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パーラートチギ(旧関根家住宅店舗) [建物]

国指定有形文化財と成っている栃木市倭町大通り(旧日光例幣使街道)沿いの旧関根家住宅店舗が、昨年の暮に新しく「パーラートチギ」としてよみがえりました。
それまでは、通路に面した鉄筋コンクリートタイル張り2階建ての店舗入口の扉や窓は閉ざされ、中が見えない様にガラス部分には目隠しがされていましたが、今は夕方ウォーキングでこの建物の前を通ると、窓がら灯りが洩れています。
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(建物が息を吹き返したように、光が漏れ出る旧関根家住宅店舗)

「関根家」は、明治から昭和初期まで、煙草卸売商を営んでいました。
石崎常蔵氏が著した「栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人びとたち」には、
≪四代目関根源七氏は栃木煙草元捌組合を経営、小山・壬生・藤岡に支店を設け、下都賀郡内の煙草元売業界の責任者として活躍。五代目源七氏は昭和15年(1940)、第七代栃木商工会議所会頭、昭和14年に栃木市初代警防団長、戦後は初の社団法人商工会議所会頭に選任されました。会頭在任中は戦前戦後の会議所の歴史上最も苦難の時期であったが、会頭としてその重責を果たした。(一部抜粋)≫と記されています。
この「関根家住宅店舗」は、平成12年に国の登録有形文化財に指定されました。大通りに面した大正11年(1922)建築の「店舗」、その奥に明治期に建てられた「主屋」、さらにその奥の江戸期の建築と伝わる「文庫蔵」などで構成されています。
昨年の4月に元の所有者のご遺志により、栃木市に寄贈されています。

今回はその「パーラートチギ」さんを訪問しました。
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(パーラートチギのお店正面入口)       (店名のロゴ、お洒落ですね)
店舗の中に入ると、お洒落なアンティーク調の椅子やテーブル、チョッとした小物が置かれ、それでまた特別な雰囲気が演出されています。
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(店内を飾る家具、時の流れを感じる椅子)(緑の葉っぱが壁の白に映えています)

入口を入った横の小さなテーブルの席に座り、コーヒーを注文。暫らく窓の外を眺める。この角度から通りを見るのも又新鮮に感じます。外を観光客と思われる一団が通り過ぎて行きました。
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(窓際のテーブルには、西日が射しこみ始めています)

「建物の中、見学させて貰っていいですか?」
私のぶしつけなお願いに、お店の方が快く対応して下さいました。
調理室の裏手に2階へほ階段。急勾配の階段に手摺につかまり、注意して2階へ。北側の壁沿いの廊下。壁はコンクリートむき出しの様、西側の通りに面した部屋は外光が溢れ眩しく感じる。でも部屋に入ると白一色に塗られ、天井から、大正期をほうふつさせる照明が吊下がっています。いつも通りから眺めていた二階の縦長の窓。今その窓を通して外の景色を見ています。
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(2階の廊下の先は通りに面した西側の部屋)(2階西側の部屋、縦長上下開閉窓)
下におりる時、やはり階段のステップ幅が狭い為か少し不安になりました(これは歳のせいでしょうか)。注意してゆっくりと一階に戻りました。
次に店舗の後に続く部屋に足を踏み入れます。そこには店舗部分と全く違った「和」の世界が広がっています。屋根に設けられた明かり取りの窓から差し込む光が、部屋の中を明るく照らし出しています。
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(店舗後方の「主屋」、木造2階建、南側に通り土間が店舗土間に続く。数寄屋風)
更にその通り土間の先に有る潜り戸を抜けると、中庭に出ました。見られるのはここまでです。その中庭の先に土蔵が見えます。江戸末期に建てられたものと伝えられています。
江戸時代、例幣使街道のひとつの宿場町として栄えた栃木宿は、街道の両側に短冊状に屋敷割が行われ、間口が狭く奥に長い、うなぎの寝床の様な敷地を持つ町屋で、形成されていました。関根邸にてこの特徴をハッキリと確認する事が出来ました。
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お店に戻り、もう一度通りを行きかう車と人の動きを眺めつつ、ゆったりとした時間を暫らく過ごしました。

「パーラートチギ」
若い人たちが運営する「新しい空間」がこれからずっと栃木の街に根付いて行って欲しいと思いました。

カトリック松が峰教会(宇都宮市) [建物]

高校を卒業した後、宇都宮市の工場に就職しました。東武宇都宮線の電車は途中でドンドン通勤客が載って来て混雑してくる、途中で下車する私は直ぐ降りられるドアのすぐ横のシートが私の指定席でした。
終点の東武宇都宮駅まで乗るのは、年に何度有っただろうか、5月1日にはメーデーに参加する為に、駅から競輪場通りの会場まで、ぞろぞろと歩いて行く大勢の人達の後について行きました。忘年会や送別会などでも東武百貨店の店内を抜け、エスカレータを下りてオリオン通りのアーケードの人混みに吸い込まれていきました。
定年後は年に1・2回誘われて昔の職場の仲間と会う為、宇都宮市内の居酒屋に出掛ける時しか、東武宇都宮線に乗る事は無くなりました。それでも宇都宮に向かい、終点近くなると今も電車の窓の外に、大谷石造りの「カトリック松が峰教会の重厚な建物を探しています。

久しぶりに宇都宮に行きました。待ち合わせの時間に余裕が有ったので、駅を降りた後、駅の東側を南に歩いて教会の脇まで行って見ました。こうして近くでゆっくりと見るのは初めてでした。
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(カトリック松が峰教会)
夏の太陽は夕方のこの時間に成ってもまだ十分に強い光を教会の大谷石を照らしつけています。

この建物は平成10年(1998)12月11日に、国登録有形文化財と成っています。
教会のホームページに依りますと、聖堂はスイス人建築家マックス・ヒンデル氏の設計による建築物。聖堂の内外壁に用いられている大谷石は、旧帝国ホテルに用いられた場所と同じ大谷の採石場から切だされたものに、石工職人によりさまざまな意匠が施されています。
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古代および中世初期の教会建築とロマネスク様式によって建設されてり、日本では数少ない双塔を持った教会建築。
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・昭和6年7月起工
・昭和7年11月20日竣工
・施行統括者 宮内初太郎
・石工棟梁 安野半吾
・大谷石造り(鉄筋コンクリート・一部木造)

機会が有ったら、一度は中に入って見たいと思っています。そして、昭和53年(1978)4月に奉献されたというパイプオルガンの音色を聴いて見たいものです。

旧大内村役場庁舎 [建物]

今回は、旧大内村役場の庁舎として昭和4年に建てられた建物を見たいとおもいます。
住所は真岡市飯貝、真岡市街地の荒町から県道156号(石末真岡線)を北に4km程の所で、国道121号との交差点北東側に成ります。ただ、道路から細い道を少し入った場所で通りから見えない為、気が付きにくい建物です。
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大内村は昭和29年(1954)3月に、当時の真岡町と山前村や中村と1町3村合併を行い真岡町に成りました。そして、その年の10月に真岡市と成っています。
真岡市ホームページの説明によりますと、建物の構造はその当時としては最新技術の、鉄筋コンクリート造り2階建ての洋風建築という事です。
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現在真岡市登録文化財として、市内で出土した土器や埴輪等の、埋蔵文化財の展示をしている「大内資料館」として利用されているそうです。

栃木市内で見た、チョッと変わった鬼瓦 [建物]

栃木市内をウォーキングしながら、鬼瓦を見て楽しんでいる事は先日書かせて頂きました。
今回はその中で「へぇー、こんな鬼瓦も有るんだ!」と感心したものが有りましたので紹介します。
何処で見つけたかは秘密です。探してみて下さい。
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(米俵の上に載る大国様の像が鬼瓦に収まっています。泉町にて)
大国様は七福神の一柱として知られ、食物・財福を司どる神様です。縁起物として屋根の上に祀ったものでしょう。
同じ大国様の鬼瓦を、新井町を歩いている時に発見しました。
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(大国様の姿を鬼瓦と一体化させたデザイン、新井町にて)

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(鬼瓦が鍾馗様の像に成っている。嘉右衛門町にて)
こちらの屋根に載っているのは「鍾馗さま」の像と思われます。このような鬼瓦も栃木市内では他にまだ見た事が有りません。
調べてみると、京都ではこの「鍾馗様」の像を屋根や庇に建ってている町屋が多いと言います。
鍾馗様は、中国の唐の時代に皇帝の夢の中で鬼を退治したと言う神様。
お寺にはよく立派な鬼面の鬼瓦が載っていますが、お寺の周辺の家ではそんな鬼瓦に対抗して、にらみかえす「お寺鍾馗」と呼ばれる鍾馗様の像を屋根の上や庇に置いたそうです。他に、鬼は直進しか出来ないという言い伝えにより、丁字路の突き当りに有る家では、鬼の突進を防ぐ為に置く「突き当り鍾馗」や、向かいの家の鍾馗さんにはじかれた邪気が浸入するのを防ぐ「お向かい鍾馗」などと言うものが有るそうです。

先日、いつものように栃木の街の中を歩いていた時、そんな鍾馗様が必要となりそうな立派な鬼面の鬼瓦を発見しました。
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(倭町の横道で発見した、厳めしい鬼面の鬼瓦)
この鬼面の鬼瓦は表通りに面していない上、家と家との間に一瞬姿を現す位置に有る為、街をただ歩いていると気が付かない鬼瓦です。建物もだいぶ傷んでいますので出来れば補修して保存できればと、思います。

栃木の街は「蔵の街」と言いますから、まだまだ私の知らないお宝の鬼瓦が眠っているのかも知れません。新しい発見を期待して、又街歩きをしていきたいと思います。

「イシハラ」店舗移転、戦後の栃木市の建物が又一つ消えます。 [建物]

今年、又ひとつ、栃木市の昭和の建物が姿を消そうとしています。
栃木市街地の中心と成る、蔵の街大通りと銀座通りとの角に建っている「イシハラ」のビルです。
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(2012年6月10日撮影、銀座通り東側入口角に建つ「イシハラ」ビル)
婦人服と学生服の専門店ということで、男の私にとっては殆ど縁の無い建物で、中に入ったのは1・2回しか有りません。最初に入ったのは、現在の建物がオープンした当初、栃木市内で初めてエスカレータとエレベータが有ると聞いて、物見遊山で行きました。まだ高校生のころです。
私の写真のアルバムに、その時「イシハラ」の屋上から真下の道路に並んだり倒れていたりしている自転車の様子をただ撮った写真が残されています。今となると他に何の記憶も残っていません。
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(1968年撮影、 「イシハラ」ビルの屋上から真下の歩道に置かれた自転車の列)
その後、写真撮影が唯一の趣味と成った私ですが、神社仏閣や風景などを撮るのが中心でした。栃木市街地の景色も、巴波川沿いや街中の蔵造りの建物などは撮りましたが、新しい建物はなかなか撮影の対象には成っていませんでした。
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(1979年4月撮影、「イシハラ」のショーウインドウは何時もお洒落でした)
それでも、「イシハラ」も店頭に有るショーウインドウのディスプレイは、栃木の街中でもお洒落でセンスが良くて、目立つものでした。
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(1979年6月撮影、まだアーケードが有った頃の「イシハラ」の角)
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(2010年7月17日撮影、お洒落なショーウインドと蔵の並ぶ町並み)
最近は栃木の街中をウォーキングして過ごす日が多くなり、日暮れの大通りを歩くのもコースのひとつに成っていました。大通りを歩くと必ずこの「イシハラ」のショーウインドウが何時も明るく照明されていて、目を引いていました。
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(2010年10月10日撮影、夕暮れの銀座通り、ショーウインドの照明が付く)
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(2015年8月29日撮影、闇の中に浮かび上がる「イシハラ」のショーウインドウ)
ところが突然そのショーウインドウに「閉店セール」の大きな文字が現れました。これは私にとっても大きな衝撃でした。「イシハラ」さんは店舗移転で、同じ銀座通りの西側、「山本総本店」の隣り、昔紳士服の「みどりや」の有った建物に移り、すでに営業を始められています。
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(2016年9月28日撮影、シューウインドウに衝撃の「閉店SALE」の文字が)
今年も残すところ後2日に成りました。「イシハラ」のビルの解体工事は年を越します。そして「イシハラ」と交差点の対角に位置する、「足利銀行栃木支店」のビルも今、その東側に新しい建物が完成して、通りの角に建っていたビルは、すでに殆んど解体が終わろうとしています。
2016年11月30日解体工事中のイシハラビル.jpg
(2016年11月30日撮影、解体工事が始まった「イシハラ」の建物)
来年は、ここ栃木市街地の中心が大きく変わります。どのようになるのか、今から楽しみです。

蔵の街栃木の風景① [建物]

私の住む栃木市は、その中心市街地に今も多くの蔵造りの建物が残っています。
市街地の中央を北から南に抜ける幅18メートル程の大通りは、江戸時代の初め徳川家康の柩を、その遺言によって久能山から日光に改葬する際に、整備されたのがきっかけとなっています。
栃木の町はそれより先、天正年間(1573~92)に皆川広照によって、栃木城の城下町として町並みが形成されたと言われます。
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(天正年間、栃木町が建ち始めた頃は、こんな感じだったのではないでしょうか。)
※写真はNHK平成3年大河ドラマ「太平記」のオープンセット。中世期の町並みです。

正保3年(1646)、朝廷から例幣使が初めて日光東照宮に派遣されていますが、栃木町を通るこの街道は正式に「例幣使街道」と呼ばれるようになりました。以後、毎年4月の日光東照宮大祭には、例幣使一行や中山道筋の諸大名等が例幣使街道を利用、それに伴って栃木宿はその主要な宿駅として本格的な街並みを形成する事に成りました。
昭和53年10月31日発行の「栃木の街道」(栃木県文化協会)の中に、日光例幣使街道の章が有ります。その中で栃木宿の記述に、≪宿内の大通りでもある例幣使街道は、その中央を幅1間の堀が流れ、その左右にそれぞれ3間道幅であった。≫と有り、これから換算をすると道幅は約12.7メートルだった事に成ります。それからすると、江戸時代から比べると道幅は少し広がった様です。

それから現在に至る370年間に、町並みは変化を続けて来ました。
栃木の町並みを明らかにすることの出来る最古の資料は、承応4年(1655)に作成された「栃木町屋敷間数帳」というものです。その資料を基に、現在倭町交差点の南東部、通りに面して立派な見世蔵等が5棟、軒を連ねている、栃木蔵の街観光ポイントの一つに焦点を当ててみたいと思います。
2002年1月撮影蔵の街栃木の風景1.jpg
(見世蔵などが5棟、軒を連ねる倭町一丁目東側、2002年1月撮影)

まず、現在の市道11201号(東銀座通り)は、東横町道巾3間2尺5寸と記されています。メートル換算すると約6.2メートルですが、現在の道幅を確認すると、通りの東側入口付近で6メートル、西側の出口付近で5.5メートルと成っていますので、江戸時代から道幅はそのままで変わっていません。

その通りの南側には、道路に沿った間口が狭く、奥に長い短冊状の屋敷割が続きます。
最初は五郎左衛門、屋敷表8間1尺(約14.8m)、座敷裏8間(約14.5m)、屋敷竪48.5間(約88.2m)、
その南隣りの屋敷は嘉右衛門、屋敷表7間2尺5寸(約13.5m)、座敷裏8間(約14.5m)、屋敷竪48.5間(約88.2m)。
そしてその又、南隣りの屋敷は太郎右衛門、屋敷表7間4尺(約13.9m)、座敷裏7間(約12.7m)、屋敷竪49間(約89.1m)。
更に南隣りの屋敷は七兵衛、屋敷表8間(約14.5m)、座敷裏8間(約14.5m)、屋敷竪53間(約96.4m)、
そして、その南隣りの屋敷は源次郎、屋敷表8間(約14.5m)、座敷裏7間5尺5寸(約14.4m)、屋敷竪52間(約94.5m)。
ここまで5軒の屋敷表の間数をトータルすると、38間7尺5寸(71.4m)と成り、現在のNTT東日本栃木ビルの北側辺までと成ります。

この区域の屋敷割のその後の変遷を、確認出来る資料を探し比較してみました。資料として宝暦9年(1759)栃木町絵図、明治40年(2016)栃木県営業便覧と、現在の町並みとを比較する概略図を作成してみました。
倭町一丁目東側屋敷割り1.jpg倭町一丁目東側屋敷割り2.jpg
こうして比較してみると、屋敷割が次第に細分化されて来た事が分かります。ただ面白い事に住所表示は承応4年頃の屋敷割が今も基に成っているのか、現在の「MORO craft」さんと「毛塚紙店」さんは同じ住所です。
一番南側に建つ「三桝屋本店」さんは、明治40年発行「栃木県営業便覧」では、「足袋商・須藤半次郎」と成っています。この時の三桝屋本店さんは「玩具商・殿塚久平」として、東横町通りの北側現在の足利銀行栃木支店の一画に名前が記されています。
㈱三桝屋本店さんのホームページを拝見させて貰うと、この区域は明治41年、火災によって焼失、その後一斉に建て替えられたと記され、その後の再生した蔵の街並み、活気あふれる商店街の写真が掲載されています。
現在の三桝屋本店さんの屋根を飾る鬼瓦を良く見ると、中央に昔の「足袋商・須藤半次郎」の屋号が残っています。
三桝屋本店.jpg三桝屋本店鬼瓦.jpg足袋商須藤1.jpg
(三桝屋本店さん正面)       (鬼瓦には足袋商・須藤商店の屋号、山にカタカナのス)

三桝屋本店さんの北隣り「金澤邸」は、営業便覧に「呉服太物商・金澤庄七」と記されています。こちらの建物は高さが低く両側に挟まれた形となっている為、鬼瓦の正面を見る事が出来ません。現在はご商売も止められた様子です。
金澤邸.jpg金澤邸1.jpg
(金澤邸正面)           (鬼瓦は確認できませんが金澤商店の屋号、矩に正)
   
そのお隣は、営業便覧に「和洋紙・諸帳簿・商 毛塚源蔵」と記されています。今も変わらず「毛塚紙店」の看板を掲げています。屋根の鬼瓦そしてその前を飾るハナブカにも屋号が記されています。
毛塚紙店.jpg毛塚紙店鬼瓦.jpg毛塚紙店1.jpg
(手塚紙店の正面)      (鬼瓦とその前のハナブカに手塚紙店の屋号、矩に中)

次は、数年前まで「家具の丸三」の看板が掲げられていましたが、現在は日用雑貨・古道具のお洒落なお店「モロクラフト」さんの建物。鬼瓦の屋号は「矩(カネ)に井」が確認できます。営業便覧にも屋号と共に「堺屋本店」と有ります。「酒類商 井上留吉」と記されています。又、屋根の箱棟の漆喰部にも中央に屋号、その両側に分かれて「堺 屋」と描かれています。
MORO craft.jpgMOROcraft鬼瓦.jpg井上酒店1.jpg
(モロクラフトさんの正面)    (鬼瓦には酒類商井上商店の屋号、矩に井)
MORO craft箱棟.jpg
(屋根の上部、箱棟の漆喰部に屋号と「堺屋」の文字が見えます)

そして最後5軒目は自慢焼の「冨士屋」さん。営業便覧では「乾物商・山本貞次郎」と記されています。冨士屋さんの創業は昭和9年11月と言いますので、後にこちらに店を構えたのでしょう。
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(名物自慢焼の冨士屋さん正面)   (鬼瓦の中央部に屋号は付いていません)
富士屋1979年.jpg2015年2月撮影蔵の街栃木の風景.jpg
(1979年撮影、昔は看板で土蔵を目隠しに)(現在、看板やアーケードも無く土蔵を前面に出しています。2015年2月撮影。冨士屋さんは一番手前、いつも名物の自慢焼を求める観光客の姿が絶えない。)

明治・大正期の姿を留める栃木の町並みも、長い間に少しづつ変化してきています。そしてその変化の名残りが古い建物に潰されること無く残され息づいています。そのような時代の忘れ物を探し当てた時、何とも言えない喜びを感じる栃木の街歩きです。

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(冬の夕暮れは早く訪れ、照明のついた通りは又、別の顔を見せてくれます。)

初めて大阪城を訪れました [建物]

一昨日、昨日とプライベートで初めて大阪旅行して来ました。仕事では何度か訪れましたが、いつも日帰りでしたので、大阪に宿泊したのも初めてでした。
NHKの大河ドラマ「真田丸」も、今まさに大阪城を舞台に、真田幸村と徳川家康との最後の戦いの場面に入ろうとしている所、そんな事も有って一度大阪城公園を見て回りたいと思っていました。
あいにく、日曜日は午後過ぎに雨に成るとの天気予報で、午前中に大阪城公園に向かいました。
曇り空の割には、暖かな陽気になったので、寒さは全然感じずに歩いて回れました。
大阪弁1.jpg大阪弁2.jpg
(京橋駅前の歩道面に、放置自転車防止を呼び掛ける「アカン!!」の文字に大阪を感じる)

大阪城公園の中は、予想通り多くの観光客で溢れています。東南アジアからの観光客も多く、中国語や韓国語・タイ語などが周りで飛び交っています。
JR大阪城公園駅から、紅葉する公園内の木々の上に頭を覗かしている。噴水広場から大阪城ホールの脇を通って「青屋門」へ。
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(大阪城・青屋門)                 (青屋門の先に大阪城天守閣)
目の前に満々と水を溜めた内堀が広がり、その先には高くそびえる様な城郭が、左右に伸びています。内堀沿いに石垣を右手に見ながら、時計回りに歩いて二の丸から「桜門」に向かいます。
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(本丸東側の内堀を北から南方向に望む。幕末までこの石垣上に糒櫓・月見櫓・馬印櫓が有った。)
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(石垣の隙間にたくましく根を張る木々も紅葉しています)
本丸の南側二の丸から「桜門」を抜けて、本丸内に入ると目の前の桝形に巨大な石が二つ。城内第一位となる巨石は「蛸石(たこいし)」と呼ばれ、表面積がおよそ36畳(59.43平方メートル)、重量が約108トンと推定されています。感心して見ていて、写真を撮るのを忘れました。周りの石垣もどれもこれもパズルの組み合わせの様に、見事な積み上げがなされていました。
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(パズルの如く見事に積み上げられた石垣)
桝形の先を曲ると本丸広場の奥に天守閣が聳え建っています。入場料600円、多くの観光客の列に並び案内に従って天守閣の中へ。
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現在の「大阪城天守閣」は昭和6年(1931)、「大阪夏の陣図屏風」に描かれた豊臣時代の天守を参考に建設されました。鉄筋コンクリート造り、本丸から最上層の鯱までの高さは約54.8メートル。古典建築を近代的な技術によって再現した、わが国の復興天守第一号であると、説明のパネルに記されています。
平成7年(1995)、構造補強を伴う復興後最大規模の「平成の大改修」が実施され、同9年に竣功しました。同年、歴史的景観に寄与する近代建築物として、国の登録有形文化財となりました。
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(8階地上50メートルの展望台からは、アベノハルカスや通天閣を確認出来ました)

途中の階の展示も興味の有るものばかりでしたが、ともかく沢山の人の波にのまれて、なかなか思うように鑑賞できませんでした。これも「真田丸」効果なのでしょうか。
天守閣から出て、今度は本丸北側の「極楽橋」を渡り、今度は北西の方向から内堀越しに、城郭の上に聳える天守を撮影して、大阪城を後にしました。
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(極楽橋北橋詰より天守閣を望む)           (北西側内堀越しに天守閣を望む)

栃木の鬼瓦 [建物]

蔵の街栃木の市内には、多くの見世蔵や文庫蔵が今も点在しています。それらの建築物の瓦葺屋根の棟の両端に据えられた「鬼瓦」について見て行きます。
「栃木の鬼瓦」については、栃木市倭町の「栃木郷土参考館」に掲げられた説明文によると、≪寺や見世蔵、文庫蔵などの屋根は鬼瓦が必要であり、その鬼瓦を作る人を「鬼板師」または「鬼師」と呼んでいます。≫と、記されています。ではなぜ屋根の棟の両端に鬼瓦が必要なのでしょうか。
先日、栃木市の文化課主催講座で、栃木市嘉右衛門町通りの「重要伝統的建造物保存地区」を、市の担当職員の方の説明を聞きながら、歩いて巡りました。
その時に、この鬼瓦についても説明が有りました。説明が有った場所は、嘉右衛門町通りの脇の駐車場内に残る古い土蔵の所です。
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(江戸時代後期、安政5年の土蔵)(②青海波の棟、鬼面の鬼瓦、影盛が配されている)

この建物が建てられたのは、安政5年(1858)という事で、この地区で年代が判明している土蔵の中では1番古い建物に成るそうです。
屋根の一番上の部位を棟と言い、その形状は幾つかあるが、栃木で見られるのは、①一般的に熨斗瓦を重ねた「あつのし」、②半円状の瓦を交互に積んで波の形に見せる「青海波(せいがいは)」(※日本の伝統的な吉祥模様)、③棟の側面を漆喰で平らにする、寺社の屋根に多く見られる「箱棟」の三種類です。
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(①の一般的な熨斗瓦を積み上げた棟に成っている、下野新聞社栃木支局の屋根)
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(③の箱棟と鬼面の鬼瓦、そして影盛を配した、湊町の白旗山勝泉院の屋根)

こうした棟を両側から押さえつける様に取り付けられたものが鬼瓦ですが、鬼瓦は寺院建築を中心に普及したそうですが、その本来の役目は棟部分の端から雨水が浸入する事を防ぐ為のものです。その上で更に建物と中に住む人に禍が及ばない様、魔除けとする為、邪気などの侵入を阻む様、鋭い形相の鬼面を模った瓦を配するようになったようです。
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(嘉右衛門町の土蔵の屋根の上で睨みを利かす鬼面の鬼瓦、背後に影盛も有る)

但し一般の家では鬼瓦に鬼面を配しているのは殆ど見ません。市内で見る多くの鬼瓦に配されているのは、その家の家紋や屋号を表わしたものです。他に家を火災から守る願いを現し、「水」の文字を付けたものも見受けられます。

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上の鬼瓦は、岡田記念館の物。中央に配した紋は岡田家の家紋「車前草(おおばこ)」です。

横山家1.jpg横山家2.jpg
上の鬼瓦は、横山記念館の物。中央に配した紋は横山家の屋号か?横山記念館のお店の前の日除け暖簾や、共立銀行だった入口の扉の、曇りガラスに描かれた紋。金庫の扉にも描かれています。

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(水の文字が付いた鬼瓦)   (鬼瓦の後、一回り大きく漆喰で模ったものが影盛です)

またこうした大きな鬼瓦に多く見られるのは、鬼瓦の後に一回り大きく漆喰にて模った成形物ですが、これが「影盛」と呼ばれるものです。その役目は、説明を聞くところによると、鬼瓦に横風が当たると、その背後の瓦2枚分ほどが風の影響を受けて剥がれ易くなる。横風のあおり止めの為漆喰で重りの役目をさせたのが、「影盛」の目的という事でした。ただ最近の鬼瓦を見ると、影盛も鬼瓦と一体となっている物も多くなっている気がします。私が思うに、これは鬼瓦を大きく豪華に見せるだけの物に変わってきているのでは無いかと考えます。
最近は、栃木の街の中を歩くと、屋根の棟や鬼瓦の形に目が向く様になりました。今まで気が付かなかった屋根の見方が、少し分かって来た気がしました。






栃木瓦は燻し瓦だった [建物]

私が生まれ、そして今も住んでいる栃木市箱森町は、昔は瓦屋さんが沢山有りました。その分布は、当初は錦着山の北東部、皆川街道沿いに集落を形成するように有った様です。その後、箱森町から赤津川分水路周辺の泉川町や新井町方面に広がっています。現在はだいぶ軒数も減ってしまいましたが、まだ瓦屋さんの看板を見かけます。しかし現在生産している瓦は、陶器瓦だと言います。昔の「栃木瓦」は製造に手間がかかる、燻し瓦という物だそうで、戦後に成ると徐々に衰退をして、現在では日常的に「栃木瓦」の生産を行っている製造者はいなくなっているそうです。
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(子供の頃は瓦を干している景色や、瓦を焼くダルマ窯の姿を其処彼処で見られました)
そんな「栃木瓦」の歴史をひも解くと、文政年間(1813~1830)の頃に、三河の国三州から来た職人、田村綱五郎・梅吉、そして泉文次郎の3名で製造が始まったと言われています。箱森町周辺には良質な粘土が取れた様です。私も子供の頃永野川や赤津川で良く遊びましたが、赤津川に沢山粘土が有った記憶が残っています。
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(赤津川の土手の上を行く、粘土を積んだ馬車)

現在多く使用されている瓦は、陶器瓦で粘土瓦の一種です。粘土を瓦の形にかたどったものの上に釉薬(うわ薬)をかけて、窯の中に入れて高温で焼き上げた瓦だそうです。瓦表面の釉薬がガラス質になっているため、水が浸透せず、長い年月を経ても美しい状態を保て、メンテナンスの必要が無いと言われます。我家の屋根もこの陶器瓦で守られています。
一方、栃木瓦と言われた燻し瓦(いぶし瓦)は、陶器瓦同様に粘土瓦の一種ですが、陶器瓦と焼成方法が違い、粘土を瓦の形にかたどったあと、何もかけずに窯の中に入れて焼き、その後むし焼き(燻化工程)にして瓦の表面に炭素膜を形成させてあげると、瓦全体(裏も表も)が渋い銀色をした瓦が出来上がるのだそうです。
日本建築のお城や社寺の屋根に多く使われ、深い味わいを醸し出しています。ただ、表面の炭素膜が年月の経過と共に剥がれ落ち、変色してしまうと言われます。(それでも現在は改善されているのでしょうが)
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(藤岡町甲の浄光院本堂が新築されましたが、屋根は「銀いぶし瓦」が使用されていました)

私が宇都宮市内の工場に働き出した当初、私の住所が栃木の箱森町と知ると、「瓦屋の多い田舎だね。」と良く言われていましたが、それも昔の事と成りました。

※瓦の製法については、石州瓦生産の株式会社シバオさんのホームページを参考にさせて頂きました。


蔵の街栃木を切り撮る [建物]

蔵の街と呼ばれる、栃木の市街地を歩いていると、思いがけない「風景」を発見します。
私は、この町に幾つかのウォーキングルートを持っていますが、時にこれまで通った事の無い路地に入る事も多いです。多くは住宅街の袋小路にはまり戻る羽目になるのですが。それでも時に私の目を引く風景に出合う事も有ります。ですから歩く時は必ず胸のポケットにデジカメを持って行く事にしています。
今回はそんな感じで切り撮って来た、蔵の街栃木を構成する風景のパーツと言える、小さな風景を幾つか紹介したいと思います。
嘉右衛門町裏通り1.jpg
(7月24日嘉右衛門町にて撮影)
蔵の街広場1.jpg
(4月20日万町にて撮影)
旧酒造組合栃木支部1.jpg阿部清土蔵1.jpg
(7月24日万町撮影)            (5月8日万町にて撮影)
御用蔵1.jpg翁島1.jpg
(9月2日湊町にて撮影)           (5月29日小平町にて撮影)
蔵の街観光館1.jpg防火用水1.jpg
(3月24日万町にて撮影)          (6月3日境町にて撮影)
栃木カトリック教会1.jpg大谷石倉1.jpg
(7月1日境町にて撮影)              (7月22日泉町にて撮影)
油伝味噌1.jpg
(4月23日嘉右衛門町にて撮影)
これらの写真が何処で撮影されたものか全て分かった人は、蔵の街栃木を相当歩き回っている方です。一枚だけ洋館が有りますが、境町の栃木カトリック教会の窓になります。
これからも栃木の町を歩き回って、新しい栃木の風景を切り撮って行きたいと思います。