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今日の一枚 「虹」 [自然の恵み]

虹.jpg
今日の夕方、外出先からの帰宅途中、美しい虹が東の空に現れました。
急いで車を道路の脇に停め、ハザードランプを作動させ、カメラを取り出して撮影をしました。するとたちまち私の車の前後に数台の車が止まりだし、みんなこの虹の写真を撮り出しました。
ところが、私のカメラでは、目の前に現れた虹全体を捉える事が出来ません。
従って「今日の一枚」は、4枚の写真を合成して作ったものです。でもこれが私が見た「虹」そのもので、このように完全な姿の「虹」を、私は生まれて初めて見ました。
この「虹」も数分で姿を消して行ってしまいました。

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栃木第二公園の築山上に建つ「藤田高綱先生之碑」 [石碑]

栃木市旭町の神明宮南隣りに位置する「栃木第二公園」は、私が小学生時代に遊び場としていた公園です。
公園には大きな噴水池や池の東側に築山が有り、そこで木登りをしたりして遊んでいました。
第二公園噴水池.jpg
(栃木第二公園の噴水のある池。バックの高い木が茂ってるところが築山)
第二公園内にはこれまでも紹介をした「日下開山二代横綱力士綾川五郎次碑」の石碑や、第二代栃木県令と成った「正五位藤川君碑銘」などの石碑が建てられています。
今回は先の築山の上に建てられている、「藤田高綱先生之碑」について調べてみました。
今日さっそく石碑の建つ「栃木第二公園」の築山に行ってきました。丁度築山の上には赤い曼珠沙華の花が沢山咲いていました。
第二公園築山上の石碑.jpg
(今、赤い曼珠沙華の花が咲く築山の上に建っている「藤田高綱先生之碑」)
石碑は大小2期建てられ、背が高く大きな石碑は、≪大正十年九月二代目藤田錦太郎正綱ノ時建之≫と碑陰左側に刻されています。
石碑正面上部に四角に囲んで「藤田高綱先生之碑」を篆書体文字で書かれている。篆額と碑文は≪大正五年四月 平安 劉須撰併書≫と記されている通り、明治34年3月31日から大正3年12月27日まで栃木県立栃木中学校(現栃木県立栃木高等学校)の第二代校長を勤めた人物です。
藤田高綱先生之碑.jpg藤田高綱先生追悼.jpg
(劉須先生の撰併書による碑文の石碑) (左横に建てられた「藤田高綱先生追悼之碑」)
碑陰を見ると「寄附者芳名」と下側に「発起者」とが連刻されていますが、当初の人数より寄附者が増えてしまった為なのか、枠からはみ出る様に、石碑の裏面一杯に名前が刻されています。
寄附者の芳名欄を見て行くと、最初に「栃木町」として「県立栃木中学校」の文字が有りました。これは碑文の中に記されている様に「藤田高綱」が明治35年5月より、栃木中学校の剣道指南をされていた由縁です。
他に栃木町関係者の名は80名に及びます。その他「北犬飼村」25名、「富山村」20名、この中には「下皆川青年会」の文字も見えます。「岩舟村」13名、「小野寺村」18名、「南摩村」9名、「粟野町」6名、「清洲村」10名、「結城町」5名、「栃木警察署員」34名、「吉田村」3名、「地方部」21名、「親戚」4名。その他枠外となられた方が25名も有ります。
碑陰下側の「発起人」欄を見ると、「有志」として10名の名前、次に「門人」として41名が名前を連ねています。
私はこの「藤田高綱」と言う人物がどのような人であったか、全く知らなかったのでインターネット検索に頼って、「藤田高綱」と打ち込むと、「栃木武徳殿」のページ情報facebookの検索結果が表示されました。
それを開いて見ると、画面に雪が降り積もる「栃木武徳殿」の建物に目を奪われます。素敵な写真です。
そこに「藤田高綱」の名前が出ていました。その内容を引用させて頂きます。
≪藤田高綱は、若年から文武両道を修め剣術の腕前は郡を抜いていた。やがて宇都宮藩主・戸田越前守の江戸邸に勤め、信心流剣法・下江又市の門に入り文久3年宇都宮藩の剣術指南役となる。明治15年下毛存武社という剣道場創設、のちに尊武館と改める。高綱はさらに、信武館道場を設立、下都賀を中心に上都賀、河内、安蘇郡下から県外結城にまでいたった。≫
と説明されています。まさに碑陰の寄付者の地域の広さがそこにも表わされています。

さて、「栃木武徳殿」の建物は私も以前から興味を持っている建物です。今日も足を運んで写真を撮って来ました。
武徳殿全景.jpg
(「栃木武徳殿」の建物全景)
この建物は先の「藤田高綱」先生の尽力により、明治44年4月3日に開設されたもので、現在は栃木市が管理をしている様です。
武徳殿玄関部.jpg
(玄関部分、入口上部に「武徳殿」の扁額)
現在入口左側に「栃木市剣道連盟道場」と「武徳殿剣道少年団」の木札が掲げられています。

昭和53年(1978)6月に私が撮影した、武徳殿の写真が有りました。そこには「青雲館道場」の扁額が写っています。
1978年6月青雲館道場 (5).jpg1978年6月青雲館道場 (4).jpg
道場では豆剣士たちが稽古に励んでいる様子が、垣間見られます。剣道や柔道などの武道は、「礼に始まり礼に終わる」と言います。躾がきちっとされている様子が、玄関先の下駄箱や土間に並んだ靴が整列されている所にも覗われる写真です。
「栃木青雲館」に関しては、ホームページが公開されていました。その中の説明を引用させて頂きます。
≪栃木青雲館創設は昭和28年にさかのぼります。戦後間もなく剣道が復興、繁栄し始めた頃、現在の栃木武徳殿に先生方が集まり稽古をする中で、子供の入門が少しずつ増えていくことがきっかけとなり初代館長石沢先生が栃木市内初の少年剣道場として、栃木青雲館が開かれました。≫
と、記されています。上の写真を撮影した当時は、「栃木青雲館」が武徳殿の道場を練習場としていたものでしょう。
栃木武徳殿のこの建物、栃木市剣道界のレガシーとして、保存と活用を続けて欲しいと思いました。
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古河 歴史と伝統が息づく町を歩く [歩く]

今日は、「歴史と文化を歩く会-栃木-」のメンバー20名で、茨城県古河市の街を、「古河市観光ボランタリーガイド協会」の方に案内をお願いをして巡って来ました。
JR古河駅西口前にてガイドの方と待ち合わせを行い、いざ古河の街巡りスタートです。
古河駅前.jpg
(本日のスタートとゴール地点、JR古河駅西口)
最初にガイドさんから古河市の成り立ちと現況について、説明が有りました。
≪平成17年に古河市と三和町・総和町とが合併して現在の古河市に成り、現在14万4千人ですが、人口は減少している。≫これは、大方の地方都市に共通して言える事で、私達の栃木市も同様です。
≪その歴史は、800年前、下河辺氏がこの地に入った、その当時は砦程度か。室町時代に古河公方が館を構え、江戸時代には徳川家の大老職や老中職と成った譜代大名が、古河城主となっている。その中でも特に土井家は150年間古河城主と成っている。≫説明はもっと細かく話されていましたが、私の頭に入って残ったのはこの程度。さすがに地元のガイドを20年もされてきているベテランだと最初から関心させられました。
最初に向かった所は、「日光道中古河宿道標」です。
現在古河の街中を縦貫するメインストリートは鍛治町通りとの交差点の北側にも直進して抜けていますが、この北に抜ける道路は昭和13年に開通していて、以前の日光道中は南側から古河宿内を北上この場所で突き当たると、日光道は左へ、右は筑波道と左右に分かれ、日光道中は左に折れた後140メートル程で直ぐ又折れて北方向に進んで行きます。この形態は栃木市の万町交番前交差点と同じです。
江戸時代、日光例幣使街道栃木宿の北の木戸が有った、現在の万町交番前交差点から北側に直進する道路は「北関門道路」と呼ばれ、昭和7年に開通。それ以前は古河宿と同じように左に折れた後60メートル程で再び北に折れ、嘉右衛門新田を抜ける道路と成っています。
古河市の道標は大きな四角柱で上部は常夜燈の形状。南面に「左日光道」、西面には「右江戸衜」と大きく刻されています。東面には「東筑波山」と大きく刻されその下に、「下妻・結城」他もう一つ地名が小さく刻されています(江川と読めそう)。北面にはこの常夜灯を建てた年月や建てた人の名前、揮毫した人の名前等が刻されています。常夜燈の脇に古河市教育委員会による説明板が建てられていました。
道標南東面.jpg道標北西面.jpg日光道中道標説明板.jpg
(日光道中道標南東側) (道標北西側)        (道標脇に立てられている説明板)
次は西に向かう「日光道中」へ。この辺りは「かぎのて銀座」と呼ばれ、かっては賑わった場所だったと言います。
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(道標の建つ交差点から西に入った通り、「かぎのて銀座」)
その先の交差点にて右に曲って北に向かう道路が日光道中。現在は「よこまち柳通り」と言うこの通りは、明治期から昭和初期に花柳界で賑わっていた所と言います。現在は「武蔵屋」という立派な店構えのお店がその名残を伝えています。
よこまち柳通り.jpg武蔵屋.jpg
(旧日光街道、現在は「よこまち柳通り」以前は花柳界が有り賑わっていた)(武蔵屋さん)
私達はその建物を遠目に見て、西側の「杉並通り」方向に歩きます。
「杉並通り」は、通りの北側に江戸時代が偲ばれる武家屋敷の面影を残すお屋敷が目を見張ります。
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(武家屋敷の面影残す「杉並通り」を歩く)
次に訪れた所は土井家も菩提寺「正定寺」です。境内東側の入口に建つ「黒門」は、昭和8年文京区に有った土井家の江戸下屋敷から移築されました。
正定寺表門.jpg正定寺黒門.jpg
(正定寺の朱塗りの門、手前右手にかつて池が有り弁財天が祀られていた)(黒門を見学)
境内にて古河領内高島村(現在の栃木市大平町)出身の、徳川四代将軍家綱公の生母「お楽の方」の供養塔や、土井家墓所を見学しました。
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(「お楽の方」の供養塔、隣りが岩船地蔵尊)  (土井家墓所)
墓所の正面に建つ二基の宝篋印塔は初代土井利勝夫妻(左側が利勝、右側が奥方)を供養した物。墓所は元東京浅草の誓願寺に有ったもので、大正12年の関東大震災後の東京復興計画によって移転をせまられ、昭和2年に当地に移されたと言います。
次に永井路子旧宅を見学。
永井路子旧宅.jpg永井路子旧宅中庭.jpg
(歴史小説家・永井路子旧宅)        (店藏奥の和室縁側からの眺め)
計画では永井路子旧宅については、外から見学で予定していましたが、邸内に入り座敷にも上がって、旧宅内の雰囲気にも浸ることが出来ました。その為20分程の遅れが出て来ました。少しスピードをアップして次の見学予定の「古河歴史博物館」へ向かうことに。
煉瓦造りの建物.jpg古河第一小学校.jpg
(古河街角美術館と篆刻美術館の間の通りを南へ)(古河第一小学校の煉瓦門)
途中、煉瓦積みした建物が多く見かけられます。石畳みの通りを先に進みます。古河で一番古いと言う「古河第一小学校の東側に沿って南へ。この小学校、昨年改築されて新しい校舎に変わった様です。
雪華を刻した歩道.jpg
(歩道に敷き詰められた六角形の石畳には色々な図柄の雪華が描かれている)
足元の六角形の石畳みにひとつひとつ異なる六角形の図柄が刻されています。これらの図柄は藩主の土井利位が20年の歳月を掛けて観察を続け、183種の雪の結晶を「雪華図説」に著した図柄を刻したものだそうです。尚これらの雪の結晶の図柄は古河市内の小中学校の校章にも成っているとの事です。
途中、時間の関係で「古河文学館」前も素通りして、古河城の諏訪曲輪(出城)の跡に建てられた「古河歴史博物館」へ到着。ガイドさんより前もって館内の案内を博物館の学芸員の方にお願いして有りましたので、展示物の説明を詳しく聞く事が出来ました。
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(かつての古河城諏訪曲輪跡に建てられた、古河歴史博物館)
最初に受付横の展示ホールで、オランダ製の大きなストリートオルガンの生演奏を実演して頂きました。前もって大きな音が出ますとの説明がされましたが、実際予想以上の音量で驚きました。
館内の展示品の説明を聞きながら、後のスケジュールの時間が気に成って時々時計を確認、20分の遅れが解消されていません。もっと聞いていたいところですが、申し訳なかったのですが、途中で説明を打ち切って頂きました。
つぎは博物館を出てすぐ前の「鷹見泉石記念館」の見学へ。
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(鷹見泉石が最晩年を送った武家屋敷を平成2年に記念館として開館)
この建物は土井家の元家老を勤めた者が入った場合が多かった。元治元年には、水戸天狗党100名余が一時収容された屋敷でも有りました。
邸内にて天然記念物に指定されている古木「楓樹」や、古河城二ノ丸御殿に有ったと伝えられる石燈籠などを見学しました。
古河の町歩き5.jpg石燈籠.jpg
(江戸時代以来の古木「楓樹(ふうじゅ)」) (重量感たっぷりの石燈籠)
今日は、秋の彼岸の入りです。庭には赤い曼珠沙華の中に、白色の曼珠沙華の花も丁度咲いていました。
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(竹林には赤や白の曼珠沙華が咲いていました)
いよいよ帰りの電車の時間が迫って来ています。古河駅に12時丁度に戻る計画でしたが少し遅れるのがハッキリして来たのでこの後は、ゴールに向かって歩く事に。
両毛線が昼間のこの時間帯、1時間に1本の為、目的の電車に乗り遅れると、次1時間待ちと成ってしまう為です。それでも何とかガイドさんの案内で、最終的には時間に間に合わせて古河駅に到着する事が出来ました。
古河の町にはまだまだ見たい所が残っています。歴史博物館の展示物も、もっとゆっくりと鑑賞したいと感じました。
本日の総歩数は7,582歩でした。
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日暮れ後ウォーキングへ [歩く]

今朝は花火の音で目を覚ましました。今日の開催を知らせる花火です。今日は近くの栃木第三小学校の運動会の日です。
天気予報の通り曇り空、時折薄い雲を透かして白い太陽が現れます。気温は少しひんやりと感じられ、最近の残暑から一転した陽気です。幸い今日は一日曇り空と成って、体を動かすのにも苦にならない運動会日和に成りました。
ここ数日、30℃を越える気温で午後になると毎日のように青空に真っ白な積乱雲が黙々と湧きあがり、その後急に空気が冷たく変わると、決まった様に夕立となる為、暑さが治まった後のウォーキングも控えていました。
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(真っ青な空に湧き上がる積乱雲)
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(積乱雲をバックに、田圃の稲穂は重そうに頭を垂れています)

現在、台風18号がゆっくりと方向を東に変え沖縄から九州方向に進んできて、西日本に激しい風と雨をもたらしていますが、まだ私の住む栃木県は雲は多いものの、予報でも降雨は今夜遅く、日付が変わる頃と伝えていましたので、陽が暮れてから久しぶりのウォーキングに出掛けました。
巴波川沿いを歩くと、先日まで川岸にロープで結ばれていた川船が今日は見当たりません。先日歩いた時には、屋形の中に照明を付け影絵にして、御大尽の舟遊びの雰囲気を演出していました。
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(川面に浮かび上がる屋形船、後方に宵闇に沈む白壁土蔵)
屋形の障子に映る影は、花魁らしき女性が御大尽に御酌をしています。又一方では扇子を持って踊る芸者さんらしき影も。
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(屋形船の障子に映る人影が、巴波川の川面にも映る)
今日はもうこの風景も見られ無くなっていました。既に今年はこうした演出を終了したのか、それとも近づいて来ている台風に備えて、一時避難をしたものか。
今は光を失った巴波川を横目にウォーキングを続けました。
本日の総歩数は、9,052歩でした。

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蛇行の姿を今に留める旧赤津川(栃木市) [栃木市の河川と橋]

赤津川と言うと、昭和26年に竣工した分水路が出来るまで、幾度となく栃木の街に洪水をもたらした河川として知られた名前でしたが、先の赤津川分水路が開鑿されて、吹上町の新田橋下流部から真直ぐに南の方向に流して、錦着山北西部の泉川町地内にて西方向から流れて来た永野川の左岸に落す事で、栃木の街を洪水の災禍から解放をすることが出来ました。それまで吹上町から野中町、箱森町、小平町を激しく蛇行を繰り返し、巴波川に架かる小平橋の直ぐ下流部で右岸に合流していた以前の河道は、現在も旧赤津川として残っています。
その旧赤津川の河道も、栃木環状線(県道309号線)より北側は、栃木総合運動公園の造成と、その公園の前から環状線との間の区域で行われた「栃木市運動公園前土地区画整理事業」の竣工に伴い、その姿を大きく変えてしまいました。
運動公園前の住宅地を流れる旧赤津川.jpg
(運動公園から真直ぐに南方向に流れている現在の旧赤津川)
しかし、環状線の南側となる箱森町と小平町の区域を流れる「旧赤津川」の河道は、明治19年発行の地形図「迅速測図」に初めて描かれた時の河道とほぼ同じ姿を今に留めています。
国土地理院のホームページにて戦後の昭和22年頃から現在に至るまで撮影された栃木市街地の空中写真を閲覧することが出来ますが、戦後早々に米軍によって撮影された空中写真を見ると、その頃の旧赤津川流域の様子がハッキリと写っています。
現在、栃木外環道路の内側に位置する箱森町や小平町は、殆んどが宅地に変わっていますが、昭和22年の写真を見ると、一面に田んぼが広がり、集落は旧赤津川流域付近に点在をしているだけです。
この地域が住宅地に変化した要因として考えられるのは、県道32号線(栃木粕尾線)が栃木環状線を抜けて、大通りまでの間、従来の細い道路から拡張されて歩道付きの二車線道路に整備された事。更にいまだ完全な形には至っていないものの、この県道32号線から南の方向へ、小平団地を抜ける新道が部分的にでも開通した事で、従来田んぼの中に位置した星宮神社周辺が、全面的に住宅地に変わった事が、この地域から田んぼが消えた大きな要素と考えます。
それだけ大きく変化をしたこの地域に有って、以前からこの地を西に東に大きく蛇行を繰り返して流れていた旧赤津川だけはなぜ、昔の河川の姿を今も殆んど変わることなく現在に至ったのか。
ここまで文書だけでダラダラと説明して来た為、状況把握がもう少し理解して頂けるよう、この地域の河川の姿と周囲の姿を、模式図に表わしてみました。
旧赤津川流域模式図.jpg模式図の凡例.jpg
(箱森町・小平町を流れる旧赤津川とその周辺を模式図に描いた物)

模式図の右側部分上から下に向かって、荒川を合わせた巴波川が流れています。その他にこの箱森町から南の小平町にかけては、幾筋もの小さな水路が南流していますが、その中で大きくその流路を左右に蛇行させている河川が、旧赤津川です。
旧赤津川は模式図の左上「栃木環状線」と「県道32号線」が交差する「箱森町交差点」の東側、メンズプラザアオキ栃木店とユニクロ栃木店の間付近で、栃木環状線の下を潜って、南側に移ります。
環状線の下を抜ける旧赤津川.jpg
(栃木環状線の北側、メンズプラザアオキ栃木店の東側で暗渠化して道路を横断する)
そこから、近くの「はこのもり保育園」の西側を回り込む様にして流れて、県道32号線に沿って1本裏の道路沿いを東南東方向に流れています。
とちぎコミュニティープラザ.jpgはこのもり保育園.jpg
(旧赤津川左岸の建物は「はこのもり保育園」に併設されてる「とちぎコミュニテープラザ」)
がってん寿司栃木店やモスバーガー栃木店の北側を流れ、その先で県道32号線の下に潜り南側に流れを移していきます。
深町橋跡辺り.jpg
(モスバーガー栃木店の北側を流れる、旧赤津川の流れ)
以前は現在の河道より南側迄流れて来ていましたが、32号線の拡張工事に伴い現在の位置に変わりました。
深町橋(1991年)付近.jpg
(私が1991年に撮影した現在のモスバーガ栃木店の南側付近に有った深町橋)

現在、拡張された県道32号線の下を潜る場所に橋らしい構造物は有りませんが、以前はこのところに「赤津川橋」と称する橋が架かっていました。しかし今この場所で昔の名残を留めてるのは、橋の北側に建つ長い板塀に囲まれた旧家だけに成りました。
現在の赤津川橋辺り.jpg1980年赤津川橋 周辺.jpg
(暗渠化され県道の下を潜る旧赤津川)(1980年に撮影した赤津川橋、後方の家は今も変わらない)
旧赤津川は県道の南側に移ると、新しく開発された住宅地の中を160メートル程南流して、星宮神社の西側で又90度流れを変え西方向に180メートル程流れて行き、再度流れを南に変えています。
星宮神社北西部付近.jpg
(星宮神社北西部の新しい住宅地の入口付近から、流れを西に変えた旧赤津川)
新しい住宅地から西に流れるとこの辺では少なくなった田んぼの中を流れて行きます。
小平町入口付近.jpg
(旧赤津川の両側には収穫期を迎えた田んぼ、川岸にはヒハンバナが咲いています)
この辺りが旧赤津川の蛇行が一番西側に寄った所で、橋の東側に「小平町入口」の表示板が建てられています。橋の西側には、明治30年(1897)に敷設され、昭和5年(1930)にそのルートを変更する迄、鍋山人車鉄道が通っていた、旧鍋山街道が走っています。
旧鍋山街道脇を流れる旧赤津川.jpg
(旧鍋山街道の東側に沿って流れる旧赤津川)
旧鍋山街道によって行く手を阻まれた流れは、道路に沿って40メートル程流れ、又住宅の裏手に姿を消していきます。
地形図を見ると旧赤津川の流れは、ハウディーズカフェの東側付近で大きく方向を東北東に変え、旧小平団地の北側付近で新しく通った道路の所に、姿を現します。
新道付近1.jpg新道付近2.jpg
(旧小平団地を南北に縦断して開通した新道から見える旧赤津川)(補強整備された護岸)
旧赤津川の大蛇行はこの新道付近で又流れる方向を南東から南へと変えて行きます。今から2年前に発生した豪雨による洪水は、赤津川分水路が昭和26年(1951)に竣工して以降、60年以上経過した現在に昔の悪夢をよみがえられました。この地域の被害も大きなものに成りました。恐らくこの地域には旧赤津川上流からだけでなく、東側を流れている巴波川からの逆流も激しかったのではないかと考えられます。
若葉幼稚園付近.jpg
(U字状に蛇行する旧赤津川が、一番南の端となる場所に有る若葉幼稚園付近)
小平町の住宅地を南流して来た、旧赤津川は若葉幼稚園付近で又大きく蛇行して向きを北に変え、その後東側を南流している巴波川の右岸に合流して行きます。
巴波川合流点.jpg小平橋.jpg
(旧赤津川と巴波川との合流点) (合流点の直ぐ上流部に架かる、巴波川の小平橋)
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今日の一枚 [草花]

我家の脇に有る田んぼの畦に、今年も曼珠沙華が咲きました。
今年の夏、曇りや雨の日ばかりで、日照時間が少なかった為、稲の生育が悪くなるのではと、心配をしていましたが、稲穂も重そうに頭を垂れています。
曼珠沙華.jpg
私はずっと会社勤めでしたので、稲作の事は全く分かりませんが、今、近くで「鳥脅し」のパーンと言う音に、前の田んぼに水を送るポンプ小屋まで電気を送る電線から、一斉に雀が飛び去って行きました。
以前この「鳥脅し」はカーバイトに水を滴下、その反応によりアセチレンガスを発生させ、そこに点火して爆発させました。その爆発音で稲穂を啄ばむ鳥を追い払っていたと思いますが、現在はプロパンガスが使われていると聞きます。
私は工業高校で機械科でしたから、授業で溶接作業にこのアセチレンガスを使っていました。実習棟の裏にカーバイトを使ってアセチレンガスを発生させる設備が有りました。私はこのガス溶接作業実習は好きでは有りませんでした。作業を間違えると逆火して爆発する危険が有ったからです。
会社に入ってからも溶接部門が有り、高校時代に受けたこの授業はとても役に立ち、このアセチレンにもお世話に成りました。
稲刈りが終わるまでこの爆発音が轟きます。

今日は一日、陽が射していたかと思うと、急に雨が降り出したりして、爽やかな秋晴れとはならず、むしろ蒸し暑くなりました。夜の11時を過ぎても目の前の温度計は26℃を越え、湿度は80%と高いままです。昼間も今も扇風機の前から離れられません。それでも日が暮れてからウォーキングに出掛けた時、周囲に虫の声が溢れていました。
曼珠沙華の花や虫の声に、シッカリと秋を感じました。もう直ぐ秋の彼岸です。

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愛用の一本

愛用のシャープペンシル.jpg
この写真は、何の変哲も無い普通のシャープペンです。と言うよりは大分くたびれています。
それでも私にとっては、最高に使いやすい、愛用の一本なのです。
最近はキーボードを叩いて書類を作ることが多くなりましたが、若い頃は殆ど手書きで文書を書き図面を引いていました。ですから自ずといろんなタイプの筆記用具を買って試してきましたが、シャープペンはこいつが一番手に馴染んでいます。もう20年以上は使い続けています。今ではクリップの金具も外れ、消しゴムもとっくに使い切ってしまいました。最近はグリップ部の滑り止めラバーも緩く成って来てずれやすくなりましたが、新しいものに変えようと思わないのです。
使用している芯のサイズは「0.9」と、一般的な芯のサイズ「0.5」より太いタイプのシャープペンです。これは、私の筆圧が強い精か、通常のサイズでは直ぐに芯を折ってしまう為です。そして先端パイプが有るのは、定規を使って線を引く為の、必須形状に成ります。そんな理由で重宝して使い続けて来ました。
先日、このシャープペンを外出先で落として来てしまいました。家に帰って使おうとした時、見当たらない。「しまった」落して来た事に気付き、どうしたものか考え、別に高価な物でも無いので、諦めるのは簡単ですが、落した場所はおおよそ検討が付いていましたから、でも誰かが拾ってもこんなくたびれた物、処分される可能性も大です。でも、もしかしたら届けられて有るかも。
実は一年前にも、こいつを同じ場所に行ってた時に、落して来た事が有りました。その時も色々と考えた末に翌日戻って、落したと思われる場所を探し、その施設の受付に「シャープペンを落としてしまったのですが、届けられていませんか」と確認した時に、その受付にちゃんと届けられて、保管をされていたのです。
そんな事が前にも有りましたので、今回も次ぐ日にその受付に尋ねてみた所、「これですか?」と差し出されました。こんな使い古しのシャープペンでも保管しておいて頂けたのでした。
やはり取りに行って良かったと思いました。親切に届けてくれた方や、保管をしていてくれた方に感謝です。
今、こいつは私のパソコンのデスクの上に何事も無かったように転がっています。
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ニホニウム通り(埼玉県和光市)を歩く [歩く]

埼玉県和光市に「ニホニウム通り」と命名された通りが出来たと言うので、歩いて見ました。
スタート地点は東武東上線の和光市駅南口です。ニホニウム通りは和光市に有る「理化学研究所」の研究グループが113番目の新元素を発見したことを記念して、和光市駅から理化学研究所までの延長1.1キロメートルの歩道に、その新元素名「ニホニウム」を付けたものだそうです。
和光市駅南口.jpg
そしてその駅から理研までのニホニウム通りの路面に、原子番号1番の水素「H」から113番のニホニウム「Nh」までの元素記号を入れた青銅製の路面板を埋設するという事で、駅前からそのプレートを辿って、原子番号1番「水素」、2番「ヘリウム」、3番「リチウム」と順番に見つけて歩きます。
1水素.jpg2ヘリウム.jpg3リチウム.jpg
原子番号6番「炭素」、7番「窒素」、8番「酸素」などの知った名前を見付けては、足取りも軽くなります。
6炭素.jpg7窒素.jpg8酸素.jpg
初めて聞いた様な原子名では、チョッと足も止まってしまいます。比較的歩行者も少なく順調に進むと、原子番号39番「イットリウム」の先が無くなりました。場所は丁度東京外環自動車道がトンネルと成って下を交差する地点で、歩道の脇に新たに建てられたモニュメントが目に入りました。
ニホニウム通り1.jpgモニュメント1.jpg
(歩道に埋設されたプレートが並ぶ)(ニホニウムの記号Nhのモニュメント、下は東京外環道)
モニュメント2.jpg
(モニュメントの左側面には原子番号の「113」が。今歩いて来た歩道にはプレート)
モニュメント3.jpg
(モニュメントの右側面には理化学研究所のマークが。この先の歩道上にプレートは無い)
ここまで原子番号1番「水素」から39番「イットリウム」まで39枚のプレートが続いて埋設されて、途中歩道の街灯にも「二トリウム通り」を示す幟なども有りましたが、このモニュメントの前で終わっています。
39イットリウム.jpgニホニウム通り2.jpg
少し辺りの脇道を探してみましたが、やはりプレートは見当たりません。そこでとりあえず理化学研究所の所まで歩く事にしました。東京外環自動車道を渡り、東側の側道に設けられた歩道を南に歩きます。
ニホニウム通り3.jpg
(写真右手の草地の下を東京外環自動車道が走っています。脇の歩道を歩きます)
車道を渡った門に、又別のモニュメントが設置されています。元素の周期表を表わしたプレートです。原子番号113番のニホニュウムの所が、一段と輝いています。
モニュメント4.jpgモニュメント5.jpg
(交差点角のポケットパークに建てられた、元素周期表のモニュメント)
ニホニウム通り4.jpgニホニウム通り5.jpg
(ニホニウム発見の町をPRする表示も) (歩道沿いに「ニホニウム通り」の道路標示も建つ)
東京外環道路の東側に沿った程を、理化学研究所に向かって歩きます。
ニホニウム通り6.jpg
(理化学研究所への歩道を歩く。この辺りにはプレートはまだ埋設されていません)
途中、県道109号線と国道254号線(川越街道)の広い車道を横断しますが、ここは歩道橋を利用して渡る事に成ります。県道を渡る歩道橋の上からこれから歩く歩道上に、何故か路面板1枚が埋設されているのが見えました。近づいて確認すると、原子番号83番「ビスマス」の表示が有りました。(その時点ではなぜこんな所に1枚だけ設置されているのか疑問でしたが、帰宅後調べてみると、≪ニホニウム原子は原子番号30番の「亜鉛」を加速して、原子番号83番の「ビスマス」にぶつけ、核融合させる方法で合成したもので、その寿命は出来てからたった1000分の2秒と短く、瞬く間にほかの元素へと壊変して行きます。≫という事で、現在設置された39番までにある「亜鉛」と一緒にニホニウムにとって欠かせない原子「ビスマス」のプレートだけ先行して、決められた設置箇所に埋設されている事が分かりました。)理化学研究所ホームページや東京新聞ほっとWebの記事等を参考にしました。
ニホニウム通り7.jpg30亜鉛.jpg83ビスマス.jpg
(県道の歩道橋から)(所定の場所に有った「亜鉛」)(1枚離れて先行設置の「ビスマス」)
国道254号線(川越街道)の歩道橋を渡ると、理化学研究所前に。そこから少し南に下がった所に西門。その西門の脇に、120センチメートル四方と言う大きなサイズの、ニホニウム(Nh)のプレートがまだ埋設されずに立て掛けられていました。
理化学研究所西口.jpg
(理化学研究所西門脇に立てかけられた、原子番号113番の「ニホニウム」のプレート)
和光市ではこのニホニウム通りの有る市道の名称を「524号」と「527号」から、ニホニウムの原子番号に因んだ「市道113号」に変更をしています。
モニュメント6.jpg
(市道113号線となる「ニホニウム通り」、右側が和光市の市章)
※帰宅後に確認をしたところ、路面板の埋設は現在原子番号1番「水素」から39番「イットリウム」と原子番号83番「ビスマス」の合計40枚で、残りは寄付金の集まり具合にも寄りますとの事でした。
 
「ニホニウム通り」1.1キロメートルのウォーキングでは少し物足りなかったので、その後は理化学研究所の敷地の周囲を一周(約3キロメートル)して、そこから西隣の「和光樹林公園」のジョギングコースなどを歩いて来ました。総歩数15,244歩と成りました。
蒸気機関車.jpg理化学研究所正門.jpg
(和光市立第四小学校に有ったC1285)  (理化学研究所正門)
※C1285蒸気機関車は理化学研究所の東側に隣接している、和光市立第四小学校の校庭の南端道路際に展示されていました。近くの説明板には1970年12月に日本国有鉄道から無償貸与を受けて、この地に配置されたと記されています。
和光樹林公園1.jpg和光樹林公園2.jpg
(和光樹林公園の芝生広場)         (ジョギングコース1,000m)
※アンツーカーのジョギングコースは、とても歩きやすかったです。多くの和光市民がジョギングを楽しんでいました。
ついでに、和光市のマンホールの蓋もしっかり撮影して来ました。
和光市マンホール蓋1.jpg和光市マンホール蓋2.jpg
(和光市のデザインマンホール蓋)(標準マンホール蓋、中央に和光市の市章)
和光市マンホール蓋3.jpg和光市マンホール蓋4.jpg
(和光市配色違いのカラーマンホール蓋、2種類)
ちなみに和光市のデザインマンホール蓋の図柄と成っているのは、市の花「ツツジ」と市の木「イチョウ」です。中央の市章のデザインは、輪に光の漢字をデザイン化したもの。


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風野堀(栃木市)の源流を求めて [栃木市の河川と橋]

私の高校時代の通学路に「錦橋」と言う名の小さな橋が架かっていました。
その橋は、錦着山の東麓で橋詰に名物の「いもぐし」を売る「うえき屋」さんの横に有りました。「うえき屋」さんには部活の帰りお腹が空いた時など、寄り道して「イモフライ」を食べた思い出が有りますが、残念ながら既に閉店をしています。
錦着山東麓.jpg
(錦着山東麓登り口に建てられた石の鳥居、右側「うえき屋」さんの手前に「錦橋」高欄)
その「錦橋」現在は道路の拡張で上流側の高欄しか残っていません。
錦橋高欄.jpg
(北から南流して来た風野堀は「錦橋」の下へ入り込んでいます)
高欄には橋の名前「にしきばし」の銘板と反対側には下を流れる水路の名前「かざのぼり」の銘板が付いています。
かざのぼり.jpgにしきばし.jpg
(風野堀をひらがなで表示)           (錦橋をひらがなで表示)
水路の名前「かざのぼり」はこの橋の架かる場所から上流600メートル程に有る地名「風野」の集落の中央を北から南に貫流している堀から、その地名から名付けられたものです。
「風野」は現在集落の中央を貫流するこの水路を境に。東側は箱森町に、西側は新井町と泉川町に分かれていますが、以前は「風野村」と言う独立した村でした。
錦着山上より見る風野堀.jpg
(錦着山に登り北側に目を向けると、「風野堀」が暗渠化している道路を見られます)

慶安元年(1648)の村高の資料の中には、≪風野村 高83石7斗5升8合、内田60石5斗2升3合、畑23石2斗3升5合≫と記されています。その後の元禄十四年(1701)の領主と石高の資料では、≪竹本治左衛門知行、高91石9斗9升1合3勺≫と記されています。この石高は天保五年(1834)においても変わっていません。(栃木市史 通史編)
それが明治21年4月17日法律第一号をもって「市制・町村制」が公布され、これによりこれまでの独立した村は大字と成っています。
即ちそれまでの「風野村」も栃木町大字風野と変わっています。その当時の「風野」の戸数は6戸で人口は45人(男16人・女29人)と言う記録が有ります(栃木市史 通史編 町村の概要明治24年より抜粋)
昭和5年の国勢調査に於いても≪大字風野として戸数9戸、男21名・女29名≫と記されています。

その様な風野村は、もと「風の舞」と云った原野で、箱森の地であると主張する箱森側と皆川氏の勢力との交錯点であったために、かえって風野村91石という小地域の独立と成っています。ここに皆川氏により水沼縫之亮が派遣され、そのまま帰農、子孫は徳川時代に同地方の名主をつとめたと伝えられます。
道路西側の暗渠化された風野堀.jpg
(暗渠化され歩道と成った風野堀、道路脇に今も立派な長屋門を残す水沼家)

風野堀は錦橋の下に潜った後、錦着山東麓から南側に回り込む道路の拡張の為、橋の下流側の高欄は無く、拡張された道路の下を暗渠化されて流れ、60メートル程下流側に架かる石造りアーチ橋の八雲橋の手前で表に現れます。
風野堀暗渠部.jpg
(錦着山東麓に沿う拡張された道路、下を暗渠化した風野堀が続いています)
風野堀暗渠出口.jpg
(暗渠部から姿を現した風野堀、手前の高欄は八雲橋)
八雲橋全景.jpg八雲橋要石.jpg
(下流側から見た石造りアーチ橋の八雲橋)      (八雲橋と刻されたアーチの要石)
現在八雲橋の東側(左岸)は、回り寿司のお店の駐車場と成っていて、橋は通行できません。明治の初期にはこの地には栃木県令の別荘が建てられていました。

風野堀は「八雲橋」を抜けると、錦着山の南東部にて西方向から流れて来た「東郷堀」と合わさり。流れを南方向に変えて、栃木女子高校の西側で県道太平山公園線に突き当たるまで真直ぐに流れる「東郷堀」と成ります。
東郷堀・風野堀合流点.jpg東郷堀.jpg
(手前風野堀、奥で口を開けているのが東郷堀)(風野堀の水を合わせた東郷堀は一路南へ)

さて、それではこの風野堀の水は元来何処を水源としていたのか、その源流を探ってみました。
大正6年(1917)7月30日に発行された「栃木」の2万5千分の1の地形図にその答えが出ていました。
赤津川分水路周辺図.jpg
(大正6年の地形図を参考に、風野堀の源流からの水路を概略図に表わしました)
錦着山東麓の橋の地図記号「錦橋」の場所から地形図の上方(北)に向かって描かれている水の流れを表わす波線(上図では青色の線で表示)が、風野の集落中央を抜け、集落の北端で西に曲りその後多少の屈曲を繰り返しつつ新井の天満宮の東に有る池までつながっています。
この地図に従って現地を確認します。
新井天満宮正面.jpg
(元、新井村の村社「天満宮」)
まずは新井の天満宮へ。私が初めて天満宮の写真を撮影した頃は、境内東側の道路は有りませんでした。社殿左脇、天然記念物の欅は以前は社殿の上空まで枝を伸ばすほどの大木でした。
私が初めて撮影した天満宮.jpg天満宮のご神木.jpg
(境内東側には道路は有りませんでした)(以前のご神木の欅、社殿を覆うような枝振りでした)
新井天満宮東沿いの新道.jpg
(天満宮境内東側を走る新道と更にその東側に広がる平地、この辺に以前池が有ったのか)
国土地理院の発行する地形図上にこの天満宮東側の新道が記載されるのは、平成元年(1989)ですから、昭和の末に開通された道路に成ります。
昭和40年(1965)発行の地形図にはそれまで描かれていた池の姿が無くなってます。元々池と言っても一年中水が満々としていたものでは無かった様です。
文政十三年(1830)に古河藩の小出信左衛門重固(号松斎)が、藩主土井利位の内意をうけて編纂された「古河志」の中にこの新井天満宮脇の池についての記載が見られます。
≪西新井村 用水あま池 せばくして浅し、 池とはいえども秋の末より春の半までは、水涸れ土かわき、纔のから堀なり、毎年2月25日天神まちとて、参詣群集せり、わづかのくぼみ故、此所へあきんどもみせをひらけり≫ (栃木市史 資料編 近世)
この池の有った場所の南側道路に沿って東へ現在暗渠化した水路が認められます。
天満宮から東方向に向かう水路.jpg
(写真奥が天満宮、手前の空き地に以前池が有ったものか、蓋をした水路が東へ)
水路はその東側の共同墓地の南側を抜け、その先で直角に向きを南に変えます。
東から南に向きを変える水路.jpg
(共同墓地の前を抜けた所で、向きを南に変える水路)
その後、道路を斜めに横断する水路が、地形図に描かれている姿で現在も確認出来ました。
斜めに走る水路.jpg
(道路を斜めに横断している水路、南東方向に向かう)
その後水路は向きを東に変え、現在の「樋口橋」の方向に向かう道路の南側に沿って流れています。
樋口橋方向に流れる水路.jpg
(写真奥に見える橋が「樋口橋」、道路の南側に沿って水路が走っています)
橋の西側で再び南東方向に流れて、風野の集落方向に向かっています。
南東方向に向かう水路.jpg
(樋口橋西橋詰の集落手前で水路は方向を南東方向へ、前方奥に錦着山が写る)
現在はその間に昭和26年竣工した赤津川分水路が北から南に流れている為、かっての水路はここで分断されています。
赤津川分水路樋口橋下流点.jpg
(昭和26年竣工の赤津川分水路、前方の橋は「樋口橋」。前田橋の橋上より撮影)
この新しい水路を設ける「赤津川改良工事」に当たって、地元では大問題が起こりました。
新しく設ける水路の区間の農地がつぶれるばかりでなく、その両側の灌漑に支障が及び、その上永野川の補強工事によって下流にも影響が及ぶという事で、地元皆川、吹上の一部、市内箱森、薗部、片柳、平井、それに永野川下流の富田、瑞穂、水代、寒川、中等はじょうりゅうんために傍系の永野川下流まで大きな犠牲を強いられるとして団結し、工事反対同盟会を結成し、県側の測量等をはばむ事態となりました。解決策として、①橋梁はすべて永久橋とすること。②用水不足を考慮して井戸を開鑿する事。などの条件を付して受益者の栃木市側もこれを入れて妥協成立と成っています。このためこの工事には伏越工事(サイホン)がなされた、つまり両側の耕地の灌漑用水の水位を同じくするため用水が川床の底をくぐりパイプが敷設され支障を来さぬ工法がなされることになったし、わずか2,780メートルしかないこの水路に、11ヶ所ものコンクリートの永久橋が架けられることに成ったのでした。(稲葉誠太郎著、巴波川物語第一巻。九、赤津川改良工事 その二の内容を抜粋させて頂きました。)
従って、天満宮脇の「用水あま池」からも用水の流れもこの赤津川分水路の川床の下をパイプを抜けて、風野へ通じている事なのでしょう。今回確認出来ませんでした。
現在風野の集落の北端から集落中央を走る道路の西側に沿って暗渠化された風野堀に西側の田んぼの中から合流する水路も確認出来ます。
風野堀北端部.jpg
(風野の集落の北端で西側から道路脇の水路に流れ込むところ)
暗渠化された風野堀(北側から).jpg
(風野集落の中央を走る道路。その道路に沿って暗渠化された風野堀。前方に錦着山)

今回大正6年の地形図に描かれた水路に沿って、風野堀の水源と成っていた新井天満宮脇の池の跡からつながる水路を辿る事が出来ました。
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マンホールカードを求めて山梨県へ [コレクション]

先月の7月6日に埼玉県所沢市のマンホールカードを貰いに行ってきた結果、栃木県に隣接する県(福島・茨城・群馬・埼玉)のマンホールカードを全て入手しました。少し集中して集めて回ったので、暫らく収集活動を休んでいました。
8月に入って、マンホールカードも第5弾52種が新たにお目見え致しましたが、その中には残念ながら栃木県内の名前は有りませんでした。近県では福島県が「いわき市」「二本松市」「桑折町」の3枚、茨城県は「鹿嶋市」の1枚、群馬県も「流域下水道(玉村町)」の1枚、埼玉県は「上尾市」と「吉川市」の2枚がこの第5弾で追加されましたが、それぞれが離れていて、1日2ヶ所以上を訪れるのは少し厳しそうです。
8月のお盆休みの間、家族が揃った所で皆でドライブに行くついでにマンホールカードをゲットしようと言うこととなりました。そこで少し効率よく廻れるルートを検討した結果、思い切って高速道路を活用して、チョッと遠方に成りますが、山梨県から長野県へのルートで、5ヶ所を廻るプランを作成、実行に移しました。
最初は、東北道から圏央道そして中央道と乗り継いで、山梨県中央市の王穂庁舎に行き、最初の1枚をゲットしました。初めてのオレンジ色のカードです。(マンホールカードは北海道、東北、関東と言った地区ごとにカードの色を統一してあります。ちなみに関東地区は青色、東北地区は緑色です。)
中央市王穂庁舎.jpg中央市.jpg
(山梨県中央市王穂庁舎)                (中央市のマンホールカード)
次は山梨県甲斐市へ向かいます。この間は9キロメートル弱の距離、一般道を走って移動します。
一般道を走る魅力は途中でその土地土地のマンホールを発見する事です。
次の配布所までの間、6種類のマンホール蓋を写真に収めました。どのマンホール蓋のデザインもとても魅力的な図柄です。その一つ一つにその地域のシンボルを描いています。
中央市玉穂.jpg中央市1.jpg中央市2.jpg
昭和町.jpg甲斐市1(山梨県).jpg甲斐市竜王.jpg
雨が降ったり止んだりの天候だったので、マンホール蓋も濡れていて図柄が不明瞭の物も有ります。
次の目的地は山梨県甲斐市の竜王庁舎です。
甲斐市竜王庁舎.jpg甲斐市.jpg
(山梨県甲斐市竜王庁舎)                  (甲斐市のマンホールカード)
最初の中央市と同様にここ甲斐市においても、マンホールカードを配布する窓口で、アンケートへの記載が有り、何処から来たのかとか年齢などですが。名簿式に記入するものを見ると、その日だけでも結構な人が収集に訪れている事が分かります。茨城県や東京都など、私たち同様遠方から来ていました。

次は長野県諏訪市です。その間距離は約65キロメートル。ここは中央道に乗って移動しました。出来れば一般道を利用したいのですが、移動時間節約の為仕方ありません。
諏訪市流域下水道庁舎.jpg諏訪市流域下水道.jpg
(長野県諏訪湖流域下水道事務所)         (長野県流域下水道マンホールカード)
下水道事務所の正門入口脇に綺麗なカラーデザインのマンホール蓋が設置されていました。ありがたく写真に収めて来ました。
茅野市.jpg長野県岡谷市汚水3.jpg長野県下諏訪市.jpg
長野県原村.jpg長野県諏訪市.jpg長野県富士見町1.jpg
これらのマンホール蓋のデザインは草花をモチーフにした図柄で、着色されていると、とてもマンホールの蓋とは思えない程カラフルで綺麗な物ばかりです。

次の目的地は長野県安曇野市です。この間は42キロメートルの距離が有るので、長野自動車道を利用して移動をしました。
安曇野市の配布所は「アクアピア安曇野」です。
アクピア安曇野.jpg安曇野市流域下水道.jpg
(アクアピア安曇野)                 (長野県流域下水道のマンホールカード)
配布所では良く他の収集者と思われる人とすれ違います。この安曇野でも小さな子供を連れた家族連れが後から入って来ました。みんなこの休みを利用して収集している様です。普段働いている人達は、平日しか配布をしていないカードをゲットする事は難しいですから、お役所関係は休みにならないお盆休みの期間はねらい目かも知れません。
安曇野市犀川3.jpg安曇野市穂高1.jpg安曇野市豊科1.jpg
安曇野市周辺でも3種類のマンホール蓋を写真に収めました。

マンホールカードだけを要領よくゲットして回ろうと計画していましたが、車を走らせて途中デザインの異なるマンホール蓋を見付けると、つい寄り道をしてしまう為、大きく時間をロスしてしまいました。
計画ではこの後上信越自動車道を走って長野市へ行き、善光寺を参拝し更にその先の飯山市のマンホールカードをゲットする予定でしたが、時間的にこの先に進むのは無理そうなので、更埴ジャンクションで群馬方面へルートを変更し、家路を急ぎました。13時間のマンホールカード収集ドライブでした。
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