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今日の一枚 [歩く]

今日は、午前中に栃木文化会館展示室で行われている「第48回花と自然、AOI写真展」を見に行きました。この写真展は昨日から明日までの3日間開催されていて、大分前に招待の葉書を頂いていて、初日と成る昨日行く予定をしていたのをすっかり忘れてしまい、今朝の新聞の記事の中にその記事を見付け、午前十時の開場前に出掛けました。
今回の写真展には17名の作品が会場狭しと多数展示され、草花の接写作品から、滝や紅葉などの風景、栃木の秋祭りの様子を捉えたものなど、多種多様の美しい作品を堪能して来ました。
「AOIスケッチカメラクラブ」は、今回の写真展が48回目という事で、栃木市内のアマチュア写真クラブでは、古くから続けられているクラブです。以前は「AOI」さんの他に、「栃木カメラクラブ」とか「うずま写友会」という、アマチュア写真の同好会が有って、年に1回の作品展を持っていました。今は懐かしい思い出だけと成りました。

午後はいつものように市内の散策を兼ねたウォーキング。その日その日で歩くコースを変えて楽しんでいます。今日は、翁島近くの巴波川に架かる「沖ノ橋」の上で、やはりウォーキング途中の叔父さんに出会いました。橋の上にいた叔父さんが私を見付けて手を振っています。
近寄って行くと、橋の下の川の中を指さし「ナマズが居る」と教えてくれました。私も目を凝らして川の流れの中を探してみると、確かにナマズが一匹、流れに抗してジッとして居ます。
まさに「巴波の鯰」だと頭の中で一人納得していました。

叔父さんと別れウォーキング再開、錦町から南へ、入舟町・湊町・富士見町・境町を抜け、栃木駅の高架下をくぐって沼和田町まで足を延ばし、帰りは河合町から「開明橋」を渡って、大通りを北上して帰宅しました。
帰路、嘉右衛門橋から翁島に来るころには、西の空は赤く染まって来ていました。
今日の総歩数は、15,309歩といつもより少し多くなりました。

今日の一枚は、西の空が赤く染まるころ、巴波川に架かる「泉橋」近くで、菜の花が咲いている風景です。
釜平邸春景色.jpg

栃木市大町、鬼瓦見て歩き [歩く]

今回の鬼瓦見て歩きは、栃木市大町(だいちょう)を回ってみました。
町名にふりがなを付記しましたが、地元の人は当たり前に読める地名・町名も、他所から来られた方などは、何と読むのか分からないものです。この町名も時々「おおまち公民館」はどこに有りますかと尋ねられて、こちらが頭を傾げてしまう事も有ります。
この町は、国の「重要建造物群保存地区」の選定を受けている嘉右衛門町の北隣に位置し、街の中心を「旧日光例幣使街道」が縦貫しており、その街道筋を中心に発展してきた町で、現在も街道沿いには土蔵造りや石蔵などを見る事が出来ます。
まず、国登録有形文化財に指定されている「大島肥料店店舗」を見に行きます。
建物の前に栃木市教育委員会が記した建物の説明板が建てられています。
大島肥料店1.jpg大島肥料店2.jpg
(国登録有形文化財と成っている、大島肥料店の見世蔵)(店舗前に建つ説明板)
街道に面した見世蔵(店舗)部分は修復工事が行われ、屋根の瓦も葺きかえられて、新しくなっています。
鬼瓦には家紋や屋号紋は付いていませんでした。明治40年10月1日に発行された「栃木県営業便覧」を見ると、栃木町の大丁に「各種肥料 食塩石油商 大嶋元平」の名前が見えます。そこに縦長の二等辺三角形の中央部に横棒を一本付けた屋号紋が記されています。その屋号紋を探して見ると、下屋部両サイドの降り棟の庇の先まで降りた先端部の軒丸瓦に付いていました。又、見世蔵の裏手に建つ土蔵の鬼瓦や棟巴などにも同様の屋号紋が確認出来ました。
大島肥料店4.jpg大島肥料店3.jpg
(大島肥料店の屋号紋が付けられた「棟巴」や「鬼瓦」)
先の「栃木県営業便覧」の中に、この屋号紋を使う別の店舗が万町の現在の「とちぎ山車会館」近く有った、海陸産肥料商の店舗に認められました。

大島肥料店前から例幣使街道を北方向に歩いて行くと、道路の先に立派な見世蔵が現れます。営業便覧に記されている「醤油製造 猪瀬辨藏」さんの見世蔵ですが、屋号紋は記されていません。この見世蔵は置屋根形式と言うもので、栃木の大通り周辺には見られない形という事です。残念ながら鬼が有らに屋号紋は確認できませんでした。
この猪瀬邸の前で、道路は分岐しています。分岐点に「日光例幣使街道」と刻した道標が建てられて、右方向「日光道」、左方向「足尾道」と記されています。
猪瀬家1.jpg猪瀬家21.jpg
(例幣使街道突き当りに建つ猪瀬家の見世蔵)      (分岐点に建つ道標)

分岐の手前左手に「大町郵便局」その向かい、道路の右手(東側)に立派な土蔵が有り、鬼瓦に「ヤマガタに大」の屋号紋」が付いていました。
大出邸1.jpg大出邸2.jpg
(鬼瓦に「ヤマガタに大」の屋号紋を付けた土蔵)
更に分岐の手前に小さい交差点が有ります。東に折れると、「大町公民館」の建つ大杉神社前に出ます。先の営業便覧には、その交差点から西に向かう道には「箱森道中」と記されていますが、この道路を入った裏通りに立派な石蔵や土蔵が建っています。それらの屋根の鬼瓦には「ヤマガタに本」の屋号紋が確認出来ます。この屋号紋、営業便覧にも記載されている「油製造米穀商」のものです。
橋本油店1.jpg橋本油店2.jpg
(裏通りに面して建つ石蔵やその東側に建つ土蔵の鬼瓦に見る「ヤマガタに本」の屋号紋)
又、例幣使街道の西側の裏通りを歩いていると、街道に面した店舗の裏手に建つ土蔵や石蔵を見る事が出来ます。
川島邸1.jpg川島邸2.jpg
(裏通りに面した立派な石蔵の鬼瓦に付けられた、「カネジャクにト」の屋号紋)

他に大町地内を巡り、確認出来た屋号紋等を付けた鬼瓦を以下に紹介いたします。
大塚邸1.jpg早乙女邸1.jpg


栃木市嘉右衛門町、鬼瓦見て歩き [歩く]

最近は、栃木市内を歩いている時、古そうな土蔵や石蔵に遭遇すると、どうしても屋根の上に目が行きます。その先に有るものは「鬼瓦」ですが、興味が有るのはその鬼瓦に記された「文字」や「形」です。
「鬼瓦」にはその名前の通りに「鬼面」を配している物が有りますが、実際「鬼面」を使っている物はそれほど多くは有りません。
鬼面瓦1.jpg鬼面瓦2.jpg
(旭町、定願寺鐘楼の屋根の鬼瓦)      (嘉右衛門町に有る古い土蔵の鬼瓦)
多くは「家紋」や「屋号紋」を付けた鬼瓦に成ります。但し最近の瓦屋根の「鬼瓦」は無地の物が殆んどです。
屋号紋3.jpg屋号紋4.jpg
(新しい鬼瓦、中央部分は無地)    (古い鬼瓦、何かの都合で中央部を塗り潰したものか)
ですから、「屋号紋」が付いている鬼瓦を見付けると嬉しくなります。
「屋号紋」は現在あまり見なくなりましたが、明治40年10月1日に発行された、「栃木県営業便覧」を見てみると、栃木町に名前を連ねている多くの商店が「屋号紋」を載せています。
その数を確認してみると、なんと265店舗も有りました。
「屋号紋」には幾つかのグループが有りますが、栃木町で一番多く見られたのは「尒」の様に頭に「山形」を載せた紋で、「山に小」の屋号紋は6店舗見られました。同じく「山にト」が6店舗、「山に木」5店舗、「山に大」4店舗などと成っています。この「ヤマガタ」には、≪商売が山の様に隆盛してほしい≫と言う思いが込められている様です。
嘉右衛門町にある江戸、天明年間創業の老舗「油伝味噌」店の鬼瓦に付けられた商標は≪山に十一≫です、読み方は「やまといち」と読むと同店の案内書に記されています。即ち「大和一」という事に成ります。
屋号紋1.jpg屋号紋5.jpg
(油伝味噌店の店頭)   (建物北側路地脇に造られた古い鬼瓦等を利用したモニュメント)
この「山」を使った紋で有名なものは、以前聞いた話ですが明治8年(1875)8月創業、古河機械金属株式会社の社章と成っている「山に一」の紋です。この紋の読み方は「やまひとすじ」という事で創業者古河市兵衛氏の「山一筋」の思いが込められていると言います。

二番目に多いのが「┓」矩尺(カネジャク)紋で、64店舗を確認しました。その中で「小」に矩尺を付けたものが6店舗有りました。他に「正」や「中」の文字に矩尺を配したものが3店舗づつなどです。矩尺の意味は、直線・直角の形から、≪商売が真直ぐ、真っ正直≫という事と、矩尺(カネジャク)のカネを「金」に掛けているとも言われます。
三番目が「〇」(マル)を使ったもの、萬の文字を丸で囲った「丸萬」などが直ぐ頭に浮かんできますが、39店舗有りました。
他に「入り山形」の紋が18店舗、「出山形」の紋が7店舗、丸では無く四角で囲んだ紋が6店舗。住友生命や住友林業などの住友グループで使われている井桁の紋を配したものが10店舗数えました。
その他にもキッコウマンで知られる六角形の亀甲紋とか、ヒゲタ醤油のひげ紋などが有りますが、これらは栃木町では認められませんでした。

それでは、今回は嘉右衛門町を歩いて見つけた屋号紋などの入った鬼瓦を紹介します。
屋号紋6.jpg屋号紋7.jpg
(丸に正の文字が入っている)           (丸に近の文字が入っている)
屋号紋8.jpg屋号紋9.jpg
(何と読むのか?神明神社社務所)       (丸に中の文字が入っている)
屋号紋10.jpg屋号紋11.jpg
(矩尺に太の文字)               (山形に縦の太線2本、介と呼んでいいのか?)
何処に有るのかは、皆さんも歩いて見つけてみて下さい。

3県境、三歩で散歩 [歩く]

今日は、最近話題になっている、三歩で3つの県を巡れる、栃木県と群馬県と埼玉県の3県の県境が一ヶ所に交わると言う場所に行ってきました。
場所は栃木県栃木市藤岡町下宮と群馬県邑楽郡板倉町間田そして、埼玉県加須市小野袋の三つの地区が接する「点」に成ります。
栃木県の南の端に広がる、渡良瀬遊水地の南の縁に沿って走る、県道9号(佐野古河道)脇の「道の駅きたかわべ」の駐車場に車を停めると、徒歩約5分で目的の三県境に到着しました。
近くに三県境を示す案内板や臨時駐車場も整備されていました。
三県境2.jpg三県境1.jpg
三県境は田畑の中を流れる細い水路の交点に有りました。
三県境3.jpg
近くに建てられた説明板によると、≪日本には40ヶ所以上の3県境が有りますが、平地にあるここは大変貴重な存在と言われています。≫と記されていました。
三県境4.jpg
又、別の説明板によると、元々この地点は「旧渡良瀬川」と「旧谷田川」との合流点で、河川の流れの中央に位置していた所の様で、≪明治43(1910)年から着手された河川改修工事で廃川となり、その後谷中湖造成工事により発生した土砂で埋め立てられ、耕作地に整備され現在に至≫という事で、県境は以前のままで残り、現在の形の三県境と成ったのでした。
三県境18.jpg
現在、県境と成る細い水路が交わる中心に建つコンクリート製の四角柱の上面に、三県境の交点を記した金属製の円盤が埋め込まれています。
三県境5.jpg三県境6.jpg
円形の金属プレート中心の「+」の下に「三県境界」、円周上に「栃木県栃木市」「埼玉県加須市」「群馬県板倉町」と境界に接する自治体名称、更に位置情報として、「北緯36度12分27秒」「東経139度39分50秒」の経緯が刻されています。
三県境7.jpg
さっそく水路を跨いで、栃木県からまず埼玉県へ、そして次の一歩で群馬県に渡り、三歩目で栃木の地に戻って、「三歩で三県の地を」無事に回って来ました。
帰りは渡良瀬遊水地の整備により飛地状態となってしまった、栃木市藤岡町下宮の周囲をグルリと回って来ました。
三県境8.jpg三県境9.jpg
(藤岡町下宮に残る農家の庭先には、春を告げる梅の花が咲いていました)
帰りに「道の駅きたかわべ」に建つ「北川辺スポーツ遊学館」の屋上に有る展望台に昇り、広大な渡良瀬遊水地とその先に望む関東の山々の姿を楽しみました。
三県境10.jpg
(北川辺スポーツ遊学館、屋上から渡良瀬遊水地を見る事が出来る)
三県境11.jpg三県境12.jpg
(雪をかぶる群馬県境の白根山)      (日光連山の山々)
三県境13.jpg三県境14.jpg
(太平山から晃石山の山並み)       (筑波山の手前の煙突が野木町の煉瓦窯)
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(茨城県古河市中心のビル群、手前谷中湖) (写真中央奥の田畑部分に三県境が有る)
「道の駅きたかわべ」にて新鮮な野菜や特製カレーパンなどを買って帰りました。

家に帰ってから早速地図帳を開き、日本全国の三県境を確認してみました。その結果44か所が確認出来ました。栃木県には今回見て来た場所を含めて4ヶ所有ります。栃木県に隣接する県は「福島」茨城」「埼玉」「群馬」の4県ですから当然それぞれの県の境界線が交わるのは4ヶ所出来て当然です。
栃木県白地図3.jpg
A点は今回見て来た「埼玉・群馬」との境界点。
B点は「埼玉・茨城」との境界点ですが、ここは現在「渡良瀬川」の流れの中に有ります。栃木県の所在地は栃木市藤岡町内野に成ります。
C点は「福島・群馬」との境界点に成りますが、ここは「黒岩山」と言う標高2163メートルの山頂から北に約230メートルの山の尾根に成ります。栃木県の所在地は日光市川俣です。
D点は「福島・茨城」との境界点ですが、「八溝山」標高1022メートルの山頂から西北西方向に約850メートル尾根を下った山中(標高約885メートル)に成ります。栃木県の所在地は大田原市南方です。

三県境が一番多く有る県は「長野県」です。長野県に隣接する県は、「新潟」「群馬」「埼玉」「山梨」「静岡」「愛知」「岐阜」「富山」の8県ですから、その境界点も8点に成ります。この内7点が標高1000メートルを超える山頂近くに成ります。
①「新潟・群馬」との境界点は、「白砂山」標高2140メートルの山頂付近。
②「群馬・埼玉」との境界点は、「三国山」標高1834メートルの山頂付近。
③「埼玉・山梨」との境界点は、「甲武信ヶ岳」標高2475メートルの山頂付近。
④「山梨・静岡」との境界点は、「三峰岳」標高2999メートルの山頂付近。
⑤「愛知・岐阜」との境界点は、「三国山」標高1162メートルの山頂付近。
⑥「岐阜・富山」との境界点は、「三俣蓮華岳」標高2841メートルの山頂付近。
⑦「富山・新潟」との境界点は、「白馬岳」標高2932メートルの北900メートル付近の「三国境」標高2751メートル付近です。
残りの一ヶ所は「静岡・愛知」との境界点ですが、この地点だけは山頂部では無く、天竜川の流れの中に位置しています。
どの地点も容易には行く事は出来ない場所です。

今回確認してみると多くの三県境の地点では、「三」の文字が良く使われています。栃木県「B」の三県境近くの渡良瀬川に架けられた橋の名称も「三国橋」と成っています。
この三県境、調べてみると他にも面白い事が幾つも出て来そうです。又地図を眺めて楽しみたいと思います。

今日の一枚 [歩く]

今日は午前中、少し陽射しが有りましたが、昼過ぎにはすっかり雲に覆われる天気に成りました。その為か、空気がとても冷たく感じられました。それでも、ここ数日吹いていた様な強風も無く穏やかだったので、ジャンバーと手袋で防寒対策をして、午後3時過ぎにウォーキングに出掛けました。いつもと同じ栃木の街並みを楽しみながら大通りから栃木駅前まで行って、帰りはミツワ通りを通って、巴波川に架かる「倭橋」を渡り、巴波川の右岸を遡りました。
嘉右衛門橋から沖の橋の間、対岸の翁島を望むと、翁島の板塀をバックに梅の花が満開になっていました。
翁島春景.jpg
冷たい空気の中でしたが、一瞬春を感じる景色に出会い、チョッと温かくなった気がしました。
今日の総歩数は9,954歩に成りました。

鹿沼市口粟野、街歩き [歩く]

口粟野は平成18年(2006)に東隣りの鹿沼市と合併した、上都賀郡粟野町の中心集落でした。
栃木県の西域に広がる足尾山地より南東方向にいくつもの尾根が関東平野に突き出すように伸びています。その尾根と尾根の間からは、沢水を集めた川が流れ出ています。それらは北から「大芦川」「荒井川」「南摩川」「粟野川」「思川」「永野川」そして「秋山川」などです。その中のひとつ思川は横根山南麓からの沢水等を集め南東方向に流れ、栃木市と鹿沼市との境を成す谷倉山や大倉山の北麓を東方向に流れを変えて、大倉山の北側から東側に回り込む様にして再び南東方向へと流れています。鹿沼市と日光市足尾とを結ぶ「主要地方道鹿沼足尾線」は、口粟野の東方よりこの思川に沿って、足尾方面へ向かっています。
今回歩く口粟野の街はこの「主要地方道鹿沼足尾線」と「県道草久粟野線」との分岐に開けた町で、街を東西に走る鹿沼足尾線の道路の南側を並行して思川が流れています。
県道草久粟野線との分岐点の北西側には、戦国時代(1300~1600)粟野城が築かれた、通称城山(標高257メートル)が聳えています。
口粟野の街には、道路沿いに西側から「上町」「仲町」「下町」が有り、城山の東側に「横町」が有ります。「下町」の東側は北側から流れて来た粟野川が思川に合流していますが、その粟野川を隔てた東側に「新宿」の地名が見えます。
栃木市から県道37号線(栃木粟野線)を北上、鹿沼市久野にて県道15号(主要地方道鹿沼足尾線)に合流する丁字路を足尾方面へ向かう。思川に架かる「天満橋」を渡り、思川左岸を西へ走り最初の信号機の有る交差点を右折すると左手に「鹿沼市立図書館粟野館」「粟野歴史民俗資料館」が有るので、そこの駐車場に車を停めさせて頂き、口粟野の街の散策を開始しました。
粟野市街地マップ.jpg
(粟野歴史民俗資料館駐車場に建つ「粟野市街地マップ」)
粟野歴史民俗資料館北側の道を西に向かいます。
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(前方の山が粟野城が築かれた通称「城山」)  (田圃の先の建物が元の粟野高校)
比較的新しく造成されたと思われる住宅街の前を抜け、粟野保育園の裏を過ぎると、両側田圃の中の道に出る。道の前方に見えるのが、粟野城祉の有る「城山」に成ります。右手の田んぼの先、小高い山の南麓に見える4階建ての建物は、元の粟野高校校舎。県立粟野高等学校は平成21年(2009)県立鹿沼農業高等学校と統合して県立鹿沼南高等学校となり、平成23年(2009)3月2日閉校と成りました。
三峰山.jpg
(中央の山が三峰山、その左側の山間を粟野川が流れている)
田圃の中の道を更に西に歩くと、北西方向に三峰山(標高485.3メートル)が聳えているのが見えます。手前左側の山と三峰山との間の山間を北に向かう道路が県道246号(草久粟野線)が走っています。
横町付近.jpg横町橋.jpg
(県道246号、この道の先は石裂山南麓賀蘇山神社から草久方面へ)(粟野川に架かる横町橋)
田圃の中の道から県道246号に出て来ました。この辺は城山の東側と成る為、すでに山陰に入ってしまいました。道路の先に三峰山がまだ太陽の光の中に見えています。この道をずっと山の中に行くと、石裂山の南麓に祀られている「加蘇山神社」へ行く事が出来ます。今回は左手南に歩きます。
粟野川に架かる横町橋を渡り暫らく南に歩くと前方に信号機の有る交差点に出ます。主要地方道鹿沼足尾線に成ります。この交差点が口粟野の中心と思われます。
交差点の北西側角に「粟野町道路元標」が建っていました。
口粟野1.jpg粟野町道路元標.jpg
(突き当りが、口粟野の中心交差点)      (交差点北西側角に建つ粟野町道路元標)
道路元標の建つ交差点の北東側の角に煉瓦積みの塀や石蔵等を持つ立派な建物が目を引きます。現在こちらのお宅は商売等はやられていないようですが、表札を見ると「油屋」と言う文字が記されていました。
天保年間には菜種や胡麻などからの絞油を商いをしていた旧家だそうです。
油屋1.jpg油屋2.jpg
(口粟野交差点の北東側に建つ煉瓦積みの塀を持つ家屋)(南側正面より)
交差点から少し西に歩くと道路沿いにやはり土蔵や石蔵を構えた家が並んでいます。
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(口粟野交差点の西側、道路沿いに建つ家並み、家の後方は城山となる)
街中を散策していると、小学生の下校時の交通指導をされるおじさんが、「写真を撮るなら屋根の上に鯱鉾が載っているから」と教えてくれました。見ると交差点の南西側奥の屋根の上に銀色に輝く鯱鉾を見付け、さっそく写真に収めました。
下町2.jpg下町1.jpg
(口粟野交差点南西側奥の屋根の上の鯱鉾)(粟野小学校正門脇に立つ「下町屋台収納庫)
今度は交差点から東の方向に歩いて行きます。道路から少し入った奥に鹿沼市立粟野小学校の正門が有り、その左脇に「下町屋台収納庫」と記した背の高い建物が目に入りました。栃木の市内に建つ「人形山車」の収納庫と同じような作りです。中にどのような屋台が収められているのか、鹿沼の彫刻屋台の様なものか興味が湧きました。
粟野小学校の前身は、明治6年に創立された明道舎。明治20年口粟野尋常小学校と改称。明治25年粟野尋常高等小学校と改称。などと校庭脇の石碑に「創立百年の碑に寄せて」として刻されていました。
清瀬橋.jpg清瀬橋2.jpg
(粟野川に架かる清瀬橋)       (清瀬橋東橋詰付近、道路の上に枝を伸ばす木が)
更に東に進むと粟野川に架かる「清瀬橋」を渡ります。川の左岸は「新宿」に成ります。橋の東詰付近の道路際に幹が妙に太く、道路の上まで枝を伸ばした大木が目を引きました。何と言う木なのか私には分かりませんが。
口粟野の街中をうろうろと歩き回りました。総歩数6,800歩に成りました。


三角山探訪 [歩く]

栃木市内を歩いていると、色々な山が目に入って来ます。
太平山、筑波山、男体山、三峰山、岩船山、三毳山などは著名な山々で、その方向と山の形状で栃木市民であれば誰でも簡単に認識をする事が出来る山でしょう。
そんな中で私が以前から興味を持っている山が有ります。それは見た目が三角形を呈している山です。それも、我家から望む事が出来る山で、北側と西側と二つ見る事が出来ます。
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(北に見える三角山、後方は日光連山)       (西に見える三角山)
西側のひとつは以前から場所も名前も分かっていました。それは岩出町の「飯盛山」です。夕方箱森町の西側辺りをウォーキングしていると、三角形の山のシルエットが良く見る事が出来ます。
飯盛山2.jpg
(永野川と赤津川との合流点から西方を望む。中央の三角山が「飯盛山」)
標高は165メートル程ですが地形図を見ると等高線がほぼ同心円状に成っていて、見るからに高さの低い円錐形、丁度茶碗にご飯を盛った形に見えます。そんな形から「飯盛山」と呼ばれるようになったのではと、勝手に想像をしています。飯盛山1.jpg
(日没直後の飯盛山)

北側の三角山は数年前、栃木総合運動公園のジョギングコースを歩いている時に見つけました。遠くに有る為、見る角度が変わると手前の山や木々の陰に隠れて見えなくなってしまいます。それからどこの山なのか、もっと近くで見たいと車を走らせた事も何度も有りますが、なかなかその正体が掴めませんでした。それが最近になって我家からも見える事に気が付きました。
雪化粧をした日光連山を撮影していると、女峰山の手前に左右対称に裾野を広げる三角山が確認できたのです。さて、これはどこの山が見えるのだろうか、又、その探求が始まりました。
大倉山3.jpg
(野中町上公民館西方から「都賀の里」の有る観音山を望むと、その左にチョコット三角山が)
都賀町や西方町にも車を走らせ、三角山の見えるポイントを探して、それらのポイントから地形図上で直線を引き、その延長線上に当たる山を確認する事が出来ました。
大倉山2.jpg
(都賀町木コミニュティーセンター西方からの大倉山。後方に男体山を望む。)
その山の名前は「大倉山」と言い、現在栃木市と鹿沼市との境界線上に聳える、標高454.6メートルの山でした。地形図にて等高線の状況を確認すると、円形には成っておらず、北北西から南南東方向にほぼ楕円状に成っていて、山自体は円錐状では有りませんが、大倉山から我家の有る方角が南南東に位置していた為、丁度三角状に見えていたのでした。

今朝、日光連山は雪雲に隠れて見えませんでしたが、鹿沼との境と成る「大倉山」は、三角形の山の形を見せていました。
大倉山4.jpg
(2017年1月23日撮影、大倉山。手前右手に写る山は、都賀町の観音山)


栃木市新井町周辺を歩く [歩く]

栃木の市街地から皆川城内に向かう県道75号線を走ると、泉川町の道路の右手に、元栃木市立泉川小学校跡に建てられた、栃木市屋内運動場「スパーク栃木」が有ります。
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(栃木市屋内運動場「スパーク栃木」)
今日、久しぶりに暖かな陽気に誘われ、ウォーキングで出かけました。私の祖父の出身はこの小学校の近くだと聞いた事が有りますが詳しい事は聞いていませんでした。きっと祖父はこのグランドを駆け回っていたのかも知れません。
正門の左手に今も「二宮金次郎」の薪を背負って読書をしながら歩く、お決まりの姿の像が残っています。
そしてその隣に建つ石碑は、「栃木市立泉川小学校跡」を記念するもので、閉校された昭和52年(1977)3月に建立されました。
スパーク栃木3.jpgスパーク栃木4.jpg
跡地に建つ「スパーク栃木」は屋内ゲートボール場、ここに栃木県ゲートボール協会の本拠地が有ります。
ゲートボールと言うといつの頃か大流行した時期が有ります。多くの地域の公園や広場等に、ゲートボール場が造られ、早朝に高齢者が自前のステックを持って集まり、プレーを楽しんでいました。
昭和55年(1980)に栃木市主催の第一回ゲートボール大会が行われました。又、平成元年(1989)に開催された栃木市老人クラブ連合会主催の大会には61チーム、約500人が参加したと言います。
私の子供が小学生の頃、何故かゲートボールクラブだったようで、ここ「スパーク栃木」で行われた大会で優勝をしています。
当時は本当にいたる所でステックを持った高齢者を見かけましたが、最近は殆ど見なくなった気がします。
私も65歳を過ぎて、高齢者の仲間に入りました。(最近高齢者の年齢見直しがされている様ですが)
昨年8月に毎年開催されている「栃木市民スポーツフェッスティバル」を観戦した時、今まで見た事の無い高齢者が多く参加するスポーツ競技が幾つも有る事を知りました。そこで私よりズット高齢の70代80代の方々が、ハツラツとプレーを楽しんでいるのを見ると、こうして健康で長生きできる事は素晴らしい事だなと、改めて感じました。
ゲートボール大会1.jpgゲートボール大会2.jpg
(ゲートボール:現在も多くの高齢者がプレーを楽しんでいるチーム競技です)
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(グランドゴルフ:グランドが有れば何処でも出来るミニゴルフ。個人競技です)
ターゲットバードゴルフ2.jpgターゲットバードゴルフ1.jpg
(ターゲットバードゴルフ:専用のコースが必要。バトミントンの羽根が付いたボールを使う。個人競技)
私自身は子供の頃より運動は大の苦手で、特に球技種目は散々でした。ですから社会人と成ってから、会社で毎年行われる職場対抗ソフトボール大会は、打ってはまともに当たらず、守ってはエラーの連続でチームの足を引っ張るばかりでした。
そんな私の現在の健康法は、唯ひたすら歩くだけと思っています。
今日も、泉川町から新井町の天満宮を回って、東北自動車道の側道を栃木インター方向に歩き、野中町を回って来ました。本日の総歩数は13,856歩になりました。


佐野市葛生、街歩き [歩く]

先日、久しぶりに葛生の街中を散策しました。
2005年2月28日に、佐野市と田沼町と合併して葛生町と言う町名は今は無くなっています。
栃木市の皆川地区の西に南北に連なる、標高300から400メートルの山々の稜線が現在も、栃木市と佐野市の境界であり、昔からその境界のひとつに、琴平神社が祀られています。
私が葛生町を最初に訪れたのは、高校3年の時に遡ります。高校1年の夏休みに、自動二輪車の運転免許を取得したことと、高校で葛生から通学する友が出来た事も有り、初めて尻内から現在の国道293号のルートをバイクでとばしました。当時は会沢トンネルはまだ有りませんでしたから、会沢峠を越えて行きました。
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(1968年撮影、石灰工業の街葛生を最初に訪れた時)
今回は、葛生の市街地の中心に出来た、「葛生ポケットパーク」の駐車場に車を停めさせて頂き、街中を散策しました。
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(葛生の街の中央に有る、「葛生ポケットパーク」)
葛生の市街地の中央を、ほぼ南北に通る県道123号線(葛生停車場線)は、現在北側「嘉多山公園南」交差点から、南側葛生駅入口交差点付近までの約1キロメートルの区間、電線の地下埋設が行われて、すっきりとした街並みと成っていました。
この市街地中心の道路は、街の西側を流れる秋山川の右岸(西側)を通る「葛生バイパス」が開通する前は、国道293号でした。
この地域の空中写真で私達が閲覧可能な最も年代の古いものは、昭和22年(1947)11月1日の米軍撮影の写真に成ります。
その空中写真を観察すると先ほどの「嘉多山公園南」交差点付近から南側「葛生駅入口」交差点付近までの区間、周辺道路と比較してはるかに広い道路が確認出来、その道路の両側に短冊状の屋敷割と成る家並みがぎっしりと続いています。
そんな中心道路を歩いて行くと、新しい立派なお屋敷と、大正から昭和初期ごろと思われる土蔵作りの建物がポツリポツリと残っています。
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(葛生の中央の通りを散策して、目にした趣のある建物と風景)

通りの南側「葛生本町」交差点の南東側角に、葛生町道路元標と刻した石柱が残っていました。この交差点で、北から来て西に折れ秋山川に架かる「天神橋」を渡るルートが、以前の国道293号ですが、それ以前からこの交差点は各方面に向かう道路の要と成るポイントだったのです。
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(葛生町道路元標が、シッカリした姿で設置されています)
逆に通りを北側に歩いて行くと、道路は小高い山の階段の正面で突き当たります。ここは市街地の北の端に当たり、現在は「嘉多山公園」と成っています。
恥ずかしい事ですが、私はこの公園の名前をこれまでずっと「喜多山公園」と思っていました。市街地の北側に有るからそれをもじって「喜多」としたものと勝手に解釈をしていました。
この公園に初めて来たのも結構前に成ります。昭和47年(1972)12月です。その時公園で撮影した「子供二人がより添って座る像」の写真が私のアルバムに残っていました。今回訪れてその像を探してみましたが、確認できませんでした。
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(1972年12月撮影、「嘉多山公園」から南方向、原人ロードが見える)
子供がまだ小さかった頃も何度かこの公園に連れて来た事が有ります。階段を上がった所に、子供の遊び場が有ってそこに「タコ」の形のピンク色の滑り台が有り、子供達も喜んで遊んでいました。その滑り台も無くなっていました。
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(1990年6月撮影、子供達が喜んで遊んだ、ピンクのタコの滑り台)
今、その場所には、大正4年英国ベーヤピーコック社製造の四輪連結テンダー型機関車が展示されています。この機関車は東武佐野線にて活躍したもので、昭和41年11月東武鉄道佐野線の全線電化で引退したものと脇に建つ掲示板に記されていました。
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(現在の公園に展示されている、蒸気機関車。横の滑り台が昔のタコの名残りか?)
尚公園内には「吉澤石灰工業発祥の地」と記した石碑や、「吉澤兵左翁」の銅像が建てられています。
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(公園内に建てられた記念碑や銅像)
この公園は元吉澤石灰工業の石灰製造の場所と言い、近くに明治時代から大正5年頃まで石灰石を焼き石灰を製造した「七輪窯」の跡も残されていました。
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(石灰岩を焼くための「七輪窯」の跡)
尚、先ほど記した昭和24年撮影の空中写真には、この嘉多山公園前から「嘉多山公園南」交差点間に道路は無く、一面田畑だけが広がっています。他に昭和36年5月13日撮影の空中写真では景色は一変して、道路が縦横に走り、住宅が密集しています。
新たに出来た「嘉多山公園」前からの道路は、「原人ロード」と名付けられ、平成6年7月に「ふるさとを紹介する道」として、「手づくり郷土賞」を受賞している様です。以前は、この「嘉多山公園」前のこの道路を発着点として、「葛生原人マラソン大会」がおこなわれていて、私の息子が中学生の時、一度このマラソン大会に参加をしています。雨が降るあいにくの天候でしたが無事に走りきってくれました。
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(公園入口階段脇の「手づくり郷土賞」の記念銘板」「葛生原人マラソン大会スタート風景)

葛生の街は私にとっても、思い出の多い場所です。思い出を探りながら、街の中を散策する事が出来ました。



栃木市ウォーキング大会、今年も完歩しました。 [歩く]

今日、第4回目となる「来て、観て、歩こう、あったか栃木ウォーキング大会」が、秋晴れの下開催されました。
平成の大合併により大きくなった新生栃木市の誕生を記念して始められたこの大会には、藤岡総合体育館をスタート地点として、渡良瀬遊水地内を歩く「10kmコース」、三毳山山麓のフルーツパークや花センター方面を巡ってくる「20kmコース」、そして私が参加した栃木市を南から北に縦断する「30kmコース」が有ります。
10kmコースにはスペシャルゲストも一緒に歩きます。今年は現在モデルとして活躍していて、この2月より栃木市ふるさと大使となった、地元栃木市出身という「石川恋」さんでした。
出発地点の藤岡総合体育館前広場にて、8時から出発式が行われ、鈴木市長からの挨拶が有りました。
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(出発式にて挨拶する鈴木市長)        (今年のスペシャルゲスト、石川恋さん)
会場には、栃木市のマスコットキャラクター「とち介」の他、渡良瀬遊水地のキャラクター「ハーツ姫」と「渡良瀬ナイツ」も見送りに来ていました。
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(栃木市マスコットキャラクター「とち介」)(ハートランドのハーツ姫と渡良瀬ナイツ)
8時20分号砲と共に、スタートゲートを通りゴール地点となる道の駅「にしかた」を目指して、ウォーキング出発です。
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(スタートゲート前にて号砲を待つ参加者)
最初は渡良瀬遊水地の堤防上の道を藤岡大橋に向けて歩き、県道11号線(栃木藤岡線)を歩いて北上、途中大平町の「プラッツおおひら」にある休憩所を経由して栃木の市街地に向かいます。
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(渡良瀬遊水地の堤防上の道を歩く、天気も良く気持ち良いスタート)
歩くコースには道案内の矢印やとち介からの応援コメントが掲示されています。又、この30kmのコースはほぼ東武日光線に沿うコースの為、歩いていると途中で何度も「特急スペーシア」の姿を見る事に成ります。
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(コースを案内する表示ととち介のコメント)  (何度もすれ違った特急スペーシア号)
コース途中の大平町川連に有る県立栃木翔南高等学校の東を歩いていると、丁度校内マラソン大会も行われていて、一生懸命に走る生徒さん達と交差しました。又、昨年はまだ建設中だった「とちぎメディカルセンターしもつが」も今年の春に完成、4月30日に引っ越しをして業務を開始しています。
コースはその先で今年少し変更され、一度右折して「とりせん栃木駅南店の北側を通過して、栃木駅南通りを北上、栃木駅構内を通過して駅の北口に出る様になっていました。
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(立派に完成した「とちぎメディカルセンターしもつが」)(栃木駅南口)
ここからは前回と同じコース、女子高通りを進み「富士見橋」を渡って右折、川沿いの道を遡ります。
「新開橋」「瀬戸河原橋」「巴波川橋」「幸来橋」「倭橋」「常盤橋」「開運橋」の西側を抜け、その上流の「大川橋」を渡り、大正2年に建てられた洋風建築の「栃木病院」前を通り、国指定の「重要伝統的建造物群保存地区」嘉右衛門町通り(旧日光例幣使街道)を歩きます。
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(巴波川の右岸より、幸来橋付近)
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(嘉右衛門町通りを歩く)
20km地点の大町郵便局前で旧日光例幣使街道から離れ、分岐左手の粟野街道を北上して行きます。
ヤオハン川原田店の先の交差点を右折して、東武日光線の踏切の手前で左折線路の西側を又北上します。合戦場駅から次の家中駅まで。途中の道路脇の薬師堂を今年も無事に通過しました。
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(都賀町、東武日光線の西側を歩く)     (薬師堂が見えてくる、今年も来ました)
途中途中の交差点などで、道路横断を支援したりコースを案内、激励してくれるスタッフの方達と元気に挨拶を交わして、25km地点休憩所の都賀総合支所に到着。トイレと水分補給をして又すぐ出発。
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(25kmの休憩所、栃木市都賀総合支所、スタッフが迎えてくれる。)
あと残り5kmですが、ここからが実に厳しい区間に成ります。北関東自動車道都賀ICの前を抜け、東武日光線の跨線橋を渡り、西方城址の有る城山を左手に見ながらゴール地点の「道の駅にしかた」へ。足の痛みをこらえて、ただただゴールを目指し、半分惰性で体を前に運んでいきます。
先の交差点で大会スタッフが旗を振るのが見えます。最後の交差点を右折して道の駅へ入ります。
ゴールゲートの先で道の駅にしかたの公式マスコット「キララちゃん」が待っていました。
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(ゴールゲート、「道の駅にしかた」のマスコット「キララちゃん」が迎えています。)
今年も無事ゴール出来ました。到着時間は13時57分、万歩計の数値は「42,167歩」に成っていました。
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(4枚目の完歩証をゲットしました。)