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満福寺用水跡(栃木市)を探る [栃木市の河川と橋]

江戸時代の宝暦九年(1759)卯三月の日付が記された「栃木町絵図」を撮影した写真が、栃木市史資料編近世の巻頭口絵に掲載されています。見開きで2ページに渡る写真、上側が西の方向に、従って右側が北に成ります。栃木町の中央を貫通する往還(日光例幣使街道)が写真中央を一本横に走っています。
街道を挟んで間口が狭く奥行きの長い、短冊状の屋敷割が町の北の端から南の端までぎっしりと並んでいます。言葉だけでは上手く説明できないので、宝暦九年の栃木町絵図を基に簡略化した模式図を描いて見ましたので、併せて見て下さい。
宝暦九年栃木町絵図を基にした概略模式図.jpg
写真の右端中央に「北」の文字が記されています。この所は栃木町の北の出入り口となっており、木戸が設けられていました。その木戸の外側に小さな橋が描かれています。その脇に「萬榮橋」と書かれています。栃木町北側の平柳新地との境を流れる堀割に架けられた石橋の名称と思われます。
文化二年(1805)二月に記された「栃木町明細書上帳」に依れば、≪上町入口 一、石橋壱ヶ所 但し川巾七尺(約2メートル)、長サ一間余(約1.8メートル)横巾九尺(約2.7メートル)と記されています。
この堀割は栃木町の北側にその当時有った「大ぬかり沼」から流れ出た用水堀で、栃木町北西部(現在の櫻井家裏手の水門の有る所)にて流れは3方向に分岐した流れのひとつです。
水路の分岐1.jpg萬福寺用水1.jpg
(栃木町の北の端櫻井家裏手の水門)(分岐した流れの一つは櫻井家北側を東に向かう)
栃木町北の木戸外にて往還に架かる石橋の下を流れ、東側の街並みの裏手で流れを南に変えるこの堀割は「満福寺用水」と呼ばれました。
今日はこの「満福寺用水」の跡を、絵図に描かれたルートを辿って、その名残を見付けて来ました。
萬福寺用水2.jpg萬福寺用水3.jpg
(元の上町東裏通り、用水堀の形跡無し)(近龍寺山門前付近、この道路沿いを南流していた)
近龍寺山門前、石畳の道路西側部分に沿って、チョッと気になる2本の平行の切り込みが付けられています。この部分に以前水路が有ったのではと勝手に考えています。
萬福寺用水4.jpg萬福寺用水5.jpg
(元の中町東裏通り、手前マンホールの下は)(旭町大場医院の西側付近)
神明宮の参道を過ぎて南に来ると、石畳は無くなり普通のアスファルトの道路に変わっています。ここでも道路の西側に沿ってマンホールが続いて確認出来ます。このマンホールの列が途中から道路の東側に移り、旭町大場医院付近を南に続いています。
萬福寺用水6.jpg萬福寺用水7.jpg
(中央の石畳部分は、元東銀座通りと呼ばれた道)(縞鋼板の蓋の下が用水堀の名残りか)
大場医院の南側の石畳道路(元東銀座通りと呼ばれていた)の先には道路が無く、ただ家と家との間には縞鋼板を並べて蓋をした空間が伸びています。この縞鋼板の蓋を並べた路地の様な空間はその後方向を東に変えて、東側の道路に出るとそこで再び流れを南に変えて、南側に有る定願寺裏の墓地の中に真直ぐ伸びています。
萬福寺用水9.jpg萬福寺用水14.jpg
(定願寺裏手墓地内を北から南の鉄製の扉へ、マンホールを設置したコンクリート道が伸びる)
定願寺裏手墓地の中に北側の鋼鉄製の門扉から南側の門扉まで、マンホール蓋が設置されたコンクリート製の通路が伸びています。この所が以前の用水堀の跡と考えられます。
宝暦九年の栃木町絵図では用水堀はこの定願寺敷地内で切れています。この先はどうなっているか探りました。
萬福寺用水8.jpg萬福寺用水10.jpg
(定願寺南側道路に、墓地南側の鋼鉄製門扉から続く水路)(更に南側の住宅地の中へ)
定願寺墓地内を縦貫したマンホールを設置したコンクリート製の通路は、鋼鉄製の門扉の外側も同じように南に向かって続き、又、南側の住宅街の間へ伸びています。更にその先へ回り込んでみます。
萬福寺用水12.jpg
(マンホールを設置したコンクリート製の通路は、その南側を流れる巴波川へ伸びています)
萬福寺用水13.jpg
(巴波川左岸に見つけた万福寺用水の落ち口。奥に見える橋は「新橋」です)

宝暦九年の絵図に描かれた「満福寺用水」は暗渠化され、又一部は鋼板の蓋で覆われているものの、その絵図に描かれたルートの通りに現在も残っておりました。

しかし、今回辿ったルートは「満福寺用水」の全てなのか、これだけではむしろ「定願寺用水」と呼ばれるべきではとの、疑問が生まれます。もう一度元の絵図を確認しますが、栃木市史に掲載された写真では、東側がトリミングでカットされて分かりません。別の「栃木郷土史」と言う本の巻頭口絵に同様に宝暦九年の絵図と同時に天明七年の栃木町絵図もサイズが小さいですが掲載されていました。これらの絵図には「満福寺」の更に東側、現在の栃木文化会館北側で杢冷川に架かる「旭橋」の所まで確認する事が出来ます。
私が作製した模式図にはその部分まで描いていますが、それに依りますと神明社地の周辺や満福寺の南側には田んぼが広がっていて、そこの周辺縦横に水路が確認出来ます。
これらの水路の元を辿ると、近龍寺の北側で先の用水堀から東に分岐しているのが、天明七年の絵図にて確認出来ます。
こちらの、神明宮東側から満福寺周辺を廻って、水路の名残りや形跡を探しましたが、確認出来ませんでした。ただ現在栃木文化会館の北側から真直ぐ北にのびている道路沿いに、雨水を受ける暗渠化された水路を確認しました。これが昔の満福寺用水のもう一つのルートの跡か、更に確認が必要です。
萬福寺用水14.jpg
(近龍寺北東側の田村家東側の道路に設置された排水溝が南に続いています。)
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栃木市箱森町のこと [地図]

私が生まれ、そして現在に至るまで60年以上住んでいる「箱森町」。しかし、箱森町の事に関しては、殆んど分かっていません。最近に成って、自分が住む町にどのような歴史が有ったのか興味が湧いてきて、少しづつ調べ始めています。
私はこの町で生まれましたが、私の父は入舟町で生まれています。そして私の祖父は大皆川村で生まれています。ですから私の家には箱森町に関する情報は何も残っていません。

まずは現在の箱森町について確認をしたいと思います。
箱森町概略図.jpg
上の図は現在の箱森町のエリアーを概略図に表わしたものです。
北側は川原田町と野中町、西側は新井町と泉川町、南側は薗部町の一丁目と3丁目そして柳橋町に接しています。南東の端で入舟町と僅かに接しています。そして東側は錦町と小平町そして大町とに接しています。
大町との境界は概ね巴波川の流れに沿っています。西側は昔、風野村の集落中央を南北に走る道路を境に東側は箱森、西側を新井と泉川とに分かれました。現在、道路の西側に沿って暗渠化された水路が南の錦着山方向に伸びています。
風野町.jpg
(元風野町の通りを北側から錦着山方向を望む。道路西側に暗渠化された用水路)
「風野堀」と呼ばれる用水堀で、錦着山の東側に架かる「錦橋」の下を流れ、カッパ寿司さんの西側に残る石橋アーチ橋の「八雲橋」の下流で、錦着山の南側を西から流れて来た「東郷堀」と合流して南隣りの薗部町1丁目と3丁目の境として南に伸びています。
2013年風野堀(錦着山より).jpg
(錦着山上より北方向を撮影。写真中央に「風野堀」、右半分「箱森」左「泉川」と成ります)
箱森町の中央部を「栃木環状線」が通り、東端には「栃木粟野線、南側に「栃木佐野線」そして中央を北西側栃木インター方面に伸びる「栃木粕尾線」の県道が通っています。
外環道西.jpg
(栃木外環道の箱森町歩道橋上から南西方向を撮影。太平山を正面に望む)
外環道東.jpg
(栃木外環道の箱森町歩道橋上から北東方向を撮影。イオンやコジマの看板)

箱森町の現在の人口は、5,448人(2017年7月31日現在)ですが、この人数は旧栃木市ないの町内では、大宮町の6,923人に次いで2番目に多い町内と成っています。次いで平柳町(4,899人)、片柳町(4,703人)、薗部町(3,866人)と続いています。ここで、薗部町や片柳町などは町内が更に区割りされ、一丁目・二丁目・三丁目などに分かれています。その為、薗部町一丁目は栃木女子高から錦着山にかけての一画、四丁目は永野川の西側から太平山遊覧道路に至る一画と広い薗部町の中で、どの辺りか範囲を狭める事が出来ます。片柳町も同様で一丁目から五丁目と五つの区域に分割されています。
箱森町の場合、そのような分割が有りませんから、住居表示の何番何号で位置を調べますが、番号表示も1番から53番まで有る為、番号を言われても箱森町のどの辺りに成るか、全く見当が付きません。
ちなみに1番は「特別養護老人ホーム」辺りで、「錦着山」は8番に成ります。「イオン栃木店」辺りが37番です。箱森町の北東隅となる「アップル薬局はこのもり店」が53番でした。
私が子供の頃に住んでいた所は、箱森一丁目と成っていました。国土地理院昭和40年3月30日発行の2万5千分1地形図「栃木」には、箱森町の所に「一丁目」の文字の他、「東部」・「西部」の記載が確認出来ます。確かに私が子供の頃は、「箱一」とか「箱東」そして「箱西」という呼び方をしていました。
栃木市は栃木県で最初に、昭和38年8月1日付けにて、新住居表示への変更を実施しました。第一次として市街地中心を対象に実施しました。この時は箱森町は対象外でしたが、昭和45年3月1日の第二次で、箱森町も「〇番-〇号」へと変更が行われています。

ただ、現在も箱森町は自治会の名称として以前の様な、「箱森町一丁目自治会」とか「箱森町西部自治会」、「箱森町中央自治会」、「箱森町東部自治会」が使われています。以前の東部自治会は「中央」と「東部」に分かれています。
箱森一丁目 公民館.jpg箱森町中央公民館.jpg
(箱森町一丁目公民館)                (箱森町中央公民館)
箱西公民館.jpg箱森町東部公民館.jpg
(箱森町西部公民館)                 (箱森町東部公民館)

「箱森」と言う地名は何時ごろ現れたのでしょうか。詳しい事は分かりません。
集落の状況について私達が確認する手段としては、古地図の様なものが有ればと思いますが。この周辺の古地図は、宝暦9年(1759)の「栃木町絵図」、天明7年(1787)の同じく「栃木町絵図」、そして天保8年(1837)の「栃木町並栃木續新田村屋舗図面」、更に古い年代のものでは「天和」(1681~1683)の元号が記された「小平柳村」の絵図が確認されますが、残念ながら「箱森」を描いた絵図などは、まだ見た事が有りません。
私が見た事の有る「箱森村」の様子を記した最も古い地図は、明治に入ってからのもので、明治19年7月発行の迅速測図「栃木」2万分1です。
この地形図を見ると、明治初期の箱森村の集落の様子が細かく描かれています。最も人家が密集している地区は、現在「箱森町西部」の公民館の有る鷲宮神社の西側周辺、そして現在の「箱森町中央公民館」が建つ十二社神社の周辺、そしてもう一ヶ所は旧赤津川の東側(現在なかつぼクリニック)周辺に集落が形成されています。
鷲宮神社.jpg
(鷲宮神社の周辺は、明治の初期に箱森村で最も大きな集落が有りました。)
十二社神社.jpg
(十二社神社南側の細い道を進むと、箱森西部の舘野へ通じています。)
この内、鷲宮神社を中心にひらけた場所は、大正6年7月30日発行の2万5千分1地形図「栃木」には、「御邊」と言う地名が大きく記されています。「御邊」と言う地名は何を意味するものなのか、私はずっと以前から気に成っていました。それに対する情報が栃木市教育委員会が平成27年3月31日に発行した、「栃木市遺跡分布地図」と題した冊子の中に有りました。
そこには「舘野城・御辺館地籍図」が掲載されていて、横に解説文が載っています。
≪御辺館 : 栃木県教委1982では、鷲宮神社あたりを城郭推定地としているものの、現地に遺構は存在しない。地籍図調査においては、字御邊に水路で囲まれる四角い空間が見受けられ、ここを御辺城と想定したものと考えられる。≫
御辺.jpg
(写真右側が周囲を堀の様に囲まれた館跡の地。奥の林の様になっているのが古墳)
現地に行くと、鷲宮神社の裏手に今も周囲に濠の様な地形が残る少し回りより高くなった土地を見る事が出来ます。その土地の西側に沿った道を北に少し入った林の中に、小さな小丘が有りその上に小さな石の祠が祀られています。手前に一つ鳥居が建てられていますが、何という神社なのか。この件も先ほどの冊子に記載が有り、小丘は径21メートル、高さ3メートルの古墳で、遺跡の名前は「鶴巻古墳」と記されています。
≪円墳、墳頂部に神社有、明治期に刀出土、県風土記の丘資料館1987≫と備考欄に記されています。
弦巻神社1.jpg弦巻神社2.jpg
(御辺の館跡の脇の道を入ると鳥居が有り、その先の小丘上に祠が祀られています)

元々、この御辺を中心とした地域が、古墳が残り、館の址が残り、集落も大きく形成されている等から、箱森村の中心だったものと考えられます。先ほどの冊子にはもう一つ「御邊」の北側に「舘野城」と言う遺跡についても説明しています。
≪舘野城 : 栃木市教委1990では、御辺館の北西を舘野遺跡としている。地籍図調査では、字舘堅(やかた)に、水路で囲まれた楕円形の空間があり、城郭遺構であったと考えられる。現在遺構としては、地籍図上南側の幅のある堀が池となって残っている。≫と、記しています。
「舘野」に関しては8月2日に「箱森町内を流れる館野川について」と題して載せています。
箱森町舘野周辺地図.jpg文色分け道路の説明.jpg
(箱森町の昔からの中心とされる、「御辺」や「舘野」周辺の様子を概略図にしました)
箱森町に館や城が有ったとは、まったく知りませんでした。
尚、河合町にある熊野神社(開明橋の橋詰に祀られています)は、元箱森に有った熊野神社を分祠したものと云われていますが、私はその元の熊野神社を探して箱森町の中を捜し歩きました。町内には多くの屋敷神社が有りましたが、結局探し求めていた熊野神社は取り壊されて無くなっているという事でした。その熊野神社が有った場所と云われるのが、小野産業㈱栃木工場の西側、蕎麦店「山成」さん辺りだったようです。今も大きな木が一本残っています。
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栃木市吹上町の街中を貫流する水路 [栃木市の河川と橋]

栃木市吹上町に、西隣の大森町から流入して、街中を東に南に流れを変えながら、南隣りの野中町で赤津川に架かる長宮橋の直ぐ下流側右岸に落ちる、一筋の細い水路が有ります。
以前から市内の河川と橋とを巡っていて、この吹上町の水路も気に成っていました。
今日は台風一過の影響か、早朝から青空が広がり太陽が容赦なく照り付けています。日中にはこの夏一番の暑さになるとの予報で、行動するなら朝のうちにと決め、さっそく吹上町の水路に向かいました。
自転車を走らせ風を切ると、意外に気持ち良く感じます。早起きは三文の徳と言いますが、さっそく効果が出ました。水路の途中で出会った地元の方に声を掛けて、「この水路の事を地元の方は何と呼んでいまか?」と聞くと、「まぐさっ堀」と教えた頂けたのです。
これまで色々資料を探していたのですが、この水路の名前を記したものが見つかっていませんでしたから、貴重な情報を得ることが出来ました。
吹上町の水路「まぐさっ堀」の流れを概略図にしました。
「まぐさっ堀」は図の左上「サントリー」の工場の有る山間から流れ始め、仲方町から大森町を流れ、吹上町に流れ込んでいます。
まぐさっ堀22.jpg
(まぐさっ堀は概略図の左上「サントリー」から流れ、右下の野中町で赤津川に落ちています)
さっそく上流側から水路に沿って自転車を走らせましたので、写真で途中の風景を確認して行きます。
まぐさっ堀1.jpg
(まぐさっ堀の上流部も流れ。正面奥はサントリーの工場に成ります。)
この辺りの水路は古い護岸が残っています。近くに国土地理院の四等三角点「大森72.5m」が有ります。一方赤津川との合流点にも四等三角点「前原59.7m」が有りますから、「まぐさっ堀」は比高12.8mを流れ下っている事が分かります。
まぐさっ堀2.jpgまぐさっ堀3.jpg
(仲方町から大森町へ一直線に流れ)(水路脇の道がS字に曲り水路右岸に変わります。)
大森町はこの水路とほぼ平行に走る南側の県道栃木粕尾線との間を、平成以降土地区画整理事業を進め、碁盤の目の様に縦横直交する造成が行われ、新しい住宅地が出来上がって来ました。
水路沿いにも多くの新しい住宅が見られます。その為大森町の水路の護岸も新しくなってます。
まぐさっ堀4.jpg
(途中、草むらの上空を沢山のトンボが朝日に羽をかがやかせて飛んでいました)
まぐさっ堀5.jpg
(大森町の鹿島大明神の赤い鳥居の前を流れる)
鹿島大明神の鳥居は、平成27年にそれまでの鳥居が撤去され、現在の新しい鳥居に再建されました。
まぐさっ堀6.jpgまぐさっ堀7.jpg
(水路前方に吉野工業所の変電所が)  (水路北側山際の立派なお屋敷が)
まぐさっ堀8.jpgまぐさっ堀9.jpg
(前方山の中腹に吹上中学校)(水路脇の立て看板に「吹上中生徒のトレーニングコース」と)
表通りから路地に入ると住宅地の裏を流れ、木々が生い茂っている為か水路の北側には苔生した土地が広がっています。水路も夏草に覆われています。水路の脇に立てられた看板には、≪この道路は吹上中生徒の、トレーニングコースです。自動車の乗り入れは、ご遠慮願います≫と記されています。今朝も水路沿いで男の子が一人でランニングをしていました。私の脇を抜ける時「おはようございます」と挨拶をしてくれました。
まぐさっ堀10.jpgまぐさっ堀11.jpg
(住吉神社は吹上町の鎮守) (元吹上城の長屋門)
住吉神社は旧吹上村の中心地、神社参道入口の西隣りには当時吹上村の役場が有りました。現在もその名残が幾つか残っております。道路脇に役場入口の石柱が建っています。右側の石柱には≪栃木縣下都賀郡≫左側の石柱には≪吹上村役場≫と刻されています。この場所から南に向かう道路に進みます。
道路左手に趣きある長屋門が建っています。元吹上城の長屋門跡と云われています。
まぐさっ堀12.jpgまぐさっ堀13.jpg
(専福寺)         (専福寺の裏手を西から東に流れる。水路脇の石仏)
少し南に自転車を走らせると道路右手に大きな屋根が目に入ります。浄土宗の寺院「天神山専福寺」の本堂です。境内東側の塀際に多くの石仏が並べて祀られています。このお寺は都賀三十三薬師霊場5番札所と成っていました。水路はこの寺院裏手(北側)を西から真直ぐ東へ流れています。お寺の北西部に小さな橋が有り、橋詰に一基、享保4年(1719)と刻された青面金剛像を刻した石仏が祀られています。今から298年も前に建てられたものです。
横に架かる橋は、高欄など無いただの桁橋ですが橋桁側面に橋名が刻されています。
まぐさっ堀14.jpgまぐさっ堀15.jpg
(橋桁に刻された「横宿橋」の文字)(水路には綺麗な水が流れていました)
風化が進んでいる為ハッキリと分かりませんが、右から左へ「横宿橋」と辛うじて読む事が出来ます。水路には綺麗に澄んだ水が流れ、緑色の水草が流れになびいています。
水路はその先で住宅を迂回するように回り込み、その先で南に向きを変えています。
まぐさっ堀16.jpgまぐさっ堀17.jpg
(橋桁に刻された「新屋敷橋」の文字)(「新屋敷橋」の下流側、南に向かって流れる)
お寺の脇の道を南に進むと、東西に走る道路に突き当たります。左に折れて行くと、南流する水路に架かる橋に出ます。こちらの橋も先ほどの橋同様に橋桁の横に橋名が刻されています。「新屋敷橋」と有ります。こちらの方がハッキリと読む事が出来ました。
「新屋敷」も先ほどの「横宿」も橋が架けられた場所の小字に成っています。
「新屋敷橋」の下を抜けると、水路は南に向かっています。
まぐさっ堀18.jpg
(前方奥に太平の山並み、その手前に東北自動車道を望む)
水路を探して自転車を走らせると野中町の長宮神社が祀られている米山の西方で水路を跨ぐ田んぼの中を進む道路の入口の橋を見付けました。橋の上から南西に向かう道路の先に、東北自動車道そして太平の山並みが望めます。水路は真直ぐ南の方向、東北自動車道の方向に伸びています。
まぐさっ堀19jpg.jpg
(写真右手に見えるのが東北自動車道、中央奥の森の様にこんもりした小高い山の南側中腹に野中町の長宮神社が祀られています。)
東北自動車道の側道近くで水路は直角に向きを東に変えています。そしてそのまま東に進み高速道路の下を潜って東側を南流する赤津川に合流します。
まぐさっ堀20jpg.jpg
(赤津川、手前右側に合流する「まぐさっ堀」、長宮橋より撮影)
まぐさっ堀21jpg.jpg
(仲方町から大森町・吹上町を流れた水はここで赤津川に落ちています。)
ここで吹上町を流れる「まぐさっ堀」のルートを探るのは終わりですが、まだ一つ疑問が残っています。
この合流点の赤津川は、昭和26年に完成をした分水路で、それ以前の赤津川はここより上流点で東の方向に蛇行して流れて行ってしまいます。
「まぐさっ堀」はそれより以前に有りました。明治17年に発行された迅速測図には吹上村の中を流れる水路が描かれています。しかし新屋敷以南の流れがハッキリと確認出来ません。水路は何処へ流れていたのか、まだ見つけられていません。

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百八燈流し(栃木市巴波川) [祭]

今日、8月6日は栃木市夏の風物詩「巴波川、百八燈流し」が行われました。
昼間は久々にうだる様な暑さが戻り、我家はまるで蒸し風呂状態、夕方には家の中より外に出た方が、風も有って気持ち良く感じる様になって来たので、歩いて百八燈流しが行われる、巴波川の幸来橋に向かいました。東の空には丸い月が顔を出していました。
幸来橋の袂に到着した頃には、巴波川の川面に幾つもの燈籠がほのかな光を発して流れています。
船禅定5.jpg
川の両岸には御神船が来るのを待つ人達が、思い思いの場所を見付けて、その時を待っています。
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私も人垣の合間を見付け待つ事に。御神船が来るまで、川面を流れて行く燈籠のほのかな光のあとを目で追います。多くの燈籠が風の影響で、川の左岸寄りに流れて行きます。
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ただ一燈だけで流れるもの、三燈四燈とまとまって流れるものなど。燈籠には奉納した人の願いが書かれています。
船禅定8.jpg船禅定7.jpg
静に流れる燈籠を眺めている内に、下流側から待ちかねた御神船が川を遡って来ました。
船禅定1.jpg
私の目の前を通過した御神船は幸来橋の直ぐ下で停泊、上流から神様が乗った小舟を待ちます。
船禅定2.jpg
神様をお迎えした後、神主さんの指示に従い会場にいる人達と共に御神事が執り行われました。
船禅定3.jpg
御神事を終えた後、御神船は又川を下って行きますが、この時を待っていた様に川岸の人だかりの中から、「こちらに下さい!」「こっちに投げて!」「お願いします!」などの掛け声が飛び交い始めました。
それに応じて御神船から、それまで船べりに立てられ火を燈していたロウソクが船上から岸に向かって投げられます。お産をする家ではこのロウソクに火を燈すと、ロウソクが燃え尽きるまでに赤ちゃんが生まれると言われ、出来るだけ短いロウソクを競って取っていたと、昔から言われています。
私は、そんなやり取りを後にして、大通りで行われている踊りの会場に移動しました。
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箱森町内を流れる館野川(栃木市)について [栃木市の河川と橋]

私の家の脇を流れる清水川に「中乃橋」と称する小さなコンクリート橋が架かっています。現在の橋は昭和5年6月の架設と、その親柱に刻されております。この「中乃橋」の直ぐ上流側右岸部に合流する水路が有ります。この水路が「館野川」に成ります。
清水川中の橋.jpg中乃橋親柱.jpg
(清水川に架かる「中乃橋」、右手の水路が「館野川」の落ち口)(中乃橋の親柱)

「館野川」の川幅は「清水川」と同じようで、見た目で2メートル程で、現在はどちらもコンクリート製の水路と成っています。特に「館野川」の下流部はその流れがクランク状に成っていて、水路の脇の道も狭かった為、時々自動車が脱輪するトラブルが起こっていた為、現在は暗渠化され水路の上も車が通行できるように改修されました。
暗渠化された館野川下流域.jpg
(「く」の字に見えるのは暗渠化された館野川)
中流域もここ数年でコンクリート製の水路に改修されています。
館野川中流域.jpg
(コンクリート製の水路に改修された、館野川の中流域)
館野川改修前.jpg館野川改修後.jpg
(改修前の館野川、2014年1月撮影)     (改修後の館野川、2015年2月撮影)
ただ上流域はまだ未改修で夏のこの時期は雑草が生い茂る昔のままの川の姿を留めています。それもあと数年中には全てコンクリート製の水路に変わるものと思われます。
館野川と環状線下流域.jpg
栃木環状線下流部の館野川、夏草が生い茂る。2017年7月撮影)
元々この「館野川」の水源は、箱森町の北西部、現在の「セレモニーフラワーホールつかさ」さんの付近に有った、「大沼」の出水でした。明治17年発行の「迅速測図・栃木」の地形図には、その大沼がハッキリと描かれ、そこから流れ出した水の流れが一筋確認する事が出来ます。現在も迅速測図に描かれた川の流れに相当する水路の面影を確認することが出来ます。それが現在の「館野川」と呼ばれるもので、その名前の由来は大沼から流れ出た水が、西から南そして東方向へと大きくカーブを描いて流れるその内側となる地名が「舘野」と言う字名で有ったことから、その地名を採って「館野川」と呼ばれるようになったものと思われます。
フラワーホール南側の水路.jpg標高50m地点.jpg
(「セレモニーフラワーホールつかさ」さん南側の水路)(近くに見る段差は標高50メートル地点)
現在、大沼は埋め立てられて当時の姿を留めていません。今、館野川の一番西側には大雨の際に一時的に雨水を蓄える貯水池が設けられています。
館野川上流域の貯水池.jpg
(館野川の一番西側の地点に設けられた貯水池。フェンスで囲まれています。)
この貯水池から清水川への合流点までの流路延長は約480メートルと短く、箱森町内の一部を流れるだけの川で、昭和40年3月に発行された地形図からは、その流路も記されなくなってしまいました。

ここ数年前からここ舘野の西方で、大規模な宅地開発が進められ、沢山の真新しい家が建てられて来ています。館野の貯水池脇の道路を西に進むとその住宅地に通じています。
箱森町の西部も大きく変わり始めてます。
箱森町西部住宅開発.jpg

ぬかり沼川(栃木市)について [栃木市の河川と橋]

栃木市嘉右衛門町通りの東裏通り沿いに、一本の細い水路が北から南に流れています。
水源を確認する為に流れを北に遡って行くと、大町に鎮座している大杉神社の社殿裏手の小さな沼に行き着きます。
大杉神社.jpg大杉湧水池.jpg
(大町、大杉神社)         (大杉神社社殿裏手に残る湧水池、左側が神社境内)
現在は確認できませんが、以前は沼のいたる所から水が湧き出る「湧水池」でした。
流れはその沼から大杉神社境内の西側に沿って南流、境内の南西部で道路の西側に移り、道路に沿って真っすぐに水路が続いています。
ぬかり沼川1.jpgぬかり沼川2.jpg
(大杉神社の南西部で道路西側脇を南流する水路)  (水路護岸の石垣)
水路は道路と共に県道32号線を渡り、嘉右衛門町と昭和町との境界の道路の西側を進み、以前ヤマサ味噌の樽洗い場の前へ。
ぬかり沼川3.jpg
(現在は塀がかかっていますが、ここに以前ヤマサ味噌工場の樽洗い場が有りました。)
樽洗い場の南側の交差点の先で南に向かう道路は二股に分かれています。水路はここで西側の道路の東側へと移っています。そしてその水路を境界として東側は昭和町から泉町へと変わっています。
ぬかり沼川4.jpg
(樽洗い場の南側交差点の先で南に向かう道路は2本に分かれています。)
東側の狭い道路を進んで行くと、途中道路右手に鳥居が建てられています。鳥居の奥に祠が有って「朝日辨財天」と記した扁額が掲げられています。
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(朝日辨財天の祠がひっそりと建てられています。)
この辨財天の祀られている路地を中心とした範囲に、昔から「弁天自治会」という小さな自治会が組織されています。
2本に分かれた道路はそのままほぼ並行して南に、水路もその間を道路に沿って続いています。
岡田嘉右衛門邸の裏手(東側)を抜けると、水路にコンクリート製の高欄を付けた小さな橋が架けられています。親柱はコンクリートが欠けたり相当傷んでいますが、橋名が刻されています。「大泉橋」と読めます。別の親柱に「昭和二年九月竣功」の文字が残っていました。
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(道路に沿って流れる水路前方に橋の高欄)(親柱は傷んでいますが「大泉橋」と読めます)
私が子供の頃、この橋を渡った東側の道路の両側に八百屋や魚屋が有ってその店の間を抜けると「白百合座」と言う映画館が有りました。
大泉橋の脇を抜けて水路に沿って南に歩きます。道路はこの先で右側から来た嘉右衛門町通りと合流。そして万町交番から西に、巴波川に架かる「泉橋」へ向かう道路との交差点に合わさります。水路は交差点を南に抜け、櫻井源右衛門商店の北西角部の水門の元へ流れます。
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(万町の北の端、櫻井源右衛門商店、裏手の水門)
水門の手前で、万町交番前交差点から西に向かう道路の下を水路は潜りますが、ここで水路に架かる橋の高欄は南側は以前のコンクリート製が水門の所に残っています。この橋の名称は現在何も記されていませんが、以前は「門脇橋」とか「柳景橋」と呼ばれていた事が有った様です。
「門脇橋」は江戸時代、栃木宿の北の門(木戸)が有った事から、門の脇に架かる橋という事で、「門脇橋」と呼ばれたと考えられますが、「柳景橋」は橋の袂に柳の木でも有ったのかも知れません。明治40年発行の「栃木営業便覧」の中には、「柳景橋」の名前が記されています。
水門を抜けた水路は西に方向を変え、「萬盛橋」の下を潜り蚤の市通りへ続く道路の西側を又向きを南に変えて流れて行きます。以前この萬盛橋の南西橋詰に「大黒屋」と言う食堂が有り、そして櫻井商店の南隣りには、ここにも映画館が有りました。小さかった頃は両親に連れられてナイトショーを良く見に来ていました。この映画館が東映の時代劇を上映していて、子供心にチャンバラに夢中になっていました。
食堂も映画館も現在は更地に変わってしまいました。
水路は少し暗渠の下を流れますが、旧道が右手に分かれる所で、旧道に沿って又姿を現しています。
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(蚤の市道路から西に分岐する旧道に沿って流れる水路)
旧道は少しカーブをして、文化食堂の東側から福富写真館の東側へと流れ、現在の市役所の西側付近で、蚤の市通りの西側を暗渠化して姿を消します。
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(栃木市役所の裏手、蚤の市道路の下へ流れて行く水路)
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(写真右手前、市役所の駐車ビルの南側で巴波川に合流する水路の口が見えます)

この大町の大杉神社裏手から市役所駐車ビルの南側で巴波川に合流する水路について、河川名が何か有るのか、役所にて伺った所、「ぬかり沼川」と言う名称を教えて頂けました。
「ぬかり沼川」の「ぬかり沼」とは、現在は無くなっていますが、江戸時代の文化二年(1805)二月、栃木町明細書上帳の中に、≪大ぬかり沼より落ち口字内善橋 一、土橋壱ヶ所 但し長さ弐間余 横巾九尺 右橋普請修覆共に栃木町に而仕候≫(栃木市史資料編近世279頁)、そして次の頁にも≪一、用水 是は大ぬかり沼より出水、町中を相流用水并に町東裏田地用水に而 右沼より拾丁余過下町東裏に而巴波川江流落申候、尤渇水之節は当町より軒別に罷出、沼浚い仕候≫などと、「ぬかり沼」と言う名前が認められます。
更に、文化三年(1806)中山道例幣使道分間延絵図には、栃木宿の北の木戸外に「大ぬかり沼」の絵が描かれております。
この絵図から「ぬかり沼」の場所を推測すると、現在の岡田嘉右衛門邸の裏手(東側)から朝日辨財天が祀られている辺りに有ったものと考えられます。

「栃木郷土史」にも「ぬかり沼」に関する記事が有りました。
≪栃木中央の貫流も、万福寺用水も、その源は大杉新田の大ぬかり沼であるが、明和6年(1769)4月に 原宿・大杉新田・嘉右衛門新田・平柳村・栃木町などの名主と町の年寄などが協力して、196本の杭を打ち込んで構築したものである≫
「大ぬかり沼」は用水の水源確保の為に人工的に造られたため池だったものの様です。明治17年に発行された「迅速測図」の栃木の地図には、この沼の形跡は認められません、唯一筋の水路が現在とほぼ同じルートで描かれているのみです。
「ぬかり沼」が何時埋め立てられて、姿を消したのか私はまだ確認できていません。

嘉右衛門町通りで、音と光の夕涼み [祭]

陽が西の山に隠れ、空が茜色から紺色へと移る頃、家から出て運動不足解消のウォーキングに出発しました。この時間になると昼間の熱波はおさまり、時折吹き抜ける風が汗ばんだ肌に快く感じます。
丁度今日から3日間、嘉右衛門町通りにて、栃木市ブランドの「新波の提灯」と佐野市の「天明鋳物の風鈴」とを使った、光と音の夕涼み会が開催されるという事で、ウォーキングを兼ねてチョッと写真も撮ってこようと、カメラをぶらさげて出かけました。
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通りに面した家の軒先には「泉町」「嘉右衛門町」「大町」のそれぞれの町内会の祭提灯に光が入って、既に暗くなりかけた通りを薄っすらと浮かび上がっています。
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それらの提灯に混じって、「さのまる」くんや「とち介」くんを描いた「新波提灯」も目を引いています。
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時折天明鋳物の風鈴が風に、すきとるような音を奏でています。残念ながらこの美しい風鈴の音色はカメラに収める事は出来ないのが残念です。
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ここ嘉右衛門町通り周辺は、栃木県内で唯一となる、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されていて、古い土蔵造りの見世蔵などが、通りを挟んで残っています。私はそんな通りの雰囲気が好きで、ウォーキングコースのひとつにして、夏の暑い期間は陽が暮れてから歩く事が多くなります。左右に緩やかな円弧を描く通り、暗闇を照らすオレンジ色の街灯の明かり。夜の嘉右衛門町通りは私を遠い子供の頃に戻してくれるそんな通りです。夕暮れ後の通りをのんびり歩く、これがお勧めです。
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今日は夕涼みイベントという事で、カメラマンの方もポツポツ見受けられ、又普段は照明を消して閉じてしまう、通りに面した家も照明が付いて、少し違った風景を楽しむことが出来ました。

栃木市における釜屋号 [懐かしい写真]

今日、関東地方の梅雨明け宣言が有りました。私の住む栃木市も連日30℃を越える暑い日が続いていましたから、「やっと梅雨明け宣言が出たな。」と言った感じです。今後の天気予報を見ても最高気温が35℃から40℃に迫る日が続きそうで、毎日冷たいものばかり取り過ぎて、お腹の方も大分疲れて来ています。
ここは鰻でも食べてスタミナを付けたいところです。もう直ぐ7月25日、土用の丑の日です。市内の鰻屋さんも忙しくなります。
栃木市内にも多くの鰻を扱うお店が有りますが、その中のひとつに「釜屋」さんが有ります。創業は明治2年と言う老舗に成ります。
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(現在の釜屋さんの店舗入口)       (玄関に掛かる釜屋さんの店舗暖簾)
現在の店舗は城内町2丁目に有りますが、以前は河合町の巴波川に架かる「開明橋」の南東橋詰で営業されていました。
手元の「栃木県営業便覧」(明治40年10月発行)を見ると、そこには「釜屋」とでは無く、「鳥屋」と記されています。釜屋さんは元々は鳥料理がメインだったのでしょうか?確かに釜屋さんで頂く焼き鳥、とても美味しいです。
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(巴波川の開明橋の橋詰で営業していた「釜屋」さん。1979年4月撮影)
栃木の市街地には以前、「釜屋」という屋号を用いていたお店が多く見られました。 私が子供の頃、「釜芳さん」とか「釜重さん」とか言うお店の名前を耳にした事が有ります。
そこで、先ほどの「栃木県営業便覧」を調べて、明治40年当時栃木町で「釜屋号」を付けた商店を見付けて行くと、9店舗有りました。
①釜屋   善野喜平    味噌醤油醸造元  室町(現在はNTT東日本栃木ビル.)
②釜屋號  早乙女峰次郎 美術両中形小紋更紗問屋 倭町(元蔵の街第三駐車場)
③釜芳   伊藤芳次郎  砂糖石油肥料食塩商 倭町(現在は足利銀行栃木支店)
④釜屋號  善野伊平   呉服太物商      倭町(現在は中原証券栃木支店)
⑤釜屋   竹澤傅次郎  醤油味噌漬物和洋酒瓶詰 万町(栃木信用金庫本店)
⑥釜屋號  長谷川峰七 染物業          旭町(場所不明、神明宮の東方?)  
⑦釜屋號  篠山長平   染物業         片柳(現在は境町19 駐車場)
⑧釜屋   篠山傅吉   製茶煙草商      相生町(現在は室町4 ミツワ通り)
⑨釜屋號  金子忠吉  萬染物業        入舟町(現在錦町11 かねこ整骨院)
  ※屋号・氏名等は掲載内容、( )内は所在箇所の現在の状況です。
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(境町、旧例幣使街道沿いの染物業「釜長」さん⑦の当時の様子。1978年6月撮影)

釜屋号に関する外の資料を探してみると、栃木市図書館に明治31年(1898)12月発行の「日本全国商工人名録 全」が有りました。この商工人名録は全国的にその頃の商人工人を調べた名簿で、栃木町では97名掲載され、その内8名の釜屋が名を連ねています。
①釜屋  伊藤善次郎  萬町  麻苧商   (現在万町6 空き店舗)
②釜屋  坂本重藏   倭町   麻苧商  (現在は倭町8 再開発中)
③釜屋  大塚金兵衛  室町  呉服太物商 (現在は室町6 デニーズ駐車場)
④釜屋  大塚敬吉   倭町   呉服太物商 (現在は倭町8 再開発中)
⑤釜屋  前澤藤平   萬町   絲類商   (現在は万町4 快眠館大二)
⑥釜屋  善野喜平   室町   醤油醸造  (現在は室町12 NTT東日本栃木ビル)
⑦釜屋  舘野茂吉   泉町   肥料商   (現在は泉町3 旧例幣使街道に東面)
⑧釜屋  伊藤芳次郎  倭町   砂糖商   (現在は倭町11 足利銀行栃木支店)
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(泉町、旧例幣使街道、嘉右衛門町通り入口に建つ「釜平」さん、舘野家住宅兼店舗)

明治31年の商工人名録の中で釜屋号と記した8店舗の内、明治40年発行の営業便覧で釜屋号が付記されなかった商店が5軒(①釜善、②釜重、③釜金、④釜敬、⑥釜平)そして店舗名自体が確認出来なかった⑤釜藤の1軒でした。この釜藤と言うお店は大正時代の萬町(大通り)の店舗名を記した資料によると、営業便覧に出ている「正直屋」と言う、洋傘製造帽子各種の店舗の南隣りに、「釜藤」の名前が出ています。
これまでの資料で確認された釜屋号の店舗は15に成ります。が、この中には最初に話題にした鰻の釜屋さんは出ていません。又、現在も質店を続けている万町の「釜佐」さんも出て来ていません。

図書館で更に資料を確認して行くと、栃木商工会議所が発行した、「栃木商工案内 昭和十年版」の中に釜屋号の店舗を確認する事が出来ました。
 <商号> <営業別>  <営業所>    <氏名>
①釜藤    糸綿        萬町     合名会社釜藤商店
②釜平    履物(肥料)   泉町      舘野惣吉
③釜屋    金物        萬町      田村福三郎
④釜忠    染物業      錦町      金子愛之助
⑤釜伊    呉服太物     倭町      善野碩之助
⑥釜重    麻眞縄      本町      坂本 喬
⑦釜重    荒物(立麻)   萬町      坂本千代三郎
⑧釜芳    砂糖石炭茶製粉 倭町     釜芳商店
⑨釜屋    川魚(蒲焼)    河合町    渡邊為吉
⑩釜佐    質商        萬町      善野佐次平
この資料で新たに確認された店舗は、5軒(③・⑥・⑦・⑨・⑩)と成り、合計20店舗です。
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(現在万町山車会館入口南側の空き店舗が釜屋号③の金物店でした。1994年8月撮影)
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(現在も質商を営む、「釜佐」善野家土蔵。現在は「とちぎ蔵の街美術館」と成っています)

更に、栃木の街の中を歩いていると、今も釜屋号の看板を掲げた店舗を確認出来ます。店舗の名前は「釜利」さんです。大正時代の万町大通りの店舗名を記した資料の中にも、「釜利」(ポンプ屋)と出てました。
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(万町、出井書店から北側3軒目に、「釜利」と記した看板を掲げた店舗)

今回確認出来ただけでも、栃木市内で釜屋号を付けた店舗は21軒有りました。栃木県の県都「宇都宮市」には栃木市よりはるかに多い屋号を付けた店舗が有りますが、釜屋号の店舗はそんなに多くは有りません。それではなぜ栃木の街にこんなに釜屋号を付けた店舗が現れたのでしょうか。
そんな疑問に答える資料となる書籍が最近発行されました。石崎常蔵氏が著した「栃木人 (明治・大正・昭和に活躍した人びとたち)」です。その本の中に正に「釜屋考」としてまとめて有ります。私が以前から興味を持っていた「釜屋号」について今回さらに踏み込む貴重な資料を多く提供して頂けました。参考にさせて頂きました。

栃木町にて最初に「釜屋号」を名乗ったのは、何時の頃で誰だったのか。
江戸文学研究家の林美一氏の著書「歌麿が愛した栃木」(昭和47年9月発行)の中に、初期の善野家の様子が記されています。以下はその要約です。
≪宝暦年間(1751~1763)に近江の守山から、この栃木に来て土着した善野一族は苦労の末に成功をして財を築きました。善野御三家と言うと、「釜喜」・「釜佐」・「釜伊」という事に成りますが、まず最初は善野喜左衛門が「釜屋号」を名乗りました、「釜屋の喜左衛門」略して「釜喜」となります。初代「釜喜」です。そしてこの初代がその弟に2代目喜兵衛として「釜喜」を譲り、その後喜佐衛門は別家をして「善野佐次兵衛」を名乗ります。これが「釜佐」の始まりに成ります。即ち「釜喜」と「釜佐」の初代は同一人物という事に成ります。もう一つの「釜伊」の始まりは、釜喜の2代目の長男が3代目釜喜を継ぎ、弟の伊兵衛が「釜伊」の初代を名乗ったものと云われています。≫
「栃木人」の中で石崎氏は、≪このように「釜屋」は栃木地方の善野三家の成功によって、「信用」のブランドと認められ使用された。≫と記しています。
この事が栃木の街に多くの「釜屋号」の商家が現れた大きな要因と言って良いのかも知れません。

そんな「釜屋号」も時代の流れの中で次第に消えて少なくなってしまいましたが、喜多川歌麿の肉筆画の大作「雪月花」三部作のひとつ「深川の雪」が長い間所在不明と成っていたものが、平成24年(2012)に発見された事で、再び脚光を浴びることと成った,栃木の豪商「釜伊」と、歌麿の作品中に狂歌が載る通用亭徳成こと「釜喜」の4代目善野喜兵衛。これからもずっと栃木の「釜屋号」を大切に語り継いでいきたいものです。

入舟川(栃木市)の風景 [栃木市の河川と橋]

久しぶりに「栃木市の河川と橋」をテーマにしました。
「入舟川」と言う川が栃木市の市街地に有る事を、知らない人は以外と多いと思います。私自身もその川が「入舟川」と言う名前が有る事を最近に成って知りました。その川は長さは僅か250メートル程しか有りません。「入舟川」と呼ばれる通り、その川は栃木市入舟町内を流れています。
旧栃木県庁堀から巴波川との間を結ぶ漕渠(運河、全長約120メートル)が明治5年11月、栃木県最初の県庁舎の建設と共に開鑿されました。現在この漕渠には「学橋」が県庁堀との分岐点に、そして「入舟橋」が巴波川との合流点近くに、さらにもう一つ「中ノ橋」がその名の通り漕渠の中間点に架けられています。
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(手前が巴波川、右端に覗いているのが常盤橋、左側の建物が「横山郷土館」、旧県庁堀と繋がる漕渠は写真右側の合流点から奥に向かっています。手前から「入舟橋」「中ノ橋」「学橋」が見えます。)
入舟川はこの「学橋」と「中ノ橋」の中間点にて、漕渠から分流して南側に流れている水路に付けられた名前です。
入舟川1.jpg入舟川0.jpg
(手前が旧県庁堀と巴波川を結ぶ漕渠、右手の建物は「栃木聖アルバン教会」、奥に向かって行く水路が「入舟川」です。右側の写真は昭和56年(1981)ころの風景、まだ木造の建物が建っていました。)
私はこの「入舟川」の事をかなり前から興味を持って調べていましたが、いまだにハッキリとした事が分かっていません。
何時ごろ何のために開鑿された水路なのか、又誰が作ったものなのか。漕渠から直角に分岐して直線的に南に流し、最終的に東に曲げて巴波川に合流させています。
明治19年7月発行、第一軍官地方二万分一迅速測図「栃木町」の中には、既に「入舟川」の流路が記載されています(名前は記されていません)。 そして北から南への流れが東方向に向きを変える所に「水車」の地図記号を確認出来ます。
又、明治23年11月に精行舎が発行した、「大日本博覧図」栃木県之部に、「栃木県下都賀郡栃木町 醤油味噌醸造 谷田吉右衛門」(※吉右衛門の吉の字は「士」では無く、土の字)の店舗全景が描かれた1枚が掲載されています。その図の中には巴波川沿い、幸来橋の北西側橋詰に、広い敷地にいくつもの土蔵が建ち並ぶ「谷田商店」が描かれていますが、その図の中にこの「入舟川」とおぼしき水路が描かれています。
もし興味が有りましたら栃木市図書館にて閲覧することが出来ます。
更に明治40年10月発行の「栃木県営業便覧」を調べて行くと、「入舟川」とする水路は全く描かれていませんが、先の迅速測図の中に水車の地図記号が記載されていた箇所付近に、「田名網水車」の名前が記されています。
「入舟川」は最初は水車を回すために新たに開鑿された水路だったのでしょうか?まだ疑問は完全に解消されていません。

「入舟川」には3ヶ所に、自動車も通行できる橋が架けられていますが、これらの橋の名前が又なかなか凝った名前が付けられているのです。これらの橋の名前を誰が考えて命名したのか、それが私がこの「入舟川」に興味を持った理由のひとつに成っていました。当然こちらもいまだに疑問のままですが。
上流側から見て行きますと、県庁堀の漕渠から分岐して、南に30メートルの所、栃木聖アルバン教会の南東側に当たる所に架かる小さな橋、この橋の親柱に橋名が刻されています。「忍橋」と。
忍橋親柱.jpg忍橋より上流側を.jpg
(「忍橋」と刻された橋の親柱、奥に見える時計塔の有る建物は旧栃木町庁舎、右側の写真は忍橋の上から上流側を撮影したもので、正面奥に見える石の鳥居は、神道栃木の「井上神社」参道入口に成ります。水路の右側は現在駐車場に成っていますが、明治の営業便覧には「船田別荘」と記されていました。)
現在の橋は昭和8年7月の竣功です。なぜ忍橋としたのでしょうか?1978年12月忍橋.jpg忍橋より下流側を.jpg
(昭和53年撮影の忍橋)         (忍橋の上から下流側を望む、水路は真直ぐ南へ)
私が小さい頃、箱森の家から入舟町の父親の実家に行くときは、何時もこの橋を自転車で通りましたが、この通りは脇道的な存在で通行量はあまり無かった記憶が有ります。今もこの道路を通る人は少ない気がします。この橋を渡った東側は横山家の高いコンクリート製の塀に突き当たります。
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(忍橋の東側、横山郷土館裏手のコンクリート製の高い塀)

入舟川に架かる二つ目の橋は、忍橋から135メートル程下った所に架かる「寶橋」に成ります。この橋は巴波川に架かる「倭橋」から西へ中野病院方向に向かう道路に架けられています。
寶橋.jpg寶橋親柱.jpg
(寳橋の架かる道を東に行くと巴波川の倭橋に出ます)(「寶橋」と大きく刻された親柱)
現在の寶橋の架設年は昭和7年4月で、忍橋の竣功より1年早く架けられています。橋の北東側には栃木で2番目に開設された「いりふね保育所」が有りますが、明治の栃木営業便覧を見ると、「栃木商業会議所」とか「栃木社交俱楽部」「東京興信所栃木派出所」などが有った場所に成ります。
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(寶橋から上流側を望む。右手前が保育所)(寳橋下流側は個人の敷地内を流れる)
寶橋の下流側橋詰に周りを黒く塗った土蔵が建っています。入舟川はこの橋の下流側で個人の敷地内を流れる事から、川の上にも金網のフェンスが設けられています。明治期の地図や営業便覧等にも出ていた水車がこの辺りに有ったものと思われます。
現在土蔵の屋根に載る「鬼瓦」やその前を飾る「ハナブカ」に付けられた屋号紋を確認すると、「カネジャクに漢字の井」の紋が付けられています。
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(入舟川沿い、土蔵の屋根の鬼瓦についている屋号紋)
私が確認をしている範囲では、栃木の旧市内にてこの屋号紋を使っている店舗は、2軒のみです。1軒は万町交番前の「櫻井源右衛門商店」、そしてもう1軒は倭町に以前店舗を構えていた「井上酒店」です。
自慢焼で有名な「富士屋」さんの右隣りの店舗(現在は「MORO craft」さん)の屋根の上、箱棟の部分にこの屋号紋が付いています。それを挟むように「堺屋」の文字が付いていますが、酒類商「井上商店」の名残りです。
現在ここ、入舟川が流れる敷地を所有されている方を住宅地図にて確認してみると、「井上」と記載されています。入舟川は井上邸の庭の下を流れ、向きを東方向に変えて巴波川の合流しているのでした。ただ前記した様に明治40年発行営業便覧の中には、この地にあった水車には「田名網水車」の名前が有りました。そして、その頃井上さんはまだ大通り倭町に店舗を開いていました。いつ入舟町のこの地に移ったのか?そして、入舟川の事を地元の人達がなぜ「井上堀」と呼んでいたのか、今回理解する事が出来ました。

入舟川に架かる最後の橋「會橋」は、巴波川の右岸に沿った道路に架かっています。入舟川はこの「會橋」の下を流れた後、巴波川に合流します。
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(昭和57年3月撮影入舟川、奥に見える橋が巴波川右岸を通る道路に架かる「會橋」)
上に掲載した写真は35年前の風景ですが、現在は手前の石橋も奥の「會橋」も、見られますが、対岸の建物は解体されて現在は更地に変わっています。
入舟川5.jpg入舟川4.jpg
(入舟川下流域、住居表示変更以前、湊町と入舟町の境と成った路地)(現在の風景)
入舟川は2年前の、2015年9月9日から10日の豪雨により大きな被害を受けています。写真に写る石橋は残りましたが、護岸はかなり荒れ、川の中には今も沢山の土砂が残っています。
栃木のひとつの風景ですが、「入舟川」を巴波川と旧県庁堀漕渠と絡めて保存したいと考える、河川と橋です。
最後にこの入舟川の流域周辺を概略図に描いて見ました。
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ツバメ、本日無事巣立ちました [自然の恵み]

我家の玄関先に巣作りをしたツバメの家族、本日無事に全員巣立ちした様です。
ツバメの雛達も、最近はたっぷりと親ツバメの運ぶ餌を食べて、すっかり体が大きく成って来ています。
私が急ごしらえで作った仮の巣にもすっかり慣れ、巣の中で羽をつくろったり、羽ばたきの練習をしたりして、巣立ちの準備を始めている様でした。
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(仮の巣の中でスクスクと育っているツバメの雛達)
5羽の雛の中でも最初に孵化した雛と、最後に孵化した雛とでは、やはり成長に差が有る様で、もう何時巣だっても羽ばたけるよう、巣の縁にとまって遠い空を仰ぎ見ている、親と見違える大きな体のツバメから、まだ巣の中で親ツバメに大きな口を開けているツバメもいます。
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(仮の巣の縁に止まって巣立ちを待つ雛)

昨日、暫らくツバメの様子を眺めていると、ついに1羽の雛が巣から飛び立ちました。暫らくすると別の雛も羽をばたつかせて、後を追って飛び出しました。
巣から落ちる様に飛びだったので、外に出て見ると玄関に糞受けで置いていた箱に1羽、そして隣りの家の車庫の屋根に1羽の姿が有りました。
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(巣を離れた雛達)
近くの電線に止まっている親ツバメでしょうか、盛んにさえずって子供達の巣立ちを促している様に見えました。3羽目も思い切り飛び立ちました。それでも我が家の玄関先で飛び回っている様で、玄関のドアの上に止まって休んいる姿も確認出来ました。
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(近くの電線に止まり子供を監視している親ツバメ)(巣から離れた雛、まだ巣の中にも)
昨日は夕方には又、巣の中に5羽のツバメの姿が確認されました。夕方雷雨が発生したので戻って来たのか、まだ巣立てない雛もいるので、全員が飛び立てるまで待っているのか。

今朝早く巣の様子を確認すると、巣には1羽のツバメしか残っていません。他のツバメは早朝から外を飛び回っている様です。最後の1羽もすっかり体は出来上がっている様です。いつ飛び飛び出そうか踏ん切りが付かないのか。私は心の中で呼びかけました、「飛べ!」「飛ぼう!」と。するとその願いが通じたのか最後のツバメが目の前から飛び立ったのです。
後には、かっらっぽに成った段ボール製の仮の巣が残りました。箱の中には巣が落ちてしまった時、雛達や親ツバメが元の巣を求めるのではと、私が入れてあげた巣の残骸だけに成りました。
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(今朝、最後の1羽が飛び立つ前に)       (空に成った仮の巣)
その後、時々巣を覗いて見ると、もう1羽のツバメの姿も見られません。もう戻っては来ないのか、外に出て見ると、時々巣立ったと思われるツバメの姿が、我家の玄関先を出入りするように飛び回っています。まだ名残りを惜しんでいるのか、私の頭の上も飛び回っていました。
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(我家の玄関近くを飛び回る巣立ちのツバメ達)

今日の夜はもう巣に戻ってこないのか、もう少し様子を見たいと思っています。