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栃木のお伊勢さん、神明宮へ初詣に行ってきました [栃木市の神社]

2017年の元旦は、青空が広がり風も無く、陽射しも暖かく穏やかな一日と成りました。
今年も初詣は家族揃って、旭町の神明宮まで歩いて出かけました。
我家から神明宮までは、ゆっくり歩いても30分ほど、御節で満腹と成った身には、手ごろな運動に成ります。
神明宮の参道はすでに初詣に来られた大勢の人で、行列を成していました。列の後に並んで順番を待ちます。拝殿の前まで進むのに30分ほど、それでも例年の事で、皆さん静かに前の人に続いています。
神明宮初詣1.jpg
(神明宮参道、初詣の列が出来る)

「お神明さん」、地元では神明宮を親しみを込めてこう呼んでいます。そして「お神明さん」は私の子供の頃からの遊び場のひとつでした。
幼い頃は両親と共に行きました。その頃は参道を入った左側に、電動仕掛けで動く象の乗物や、前後にスイングする馬、上下するキリンを模した乗物には、良く乗った。チェーン駆動にて楕円を描いて動く豆自動車はコーナーを回る時、速度が増し遠心力が発生する為、小さい頃はとても怖かった記憶が有ります。社殿南側の現在鳥小屋の付近に設置された、街頭テレビを見に行った事も覚えています。
神明宮遊園地1.jpg
(写真は太平山上の第一公園移設後のものを、1973年7月撮影したものです)
小学校の高学年に成ると社殿裏手、東側の池の脇に有った駄菓子屋さんや稲荷神社(現在は参道入口北側脇に移されています)の周りで遊んだり、社殿南側の瓢箪池の周りや築山の木に登ったりして遊びました。
神明宮東裏1.jpg
(社殿裏手に有った稲荷神社、1979年4月に撮影)
今はもう有りませんが瓢箪池に架かる「要橋」の橋のたもとにもお店が有りました。
現在、大きく育ったクスノキの有る児童遊園は、私の子供の頃は、夏には広場の中央に櫓が組まれ、盆踊りが行われたり、サーカスの大テントが張られたりと、催し広場として利用されていた気がします。
第二公園1.jpg
(児童遊園にて遊具に乗って遊ぶ子供達、1979年4月撮影)
長い時間の流れの中で「お神明さん」も色々と変化を続けていますが、社殿は今も昔のままの姿を今も留めています。

今日一日の歩数は9,712歩、歩いてると少し汗ばむ陽気でした。

箱森町鷲宮神社の、お酉様 [栃木市の神社]

今日11月23日は「勤労感謝の日」です。私の家の近く、箱森町の「鷲宮神社」ではお酉様が行われ、神社の境内において、地元自治会のバザーやお囃子の演奏が行われて、我家まで太鼓の音が聞こえてきました。
この日は地元の農家で作った、鳥の卵を模した米の粉で作った団子を藁で包装して、境内にて販売されます。「これを食べると風邪をひかないよ」と子供の頃、親から聞かされました。
私も昼近くに成ってから、自転車を飛ばして神社に向かいました。
箱森町鷲宮神社1.jpg箱森町鷲宮神社2.jpg
境内は地元の関係者の方が大勢集まっていました。まずは神前で参拝を済ませた後、さっそくお目当ての「米団子」を2本買って家に戻りました。
箱森町鷲宮神社3.jpg箱森町鷲宮神社4.jpg
さっそく藁の包装を開け、中身を取り出し電子レンジで「チン」して、私の好きな「砂糖醤油」を付けて食べました。「これで、この冬も元気で乗り切れるかな。」

天気予報では明日は雪の朝になると言っています。11月に雪が降ると54年ぶりだそうです。
幸い一昨日、車のタイヤを冬用に交換しました。少し早いかなと考えていましたが、今年は例年よりも早く雪が降る予感がしていたので、少し安心です。でもどちらかというと雨に成って欲しいです。

栃木市旭町神明宮境内の石灯籠 [栃木市の神社]

栃木市旭町に鎮座している「神明宮」は、私の子供の頃からの遊び場の一つでした。現在では正月、家族揃っての初詣に行くのが恒例になっています。
神明宮(旭町)1.jpg
(神明宮参道入口の大鳥居、正面奥に神明宮の社殿を望む)
大きな鳥居を潜って参道に入ると、参道の両側に石灯籠が対と成って、社殿まで4対建てられています。それらの燈籠と少し様子の違う石灯籠がただ一基、丁度手水舎の反対側に建てられています。
神明宮(旭町)2.jpg
(参道車止め前より社殿を撮影。右手手前は手水舎、左手手前が目的の石灯籠)
この石灯籠について、社務所にて配布している「神明宮略誌」の中で、[境内建造物]として、≪琴平宮奉献の石燈籠(亀田鵬斎揮毫)壱基≫と記されています。
神明宮石燈籠1.jpg神明宮略誌.jpg
(琴平宮奉献石灯籠)                       (神明宮略誌の表紙)
この石灯籠について、もう少し細かく見て行きます。上部から順に見て行きますと、
神明宮石燈籠2.jpg神明宮石燈籠3.jpg
(石灯籠の最上部)                  (屋根の部分、上部に文字が確認出来る)
最上部は擬宝珠の形の石が見えますが、石の色や艶の具合を見ると、この部位だけ新しく取り付けられた様です。以前撮影した写真を見ると形が変わっています。
神明宮石燈籠19.jpg
(昔、撮影した石灯籠、最上部の形状が異なる)
その下の屋根の部分をカメラをズーミングして確認すると、六分割した部分の一つ一つに文字が刻まれています。参道の入口方向を正面とし、時計回りにその文字を読んでみると、「金比羅大権現」と彫られている事が分かりました。
神明宮石燈籠13.jpg神明宮石燈籠14.jpg
①正面部分「金」の文字                     ②正面の左隣り「昆」の文字
神明宮石燈籠15.jpg神明宮石燈籠16.jpg
③「羅」の文字                           ④「大」の文字
神明宮石燈籠17.jpg神明宮石燈籠18.jpg
⑤「權」の文字                           ⑥「現」の文字

屋根の下に「火袋」、その下には龍の姿が刻されています。
神明宮石燈籠4.jpg神明宮石燈籠5.jpg
(屋根の下「火袋」の部分)              (火袋の下側、龍が刻されている)

龍の下側にひとまわり大きく「象」が刻されています。
神明宮石燈籠6.jpg
(龍の下には、体を丸めて休んでいる「象」が刻されています)

更にその下側の台座の部分、四面に刻された文字を見て行きます。文字は国語の教科書に記されるように、右から左に刻されていますが、その内容は、
まず正面に位置する面、「常明神燈」。その右側面には、「五穀豊穣」
神明宮石燈籠7.jpg神明宮石燈籠8.jpg
(正面:常明神燈)                        (右側面:五穀豐饒)
そして、左側面の文字は「慈航安穏」。そしてうしろ側の面には、「文化十四年丁丑秋九月十日 立之 鵬斎興書」と刻されています。
神明宮石燈籠9.jpg神明宮石燈籠10.jpg
(左側面:慈航安穏)                    (後面:建立年月日と鵬齊の名前)
「文化14年」と言うのは、今から199年前の1817年になります。「鵬斎」とは、江戸時代、化政文化の書家・儒学者で、栃木町に来遊していた様です。
この石燈籠は、台座に刻された日付に有る様に、文化十四年(1817)に建立されたものですが、その後慶応二年(1866)にその下に更に石の台座を組んで高くしていました。
その追加された下の台座には、多くの人名が連ねて刻されています。「太々講中」の文字も読み取る事が出来ました。台座裏面左端の部分に「願主」と有り、少し間を空けて「清水儀左衛門」「押田彌次郎」の名前が確認できます。
神明宮石燈籠11.jpg神明宮石燈籠12.jpg
(後ろ側台座の左隅の「願主」の文字と人名)(台座積石後ろ側左上隅の石に「石工」の名前)
その下台座の石組みの左上端の石の表面を少し削り、「石工」の文字の下側に「野口藤右衛門」「宮田清兵衛」の名前を何とか確認できます。
何気なく見過ごしてしまう石燈籠ですが、ジックリと観察すると、色々と発見が有るものです。

※人名など漢字の判読が難しい所も有り、違っているかも知れませんが。

巴波川右岸に鎮座する大平町横堀の春日神社 [栃木市の神社]

栃木の市街地を抜けた巴波川は、東武日光線とJR両毛線の「巴波川橋梁」の下を通過した後、沼和田町と城内町二丁目との境界となって、流れを一度大きく東にカーブさせ、「弁天橋」の下流で、再び南に大きく流れを変えて、浄化センター、衛生センターの西脇を流れ、「金橋」「愛宕橋」を潜ると、その先で大平町横堀と大平町北武井の境界として南流しています。
春日神社(横堀)12.jpg春日神社(横堀)13.jpg
(途中の巴波川の土手には、菜の花や桜・桃などの花が咲き誇っていました)
私もたまにはこの辺まで足を伸ばして、歩いて来る事が有りますが、その度に巴波川右岸、大平町横堀に桜の木が並ぶ参道を持つ神社を遠目に見ては、一度桜の咲く時期に訪れたいと思っていました。
今年はその気持ちが強まったので、桜の咲くのを待って今日、自転車を飛ばして行って来ました。
前回は昨年(2015)6月3日に訪れ参拝をしていますが、その時参道入口に掲げられた、神社の説明板に今日4月10日が例祭と有り、御神楽奉納も行われると記されていましたので、時期的に桜も見られると思い、巴波川の左岸の土手上の道を下って来ました。
巴波川の左岸から対岸に、ずっと桜の並木が満開の花を付けて並んでいます。
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(巴波川の対岸に太平山をバックに春日神社の参道の桜を望む)
巴波川に架かる「吾妻橋」を渡って、春日神社参道入口前に自転車を停めて、参道入口の朱塗りの鳥居を潜り、その先に拝殿前まで続く桜のトンネルとなった150メートル程の参道を進みます。
春日神社(横堀)2.jpg春日神社(横堀)3.jpg
(巴波川に架かる吾妻橋西橋詰に春日神社参道入口、朱塗りの鳥居と祭りの幟旗)
今年は開花が早いと言われていますが、こちらも参道は桜の花びらが盛んに舞い落ちて言います。桜の花に混ざってすでに緑色の葉も見られました。
春日神社(横堀)4.jpg春日神社(横堀)5.jpg
(桜のトンネルとなった参道)        (石の鳥居の奥に拝殿を望む)
拝殿ではすでに神事が始められているのか、中に大勢の人達が座って、神主さんが唱える詔の声だけが、拝殿から漏れて来ています。
春日神社(横堀)6.jpg春日神社(横堀)7.jpg
(春日神社拝殿)               (神楽殿には奉納神楽の準備も出来ていました)
その場で参拝するのは少し躊躇われたので、暫らく境内内を散策しました。でいれば奉納されるお神楽も、見たかったのですが時間の余裕も無かったので、諦めました。
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(境内に祀られた石宮)               (人丸神社)

春日神社の主祭神は、天児屋根命(あめのこやねのみこと)。
配神は、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、比売神(ひめがみ)
大平町誌に記されている春日神社(旧村社)大字横堀によりますと、境内地は1,719.97坪。氏子数は100戸。沿革については、≪当社は徳川将軍家安泰祈願のため、後光明天皇の承応元年(1652)旧2月15日、信濃守大森頼直(藤原姓)が、大和国(奈良県)三笠山より勧進建立したという。将軍家の崇敬厚く三ツ葉葵の紋章使用や、将軍家宣公御台所寄進の錦の御戸帳 信濃守寄進の石鳥居や50石の御朱印地等があった。・・・・・(後略)≫と出ていました。

150メートル程の参道を抜けると、寛文五年(1665)と刻された石の鳥居の右手、境内の端に「松長山久遠院大森寺跡地」と刻した石碑が建てられております。そしてその傍に、小さな石祠や無縫塔などが祀られています。石碑に記されてる通り明治初めの廃仏毀釈により廃寺となった、久遠院(天台宗)がこの地にあったのでした。
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(松長山久遠院大森寺跡地の石碑)         (石碑の脇に祀られた石祠や無縫塔など)

栃木市城内町二丁目に有る天台宗の寺院、星住山圓通寺が平成十四年八月に発行した、「寺史照顧(円通寺開山と中興)慈覚大師・等海法印・高慶大師」の本の中に、「第三の五、高慶大師記録 (豪弁文書)」の記事が載っていますが、そこに横堀の久遠院大森寺の開山で圓通寺22世豪弁について、詳しく記されています。
帰りに圓通寺によって参拝させてもらいました。
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(星住山圓通寺本堂)                     (独鈷泉の水面を覆う桜の花びら)

日限富士浅間神社大祭 [栃木市の神社]

栃木市柳橋町の清水川左岸に鎮座する、日限富士浅間神社にて今日、春季大祭が執り行われましたので、参拝に行って来ました。
通称「日限の浅間さん」と呼ばれていますが、この神社の事については、前に一度このブログにて紹介を致しました。(昨年6月24日)
正月三が日とこの4月1日には昔から大勢の参拝者で賑わっていました。私も子供の頃から参拝と言うより、遊びに来ていました。昭和30年頃はこの周辺は一面の田圃が広がって、人家は殆ど有りませんでした。
神社の西側を北から南に流れる清水川は、神社の上流側に堰が有り、神社の境内などと同様、格好の遊び場でもありました。
清水川堰1.jpg清水川堰2.jpg
(日限富士浅間神社北側に有る、清水川の堰。今も住宅街の中に昔の名残を留めています)
以前は県道75号(栃木佐野線)の脇に建つ、石の鳥居から清水川の左岸沿い150メートル程の参道に、奉納された木の鳥居が、ビッシリと並んで建っていました。現在参道の鳥居は数が減って少し寂しくなりましたが、新しく奉納された鳥居も見られ、まだまだ信仰を集めている様子を覗わせています。
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(県道75号線脇に建つ石の鳥居)   (清水川沿いの参道に並ぶ奉納された木の鳥居)
時々青空をのぞかせる、花曇りの天気の中、神社の境内に有る桜は丁度見頃を迎えていました。
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(桜の花が見ごろを迎えた神社境内)      (境内左手に建つ、昭和9年建立の建築記念碑)
拝殿の前で、手を合わせ参拝をする人が、後から続々と訪れていました。参拝した人達が願いを込めて献灯した蝋燭の炎が、暖かな光を発していました。
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拝殿の向かって右手に建つ神楽殿にて、御神楽が舞われて、大勢の参拝者が観賞をしています。
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私も暫らくお神楽の演奏と舞をゆっくりと、堪能しました。どこか近くの老人施設の人達でしょうか、職員さんに連れられ車椅子に乗って参拝をされ、御神楽を観賞したり、境内の桜を楽しんだり、記念写真を撮ったりしていました。おそらく若かりし頃の思い出を懐かしんだご老人もおられたのかも知れません。
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私も子供の頃の思い出を、静かに奏でられる笛や太鼓の音と共に振り返るひとときでした。



平柳町1丁目鎮座の星宮神社 [栃木市の神社]

今日の午前中は陽射しも有り、暖かさにつられて栃木市内の散策に出かけました。嘉右衛門町から東へ折れて新栃木駅前通りを進み、途中で左手に入る細い路地を抜けて行くと、杉木立に覆われた平柳の星宮神社の前の通りに出ます。
ここに来るのは4年ぶりになりますが、神社境内入口付近がすっかり綺麗に改修され、車いすでも拝殿前まで楽に行ける様、入口段差部にはスロープが設けられ、参道の敷石も新しくなっていました。
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(星宮神社前より、ここに神社専用駐車スペースが2台分有ります。)
神社境内入口に向かって左側、塀際に十九夜供養の石仏などが祀られていますが、それらと並んで「花崗石橋寄付人名■」と刻された石柱が建てられています。石柱の右側、星宮神社境内との間に、幅1メートル弱の水路が流れています。現在付近に石橋は確認出来ません。おそらく以前この水路に石の橋を架けたものではないかと想像致します。
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(神社入口左手の石仏群)           (神社境内西側に沿って流れる水路)
この星宮神社境内の西側に沿て流れている水路は、明治十九年発行の迅速測図を確認しますと、大町の北部において、巴波川から分岐したもので、この神社から更に南に流れ、杢冷川につながっています。
石の鳥居を潜り参道を進みます。右手に社務所が有ります、今日は閉まっている様です。玄関には「社務所」と書かれた木札の他に、「宮本公民館」の木札も掲げられています。地元自治会の集会場も併設されている様です。
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(拝殿正面)                          (社務所兼宮本公民館)
左側には手水舎、そしてその先にこれは最近設置されたモニュメントでしょうか、「なでうなぎ」との表示が有ります。
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(参道左側に設置されている「なでうなぎ」
半球盤の上面に八角形の方位図と十二支の文字が描かれています。中央の球面上に三匹の「うなぎ」が泳ぐ様に造られています。説明が難しいので写真を見て下さい。
傍に「なでうなぎの由来」が有りました。説明に有ったように私もうなぎと自分の干支の文字をなでさせてもらいました。
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(「なでうなぎ」の由来が記されています)   (「なでうなぎ」上から見るとこうなっています)
拝殿前に進み、参拝を済ませます。この星宮神社の祭神は、「磐裂命」「根裂命」「経津主命」であると拝殿前に記されています。
参拝の後、境内の中を散策させて頂きました。拝殿前の狛犬はドッシリとした感じで、とても重量感が有ります。
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(重量感たっぷりの狛犬。後方に写る天水桶は昭和46年10月13日の日付が有ります)
境内には沢山の石の祠が祀られています。参道左側に建つ神楽殿の左側に六社、神楽殿に近い方から「須賀神社」「大杉神社」「御祖神社」「稲荷神社」「血方神社」「産泰神社」です。
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(参道左手に並ぶ境内社、六社)           (神楽殿)
社殿の左手奥にも「白山神社」「山神社」「水神社」「神明社」「稲荷社」「大国社」が祀られています。
社殿右手奥は、宮司さんのお住まいへ通じている様です。
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(社殿左側奥に祀られている境内社)      (社殿右側、奥の宮司さんのお住まいに続く)
神社の由緒については、境内に説明板等見かけませんので分かりませんが、社殿西側の木立の中に、背の高い大きな「星宮神社改築記念碑」と大書した石碑が建てられています。その碑陰に寄付者芳名がビッシリと刻されています。「昭和9年4月13日竣成」と有りますので、この日付が現在の社殿が造られた時と考えられます。
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(星宮神社改築記念碑)                (星宮神社本殿、左側面)
神社については素人で何も分かってませんが、星宮神社は明治初期の神仏分離以前は、虚空蔵菩薩を祀っている事が多く有った様で、ここの神社も先ほどの「なでうなぎ」の由来文に記されていますが、≪当神社の御祭神のお遣いであるうなぎは・・・・・(後略)≫とあるところから、やはり虚空蔵菩薩に関係している物と思われます。
機会が有ったら、宮司さんにお尋ねしたいと思いました。

大平町川連の天満宮 [栃木市の神社]

今日、栃木バイパスを南進、片柳町のJR両毛線の跨線橋を渡り終え大平町川連の天満宮前を通過した時、天満宮境内に紅梅・白梅が目に飛び込んできました。
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そこで、車を脇道に停めて春の訪れをカメラに収めました。
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ここ川連天満宮は「大平町誌」によると、かっては愛宕神社と称し川連城主代々の信仰を受けた。その後火災にあい社殿が焼失した為慶長年間に再興されています。現在の社殿は昭和10年(1935)4月15日に新築されたもので、元は現在地よりも幾分東に有りました。昭和55年(1980)の道路改修により西側に移転しました。主祭神が菅原道真の天満宮に改称したのは、昭和27年(1952)の事だそうです。
神社境内の南隣りの道路際に、「大平町史跡 川連城跡」と刻した大きな石柱、そしてその脇に「大平町教育委員会」「大平町文化財保護審議会」による説明板も建てられています。ただ城跡を示すものは現在は殆ど認められませんし、築城当初の様子も文献等が無い為、詳しい事は不明という事です。
川連城跡1.jpg
説明板によると、≪栃木市の大平町川連と片柳町とにまたがって位置する川連城は、応仁年間(1497年頃)川連仲利が築城したが、永禄6年(1563)皆川俊宗によって占領され、その後修築されたといわれる複郭の平城で、東西380メートル、南北500メートルという大規模なものである。-中略- 城の南側には城下繁栄策により村が形成されたが、江戸時代になると例幣使街道が通過し、富田宿と栃木宿をつなぐ中継点となった。≫と紹介されています。
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川連城については、もっと知りたいと思いました。



大平町下皆川の日枝神社 [栃木市の神社]

杉の花粉が飛び交う時期になって来ました。少し抵抗が有りましたが大平町下皆川、太平山東麓の杉木立の中に祀られている日枝神社を訪れました。
栃木市のほぼ中央に位置する太平山は、栃木県南部に広がる関東平野のいたる所から望むことが出来る、東の筑波山、西の太平山と並び称される山で、山内や山裾に多くの神社や寺院が建立されています。
この日枝神社は太平山の東麓に位置しますが、太平山の参道あじさい坂の脇にある、六角堂として有名な「太平山連祥院」や元は太平山中腹に有ったと言われ、現在は栃木の市街地に建つ「星住山圓通寺」や「白旗山勝泉院」などの多くの天台宗の寺院が、慈覚大師円仁を開基としているのと同じように、慈覚大師円仁の勧請によって創建されたと伝えられています。
創建の時期は、淳和天皇の天長二年(825)と云われ、圓通寺と同じ年になります。
主祭神は大山昨命になります。古くは「日吉山王大権現」と称したと云い、その時の神額が現在同じ下皆川に有る「薬王山長楽寺」の寺宝となっているそうです。
下皆川の集落の中央を北から南に貫く様に通る細い旧道の脇に朱塗りの日枝神社一の鳥居が建っています。現在は鳥居の横に車道が造られ、逆に鳥居の前には石の常夜燈や神社名を刻した石柱が集められ、又鳥居の下にはどこの、何のための石か分かりませんが、十数個積まれ、鳥居を潜り抜けることは出来ません。
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鳥居の脇を通って真直ぐに太平山麓に向かう参道を進みます。240m程で山際に建つ二の鳥居の前に着きました。石の鳥居には「日枝神社」と刻した石製の神額が掲げられています。この石の鳥居の先は参道両側を杉木立がそびえています。
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二の鳥居から拝殿前までは約120m、途中からなだらかな石段を足元に注意して登ります。三の鳥居を潜り更に十六段の石段を登ると拝殿前の広場に出ます。正面拝殿前に石燈籠や狛犬が建っています。
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左手手前には神楽殿、拝殿の脇には小さな祠の境内社が祀られています。
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杉木立に包まれた境内は、時の流れが止まったような静寂の中に有りました。


大平町真弓の諏訪神社 [栃木市の神社]

栃木市大平町真弓の北の端、大平町蔵井との境に標高51mの小丘が有ります。北側から東側にかけて永野川が流れるこの小丘は、磯山と称して南麓中腹に「健御名方命」(タケミナカタノミコト)を祭神とする、「諏訪神社」が祀られています。
磯山の西の麓に沿った、県道252号線の旧道と思しき道の脇に、この諏訪神社の参道の入口が有り、石の鳥居が建っています。「諏訪神社」と刻した神額が掲げられています。鳥居の左手前には「郷社 諏訪神社」の石柱も建てられています。鳥居を潜り参道を進んで行くと、約100m程歩いた所で、二つ目の鳥居が現れます。
諏訪神社(真弓)0.jpg諏訪神社(真弓)1.jpg
(参道入口に建つ石の鳥居、神額「諏訪神社」)(参道途中に建つ、二番目の鳥居)
参道はその約80m先で車道を横断、その先は両側に杉木立がそびえる中を、参道が真直ぐに伸びています。杉並木の参道を更に100m程進んで行くと、参道の右手杉木立の先に、赤や青、黄色などで鮮やかに染められた滑り台やブランコなどの遊具の有る児童公園が見えます。公園に向かうとその奥に二階建ての家屋が見えます。
諏訪神社(真弓)2.jpg諏訪神社(真弓)3.jpg
(杉並木の参道の奥、社殿を望む)  (参道右脇の児童公園。奥の二階屋が社務所)
参道に戻り先に進みます。約30m程で三つ目の石の鳥居が有ります。鳥居の前後に石段が有ります。前が7段、後ろが24段です。鳥居を潜って石段を登った左手に手水舎、その裏手に古い井戸の後らしきものが有ります。手水舎の先に御神璽やお守の授与所が有ります。又右手の奥に先ほど児童公園に有った二階建ての建物の裏手二階部分から境内に通ずる橋が渡っています。建物は神社の社務所でした。
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(三番目の石の鳥居、ここから石段を登る)(社務所2階より境内に至る橋が架けてある。)
神社の社殿はここから更に一段高い所となり、21段の石段を登る事になります。石段手前左側に立札が立てられ、諏訪神社の祭神や由緒、例祭の碑に智などが記されています。
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(社殿前に向かう最後の石段)         (石段の脇に立てられた神社の由緒板)
最後の石段を登り拝殿の前に出ました。まずは参拝を済ませて、社殿の周りを散策しました。
拝殿中央に「諏訪大明神」と記した神額が掲げられています。その両側に安政六年(1859)と記した奉納額が掲げられています。「奉納百首歌合 花月雪」と題し、その後に百首の和歌が繊細な崩し字で記されてます。奉納板 川連榮四郎、 催主 真弓連となっていました。150年以上経ても、文字もシッカリ読む事が出来る、立派な奉納額です。
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(拝殿正面、神額の左右に「奉納百首歌合 花月雪」の奉納額)   (諏訪大明神の神額)
拝殿の屋根を見上げると、大棟の所に漆喰で出来ているのか、龍の装飾が施されています。このような装飾の屋根を私は初めて見ました。
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(拝殿の屋根、大棟の部分の龍の装飾)
境内には他に、「愛宕神社」や「龍神社」「白山社」「三日月社」「琴平社」などがお祀りされています。他に杉木立の中数基の石碑も建立されています。
社殿の裏手は岩場に成っていて、大きな石も見受けられます。岩場の脇にコンクリート製の円筒の構造物が建っています。前に立札が有り、それによると≪この水槽は昭和18年株式会社日立製作所栃木工場がこの大平の地に操業を開始した際、工場の工業用水供給の為建造され、その後昭和40年まで重要な役割を果たした当時を偲ぶ由緒ある建造物として爾今この水槽を永く保存するものである。≫と記されていました。
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(社殿裏手の岩場、右側に円筒の構造物が見える)     (構造物前に立つ説明板)
岩場の上に立つと北西方向に、太平山から晃石山の山並みが一望出来ます。
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今から40年以上も前になりますが、この岩場に天狗の足跡が有るという言い伝えを聞き、見に来た事や、白鷺が何羽も巣をつくっていると聞いて、見に来たりそんな思い出も有る磯山でした。

栃木市岩舟町の富士山に登って来ました。 [栃木市の神社]

今日は岩舟町静に有る、栃木市岩舟文化会館の裏手の富士山に登って来ました。
山頂に「浅間神社」が祀られており、その社殿の裏手に、建設省国土地理院設置の四等三角点「浅間神社」93.82mが有ると言うので、神社参拝と合わせて確認する事としました。(平成27年1月国土地理院発行2万5千分1の地形図「下野藤岡」には、富士山の標高は93.7mと記されています。)
「栃木市岩舟公民館」の駐車場に車を停めさせていただいて、登山の始まりです。富士山の周辺の標高は約30mですから、比高は60m強という事になります。
私の住まいの近くに有る「錦着山」は標高80.5mで、周辺は50m近くありますから、こちらは比高30mという事になりますので、これから登る「富士山」は、「錦着山」の2倍の高さとなります。初めて登るので楽しみです。
丁度文化会館の裏手に浅間神社の参道が有りました。参道入口に「浅間神社」と刻した、立派な石の鳥居が建てられています。鳥居の向こう側にほぼ一直線に山頂に向う石段が有ります。
石段は、きっちりしたものでは無く、登り道に登りやすいように平石を並べた格好です。脇にステンレスパイプ製の真新しい手すりが有ります。
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少し登り出した所で、もう私の心臓はバクバクして来ました。手すりが付けられている理由が直ぐ理解できました。早速手すりに助けてもらいながら参道を登って行きます。
途中から石段から岩場に変わってきました。手すりにシッカリつかまって、足場を一歩一歩確認しながら上を目指します。自分の体力の衰えを改めて知らされながら、必死の思いで足を運んでいきます。手すりにつかまった手で自分の体を引き上げます。
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やっと岩場の上に神社の屋根が見えて来ました。最後の気力を絞って拝殿の前に出ました。まずは拝殿向って参拝を済ませ、直ぐ脇に有ったベンチに座り込みました。
ここまで写真を一枚も写していません。そんな余裕などまったく有りませんでした。今日の最初の一枚はベンチに座ったまま撮影した浅間神社拝殿の写真でした。
良く登っている「錦着山」の登山道はスロープで山肌をジグザグに徐々に登って行くのに対して、この富士山は殆ど直登状態で、それも半分以上は岩場を登るのですから、シンドイ訳です。
一休みをして心臓が落ち着いてきたので、山頂を散策します。社殿の裏手に回ると有りました、三角点を示す国土地理院の建てた白い表示棒です。その脇の地表に露出した盤石に埋め込まれた、四等三角点 基本 №100580 建設省国土地理院と刻んだ金属製の丸いプレートが埋め込まれています。これまで見て来た柱石を建てた三角点とは異なる形式の三角点です。
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社殿の前に六角柱の石碑が建てられています。「享和三癸亥歳中冬十五日」とその一面に刻まれていますから、1803年の陰暦11月15日に建立されたものです。正面には「庚申猿田彦太神」、真後ろの面には「天下泰平五穀成就郷中安全」等、六面にそれぞれ刻まれています。
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展望は冬枯れの木立の間より、太平の山並みや三毳山。南に国道50号バイパス、多くの車が途絶えることなく走っています。夏季は木々に覆われて展望は望めそうも有りません。
下りも手すりを頼りに、一歩づつ足場を確認して山を下りました。高さはさほどでないと考えていましたが、地元の方が「富士山」と名付けた事に、納得できる山でした。



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