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栃木市の石碑を巡る「親臨賜宴之處」 [石碑]

毎日のように栃木の市内を、西に東にウォーキングしていると、思わぬところに発見が有ります。
今回は、日ノ出町から小金井街道、現在の県道44号(栃木二宮線)の東武日光線の踏切を渡って直ぐ左に折れ、線路沿いの細い道に歩を進めました。この道を歩くのは初めてです。道路は線路からしだいに離れ住宅街の中へ。すると間もなく左手に広場が現れました。道路沿いに建つお洒落な街灯の下に「今泉二丁目公民館」の表示板が付いています。公民館前広場の南塀際に、大きな石碑が1基建っています。
親臨賜宴之處の碑4.jpg親臨賜宴之處の碑3.jpg
(今泉二丁目公民館の街灯) (公民館前広場、左手奥の塀際に石碑が1基建っている)
思わぬところで出くわした石碑、どんな石碑なのか近くに寄って確認します。
親臨賜宴之處の碑1.jpg親臨賜宴之處の碑2.jpg
(碑陽:「親臨賜宴之處」と大きく刻されています)(碑陰:石碑を建てた由来が刻されています)

石碑の表面中央部には縦に「親臨賜宴之處」と大きく刻されています。その左横には小さく「元帥陸軍大将正二位勲一等功一級子爵川村景明謹書」と有ります。
石碑の裏側には碑文が刻されています。内容は
「大正七年十一月、天王統監陸軍大演習練武于栃木茨城兩縣下既畢同月十八日親臨栃木町外大宮村今泉之地賜酺文武官僚及士民無慮數千人寔可謂盛典矣今茲大宮村民胥議欲建碑於黼座之跡以傳 聖恩於無窮請余文乃謹記其由云爾」と有ります。
文末に「大正八年二月 第十四師團長陸軍中将正四位勲二等功三級栗田直八郎撰文并書」と刻されています。
親臨賜宴之處の碑5.jpg
(今泉二丁目公民館の広場に建つ石碑「親臨賜宴之處」の碑文)

碑文に有る「天皇統監陸軍大演習」とは、天皇の統監の元に原則として毎年一回行われる大規模な演習のこと。栃木市史資料編近現代Ⅰの中に、「陸軍特別大演習 (-栃木町に大本営-)」と題して記載されています。
又、その時撮影された写真が記念絵葉書「佐藤写真館謹写」として発売されています。その写真が、2012年12月17日発行の写真集「片岡寫眞館」片岡惟光編の巻末に(参考図版)として掲載されています。

石碑が建立された場所は、碑文に有る様に陸軍大演習の終了後、その労をねぎらう為に行われた賜宴の場所でした。この「賜饌場(しせんじょう)」について、前記の栃木市史に詳しく記されていました。一部抜粋をさせて貰うと、
≪大正七年十一月十八日午前閲兵式終ハルヤ、天皇陛下ハ大演習中ノ労ヲ犒ラワセラルゝノ大御心ヲ以テ、同日午後二時三十分大本営御出門賜饌場ニ臨御アリ。(中略) 是ヨリ先キ宮内省御用地トシテ栃木町大宮村トノ接続地タル小字榎堂ト米附道トニ地ヲ相シ、面積六千三百九十坪ヲ撰定(内大宮村分五千九百九十三坪、栃木町分四百二坪)尨大ナル賜饌場ヲ造営シ、一大偉観ヲ呈ジタリ。≫

この資料を基に「賜饌場」の状況を推定してみようと試みました。まず分かっている情報について。
①石碑の建つ場所が含まれる。(建立当時から移動されていないならば)
②大正7年の栃木町と大宮村との接続地である。
③小字榎堂や米附道に有る。
④面積は6,390坪(約21,119㎡)、これは現在の栃木中央小学校グランド3個分程の広さに相当します。
以上の情報を基に、まずその当時の「栃木」の地形図を確認すると、丁度その前年となる大正6年7月30日大日本帝国陸地測量部発行の「栃木」が有ります。その地形図から石碑が建つ周辺の部分を抜粋スケッチをして、現地図を描く事から始めました。
大正6年の地形図には、石碑が建っている地点付近に描かれている道路は、小金井街道(現在の県道44号)と今回踏切脇から入って行った、北北東方向に進む細い道路だけが確認出来る。他には栃木町と大宮村との境界線、そしてその西側に北から南に流れる細い川(現在の杢冷川)。この地形図に記された地図記号により情報の①と②が確認出来る。そして、再度現地を巡り、小字名「榎堂」「米附道」に関する情報を探していくと。現在の日ノ出町内に、「榎堂稲荷神社」の場所を確認出来ました。
榎堂稲荷神社1.jpg榎堂稲荷神社2.jpg
(榎堂稲荷神社) (社殿基礎部分に「榎堂稲荷神社改築記念」を刻した石板が有りました)    
更に現地を歩くと「榎堂稲荷神社」前の道路を東に行くと、石碑の建つ今泉二丁目公民館の所へ通じていることも確認出来ました。
この道路については、大正6年の地形図には記されておりませんが、明治19年7月発行の迅速測図「栃木町」を調べてみると、なんと明治期の小金井街道は、この榎堂稲荷神社前を通る道路だった事が確認出来ました。恐らく大正時代もこの道路は存在していたものの、地形図には反映されていなかったと考えられます。
これらの情報を基に大正6年の地形図に追記をしていくと、「賜饌場」と成った場所の範囲が推定されてきました。
大正7年陸軍特別大演習賜饌場周辺地図1.jpg
(賜饌場の場所を推定の為に作図した現地図、大正6年発行の地形図「栃木」を参考とした)

以上より大正7年11月18日に行われた「親臨賜宴」の場所は、南側は小金井街道(現在の県道44号)、東側はその小金井街道と交差して北北東に進む道路、北側は「榎堂稲荷神社前を東西に通っている旧小金井街道とに面し、西側は大宮村と栃木町の境界を越え、杢冷川の手前までの畑だったところを「賜饌場」として、造営されたと推定いたします。

現在、賜饌場の推定地を縦貫する東武日光線は、昭和4年4月1日に杉戸(現在東武動物公園駅)と新鹿沼間が開通しており、大正期はまだ有りませんでした。
その大正6年の地形図には賜饌場の上空を送電線が引かれていました。現在も当時とは少し位置が変わっていますが、今泉二丁目公民館の西側に送電線用の鉄塔が建っています。
この送電線は現在も泉町の北東部に有る変電所から来ています。大正期の様子は分かりませんが、私が昭和40年代に撮影した、変電所と小金井街道の南側に建つ電柱がアルバムの中に残っていました。
東電変電所(昭和40年9月)1.jpg1968年小金井街道の送電線.jpg
(昭和40年撮影、泉町北東部の変電所)(昭和43年撮影、小金井街道脇水田に建つ電柱)

今回の石碑の事を調べる中で、これまで気にしていなかった史実を、幾つも知る事が出来ました。

小山市内に残る、道路元標 [石碑]

これまで栃木県内に残る「道路元標」を見て来ましたが、今回は栃木市のお隣、小山市内の「大谷村道路元標」です。
「道路元標」は大正8年の道路法施行令にて、市町村単位で道路の基点として1ヵ所建てられました。従ってその当時の小山市の状況を調べてみると、今回訪れた「大谷村」の他に「小山町」や「豊田村」など、1町9村が明治22年(1889)4月1日の町村制施行により成立していました。
大正時代の小山の町村図.jpg
(明治22年の町村制施行後の旧小山町周辺の村、四角の記号点に道路元標が残る)
従って、以前は小山市内でも幾つか残っていたのかも知れませんが、戦時中やその後の都市開発等で、消えていってしまったのかも知れません。その中で「大谷村道路元標」は小山市指定の有形文化財として残された貴重なものです。
設置場所は、これまでも見て来たと同じく、その当時の主要道路の分岐点に成ります。現在は「大谷南小前」と名付けられている十字路の北東側に有る、小山市立大谷南小学校の校庭内、交差点際に移動保存される形に成っていました。
小山市立大谷南小学校.jpg大谷村道路元標1.jpg
(道路元標が残る東野田の交差点、正面が大谷南小学校)(校庭隅に建つ道路元標)
大谷村道路元標2.jpg大谷村道路元標3.jpg
(大谷村道路元標、フェンスの向こう側が交差点)      (横に建てられた説明板)
学校の校庭内は現在は勝手に入る事が難しくなっています。校門の脇などには「学校内への無断侵入を禁止します」とか「御用の有る方は受付にお越しください」の掲示がされています。今までも三角点を巡っていると、学校の校庭内に設置されているケースが多く、足が遠のく事も多々有りました。日曜日などは校庭で野球の練習をされているので、チョッと挨拶をして入って写真を撮って来る事も有りました。私の趣味程度で仰々しく受付して時間を取らせるのも申し訳ない気も有ります。今回は休日で校庭に人影も無く昇降口も閉ざされていましたので、校庭の隅を歩いて写真を撮らせて貰いました。

道路元標が設置された大正中期の大谷村東野田の現地の状況を確認する為、手持ちの2万5千分の1の小山の地形図を広げてみると、丁度大谷南小学校の交差点付近が地図の南の端に成っていて、それより南側は別の「諸川」の地形図に成ってしまい、私は持っていません。ただ「諸川」の地形図の図歴を調べてみると、最も古い発行年でも「昭和31年(1956)」で大正期は有りませんでした。
そこで、インターネットにて古い空中写真を確認すると、国土地理院が公開している写真の中に昭和23年(1948)3月2日米軍撮影の写真が有りましたので、その中から大谷南小学校付近を抜粋スケッチして、現在の様子と対比出来る様に作図しました。
平成20年大谷南小.jpg昭和23年大谷南小.jpg
(平成20年頃の大谷南小学校付近)   (昭和23年頃の大谷南小学校付近の道路状況)
比較してみると、小学校と野田神社の位置は変わっていません。大きく変わった所は、以前交差点は丁字路で、現在西に抜ける道路は有りませんが、現在は十字路に成っています。又、従来の幹線道路は昭和34年に県道に制定され、道路も拡幅されている状況も確認出来ます。

道路元標を確認した後、周辺を散策して来ました。
野田神社.jpg修道館分校跡地.jpg
(交差点の少し南側に祀られている野田神社) (交差点から北に行った道路際に建つ石碑)
交差点から県道54号を北に歩いて行くと、右手に大谷幼稚園が現れます。その入口の左右に石碑が建てられています。入口右手の小さい石碑には、「修道館分校跡地」と刻されています。
調べてみると、小山市立博物館のホームページの中「小山の歴史Q&A」に、「小山の学校はいつごろできたの?」の回答中に、「大谷南小学校 明治7年 小学修道館」と記されていました。
修道館は大谷南小学校の前身だったようですが、分校跡とはどう言う事なのか、一つの石碑に又新しい疑問が生まれて来ます。今後調べてみたいと思いました。

旧薬師寺村道路元標について [石碑]

旧薬師寺村(現下野市薬師寺)の道路元標は、下野市の自治医科大学の南側を東西に抜ける栃木県道310号(下野二宮線)を東に走り、新国道4号線へ向かう手前の集落の中に有ります。
薬師寺村はその名前が表わす通り、古くは日本三戒壇の一つと成る下野薬師寺が有った所です。現在の薬師寺の集落は中央部を南北に貫通するように通る道路に沿って、家並みが形成されています。明治前期に作られた迅速測図「栃木県下野国河内郡薬師寺村及下都賀郡小金井驛」を調べてみると、この南北に通る道路には「従宇都宮至結城町道」(宇都宮より結城町への道)と記されています。
現在県道310号線に有る「薬師寺4丁目交差点」で、交わる道路がこの街道に成ります。先の迅速測図では交差点では無く丁字路として、西側には道路が有りません。以前はその丁字路から南側に90メートル程下った所に、西側に向かう道路の丁字路が描かれています。
明治初期薬師寺村略図1.jpg
(明治前期の薬師寺村の略図を、迅速測図を基に作成しました。赤印が道路元標の位置)

「薬師寺村道路元標」はこの南側丁字路の東側突き当りの場所に建っています。この丁字路には現在も「薬師寺郵便局」が有り、かつては集落の中心地で有ったことが覗われます。
薬師寺村道路元標.jpg薬師寺村道路元標2.jpg
(薬師寺村道路元標)        (道路元標は薬師寺郵便局の脇に建っています)
西に向かう道路は今も残っていますが、現在は集落の西側から、分岐して先ほどの「薬師寺4丁目交差点」に交わる新道が出来て、そちらが県道310号となり、旧道を通る車は殆ど無くなっています。

地形図を見てみると、道路元標の建つ直ぐ西側に三角点記号が記されています。三等三角点「薬師寺」です。標高表示は60.6メートルと成っています。この薬師寺の集落の有る地点は東側と西側とは水田が広がり、特に東側は北から南に田川が流れていて、周辺の標高は50メートル前後と低くなっています。
薬師寺の集落は、周辺より少し高くなっている所を通る、宇都宮と結城を結ぶ道路に沿って開けている事が分かりました。

道路元標より北に500メートル程行くと、道路の左側に「安国寺」が有ります。境内に建てられた説明板によると、≪安国寺は暦応2年(1339)、足利尊氏が古代の国分寺にならって全国に安国寺を建立した際、下野国には薬師寺が存在するところから安国寺を建てることなく、そのまま安国寺と寺名改称したと伝えられる。(後略)≫と記されています。入口には「史跡 下野薬師寺跡」と刻した石柱も建てられていました。
安国寺1.jpg安国寺2.jpg
(安国寺入口脇に建つ「史跡下野薬師寺跡」の石柱)    (明治38年再建の安国寺本堂)
尚、安国寺本堂北西側に建つ「六角堂」は、かっての下野薬師寺戒壇跡と伝えられる所に建てられています。更にその西側から北側一帯にかけて、史跡整備の為の発掘調査が行われ、金堂・戒壇・経蔵・講堂・回廊などの伽藍配置が明らかにされつつあります。中でも西回廊は調査結果を基に、史跡公園内に一部復元されています。
安国寺六角堂.jpg下野薬師寺回廊復元.jpg
(下野薬師寺跡のシンボル、六角堂)         (一部復元された、下野薬師寺回廊)

又、安国寺の東側、ほぼ並行して通る道路沿いに、薬師寺八幡宮が祀られています。参道前に建つ案内板によると、≪薬師寺八幡宮は、奈良時代前期に建てられた下野薬師寺の寺内社といわれ、貞観17年(875)石清水八幡宮の祭神を東北守護の大神として鎮座されたものといわれています。(後略)≫と記されていました。
薬師寺八幡宮3.jpg
(道路沿いに建つ二つの鳥居、奥が薬師寺八幡宮。手前は天狗山雷電神社の鳥居)
薬師寺八幡宮2.jpg薬師寺八幡宮1.jpg
(薬師寺八幡宮の参道入口)                (薬師寺八幡宮拝殿)

一方、道路元標前から南へ90メートル程進むと右に入る道が有り、その先に下野薬師寺別院「龍興寺」山門が現れます。手前に有る駐車場に車を停めて、山門を潜ると、整然とした境内に美しく均整の取れている本堂が迎えてくれます。境内には日本三戒壇を開いた鑑真和尚の碑や、弓削道鏡の墓所と言われる「道鏡塚」が有ります。
龍興寺1.jpg史跡道鏡塚.jpg
(龍興寺本堂)                  (本堂に向かって左手方向に有る史跡道鏡塚)

今回は、旧薬師寺村の道路元標を中心に、古き昔の名残を今に留める社寺をめぐりました。

上三川町道路元標について [石碑]

これまで、真岡市や益子町、茂木町方面は良く出かけています。
栃木市からですと、壬生町から国道352号線をひたすら東方向へ、新国道4号線の立体交差の下を抜け、そこから県道47号線で更に東へ、鬼怒川を渡って行く事に成ります。ですから東北新幹線の高架下を過ぎた所から、鬼怒川を渡るまでの間、いつも上三川町を通過している訳ですが、何故か上三川町を訪れた事は一度も有りませんでした。強いて思い起こすと、会社勤めをしていた現役時代に、一度「日産自動車栃木工場」の工場見学をさせて頂いた事が有りましたが、上三川町を訪れたと言う感じは有りません。
ですから今回、「上三川町道路元標」の設置場所確認という事で、初めて上三川町の市街地を訪れた事に成ります。
最初に「上三川町役場」を訪れて、玄関ロビーにて「上三川町文化財マップ」を頂き、それを元に町の中を探索する事にしました。
まずは近くの「白鷺神社」に参拝、境内は早くも新年を迎える準備が始められており、来年の干支である鳥を描いた大きな絵馬が飾られておりました。又境内東側には<日本一の「平和の剣」>と言う、白鷺神社御鎮座1,220年(平成15年)を記念し奉製された、長さ1,220センチメートル、青銅製の剣が翔舞殿と呼ばれる建物に収められています。
白鷺神社1.jpg
(上三川町、白鷺神社正面入口より撮影)
日本一の剣1.jpg
(翔舞殿に収められた「日本一の剣」)
白鷺神社2.jpg
(来年の干支の鳥を描いた大きな絵馬)
この白鷺神社が上三川町の中心と成っているようで、この神社の正面から南に町の大通りが通っています。文章では説明がおぼつかない為、今回も概略図を作ってみました。現在の道路状況では多くの新しい道路が出来ていますので、明治初期に作られた迅速測図を今回も参考にさせて頂いて、古くから通っていた道路が分かる図にしました。
明治初期上三川村略図1.jpg
(明治初期の上三川村の概略図)
白鷺神社から南に伸びる広い道路を歩いて行くと、右手(西側)に立派な寺院が建っています。その付近で道路は少し西側にずれる様に曲り、又真直ぐ南に伸びています。この道のずれを町の人に尋ねて見たかったのですが、歩いている人が居りませんでした。
上三川町大通り.jpg
(道路正面奥に白鷺神社、手前左手の寺院が「普門寺」)
その先を更に進んで行くと、道路沿いに大きくて立派な建物が現れました。町の文化財マップにも出ています。立派なはずです、国の登録有形文化財に指定された建物で、「旧生沼家住宅」でその説明文によると≪町中心部の角地に建つ商家。桁行、梁間とも7間半とし、切妻造、平入の南北棟の北端に、東西棟の入母屋造の2階部を載せた特異な構造。(後略)≫
上三川町道標3.jpg
(国登録有形文化財となっている、旧生沼家住宅と、手前カラクリ時計)
この商家は明治40年発行の「栃木県営業便覧」によると「肥料商」と記されています。
そしてこの交差点の南西角付近に、探す「上三川町道路元標」が建てられています。この場所は先の「栃木県営業便覧」によると、「宇都宮警察署上三川分署」の有った所ですが、現在は「夢のジャングルジム〜希望の響き〜」と題する「カラクリ時計」が建てられています。
上三川町町道路元標1.jpg上三川町からくり時計.jpg
(上三川町道路元標と脇に建つカラクリ時計)
又、このカラクリ時計の足元には「道路元標」の他に、もう一つ古い四角柱の道標が建っていました。
その道標の4面はそれぞれ東西南北に面していて、「北 宇都宮方 」一番下の文字がハッキリしない。「東 大沼渡舩場經眞岡道」「南 吉田村結城町道」「西 石橋町栃木」の文字が確認出来ました。
上三川町道標1.jpg上三川町道標2.jpg
(カラクリ時計の脇に建っている古い道標、東西南北に行先の地名が刻されている)
この道標からもこの場所が、幹線道路の交差点であった事を物語っています。
あらためて明治初期に作られた迅速測図「栃木県下野国河内郡上三川村」を確認してみると、街の中央を白鷺神社を迂回しながらも南北に縦断する道路には、「従宇都宮至結城町道」(宇都宮より結城町に至る道)と記され、道標の建つ交差点で東西に街を横断する道路には、「従眞岡町至石橋驛道」(真岡町より石橋町に至る道)と記されています。この交差点から東に向かう道路は、現在ではセンターラインも無く、車がすれ違うのがやっと出来る程度の道幅で、恐らく昔のままでしょうが、通りの名前は「城址公園通り」と成っています。
城址公園通り.jpg
(真岡方面への道、街路灯に「城址公園通り」と出ている)
名前の通り交差点から200メートル程行くと左手に「上三川城址公園」の入り口が有りました。
入口から入ると駐車場が有り、「上三川城」の案内板が立っています。
≪上三川城は建長元年(1249)、宇都宮氏の一族である横田越中守頼業が築いた城で以来、慶長2年(1597)に芳賀高武に攻められて落城するまで、348年間続いた城です。(後略)≫との説明が記されていました。
上三川城址1.jpg上三川城址2.jpg
(城址公園入口駐車場に建つ説明板)(入口の堀に架かる橋)
城址公園は上三川城の本丸跡で周りは土塁と堀が巡り、中は現在芝生広場に成っていました。
上三川城址濠1.jpg上三川城址濠2.jpg
(城址公園の周りを囲む堀、東側と西側を北側より撮影)
道路元標の脇に建つカラクリ時計、説明板に演奏時間1日5回と記され、午後3時にも演奏されると成っていました。折角だからとその時間にカラクリ時計の前に、3時に成るのを待ちました。どんな曲が流れるのか、どんな動きをするのか楽しみに待ちましたが、時計の針が3時を過ぎても演奏は始まりませんでした。
上三川町からくり時計3.jpg上三川町からくり時計2.jpg
(カラクリ時計)
少し残念な気持ちを残して、上三川町を後にしました。




壬生町の道路元標について [石碑]

下都賀郡壬生町は、慶安4年(1651)に作られた「下野一国」に記された、下野国の五つの大道筋の内の2街道が交差する、江戸時代からの交通の要衝です。
壬生の町を南から北に抜け、更にその北側で向きを90度西に変え、その後北北西方向に進んで鹿沼へ至る、「日光西街道」(日光道中壬生通りとも呼ばれる)と、栃木宇都宮とを結ぶ街道の2街道です。
東京方面から壬生町に来るには「日光街道」を北進、小山の市街地を抜けた喜沢の分岐で「日光街道」から外れ左方向へ、雑木林の中の道「日光西街道」(現在は栃木県道18号線です)を進みます。
飯塚宿1.jpg花見が岡1.jpg
(日光西街道飯塚宿付近)             (日光西街道花見が丘付近)
姿川を渡った後思川の左岸(東側)を北上、飯塚宿を抜け国分寺跡を右手奥に見ながら、花見が丘の交差点を通過すると、壬生町の入口となる黒川に架かる「御成橋」が見えてきます。
御成橋(黒川).jpg壬生一里塚1.jpg
(黒川に架かる「御成橋」、この辺りが壬生下河岸)    (国指定史跡「壬生一里塚」)
御成橋を渡ると街道の右側が「壬生町元町」、街道左側が「壬生町表町」。
道路の左側に用水堀、途中で道路の右側に移ります。その先で道路左側に国指定史跡の「壬生一里塚」が現れます。脇に壬生町教育委員会が建てた説明板によると、
≪壬生の一里塚は、「日光道中壬生通」に設けられた一里塚の一つで、日本橋から数えて23里目(約96km)にあたります。(中略)壬生の一里塚は、この地が壬生城の入り口に当たるため、将軍の日光社参の際は壬生の城主はここに出迎えるのを例にしたと言われています。≫と記しています。
東武宇都宮線の踏切を過ぎると、道路左側は「壬生町本丸二丁目」右側は「壬生町中央町」と町名が変わります。踏切から北側50メートルの交差点を左に折れると、思川を渡って栃木市に入ります。
この交差点の手前、道路と歩道の境に「壬生町道路元標」が建てられています。大正11年8月18日内務省令第20号「道路元標ニ関スル件」の第三条に、「道路元標ハ其ノ位置ヲ表示スル為道路ニ面シ最近距離ニ於テ路端ニ之ヲ建設スヘシ」と定めている通りに建てられています。
その為か、その表面には車が擦ったと思われる横筋が付いています。
壬生町道路元標2.jpg壬生町道路元標1.jpg
(写真右下に道路元標、交差点を左に曲ると栃木へ至る)   (壬生町道路元標の正面)
道路元標の設置場所を記した、壬生町の明治時代の道路状況を略図で表してみました。
明治初期壬生町略図1.jpg
(明治期の壬生町の道路の様子を略図にしました。道路元標は赤の印を付けました)
当然まだ東武鉄道は有りません。町の中央部に壬生城跡、町内には5つの寺院が認められます。
壬生城址公園2.jpg壬生城址公園1.jpg
(壬生城址は現在中央公民館や図書館、歴史民俗資料館が建つ、城址公園に成っています)
町の南側で西側から「日光西街道」に合わさった「宇都宮・栃木道街道」は、町の北側で東に折れて黒川を渡った後北方向に向きを変え宇都宮へ至ります。
黒川に架かる橋は「東雲橋」と言い以前より桜の名所に成っています。
東雲の桜1.jpg
(黒川に架かる「東雲橋」と桜の花、2015年4月1日撮影)

※今回参考にさせて頂いた文献は、栃木県文化協会発行「栃木の街道」です。

京都三条大橋の橋詰に建つ駅伝発祥の地の碑 [石碑]

京都三条大橋は東海道五十三次終点の地に成ります。
京都鴨川に架かるこの橋の西橋詰には、十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」の二人の主人公、弥次さんと喜多さんの像が建てられています。そしてその前で多くの観光客が、記念写真を撮りあっています。
京都三条大橋.jpg弥次喜多の像.jpg
(擬宝珠を載せた京都三条大橋の高欄)    (西橋詰に建っている弥次さん喜多さんの像)
一方、丁度その反対側東橋詰に、ひっそりと駅伝発祥の地を記念した碑が建てられています。
台座部分に大きく「駅伝の碑」、その下にスタート地「三条大橋」からゴール地「東京上野不忍池」、そしてその間22箇所の中継点の名前が刻されています。
駅伝発祥の碑1.jpg
(京都三条大橋東橋詰に、2002年日本陸上競技連盟によって建てられた「駅伝の碑」)
そして台座の上、碑のデザイン、これは襷を表わしているのでしょうか。何となくカタツムリの形にも見えますが。碑文は、
≪駅伝の歴史ここに始まる≫と題して、≪我が国、最初の駅伝は、奠都五十周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競走」が大正6(1917)年4月27日、28日、29日の3日間にわたり開催された。スタートは、ここ京都・三条大橋、ゴールは、東京・上野不忍池の博覧会正面玄関であった。≫と記されて、襷を掛けた二人のランナーの走る姿をシルエットで描いて有ります。
同じ内容の碑が、ゴール地点の東京上野不忍池のほとりにも、建てられているそうです。
碑文にも有る様に、競技としての最初の駅伝とされるこの大会は、この三条大橋を午後2時に出発、東京上野不忍池までの23区間、約508キロメートルを昼夜問わず走り抜けるもので、ゴールに到着したのは翌々日の午前11時34分だったそうです。
「駅伝」の名前は、開催に当たり当時の大日本体育協会副会長及び神宮皇學館長、武田千代三郎が名付けました。江戸時代の伝馬制からヒントを得たと言われています。
来年2017年は、この最初の駅伝競走が開催されてから、丁度100年目と言う節目の年と成ります。

12月に入って毎週末には、日本のどこかで駅伝大会が開かれる季節に成りました。1月2日・3日に開催される「箱根駅伝」の話題も今から色々とニュースになっていて、どの大学が優勝をするのか、注目選手は誰かなど、早くも盛り上がっています。
箱根駅伝・絆の像1.jpg箱根駅伝歴代優勝校掲示板.jpg
(読売新聞社・社屋前に建つ箱根駅伝「絆」のブロンズ像)(歴代優勝校の銘板がならぶ)

その前、この12月25日には、「全国高等学校駅伝競走大会」が、京都市西京極総合運動公園陸上競技場をスタート・ゴールに、全国各都道府県の高校生の代表選手が夢の都大路を走り抜けます。
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(京都・西京極陸上競技場でゴールする選手を待つ観衆)
今年の栃木県代表は男子が「佐野日本大学高等学校」、女子が「白鷗大学足利高等学校」が、さる11月3日の栃木県大会にて代表の座を獲得しています。
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(各出場高校を応援する幟旗が立ち並ぶ西京極陸上競技場スタンド)

男子代表の佐野日本大学高等学校は那須拓陽高等学校に遅れ2位でゴールをしています。しかし、1位の失格による繰り上がりという思わぬ形で3年ぶりの栄冠を手にしたのでした。
翌日の下野新聞の記事には≪閉会式で優勝旗を手渡されても、報道陣にカメラを向けられても一度は「完敗」を受け入れた選手たちの表情に笑顔はない。それでも各自が口にしたのは「責任」の2文字。「那須拓陽のためにも全国大会で結果を出すしかない」と大森主将。ライバルの思いも背負って都大路を駆け抜ける。≫と載っていました。
結果として佐野日本大学高等学校は、3年ぶり15回目の優勝を果たし、都大路への切符を獲得しています。北関東枠代表と合わせ4年連続17回目の全国出場。昨年、一昨年の都大路では不本意な結果でしたので、今年は日頃の練習の成果を大いに発揮しての力走を期待したいと思います。
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(西京極陸上競技場でスクールカラーの小旗を持って応援する佐野日大高校の応援団)

栃木県女子代表の白鷗大学足利高校の選手の皆さんは、3年連続3回目の出場です。実力を出し切って念願の都大路を襷を繋いで駆け抜けて下さい。

旧佐野町の道路元標 [石碑]

先日、佐野市に出かけた折りに、新しくなった佐野市役所の南東部交差点近くに建つ、道路元標を見て来ました。
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(後方左の高い建物が新築された佐野市役所庁舎に成ります)

この道路元標は、旧佐野町の物で、近くに説明板が設置されていました。説明文を読むと
≪この「佐野町道路元標」は大正11年の内務省令に基き、道路の起点を示すため設置された。 かって佐野市域の各町村にも置かれたが現存するのはこの道路元標だけであり、歴史的に貴重な資料である。 駅南区画整理事業に伴いここに移設する。≫ と刻されています。添えられた図によると「元地」は現在地より南だったが、現在は道路にかかっている。
佐野町道路元標1.jpg佐野道路元標説明板.jpg
近くには現在地の標高や経緯度を刻した三角点プレートが埋め込まれています。それによると標高は33メートル、東経は139度34分54秒、北緯は36度18分37秒に成るそうです。
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又、近くの歩道上にて、佐野市のカラー版デザインマンホール蓋を見る事が出来ました。
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我が栃木町の道路元標は、倭町交差点の北東部角(足利銀行栃木支店前)に、車道と歩道の境界として置かれた他の石柱らに紛れて建っています。
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(栃木町道路元標)  (分かり難いですが写真中央少し背の高い石柱が道路元標です)

川原田町粟野街道の分岐に建つ常夜燈について [石碑]

栃木市街地から北に伸びる県道37号(栃木粟野線)を北に向かって走ると、ヤオハン川原田店の先で信号の有る交差点が現れます。交差する道路は市道114号(吹上合戦場線)に成ります。川原田町のこの周辺一帯はその昔「しめじが原」と呼ばれた所で、湧水が多く見られました。
交差点の北東部には、巴波川の源流の一つと成る、白地沼や二股沼が有り、西方向には大淵沼や笹淵そして天神淵などの湧水が分布しています。
交差点を通過して更に500メートル程進んだ所で、道路はY字路に成ります。分岐の左方向が県道37号線、右方向は細い脇道で、通行するほとんどの車は左方向に進みます。右の細い道は普通車が1台やっと通れる幅しか有りません。以前、私も間違って進入してヒヤヒヤした事が有ります。
この細い右の道路も、れっきとした県道に成ります。県道177号(上久我都賀栃木線)です。
この分岐点の中央に1基の石の常夜燈が建てられています。
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(川原田町の分岐、左は鹿沼市旧粟野町へ、右は鹿沼市上久我へ)
この様に街道の分岐に建てられた常夜燈は道標の役目をすることが多いです。群馬県高崎市倉賀野の旧中山道と旧日光例幣使街道との分岐点にも同じような常夜燈がたっています。長野方面から碓氷峠を越えて倉賀野宿でこの常夜燈前まで来ると、台石の上「竿石」の正面に「左 日光道」、右側面に「右 中山道」、左側面には「常夜燈」と刻されて、旅人に道を教えています。
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(旧倉賀野宿の旧中山道よ旧日光例幣使街道の分岐に建つ常夜燈)

一方、ここ川原田町の分岐に建つ常夜燈を観察すると、風化が激しく刻されている文字がハッキリと判別できません。
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(川原田町の粟野街道よ上久我街道の分岐に建つ常夜燈)

まず正面を見ると、台石には大きく「中子氏」(もちろん古いものですから横書きは右から左に読みます)、その上側「竿石」には上から下に文字が刻されていますが、判読出来ません。
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(常夜燈正面台石に刻された文字は「氏子中」)

台石の左側面には「左 尾鑿山道」と読めました。
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(台石左側面の文字、「左 尾鑿山道」と有る)

台石の右側面に刻されている文字は縦書きに「齊藤内」その左隣りに「手代」その左隣りは「〇達」、その下に「中」(〇の部分は削られていて、文字が欠落して不明です)
左半分の部分にはこれも削れてはっきりしませんが、恐らく「赤」その下に「津」そしてその左隣りに「坪中」と刻されています。こちらは、「赤津坪中」と読むのでしょう。
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(台石の右側面、齊藤の名前などが刻まれている)

台石背面にも文字が刻されていますが、残念ながら判読困難です。この常夜燈を建てた年代や寄付した人達の名前が刻されていたのか、名前と思われる字が僅かに読む事が出来ます。
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(常夜燈背面の台石の文字は判読が難しい)

この常夜燈でハッキリと示しているのは、「尾鑿山道」は左の道ですよ、と教えている事です。
私は「尾鑿山」については何も知らなかったので、さっそく調べてみると、鹿沼市の西方山岳部に、「石裂山(おざくさん)」と言う標高879.5メートルの山が有ります。国土地理院発行の2万5千分の1地形図「古峰原」を確認すると「石裂山」(※”おざく”とルビが付いています。)の隣りに(尾鑿山)と記されています。そしてこの「石裂山」の南麓に「尾鑿」と言う字名が有ります。また近くに「賀蘇山神社」の名前が記されています。
この「賀蘇山神社」(がそやまじんじゃ)こそ、川原田町に建つ常夜燈が案内する所だったのです。

確かに川原田町分岐の常夜燈の所から、左の道は「粟野街道」と呼ばれて、鹿沼市の旧粟野町につながっていますが、更に目的の「賀蘇山神社」には、その粟野の町の口粟野交差点から更に北に向かう県道246号(草久粟野線)を14km程進むことになります。そのルートを通る事でやがて、道路の右側に「下野國尾鑿山」と刻した石柱が建つ場所に到着するのです。
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(下野國尾鑿山の石柱が建つ、賀蘇山神社入口)
栃木市川原田町の常夜燈の所から測ると、30kmも離れたこの二つの地点には、どのような関係が有ったのか、興味が湧いて来ましたので、「栃木市史」の中に関連する記事が有るか確認すると、民族編に「尾鑿山講」という信仰の記事が見つかりました。
≪江戸時代から作神として、尾鑿山信仰が盛んであり、各村々に講が有り、尾鑿山からの配札が行われていた。講中が太太神楽を奉納する日は9月11日以降それぞれ日割りが定められていたが、一番初めに奉納するのが、上川原田村(川原田町)の講中の人々であり、上川原田村講中は特別待遇で、「川原田座敷」という上段の間で接待された。(後略)≫
なぜこのような特別な関係と成ったかは、更に時間を遡る事に成ります。
「栃木県神社誌」の「賀蘇山神社(がそやまじんじゃ)」の項に、≪正応2年(1289)4月1日、朝臣小野道綱が都賀郡上河原田村(栃木市)に落居し、当社を参詣して奥社および参道を改修した。以来毎年旧暦4月1日に、小野氏子孫が参詣登山をする習わしが有る。≫と、記されています。こうして、尾鑿山と上川原田村との特別な関係が築かれて来た事が、この常夜燈建立にも繋がったものと考えられます。
常夜燈の年代は安政4年(1857)、台石に刻された「齊藤家中」とは、尾鑿山神社の齊藤壱岐守の家中のことと市史に記されていました。

先日、初めてこの賀蘇山神社(尾鑿山)へ出向いて参拝をして来ました。鹿沼市の西の山懐は丁度紅葉が色鮮やかに出迎えてくれました。途中道路際に「熊注意」の警告板が多く見られ、山に入るのは躊躇されます。賀蘇山神社への県道246号は、粟野川に沿って伸びています。神社の駐車場が道路の右側に開けその北側は「石裂山(尾鑿山)」が立ちふさがります。道路の左手は粟野川が音を発てて流れています。
石段を登り境内に入り参拝を済ませます。
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(賀蘇山神社境内、背後の山が「石裂山(尾鑿山)」と思われます。)
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(賀蘇山神社の神額、見事な彫刻が施されています)(境内の紅葉が綺麗でした)
今は道路も整備され、車で簡単に来ることが出来ますが、500年以上前は一日掛かりいやもっと大変な行程であったと想像されます。

那須町芦野の遊行柳へ [石碑]

先日、那須町の「道の駅、東山道伊王野」方面に車を走らせました。国道294号を那珂川町から北上、道の駅にて休憩後更に北に向かう。那須町芦野に入ると直ぐ国道左手奥の山肌に「堂の下岩観音」が有ります。(こちらは、2014年11月30日付の堂々巡りにて、紹介をしています。)更に北上すると左方向から栃木県道72号線が交差して来ます。この県道72号線は江戸時代の五街道のひとつ、旧奥州道中の一部に当たり、大田原市から那須町芦野までの区間に成ります。そして芦野以北は国道294号線が旧奥州道中を辿る事と成ります。
芦野は旧奥州道中の下野国最北の宿場です。次の宿場は、国境に当たる「境の明神」の所で下野国から磐城国に入り、白坂宿へと至ります。
今回はそこまでは行かず、旧芦野宿の直ぐ北に位置する「遊行柳」の元に行きたいと思います。これまでは何度もこの道を走っていますが、いつも遊行柳の場所を分からず通過していましたので、今回は前もって良く下調べをして来ました。
県道72号線との交差点から北へ1km程走ると、国道の脇に「遊行庵」と記した大きな看板を立てた茶屋、その手前に広い駐車場が有ります。松尾芭蕉の奥の細道の句「田一枚植て立去る柳かな」で有名な「遊行柳」へは、ここに車を停めて、歩いて向かいます。
駐車場から丁度西の方向、山の手前に大きな柳の木を確認することが出来ます。田圃の中の道を大きな柳の方向に歩いて行きます。
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入口に≪国指定名勝・町指定史跡 おくのほそ道の風景地 遊行柳≫と刻した石柱が建てられています。左側にビューポイントを示すカメラの絵が付けられています。私もそれに従って1枚シャッターを切りました。
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整備された道を柳の木の元へ進みます。道は少し「く」の字に曲り西の山裾へと伸びています。その中間点道が曲る所が広場の様になって、道の両側に大きな柳の木と石の常夜燈、その先に石の鳥居が建てられています。道の左側常夜燈の南隣りに、石で囲われた柳の木が有り周りに多くの案内板が建てられています。
≪那須の名木 遊行柳 幹回り90cm 樹高10m 平成六年十一月三日指定 那須町≫、「とちぎ名木百選」でもある様です。那須町教育委員会が立てた「遊行柳」の案内板も有ります。
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常夜燈の手前脇に、小さな石碑が建てられています。芭蕉の句碑です。石碑の右下に「芭蕉」の文字を確認出来ます。石碑のバックに成るのは、今は稲を刈り取った後の田んぼです。
そして、道の右側に目を転じると、同じように大きな柳の木とその横にこちらにも石碑が建てられています。
碑の上部に「道のべに 清水流るゝ 柳かげ」 そしてその下に「しばしとてこそ 立ちどまりつれ」と、刻されています。西行法師の詠じた歌碑に成ります。
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(松尾芭蕉の句碑)                   (西行法師の歌碑)

道は石の鳥居の先へ、西側の山は「鏡山」との事、その山裾に祀られている「上の宮神社」(正式には、鏡山温泉神社)への参道に成ります。鏡山の西側に健武山湯泉神社と言うもうひ一つの、温泉神社が祀られており、そちらは「下の宮神社」と呼んで区別しているのだそうです。
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(鳥居の奥、鏡山の麓に祀られている「上の宮神社」への参道)
社殿の左手前にとても大きな銀杏の木がそびえ立っています。こちらは「上の宮のいちょう」と言う、那須町指定の天然記念物となっています。≪推定樹齢400年 幹回り610cm 樹好高35m≫と記した案内板が建てられていました。
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(那須の名木「上の宮のイチョウ」)
神社周辺の山裾に、これもまた巨大な石が幾つも見られました。
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(山裾に転がる、岩の様な巨大な石)
どうやら神社の裏山は岩山の様です。手前に見られた「堂の下岩観音」なども有る様に、芦野地区の山はどれも岩山らしく、周辺には採石場が沢山分布しています。
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(社殿裏手の山肌は、岩山が露出しています。)
神社に参拝をして、遊行柳を後にしました。
帰りは国道4号線を走り、さくら市市内で国道293号線に入り、鹿沼経由で栃木に戻りました。
10月の下旬と成って来ると、西の空が夕陽に染まるのが早く成って来ています。家に着く頃はすっかり暗くなっていました。
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(さくら市から鹿沼方面へ)


1979年6月3日鍋山石灰工場を歩く [石碑]

栃木市の市街地から北西の方向を望むと、鍋を伏せたような形を見せる山が有ります。標高605メートルの「三峰山」です。この山はその形から通称「鍋山」と呼ばれています。この山を境にして北側は鹿沼市(旧上都賀郡粟野町)になっています。
この三峰山を含む周辺の山は、古くから石灰の産出が盛んな地域でした。
現在も、栃木の市街地からコミュニティーバスを利用して、出流山の満願寺(坂東三十三観音霊場第十七番札所)参拝や、その門前町へ名物の出流蕎麦を食べに行くときは、この鍋山の石灰工場群の中を通過しなければなりません。その道はまるで石灰工場の中に迷い込んでしまったかのような錯覚に襲われます。
私は今から37年前、昭和54年(1979)6月3日、この鍋山の石灰工場が並ぶ風景を、カメラに収めようと石灰の白い粉にまみれた道を、歩いてまわりました。私の生まれた家は鍋山街道に面していました。昔は鍋山人車鉄道が通っていましたが、私が生まれた頃には撤去されて、何の名残りも有りませんでした。そんな事も有り鍋山には何か関心が有りました。

鍋山には、栃木の市街地から県道32号(栃木粕尾線)で寺尾地区を北上し、鍋山町にて左折して県道292号(仙波鍋山線)に入り、出流川に沿った道を西に走ります。間もなく前方に山肌に岩盤が露出した風景が飛び込んできます。そして道路の両側に石灰粉にまみれ白くなった石灰会社の建物がせまります。
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「田政石灰」や「田源石灰」の会社の名前が見えます。
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道路は砕石を積んだダンプカーでしょうか、粉塵をまき上げて何台も通過して行きます。
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私が子供の頃、何処とも判らぬ、山鳴りと言うか地響きと言うか、「どどど・・・」「どずず・・・」そんな音を聞いた。鍋山で山を崩す為発破をかけた音が、空気を揺るがし栃木の街まで届きました。
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実際に石灰工場の中を歩くと、特殊な空間が広がっています。山の中腹に張り付く様に建てられた工場建屋、多くのベルトコンベアーが砕いた石を運んでいるのか。見た事も無い機械が、大型のショベルカーが動き回っていました。
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この写真を撮ってから後も、幾度となくこの道を通っています。その度に車窓から見えるこの石灰工場の風景は、昔も今も同じように感じます。山は以前より大きくえぐり取られているのでしょうが、その全容を見る事は出来ません。
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栃木市の産業に大きな位置を占めて来た、鍋山の石灰ですが、規模が大きくなっていった過程で、粉塵公害と言う問題も発生しました。この産業の特殊性から生じる白い粉の公害から労働者を守る為、地元門沢地区の全戸が昭和43年に、粉塵の無い梅沢地区に新しく住宅団地を建設して移転をしたのでした。
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現在も梅沢住宅団地入口に、「鍋山粉塵公害集団移転」の記念碑が建っています。
碑文は、「三つ峰の 白い粉より 逃れいで 朝あけ匂う 今日のこの地に」 の短歌がきざまれています。
碑陰には「梅沢住宅団地」の建設に協力をした人達の名前が連なっています。(昭和43年8月25日建之)