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昭和初期の看板建築が残る石岡市へ [歩く]

そこは、まるで昭和初期の映画撮影セットの様な商店が建ち並んでいます。
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(茨城県石岡市国府・府中の旧水戸街道の町並み)
茨城県石岡市、私の住む栃木市からも東の方向に望む事の出来る、加波山から筑波山に連なる筑波山地の東麓に広がる街です。その石岡市の東側に位置する常陸府中は、奈良時代に栃木市と同じように常陸国の国府が置かれました。府中の街の北側には常陸国分寺や常陸国分尼寺も建てられました。
江戸時代に入って元禄13年(1700)には水戸徳川家の分家と成る松平頼隆が、常陸府中藩主として入封、その城下町として栄えました。
この街の中央をほぼ縦貫する形に成る街道は、かっての水戸街道でここ府中宿は千住宿から14番目の宿場町でも有りました。
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(店頭の街灯が趣の有る蕎麦店「東京庵」)
現在、町の中央部に多く残る昭和5年から7年頃に建てられた看板建築と言うスタイルの店舗兼住宅は、昭和4年(1929)3月14日に発生した「石岡大火」により、石岡町の中心市街地の4分の1を焼失した為、その後の復興において、その当時流行していた「看板建築」が多く建てられ、まさに映画のオープンセットの様な町並みが出来上がりました。
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(最上部に屋号を掲げた「玉川屋」の味の有る看板建築)
現在では既にシャッターを下ろした店舗も見られますが、多くが今も商売を続けておられます。
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(十七屋履物店:昭和5年建築、木造2階建て看板建築) 
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(久松商店:昭和5年建築、木造2階建て看板建築)
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(福島屋砂糖店:昭和6年建築、木造2階建て商家建築)
そんな建物のいくつかは「登録有形文化財」に指定されています。
私が車を駐車したのはその町の中心地に建つ「丁子屋」脇の駐車場でした。
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(丁子屋店舗:江戸時代末期、木造2階建ての商家建築)
この建物も江戸時代末期に建築された建物で、元は染物屋だったと有りますが、現在は観光施設の「まち蔵藍」と成っています。先の「石岡大火」の難からも逃れて残った貴重な建物で、中は駄菓子屋風で、お土産なども販売していました。
この「丁子屋」から直ぐ南の道路際に大きな石の鳥居が建って、その参道の奥に立派な社殿が見えます。「金刀比羅神社」で、祭神は大物主神です。≪文政10年(1827)讃岐国象頭山(香川県琴平山)の金毘羅大権現の御分霊を勧進して、「こんぴら信仰」のよりどころとして多くの人々の参詣を集めている。≫と参道脇の案内板に記されていました。
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(国府平の森 金刀比羅神社の社殿)   (神社参道右手に建つ、正岡子規の句碑)
又、境内には正岡子規が第一高等中学校在学中の明治22年(1889)春、水戸の学友を訪ねて徒歩で旅行し、その時著した「水戸紀行」の中に、≪二日目は、小雨の中土浦「總宜園」(跡地に句碑有)で霞ヶ浦を眺め、「醤油の名所、石岡まで辿りつき萬屋に宿を定め」る。≫と石岡に1泊している事を記した案内板と、「二日路は筑波にそふて日ぞ長き」の句碑が建てられていました。

現在は市街地に入る南側にて国道6号線が分岐して、東側をバイパスする様に北東方向に伸びています。多くの車がこの分岐で右に進み、左の旧道に入ってくるのは少なくなっています。

永野川沿いを歩き、榎本城址と榎本宿を巡る [歩く]

私が所属している歩く会の4月例会が去る14日に行われました。今回は大平町の運動公園から永野川の土手上の道を歩いて下り、大平町真弓から榎本まで行き、永野川左岸の榎本城址周辺からその南側の榎本宿の寺社等を、現地榎本に住む会員の案内で巡って来ました。
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(大平町運動公園から榎本宿までの、永野川沿いの歩行ルートとポイント)
※説明図には、永野川の現在の流れに合わせて、明治初期に作られた迅速測図に表わされた大きく左右に蛇行を繰り返す永野川の旧河道の様子も表示しました。

大平町運動公園を出発して最初に向かった所は、真弓地区の北端に有る「磯山」(真弓山とも称していた)。西側の山の斜面から登り山頂に有る天狗岩へ、標高51メートル、比高は僅か15メートル余りの小さな山ですが、しょっぱなからの坂道に、早くも息が上がります。
天狗岩の上からは北西方向に、太平山や晃石山の山並みが連なっています。手前に栃木市立大平中学校の新築された校舎が有り、左手方向に目をやると、大平町の桜の名所「さくら通り」の桜並木がまだ満開の状態を見せています。
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(大平町真弓の磯山山頂、天狗岩からの眺望)
この磯山の北側部分は「天狗岩」など大きな岩肌を露出させていますが、南側中腹には、下野押領使藤原秀郷が信濃一の宮諏訪神社を勧進して創立したと伝える、元郷社の「諏訪神社」が祀られています。
社殿前から南に真直ぐに続く参道を歩いて、永野川右岸に向かいます。
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(諏訪神社参道、両側に杉の大木が続いています。)
町田橋を渡り永野川の左岸へ。黄色の絨毯を敷いた様な菜の花が群生する永野川の土手上の道を、川の流れと共に南に歩きます。春の陽光を浴びながら歩く川沿いの道は気持ちの良いものです。
途中、榎本宿の旧街道の中央を流れていた堀割の水を供給した永野川に設けられた「榎本堰」の取水口を見学。(元々は榎本城の濠へ供給していたものか?)
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(コンクリート製の堰が永野川を横切り、左岸の取水口を抜けた用水堀が榎本へのびる)
榎本堰から少し歩くと、永野川の東側真弓南部地区に成ります。この地域にかつての小山氏の出城「榎本城」が有りました。
ここで最初に訪れたのが、集落に一番北側うっそうとした竹林に埋もれる様に一軒の大きな家屋。既に住んでおられる方も無く、屋根の大棟や軒の瓦も一部落ちています。この家は「大平町誌」の郷土出身の人物でも大きく取り上げられている、川連虎一郎義路の実家に成ります。
「川連虎一郎義路」は真弓村関宿藩領の割本名主、川連一郎兵衛義種の子。尊王攘夷の志士たちと交わり、水戸天狗党が太平山に滞留した時、藤田小四郎と通じ、軍用金や兵糧を献じた。元治元年(1864)8月3日、佐幕派の関宿藩家老杉山対軒派に捕えられ、洲崎で斬首されました。23歳であったと云います。
そこから更に少し南に行った道路の脇に「大平町史跡 榎本城跡」と刻した石碑が建てられ、石碑の後方にその説明板が建てられています。
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(永野川左岸土手上から榎本城跡を眺める。中央奥の林の手前に石碑が建っている)
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(「大平町史跡 榎本城跡」の石碑と説明文を見る、歩く会の参加者)
城の跡は殆どが田畑と成ってしまっていますが、石碑後方の林の中に僅かに濠や土塁の跡らしき地形を覗う事が出来ます。
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(榎本城の濠跡らしき地形)             (木立の中に建てられた石碑と祠)
石碑後方の林の南側に回り込むと、濠の跡らしき地形が残っている。又その林の中に入って見ると中に小さな石の祠脇に、「観音堂旧蹟」と刻された石碑が建っています。石碑の建てられた時期は碑陰の日付で、「大正十一年三月」と分かりますが、実際この場所に観音堂が何時まで建っていたのか?又、現在近くに有る「真弓南部公民館」の所に建つ観音堂との関係はどうなのか、分からなかった。

此処榎本城の建てられた場所は現在の住所区分では「栃木市大平町真弓」と成っています。最近までなぜ真弓に有るのに真弓城とせずに榎本城としたのかチョッと不思議に思っていました。
又、榎本はその真弓の南隣りの集落で「榎本宿」の有った地名で有るとこれまで考えていましたが、改めて大平町の地名を調べて見ると「下都賀郡小志」の中に、「榎本」は明治7年(1874)4月に榎本村に改名していて、それ以前は東水代村と称したと有り、更に時代を遡ると延喜年間(901~922)に、西御正水代郷水代村が分かって二村となり、西水代と東水代と成ったと有ります。
一方「真弓」は、明治22年(1889)4月1日合併によって「瑞穂村大字真弓」と成りましたが、それ以前は真弓村と称しました。更に時代を遡ると、西御庄榎本郷と称したと有りました。「真弓」が「榎本」だったのです。
ここで、「西御正」とか「西御庄」と有るのは「下都賀郡小志」に記載されたものをそのまま記しましたが、「西御荘」のことと考えます。平安末期に摂関家領荘園として立荘されたと言われる「中泉荘」で、旧栃木市の中央南部、旧大平町、小山市の西の一部、旧岩舟町の東の一部、旧藤岡町の北の一部などを包含する地域。「西御荘」とも記されている。(角川地名大辞典より抜粋)事を知りました。

榎本城跡を後に、南隣りの「大平町榎本」に向かいます。
榎本宿については以前(2015年3月24日付け)、「大平町榎本宿の事」と題して書きましたので、今回は見て歩いた場所について記します。
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(榎本宿を横断している旧街道。宿の東側から西方向を望む。突き当りが八坂神社)
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(榎本宿を縦断する旧街道。南方向を望む。道路両側の堀は暗渠化されている。)
榎本宿の石仏.jpg榎本宿の常夜燈.jpg
(旧街道沿いに建つ野仏。後方の大屋根は榎本大中寺)(県道36号の南側に建つ常夜燈)
妙性院.jpg近藤出羽守綱秀の墓.jpg
(榎本宿南の端と成る寺院「妙性院」)    (妙性院境内に有る近藤出羽守綱秀の墓)
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(復旧して通行可能と成った旧千部橋)(2015年9月の豪雨で中央部が流失した旧千部橋)
2015年9月に発生した豪雨の影響にて流出して通行不能となった、永野川に架かる「旧千部橋」は現在復旧されて通行が可能になっていました。
この橋の直ぐ上流側に県道36号(岩舟小山線・旧国道50号線)には昭和37年(1962)1月竣功の「千部橋」が有る為、通行には大きな影響は有りませんでした。元々この「旧千部橋」は昭和9年(1934)3月に架橋された老朽化が指摘されていました。同じく榎本地区北側に架橋されている「両明橋」も同じ昭和9年竣功でしたが、両明橋は豪雨が発生した1か月前にたまたま修繕が行われていた為、難を逃れています。
修繕後両明橋.jpg両明橋57年1月.jpg
(2015年8月修繕された両明橋)     (旧千部橋と同じ昭和9年竣功、修繕前の姿)

千部橋を見学した後は、永野川を遡り再度榎本宿内に戻り、宿の西に建つ大中寺と八坂神社へ。大中寺では本堂の裏手の墓地の一番奥に建つ「本多大隅守忠純の墓」を確認しました。
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(本多大隅守忠純の墓)
手前に建てられた説明板によると、≪忠純は徳川家康の懐刀といわれた宇都宮城主本多上野介正純の実弟であり、榎本城二万八千石の城主である。≫と記されていました。
榎本村の旧村社八坂神社は榎本宿を横断する旧街道が宿の西の端で直角に折れ、南に向かうところの西の突き当りに鎮座しています。本殿部分は覆屋で保護されています。中を覗くと本殿左右の側面そして背面の胴羽目に立派な彫刻が施されています。
榎本八坂神社.jpg八坂神社本殿彫刻.jpg
(八坂神社正面鳥居越しに拝殿を拝する)    (本殿側面の胴羽目彫刻)

永野川に架かる「両明橋」を渡り橋詰の天台宗寺院「東明寺」を見た後、永野川右岸の土手上の道を遡ると、東明寺の裏手に永野川の旧河道の名残りが確認出来ます。河川改修で以前東側の榎本だった所が川の西側に1軒残されてしまったそうです。
永野川右岸に残る旧河道.jpg西野田本郷の尊武神社.jpg
(永野川右岸に出来た旧河道の跡)        (大平町西野田本郷に有る「尊武神社)
最後に訪れたのは、西野田本郷の集落の外れにポツンと建つ小さな神社で、社殿の前に赤く塗られた鳥居がひとつ建てられていました。鳥居にも社殿にも神額等は掲げられていない為、説明を受けないとどのような神社なのか分かりません。
説明に依ると、初代榎本城主「美濃守高綱が自刃の地近くに有り、「タカツナサマ」と呼ばれているそうです。この場所は丁度永野川の対岸(東側)に榎本城が有ります。この榎本城主美濃守高綱が自刃に至った経緯については、「大平町誌」の中世・榎本城を説明した中で、「下都賀郡誌」の掲載文と、この西野田本郷の「タカツナサマ」(尊武神社)の写真を載せています。

私はこれまで歩いたり自転車に乗ったりして、榎本周辺を何度か巡っていますが、今回案内された地元の人でなければ気が付かない場所を確認する事が出来、満足した「歩く会」に成りました。
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(永野川の榎本堰を横目に、右岸の土手上の道を歩いて帰路に)

お花見ウォーク [歩く]

今日は天気予報通り、午前中は小雨が残っていましたが、お昼を過ぎる頃には明るくなって青空が姿を現してきました。気温もお昼の時点で19.9℃と成り、最高温度は23℃を越える暖かさと成りました。
昨日、「小平橋の桜」の満開を確認していたので、さっそく永野川緑地公園へ行って見る事に。午後2時過ぎに家を出発。セーターも薄手のジャンパーも抜いて、ポロシャツのまま出かけました。
初めに錦着山の桜を見る為、山に登りました。標高80.5メートルというものの、最近はチョッと抵抗が有ります。
満開の桜の花越しに栃木の街を見ると、いつも見ている景色がより鮮やかに感じます。
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(錦着山より太平山を望む。テレビでは太平山の桜は、七分咲きと言っていました)
お花見ウォークはまだ先が有ります。早々に錦着山を下り、永野川に架かる「上人橋」を渡り、永野川緑地公園へ向かいます。
「上人橋」の上から見る永野川上流を望むと、右岸に広がる緑地公園の桜並木が、太陽の光を受けて薄いピンク色に輝いて見えました。
永野川緑地公園は私が3年間通学して「栃木県立栃木工業高校」を東側から北側を囲むように広がっています。今日も多くの花見客が満開の桜の花を楽しんでいました。
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(永野川緑地公園の桜)
桜並木は現在永野川の両岸に有りますが、今回は永野川右岸の堤を「上人橋」から上流側の「大岩橋」に向かって歩きました。その間桜の並木は約800メートル有りますが、どれも花の付きも良くボリュウムたっぷりでした。
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(永野川緑地公園の桜)
緑地公園の桜を満喫した後、更に永野川上流に向かいます。
向かう先は「宮の桜堤」です。ここまで歩いて来ると陽射しが暑く感じて来て、木陰が恋しくなりますが、この時期なかなか木陰は有りません。皆川街道(県道75号、栃木佐野線)を渡り、東北自動車道の下を潜った先で側道を左に入り、永野川左岸の堤に向かいます。
永野川に架かる東北自動車道の橋梁の直ぐ北から、永野川左岸を北にのびる堤にビッシリと年季の入った桜の樹が、満開の花を付けて遥か先まで続いています。
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(皆川城内町の桜並木から宮の桜並木方向を望む)
この桜並木は、約1400メートル程続いています。しかし実際の「宮の桜」は北側の半分ほどで、南側の半分は「皆川城内町」の桜並木に成ります。
この桜並木には、ここの所毎年花見に来ていますが、なかなか満開のタイミングで見られるのは難しく、これまでも二三度しか有りません。今日は青空も出て暖かくてしかも満開、最高で大満足です。
帰り道も桜並木の有る新井町に寄って行きます。ここは東北自動車道の栃木インターの南側に当たり、桜の並木は約600メートル有ります。まだ樹は若いですが、ここも満開で私を迎えてくれました。
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(新井町の桜並木)
満開の桜に誘われて、足の疲れも忘れ歩きました。程よい汗もかく事が出来ました。今日の総歩数は17、627歩でした。

今日の一枚 [歩く]

今朝、雨戸を開けると外は雪混じりの冷たい雨が降っていました。
3月も下旬のこの時期、寒の戻りが続いています。
午後に成って雨も止み、西の空が少し明るくなって、雲を透して白く光る太陽が確認されます。
5時近くなってウォーキングに出掛けました。途中「小平橋の桜」そして「第二公園の桜」の開花状況を確認しましたが、この寒さにピンクに色付き開きかけた蕾もちじこまっていました。
東銀座通りを抜けて、大通りに出る頃には、西の空の雲が切れ、夕日に赤く染まっています。
昨年から解体工事が進んでいた、倭町交差点南西側角の「イシハラ」のビルが今、解体が一段落して、周囲を覆っていた保護塀も撤去されています。
交差点の北東側、足利銀行栃木支店側から見ると、そこから今まで見る事が出来なかった太平山が、夕日の中に黒いシルエットを見せていました。
又すぐこの地には新しい建物が建設されますから、この光景も直ぐ見られなくなります。
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(右側が西日を写す西銀座通り、左奥に太平山のシルエットが広がっています)

ここからの太平山は似合いません。早く新しい建物の有る景色に成って欲しいと思いました。
今日の歩数は7,292歩でした。

今日の一枚 [歩く]

今日も暖かな陽射しが溢れた一日でした。何時もの通り夕方からウォーキングに出掛けました。家を出る頃はすでに太陽が赤く色付き、西の空を赤く染め始めていました。
旧県庁堀の東側の堀に沿った道を歩いている時、栃木高等学校の校舎北側の堀の先に、西の山に沈もうとする太陽が見えました。
私は瞬時に「県庁堀の先に沈む太陽が、堀の川面を赤く染める景色を撮影出来る。」と考え、急いで旧市役所の南側の堀へ向かいました。その時すでに太陽の下半分が、西の山に隠れています。いつも出かける時に上着のポケットに入れているコンパクトカメラを取り出して、急いでアングルを決めシャッターを押しました。
一枚、二枚。自動露光の為、目に見える様な赤味が出ません。カメラを明るい上空に向け絞を締めさせ、そのままの露光でシャッターを切る。何とか太陽を県庁堀の中に写し込む。
この構図の写真は太陽が真西に沈む彼岸の頃しか撮れません。計画はしていませんでした。偶然にとれた今日の一枚に成りました。
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(旧栃木県庁堀に写った夕陽、正面奥に見える橋が「鶉橋」)
本日の総歩数は9,029歩でした。

歴史の町、壬生を歩く [歩く]

昨日、「歴史と文化を歩く会-栃木」のメンバーと、「歴史の町、壬生を歩く」として、壬生町で最近結成されたと言う観光ボランティアガイドの方々の案内で、約2時間の街中歴史めぐりを行いました。
「壬生町城址公園」現地集合という事で、途中コンビニで今日の昼食用おにぎり2個を買って、車を走らせた。すでに殆んどの参加者が到着し、壬生町の観光ボランティアの方々も集まっていました。
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(壬生城址公園正面入口、堀に架かる橋)(公園内に有る壬生町立図書館・歴史民俗資料館)
最初に城址公園内に有る、「壬生町立歴史民俗資料館」において丁度開催されている、「鳥居元忠-山城伏見ノ別レ-」展を観覧、予備知識を得てから、ガイドさんの案内で出発しました。

最初は、城址公園の北西部に祀られている、「精忠神社」に向かいました。
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(精忠神社本殿)                  (精忠神社拝殿正面に掲げられた扁額)
この「精忠神社」は、祭神として「鳥居彦右衛門元忠公」をお祀りしています。
「鳥居元忠公」は、徳川家康の竹馬の友として幼少時代から親交が深く、また忠義を誓った武将でした。≪慶長5年(1600)徳川家康の命を受け、伏見城の主将として、西軍の城攻めを死守し自刃しました。関ヶ原の戦いの前哨戦でした。その後、徳川の世となると元忠公の戦功を徳川家は嘉し、長男忠政を磐城で10万石、のち山形で24万石を遇された≫と、社殿前の説明板に記されています。
社殿の裏手に回ると、丁度本殿の後に当たる場所に、玉垣に囲まれた石碑が建っています。
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手前に建てられた説明板に、「畳塚」について記されています。
先に記したように、鳥居元忠公は伏見城の攻防戦の末、城内にて自刃をしています。この元忠の忠義を賞賛した家康は、自刃のさいの血に染まった畳を江戸城の伏見櫓の階上に置き、登城する諸大名に彼の忠義を偲ばせたと言われています。その後、明治に至り江戸城が明け渡されたため、ゆかりの深い現在の地に納められ、「畳塚」と称えその上に記念碑が建立されました。

精忠神社を後にして、北に進み国道352号を渡った所に有る「紫雲山壬生寺」に向かいました。
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(紫雲山壬生寺の山門前)           (壬生寺境内の慈覚大師御産湯井)
壬生寺は、慈覚大師円仁の御生誕地として言われ、境内には慈覚大師産湯の井戸が有ります。慈覚大師円仁の誕生の地と言うと、我が栃木市の岩舟町三毳山東麓下津原の盥坪にも、誕生の地が有ります。
又、壬生寺は毎年3月、盛大に節分祭が行われる事でも有名になっています。

次は壬生城主の菩提所、壬生の古刹「向陽山常楽寺」へ。
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(向陽山常楽寺)         (常楽寺本堂前でボランティアガイドさんの説明を聞く)
ここ常楽寺は、室町中期の寛正3年(1462)、壬生初代城主「壬生筑後守胤業公」が、寺領26石を寄進して創建した曹洞宗の寺院。壬生氏が絶えて後も壬生城主と成った「鳥居忠英公」の帰依を受けて、鳥居家の菩提寺として篤く護持されてきました。
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(壬生家歴代の墓前で説明を受ける)     (鳥居家累代の墓) (蘭学医齊藤昌太郎の墓)
長い歴史のある寺院に相応しく、「鳥居忠英公」の肖像画や文書類の歴史資料や、壬生家歴代の墓地や鳥居家墓地、壬生藩の蘭学医「齊藤玄昌」一門の墓地等の史跡など説明を頂きました。

次は壬生の市街地中央を縦貫する、「日光道中壬生通」を横断して、市街地の東側を流れる黒川の右岸へ移動します。
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(黒川右岸にて説明を聞く、後方の橋は「東雲橋」) (この黒川両岸は東雲公園は桜の名所)
黒川のほとりで「東雲公園」の説明をボランティアガイドさんから聞きます。まだ桜が咲くまでは間が有りますが、私も毎年「東雲の桜」を見に来ています。写真は2015年4月1日に撮影したものです。私の勤め先は宇都宮市に有った関係で、壬生町は通勤時に毎日通っていました。バイパス道路が開通する前は現在の「東雲橋」の少し下流に有った「旧東雲橋」の上で、車中より黒川堤に連なる桜の並木を堪能しました。
この黒川堤の桜並木は、東雲橋の更に上流、バイパス道路に架かる「神代橋」の橋詰まで連なっています。

桜堤を下流に向かって歩くと、右手に壬生町の総氏神、総鎮守と称えられる「雄琴神社」の森が迫っています。東雲さくら橋の橋詰から堤から離れ神社の中に入ります。
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(雄琴神社の二の鳥居前で説明を聞く)     (銅製の「二の鳥居」根巻の唐獅子)
≪雄琴神社は寛治5年(1091)天照大神、天武天皇、舎人親王を祭神に鎮守府将軍清原武則の子孫保定によって創建されたと伝え、藤森神社と称していました。文明元年(1469)壬生に初めて城を築いた壬生彦五郎胤業がその祖である小槻今雄公を合祀し、社殿を建て替え社号を雄琴神社と改めました。また、現在の社殿は天和5年(1685)から三ヶ年をかけて時の城主三浦壱岐守が造営寄進したもの≫と、雄琴神社の由来を記した案内板が建てられていました。

再び市街地の中央を縦貫する道路に戻ります。この道は小山市の北で日光街道から分かれ、日光街道の西側を北上して、壬生の町を抜けて鹿沼市の南、楡木にて金崎宿から北上してきた、日光例幣使街道を合わせて、日光に向かう「日光道中壬生通」に成ります。
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(壬生町中心道路、現在「蘭学通り」と命名されている)(道路沿いに建つ蘭学通りの説明板)
実学を奨励した壬生藩主、鳥居忠挙がこの地に蘭学を導入し、多くの蘭学者を輩出しました。
日光社参の帰路、日光道中壬生通を利用する将軍家も有り。その際壬生に宿泊をした為、壬生藩としては万一の事態を想定して、優秀な医師を江戸から呼び寄せたのではないかとの事です。
≪明治初年の地図を見ると、石崎鼎吾、五十嵐順知、齊藤元昌、渡辺元良、勾坂玄皐(以上蘭方医)、神戸察(漢方医)の6人の名前が確認出来る通り、街道沿いに多くの蘭方医が開業し活躍した事が覗えます。≫との説明が有りました。

ここから出発地の壬生城址公園へ戻りました。穏やかな天候に恵まれ、興味深い「歴史の町・壬生を歩く」の企画を終了しました。多くの資料や写真を準備頂き説明して下さった観光ボランティアガイドの皆さんに感謝です。楽しい時間を過ごす事が出来ました。

栃木市万町、鬼瓦見て歩き [歩く]

今回は、旧栃木町の北側、万町界隈を巡り、屋根に据えられた鬼瓦を見て回ります。
万町は明治5年9月に町名改正以前は、「上町」と言われた地域で、町の中央を南北に日光例幣使街道が縦貫しており、街道の両側に短冊状に屋敷割された、宿場町の様相を今も残しています。
旧栃木町は江戸後期に4度の大火に見舞われ、多くの家屋が被災をした為、明治6年初代鍋島県令の時、≪今後町の体裁、火災等の事を考慮して、家屋を修繕新築等の際は必ず杉皮・藁葺等相ならず≫とのお達しが発せられてから、瓦屋根・土蔵造りの商家が軒を連ねる様になったと言われています。

その万町、旧栃木宿の北側の木戸が有った、現在の万町交番前交差点の南西側角に建つ、櫻井肥料店の鬼瓦から見てみたい。
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(万町交番前交差点の角に建つ櫻井肥料店)    (櫻井肥料店の鬼瓦)
櫻井肥料店の大通り側に面した店舗の屋根の鬼瓦も、裏手に続く土蔵の鬼瓦も上の写真に見る、「櫻」の漢字一字が付けられています。明治40年10月1日発行の「栃木県営業便覧」で櫻井肥料店を確認してみると、屋号紋として「カネジャクに漢字の井の文字を付けた紋が記されていますが、そちらは使われていません。

次に大通りの西側の裏手をほぼ平行に走る道路を、南に歩きレストラン「オールウェイズカマヤ」の裏手、道路の西側に面して石蔵が1棟建っています。この石蔵の鬼瓦を見ると、円の中に「足」の漢字をデザイン化した紋が確認出来ます。その紋をズームアップして見ると、周りの円を模っていた部分は、漢字の「利」の文字を丸くデザイン化した様に見る事が出来ます。以上から考えるとこの紋は「足利」をデザインしたものと思われます。以前この裏通りは無く、大通りに面した建物とは敷地が一緒でした。そして現在レストランと成っている建物は昭和9年に、「足利銀行栃木支店」として建てられたものですから、この石蔵も「足利銀行」のものだったと判断できます。
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(ALWAYSカマヤ裏手の石蔵の鬼瓦)    (拡大すると「足利」と見える)

大通りに戻って、栃木市役所の向かいに建つ「とちぎ歌麿館」に向かいます。重量感の有る古い見世蔵です。屋根の頂部、大棟部分から鬼瓦部分に、瓦が崩れ落ちないように保護ネットで覆って有りましたが、良く見ると鬼瓦には、漢字の「長」が付けられています。
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(現在は「とちぎ歌麿館」と成っている見世蔵)    (保護ネットで覆われた鬼瓦)
この鬼瓦についている「長」は何時のものか不明です。この見世蔵は現存する旧栃木町の中では、もっとも古い見世蔵と言われ、弘化2年(1845)8月に建てられています。前記の「栃木県営業便覧」には、「菓子製造業」と記されています。その後、大正期には「靴商・扇屋」に変わり、昭和60年の住宅地図には、「古久磯提灯店」と記されていて、鬼瓦の「長」に繋がりそうな発見は有りません。建物が建てられた当時がどうだったのか、遡る必要が有るかも知れません。
次の鬼瓦は近龍寺入口交差点の北西側角に建つ、元「阿部清八商店」の鬼瓦です。
「カネジャクに漢数字の二」の屋号紋が確認出来ます。「栃木県営業便覧」の中にも、「萬町常盤橋通」入口角に、「麻苧麻縄箒類畳表茣蓙荒物問屋」そして「阿部清八」と記され、その間に「カネジャクに漢数字の二」の屋号紋が認められました。
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(元の阿部清八商店の店舗)           (鬼瓦の「カネジャクに漢数字の二」の紋)

次の鬼瓦は大通りを少し南に下がった東側、「かな半旅館」の南隣りに建つ見世蔵の鬼瓦です。付いている屋号紋は、「ヤマガタに漢字の木」です。現在は「人形のやまとや」と成っていますが、この建物もこれまで多くの変遷が有りますが、この屋号紋につながる記事を発見できませんでした。
建物自体は幕末頃建てられたものと推定されているそうです。
この「ヤマガタに漢字の木」の屋号紋を使っている商店は、営業便覧を調べてみると市内に他に3軒確認する事が出来ました。
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(現在、「人形のやまとや」と成っている見世蔵)   (鬼瓦に「ヤマガタに漢字の木」の紋)

その他、万町内にはまだ多くの見世蔵や土蔵などが建っていますが、切妻・平入の建物が軒を連ねている為、鬼瓦を正面から確認が出来ません。確認出来た物を紹介します。
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興味のある方は、歩いて探してみて下さい。
最後の写真は、鬼瓦についている紋は「家紋」で、その前の「ハナブカ」に「ヤマガタに漢字の森」の屋号紋が付いています。

今日の一枚 [歩く]

今日は、午前中に栃木文化会館展示室で行われている「第48回花と自然、AOI写真展」を見に行きました。この写真展は昨日から明日までの3日間開催されていて、大分前に招待の葉書を頂いていて、初日と成る昨日行く予定をしていたのをすっかり忘れてしまい、今朝の新聞の記事の中にその記事を見付け、午前十時の開場前に出掛けました。
今回の写真展には17名の作品が会場狭しと多数展示され、草花の接写作品から、滝や紅葉などの風景、栃木の秋祭りの様子を捉えたものなど、多種多様の美しい作品を堪能して来ました。
「AOIスケッチカメラクラブ」は、今回の写真展が48回目という事で、栃木市内のアマチュア写真クラブでは、古くから続けられているクラブです。以前は「AOI」さんの他に、「栃木カメラクラブ」とか「うずま写友会」という、アマチュア写真の同好会が有って、年に1回の作品展を持っていました。今は懐かしい思い出だけと成りました。

午後はいつものように市内の散策を兼ねたウォーキング。その日その日で歩くコースを変えて楽しんでいます。今日は、翁島近くの巴波川に架かる「沖ノ橋」の上で、やはりウォーキング途中の叔父さんに出会いました。橋の上にいた叔父さんが私を見付けて手を振っています。
近寄って行くと、橋の下の川の中を指さし「ナマズが居る」と教えてくれました。私も目を凝らして川の流れの中を探してみると、確かにナマズが一匹、流れに抗してジッとして居ます。
まさに「巴波の鯰」だと頭の中で一人納得していました。

叔父さんと別れウォーキング再開、錦町から南へ、入舟町・湊町・富士見町・境町を抜け、栃木駅の高架下をくぐって沼和田町まで足を延ばし、帰りは河合町から「開明橋」を渡って、大通りを北上して帰宅しました。
帰路、嘉右衛門橋から翁島に来るころには、西の空は赤く染まって来ていました。
今日の総歩数は、15,309歩といつもより少し多くなりました。

今日の一枚は、西の空が赤く染まるころ、巴波川に架かる「泉橋」近くで、菜の花が咲いている風景です。
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栃木市大町、鬼瓦見て歩き [歩く]

今回の鬼瓦見て歩きは、栃木市大町(だいちょう)を回ってみました。
町名にふりがなを付記しましたが、地元の人は当たり前に読める地名・町名も、他所から来られた方などは、何と読むのか分からないものです。この町名も時々「おおまち公民館」はどこに有りますかと尋ねられて、こちらが頭を傾げてしまう事も有ります。
この町は、国の「重要建造物群保存地区」の選定を受けている嘉右衛門町の北隣に位置し、街の中心を「旧日光例幣使街道」が縦貫しており、その街道筋を中心に発展してきた町で、現在も街道沿いには土蔵造りや石蔵などを見る事が出来ます。
まず、国登録有形文化財に指定されている「大島肥料店店舗」を見に行きます。
建物の前に栃木市教育委員会が記した建物の説明板が建てられています。
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(国登録有形文化財と成っている、大島肥料店の見世蔵)(店舗前に建つ説明板)
街道に面した見世蔵(店舗)部分は修復工事が行われ、屋根の瓦も葺きかえられて、新しくなっています。
鬼瓦には家紋や屋号紋は付いていませんでした。明治40年10月1日に発行された「栃木県営業便覧」を見ると、栃木町の大丁に「各種肥料 食塩石油商 大嶋元平」の名前が見えます。そこに縦長の二等辺三角形の中央部に横棒を一本付けた屋号紋が記されています。その屋号紋を探して見ると、下屋部両サイドの降り棟の庇の先まで降りた先端部の軒丸瓦に付いていました。又、見世蔵の裏手に建つ土蔵の鬼瓦や棟巴などにも同様の屋号紋が確認出来ました。
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(大島肥料店の屋号紋が付けられた「棟巴」や「鬼瓦」)
先の「栃木県営業便覧」の中に、この屋号紋を使う別の店舗が万町の現在の「とちぎ山車会館」近く有った、海陸産肥料商の店舗に認められました。

大島肥料店前から例幣使街道を北方向に歩いて行くと、道路の先に立派な見世蔵が現れます。営業便覧に記されている「醤油製造 猪瀬辨藏」さんの見世蔵ですが、屋号紋は記されていません。この見世蔵は置屋根形式と言うもので、栃木の大通り周辺には見られない形という事です。残念ながら鬼が有らに屋号紋は確認できませんでした。
この猪瀬邸の前で、道路は分岐しています。分岐点に「日光例幣使街道」と刻した道標が建てられて、右方向「日光道」、左方向「足尾道」と記されています。
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(例幣使街道突き当りに建つ猪瀬家の見世蔵)      (分岐点に建つ道標)

分岐の手前左手に「大町郵便局」その向かい、道路の右手(東側)に立派な土蔵が有り、鬼瓦に「ヤマガタに大」の屋号紋」が付いていました。
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(鬼瓦に「ヤマガタに大」の屋号紋を付けた土蔵)
更に分岐の手前に小さい交差点が有ります。東に折れると、「大町公民館」の建つ大杉神社前に出ます。先の営業便覧には、その交差点から西に向かう道には「箱森道中」と記されていますが、この道路を入った裏通りに立派な石蔵や土蔵が建っています。それらの屋根の鬼瓦には「ヤマガタに本」の屋号紋が確認出来ます。この屋号紋、営業便覧にも記載されている「油製造米穀商」のものです。
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(裏通りに面して建つ石蔵やその東側に建つ土蔵の鬼瓦に見る「ヤマガタに本」の屋号紋)
又、例幣使街道の西側の裏通りを歩いていると、街道に面した店舗の裏手に建つ土蔵や石蔵を見る事が出来ます。
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(裏通りに面した立派な石蔵の鬼瓦に付けられた、「カネジャクにト」の屋号紋)

他に大町地内を巡り、確認出来た屋号紋等を付けた鬼瓦を以下に紹介いたします。
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栃木市嘉右衛門町、鬼瓦見て歩き [歩く]

最近は、栃木市内を歩いている時、古そうな土蔵や石蔵に遭遇すると、どうしても屋根の上に目が行きます。その先に有るものは「鬼瓦」ですが、興味が有るのはその鬼瓦に記された「文字」や「形」です。
「鬼瓦」にはその名前の通りに「鬼面」を配している物が有りますが、実際「鬼面」を使っている物はそれほど多くは有りません。
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(旭町、定願寺鐘楼の屋根の鬼瓦)      (嘉右衛門町に有る古い土蔵の鬼瓦)
多くは「家紋」や「屋号紋」を付けた鬼瓦に成ります。但し最近の瓦屋根の「鬼瓦」は無地の物が殆んどです。
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(新しい鬼瓦、中央部分は無地)    (古い鬼瓦、何かの都合で中央部を塗り潰したものか)
ですから、「屋号紋」が付いている鬼瓦を見付けると嬉しくなります。
「屋号紋」は現在あまり見なくなりましたが、明治40年10月1日に発行された、「栃木県営業便覧」を見てみると、栃木町に名前を連ねている多くの商店が「屋号紋」を載せています。
その数を確認してみると、なんと265店舗も有りました。
「屋号紋」には幾つかのグループが有りますが、栃木町で一番多く見られたのは「尒」の様に頭に「山形」を載せた紋で、「山に小」の屋号紋は6店舗見られました。同じく「山にト」が6店舗、「山に木」5店舗、「山に大」4店舗などと成っています。この「ヤマガタ」には、≪商売が山の様に隆盛してほしい≫と言う思いが込められている様です。
嘉右衛門町にある江戸、天明年間創業の老舗「油伝味噌」店の鬼瓦に付けられた商標は≪山に十一≫です、読み方は「やまといち」と読むと同店の案内書に記されています。即ち「大和一」という事に成ります。
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(油伝味噌店の店頭)   (建物北側路地脇に造られた古い鬼瓦等を利用したモニュメント)
この「山」を使った紋で有名なものは、以前聞いた話ですが明治8年(1875)8月創業、古河機械金属株式会社の社章と成っている「山に一」の紋です。この紋の読み方は「やまひとすじ」という事で創業者古河市兵衛氏の「山一筋」の思いが込められていると言います。

二番目に多いのが「┓」矩尺(カネジャク)紋で、64店舗を確認しました。その中で「小」に矩尺を付けたものが6店舗有りました。他に「正」や「中」の文字に矩尺を配したものが3店舗づつなどです。矩尺の意味は、直線・直角の形から、≪商売が真直ぐ、真っ正直≫という事と、矩尺(カネジャク)のカネを「金」に掛けているとも言われます。
三番目が「〇」(マル)を使ったもの、萬の文字を丸で囲った「丸萬」などが直ぐ頭に浮かんできますが、39店舗有りました。
他に「入り山形」の紋が18店舗、「出山形」の紋が7店舗、丸では無く四角で囲んだ紋が6店舗。住友生命や住友林業などの住友グループで使われている井桁の紋を配したものが10店舗数えました。
その他にもキッコウマンで知られる六角形の亀甲紋とか、ヒゲタ醤油のひげ紋などが有りますが、これらは栃木町では認められませんでした。

それでは、今回は嘉右衛門町を歩いて見つけた屋号紋などの入った鬼瓦を紹介します。
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(丸に正の文字が入っている)           (丸に近の文字が入っている)
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(何と読むのか?神明神社社務所)       (丸に中の文字が入っている)
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(矩尺に太の文字)               (山形に縦の太線2本、介と呼んでいいのか?)
何処に有るのかは、皆さんも歩いて見つけてみて下さい。