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草むらに埋もれる石碑の残骸 [石碑]

最近、岩舟町に足を向ける事が多くなっています。先日は両毛線を走る蒸気機関車を見に、岩舟駅へ。そしてその前は、岩船山南東側の中腹となる「兜山公園」に建つ、「御野立記念之碑」撮影の為です。
この石碑は、明治32年11月に明治天皇が此処、鷲巣御野立所にて近衛師団小機動演習を御統監されたことを記念して建立されたものです。
田代善吉著「栃木縣史・皇族系図編」には、≪11月16日午前9時、行在所御出門、同9時10分汽車に召され岩舟駅御着、龍馬に召され岩舟及び新里方面に進軍諸兵を御観戦の為、真先に龍馬を進められ、同地の高丘に登らせられて戦況をご覧遊ばされ、更に新里山麓に龍馬を驅らせられ、佐野方面より進軍せる南軍と、北軍との激戦を親しく御覧ぜらるること約2時間余に及びしが、激戦終わるや、更に岩舟山より坊主山中よりの両軍の動揺及地形等を見そなはさるること約1時間程であった。≫と記されています。
ここで、行在所とは当時の「栃木第二中学校」で現在の県立栃木高等学校に置かれた、明治天皇の御宿泊所で、当校にはその時行在所となった建物が「記念館(御聖蹟)」として保存されています。
更に「栃木縣史」を読み進めると、≪新里の御野立所より岩舟山鷲巣字兜山通称坊主山に行幸御観覧遊ばさる、此地は眺望よき地形である。此御野立所に於いて、御昼食を食し召さる、午後2時岩舟駅御発、午後2時15分栃木駅御着、御料の馬車にて午後2時25分行在所に御還御遊ばさる。≫と、その日を締めています。
ここで記されている「新里の御野立所」にも、記念の石碑が建てられていました。上記の岩船山鷲巣、兜山公園の石碑の他、岩舟町にはこの明治32年11月の近衛師団小機動演習の記念の碑が建てられていたのでした。その当時、鷲巣字兜山は岩舟村、そして新里字天狗は小野寺村と分かれていました。
この小野寺村大字新里字天狗に建てられた石碑を撮影したく、その場所が何処であるか地形図上で探索をしましたが、「下野藤岡」2万5千分1の国土地理院地形図には、「新里」の集落区域内に石碑の地図記号は記されておらず、ヒントを見付ける事が出来ません。そこでゼンリン住宅地図「栃木市6(岩舟)」で探索すると、岩舟町新里の西端、佐野市との境に近い両毛線の線路の北側に、石碑の記号を2個確認出来ました。
この場所は、三毳山の北東端にコブの様に連なる小丘の北側の山裾に当たります。
岩舟町新田、天狗山.jpg
(岩舟町古江から東方向を望む。左に岩船山、右側に三毳山の山裾、中央の小丘が天狗山)

このコブの様に突き出た小丘は標高55メートル。恐らくこの小丘が天狗山と思われます。この山の南側には、主要地方道桐生岩舟線が三毳山との間、切通となって通っています。また北側の裾野に沿って両毛線が走っています。
さっそく確認の為に現地に車を走らせました。
新里の集落の中央を南北に縦貫する「市道1052号線」を南に進むと両毛線の踏切が有ります。この踏切の手前線路に沿って西に入る細い道が有るので、右折して細い道を少し進むと、線路の北側が少し広場の様になっているので、そこに車を停め探索開始です。
すっかり緑の葉が生茂った桜木の木々の間に、ゼンリン住宅地図に記された如く2基の石碑を確認しました。しかしそれは目的の石碑とは違うものでした。
手前に建つ石碑には「小野寺公園」、碑陰には「明治四十年十月」「大字新里」の文字が刻されているのが確認出来ました。その奥の石碑は「轢死者供養塔」と刻されていました。
小野寺公園の碑.jpg轢死者供養塔.jpg
(小野寺公園と刻された石柱)          (轢死者供養塔と刻された石碑)

小野寺公園について、「下都賀郡史・第2巻」に以下の様に記されています。
≪大字新里字天狗山にあり、明治32年11月近衛師団機動演習を本県下に行せらるるや、大元帥陛下には親しく兵を閲し給い、同月16日本村大字新里 今の公園の地に蹕を止め給う。村民は此の千歳一遇の盛事を永遠に伝えんと欲し、明治40年1月御駐蹕の碑建設の計画を立て、先ず近辺一帯3.5アールの地を買収して村有となし、同年9月1日建碑式を挙げたり。明治44年2月12日本碑管理規定を設けて皇謨を無窮に伝へんと謀り更に此の地に植えうるに桜樹50余本を以てし小野寺公園となす。≫
小野寺公園.jpg
(小野寺公園は今、桜木に緑の葉を付け、こもれびに溢れていました)

ここで、この小野寺公園の横を走る両毛線について、開業は明治21年(1888)5月22日(小山-足利間・両毛鉄道)ですから、近衛師団機動演習を此の地に展開した時には、既に天狗山の北麓に沿って走っていました。従って明治天皇が御野立された場所が山上であれば、鉄路越しに演習の様子をご覧になったと思われます。
岩舟町新里1.jpg
(小野寺公園の北側に広がる田畑、ここに近衛師団の機動訓練が繰り広げられた)

現在、両毛線の岩舟駅と西隣りの佐野駅との間は、なぜか複線区間に成っております。この複線化工事は昭和43年(1968)に行われています。又、現在は有りませんが昭和27年(1952)には、この天狗山の北側、現在の踏切の場所から直ぐ西側の所に、小野寺駅が開業をしております。
天狗山と両毛線.jpg
(天狗山を東側から望む、両毛線が山の北麓を抜ける。その右側の森が小野寺公園)

昭和39年11月30日発行、国土地理院2万5千分「下野藤岡」の地形図を見ると、確かに踏切の直ぐ西側の所に駅の記号と「おのでら」の文字が記されています。
「小野寺駅」はその後昭和41年には休止となり、昭和62年に至って廃止されています。今はその面影は全く残っておりません。
両毛線の線路元小野寺駅付近.jpg
(かつて小野寺駅が有った所。今は何の名残りも認められない)

この事から、現状の姿から、明治32年当時の様子を伺う事は困難な事です。
御野立ちの所は何処だったのか、記念の石碑は何処に有るのか。

たまたま公園にいらした現地の古老に、この石碑の事について尋ねたところ、ご存知でした。話を伺うと、石碑は複線化に伴う造成工事の折りに重機で誤って破損させてしまい、公園の隅に移動して寝せてそのままになっているとして、その場所に案内してくれました。
そこは雑草が生い茂っていて、草をかき分けてみるとその陰から、石碑の残骸が現れました。
石碑の残骸1.jpg石碑の残骸2.jpg
(小野寺公園の草むらに横たわる、石碑の残骸)

この残骸と化した石碑に刻された碑文が、冒頭に紹介した「栃木縣史」に掲載されています。
石碑正面に、
≪御駐蹕之碑   海軍大將東郷平八郎書≫
碑陰には、
≪明治三十二年十一月 天皇 近衛兵を下毛の野に閲し十六日武を講し兵を觀し
 蹕を焉に駐めらる思布方雍熙の世皥皥の民治に居て亂を忘れず石に樹て蹕の
 址を表し以て皇謨を無窮に傳へむと欲す於戯盛倍大業民の忘る能はざるめ乃と
 謂ふべき乎
  明治四十年九月      栃木中學校長従七位 劉須謹撰并書
                                 小野寺村建設≫
と有り、横たわる石碑の残骸にも、碑文の文字を見つける事が出来ます。

こうした石碑の現状に時の流れと、時代の変化を改めて知る事が出来ました。
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栃木中央小学校の校庭隅に横たわる石碑 [石碑]

私が子供の頃6年間過ごした栃木市立栃木第二小学校は、2010年4月1日、栃木市立栃木中央小学校と名前が変わってしまいました。通学する学童数減少に伴って、直ぐ前に有った第一小学校と統合されての名称変更でした。
それからすぐ、私が、そして私の子供等が学んだ校舎やプールなど全てが取り壊され、2010年6月27日に訪れた時は、更地と化していました。
2010年6月27日更地と化した栃二小の跡.jpg
(校庭東側の道路、奥の突き当りは「栃木高等学校」。2010年6月撮影)
その後、栃木中央小学校としての新校舎建築工事が始まり、2012年2月14日に、4階建ての新校舎が完成しています。
栃木中央小学校.jpg
(新築された4階建ての「栃木中央小学校」校舎、2013年9月撮影)
その新しくなった栃木中央小学校の校庭の南西隅に、建てられずに横たわる石碑が有ります。建てていないのは、石碑の中ほどを横断する様に、ひび割れが起きている為、安全上の理由という事です。
横たわる聖駕駐蹕記念之碑.jpguts246.jpg
(栃木中央小学校の校庭南西隅に横たわる石碑2015年4月撮影と碑文書き写し)
そしてその下側にもう一基、石碑の右上部分が欠損した為か、コンクリートに埋め込まれた石碑も、同様に横に寝かせて据えられています。
石碑の説明碑1.jpg
(上記の碑の足元に同じく設置されている石碑、同日撮影)
この碑は、上の「聖駕駐蹕記念之碑」が、先の第二次世界大戦に敗れた後、地中に埋められたが、昭和42年当時の学校長やPTA会長らが、掘り起こして修復、栃二小の管理棟の東側、玄関脇に再び建てた経緯が記されています。右上の破損部分欠落した文字について、文章の前後関係で推察される文字を(カッコ)内に記し、下に書き写し文を載せます。
uts014.jpg
(「聖駕駐蹕記念之碑」の経緯を説明した碑文を書き写しました)
私が通学をしていた当時には、まだこの石碑は建っておりませんでした。もし建っていても小学生の私には、絶対気が付かなかったでしょうが。私のアルバムに残る、昭和38年(1963)に撮影した当時の第二小学校管理棟の東側に石碑の姿は当然石碑は写っていません。
1963年栃木第二小學校.jpg
(昭和38年撮影の、栃木第二小学校校舎、手前2階建てが管理棟)
昭和53年(1978)1月の雪が降った後に撮影した、第二小学校の管理棟東側に、周囲を石柱で囲まれた中に建つ石碑の姿が写っています。
1978年1月雪の第二小.jpg
(昭和53年撮影の、降雪後の栃木第二小学校、管理棟東側に石碑が建つ)
戦後校庭の地中に埋めた石碑を掘り出して修復した昭和42年、その年の4月に校庭の遊具で遊ぶ子供達を撮影した写真を見直してみると、遊具の奥に石柱の囲いとその時植樹した木の支柱などと共に石碑の一部が写っているのを確認しました。正にこの年の3月に建てられていたのでした。
1967年4月校庭にて.jpg
(昭和42年4月撮影、遊具の奥2階建ての管理棟の横に植樹された木の支柱等が写る)

管理棟の東側、玄関脇に掲示された「栃木市立栃木第二小学校」の銘板の左に写る、在りし日の「聖駕駐蹕記念之碑」の姿。私のアルバムの中に残っていました。
聖駕駐蹕記念之碑1.jpg
(栃木第二小学校の管理棟東側に建つ「聖駕駐蹕記念之碑」の様子)

大正7年11月、栃木中学校(現、栃木県立栃木高等学校)に大本営を置かれ、栃木・茨城両県下に於いて挙行された陸軍特別大演習、最初の14日は演習地下館駅へ。2日目15日の演習地新治駅へ。3日目16日は結城駅へと仰出され、4日目の17日は栃木町周辺に演習地を求め、朝5時50分に大本営を御出門。その日の午後は栃木第二尋常高等小学校(現、栃木中央小学校)の校庭に行幸され、演習に参加した各将校をこの所に集めて、親しく御講評を行われました。この石碑は、碑文にも刻されている通り、その所に記念碑を建て、その御遺蹟を永遠に保存する事を目的としたようです。
しかし、その後第二次世界大戦に敗れた事で、記念碑も地中に埋められてしまう事と成り。その後は昭和42年3月に建てられた石碑が記す如き経緯を辿り、現在はここ栃木中央小学校の校庭の隅に静かに寝かして置かれる事と成りました。

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栃木県立栃木高等学校の構内に建つ、明治天皇御聖蹟 [石碑]

私の子供の頃に、遊び場の一つだった栃木高等学校の構内。今では勝手に入る事は出来なくなりましたが、これまで何度か許可を頂いて構内を見学しました。
正門を入った左側に有る「洗心苑」と命名された庭園には、3月の下旬に成ると枝垂桜にピンク色の花が咲いて暫し華やかな姿を現します。
洗心苑.jpg
(「洗心苑」、左奥の樹陰に石碑が1基建てられています。2017年3月30日写す)

この場所は昭和4年に昭和天皇即位のご大典記念事業として、奉安殿が建てられましたが、戦後の昭和21年8月に撤去された後、昭和35年から始められた環境整備事業の一環として計画され、昭和36年11月に完成した総面積804㎡の「洗心苑」として、生徒たちはもとより、訪れた人の心を暫しなごませてくれる場所と成っています。

この県立栃木高等学校は、明治32年11月栃木県下にて、旧栃木町を中心に下都賀郡地方に於いて、近衛師団の小機動演習が行われた際、明治天皇の行在所となりました。
その記念として、この「洗心苑」の奥に大きな石碑が建てられています。
石碑の表面中央には、元帥侯爵山縣有朋の書になる、「聖駕駐蹕碑」の5文字が大きく刻されています。
碑陰に刻された碑文は、木の枝が掛かるなどして少し読み難くかったですが、写真に撮って拡大して見ますと、
≪明治三十二年十一月十五日  天皇閲兵於毛之野駐蹕于本學  
                    三日於戯 聖恩弘大何以報之  詩云夙夜匪解以事一人≫
  ≪明治三十八年十一月     栃木中學校同窓會長従七位劉須謹撰≫
と刻されています。
     (※劉須:第二代校長、明治34年3月31日〜大正3年12月27日)
聖駕駐蹕碑(表).jpg聖駕駐蹕碑(裏).jpg
(洗心苑の奥に建つ「聖駕駐蹕碑」。左が碑表、そして右が碑陰の写真)

校舎の裏手(北側)の、復元された元県庁堀の際に、明治天皇の行在所となった建物が、記念館(御聖蹟)として保存されてます。
記念館.jpg
(記念館全景、手前の堀は「旧県庁堀」で埋立てられてましたが、平成7年に復元されました)

この建物は、明治29年本校創立の年に建てられた本校最古の二階建ての建築物で、当初階上は講堂、一階は校長室・事務室・宿直室などに使用されましたが、明治32年11月15日より4日間、近衛師団北関東大演習の折、改造されて行在所となりました。
又、栃木高等学校は大正7年11月13日より7日間陸軍特別大演習が行われた際にも、大本営が置かれ、その折も大正天皇の行在所として使用されています。

正門を入った所から右方向に向かうと、明治43年9月東宮殿下(大正天皇)の御来校を記念して、大正3年11月に建てられた「記念図書館(養生寮)」が建っています。そして、この建物の南側のエリアーが「メモリアルゾーン」として、「明治天皇栃木行在所」や「大本營記念」そして「聖井之蹟」と刻した、3基の石碑が建てられています。
記念図書館.jpg明治天皇栃木行在所の碑.jpg
(正門を入った右手の「記念図書館」)(メモリアルゾーンに建つ「明治天皇栃木行在所」の碑)

「明治天皇栃木行在所」の石碑は、昭和13年7月に建てられています。これはその前の年、昭和12年12月に「名勝天然記念物保存法に依り史蹟として文部大臣の指定を受けた事により建てられたと思われます。
石碑の側面にはこれらの内容が刻されています。

大本営記念の碑.jpg大本営記念の碑(裏).jpg
(同じくメモリアルゾーンに建つ「大本營記念」の碑正面) (「大本營記念」の碑陰)

「大本營記念」の石碑は大正9年11月に建てられたものです。碑陰には当時の栃木縣立栃木中學校長 従六位勲六等依田義三謹撰の碑文が刻まれています。
   (※依田義三:第三代校長、大正3年12月28日〜大正11年4月16日)
  <碑文>
        大正七年十一月十三日 今上以我黌充大本營駐蹕七日
        講武于常毛之野治而不忘亂於戯大哉 睿謨師生感激弗
        知所措謹刻貞珉表 聖跡於無窮矣 

碑文に有る通り、この大本營は大正7年11月13日から11月19日の7日間に渡って行われた、陸軍特別大演習の際、栃木中学校(現在の栃木高等学校)に置かれた「大本營」の事に成ります。
上記の記念館の中には、その時学校正門の門柱に掲げられた「大本營」と大書された木札が展示されています。

それらの石碑の建つ先に更に進むと、少し小さな石碑が建てられています。
正面の上半分を使い、「聖井之蹟」の文字が刻されています。下半分には碑文が刻されています。
       <碑文>
        此昔供 天子食膳泉也
        今廢矣明治壬子夏吾儕
        清湮建碑以致敬虔誠
         栃木中學第三學年生識

聖井之蹟(全).jpg聖井之蹟(碑文).jpg
(メモリアルゾーンの東奥に建つ「聖井之蹟」の碑)  (「聖井之蹟」の碑文)

栃木県立栃木高等学校は、我家から一番近い学校でしたが、私にとっては一番遠い学校でした。憧れの学校でしたから私のアルバムに1965年4月に撮影した栃高の正門の写真が残っていました。
1965年4月栃木高校正門.jpg

現在は毎年開催されている「栃木 蔵の街かど映画祭」のメイン会場として、ここ栃木高等学校の「洗心苑」西隣りに建つ「講堂」が利用されている為、その時に洗心苑やメモリアルゾーンに建つこれらの石碑を見る事が出来ます。ちなみに今年の開催は第11回で、来月5月12日(土)と13日(日)です。
ただ記念館内部の見学に関しては、事前に栃木高等学校に問い合わせが必要になります。
映蔵2.jpg映蔵1.jpg
(映画祭のメイン会場となる「講堂」)  (講堂入口に掲げられた「映藏」の日除け暖簾)
この「講堂」は明治43年2月13日に落成した本校二番目に古い建築物で、入学式、卒業式をはじめ各種の行事に使用されてきました。
尚、今回紹介した「記念館(御聖蹟)」「記念図書館(養生寮)」「講堂」の建築物は、登録有形文化財に成っています。

今回参考にさせて頂いた文献:栃木市史 資料編近現代Ⅰ、
                    栃髙百年史、
                    小冊子「栃高の旧跡」平成21年1月1日発行






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御野立記念の碑 栃木市岩舟町鷲巣 [石碑]

この場所は、眼下にJR両毛線の線路、西南西の方向に三毳山、そして前方少し左(南南東)方向に地元で富士山(ふじやま、標高93.7メートル)と呼ばれる小丘を望む所。正に目の前近くに岩舟の街を一望出来ます。
岩舟町兜山公園1.jpg
(兜山公園から南の方角を望む。奥に見える小丘が富士山)
岩舟町兜山公園2.jpg
(兜山公園に設置されている「栃木市岩舟町パノラマ」図)
北側は日本三大地蔵の一つとも称され、死者の魂が集まる所とされる岩船山(標高172.7メートル)に成ります。
この岩船山の南東に位置する所は「兜山公園」として整備されています、通称坊主山と呼ばれています。標高は50メートル程で、比高を見ると約20メートル程の高さとなります。
この高台に現在2基の石碑を見る事が出来ます。
御野立記念の碑3.jpg
(兜山公園に建つ2基の石碑。手前「明治天皇鷲巣御野立所」と読める)
その一つは碑文に大正元年八月と刻されていますが、正面に大きく「御野立記念之碑」その左側に「陸軍大将正三位勲一等功二級男爵鮫嶋重雄謹書」と有ります。
碑陰の文は「栃木中學校長劉須謹撰」と刻されています。尚碑陰左下隅に「岩舟村建之」と有りました。
御野立記念の碑1.jpg御野立記念の碑2.jpg
(後方に建つ石碑「御野立記念之碑」) (碑陰には大正元年 劉須謹撰の碑文を刻す)
碑文全体を読み写してみました。
御野立記念の碑文写し.jpg
(御野立記念之碑の碑文を写し書きしました)

栃木市史の資料編近現代Ⅰを開くと、第三章第四節に「天皇の行幸」と有り、初めに「一、近衛師団演習(明治三十二年) 栃木町に行在所」の記事が記されています。
其の中に、「演習天覧」 (十六日 岩船山東南部中腹の坊主山で観戦された。)としてその時のエピソードが紹介されています。

手前に建てられている石碑によると、此の地は「明治天皇鷲巣御野立所」として、史蹟名勝天然紀念物保存法に依り史蹟として昭和11年11月 文部大臣指定された事が刻されています。ただ、その後同法に依り史蹟指定された明治天皇の行在所等の「聖蹟」は、昭和23年6月29日一斉に史蹟解除されています。

ただ史実として明治32年11月16日にこの地で明治天皇が、南軍北軍に分かれた近衛師団の激戦を交わす戦況を観戦した事、その後ここ御野立所に於いて御昼食を食した事などを、碑文として刻したこれらの石碑が、今日の私達に静かにその事実を伝えてくれているのでした。
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栃木市日ノ出町の元軍馬購買所跡地に建つ石碑 [石碑]

栃木市大宮町から県道44号(栃木二宮線・通称小金井街道)を通って栃木の市街地に向かってくると、今泉町二丁目の中元内科医院の手前で、斜め右に入る道路が有ります。こちらの細い道路が昔の小金井街道でした。この道路は現在市道11118号線の管理番号が付けられ、途中東武日光線の踏切を通過して日ノ出町の榎堂稲荷神社の前を通って、ウエルシア栃木日の出町店の所で、再び県道44号線に突き当たります。途中の踏切は歩行者二輪車は通行できますが、自動車は通行不可になっています。
旧小金井街道東分岐.jpg旧小金井街道東武日光線踏切.jpg
(左が現在の県道、右が旧小金井街道)  (途中の東武日光線踏切、自動車通行不可)
この旧小金井街道の西側の出口近く、現在の山門クリニック駐車場の隅に、大きな石碑が道路に面して建てられています。その手前には小さな3基の石碑が建ち、向かって右側の石碑から「生駒大神」・「軍馬忠魂碑」・「黒鹿毛ギヤンタ號 鐡馬靈神」とそれぞれ文字が刻されています。
鐵馬霊神.jpg軍馬忠魂碑.jpg生駒大神.jpg
「鐡馬靈神」と刻した石碑は、昭和6年2月5日に小松澤繁助翁が建立。
「軍馬忠魂碑」と刻した石碑は、昭和14年4月7日に栃木軍馬購買斡旋組合が建立。
「生駒大神」と刻した石碑は、昭和22年6月5日に栃木家畜商組合員有志によって建立。

そしてその後ろに建つ大きな石碑には「小松澤繁助翁之碑」と中央に大きく刻され、右上に「創立十五年記念」、そして左下部分に「軍馬補充部本部長陸軍中将武藤一彦書」と刻されています。
小松澤繁助翁之碑(表).jpg小松澤繁助翁之碑(陰).jpg
(市道11118号線沿いに建つ石碑)    (小松澤繁助翁之碑の碑陰)

この「小松澤繁助翁」とはどんな人なのか、手元に有る昭和47年4月7日下野新聞社発行の「郷土の人々 栃木・小山・真岡の巻」のページをめくると、「交通の先駆小松沢氏」として、≪小松沢繁助は、大正のはじめにトテ馬車を走らせた交通部門のパイオニヤ。日露戦争には、軍馬五百頭を軍に納めるという武勲を立てた。また大正十三年には小平重吉らと共同で関東自動車を創設、初代社長となった。≫と、紹介をしていました。
碑陰に目をやると、この石碑は昭和9年に、栃木軍馬購買斡旋組合が、組合創立15年を迎えるに当たり、昭和6年5月に病没した小松澤繁助翁の昔日の功績を偲んで、建碑したと記されています。碑陰一面に刻された碑文には、翁の軍馬購買斡旋に係わった人生が縷々と記されています。その全文を写し書きしました。
碑文写し.jpg
(小松澤繁助翁之碑、碑陰の碑文を写し書きしました。)

それではなぜこの石碑がこの地に建てられたのか。その答えは栃木市日ノ出町自治会が、昭和62年3月31日に町制50年を記念して発行した「日ノ出町史」の中に有りました。それは「栃木軍馬購買所」と題した記事で、≪トテ馬車又は関東バス株式会社の創設者でも知られている小松澤繁助翁が、日露戦争の時に軍馬を当地方から五千頭も納入して、近衛第一、第三、第十三、第十四、第十五、各師団に、昭和六年五月迄に軍馬を一万頭も買上納入しておりました。最初は、現在の深谷病院(今はサンライズクリニックに改称)の南側から久我様宅前道路迄に軍馬購買斡旋組合を作り、其の組合長に小松澤繁助翁がなられ・・・・以下略≫
まさにこの石碑の建つ場所に、「軍馬購買所」が有ったのでした。
この地方は美田が広がる農村地帯で、数多くの農耕馬が家畜として育てられ、農作業の大きな力となって家族同様に大切にされていました。それをお国の為として手放すことはとてもつらい事であったと思われます。
市内の各地に、軍馬として出征した馬を記念する石碑が建てられています。
日露戦役軍馬紀念碑(土与).jpg日支事變出征馬記念碑(薗部).jpg
(大平町土与の日露戦役軍馬紀念碑)  (薗部町の日支事變出征軍馬記念碑)

「小松澤繁助翁之碑」の前に建つ「鐡馬靈神」と刻した石碑は、翁がお亡くなりになった年の昭和6年2月5日に、翁自らが建立をしたもので、碑陰には戦場に赴き激務に耐えて務めを全うした軍馬への慰労の言葉が刻されています。

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錦着山に建つ句碑 [石碑]

錦着山はその形が巾着に似て、春には桜やツツジの花が全山を錦に彩る所から、錦着山と呼ばれるようになったと言われています。以前は所在地の名をとって、箱森山などとも呼ばれていた様です。
1980年錦着山全景(バイパス歩道橋上より).jpg
(1980年に栃木環状線薗部町歩道橋上より、錦着山を撮影)
1980年ツツジの錦着山.jpg1980年錦着山ツツジのトンネル.jpg
これらのツツジの花に彩られる錦着山の写真は、私が1980年に撮影したものですが、此の頃はまだツツジの木も元気が有った様で、現在は少し花が少なくなった気がします。
2016年4月錦着山の桜.jpg
(2016年の桜の錦着山、西側の永野川堤から撮影したものです。)
錦着山の標高は80.5メートル、山頂に三等三角点が建てられています。
三等三角点錦着山1964年8月撮影.jpg
(1964年8月に撮影した錦着山上の三角点。現在も変わっていません)
山上に祀られている護国神社は、明治十二年に初代栃木県令の鍋島幹が、大参事藤川為親や小参事柳川安尚ら朝野の有志と図り建立したもので、当時は招魂社と言い、栃木及び下都賀郡内で、西南の役や日清・日露の戦役で没した勇士の霊が祀られ、その後は上海、満州、日支事変の戦没者の英霊も合祀されています。現在社殿の両側には「日露戦役忠魂碑」「支那事変大東亜戦争戦没者慰霊碑」など多くの慰霊碑が建てられています。
2013年7月護国神社(錦着山).jpg
(錦着山の山上に祀られている護国神社)
2013年7月護国神社2(錦着山).jpg2013年7月護国神社1(錦着山).jpg
(護国神社の社殿両側には、数多くの戦没者の慰霊碑が建てられています。)
他にも山上には多くの石碑が建てられていますが、風化が激しく碑文の判読が出来なくなっている碑や、又、篆額の文字が何と読んで良いのか判らない碑も多く有ります。
そんな石碑の中に、山の東側中腹辺り、坂道の脇に建つ少し小ぶりの自然石に文字を刻した1基について、今回確認をしました。
錦着山の句碑1.jpg
(錦着山の東面中腹に建つ句碑)
碑の表面には「俥から 所在見上げる 雲雀かな」の俳句が刻されています。
碑の右下部分にこの句を詠んだ俳人の号と思われる「耕圃」の文字を読む事が出来ます。又、碑陰にも何やら刻されておりますが、ハッキリ確認出来ません。ただ最後の部分に「昭和二十九年七月七日建之」の文字が確認出来ました。
錦着山の句碑2.jpg錦着山の句碑3.jpg
(碑面)                         (碑陰)
碑面に刻されている「耕圃」と言う俳人はどんな人なのか、調べてみました。
「目で見る栃木市史」の中に、郷土の俳人と言う資料が有りそこに、「おろす帆の 結句めて度き 田面かな  耕圃 (薗部 前橋定治)」の句が掲載されていました。
それでは、この「前橋定治」と言う人はどんな人物なのか。最近発行された「石崎常蔵著 栃木人」に「栃木倉庫銀行専務」として紹介されていました。
「明治三年(1870)8月、当時の薗部村に生まれ、栃木町収入役と成り、その後その職を辞して、明治38年から大正3年、栃木町最初の耕地整理事業を委員長として完成させ、百有余町の美田をつくり県南地方の農業を著しく進展させた」と記しています。その他にも、栃木倉庫銀行を栃木町萬町に開業し専務取締役に就任、また、明治40年9月郡会議員、大正6年には町会議員になり、地方政治活動に手腕を発揮しています。又同大正6年には栃木商業会議所副頭取、昭和4年(1929)4月顧問、また俳人(号、耕圃)等多方面に輝かしい経歴を持つ人物で有る事を知る事が出来ました。 
錦着山の路傍に建てられた小さな句碑から教わりました。

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箱森町、市道2051号線脇に建つ「竣工」碑 [石碑]

今回の石碑は箱森町、とりせん栃木店の東側を南北に縦貫する、市道2051号線の道路脇に建つ石碑です。
箱森町に建つ「竣工」碑.jpg
(道路の東側に南向きに建てられた石碑)
篆額.jpg
(石碑上部の篆額「竣工」の文字)
碑文上部.jpg
(碑文の上部、右端に「栃木町長 長谷川」、左端に「昭和七年一月」の文字)
碑文下部.jpg
(碑文の下部、右端に「調七篆額」、左端に「坂田耕雲撰並書」の文字)

篆額「竣工」の文字は、碑文の冒頭に刻されている通り、昭和初期の不況の時代に失業対策として、現在の太平山遊覧道路を敷設を進めた、第14代の栃木町長、長谷川調七氏に依るものです。昭和12年に市制が施行された後は、初代の市議長、そして三代目の栃木市長に就任をした人物です。
太平山遊覧道路の途中に有る「長谷川平」には、この長谷川調七氏を顕彰する石碑が建てられています。
箱森町内道路竣功碑文.jpg
(碑文を全文書き写してみました。〇部は読み取りが困難だった文字部分)

篆額の「竣工」の文字だけでは、何の竣工を記念して建てられた石碑なのか分かりませんが、碑文を読むとこの石碑が建つ脇の道路(現在は市道20515号線の一部)の開通を記念し建てられた石碑で有る事が分かります。
この石碑の建つ場所は、大正6年7月に発行された「栃木」の地形図を確認すると、「御邊」の字名が記され、一つの集落を形成していますが、その字内の道路状況はこの石碑の碑文に記されている如く、曲がりくねり狭くて不便な状況であった様です。
そこで大正12年に、栃木町泉橋より字内を通して皆川街道の境橋に達する道路を新設。東西の交通は改善されましたが、その後も南北に通る道路が無い状態に有った為、地元の有志が相謀り、多くの苦難を克服し昭和6年11月に、南は皆川街道(現在五差路と成っている所)から、同字中央を貫通して北は永野線(現在のファミリーマートの有る丁字路)に達する道路の竣工させました。この道路の開通を記念して翌昭和7年の1月に建立したもので有る事が碑文に記されています。

大正12年に開通した東西の道路は現在「市道1031号線」となり、又南北の道路は「市道2051号線」の一部となって、今もこの地域の重要路線として住民の生活を支えています。

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石橋改築記念之碑(栃木市新井町) [石碑]

今回は栃木市新井町に建つ「石橋改築記念之碑」を紹介します。
場所は新井町のほぼ中央、元村社天満宮の前の道路を隔てた南側に建っています。
新井天満宮.jpg
(元村社、新井の天満宮)
石碑は道に面して建てられている為北向きの状態になります。
石橋改築記念碑.jpg石橋改築記念碑揮毫.jpg
(天満宮前の道路脇に建つ石碑)      (皆川村長野原政次篆額)
その為写真を撮っても逆光に成る為なかなか上手く撮れません、何度か通う間に一度だけ光の具合の良い状態に巡り会え、碑文を読める写真を撮る事が出来ました。
石橋改築記念碑碑文一部.jpg
(碑文を読み取る為何枚かに分割撮影した一部)
石橋改築記念碑碑文写し.jpg
(碑文全体を書き写しました)
碑文に出てくる二十三ヶ所の改築された石橋が現在どこに架けれれていたものか、地元民ではない為分かる訳も有りませんが、大正の初期に皆川村新井郷の住民が力を合わせてこの大事業を成し遂げた喜びが、碑文に滲み出てくる感が有ります。
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今日の1枚(旧日光例幣使道の一点景、栃木市西方町) [石碑]

栃木市の市街地中央を縦貫する、旧日光例幣使道を北に向かう。合戦場宿から升塚を過ぎると街道沿いの家並みも途切れてくる。現在の街道筋は更に真直ぐ北上して家中の街中を抜けているが、元の例幣使道は升塚から家中に入った後、家中下新田の旧道沿いに祀られている「後生車地蔵堂」の前を過ぎ、更に現在の街道筋を横切る形で、そのまま北北西方向に直進、東武日光線の線路を越え、現在の家中の集落の西側を迂回するようにして北上、橋本で少し向きを東に変え、北北東へ進んで行き、橋本の北で現在の街道筋に戻り、北関東自動車道の下を潜って、上新田の集落を抜け西方町へと入って行く。
西方町金井弥八内辺りに来ると、東側を流れる思川に阻まれる形で、少し西に向きを変え、思川の右岸に並行して北北西方向へ。
暫らく進むと西方町金井の和久井集落に入る。街道を細い水路が東側から西側へと流れている。その水路の手前、街道の右脇に石の鳥居が一つ建てられている。石製の神額には「琴平神社」と刻されている。境内に入ると境内の北側に先ほどの細い水路を背に三基の石造りの信仰碑が並んで建っている。
今日の一枚はこの三基の信仰碑が建つ秋の農村の風景です。
P1360641.jpg
写真左から「庚申塔」「勝善神」「白雲山」と刻されているのが読める。
「庚申塔」は栃木市内でも多く見られる信仰碑です。中央の「勝善神」の碑は調べてみると、馬の安全や健康を祈ったり、死馬の冥福を祈って建てられる「馬頭観音」碑とは異なり、馬の産地において名馬の誕生を祈願する信仰碑と有ります。ただこの石碑は昭和十二年十月の建立、上部に「日支事變徴馬」と有り、この年の7月7日の盧溝橋事件に始まった日中戦争に徴用された馬の安全や健康を祈って建てられたものではないかと思われます。右側の背の高い「白雲山」と刻された信仰碑は文化14年(1817)2月吉日と有り、今から200年前の建立。
西方町史の中にこの「白雲塔」に関する解説が記されています。
≪白雲塔は鹿沼市周辺に40基近く見られる石造物(信仰碑)である。上毛三山のひとつ、妙義山に対する信仰と見られ、和久井の琴平神社に「村講中」の文化14年(1817)をはじめとして、町域に都合5基建立された。≫と、そして≪妙義山は、白雲山・金洞山・金鶏山の三峰に分かれ、北峰の白雲山に妙義大権現が祀られ、近世中期以降、妙義講は関東や甲州・信濃・美濃などに結成された、火伏せ・嵐除け・虫除け、あるいは雨乞いの神として崇敬された。町域では雹除けの祈願と思われる。麻作の初期管理でもっとも心配なのは、強い風雨に伴う雹害であった。丹精込めて育てた麻が、短時間で吹き倒される恐れが有ったからである。≫と。「白雲山」信仰はこの地域の重要な産業であった、麻の栽培から起こった独特な信仰碑である。
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栃木第二公園の築山上に建つ「藤田高綱先生之碑」 [石碑]

栃木市旭町の神明宮南隣りに位置する「栃木第二公園」は、私が小学生時代に遊び場としていた公園です。
公園には大きな噴水池や池の東側に築山が有り、そこで木登りをしたりして遊んでいました。
第二公園噴水池.jpg
(栃木第二公園の噴水のある池。バックの高い木が茂ってるところが築山)
第二公園内にはこれまでも紹介をした「日下開山二代横綱力士綾川五郎次碑」の石碑や、第二代栃木県令と成った「正五位藤川君碑銘」などの石碑が建てられています。
今回は先の築山の上に建てられている、「藤田高綱先生之碑」について調べてみました。
今日さっそく石碑の建つ「栃木第二公園」の築山に行ってきました。丁度築山の上には赤い曼珠沙華の花が沢山咲いていました。
第二公園築山上の石碑.jpg
(今、赤い曼珠沙華の花が咲く築山の上に建っている「藤田高綱先生之碑」)
石碑は大小2期建てられ、背が高く大きな石碑は、≪大正十年九月二代目藤田錦太郎正綱ノ時建之≫と碑陰左側に刻されています。
石碑正面上部に四角に囲んで「藤田高綱先生之碑」を篆書体文字で書かれている。篆額と碑文は≪大正五年四月 平安 劉須撰併書≫と記されている通り、明治34年3月31日から大正3年12月27日まで栃木県立栃木中学校(現栃木県立栃木高等学校)の第二代校長を勤めた人物です。
藤田高綱先生之碑.jpg藤田高綱先生追悼.jpg
(劉須先生の撰併書による碑文の石碑) (左横に建てられた「藤田高綱先生追悼之碑」)
碑陰を見ると「寄附者芳名」と下側に「発起者」とが連刻されていますが、当初の人数より寄附者が増えてしまった為なのか、枠からはみ出る様に、石碑の裏面一杯に名前が刻されています。
寄附者の芳名欄を見て行くと、最初に「栃木町」として「県立栃木中学校」の文字が有りました。これは碑文の中に記されている様に「藤田高綱」が明治35年5月より、栃木中学校の剣道指南をされていた由縁です。
他に栃木町関係者の名は80名に及びます。その他「北犬飼村」25名、「富山村」20名、この中には「下皆川青年会」の文字も見えます。「岩舟村」13名、「小野寺村」18名、「南摩村」9名、「粟野町」6名、「清洲村」10名、「結城町」5名、「栃木警察署員」34名、「吉田村」3名、「地方部」21名、「親戚」4名。その他枠外となられた方が25名も有ります。
碑陰下側の「発起人」欄を見ると、「有志」として10名の名前、次に「門人」として41名が名前を連ねています。
私はこの「藤田高綱」と言う人物がどのような人であったか、全く知らなかったのでインターネット検索に頼って、「藤田高綱」と打ち込むと、「栃木武徳殿」のページ情報facebookの検索結果が表示されました。
それを開いて見ると、画面に雪が降り積もる「栃木武徳殿」の建物に目を奪われます。素敵な写真です。
そこに「藤田高綱」の名前が出ていました。その内容を引用させて頂きます。
≪藤田高綱は、若年から文武両道を修め剣術の腕前は郡を抜いていた。やがて宇都宮藩主・戸田越前守の江戸邸に勤め、信心流剣法・下江又市の門に入り文久3年宇都宮藩の剣術指南役となる。明治15年下毛存武社という剣道場創設、のちに尊武館と改める。高綱はさらに、信武館道場を設立、下都賀を中心に上都賀、河内、安蘇郡下から県外結城にまでいたった。≫
と説明されています。まさに碑陰の寄付者の地域の広さがそこにも表わされています。

さて、「栃木武徳殿」の建物は私も以前から興味を持っている建物です。今日も足を運んで写真を撮って来ました。
武徳殿全景.jpg
(「栃木武徳殿」の建物全景)
この建物は先の「藤田高綱」先生の尽力により、明治44年4月3日に開設されたもので、現在は栃木市が管理をしている様です。
武徳殿玄関部.jpg
(玄関部分、入口上部に「武徳殿」の扁額)
現在入口左側に「栃木市剣道連盟道場」と「武徳殿剣道少年団」の木札が掲げられています。

昭和53年(1978)6月に私が撮影した、武徳殿の写真が有りました。そこには「青雲館道場」の扁額が写っています。
1978年6月青雲館道場 (5).jpg1978年6月青雲館道場 (4).jpg
道場では豆剣士たちが稽古に励んでいる様子が、垣間見られます。剣道や柔道などの武道は、「礼に始まり礼に終わる」と言います。躾がきちっとされている様子が、玄関先の下駄箱や土間に並んだ靴が整列されている所にも覗われる写真です。
「栃木青雲館」に関しては、ホームページが公開されていました。その中の説明を引用させて頂きます。
≪栃木青雲館創設は昭和28年にさかのぼります。戦後間もなく剣道が復興、繁栄し始めた頃、現在の栃木武徳殿に先生方が集まり稽古をする中で、子供の入門が少しずつ増えていくことがきっかけとなり初代館長石沢先生が栃木市内初の少年剣道場として、栃木青雲館が開かれました。≫
と、記されています。上の写真を撮影した当時は、「栃木青雲館」が武徳殿の道場を練習場としていたものでしょう。
栃木武徳殿のこの建物、栃木市剣道界のレガシーとして、保存と活用を続けて欲しいと思いました。
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