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栃木県都市計画道路、小山栃木都賀線 平柳町工区開通式が執り行われる [橋梁]

今日12月17日、栃木県都市計画道路3・3・3号線(小山栃木都賀線)の内、栃木市平柳町の工事区間の片側2車線が完成、開通式が午前中に執り行われました。
都市計画道路小山栃木都賀線は、小山駅前の国道4号線から栃木市の東部を縦断して北関東自動車道の都賀インターチェンジを結ぶ、延長約16キロメートルの広域的バイパス道路です。
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(式典会場に掲示されていた、平柳町工区の「位置図」)
今回開通式が行われた平柳町工区とは、主要地方道宇都宮栃木線の栃木環状線と市街地に入る旧道との分岐する五差路部分から、北方向に進み跨線橋と成って東武宇都宮線を跨ぎ、すでに北側から市道01028号線まで伸びて来ている合戦場工区の道路につながる1,300メートルの区間に成ります。
将来的には4車線道路として計画されていますが、今回は2車線での開通と成っています。
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(式典会場に掲示されていた説明資料の内、「代表断面図」)
私も式典が始まる10時20分に合わせて会場に向かいました。式典会場となるのは東武宇都宮線北側、大宮町と都賀町合戦場との境界付近です。すでに式典会場は多くのテントが張られ、沢山の人が集まって来ていました。
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(式典会場に建てられた開通式典ゲート)
天候に恵まれた式典会場ではすべてが整い、通り初め式が始まるのを待っています。
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(通り初め式の開始を待つ真新しい道路)
花火の合図とともに「開通式典」が始まり、最初に栃木県の福田知事より式辞、その後工事関係者や来賓の方々から事業経過報告や祝辞が寄せられました。その後地元の東陽中学校ブラスバンド部の演奏が行われ、式典を盛り上げました。
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(東陽中学校ブラスバンド部の演奏を聴く多くの観衆)
開通式典に続き、通り初め式が始まりました。
最初は、新しく開通する道路の交通安全を祈願して、道路に記された「祈交通安全」の文字を代表の方達がお清めのお酒にてなぞりました。
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(路面に記した「祈交通安全」5文字をお酒を以てなぞり、交通安全を祈願する)
続いて、栃木県知事や来賓者によってテープカットが行われました。
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(代表者によるテープカット)
次は「くす玉開披」、代表者の他会場に来られた人達も一緒になってくす玉の紐を曳きました。
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(大勢の参加者が一緒になって「くす玉開披」)(開通を祝う垂れ幕がくす玉の中から)
そして最後は栃木県警パトカーの先導にて来賓を載せた車両が、新しい道路の通り初めを行い式典が終了いたしました。
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(先導の栃木県警パトカーに続いて来賓を載せた車両が、通り初めを行う)

一般車両の通行は、午後3時以降という事で、さっそく夕方私も通り初めを行ってきました。
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(東武日光線を越えて北側に下りる。夕陽を反射している建物は、合戦場小学校に成ります)
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(戻って来て南側に下りる。前方の広い交差点は「平柳町東口交差点」に成ります)

平柳町東口交差点より南側「大宮工区」はまだ工事が進んでおりません。式典の来賓挨拶の中からも、計画道路の全線が一日も早く開通出来る様願う言葉が述べられていました。
この道路が全線開通をすれば、栃木市街地中央の大通りの渋滞も大幅に改善をされるものと期待されます。

栃木県道15号線で足尾の町へ、 土木遺産の鍵金橋 [橋梁]

私の住む栃木市から日光市足尾町へのルートは3通り有ります。例幣使街道を北上して、日光の市街地を抜け、細尾町から日足トンネルを抜けて、足尾町に入る「北ルート」。国道50号線を西に進み、群馬県みどり市から北上、渡良瀬川右岸(西側)に沿った道を走り、足尾町に入る「南ルート」。そしてもう一つは、星野町から鹿沼市下永野に入り、大越路トンネルを抜け鹿沼市下粕尾へ。そこから中粕尾・上粕尾を抜け、粕尾峠を越えて足尾町に入る「東ルート」に成ります。
グーグルマップのルート検索を使って、この3つのルートの距離を測定してみると、北ルート70.8km(所要時間1時間46分)、南ルート92.4km(所要時間2時間7分)、そして東ルートが54.0km(所要時間1時間26分)となりました。ただこれは全て一般道路利用と言う条件に成ります。高速道路を利用する事で、北ルートは東北道と日光道を走ると、距離は81.0kmと長くなりますが所要時間は1時間13分と、一番短時間で行く事が出来る様です。南ルートは北関東道を利用しても時間は1時間50分必要となりました。
当初、私の足尾へのルートは、殆んど北ルートでした。最短ルートとなる東ルートは、粕尾の峠越えの道が細く曲がりくねっていて、運転があまり得意では無い私にとっては、とても危険なルートと考えていたからです。それが道路の拡張工事により最近相当改善されて来た為、東ルートを利用する事が多くなってきました。
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(1985年5月、中粕尾森付近の道路脇を流れる思川)
現在も粕尾峠周辺道路はヘアピンカーブが連続し、突然カーブの先から対向車が現れて、急ブレーキを踏むことも時に有ります。又、冬の峠越えは残雪等で路面凍結で、スタッドレスタイヤでも不安です。
私がこの東ルートを利用して足尾に出かけるのは、5月初めの新緑の頃が殆んどですが、以前2002年2月に一度この粕尾峠を越えました。道路の両側に雪が寄せられていて、道幅も一層狭くなって場所によって路面凍結も見られました。スピードを抑えて安全運転で何とか足尾町にたどり着くことが出来ました。
幸いその日は天候にも恵まれ、粕尾峠から足尾町へ下る途中で日光連山の雪景色を近くに見る事が出来ました。
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(2002年2月、粕尾峠から足尾町側に下る途中、日光連山が現れました)
昨年は5月1日と5月5日に、新緑がまぶしい山道を走って来ました。
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(2015年5月1日、カーブ57に差し掛かる付近)

鹿沼側の道は思川を遡る様に、下粕尾・中粕尾・上粕尾の集落を抜け、山の神ドライブインを過ぎると道路は急カーブの連続する山道へと変わります。カーブの番号を記す標識を確認すると、粕尾峠手前で№38の表示が有りました。
丁度粕尾峠の所で、右に折れて横根山や古峯神社方面に行く県道38号線の入口が現れます。峠にて鹿沼市と日光市の境界、道路左手に石碑が建っています。石碑の隣りに説明板も建てられていました。
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(粕尾峠に建つ、酒井善太郎の句碑)
そこには「酒井善太郎の句碑」と記されています。酒井善太郎氏は、当時足尾町議会議長として、粕尾峠の自動車道(昭和28年完成)化に尽力したと説明されています。

粕尾峠(標高約1,100m)を超えると日光市(旧足尾町)の下り坂がうねうねと続きます。
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(県道15号線、粕尾峠、ここで鹿沼市から日光市に入る)

59番目のヘアピンカーブを過ぎると、道路は一直線に下って行きます。道路の左手に沢水が流れています。新緑に誘われ道路脇に車を停め沢の岩場まで降りると、全身にマイナスイオンが降り注いでくる感じを受けます。この沢は流れ下ると「内ノ籠川」と成り、渡良瀬川へと流れて行きます。
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(県道15号線の脇を流れる内ノ籠川の上流部)(2015年5月5日撮影)

途中、内ノ籠の集落を過ぎた所、内ノ籠川を渡る場所に、「鍵金橋」と言う古い橋が有りました。平成2年(1990)上流側に新道が出来て新しい「鍵金橋」が造られ、旧道は通行止めとなって古い橋は渡ることが出来ません。
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(1987年4月撮影の土木遺産「鍵金橋」) (1994年5月撮影、新しい鍵金橋)
この旧道に架かる「鍵金橋」は栃木県の近代土木遺産と成っています。架橋されたのは昭和17年(1942)、橋長25.9m、幅員4.5mの鉄筋コンクリートアーチ橋です。
現在、この古い鍵金橋は人目にも触れず、草木に埋もれる様に、その姿を留めています。
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(2015年5月5日撮影、旧鍵金橋の親柱)(草木に覆われる土木遺産の鍵金橋)

車はそのまま内ノ籠川に沿って坂を下り、足尾の市街地へと入り足尾バイパス道(国道122号線)に合流、内ノ籠川も同じく国道の下を流れて、その先で渡良瀬川に合流します。
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(2016年10月撮影内ノ籠川、この先で渡良瀬川に合流します)









那須高原大橋を渡る [橋梁]

先日、那須方面をドライブしました。JR黒磯駅の西側を走る県道303号線(この道路は元国道4号線でしたが、黒磯バイパスが開通後に県道と成っています。)を北上、那珂川に架かる現代の名橋百選に選ばれた、晩翠橋を渡り、那須分岐点交差点にて左折、県道17号線(那須街道)に入りました。
ところがここで早速渋滞の列に巻き込まれました。ルート選択失敗です。仕方なくノロノロ状態のまま、道の駅那須高原友愛の森で休憩、途中街道沿いのレストランはどこも行列が出来ていました。
この先も渋滞が続きそうなので、その先の交差点で県道17号線に別れを告げて、左折して県道30号線を選択。
渋滞から抜けて少し走ると、突然前方の視界が大きく開けて来ました。道は下り勾配、なだらかな曲線を描いて左にカーブして来ます。左手前方下に赤く染められたアーチ橋の下部が視界に入ります。その後すぐ車はアーチ橋の上に差し掛かると、一直線に那須高原を下る感じで、スピードが増していきます。
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アーチ橋の下を流れるのは那珂川、先ほど渡った晩翠橋の上流部に架かるこの橋は「那須高原大橋」になります。那須塩原市と那須町とを結ぶ橋です。
橋を渡った橋詰に設けられている「西岩崎ポケットパーク」に車を停車させて、橋の上からの景観を眺める事にしました。
ポケットパークには、現在地の標高439mを記した石や、この「那須高原大橋」の建設に携わった人達の名前を記した記念碑が建てられています。
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記念碑には、「ここに記す技術者は、多くの人々と共に自信と誇りをもって、本橋を完成させた方々です」として、160名の氏名と、「1994年11月竣工」の日付とが刻されています。

橋の上から上流側を眺めると、はるか眼下に那珂川が、川底の岩に当たり白い波をたてて流れています。その那珂川に架かるもう一つの橋が確認出来たので、そちらに向かうことで逆にこの「那須高原大橋」を下方から眺められそなので、そちらに車を走らせました。
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上から見えていた橋は「恒明橋」と言い、平成6年(1994)に那須高原大橋が開通する前は、こちらの橋を渡っていた様です。
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こちらの旧道からは田圃越しに「那須高原大橋」の赤いアーチ橋を一望する事が出来ました。
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帰宅後確認をすると、那須高原大橋の高さは42メートル、アーチ部の長さは265メートル、車道幅7メートルで両側に2.25メートルの歩道が設けられています。この橋付近の那珂川は、幾度も左右に大きく蛇行して流れていますが、上流に架かる恒明橋から那須高原大橋の下の流れは、ほぼ西から東に向かって流れています。川の左岸の標高が高く約460メートル、右岸の標高は低く約440メートルと成っています。その為その両岸を結ぶ那須高原大橋は、20メートルの標高差が有る為、大きな勾配が出てしまう訳です。
この大きなアーチ橋のお蔭で、42メートルの谷を上り下りすることなく、360度広がる眺望の中を走る事が出来る様になったのです。(晴れた日には那須連山が一望できると紹介されています。)


塩谷町の西荒川に架かる「落合橋」 [橋梁]

昨日は、あても無く車を走らせていました。不安定な天気で途中で急に激しい雨の中を走ったかと思うと、青空の下を走る所も。宇都宮環状道路から田原街道を北上して、県道63号線を更に北に向かいました。走って行くと前方に水色に塗られたアーチ橋が見えてきます。橋好きとしては、ここは素通り出来ません。橋詰の駐車スペースに車を停めて周辺を散策しました。
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橋の親柱に大きな自然石を置き、「落合橋」、「西荒川」の文字を彫り込んでいます。この橋は平成11年(1999)10月に架け替えが完成しました。大きなアーチからのワイヤーにより橋桁を吊っています。ローゼ橋(補剛アーチ橋)と言う種類の橋になるのでしょうか。
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橋の名称「落合橋」と言うのは、この橋の直ぐ下流部にて、西から橋の下を流れて来た「西荒川」が、北側から流れて来た「東荒川」に合流する、「西荒川」と「東荒川」とが落ち合う場所に架けられている事から、名付けられたものと考えられます。
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(落合橋の北東側橋詰より下流側を。左下側から東荒川、右下側から西荒川)
このような例は、栃木市を流れ下った永野川が、小山市中里付近にて巴波川に合流する場所に架かる「落合橋」や、同じく栃木市出流町にて北の端「片角」から、出流ふれあいの森の中を流れ下りた、出流川(片角川)の右岸(西側)に、出流山満願寺の境内から流れて来た「観音入り沢」の水が落ちる、丁度落ち口に架けられた「落合橋」にも見る事が出来ます。

合流点の下流部に架けられた橋の所まで行って見ると、「落合橋」と同様に大きな自然石の親柱には、「熊ノ木橋」「荒川」の文字が彫られています。「西」と「東」の荒川が合わさって、この橋の下を流れる時には、「荒川」と名前を変えていました。
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熊ノ木橋の道を少し東に歩いて行くと、田圃の畦に”星ふる学校「くまの木」”と手書きされた案内の柱が建てられています。後方に校舎らしき建物が見えます、興味が有ったので行って見ました。入口の石の門柱に「栃木県塩谷郡塩谷町立熊ノ木小学校」の表示が付いています。
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小学校は平成11年(1999)3月に廃校となり、現在は本格的な天体ドームで星空観察体験等も出来る、宿泊型体験学習施設に生まれ変わっているそうです。
星降る学校熊ノ木1.jpg星降る学校熊ノ木3.jpg

一度宿泊して、この山の中で真っ暗な空に輝く数えきれない星の光を、ジックリと見てみたいと思いました。
施設周辺の田んぼも緑から黄色く変わろうとしています。田圃に刺さっている棒の先端にトンボがとまっていました。もうすぐ収穫の秋になります。
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皇居一般参観にて、二重橋を渡って来ました。 [橋梁]

今日、梅雨の中休み、雲の間から青空も覗く、蒸し暑い夏日となりました。事前申し込みにて午後の部の一般参観が可能となり、初めて皇居内を見て歩く事となりました。
午前中は宮殿東側に広がる、「皇居東御苑」内を見学して、午後の一般参観に備えました。
集合時間に合わせて、皇居一般参観の入場口となる「桔梗門」前に向かいました。
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(手前が桔梗濠と南東角に聳える「二重櫓」。左手奥に「桔梗門」を望む。)
この「二重櫓」は、「桜田櫓」とも、「巽(たつみ)櫓」とも言われています。
江戸時代には、ここ「桔梗濠」より「和田倉濠」・「道三濠」を通り、日本橋の下を抜けて、隅田川に通じていました。
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(桔梗門です。この門は「内桜田門」とも言われています。門構造は桝形となっています。)
「和田倉門」側から皇居に向かい、「桔梗濠」の南側沿いを「蛤濠」との境に有る「桔梗門」前で、宮内庁職員の方より通行証を受取り、後について「桔梗門」を潜り、皇居の中に入りました。
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(前方正面の高麗門の先に四角に囲われた桝形広場)(広場右手の渡櫓門を潜ります。)
本日は事前に手続きを済ませた人と、当日受付の人と合わせて400名を超える参観者となりました。入口にて手荷物検査を受け、「桔梗門」の東側に建つ、「窓明館」において参観者全員の入場手続きが済むまで休憩して、参観開始まで待つ事になりました。
午後2時近くに参観開始となりました。「窓明館」を出て、「富士見櫓」の方向に移動します。右手奥に現在の国会議事堂のモデルになった建物と言われている、「元枢密院庁舎」を見る事が出来ました。又、左側桔梗門北側側面となる石垣の石の表面に、薩摩藩島津家家紋の丸に十の字の印を、確認する事が出来ました。よく見ると他の石にも色々な形や文字の様な印が付けられている事も、確認できます。
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(左側石垣の石表面の丸十字紋の印)     (右手奥に見える、元枢密院庁舎)
道に沿って少し左方向に進むと、右手正面に「富士見櫓」が現れます。この「富士見櫓」は、旧江戸城本丸で現存する唯一の櫓で、遺構の中では最も古いものに属するといわれます。三重櫓で、石垣の高さは約14.9メートル、櫓の高さ約15.5メートル。何処から見ても美しく見えるところから、「八方正面の櫓」とも呼ばれています。「富士見櫓」の脇を通り、「蛤濠」と「蓮池濠」との間の道を進んで行くと、正面に宮内庁庁舎が見えてきます。昭和10年(1935)に建築された建物で、戦後昭和27年(1952)10月から昭和44年(1969)3月までの間、三階を仮宮殿として使用していました。
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(富士見櫓と参観者)              (宮内庁庁舎)
宮内庁庁舎前を通り抜けると、新年(1月2日)及び天皇誕生日(12月23日)に一般参賀が行われる、広々とした「宮殿東庭」の北側の端に至ります。「宮殿東庭」の西側に昭和43年(1968)に完成した鉄筋コンクリート造りの宮殿が建てられています。庭に面して南北に約160メートルもの長い棟を見せているのが「長和殿」です。「長和殿」前のこの広場には2万人もの人が入る事が出来ると言います。又この地下には120台の駐車場が造られているそうです。
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(長和殿の前、宮殿東庭において説明を聞く)
広い宮殿東庭を北から南に抜けると、いよいよ「二重橋」を渡る事になります。参観コースはこの二重橋を渡った橋の南詰にて、Uターンして再度二重橋を渡り、宮殿東庭に戻る事になります。
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(宮殿東庭の南端門の先に二重橋高欄を望む)(二重橋の上に出ると皇居正面入口が見える)
「二重橋」の現在の正式名称は、「正面鉄橋」と言うそうです。
普通私達が観光等で訪れて、皇居外苑側から見る「二重橋」は、皇居正門前に架かる石橋の奥に見える鉄製の橋ですが、以前の私はこの手前の石橋の事を「二重橋」と思い込んでいました。
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(2001年1月、皇居を訪れた時撮影した、普段見る事の出来る姿の「正面石橋」)
「正面石橋」は、明治20年12月に木の橋から石造りの橋に、奥の「正面鉄橋」は明治21年10月に、木の橋から鉄の橋に架け替えられました。
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(1969年8月撮影、皇居正面鉄橋)         (1969年8月撮影、皇居正面石橋)

石橋の設計は、当時皇居御造営事務局の技師であった久米民之助、欄干の装飾は同じく河合浩蔵によるものです。石は岡山産大島花崗岩。橋の渡り35.3メートル、幅12.8メートル、円弧のアーチを二つ並べた眼鏡橋の形に設計されています。
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(正面石橋の後方に聳える「伏見櫓」とその間に見えにくいですが「正面鉄橋」が有ります。)
石橋の男柱石の上に設置されている現在の青銅鋳造飾電燈6基は、昭和61年9月に鋳型を取って新しく鋳造されたものです。長年使われてきた以前の飾電燈の1基が、東御苑に設置されています。
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(東御苑内に設置されている、正面石橋の旧飾電燈)

江戸城においては、これらの木橋は「西の丸大手門」及び「西の丸下乗橋」と呼ばれました。「二重橋」の名前は、その架橋された所の濠が深く、橋桁を二重に組んであった事に依ると伝えられています。現在の「正面鉄橋」は、昭和39年3月、新宮殿の工事に際して架け替えられたものです。
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(「正面鉄橋」の中ほどからの眺め。「正面石橋」の先に皇居外苑の緑、奥に丸の内ビル群)
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(「正面石橋」 このアングルからは滅多に見る事は出来ません。)
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(正面石橋南詰からの伏見櫓)                  (正面石橋南橋詰の飾電燈)

少し暑かったですが、7月としては天候に恵まれ、初めての「皇居一般参観」を十分に楽しむことが出来ました。休憩所となった「窓明館」の売店で、菊の御紋の入ったカステラと皇居のしおりを土産に買いました。
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(皇居参観記念スタンプ押してきました)

伝説が造らせた橋物語、結城「みかつきはし」 [橋梁]

今日、栃木のお隣の県茨城県の結城市に「歴史探索ウォーク」に参加して来ました。
栃木市からは、JR両毛線にて小山へ、更に小山からはJR水戸線に乗り換えて、二駅目が結城駅です。
栃木駅発9時6分発の電車に乗り込むと、小山駅にて14分間の乗り換え待ち合わせ時間が有るものの、9時40分には目的の結城駅に到着しました。
結城の駅前で、今日一日結城の街を案内して下さる観光ボランティアガイドの方が出迎えて下さいました。私は結城の街を訪れるのは初めてです。
栃木市と結城市は、室町時代に遡ると、栃木の街をつくった皆川氏の先祖と、結城氏は小山氏と共に兄弟関係に有りました。武蔵国太田氏の出で、下野国小山に移住し小山氏を名乗った小山政光を父親として、小山氏を継いだ長男「朝政」、下野国芳賀郡長沼に住み、長沼氏を称した次男「宗政」、そして下総国結城に住み結城氏の祖となった三男「朝光」です。ここで長沼氏の子孫が長沼荘から、下野国皆川荘(現栃木市)に移住し、皆川氏を称したのでした。

ガイドをして下さったボランティアの男性は、案内のベテランで、前もって予定されたコースを計画通りの時間で進行され、説明の内容も非常に広く深くて、関心をする事ばかりでした。
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(ガイドさん一押しの寺院、七堂伽藍が残る弘経寺「ぐぎょうじ」の表門)
結城の街は、城下町の顔を持ち、街中には多くの寺院が有り、見世蔵や造り酒屋など、時代を感じさせる建物が、街のいたる所で出合う事が出来ます。
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(見世蔵の並ぶ結城の街並)             (造り酒屋の土蔵)
あちらこちら案内を受けましたが、「橋好き」の私が食いついた話は結城の街の北東部に有る、「城跡歴史公園」の南に下がる道の途中に架る、親柱に「みかつきはし」の橋名を付けた石造りの橋に関した説明でした。
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(城跡歴史公園の南側に見える石造りの橋)    (橋の親柱に「みかつきはし」の橋名板)
ガイドさんの説明に依ると、この石橋には「結城埋蔵金伝説」に関係する話が存在します。まずその埋蔵金伝説から話が始まりました。「結城埋蔵金伝説」は日本三大埋蔵金の一つとして知られています。豊臣秀吉の埋蔵金・徳川幕府の埋蔵金そして、ここ結城の埋蔵金の伝説に成るそうです。結城の埋蔵金は、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした時、平泉の黄金財宝を持ち帰って、鎌倉への帰国の途中、頼朝に従い手柄を立てた結城家初代の朝光の館に立ち寄った。その際持ち帰った黄金財宝を朝光に預けたのか、与えたのか。その辺の説明はハッキリ覚えていません。そんな埋蔵金伝説に対してそれから多くの人が、その埋蔵金を求めて発掘を行っていると言います。そして大正時代の事、大掛かりな発掘が行われ、この辺り一帯を掘り起こしたと言います。しかし結果、埋蔵金を発見する事が出来なかったそうですが、その発掘の痕がこのような堀の様になってしまった為、ここに橋を架けたものだそうです。反対側の親柱には「大正六年十二月吉日竣工」とこの橋が完成した日付が付いています。

埋蔵金を発見できなかったにもかかわらず、後始末に立派な石橋を架けていった、夢追う発掘人の、太っ腹な行動に関心する石橋でした。

那珂川に架かる土木遺産の境橋 [橋梁]

昨日、那須烏山市の那珂川に架かる境橋を見に行って来ました。数日前に読売新聞栃木版に「近代化遺産を巡ろう」と言うタイトルの下に、モノトーンの朝靄の中に白く輝くアーチ橋、てまえの川面には小舟が2隻、何とも美しい風景の写真が掲載され、私の目を引き付けました。写真には「土木学会が選んだ土木遺産の境橋=那須烏山市提供」と添えられていました。
珍しい橋となると、じっとして居られません。まして栃木県内の事、実際に行って見てみたいと思い、昨日行って来たものです。
那須烏山方面は結構出かけた事が有りますが、国道294号線で通過するのがほとんどです。今回の目的地の那須烏山市の宮原と大沢とを繋ぐ、境橋は市街地より東へ向かい、那珂川の流れが天狗のお面の鼻の形の様に大きく蛇行している、丁度その鼻の先端部分で那珂川を渡る県道29号線に架かっている橋に成ります。
途中右手に折れて行く県道12号線の先に、白く高くそびえ立つ斜張橋「烏山大橋」の塔が見えます。そこを横目に目的地の境橋に向かいます。
目の前に「境橋」が見えて来ました。その境橋の西詰で県道から左に入る細い道路に入ります。道の角に「烏山町青少年野外活動広場入口」の立て看板が有りました。細い道を進むと那珂川の河川敷きに出ます。車が数台止まっていました。私も車を停め那珂川の川岸へ行くと、下流方向に目的の「境橋」を下から橋全体を見る事が出来ます。
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(境橋の上流側、那珂川右岸の川の流れの直ぐ脇から撮影)
ドッシリとして重厚な鉄筋コンクリート製、その力強さの中にも華やかで美しい曲線を持つ、三連アーチ橋が那珂川の上に架かっています。
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(二本の橋脚の上部高欄部に丸く突き出したバルコニー)
次に車を移動して橋を渡り、境橋の東詰に一寸した空き地が有ったのでその場に車を停め、橋の上を歩く事にしました。
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(橋西詰の親柱に刻まれた橋名、右側がひらがなで「さかひばし」、左側が漢字で「境橋」)
丁度車を停めた場所に、一本の記念碑が建てられていました。そこには「那須烏山市の近代化遺産」と題して、境橋についての説明が記載されています。説明文を転載させて頂きます。
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(橋の東詰に建てられた記念碑。下側に土木遺産認定書を写した石版が埋め込まれている。)
≪境橋は、主要地方道常陸太田那須烏山線の那珂川に架けられた橋長112.5m・幅員6.1mの上路式RCオープンスパンドレルアーチ橋です。現在の橋は3代目で、初代は明治30年に舟橋が、2代目は大正9年に洋式木橋が架けられましたが、度重なる洪水による被害への対応から永久橋への架け替えが昭和10年の第39回通常県議会で決議されました。設計者は、関東大震災後の帝都復興局橋梁課長として隅田川橋梁群の設計・積算や、美橋として知られる聖橋など百数十橋を手がけた当時における橋梁設計者の第一人者・成瀬勝武です。橋脚上には半円形のバルコニーが設けられるなど意匠性と希少性に富み、また、那珂川屈指の景勝地に調和した優美な景観から、平成19年度土木学会選奨土木遺産にも認定されています。≫
橋の上は自動車も頻繁に通過しますが、バルコニーに入る事で、安全にゆっくりと下を流れる那珂川の流れと周囲に広がる山々の紅葉とを堪能する事が出来ました。
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(橋の欄干から突き出たバルコニー、ここからゆっくり風景を眺めることが出来る。)
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(境橋から上流側の那珂川の様子)     (境橋から下流側那珂川の流れ)

秋深まる塩原渓谷へ [橋梁]

先日、インターネットを見ていた時、「口コミで選ぶ 日本の橋ランキング」と言う記事が目に留まりました。記事の頭にエメラルド色の海の向こうの島に伸びる橋梁の写真が目を引いたからです。
記事は≪世界最大の旅行口コミサイトの日本法人トリップアドバイザー株式会社が発表した。≫として、ベスト30の橋梁名とその所在都道府県名が載っていました。
掲載されていた写真は1位の角島大橋(山口県)でした。興味が有るのは我が栃木県の橋梁はどうかという事です。見てみると、27位に「回顧の吊橋」そして29位に「七ツ岩吊橋」の2橋が栃木県としてランクインしていました。
2橋とも吊橋ですが、調べてみると両方とも、那須塩原市の塩原温泉郷の中を流れている箒川に架かるものでした。丁度紅葉も見頃という事で、今日ドライブを兼ねて行って見て来ました。
東北自動車道で「西那須野塩原IC」まで行き、国道400号線で塩原温泉郷へ向かいました。初めに一番手前の「回顧の吊橋」をみようと、近くの駐車場に入りましたが満車状態だったので、ここは後回しにして次の「七ツ岩吊橋」へ向かいましたが、その途中道路脇に「留春の吊橋」「留春の滝」の案内板の立つ駐車場が空いていたので、急遽予定を変更して「留春の吊橋」を見る事にしました。
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(留春の滝)                (留春の吊橋、右岸上流側から撮影)
次に予定をしていた「七ツ岩吊橋」です。ここも国道400号線脇の「塩原温泉ビジターセンター」の駐車場に車を置いて歩く事1・2分で吊橋に着きました。
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(29位にランクされた「七ツ岩吊橋」、左岸上流側より撮影)
「七ツ岩吊橋」は2001年3月に竣工した、「下路式ダブルワーレン補剛吊橋」と言う形式です。橋長は87m、幅員は1.5m。吊橋の塔柱は右岸側のみで、左岸側はコンクリート製のガッシリとした親柱に吊橋の主索の一方を支持する方式で、私は初めて見る形の吊橋です。
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(親柱に取り付けられた銘板)          (吊橋の左岸橋詰より撮影)
橋詰から下を流れる箒川の左岸を少し上流に歩き、塩原渓谷の紅葉を撮影しました。
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(七ツ岩吊橋上流部の箒川の流れ)
次は、ビジターセンターで入手した観光パンフに、「紅の吊橋」が10分ほどで行けると載っていたので、早速向かいました。「紅の吊橋」は塩原温泉郷の街中「塩原もの語り館」の直ぐ裏手に有りました。
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(紅の吊橋、右岸橋詰より撮影)
「紅の吊橋」と命名する通り、橋の周辺は紅葉が鮮やかで、見応えが有りました。
最期は、来るとき見られなかった「回顧の吊橋」に向かいました。太陽が西の山に沈むころに成ってしまい、駐車場はガラガラに成っていました。渓谷へ降りる険しい階段状の道を注意しながら急ぎ足で降りると、途中で太陽が山の陰に入ってしまいました。それほど長い距離でなかったので、吊橋の近くに有った「回顧の滝」の写真も撮影できました。
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(回顧の吊橋、右岸側より)     (回顧の滝、吊橋を渡った右岸側より撮影)
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(橋の銘板)               (回顧の吊橋上より下流側を撮影)
吊橋近くに有った説明板によると、「回顧(みかえり)の吊橋」≪吊橋にかかる重さ(橋自体の重さと乗っている人間の重さ)は、主索と呼ばれるケーブルによって支えられています。回顧の吊橋の主索の直径は4cmで、橋に体重55kgの大人が360人乗っても耐える力を持っています。≫と有りました。チョッと信じ難い数値の様に思えました。渡っていると結構揺れて、2・3人でも落ちるのではと不安になりました。
今日は吊橋三昧の一日でした。

日本で一番大きい煉瓦アーチ橋「碓氷第三橋梁」を見て来ました。 [橋梁]

標高が900メートル程有り結構高いので、紅葉もそろそろ良いのではと思い国道18号線を走り碓氷峠の手前で見る事が出来る、旧信越本線の碓氷川に架かる煉瓦造りのアーチ橋「碓氷第三橋梁」を見に行って来ました。(ちなみに、JR日光駅付近の標高は534m、華厳の滝駐車場付近は1282mです。)
しかし紅葉はまだ少し早かった感じです。山の上の方が色付き始めて来たところです。
最近、長野方面に行くときはもっぱら「上信越自動車道」を利用してしまう為、碓氷峠を越える事はまず無くなっていましたので、本当に久々の碓氷峠でした。
上信越自動車道の松井田妙義ICで一般道に下り、国道18号で横川から碓氷峠に向かいました。碓氷バイパスとの分岐から5km、10分足らずで道路右側に目的の「碓氷第三橋梁」が姿を現します。
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(国道脇から見た「碓氷第三橋梁」)
橋から300m程行った所に有る駐車場に車を置いて、橋の所に戻ります。
国道18号線から橋の上まで歩いて登り、橋の上に乗ることが出来ます。
「碓氷第三橋梁」の説明板が登り口に建てられています。
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※説明板の内容を写してみました。
      旧信越本線の碓氷第三アーチ
   1.建 設 明治二十五年十二月竣工
   2.設計者 イギリス人、パゥネル技師
           日本人、 古川晴一技師
   3.構  造 煉瓦造、アーチ橋
           (径間数四、長さ八十七.七メートル)
   4.建設してからのあゆみ
     碓氷の峻険をこえるため、「ドイツ」の「ハルツ山鉄道」のアプト式を採用して
     横川、軽井沢間が明治二十四年から二十六年にかけて建設されました。
     その、こう配は1000分の66.7という国鉄最急こう配です。
     これを昭和三十八年九月、速度改良の為新線の完成と同時に使用禁止
     となりました。このアーチ橋は廃止になった構造物の中で最大のものです。
     すぐれた技術と芸術的な美しさは今なおその威容を残しております。
     ここに往時を偲ぶ記念物として、その業績を長くたたえたいものです。
         昭和四十五年一月一日
                    高崎鉄道管理局
                    松井田町教育委員会
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下から見上げると、その大きさが一層迫ってくる感じです。残念ながら私は信越本線を利用した事が有りませんので、国鉄最急勾配のアプト式列車に乗車した経験が有りません。
現在、アプト式は大井川鉄道にて1000分の90という勾配で運行されていると聞きます。今度乗ってみようと思います。
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(5号トンネル側より碓氷第三橋梁を撮影)
横川駅から元熊ノ平駅の間は遊歩道「アプトの道」として歩いて散策できると言うので、「碓氷第三橋梁」から「熊ノ平」間を歩いて来ました。


群馬県高崎市を流れる烏川の佐野橋 [橋梁]

先日(2015年10月4日)、読売新聞栃木版の「わが街空から」水辺編の記事が目に留まりました。群馬県高崎市に有る「佐野橋」について書かれていたからです。
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(佐野橋右岸下流側から撮影。奥に上越・信越新幹線の高架橋)
紙面の上半分のスペースに、「佐野橋」全体を上空から撮影した写真が掲載され、下半分に「佐野橋」にまつわる興味深い記事が載っています。
以前、橋に関する本を読んでいる中で「佐野の舟橋」と言うものが書かれていました、栃木の人間としては「佐野」と言うと、お隣の「佐野市」の事と決めつけてしまいますが、この「佐野の舟橋」は万葉集の東歌に収録されている、≪上毛野 佐野の舟橋取り放し 親は離くれど 吾は離るがへ≫と詠われている様に、群馬県に有ったものと今回改めて知る事が出来ました。
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(佐野橋左岸橋詰付近より撮影。背後に上毛の山並みが霞んでいます。)
かなり以前に読んだ本でしたが、改めて引っ張り出して読み直しました。岩波新書「橋と日本人」(上田 篤著)です。その中の「うきはし」の部分、挿絵に葛飾北斎・諸国名橋奇覧「かうつけ佐野ふなはしの古づ」の浮世絵が使われています。
川の両岸に杭を打ち、綱を渡して50余隻の小舟を並べて繋ぎ、上に板を置いて人馬がその上を渡って行く様子が描かれています。舟橋は中央部が川の流れで押される様を誇張してか、「く」の字に曲げて描かれています。ここにも「かうつけ」(群馬県)と記されています。
≪世阿弥はこの歌を元に「舟橋」と言う能をつくった。≫と有ります。「橋と日本人」より抜粋させて頂きます。
≪ある旅僧が上州佐野にやってくると、フナバシをかけて橋供養をしている若い男女にあう。かれらは、親が橋板を外したために川底に沈んでうかばれないまま「邪淫の鬼」となった男女の亡霊である。とうじ、人が川で死んだときは、舟に鳥をのせて鳥が鳴いたところの川底に死骸がある、といいつたえられていた。しかし、その死骸もみつけられないままに成仏できない二人なのだ。そこでつぎのような歌が詠まれる。
東路の 佐野の舟橋鳥は無し 鐘こそ響け夕暮れの空
ここで、「取り放し」が「鳥は無し」によみかえられている。その一句をいわば掛詞として、フナバシも非情さがうたいあげられたこれは古作の能である。≫
又、上毛新聞社発行の「群馬の川」の中に、「烏川にまつわる伝説」としてやはりこの「佐野の舟橋」が掲載されています。
≪烏川にかかるこの舟橋を隔てて両側に長者がいた。佐野村の長者は「朝日の長者」といい、また一方の長者は「夕日の長者」といった。朝日の長者には一人の息男があり、夕日の長者には一人の息女があったが、両方とも一人息、一人娘であった。≫ストーリーはこの美男美女の二人が、舟橋の上で出逢い、互いに慕い合う仲となって行きます。しかし二人の親達はもともと仲が良くなかったので、二人の仲を裂くために、この舟橋を切って落としてしまった。逢う事が出来なくなった二人は、毎日川の両岸に立って苦しみ、ついに二人は烏川に身を投げてしまうと言う悲恋物語です。この「佐野の舟橋」については類似した話も伝えれれているという事です。
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(佐野橋の橋上より烏川下流方向を撮影。長閑な川の風景が広がります。)
現在の「佐野橋」は当然舟橋では無く、鋼鉄製の橋脚が並んでいます。欄干と橋床は木製ですが、橋桁は鋼製と木製の部分が混ざっている様です。全長121メートル、幅2.15メートルとなっていますが、橋詰はコンクリートのガードが造られ更に幅が絞られています。人や自転車は通行可ですが、軽自動車以上は不可となっています。今日も犬を連れた散歩の人や、学校帰りの生徒が自転車で渡っています。
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(佐野橋東詰より撮影。幅員1.4mの標識が立つ)
群馬県高崎市を流れる「烏川(からすがわ)」に架けられた「佐野橋」は右岸の佐野窪町と左岸の上佐野町を繋いでいる生活道路のようです。
今回私は右岸の佐野窪町側から現地に入りましたが、田畑や河川敷が広がり思うように目標に向かうことが出来ませんでした。田圃の中の道路脇に車を置いて、歩き回り幸い散歩をしていた方に教えて頂き「佐野橋」にたどり着くことが出来ました。「佐野橋」の直ぐ上流側には「上信電鉄線」の「烏川橋梁」が架かっています。
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(佐野橋の上流、上信電鉄の鉄橋の上をカラフルな電車が走っていました。)
烏川の左岸には立派なマンションも建てられています。高崎駅も近い為付近にはアパートも多く建てれれています。一方右岸は河川敷や田畑が広がる長閑な田園風景が残っています。もうすぐ西の山脈に夕陽が沈もうとしています。急いで家路につきました。