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今日の一枚 [歩く]

今朝、雨戸を開けると外は雪混じりの冷たい雨が降っていました。
3月も下旬のこの時期、寒の戻りが続いています。
午後に成って雨も止み、西の空が少し明るくなって、雲を透して白く光る太陽が確認されます。
5時近くなってウォーキングに出掛けました。途中「小平橋の桜」そして「第二公園の桜」の開花状況を確認しましたが、この寒さにピンクに色付き開きかけた蕾もちじこまっていました。
銀座通りを抜けて、大通りに出る頃には、西の空の雲が切れ、夕日に赤く染まっています。
昨年から解体工事が進んでいた、倭町交差点南西側角の「イシハラ」のビルが今、解体が一段落して、周囲を覆っていた保護塀も撤去されています。
交差点の北東側、足利銀行栃木支店側から見ると、そこから今まで見る事が出来なかった太平山が、夕日の中に黒いシルエットを見せていました。
又すぐこの地には新しい建物が建設されますから、この光景も直ぐ見られなくなります。
倭町交差点から太平山を望む.jpg
(右側が西日を写す西銀座通り、左奥に太平山のシルエットが広がっています)

ここからの太平山は似合いません。早く新しい建物の有る景色に成って欲しいと思いました。
今日の歩数は7,292歩でした。

今日の一枚 [歩く]

今日も暖かな陽射しが溢れた一日でした。何時もの通り夕方からウォーキングに出掛けました。家を出る頃はすでに太陽が赤く色付き、西の空を赤く染め始めていました。
旧県庁堀の東側の堀に沿った道を歩いている時、栃木高等学校の校舎北側の堀の先に、西の山に沈もうとする太陽が見えました。
私は瞬時に「県庁堀の先に沈む太陽が、堀の川面を赤く染める景色を撮影出来る。」と考え、急いで旧市役所の南側の堀へ向かいました。その時すでに太陽の下半分が、西の山に隠れています。いつも出かける時に上着のポケットに入れているコンパクトカメラ取り出して、急いでアングルを決めシャッターを押しました。
一枚、二枚。自動露光の為、目に見える様な赤味が出ません。カメラを明るい上空に向け絞を締めさせ、そのままの露光でシャッターを切る。何とか太陽を県庁堀の中に写し込む。
この構図の写真は太陽が真西に沈む彼岸の頃しか撮れません。計画はしていませんでした。偶然にとれた今日の一枚に成りました。
県庁堀の夕陽.jpg
(旧栃木県庁堀に写った夕陽、正面奥に見える橋が「鶉橋」)
本日の総歩数は9,029歩でした。

歴史の町、壬生を歩く [歩く]

昨日、「歴史と文化を歩く会-栃木」のメンバーと、「歴史の町、壬生を歩く」として、壬生町で最近結成されたと言う観光ボランティアガイドの方々の案内で、約2時間の街中歴史めぐりを行いました。
「壬生町城址公園」現地集合という事で、途中コンビニで今日の昼食用おにぎり2個を買って、車を走らせた。すでに殆んどの参加者が到着し、壬生町の観光ボランティアの方々も集まっていました。
壬生城址公園2.jpg壬生城址公園1.jpg
(壬生城址公園正面入口、堀に架かる橋)(公園内に有る壬生町立図書館・歴史民俗資料館)
最初に城址公園内に有る、「壬生町立歴史民俗資料館」において丁度開催されている、「鳥居元忠-山城伏見ノ別レ-」展を観覧、予備知識を得てから、ガイドさんの案内で出発しました。

最初は、城址公園の北西部に祀られている、「精忠神社」に向かいました。
精忠神社1.jpg精忠神社2.jpg
(精忠神社本殿)                  (精忠神社拝殿正面に掲げられた扁額)
この「精忠神社」は、祭神として「鳥居彦右衛門元忠公」をお祀りしています。
「鳥居元忠公」は、徳川家康の竹馬の友として幼少時代から親交が深く、また忠義を誓った武将でした。≪慶長5年(1600)徳川家康の命を受け、伏見城の主将として、西軍の城攻めを死守し自刃しました。関ヶ原の戦いの前哨戦でした。その後、徳川の世となると元忠公の戦功を徳川家は嘉し、長男忠政を磐城で10万石、のち山形で24万石を遇された≫と、社殿前の説明板に記されています。
社殿の裏手に回ると、丁度本殿の後に当たる場所に、玉垣に囲まれた石碑が建っています。
精忠神社3.jpg精忠神社4.jpg
手前に建てられた説明板に、「畳塚」について記されています。
先に記したように、鳥居元忠公は伏見城の攻防戦の末、城内にて自刃をしています。この元忠の忠義を賞賛した家康は、自刃のさいの血に染まった畳を江戸城の伏見櫓の階上に置き、登城する諸大名に彼の忠義を偲ばせたと言われています。その後、明治に至り江戸城が明け渡されたため、ゆかりの深い現在の地に納められ、「畳塚」と称えその上に記念碑が建立されました。

精忠神社を後にして、北に進み国道352号を渡った所に有る「紫雲山壬生寺」に向かいました。
壬生寺1.jpg壬生寺2.jpg
(紫雲山壬生寺の山門前)           (壬生寺境内の慈覚大師御産湯井)
壬生寺は、慈覚大師円仁の御生誕地として言われ、境内には慈覚大師産湯の井戸が有ります。慈覚大師円仁の誕生の地と言うと、我が栃木市の岩舟町三毳山東麓下津原の盥坪にも、誕生の地が有ります。
又、壬生寺は毎年3月、盛大に節分祭が行われる事でも有名になっています。

次は壬生城主の菩提所、壬生の古刹「向陽山常楽寺」へ。
常楽寺1.jpg常楽寺2.jpg
(向陽山常楽寺)         (常楽寺本堂前でボランティアガイドさんの説明を聞く)
ここ常楽寺は、室町中期の寛正3年(1462)、壬生初代城主「壬生筑後守胤業公」が、寺領26石を寄進して創建した曹洞宗の寺院。壬生氏が絶えて後も壬生城主と成った「鳥居忠英公」の帰依を受けて、鳥居家の菩提寺として篤く護持されてきました。
常楽寺5.jpg常楽寺3.jpg常楽寺4.jpg
(壬生家歴代の墓前で説明を受ける)     (鳥居家累代の墓) (蘭学医齊藤昌太郎の墓)
長い歴史のある寺院に相応しく、「鳥居忠英公」の肖像画や文書類の歴史資料や、壬生家歴代の墓地や鳥居家墓地、壬生藩の蘭学医「齊藤玄昌」一門の墓地等の史跡など説明を頂きました。

次は壬生の市街地中央を縦貫する、「日光道中壬生通」を横断して、市街地の東側を流れる黒川の右岸へ移動します。
東雲公園1.jpg東雲公園2.jpg
(黒川右岸にて説明を聞く、後方の橋は「東雲橋」) (この黒川両岸は東雲公園は桜の名所)
黒川のほとりで「東雲公園」の説明をボランティアガイドさんから聞きます。まだ桜が咲くまでは間が有りますが、私も毎年「東雲の桜」を見に来ています。写真は2015年4月1日に撮影したものです。私の勤め先は宇都宮市に有った関係で、壬生町は通勤時に毎日通っていました。バイパス道路が開通する前は現在の「東雲橋」の少し下流に有った「旧東雲橋」の上で、車中より黒川堤に連なる桜の並木を堪能しました。
この黒川堤の桜並木は、東雲橋の更に上流、バイパス道路に架かる「神代橋」の橋詰まで連なっています。

桜堤を下流に向かって歩くと、右手に壬生町の総氏神、総鎮守と称えられる「雄琴神社」の森が迫っています。東雲さくら橋の橋詰から堤から離れ神社の中に入ります。
雄琴神社1.jpg雄琴神社2.jpg
(雄琴神社の二の鳥居前で説明を聞く)     (銅製の「二の鳥居」根巻の唐獅子)
≪雄琴神社は寛治5年(1091)天照大神、天武天皇、舎人親王を祭神に鎮守府将軍清原武則の子孫保定によって創建されたと伝え、藤森神社と称していました。文明元年(1469)壬生に初めて城を築いた壬生彦五郎胤業がその祖である小槻今雄公を合祀し、社殿を建て替え社号を雄琴神社と改めました。また、現在の社殿は天和5年(1685)から三ヶ年をかけて時の城主三浦壱岐守が造営寄進したもの≫と、雄琴神社の由来を記した案内板が建てられていました。

再び市街地の中央を縦貫する道路に戻ります。この道は小山市の北で日光街道から分かれ、日光街道の西側を北上して、壬生の町を抜けて鹿沼市の南、楡木にて金崎宿から北上してきた、日光例幣使街道を合わせて、日光に向かう「日光道中壬生通」に成ります。
蘭学通り2.jpg蘭学通り1.jpg
(壬生町中心道路、現在「蘭学通り」と命名されている)(道路沿いに建つ蘭学通りの説明板)
実学を奨励した壬生藩主、鳥居忠挙がこの地に蘭学を導入し、多くの蘭学者を輩出しました。
日光社参の帰路、日光道中壬生通を利用する将軍家も有り。その際壬生に宿泊をした為、壬生藩としては万一の事態を想定して、優秀な医師を江戸から呼び寄せたのではないかとの事です。
≪明治初年の地図を見ると、石崎鼎吾、五十嵐順知、齊藤元昌、渡辺元良、勾坂玄皐(以上蘭方医)、神戸察(漢方医)の6人の名前が確認出来る通り、街道沿いに多くの蘭方医が開業し活躍した事が覗えます。≫との説明が有りました。

ここから出発地の壬生城址公園へ戻りました。穏やかな天候に恵まれ、興味深い「歴史の町・壬生を歩く」の企画を終了しました。多くの資料や写真を準備頂き説明して下さった観光ボランティアガイドの皆さんに感謝です。楽しい時間を過ごす事が出来ました。

栃木市万町、鬼瓦見て歩き [歩く]

今回は、旧栃木町の北側、万町界隈を巡り、屋根に据えられた鬼瓦を見て回ります。
万町は明治5年9月に町名改正以前は、「上町」と言われた地域で、町の中央を南北に日光例幣使街道が縦貫しており、街道の両側に短冊状に屋敷割された、宿場町の様相を今も残しています。
旧栃木町は江戸後期に4度の大火に見舞われ、多くの家屋が被災をした為、明治6年初代鍋島県令の時、≪今後町の体裁、火災等の事を考慮して、家屋を修繕新築等の際は必ず杉皮・藁葺等相ならず≫とのお達しが発せられてから、瓦屋根・土蔵造りの商家が軒を連ねる様になったと言われています。

その万町、旧栃木宿の北側の木戸が有った、現在の万町交番前交差点の南西側角に建つ、櫻井肥料店の鬼瓦から見てみたい。
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(万町交番前交差点の角に建つ櫻井肥料店)    (櫻井肥料店の鬼瓦)
櫻井肥料店の大通り側に面した店舗の屋根の鬼瓦も、裏手に続く土蔵の鬼瓦も上の写真に見る、「櫻」の漢字一字が付けられています。明治40年10月1日発行の「栃木県営業便覧」で櫻井肥料店を確認してみると、屋号紋として「カネジャクに漢字の井の文字を付けた紋が記されていますが、そちらは使われていません。

次に大通りの西側の裏手をほぼ平行に走る道路を、南に歩きレストラン「オールウェイズカマヤ」の裏手、道路の西側に面して石蔵が1棟建っています。この石蔵の鬼瓦を見ると、円の中に「足」の漢字をデザイン化した紋が確認出来ます。その紋をズームアップして見ると、周りの円を模っていた部分は、漢字の「利」の文字を丸くデザイン化した様に見る事が出来ます。以上から考えるとこの紋は「足利」をデザインしたものと思われます。以前この裏通りは無く、大通りに面した建物とは敷地が一緒でした。そして現在レストランと成っている建物は昭和9年に、「足利銀行栃木支店」として建てられたものですから、この石蔵も「足利銀行」のものだったと判断できます。
万町鬼瓦1.jpg万町鬼瓦2.jpg
(ALWAYSカマヤ裏手の石蔵の鬼瓦)    (拡大すると「足利」と見える)

大通りに戻って、栃木市役所の向かいに建つ「とちぎ歌麿館」に向かいます。重量感の有る古い見世蔵です。屋根の頂部、大棟部分から鬼瓦部分に、瓦が崩れ落ちないように保護ネットで覆って有りましたが、良く見ると鬼瓦には、漢字の「長」が付けられています。
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(現在は「とちぎ歌麿館」と成っている見世蔵)    (保護ネットで覆われた鬼瓦)
この鬼瓦についている「長」は何時のものか不明です。この見世蔵は現存する旧栃木町の中では、もっとも古い見世蔵と言われ、弘化2年(1845)8月に建てられています。前記の「栃木県営業便覧」には、「菓子製造業」と記されています。その後、大正期には「靴商・扇屋」に変わり、昭和60年の住宅地図には、「古久磯提灯店」と記されていて、鬼瓦の「長」に繋がりそうな発見は有りません。建物が建てられた当時がどうだったのか、遡る必要が有るかも知れません。
次の鬼瓦は近龍寺入口交差点の北西側角に建つ、元「阿部清八商店」の鬼瓦です。
「カネジャクに漢数字の二」の屋号紋が確認出来ます。「栃木県営業便覧」の中にも、「萬町常盤橋通」入口角に、「麻苧麻縄箒類畳表茣蓙荒物問屋」そして「阿部清八」と記され、その間に「カネジャクに漢数字の二」の屋号紋が認められました。
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(元の阿部清八商店の店舗)           (鬼瓦の「カネジャクに漢数字の二」の紋)

次の鬼瓦は大通りを少し南に下がった東側、「かな半旅館」の南隣りに建つ見世蔵の鬼瓦です。付いている屋号紋は、「ヤマガタに漢字の木」です。現在は「人形のやまとや」と成っていますが、この建物もこれまで多くの変遷が有りますが、この屋号紋につながる記事を発見できませんでした。
建物自体は幕末頃建てられたものと推定されているそうです。
この「ヤマガタに漢字の木」の屋号紋を使っている商店は、営業便覧を調べてみると市内に他に3軒確認する事が出来ました。
万町鬼瓦13.jpg万町鬼瓦12.jpg
(現在、「人形のやまとや」と成っている見世蔵)   (鬼瓦に「ヤマガタに漢字の木」の紋)

その他、万町内にはまだ多くの見世蔵や土蔵などが建っていますが、切妻・平入の建物が軒を連ねている為、鬼瓦を正面から確認が出来ません。確認出来た物を紹介します。
万町鬼瓦10.jpg万町鬼瓦5.jpg
興味のある方は、歩いて探してみて下さい。
最後の写真は、鬼瓦についている紋は「家紋」で、その前の「ハナブカ」に「ヤマガタに漢字の森」の屋号紋が付いています。

今日の一枚 [歩く]

今日は、午前中に栃木文化会館展示室で行われている「第48回花と自然、AOI写真展」を見に行きました。この写真展は昨日から明日までの3日間開催されていて、大分前に招待の葉書を頂いていて、初日と成る昨日行く予定をしていたのをすっかり忘れてしまい、今朝の新聞の記事の中にその記事を見付け、午前十時の開場前に出掛けました。
今回の写真展には17名の作品が会場狭しと多数展示され、草花の接写作品から、滝や紅葉などの風景、栃木の秋祭りの様子を捉えたものなど、多種多様の美しい作品を堪能して来ました。
「AOIスケッチカメラクラブ」は、今回の写真展が48回目という事で、栃木市内のアマチュア写真クラブでは、古くから続けられているクラブです。以前は「AOI」さんの他に、「栃木カメラクラブ」とか「うずま写友会」という、アマチュア写真の同好会が有って、年に1回の作品展を持っていました。今は懐かしい思い出だけと成りました。

午後はいつものように市内の散策を兼ねたウォーキング。その日その日で歩くコースを変えて楽しんでいます。今日は、翁島近くの巴波川に架かる「沖ノ橋」の上で、やはりウォーキング途中の叔父さんに出会いました。橋の上にいた叔父さんが私を見付けて手を振っています。
近寄って行くと、橋の下の川の中を指さし「ナマズが居る」と教えてくれました。私も目を凝らして川の流れの中を探してみると、確かにナマズが一匹、流れに抗してジッとして居ます。
まさに「巴波の鯰」だと頭の中で一人納得していました。

叔父さんと別れウォーキング再開、錦町から南へ、入舟町・湊町・富士見町・境町を抜け、栃木駅の高架下をくぐって沼和田町まで足を延ばし、帰りは河合町から「開明橋」を渡って、大通りを北上して帰宅しました。
帰路、嘉右衛門橋から翁島に来るころには、西の空は赤く染まって来ていました。
今日の総歩数は、15,309歩といつもより少し多くなりました。

今日の一枚は、西の空が赤く染まるころ、巴波川に架かる「泉橋」近くで、菜の花が咲いている風景です。
釜平邸春景色.jpg

栃木市大町、鬼瓦見て歩き [歩く]

今回の鬼瓦見て歩きは、栃木市大町(だいちょう)を回ってみました。
町名にふりがなを付記しましたが、地元の人は当たり前に読める地名・町名も、他所から来られた方などは、何と読むのか分からないものです。この町名も時々「おおまち公民館」はどこに有りますかと尋ねられて、こちらが頭を傾げてしまう事も有ります。
この町は、国の「重要建造物群保存地区」の選定を受けている嘉右衛門町の北隣に位置し、街の中心を「旧日光例幣使街道」が縦貫しており、その街道筋を中心に発展してきた町で、現在も街道沿いには土蔵造りや石蔵などを見る事が出来ます。
まず、国登録有形文化財に指定されている「大島肥料店店舗」を見に行きます。
建物の前に栃木市教育委員会が記した建物の説明板が建てられています。
大島肥料店1.jpg大島肥料店2.jpg
(国登録有形文化財と成っている、大島肥料店の見世蔵)(店舗前に建つ説明板)
街道に面した見世蔵(店舗)部分は修復工事が行われ、屋根の瓦も葺きかえられて、新しくなっています。
鬼瓦には家紋や屋号紋は付いていませんでした。明治40年10月1日に発行された「栃木県営業便覧」を見ると、栃木町の大丁に「各種肥料 食塩石油商 大嶋元平」の名前が見えます。そこに縦長の二等辺三角形の中央部に横棒を一本付けた屋号紋が記されています。その屋号紋を探して見ると、下屋部両サイドの降り棟の庇の先まで降りた先端部の軒丸瓦に付いていました。又、見世蔵の裏手に建つ土蔵の鬼瓦や棟巴などにも同様の屋号紋が確認出来ました。
大島肥料店4.jpg大島肥料店3.jpg
(大島肥料店の屋号紋が付けられた「棟巴」や「鬼瓦」)
先の「栃木県営業便覧」の中に、この屋号紋を使う別の店舗が万町の現在の「とちぎ山車会館」近く有った、海陸産肥料商の店舗に認められました。

大島肥料店前から例幣使街道を北方向に歩いて行くと、道路の先に立派な見世蔵が現れます。営業便覧に記されている「醤油製造 猪瀬辨藏」さんの見世蔵ですが、屋号紋は記されていません。この見世蔵は置屋根形式と言うもので、栃木の大通り周辺には見られない形という事です。残念ながら鬼が有らに屋号紋は確認できませんでした。
この猪瀬邸の前で、道路は分岐しています。分岐点に「日光例幣使街道」と刻した道標が建てられて、右方向「日光道」、左方向「足尾道」と記されています。
猪瀬家1.jpg猪瀬家21.jpg
(例幣使街道突き当りに建つ猪瀬家の見世蔵)      (分岐点に建つ道標)

分岐の手前左手に「大町郵便局」その向かい、道路の右手(東側)に立派な土蔵が有り、鬼瓦に「ヤマガタに大」の屋号紋」が付いていました。
大出邸1.jpg大出邸2.jpg
(鬼瓦に「ヤマガタに大」の屋号紋を付けた土蔵)
更に分岐の手前に小さい交差点が有ります。東に折れると、「大町公民館」の建つ大杉神社前に出ます。先の営業便覧には、その交差点から西に向かう道には「箱森道中」と記されていますが、この道路を入った裏通りに立派な石蔵や土蔵が建っています。それらの屋根の鬼瓦には「ヤマガタに本」の屋号紋が確認出来ます。この屋号紋、営業便覧にも記載されている「油製造米穀商」のものです。
橋本油店1.jpg橋本油店2.jpg
(裏通りに面して建つ石蔵やその東側に建つ土蔵の鬼瓦に見る「ヤマガタに本」の屋号紋)
又、例幣使街道の西側の裏通りを歩いていると、街道に面した店舗の裏手に建つ土蔵や石蔵を見る事が出来ます。
川島邸1.jpg川島邸2.jpg
(裏通りに面した立派な石蔵の鬼瓦に付けられた、「カネジャクにト」の屋号紋)

他に大町地内を巡り、確認出来た屋号紋等を付けた鬼瓦を以下に紹介いたします。
大塚邸1.jpg早乙女邸1.jpg


栃木市嘉右衛門町、鬼瓦見て歩き [歩く]

最近は、栃木市内を歩いている時、古そうな土蔵や石蔵に遭遇すると、どうしても屋根の上に目が行きます。その先に有るものは「鬼瓦」ですが、興味が有るのはその鬼瓦に記された「文字」や「形」です。
「鬼瓦」にはその名前の通りに「鬼面」を配している物が有りますが、実際「鬼面」を使っている物はそれほど多くは有りません。
鬼面瓦1.jpg鬼面瓦2.jpg
(旭町、定願寺鐘楼の屋根の鬼瓦)      (嘉右衛門町に有る古い土蔵の鬼瓦)
多くは「家紋」や「屋号紋」を付けた鬼瓦に成ります。但し最近の瓦屋根の「鬼瓦」は無地の物が殆んどです。
屋号紋3.jpg屋号紋4.jpg
(新しい鬼瓦、中央部分は無地)    (古い鬼瓦、何かの都合で中央部を塗り潰したものか)
ですから、「屋号紋」が付いている鬼瓦を見付けると嬉しくなります。
「屋号紋」は現在あまり見なくなりましたが、明治40年10月1日に発行された、「栃木県営業便覧」を見てみると、栃木町に名前を連ねている多くの商店が「屋号紋」を載せています。
その数を確認してみると、なんと265店舗も有りました。
「屋号紋」には幾つかのグループが有りますが、栃木町で一番多く見られたのは「尒」の様に頭に「山形」を載せた紋で、「山に小」の屋号紋は6店舗見られました。同じく「山にト」が6店舗、「山に木」5店舗、「山に大」4店舗などと成っています。この「ヤマガタ」には、≪商売が山の様に隆盛してほしい≫と言う思いが込められている様です。
嘉右衛門町にある江戸、天明年間創業の老舗「油伝味噌」店の鬼瓦に付けられた商標は≪山に十一≫です、読み方は「やまといち」と読むと同店の案内書に記されています。即ち「大和一」という事に成ります。
屋号紋1.jpg屋号紋5.jpg
(油伝味噌店の店頭)   (建物北側路地脇に造られた古い鬼瓦等を利用したモニュメント)
この「山」を使った紋で有名なものは、以前聞いた話ですが明治8年(1875)8月創業、古河機械金属株式会社の社章と成っている「山に一」の紋です。この紋の読み方は「やまひとすじ」という事で創業者古河市兵衛氏の「山一筋」の思いが込められていると言います。

二番目に多いのが「┓」矩尺(カネジャク)紋で、64店舗を確認しました。その中で「小」に矩尺を付けたものが6店舗有りました。他に「正」や「中」の文字に矩尺を配したものが3店舗づつなどです。矩尺の意味は、直線・直角の形から、≪商売が真直ぐ、真っ正直≫という事と、矩尺(カネジャク)のカネを「金」に掛けているとも言われます。
三番目が「〇」(マル)を使ったもの、萬の文字を丸で囲った「丸萬」などが直ぐ頭に浮かんできますが、39店舗有りました。
他に「入り山形」の紋が18店舗、「出山形」の紋が7店舗、丸では無く四角で囲んだ紋が6店舗。住友生命や住友林業などの住友グループで使われている井桁の紋を配したものが10店舗数えました。
その他にもキッコウマンで知られる六角形の亀甲紋とか、ヒゲタ醤油のひげ紋などが有りますが、これらは栃木町では認められませんでした。

それでは、今回は嘉右衛門町を歩いて見つけた屋号紋などの入った鬼瓦を紹介します。
屋号紋6.jpg屋号紋7.jpg
(丸に正の文字が入っている)           (丸に近の文字が入っている)
屋号紋8.jpg屋号紋9.jpg
(何と読むのか?神明神社社務所)       (丸に中の文字が入っている)
屋号紋10.jpg屋号紋11.jpg
(矩尺に太の文字)               (山形に縦の太線2本、介と呼んでいいのか?)
何処に有るのかは、皆さんも歩いて見つけてみて下さい。

3県境、三歩で散歩 [歩く]

今日は、最近話題になっている、三歩で3つの県を巡れる、栃木県と群馬県と埼玉県の3県の県境が一ヶ所に交わると言う場所に行ってきました。
場所は栃木県栃木市藤岡町下宮と群馬県邑楽郡板倉町間田そして、埼玉県加須市小野袋の三つの地区が接する「点」に成ります。
栃木県の南の端に広がる、渡良瀬遊水地の南の縁に沿って走る、県道9号(佐野古河道)脇の「道の駅きたかわべ」の駐車場に車を停めると、徒歩約5分で目的の三県境に到着しました。
近くに三県境を示す案内板や臨時駐車場も整備されていました。
三県境2.jpg三県境1.jpg
三県境は田畑の中を流れる細い水路の交点に有りました。
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近くに建てられた説明板によると、≪日本には40ヶ所以上の3県境が有りますが、平地にあるここは大変貴重な存在と言われています。≫と記されていました。
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又、別の説明板によると、元々この地点は「旧渡良瀬川」と「旧谷田川」との合流点で、河川の流れの中央に位置していた所の様で、≪明治43(1910)年から着手された河川改修工事で廃川となり、その後谷中湖造成工事により発生した土砂で埋め立てられ、耕作地に整備され現在に至≫という事で、県境は以前のままで残り、現在の形の三県境と成ったのでした。
三県境18.jpg
現在、県境と成る細い水路が交わる中心に建つコンクリート製の四角柱の上面に、三県境の交点を記した金属製の円盤が埋め込まれています。
三県境5.jpg三県境6.jpg
円形の金属プレート中心の「+」の下に「三県境界」、円周上に「栃木県栃木市」「埼玉県加須市」「群馬県板倉町」と境界に接する自治体名称、更に位置情報として、「北緯36度12分27秒」「東経139度39分50秒」の経緯が刻されています。
三県境7.jpg
さっそく水路を跨いで、栃木県からまず埼玉県へ、そして次の一歩で群馬県に渡り、三歩目で栃木の地に戻って、「三歩で三県の地を」無事に回って来ました。
帰りは渡良瀬遊水地の整備により飛地状態となってしまった、栃木市藤岡町下宮の周囲をグルリと回って来ました。
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(藤岡町下宮に残る農家の庭先には、春を告げる梅の花が咲いていました)
帰りに「道の駅きたかわべ」に建つ「北川辺スポーツ遊学館」の屋上に有る展望台に昇り、広大な渡良瀬遊水地とその先に望む関東の山々の姿を楽しみました。
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(北川辺スポーツ遊学館、屋上から渡良瀬遊水地を見る事が出来る)
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(雪をかぶる群馬県境の白根山)      (日光連山の山々)
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(太平山から晃石山の山並み)       (筑波山の手前の煙突が野木町の煉瓦窯)
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(茨城県古河市中心のビル群、手前谷中湖) (写真中央奥の田畑部分に三県境が有る)
「道の駅きたかわべ」にて新鮮な野菜や特製カレーパンなどを買って帰りました。

家に帰ってから早速地図帳を開き、日本全国の三県境を確認してみました。その結果44か所が確認出来ました。栃木県には今回見て来た場所を含めて4ヶ所有ります。栃木県に隣接する県は「福島」茨城」「埼玉」「群馬」の4県ですから当然それぞれの県の境界線が交わるのは4ヶ所出来て当然です。
栃木県白地図3.jpg
A点は今回見て来た「埼玉・群馬」との境界点。
B点は「埼玉・茨城」との境界点ですが、ここは現在「渡良瀬川」の流れの中に有ります。栃木県の所在地は栃木市藤岡町内野に成ります。
C点は「福島・群馬」との境界点に成りますが、ここは「黒岩山」と言う標高2163メートルの山頂から北に約230メートルの山の尾根に成ります。栃木県の所在地は日光市川俣です。
D点は「福島・茨城」との境界点ですが、「八溝山」標高1022メートルの山頂から西北西方向に約850メートル尾根を下った山中(標高約885メートル)に成ります。栃木県の所在地は大田原市南方です。

三県境が一番多く有る県は「長野県」です。長野県に隣接する県は、「新潟」「群馬」「埼玉」「山梨」「静岡」「愛知」「岐阜」「富山」の8県ですから、その境界点も8点に成ります。この内7点が標高1000メートルを超える山頂近くに成ります。
①「新潟・群馬」との境界点は、「白砂山」標高2140メートルの山頂付近。
②「群馬・埼玉」との境界点は、「三国山」標高1834メートルの山頂付近。
③「埼玉・山梨」との境界点は、「甲武信ヶ岳」標高2475メートルの山頂付近。
④「山梨・静岡」との境界点は、「三峰岳」標高2999メートルの山頂付近。
⑤「愛知・岐阜」との境界点は、「三国山」標高1162メートルの山頂付近。
⑥「岐阜・富山」との境界点は、「三俣蓮華岳」標高2841メートルの山頂付近。
⑦「富山・新潟」との境界点は、「白馬岳」標高2932メートルの北900メートル付近の「三国境」標高2751メートル付近です。
残りの一ヶ所は「静岡・愛知」との境界点ですが、この地点だけは山頂部では無く、天竜川の流れの中に位置しています。
どの地点も容易には行く事は出来ない場所です。

今回確認してみると多くの三県境の地点では、「三」の文字が良く使われています。栃木県「B」の三県境近くの渡良瀬川に架けられた橋の名称も「三国橋」と成っています。
この三県境、調べてみると他にも面白い事が幾つも出て来そうです。又地図を眺めて楽しみたいと思います。

今日の一枚 [歩く]

今日は午前中、少し陽射しが有りましたが、昼過ぎにはすっかり雲に覆われる天気に成りました。その為か、空気がとても冷たく感じられました。それでも、ここ数日吹いていた様な強風も無く穏やかだったので、ジャンバーと手袋で防寒対策をして、午後3時過ぎにウォーキングに出掛けました。いつもと同じ栃木の街並みを楽しみながら大通りから栃木駅前まで行って、帰りはミツワ通りを通って、巴波川に架かる「倭橋」を渡り、巴波川の右岸を遡りました。
嘉右衛門橋から沖の橋の間、対岸の翁島を望むと、翁島の板塀をバックに梅の花が満開になっていました。
翁島春景.jpg
冷たい空気の中でしたが、一瞬春を感じる景色に出会い、チョッと温かくなった気がしました。
今日の総歩数は9,954歩に成りました。

鹿沼市口粟野、街歩き [歩く]

口粟野は平成18年(2006)に東隣りの鹿沼市と合併した、上都賀郡粟野町の中心集落でした。
栃木県の西域に広がる足尾山地より南東方向にいくつもの尾根が関東平野に突き出すように伸びています。その尾根と尾根の間からは、沢水を集めた川が流れ出ています。それらは北から「大芦川」「荒井川」「南摩川」「粟野川」「思川」「永野川」そして「秋山川」などです。その中のひとつ思川は横根山南麓からの沢水等を集め南東方向に流れ、栃木市と鹿沼市との境を成す谷倉山や大倉山の北麓を東方向に流れを変えて、大倉山の北側から東側に回り込む様にして再び南東方向へと流れています。鹿沼市と日光市足尾とを結ぶ「主要地方道鹿沼足尾線」は、口粟野の東方よりこの思川に沿って、足尾方面へ向かっています。
今回歩く口粟野の街はこの「主要地方道鹿沼足尾線」と「県道草久粟野線」との分岐に開けた町で、街を東西に走る鹿沼足尾線の道路の南側を並行して思川が流れています。
県道草久粟野線との分岐点の北西側には、戦国時代(1300~1600)粟野城が築かれた、通称城山(標高257メートル)が聳えています。
口粟野の街には、道路沿いに西側から「上町」「仲町」「下町」が有り、城山の東側に「横町」が有ります。「下町」の東側は北側から流れて来た粟野川が思川に合流していますが、その粟野川を隔てた東側に「新宿」の地名が見えます。
栃木市から県道37号線(栃木粟野線)を北上、鹿沼市久野にて県道15号(主要地方道鹿沼足尾線)に合流する丁字路を足尾方面へ向かう。思川に架かる「天満橋」を渡り、思川左岸を西へ走り最初の信号機の有る交差点を右折すると左手に「鹿沼市立図書館粟野館」「粟野歴史民俗資料館」が有るので、そこの駐車場に車を停めさせて頂き、口粟野の街の散策を開始しました。
粟野市街地マップ.jpg
(粟野歴史民俗資料館駐車場に建つ「粟野市街地マップ」)
粟野歴史民俗資料館北側の道を西に向かいます。
粟野城址.jpg元粟野高校.jpg
(前方の山が粟野城が築かれた通称「城山」)  (田圃の先の建物が元の粟野高校)
比較的新しく造成されたと思われる住宅街の前を抜け、粟野保育園の裏を過ぎると、両側田圃の中の道に出る。道の前方に見えるのが、粟野城祉の有る「城山」に成ります。右手の田んぼの先、小高い山の南麓に見える4階建ての建物は、元の粟野高校校舎。県立粟野高等学校は平成21年(2009)県立鹿沼農業高等学校と統合して県立鹿沼南高等学校となり、平成23年(2009)3月2日閉校と成りました。
三峰山.jpg
(中央の山が三峰山、その左側の山間を粟野川が流れている)
田圃の中の道を更に西に歩くと、北西方向に三峰山(標高485.3メートル)が聳えているのが見えます。手前左側の山と三峰山との間の山間を北に向かう道路が県道246号(草久粟野線)が走っています。
横町付近.jpg横町橋.jpg
(県道246号、この道の先は石裂山南麓賀蘇山神社から草久方面へ)(粟野川に架かる横町橋)
田圃の中の道から県道246号に出て来ました。この辺は城山の東側と成る為、すでに山陰に入ってしまいました。道路の先に三峰山がまだ太陽の光の中に見えています。この道をずっと山の中に行くと、石裂山の南麓に祀られている「加蘇山神社」へ行く事が出来ます。今回は左手南に歩きます。
粟野川に架かる横町橋を渡り暫らく南に歩くと前方に信号機の有る交差点に出ます。主要地方道鹿沼足尾線に成ります。この交差点が口粟野の中心と思われます。
交差点の北西側角に「粟野町道路元標」が建っていました。
口粟野1.jpg粟野町道路元標.jpg
(突き当りが、口粟野の中心交差点)      (交差点北西側角に建つ粟野町道路元標)
道路元標の建つ交差点の北東側の角に煉瓦積みの塀や石蔵等を持つ立派な建物が目を引きます。現在こちらのお宅は商売等はやられていないようですが、表札を見ると「油屋」と言う文字が記されていました。
天保年間には菜種や胡麻などからの絞油を商いをしていた旧家だそうです。
油屋1.jpg油屋2.jpg
(口粟野交差点の北東側に建つ煉瓦積みの塀を持つ家屋)(南側正面より)
交差点から少し西に歩くと道路沿いにやはり土蔵や石蔵を構えた家が並んでいます。
仲町1.jpg仲町2.jpg
(口粟野交差点の西側、道路沿いに建つ家並み、家の後方は城山となる)
街中を散策していると、小学生の下校時の交通指導をされるおじさんが、「写真を撮るなら屋根の上に鯱鉾が載っているから」と教えてくれました。見ると交差点の南西側奥の屋根の上に銀色に輝く鯱鉾を見付け、さっそく写真に収めました。
下町2.jpg下町1.jpg
(口粟野交差点南西側奥の屋根の上の鯱鉾)(粟野小学校正門脇に立つ「下町屋台収納庫)
今度は交差点から東の方向に歩いて行きます。道路から少し入った奥に鹿沼市立粟野小学校の正門が有り、その左脇に「下町屋台収納庫」と記した背の高い建物が目に入りました。栃木の市内に建つ「人形山車」の収納庫と同じような作りです。中にどのような屋台が収められているのか、鹿沼の彫刻屋台の様なものか興味が湧きました。
粟野小学校の前身は、明治6年に創立された明道舎。明治20年口粟野尋常小学校と改称。明治25年粟野尋常高等小学校と改称。などと校庭脇の石碑に「創立百年の碑に寄せて」として刻されていました。
清瀬橋.jpg清瀬橋2.jpg
(粟野川に架かる清瀬橋)       (清瀬橋東橋詰付近、道路の上に枝を伸ばす木が)
更に東に進むと粟野川に架かる「清瀬橋」を渡ります。川の左岸は「新宿」に成ります。橋の東詰付近の道路際に幹が妙に太く、道路の上まで枝を伸ばした大木が目を引きました。何と言う木なのか私には分かりませんが。
口粟野の街中をうろうろと歩き回りました。総歩数6,800歩に成りました。