1種類が新たに加わりました。又、計画を立てて収集して行きたいと考えています。

nice!(1)  コメント(0) 

「道の礎」に刻まれた歴史の一コマ [石碑]

東北自動車道栃木インターチェンジ出口から県道栃木粕尾線に出て左折、直ぐ東北自動車道の下を潜り抜けると、右手側道の脇に少し雑木が茂っている。
現在の様子.jpg
(通称鍋山街道を北上して、東北自動車道の下を抜けた右手側道脇に雑木が茂る)

雑木に隠れる様に一基の石碑が建っています。雑木の右側は東北自動車道の側道で、その右手奥に見えるこんもりとした小丘が、吹上町と野中町との境が山頂を通る米山。そしてこの石碑の建つ場所も野中町ながら、直ぐ北側の田んぼは吹上町と言うロケーションになります。

今から4年前の、2015年11月29日に撮影した頃は、まだ雑木も小さく石碑の姿は見えていました。
2015年11月29日撮影.jpg
(2015年11月29日撮影、東北自動車道側道脇に建つ石碑)

以前に撮影をした石碑の写真には、石碑の表面に雑木の枝が枯れた状態でこびり付いていますが、何とか碑文を読むことが出来ました。石碑上部の篆額には篆書体文字が陽刻されています。最初は何んと書いてあるのか全く分からず、調べて行くうちに右から左に「道の礎」(みちのいしずえ)と記されていることが分かりました。この篆額の文字を記した人物は、この石碑が建てられた昭和47年(1972)11月当時の栃木市長だった、柴新八郎氏です。
石碑全景.jpg篆額部.jpg
(石碑前景と石碑上部篆額部分。2015年3月11日撮影)

碑文を読み移しました、文末に昭和四十七年十一月吉日東北自動車道吹上地区地権者会と記して締めています。比較的新しい石碑で、現代仮名遣いの文章で、私にも容易に読むことが出来ます。
石碑には直ぐ脇を走る東北自動車道が計画され竣工開通するまでの間、地元地権者の対応が記されています。
≪昭和41年10月通過路線が確定発表されたが地区民の予想に反して美田の中央を縦断した為一同驚愕憤激し路線の変更を叫び猛反対運動を展開した≫と、ではその当時地元吹上地区の人達が描いたルートはどんなものだったのでしょうか。確かに岩舟小野寺地区から皆川小野口地区はそのルートの大部分が、太平連山の西側から北側の山裾を縫う様に通っています。又、都賀地区から西方地区も観音山から西方城址の有る城山の東側の山裾を走っています。それに対して皆川地区の東部から吹上地区の全ルートに関しましては、ほとんどが開けた田んぼの中を通過しています。
元々栃木市の周辺は豊かな水田が多く、その為工業団地造成も思う様に進まない土地柄でしたから、この東北自動車道路で多くの田んぼが潰れるのは、どれだけ無念な思いだったものか。その気持ちが碑文の最後に見られました。
≪思うにこの道の礎は正に父祖の培いし流汗の農地である 茲に国土開発と地域発展に寄与する為先祖伝来の土地を提供し併て地権者会の活躍を後世に伝えるためこの碑を建立する≫と。

碑文部.jpg碑文書き写し.jpg
(碑文部分を読み、そのまま書き写してみました)

東北自動車道と北関東自動車道の交差する、この栃木市に生活する一人として、東西南北のどこへでも容易にアクセスする事が可能になっています。この便利さを享受出来る幸せをもっと感謝しなければならないのかも知れません。「道の礎」と記された石碑は、そんな事を思い起こさせるものでした。
nice!(1)  コメント(0) 
前の10件 | -