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栃木城のこと [地図]

栃木市の市街地中心部から東南東方向へ1,000メートル程の場所に、僅かに濠跡や土塁の一部が修復され史跡として残されています。天正十九年(1591)から慶長十四年(1609)のわずか19年間で廃城と成った「栃木城」の二の丸(東丸)の北側一部と言われています。
栃木城址公園1.jpg
(史跡として整備されている「栃木城址公園」、濠の北西部角より撮影)
私は城郭の研究をしていませんので、良く分かりませんが、城の様子を描いた「縄張り図」というものを見る事が有ります。栃木市内に有る「西方城址」や「眞名子城址」そして「皆川城址」などもこの「縄張り図」が作られています。これらの城は「山城」で有る為、現在でも「桝形虎口」や「竪堀」などの地形が当時の姿を留めている為です。しかし「栃木城」は「平城」だった事と、栃木の市街地に近かった事等により、農地や住宅地に転用され、一部を残すだけで殆んど昔の姿を留めていません。
私もこれまで「栃木城」に関して、郷土史の資料の中に記されている物の内、築城時の様子を記したものが有るか探してきました。
栃木市の歴史ですから、「栃木市史・資料編・近世」の中に当然記載されていました。
≪慶安4年(1651)3月、皆川山城守の城跡≫の項目の中に、都賀郡 1.栃木町古城  平城として、以下の様な城の状態を文書にして表わしています。
     一、城の西入口より栃木町通り迄五町四拾間有り
     一、堀の総めぐり五百拾間有り
     一、本丸東西八拾三間、南北七拾三間
     一、二の丸は本丸から東に有り東西拾壱間、南北三拾六間、
        本丸から南の方の丸東西二拾八間、南北七拾三間
     一、蔵屋敷東西七拾間、南北四拾六間、本丸より北に有り
     一、三の丸は本丸から東に有り、東西二拾八間、南北七拾三間
     一、本丸から南の方の丸東西五拾弐間、南北弐拾間なり
     一、城の大手口表門は南の三の丸から入、裏門は東二の丸から入り
     一、城の惣堀、広さ九間、拾間、田畑に成る
     一、土手は祢をき六間・七間と見へ申候也
     一、城惣かまへ、廻三方は侍町なり
     一、右の城中仙道栃木町東の方に有り
栃木城址案内板.jpg
(栃木城跡公園に建てられている説明板、上記の城の規模が記されています。)
この史料の出所は、正保国絵図作成時に幕府の命令により宇都宮藩が調査作成をした、下野国内の地理調査報告書「下野一国」、奥書に慶安4年と成っています。(東西文献刊)
同じく栃木市発行の「目で見る栃木市史」の中にも、「栃木城」と題して上記の城の状態を少し読み下した感じで、長さ(間表示)はメートル換算値を併記しています。「目で見る栃木市史」ですが城の縄張り図の様な絵図の掲載はされていません。ただ、「栃木城址(市指定史跡)」として現在の城址の写真を掲載して、≪現存しているものは、東丸の北部の土塁と濠の一部である。・・・≫と、説明を加えています。
城址脇に建つ家屋.jpg
(栃木城跡公園の西側に建つ武家屋敷の趣を持つ家屋)
他にも、下野新聞社が昭和50年4月20日に発行した「栃木の城」や、日向野徳久先生が昭和27年10月10日に初版を著した「北関東における一封建都市の研究」の中でも栃木城について記していますが、規模等についてはやはり上記に記した内容に留まっています。
栃木市周辺の歴史研究に長年携われ、多くの著書に係わられた日向野先生をして、それ以上の史料を見い出せていないと言う事は、栃木城の絵図面等は残っていないと考えて良いのでしょうか。
更に栃木城の様子を絵図として描いている資料は無いものかと、文献をあさって行くと、昭和52年8月20日発行「栃木郷土史」(著者:栃木郷土史編纂委員会)の巻頭部に、栃木町の古地図などと一緒に「栃木城復原推定図」(研究製図 粟野健太郎)の絵図面が掲載されています。
又、昭和53年12月、栃木城跡保存会発行の「栃木城と栃木城内村」の冊子巻頭に、「栃木城略図」(岸慶蔵想定)の絵図面が掲載されている事を、最近知りました。(栃木城跡保存会は地元栃木城内町を中心に、栃木城に関する研究調査をされている会)

そこで、これらの想定図等を参考にさせて頂き、私の思い描く栃木城を「見える化」してみたくなりました。それは栃木城のそれだけでなく、栃木町との関係を含めて少し広い視野で位置関係が分かる様にしよと試みました。下の塗り絵が私がこれまで収集した情報を基に描いた図に成ります。
栃木城址周辺図1.jpg栃木城址周辺図2.jpg
(栃木町と栃木城の関係図)
この図のベースとして使用した地形図は、明治19年7月発行二万分一、迅速測図「栃木町」ですので、当然栃木城が築城された天正十九年当時とは違います。栃木町もまだまだ城下町として寺社を配置して、主要道路を通し町の形体を整えている時ですから。ただこの迅速測図を見ると、現在の栃木城跡周辺にハッキリと土塁や濠跡ではと思われる段差の印が認められます。その一番の高台に当たる所に三角点記号が見えます。標高46.35メートルの数字も見えます。この場所は現在「TSUTAYA栃木城内店」付近です。三角点は現在栃木第四小学校の校庭内に変更されていますが、その標高は42.5メートルですから、明治期には4メートル程の小丘が存在していた事が見て取れます。
絵図には現在の位置関係が分かり易くなるよう、JR両毛線・東武日光線の線路を破線で記入しました。
栃木城跡一帯の地域(城ノ内周辺の赤く着色した所)は、栃木市文化課主催の文化講座にて入手した資料を参照しています。
先の「栃木城復原推定図」や「栃木城略図」にも記されていますが、栃木城の周辺の地名として、「田宿」「大宿」「紺屋町」「川島」などが見られますが、これらの地名は現在も自治公民館や杢冷川に架かる橋の名前として確認する事が出来ます。
下田宿公民館.jpg大宿公民館.jpg
(下田宿公民館と田宿聖観世音堂)          (大宿公民館)
今、小山街道沿いに建つ観音堂は「田宿聖観世音」を祀り、都賀三十三観音霊場第27番札所でした。
紺屋橋 .jpg紺屋橋の親柱.jpg
(杢冷川に架かる「紺屋橋」)
本町の長清寺の裏手を東から西に流れている杢冷川、長清寺の丁度北東部角に架かる小さな橋、親柱を良く見ると「紺屋橋」の文字を読み取れます。この周辺は元「こうや町(紺屋町)」と呼ばれていました。≪城内の紺染めを扱う工場の有った所と思われる≫と先の冊子にも記されています。
旧川嶋橋1.jpg川嶋橋.jpg
(以前の「川嶋橋」に有った親柱)  (現在の川島橋、橋名が分かるものは何も無い)
本町の長清寺の裏を流れた杢冷川はその後、壬子俱楽部の前を流れ、その後流れを南に変え、栃木文化会館方向に流れる。その間に「本橋」「一二三橋」「川島橋」「旭橋」と幾つかの小さな橋が架けられています。現在は架け替えられて親柱が無くなりましたが、「川島橋」には「川嶋橋」と刻した親柱が有りました。この辺りが元「川島」と言う地名であった名残りが、又無くなり忘れ去られようとしています。

又、周辺の寺社もこの栃木城築城時に現在地に移されたものが、ほぼ当時のまま現在に至っており、位置関係を把握するのに重要な目標物に成ります。
東宮神社(神田町).jpg稲荷神社(城内町一丁目).jpg
(神田町の東宮神社)                (城内町1丁目の稲荷神社)
≪城内のもと神明宮の有った近くに祀られている東宮神社は、皆川広照が皆川の東宮神社を分祠したものであり、栃木城の鬼門に祀ったものと思われる。≫(目で見る栃木市史より)
≪内の城の西南方にある稲荷神社は皆川秀光の建立したもので一に城の内稲荷、俗に鬼門稲荷と言われ少しの位置の変更も無く昔のままに祀られてあります。≫(栃木名所旧蹟物語、大浦倉蔵編より)
ただ、稲荷神社は栃木駅の高架化や道路新設等の影響により移転を余儀なくされ現在の場所に祀られています。
自分で想定した本丸や二の丸三の丸の配置ですが、栃木城跡をあらわした条件が上手く合わない項目(城の大手口表門や裏門の位置)が有るので間違っているのでしょう。ジグソーパズルでは有りませんが、どの位置に置けばすべてがマッチするのか、まだまだ難題だらけです。


今日の一枚 [草花]

明日からゴールデンウィークがスタートします。
そんな今日も朝からスッキリとした青空が広がっています。太平山も山全体が新緑で輝いています。
チョッと自転車に乗って近くの「錦着山」の写真を撮りに行ってきました。
「錦着山」は4月は桜、5月はツツジ・新緑で化粧をします。
皆川街道の箱森町五差路の先で左に分岐する道路は、真直ぐに錦着山の東麓に突き当たる道路ですが、私が子供の頃は皆川街道との分岐の所に、錦着山山頂に祀られている護国神社の石の鳥居が有り、春には鳥居を潜ると錦着山まで桜のトンネルが出来ました。
その後石の鳥居は錦着山東麓の登り口に移され、桜のトンネルと成った道路も中間点でバイパス道路が通り、桜の樹も老木と成ってすっかり無くなって寂しくなりました。
でも今又、八重桜が育ってきて結構見応えする風景が戻って来ました。
錦着山.jpg

栃木駅の「吾一からくり時計」楽しそう。

栃木駅の構内に設置された「吾一からくり時計」がお披露目されたので、4月の頭に早速見に行ってきました。
設置場所はこれまでも有った駅構内隅の「栃木市観光案内所」のブース上部に成ります。
吾一カラクリ時計1.jpg
(栃木駅構内の隅に設置された「栃木市観光案内所」)
設定された時間に成ると「栃木市観光案内所」の看板が下に収納され、そのうしろから「からくり時計」が現れるしくみです。
吾一カラクリ時計2.jpg
(観光案内所の屋根上の看板が下がると、からくり時計の舞台が現れる)
白壁土蔵と見世蔵そして手前は「巴波川」でしょう、小舟が右へ左へと移動します。川べりの通りを人力車が走り、風呂敷包を背負った吾一少年が話しかけます。
そして又、見世蔵のひとつがスライドすると、御馴染みの静御前の人形山車が軽やかなお囃子の音と共に現れます。
吾一カラクリ時計3.jpg吾一カラクリ時計4.jpg
(可愛らしい人形が動き回ります)   (静御前の人形山車が左右に向きを変えます)
こうした観光客に対応した「からくり時計」は多くの街の中に設置されています。昨年、長野県の諏訪大社を訪れた時、参道の入口脇に「御柱祭木落し」をモチーフにしたカラクリ時計(オルゴール塔)を目にしました。
諏訪大社カラクリ時計1.jpg諏訪大社カラクリ時計2.jpg
(長野県諏訪大社参道脇に設置されている「オルゴール塔」)
又、近くの街にも沢山有ります。最近では上三川町や足利市でカラクリ時計を目にしていますが、どれも動いている所は残念ながら見られていません。
上三川町カラクリ時計.jpg足利市カラクリ時計.jpg
(上三川町のカラクリ時計「夢のジャングルジム」)(足利市のカラクリ時計)
こうしたカラクリ時計は、設置後の維持管理が重要になります。又、カラクリが作動する頻度が少なく、なかなか動いている所を見る事が出来ないのが残念です。
ちなみに吾一からくり時計の場合は、8時から16時の間で、平日は2時間、土日祝日は1時間の間隔での作動になります。また、諏訪大社前のオルゴール塔は8時から16時の間、20分間隔でオルゴール奏鳴と合わせてからくりが作動する様です。
丁度その時間に見る事が出来たならラッキーですね。

昭和初期の看板建築が残る石岡市へ [歩く]

そこは、まるで昭和初期の映画撮影セットの様な商店が建ち並んでいます。
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茨城県石岡市国府・府中の旧水戸街道の町並み)
茨城県石岡市、私の住む栃木市からも東の方向に望む事の出来る、加波山から筑波山に連なる筑波山地の東麓に広がる街です。その石岡市の東側に位置する常陸府中は、奈良時代に栃木市と同じように常陸国の国府が置かれました。府中の街の北側には常陸国分寺や常陸国分尼寺も建てられました。
江戸時代に入って元禄13年(1700)には水戸徳川家の分家と成る松平頼隆が、常陸府中藩主として入封、その城下町として栄えました。
この街の中央をほぼ縦貫する形に成る街道は、かっての水戸街道でここ府中宿は千住宿から14番目の宿場町でも有りました。
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(店頭の街灯が趣の有る蕎麦店「東京庵」)
現在、町の中央部に多く残る昭和5年から7年頃に建てられた看板建築と言うスタイルの店舗兼住宅は、昭和4年(1929)3月14日に発生した「石岡大火」により、石岡町の中心市街地の4分の1を焼失した為、その後の復興において、その当時流行していた「看板建築」が多く建てられ、まさに映画のオープンセットの様な町並みが出来上がりました。
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(最上部に屋号を掲げた「玉川屋」の味の有る看板建築)
現在では既にシャッターを下ろした店舗も見られますが、多くが今も商売を続けておられます。
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(十七屋履物店:昭和5年建築、木造2階建て看板建築) 
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(久松商店:昭和5年建築、木造2階建て看板建築)
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(福島屋砂糖店:昭和6年建築、木造2階建て商家建築)
そんな建物のいくつかは「登録有形文化財」に指定されています。
私が車を駐車したのはその町の中心地に建つ「丁子屋」脇の駐車場でした。
石岡市5.jpg石岡市10.jpg
(丁子屋店舗:江戸時代末期、木造2階建ての商家建築)
この建物も江戸時代末期に建築された建物で、元は染物屋だったと有りますが、現在は観光施設の「まち蔵藍」と成っています。先の「石岡大火」の難からも逃れて残った貴重な建物で、中は駄菓子屋風で、お土産なども販売していました。
この「丁子屋」から直ぐ南の道路際に大きな石の鳥居が建って、その参道の奥に立派な社殿が見えます。「金刀比羅神社」で、祭神は大物主神です。≪文政10年(1827)讃岐国象頭山(香川県琴平山)の金毘羅大権現の御分霊を勧進して、「こんぴら信仰」のよりどころとして多くの人々の参詣を集めている。≫と参道脇の案内板に記されていました。
石岡市2.jpg石岡市3.jpg
(国府平の森 金刀比羅神社の社殿)   (神社参道右手に建つ、正岡子規の句碑)
又、境内には正岡子規が第一高等中学校在学中の明治22年(1889)春、水戸の学友を訪ねて徒歩で旅行し、その時著した「水戸紀行」の中に、≪二日目は、小雨の中土浦「總宜園」(跡地に句碑有)で霞ヶ浦を眺め、「醤油の名所、石岡まで辿りつき萬屋に宿を定め」る。≫と石岡に1泊している事を記した案内板と、「二日路は筑波にそふて日ぞ長き」の句碑が建てられていました。

現在は市街地に入る南側にて国道6号線が分岐して、東側をバイパスする様に北東方向に伸びています。多くの車がこの分岐で右に進み、左の旧道に入ってくるのは少なくなっています。

栃木総合運動公園のサトザクラが満開に [草花]

今日は久しぶりに総合運動公園方面を歩きました。
ソメイヨシノは既に葉桜に成っていますが、今、陸上競技場や硬式野球周辺の桜が満開になっています。
何と言う桜なのか、木に付けられたプレートを確認すると、「サトザクラ オオシマザクラを母種とした園芸品種 開花期おそく花は大形の八重咲きが多い」と記されていました。
実際、陸上競技場の裏手の外周路(ジョギングコースと成っています)を歩くと、濃いピンク色や白色、そして薄緑色などの八重咲きの花をビッシリと付けた枝が、重そうに垂れ下がっています。
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(野球場周辺は濃いピンク色のサトザクラ)
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(陸上競技場の裏手は、色々な色のサトザクラを楽しめます。)
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(薄いピンク色のサトザクラ)
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(濃いピンク色のサトザクラ)
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(薄緑色のサトザクラ)
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(白色に少しピンク色が入ったサトザクラ)

家に戻ってインターネットで「サトザクラ」を検索してみると200以上の品種が有ると言います。改めて桜の花の品種の多いのに驚くばかりです。

永野川沿いを歩き、榎本城址と榎本宿を巡る [歩く]

私が所属している歩く会の4月例会が去る14日に行われました。今回は大平町の運動公園から永野川の土手上の道を歩いて下り、大平町真弓から榎本まで行き、永野川左岸の榎本城址周辺からその南側の榎本宿の寺社等を、現地榎本に住む会員の案内で巡って来ました。
永野川沿いを歩き榎本宿を巡る1.jpg
永野川沿いを歩き榎本宿を巡る2.jpg
(大平町運動公園から榎本宿までの、永野川沿いの歩行ルートとポイント)
※説明図には、永野川の現在の流れに合わせて、明治初期に作られた迅速測図に表わされた大きく左右に蛇行を繰り返す永野川の旧河道の様子も表示しました。

大平町運動公園を出発して最初に向かった所は、真弓地区の北端に有る「磯山」(真弓山とも称していた)。西側の山の斜面から登り山頂に有る天狗岩へ、標高51メートル、比高は僅か15メートル余りの小さな山ですが、しょっぱなからの坂道に、早くも息が上がります。
天狗岩の上からは北西方向に、太平山や晃石山の山並みが連なっています。手前に栃木市立大平中学校の新築された校舎が有り、左手方向に目をやると、大平町の桜の名所「さくら通り」の桜並木がまだ満開の状態を見せています。
磯山山頂天狗岩より西方を望む.jpg
(大平町真弓の磯山山頂、天狗岩からの眺望)
この磯山の北側部分は「天狗岩」など大きな岩肌を露出させていますが、南側中腹には、下野押領使藤原秀郷が信濃一の宮諏訪神社を勧進して創立したと伝える、元郷社の「諏訪神社」が祀られています。
社殿前から南に真直ぐに続く参道を歩いて、永野川右岸に向かいます。
真弓諏訪神社参道.jpg
(諏訪神社参道、両側に杉の大木が続いています。)
町田橋を渡り永野川の左岸へ。黄色の絨毯を敷いた様な菜の花が群生する永野川の土手上の道を、川の流れと共に南に歩きます。春の陽光を浴びながら歩く川沿いの道は気持ちの良いものです。
途中、榎本宿の旧街道の中央を流れていた堀割の水を供給した永野川に設けられた「榎本堰」の取水口を見学。(元々は榎本城の濠へ供給していたものか?)
榎本堰.jpg
(コンクリート製の堰が永野川を横切り、左岸の取水口を抜けた用水堀が榎本へのびる)
榎本堰から少し歩くと、永野川の東側真弓南部地区に成ります。この地域にかつての小山氏の出城「榎本城」が有りました。
ここで最初に訪れたのが、集落に一番北側うっそうとした竹林に埋もれる様に一軒の大きな家屋。既に住んでおられる方も無く、屋根の大棟や軒の瓦も一部落ちています。この家は「大平町誌」の郷土出身の人物でも大きく取り上げられている、川連虎一郎義路の実家に成ります。
「川連虎一郎義路」は真弓村関宿藩領の割本名主、川連一郎兵衛義種の子。尊王攘夷の志士たちと交わり、水戸天狗党が太平山に滞留した時、藤田小四郎と通じ、軍用金や兵糧を献じた。元治元年(1864)8月3日、佐幕派の関宿藩家老杉山対軒派に捕えられ、洲崎で斬首されました。23歳であったと云います。
そこから更に少し南に行った道路の脇に「大平町史跡 榎本城跡」と刻した石碑が建てられ、石碑の後方にその説明板が建てられています。
榎本城址.jpg
(永野川左岸土手上から榎本城跡を眺める。中央奥の林の手前に石碑が建っている)
榎本城址の碑.jpg
(「大平町史跡 榎本城跡」の石碑と説明文を見る、歩く会の参加者)
城の跡は殆どが田畑と成ってしまっていますが、石碑後方の林の中に僅かに濠や土塁の跡らしき地形を覗う事が出来ます。
榎本城堀跡.jpg観音堂旧蹟.jpg
(榎本城の濠跡らしき地形)             (木立の中に建てられた石碑と祠)
石碑後方の林の南側に回り込むと、濠の跡らしき地形が残っている。又その林の中に入って見ると中に小さな石の祠脇に、「観音堂旧蹟」と刻された石碑が建っています。石碑の建てられた時期は碑陰の日付で、「大正十一年三月」と分かりますが、実際この場所に観音堂が何時まで建っていたのか?又、現在近くに有る「真弓南部公民館」の所に建つ観音堂との関係はどうなのか、分からなかった。

此処榎本城の建てられた場所は現在の住所区分では「栃木市大平町真弓」と成っています。最近までなぜ真弓に有るのに真弓城とせずに榎本城としたのかチョッと不思議に思っていました。
又、榎本はその真弓の南隣りの集落で「榎本宿」の有った地名で有るとこれまで考えていましたが、改めて大平町の地名を調べて見ると「下都賀郡小志」の中に、「榎本」は明治7年(1874)4月に榎本村に改名していて、それ以前は東水代村と称したと有り、更に時代を遡ると延喜年間(901~922)に、西御正水代郷水代村が分かって二村となり、西水代と東水代と成ったと有ります。
一方「真弓」は、明治22年(1889)4月1日合併によって「瑞穂村大字真弓」と成りましたが、それ以前は真弓村と称しました。更に時代を遡ると、西御庄榎本郷と称したと有りました。「真弓」が「榎本」だったのです。
ここで、「西御正」とか「西御庄」と有るのは「下都賀郡小志」に記載されたものをそのまま記しましたが、「西御荘」のことと考えます。平安末期に摂関家領荘園として立荘されたと言われる「中泉荘」で、旧栃木市の中央南部、旧大平町、小山市の西の一部、旧岩舟町の東の一部、旧藤岡町の北の一部などを包含する地域。「西御荘」とも記されている。(角川地名大辞典より抜粋)事を知りました。

榎本城跡を後に、南隣りの「大平町榎本」に向かいます。
榎本宿については以前(2015年3月24日付け)、「大平町榎本宿の事」と題して書きましたので、今回は見て歩いた場所について記します。
榎本宿旧街道(東西方向).jpg
(榎本宿を横断している旧街道。宿の東側から西方向を望む。突き当りが八坂神社)
榎本宿旧街道(南北方向).jpg
(榎本宿を縦断する旧街道。南方向を望む。道路両側の堀は暗渠化されている。)
榎本宿の石仏.jpg榎本宿の常夜燈.jpg
(旧街道沿いに建つ野仏。後方の大屋根は榎本大中寺)(県道36号の南側に建つ常夜燈)
妙性院.jpg近藤出羽守綱秀の墓.jpg
(榎本宿南の端と成る寺院「妙性院」)    (妙性院境内に有る近藤出羽守綱秀の墓)
復旧した千部橋.jpg橋中央部が流失した千部橋.jpg
(復旧して通行可能と成った旧千部橋)(2015年9月の豪雨で中央部が流失した旧千部橋)
2015年9月に発生した豪雨の影響にて流出して通行不能となった、永野川に架かる「旧千部橋」は現在復旧されて通行が可能になっていました。
この橋の直ぐ上流側に県道36号(岩舟小山線・旧国道50号線)には昭和37年(1962)1月竣功の「千部橋」が有る為、通行には大きな影響は有りませんでした。元々この「旧千部橋」は昭和9年(1934)3月に架橋された老朽化が指摘されていました。同じく榎本地区北側に架橋されている「両明橋」も同じ昭和9年竣功でしたが、両明橋は豪雨が発生した1か月前にたまたま修繕が行われていた為、難を逃れています。
修繕後両明橋.jpg両明橋57年1月.jpg
(2015年8月修繕された両明橋)     (旧千部橋と同じ昭和9年竣功、修繕前の姿)

千部橋を見学した後は、永野川を遡り再度榎本宿内に戻り、宿の西に建つ大中寺と八坂神社へ。大中寺では本堂の裏手の墓地の一番奥に建つ「本多大隅守忠純の墓」を確認しました。
本多大隅守忠純の墓.jpg
(本多大隅守忠純の墓)
手前に建てられた説明板によると、≪忠純は徳川家康の懐刀といわれた宇都宮城主本多上野介正純の実弟であり、榎本城二万八千石の城主である。≫と記されていました。
榎本村の旧村社八坂神社は榎本宿を横断する旧街道が宿の西の端で直角に折れ、南に向かうところの西の突き当りに鎮座しています。本殿部分は覆屋で保護されています。中を覗くと本殿左右の側面そして背面の胴羽目に立派な彫刻が施されています。
榎本八坂神社.jpg八坂神社本殿彫刻.jpg
(八坂神社正面鳥居越しに拝殿を拝する)    (本殿側面の胴羽目彫刻)

永野川に架かる「両明橋」を渡り橋詰の天台宗寺院「東明寺」を見た後、永野川右岸の土手上の道を遡ると、東明寺の裏手に永野川の旧河道の名残りが確認出来ます。河川改修で以前東側の榎本だった所が川の西側に1軒残されてしまったそうです。
永野川右岸に残る旧河道.jpg西野田本郷の尊武神社.jpg
(永野川右岸に出来た旧河道の跡)        (大平町西野田本郷に有る「尊武神社)
最後に訪れたのは、西野田本郷の集落の外れにポツンと建つ小さな神社で、社殿の前に赤く塗られた鳥居がひとつ建てられていました。鳥居にも社殿にも神額等は掲げられていない為、説明を受けないとどのような神社なのか分かりません。
説明に依ると、初代榎本城主「美濃守高綱が自刃の地近くに有り、「タカツナサマ」と呼ばれているそうです。この場所は丁度永野川の対岸(東側)に榎本城が有ります。この榎本城主美濃守高綱が自刃に至った経緯については、「大平町誌」の中世・榎本城を説明した中で、「下都賀郡誌」の掲載文と、この西野田本郷の「タカツナサマ」(尊武神社)の写真を載せています。

私はこれまで歩いたり自転車に乗ったりして、榎本周辺を何度か巡っていますが、今回案内された地元の人でなければ気が付かない場所を確認する事が出来、満足した「歩く会」に成りました。
榎本堰を横目に帰路に就く.jpg
(永野川の榎本堰を横目に、右岸の土手上の道を歩いて帰路に)

平柳星宮神社の御神楽祭 [祭]

去る4月13日(木)に、栃木市平柳町一丁目に鎮座する「星宮神社」にて行われた、「御神楽祭」を見に行ってきました。
3月ごろから市内をウォーキングしている時に、街中にて「星宮神社御神楽祭」のポスターを見かけるようになっていました。昨年はポスターに気が付いた時には、既に終わった後だったので、今年は忘れず必ず見に行こうと心掛けていました。
御神楽祭ポスター.jpg平柳星宮神社1.jpg
こうした神社にて行われるお神楽は、その地域その町で守り引き継がれているのでしょうが、なかなか見る機会が有りません。私はこれまで旭町神明宮や都賀町家中の鷲宮神社それから柳橋町の日限富士浅間神社で行われているお神楽を見ていますが、平柳星宮神社は初めてでした。
今年の平柳星宮神社の御神楽祭は、天候に恵まれ、青空の下時折強く吹く春風に、境内の桜が花びらを舞わせています。それが丁度神楽殿で舞う御神楽と共演して、一段と鮮やかな祭りの風景を醸し出していました。
午前11時前に会場に向かいました、平日の午前中という事で境内にはまだ数名の人影しか有りません。氏子等関係者の皆さんは10時から拝殿内で行われている「大前の儀」に参列している様でした。私もまず拝殿前で参拝を済ませ、御神楽の始まるのを待つ事に。
平柳星宮神社2.jpg
やはりこうしたお祭りにもマニアの方がいらっしゃるのか、ビデオカメラを三脚にセットして、御神楽の一部始終をビデオに収める様です。
予定通り11時には「御神楽の儀」が始まりました。
お神楽(式射).jpgお神楽(幣舞).jpg
最初は「式射」、これは二人の舞手が弓矢にて四方、四隅、天地を祓い神楽殿を清浄にする舞であると説明されています。次に「幣舞」(祭主の舞)、祭主が御幣を持ち四方、四隅、〇(和)、☐(四季)、△(天・地・人)と舞って天下泰平、五穀豊穣をお祈りする舞。
お神楽(翁の舞).jpgお神楽(春日の舞).jpg
続いて「翁の舞」住吉の大神(土地の長老)の五穀豊穣をお祈りする舞、「春日の舞」春日の大神(天児屋根命)の神徳を称える舞へと続きます。
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次いで「猿田彦の舞」(天狗の舞)、そして午前の部の一番の見せ場と成る「岩戸開きの舞」へと移ります。
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(面白おかしく舞う「天細女命」)              (岩戸を開く「手力男命」の舞)
「天の岩戸」の神話は有名なお話です。「天の岩戸」に御隠れに成った天照大御神(アマテラスオオミカミ)を、岩屋の前で芸能の神「天細女命」(アメノウズメノミコト)が面白おかしく舞って、その賑わいに外の様子を伺おうとした天照大御神を、「手力男命」(テジカラオノミコト)が岩戸を開き、お出まし頂く事が出来、これにより世の中が再び明るく平和に成ったと言うものです。
お神楽(岩戸開きの舞)3.jpg
(しずしずと天の岩戸からお出ましに成る「天照大御神」)
こうして午前の部が終了。休憩の後1時30分から午後の部に成りますが、私はここで帰宅。
午後の部ではお宝撒きも行われると有って少し残念でした。
平柳星宮神社3.jpg
今回の御神楽を演じたのは、大平町横堀の御神楽保存会の皆様でした。何時までも継承される事を願います。



今日の一枚 [草花]

今日は栃木市と鹿沼市との境を流れる思川の右岸、栃木市西方町に有る「小倉川カッパ広場」の桜堤に行きました。午後になって男体山が我家から良く見える様になっていたので、もっと近くで満開の桜と雪化粧の日光連山を一緒に撮れないかと、カッパ広場の桜堤を選びました。
目的地の近くまで来た時、丁度カッパ広場の東側を通る東武日光線に特急スペーシアが通過するでは有りませんか。急いで車を停めて後部座席からカメラ取り出し、必死でズームアップしてシャッタを切りました。
桜と特急スペーシア.jpg
偶然に撮れた今日の一枚です。

「小平橋の桜」今年の撮り納め [草花]

先週の金曜日に満開と成った「小平橋の桜」、その後4日間が過ぎました。
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今日の午前中少し青空が顔を出したので、今年の桜の撮り納めをしようと、「小平橋」に出掛けました。
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桜の樹の下は、昨日降った雨の影響も有り、花びらが落ちて薄っすらと雪が降った後の様です。
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それでもまだまだ満開の桜に見とれてしまいます。
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良く見ると少し緑の葉が顔を出し始めています。
小平橋の桜撮り納め5.jpg
今年も十分に私の目を楽しませてくれました。
小平橋の桜撮り納め6.jpg
今日まで「小平橋の桜」にお付き合いを頂き、ありがとうございました。

お花見ウォーク [歩く]

今日は天気予報通り、午前中は小雨が残っていましたが、お昼を過ぎる頃には明るくなって青空が姿を現してきました。気温もお昼の時点で19.9℃と成り、最高温度は23℃を越える暖かさと成りました。
昨日、「小平橋の桜」の満開を確認していたので、さっそく永野川緑地公園へ行って見る事に。午後2時過ぎに家を出発。セーターも薄手のジャンパーも抜いて、ポロシャツのまま出かけました。
初めに錦着山の桜を見る為、山に登りました。標高80.5メートルというものの、最近はチョッと抵抗が有ります。
満開の桜の花越しに栃木の街を見ると、いつも見ている景色がより鮮やかに感じます。
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(錦着山より太平山を望む。テレビでは太平山の桜は、七分咲きと言っていました)
花見ウォークはまだ先が有ります。早々に錦着山を下り、永野川に架かる「上人橋」を渡り、永野川緑地公園へ向かいます。
「上人橋」の上から見る永野川上流を望むと、右岸に広がる緑地公園の桜並木が、太陽の光を受けて薄いピンク色に輝いて見えました。
永野川緑地公園は私が3年間通学して「栃木県立栃木工業高校」を東側から北側を囲むように広がっています。今日も多くの花見客が満開の桜の花を楽しんでいました。
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(永野川緑地公園の桜)
桜並木は現在永野川の両岸に有りますが、今回は永野川右岸の堤を「上人橋」から上流側の「大岩橋」に向かって歩きました。その間桜の並木は約800メートル有りますが、どれも花の付きも良くボリュウムたっぷりでした。
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(永野川緑地公園の桜)
緑地公園の桜を満喫した後、更に永野川上流に向かいます。
向かう先は「宮の桜堤」です。ここまで歩いて来ると陽射しが暑く感じて来て、木陰が恋しくなりますが、この時期なかなか木陰は有りません。皆川街道(県道75号、栃木佐野線)を渡り、東北自動車道の下を潜った先で側道を左に入り、永野川左岸の堤に向かいます。
永野川に架かる東北自動車道の橋梁の直ぐ北から、永野川左岸を北にのびる堤にビッシリと年季の入った桜の樹が、満開の花を付けて遥か先まで続いています。
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(皆川城内町の桜並木から宮の桜並木方向を望む)
この桜並木は、約1400メートル程続いています。しかし実際の「宮の桜」は北側の半分ほどで、南側の半分は「皆川城内町」の桜並木に成ります。
この桜並木には、ここの所毎年花見に来ていますが、なかなか満開のタイミングで見られるのは難しく、これまでも二三度しか有りません。今日は青空も出て暖かくてしかも満開、最高で大満足です。
帰り道も桜並木の有る新井町に寄って行きます。ここは東北自動車道の栃木インターの南側に当たり、桜の並木は約600メートル有ります。まだ樹は若いですが、ここも満開で私を迎えてくれました。
新井町の桜.jpg
(新井町の桜並木)
満開の桜に誘われて、足の疲れも忘れ歩きました。程よい汗もかく事が出来ました。今日の総歩数は17、627歩でした。