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巴波川沿いを行燈の絵を見て歩く [歩く]

今日、太陽が沈んだ後にウォーキングに出発しました。時間的には夕方7時近かったので、巴波川沿いに設置されている行燈に灯がともった景色が見られると、カメラをぶらさげて出かけました。
栃木市役所裏手、パーキングタワーの脇から巴波川左岸沿いの遊歩道に入りました。
巴波川行燈1.jpg
(常盤橋の上流側行燈は電気配線が無く、ソーラーライトでしょう?光が柔らかく感じました。)
常盤橋の橋詰を抜け、倭橋から幸来橋へと、行燈の光りに浮かび上がる栃木市内の観光名所の切り絵を見ながら歩きました。まだ西の空に太平山のシルエットが僅かに残っています。
巴波川行燈2.jpg巴波川行燈3.jpg
(常盤橋から倭橋へ)(倭橋から幸来橋へ、中央奥の幸来橋のバックに太平山のシルエット)
幸来橋の欄干から下流側を眺めます、巴波川左岸に連なる「塚田歴史伝説館」、土蔵の白壁がライトアップされて暗闇に浮かび上がっています。川の両岸に行燈が明るい光の列を見せています。
ここで、幸来橋を渡って巴波川の右岸を歩きます。
巴波川行燈4.jpg巴波川行燈5.jpg
(幸来橋の上から下流側を。左手が塚田歴史伝説館の土蔵群)(行燈に岩舟の風景も)
幸来橋から下流側の巴波川橋に。対岸の行燈に赤く見える一つが目に入りました。カメラでズームアップして確認すると、その行燈の図柄は旧栃木駅の駅舎でした。赤く見えたものは駅前に描かれた赤い車でした。
行燈に描かれた観光名所をひとつひとつ確認したり、スポンサーとして名前が出ている会社や団体名を確認して歩きました。
巴波川行燈6.jpg巴波川行燈7.jpg
(巴波川橋の西橋詰付近より上流側を振り返る)    (目に留まった赤い車の図柄の行燈)
その後は行燈の光りを後にして、栃木駅前を回り大通りへ、途中から雨粒が落ちて来て、次第に雨足が強くなってきました。念の為持参した傘に身を任せ、ショートカットして急いで帰宅しました。
今日の総歩数は、7,528歩に成りました。

箱森町の鬼瓦見て歩き [歩く]

これまで栃木市内の、嘉右衛門町や大町そして万町の鬼瓦について見て歩きましたが、今回は栃木瓦の発祥の地ともいうべき、「箱森町」の鬼瓦を見て歩きました。
箱森町を歩いていると、今でも〇〇瓦店という看板を見かけることが出来ます。瓦屋さんが多い所ですから立派な鬼瓦も多いと思いましたが、意外と新しくなった建物では瓦葺の家も少なくなっています。
皆川街道、現在の県道75号(栃木佐野線)沿い、泉川町との境界、箱森町の西の端に有る瓦屋さんの建物の屋根の上に大きな鬼面の鬼瓦が据えて有りました。大棟の西側端に口をギュッと結んだ「吽形」の鬼、そして反対側東側にはガッと口を開けた「阿形」の鬼の顔に成っています。
幸栄瓦工業(阿形).jpg幸栄瓦工業(吽形).jpg
(阿形の鬼面)                      (吽形の鬼面)
この鬼瓦の有る建物は、幸栄瓦工業㈱さんです。道路沿いの塀の上にも瓦が載っていますが、そこに「おすまし顔の猫」の形の瓦?が置かれています。お洒落な感じがしました。
幸栄瓦工業.jpg幸栄瓦工業(猫形).jpg
(箱森町の西の端、幸栄瓦工業㈱さん)        (塀の上に猫の置物も瓦製)

鬼瓦にお目出度い七福神の内の、大国様と恵比寿様を付けたものも、栃木市内に幾つか見付けましたが、箱森町の中にも有りました、これまで気が付かなかったのですが、「とりせん」さんの近くの屋根の上を飾っています。ただ少し気に成った事が有ります。その前の屋根の端の棟と棟が合わさった場所についている丸い瓦「棟巴瓦」の端部についている文様が左右で異なっています。恵比寿様の前には「笹りんどう」の文様、大国様の前には「ミツウロコ」の文様が付いています。機会が有ったら訪ねてみたいですね。
稲葉工業(恵比寿様).jpg稲葉工業(大黒様).jpg
(東側が釣竿を持った恵比須様)        (西側が俵に乗った大国様)
同じく「とりせん」さんの近くで見る土蔵の屋根に据えられた鬼瓦、こちらは家紋が付けられているのでしょう、見難いですが「丸に揚羽蝶」の紋の様です。気に成ったのはその前の棟巴瓦に描かれた屋号紋なのでしょうか、「入り山形に漢数字の三、更にその下にカタカナのフ」、判じ絵では無いでしょうが、どのような意味が込められているのでしょうか。
もう一つ、こちらは鍋山街道沿いの瓦屋さんの屋根の上に見つけました。この形は屋根の形が切妻では無い寄棟屋根の場合に成ります。鬼瓦の中央部にはこちらも揚羽蝶の文様が見られます。
神谷瓦店1.jpg長瓦店1.jpg
(棟巴瓦の判じ絵屋号紋?の意味が気に成ります)(良く見る鯉が描かれた東鬼台)
箱森町を歩いて見ると、敷地の広い家が多く、建屋が道から奥まった所に建っている為、鬼瓦の形や図案がどのようなものか確認出来ない場合が多く残念でした。

「栃木瓦」はその昔、「カイロ灰」や「野州麻」「下駄」などと共に、栃木の地場産業を支えて来ました。栃木の市街地を貫流する巴波川、その右岸、幸来橋近くのポケットパークの中に、「栃木瓦」を紹介する展示がされています。
栃木瓦1.jpg栃木鬼瓦1.jpg
(栃木瓦を紹介展示している「幸来橋」近くのポケットパーク)   (大棟用鬼面付き鬼瓦)
菊水化粧鬼瓦.jpgビン張り菊水化粧鬼瓦.jpg
(展示されている「菊水化粧鬼瓦」)       (展示されている「ビン張り菊水化粧鬼瓦」)

市内の鬼瓦を見て歩くと、新しい発見が有ると同時に、多くの疑問も生まれて来ます。これからももっと調べて行きたいと思います。

県庁堀川流域を歩く [歩く]

先日、「元県庁堀」を見て歩きましたが、その時 堀に架けられた「清水橋」や「鶉橋」の親柱に、「県庁堀川」と言う河川名が表示されている事に気付きました。これらの橋は比較的最近新しく架け替えられたもので、残念ながら竣功年月表示が有りません。「元県庁堀」には他に「御幸橋」と「栃木橋」が架けられていますが、昭和6年12月架設された「御幸橋」の親柱のひとつには「元縣廰堀」と表示されています。「栃木橋」こちらも竣功年月表示は有りませんが「県庁堀」との表示に成っています。
県庁堀川銘板.jpg元県庁堀銘板.jpg
(鶉橋の親柱、「県庁堀川」と成っている) (御幸橋の親柱、「元縣廰堀」と成っている)

県庁堀が作られた当時の「杤木縣廰圖」(明治六癸酉九月)には、堀に繋がる川は、県庁堀と巴波川との間の舟運を目的に同時期に造られた漕渠(運河)しか描かれていません。
薗部村鶉島に県庁が建てられた後、南側と東側とに市街地が形成されますが、明治19年7月発行「栃木町」の迅速測図(2万分1)を見ても、県庁堀の西側から北側にかけての一帯は、一面に水田が広がっているのみです。
その当時の県庁堀には相当の湧水が流れ出てもいた様です。
その後、大正6年7月30日、大日本帝国陸地測量部発行の2万5千分1「栃木」の地形図には、県庁堀の北西部近くに北西方向箱森から一筋の河川が合流して居ているのが確認出来ます。
現在の県庁堀を確認すると、更に堀の西側に柳橋の日限富士浅間神社方向から一筋、そして北東側の栃高グランドの東側に沿って、北側の錦町から一筋と水路が合流しています。
戦後の復興期から高度経済成長期と時代が流れ、栃木町の周辺にも住宅が建てられるようになると、その生活雑排水の流入による河川の汚染が深刻な問題となって来ました。昭和40年の頃市内では、「川をきれいにしよう」という事が盛んに叫ばれ、巴波川に鯉は放流されたり、白鳥がお目見えしたのもこの頃です。
その後、下水道の整備が進み、次第に環境も良くなってきました。
何時だったか、県庁堀脇を歩いていた時、「県庁堀川木炭浄化施設」と言う説明板が、栃木県栃木土木事務所と栃木市の名前で建てられていました。
県庁堀川木炭浄化施設説明板.jpg
(元県庁堀脇に立てられていた「県庁堀川木炭浄化施設」の説明板)
そこには≪木炭浄化システムを日本で初めて川の中に直接設置するもので、川の水がどのくらいきれいになるかを調べる実験施設です。≫と説明されていました。改めて見直すと、そのに「県庁堀川について」の説明も記されています。
≪県庁堀川は、旧赤津川分水堰付近を源とし、現在地(旧栃木市市役所南側)を通って、入舟川と分かれて巴波川に合流する流域面積約1.26k㎡の河川で、堀の周りは約1,100mあります。≫以上の説明文に添えて「県庁堀川流域図」が記されていましたので、それを参考に流域図を作成して、その流域を実際に歩いてみました。
県庁堀川流域図.jpg
県庁堀川の流域界は、北側は「旧赤津川」、東側は「巴波川」、そして西側は「清水川」の三つの河川に囲まれ、南側は皆川街道のによって仕切られた範囲で、ここは私が生まれてから現在まで生活をして来た場所です。
まず一番北の端は、旧赤津川の分水堰で、本流から分かれ南に流れる水路です。箱森町の十二社から東に新栃木方向に行く道路に、昭和12年10月竣功の「榮橋」の親柱を確認する事が出来ます。最終的に県庁堀に繋がる水路はこの橋の少し上流側で、旧赤津川から分かれたものですが、現在は県道32号の新道が通った為、分水堰は無く、周辺の景色も全く変わってしまいました。私が1980年にこの分水堰付近を撮影した写真が有りました。
旧赤津川分水堰付近.jpg旧赤津川分水堰の現状.jpg
(1980年撮影、旧赤津川分水堰付近) (堰は現在モスバーガー栃木店の北側辺りでした)
水路は「榮橋」下流から南西方向にカーブして、明治33年から昭和5年の路線変更に成るまで、鍋山人車鉄道が通っていた「旧鍋山街道」の下を流れ、箱一自治会の公民館の脇を南流、「レユーナ特別養護老人ホーム」の西脇を南東方向に流れて、元県庁堀の北西部に合流しています。
鍋山街道と交差.jpgレユーナ西側水路.jpg
(旧鍋山街道に架かる橋の下、U字溝に変わる)    (中央奥の三角屋根がレユーナ)
旧鍋山街道のコンクリート橋の高欄の長さは、2メートル以上あり、私の子供の頃は2メートル程の小川が流れていて、ドジョウやザリガニなどを採りました。

又、柳橋町に有る「日限富士浅間神社」の北側にて、清水川の分水堰で東側に分流した水路は、柳橋町の住宅街の中を南東方向に流れ、元県庁堀の南西部付近に合流しています。
清水川分水堰.jpg浅間神社方向からの水路.jpg
(清水川の分水堰、右方向が本流)(住宅街の中を抜ける水路、この手前で県庁堀に合流)
私が子供の頃はこの清水川の分水堰で良く水遊びに興じていました。水路の土手で「ノノヒロ」を採って来て味噌を付けて食べ、空腹を満たしていました。

今回は、栃木高等学校の許可を得て、校庭内に平成7年復元された県庁堀も見学させて貰いました。堀は校舎や体育館が建つ区域とその北側のグランドとの境を東西に続いています。
北堀西方向.jpg北堀東方向.jpg
(中央部に架かる橋から西側を撮影)      (中央部に架かる橋から東側を撮影)
私の子供の頃はまだ小学校にプールが無かったので、夏休みには友達と誘い合って栃高のプールに行きました。深いプールで足が着かなかったので、少し怖い思いをしました。その頃は校庭内の堀は埋められて、プールが堀の西側の位置に有りました。
現在、復元された県庁堀の脇、昔のプールが有った辺りに成るでしょうか、当時のプールに有ったスタート台の一部が残されて有りました。
復原された県庁堀には、地下水が汲み上げられて、勢いよく堀を流れていました。
プールスタート台.jpg汲み上げ水.jpg
(昔のプールに有ったスタート台)     (復元された県庁堀水面に湧き上がる水)

県庁堀川の流域範囲は、そのまま私の生活域にも成っていた事を今回知る事が出来ました。

元県庁堀、見て歩き [歩く]

今日は朝から気持ちの良い五月晴れと成ったので、上着を一枚減らして家の近くに有る栃木県の土木遺産「元県庁堀」を見て歩く事にしました。
この「県庁堀」は明治5年(1872)11月に落成した、栃木県最初の県庁舎が有った所。その当時は巴波川の西側は栃木町では無く、薗部村の鶉島と言いました。
栃木県庁は三島通庸が栃木県令に成った明治17年(1884)9月に、宇都宮町へ移転しましたので、ここに県庁が有った期間は僅か12年間に過ぎません。県庁舎は移転しましたが現在その跡地は、県立栃木高校や栃木市立中央小学校の敷地として利用されています。
堀は長方形をしていますが、北側の一辺が栃木高等学校の中に成る為、歩いて一周する事は出来ません。今回は北東側の角から堀沿いの道を南に歩き、南東角を回って南側を西に歩く。南西角から北に向きを変え、北西の角から東に折れて、県庁堀が旧鍋山街道の下に潜り、栃木高等学校内へ消える点迄歩いてそこから同じコースを戻りました。距離的には片道約900メートルに成りました。
写真と共に「元県庁堀」を見て歩きます。
まずスタート点は堀の北東側角です。
元県庁堀北東角.jpg元県庁堀北東角から西方向.jpg
(元県庁堀北東部角、堀の内側には栃木高校)(北側の堀は栃高校内に入り側道は有りません)
堀の角に立って見ると、堀の北側には家が迫り、堀に沿った道が有りませんので、東側の堀に沿っている道路を南方向に歩きます。この道路は南から北方向への一方通行と成っていますから、前方からの車に注意しつつ堀沿いの歩道を歩きます。
元県庁堀東側の道.jpg
(元県庁堀の東側の辺と成る道路から南方向を望む、奥に元市役所別館の時計塔が見える)
100メートル程歩くと堀に橋が架かっています。「清水橋」と橋の親柱に表示が有ります。この橋を渡る道路は、栃木高等学校の南側を通る道路で、明治33年に鍋山人車鉄道の軌道が敷設された所で、ここから東の巴波川に架かる「開運橋」(その当時は「トロッコ橋」と呼ばれていました。)の間には、鍋山人車鉄道会社の旅客及び荷物取扱い所などが有った様です。(昭和5年に街の中を通っていた路線が女子高方面に変更に成っています。)
清水橋.jpg清水橋橋名.jpg
(現在の「清水橋」、橋の北西側正面奥が栃木高等学校)
更に堀に沿って南に160メートル程歩くと、二つ目の橋「御幸橋」の東橋詰に出ます。
御幸橋.jpg
(御幸橋、橋の東南橋詰より歩いて来た北方向を望む。)
この橋はその名前に有る様に、明治32年11月15日から4日間、近衛師団北関東大演習の時に明治天皇が。又、大正7年11月13日から7日間行われた陸軍特別大演習の時大正天皇が、共に行在所と成った栃木高等学校への途中、御渡りした場所に架かる橋で、現在のものは「昭和6年12月架設」と親柱のひとつに刻されています。
御幸橋1.jpg御幸橋2.jpg御幸橋3.jpg
(御幸橋の親柱には橋名・河川名・架設年月、残る一つには「みゆきはし」と刻されています。)
この御幸橋の南西部に最近まで栃木市の市役所別館として利用されていた、大正10年(1921)11月竣功の旧栃木町役場庁舎(国の登録有形文化財)が建っています。私はこの建物を結構気に入っています。
元栃木市役所別館.jpg
(大正10年11月竣功の旧栃木町役場庁舎)
尚、「元県庁堀」の内ここ御幸橋が架かる南東部分は、町役場庁舎の他にも多くの見どころが集まっている場所です。栃木市街地を貫流する「巴波川」とこの県庁堀との間を舟で行き来をする為の「漕渠(運河)」が、御幸橋の南東側で繋がっています。ここに建てられている県庁堀の説明板に、明治六癸酉九月の「杤木縣廰圖」が掲示されています。
県庁堀説明板1.jpg県庁堀説明板2.jpg
(堀の内側に県庁堀の説明板が建つ)     (県庁が作られた当時の県庁敷地の図面)
図面を見ると漕渠が県庁堀に繋がった場所の、県庁敷地内に舟で運んだ荷物の荷揚げ場が描かれていますが、その後埋め立てられてしまいました。又、図面では堀は東西南北供直線で囲まれていますが、現在は
御幸橋の南側から堀の南東側角まで、少し東側に膨らむ様にずれています。明治19年7月に発行された栃木町の迅速測図を確認すると、既に荷揚げ場は無く、その近辺で堀は少し東にずれた形で描かれています。
県庁堀漕渠分岐.jpg水草1.jpg
(堀は御幸橋の南側で少し東側に曲っている。写真左手の橋は漕渠に架かる「学橋」)
元県庁敷地の南東側の角に立つと、堀の東側方向と南側方向が見渡せます。東側の堀は御幸橋の南で東にずれている為に、脇の道路も鉤の手に折れている為、漕渠に架かる「学橋」の先で「神道栃木」に突き当たる形に成ります。
<堀の南東部角からの景色>
南東角から西方向.jpg南東角から北方向.jpg
(南東角から南側の堀を撮影)      (南東角から東側の堀を撮影。正面奥は「栃木橋」)
ここから南側の堀沿いの道を西に向かって歩いて行きます。堀にはカルガモや緋鯉真鯉がゆったりと泳ぐ姿が見えます。
カルガモ.jpg鯉.jpg
東の角から130メートル程歩いた所に木橋が架けられています。県庁が置かれた当時、南側の堀の中央付近に表門に入る橋が架けられましたが、その当時の橋を模した様です。
木橋.jpg
更にその先に架かる橋は、この県庁が置かれた土地の地名「鶉島」を採り「鶉橋」(うずらばし)と命名されています。
鶉橋.jpg鶉島1.jpg
(元県庁敷地の南西側に架かる「鶉橋」)     (「鶉橋」親柱に付いた橋名プレート)
鶉橋から40メートルほどで堀の南西部角に着きます。

<堀の南西部角からの景色>
南西角から北.jpg南西角から東.jpg
(南西角から西側の堀を撮影)      (南西角から南側の堀を撮影。正面奥は「鶉橋」)

ここから西側の堀沿いの道を北に向かって歩いて行きます。西側の堀沿いの元県庁敷地内には現在は一般の民家が建てられています。当初は「県令」や「大参事」の住まいが建てられていた所です。
堀には綺麗な水が流れ、水草を見ているとピンクの桜の花びらが、水草に留まっています。その桜の花びらが何処から流れて来たものか、その先で発生元がすぐわかりました。堀の対岸に枝を張った八重桜が満開の花びらを5月の風に任せて舞って水面に落ちていました。
水草2.jpg水草3.jpg
南北約315メートル、一直線に伸びた堀沿いの道を一気に歩き北西の角へ。

<堀の北西部角からの景色>
北西角から東.jpg北西角から南.jpg
(北西角から北側の堀を撮影)       (北西角から西側の堀を撮影)
北西角から東に35メートル程で、堀は行き止まりに。その先を横断する道路は、旧鍋山街道でした。以前は鍋山人車鉄道が走っていた所です。私は小学校6年間この道を通り、栃木第二小学校へ通っていました。道路の東側は、栃木高等学校の校内に成ります。
鍋山街道脇の堀.jpg
(道路の手前で県庁掘りは塞がれています。ブロック塀の先は栃高校内)
私の家の近くに残る土木遺産ですが、今回改めてグルッと見て回りました。見慣れた風景でも有り、何処か新鮮な感じもしました。

昭和初期の看板建築が残る石岡市へ [歩く]

そこは、まるで昭和初期の映画撮影セットの様な商店が建ち並んでいます。
石岡市1.jpg
茨城県石岡市国府・府中の旧水戸街道の町並み)
茨城県石岡市、私の住む栃木市からも東の方向に望む事の出来る、加波山から筑波山に連なる筑波山地の東麓に広がる街です。その石岡市の東側に位置する常陸府中は、奈良時代に栃木市と同じように常陸国の国府が置かれました。府中の街の北側には常陸国分寺や常陸国分尼寺も建てられました。
江戸時代に入って元禄13年(1700)には水戸徳川家の分家と成る松平頼隆が、常陸府中藩主として入封、その城下町として栄えました。
この街の中央をほぼ縦貫する形に成る街道は、かっての水戸街道でここ府中宿は千住宿から14番目の宿場町でも有りました。
石岡市4.jpg
(店頭の街灯が趣の有る蕎麦店「東京庵」)
現在、町の中央部に多く残る昭和5年から7年頃に建てられた看板建築と言うスタイルの店舗兼住宅は、昭和4年(1929)3月14日に発生した「石岡大火」により、石岡町の中心市街地の4分の1を焼失した為、その後の復興において、その当時流行していた「看板建築」が多く建てられ、まさに映画のオープンセットの様な町並みが出来上がりました。
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(最上部に屋号を掲げた「玉川屋」の味の有る看板建築)
現在では既にシャッターを下ろした店舗も見られますが、多くが今も商売を続けておられます。
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(十七屋履物店:昭和5年建築、木造2階建て看板建築) 
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(久松商店:昭和5年建築、木造2階建て看板建築)
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(福島屋砂糖店:昭和6年建築、木造2階建て商家建築)
そんな建物のいくつかは「登録有形文化財」に指定されています。
私が車を駐車したのはその町の中心地に建つ「丁子屋」脇の駐車場でした。
石岡市5.jpg石岡市10.jpg
(丁子屋店舗:江戸時代末期、木造2階建ての商家建築)
この建物も江戸時代末期に建築された建物で、元は染物屋だったと有りますが、現在は観光施設の「まち蔵藍」と成っています。先の「石岡大火」の難からも逃れて残った貴重な建物で、中は駄菓子屋風で、お土産なども販売していました。
この「丁子屋」から直ぐ南の道路際に大きな石の鳥居が建って、その参道の奥に立派な社殿が見えます。「金刀比羅神社」で、祭神は大物主神です。≪文政10年(1827)讃岐国象頭山(香川県琴平山)の金毘羅大権現の御分霊を勧進して、「こんぴら信仰」のよりどころとして多くの人々の参詣を集めている。≫と参道脇の案内板に記されていました。
石岡市2.jpg石岡市3.jpg
(国府平の森 金刀比羅神社の社殿)   (神社参道右手に建つ、正岡子規の句碑)
又、境内には正岡子規が第一高等中学校在学中の明治22年(1889)春、水戸の学友を訪ねて徒歩で旅行し、その時著した「水戸紀行」の中に、≪二日目は、小雨の中土浦「總宜園」(跡地に句碑有)で霞ヶ浦を眺め、「醤油の名所、石岡まで辿りつき萬屋に宿を定め」る。≫と石岡に1泊している事を記した案内板と、「二日路は筑波にそふて日ぞ長き」の句碑が建てられていました。

現在は市街地に入る南側にて国道6号線が分岐して、東側をバイパスする様に北東方向に伸びています。多くの車がこの分岐で右に進み、左の旧道に入ってくるのは少なくなっています。

永野川沿いを歩き、榎本城址と榎本宿を巡る [歩く]

私が所属している歩く会の4月例会が去る14日に行われました。今回は大平町の運動公園から永野川の土手上の道を歩いて下り、大平町真弓から榎本まで行き、永野川左岸の榎本城址周辺からその南側の榎本宿の寺社等を、現地榎本に住む会員の案内で巡って来ました。
永野川沿いを歩き榎本宿を巡る1.jpg
永野川沿いを歩き榎本宿を巡る2.jpg
(大平町運動公園から榎本宿までの、永野川沿いの歩行ルートとポイント)
※説明図には、永野川の現在の流れに合わせて、明治初期に作られた迅速測図に表わされた大きく左右に蛇行を繰り返す永野川の旧河道の様子も表示しました。

大平町運動公園を出発して最初に向かった所は、真弓地区の北端に有る「磯山」(真弓山とも称していた)。西側の山の斜面から登り山頂に有る天狗岩へ、標高51メートル、比高は僅か15メートル余りの小さな山ですが、しょっぱなからの坂道に、早くも息が上がります。
天狗岩の上からは北西方向に、太平山や晃石山の山並みが連なっています。手前に栃木市立大平中学校の新築された校舎が有り、左手方向に目をやると、大平町の桜の名所「さくら通り」の桜並木がまだ満開の状態を見せています。
磯山山頂天狗岩より西方を望む.jpg
(大平町真弓の磯山山頂、天狗岩からの眺望)
この磯山の北側部分は「天狗岩」など大きな岩肌を露出させていますが、南側中腹には、下野押領使藤原秀郷が信濃一の宮諏訪神社を勧進して創立したと伝える、元郷社の「諏訪神社」が祀られています。
社殿前から南に真直ぐに続く参道を歩いて、永野川右岸に向かいます。
真弓諏訪神社参道.jpg
(諏訪神社参道、両側に杉の大木が続いています。)
町田橋を渡り永野川の左岸へ。黄色の絨毯を敷いた様な菜の花が群生する永野川の土手上の道を、川の流れと共に南に歩きます。春の陽光を浴びながら歩く川沿いの道は気持ちの良いものです。
途中、榎本宿の旧街道の中央を流れていた堀割の水を供給した永野川に設けられた「榎本堰」の取水口を見学。(元々は榎本城の濠へ供給していたものか?)
榎本堰.jpg
(コンクリート製の堰が永野川を横切り、左岸の取水口を抜けた用水堀が榎本へのびる)
榎本堰から少し歩くと、永野川の東側真弓南部地区に成ります。この地域にかつての小山氏の出城「榎本城」が有りました。
ここで最初に訪れたのが、集落に一番北側うっそうとした竹林に埋もれる様に一軒の大きな家屋。既に住んでおられる方も無く、屋根の大棟や軒の瓦も一部落ちています。この家は「大平町誌」の郷土出身の人物でも大きく取り上げられている、川連虎一郎義路の実家に成ります。
「川連虎一郎義路」は真弓村関宿藩領の割本名主、川連一郎兵衛義種の子。尊王攘夷の志士たちと交わり、水戸天狗党が太平山に滞留した時、藤田小四郎と通じ、軍用金や兵糧を献じた。元治元年(1864)8月3日、佐幕派の関宿藩家老杉山対軒派に捕えられ、洲崎で斬首されました。23歳であったと云います。
そこから更に少し南に行った道路の脇に「大平町史跡 榎本城跡」と刻した石碑が建てられ、石碑の後方にその説明板が建てられています。
榎本城址.jpg
(永野川左岸土手上から榎本城跡を眺める。中央奥の林の手前に石碑が建っている)
榎本城址の碑.jpg
(「大平町史跡 榎本城跡」の石碑と説明文を見る、歩く会の参加者)
城の跡は殆どが田畑と成ってしまっていますが、石碑後方の林の中に僅かに濠や土塁の跡らしき地形を覗う事が出来ます。
榎本城堀跡.jpg観音堂旧蹟.jpg
(榎本城の濠跡らしき地形)             (木立の中に建てられた石碑と祠)
石碑後方の林の南側に回り込むと、濠の跡らしき地形が残っている。又その林の中に入って見ると中に小さな石の祠脇に、「観音堂旧蹟」と刻された石碑が建っています。石碑の建てられた時期は碑陰の日付で、「大正十一年三月」と分かりますが、実際この場所に観音堂が何時まで建っていたのか?又、現在近くに有る「真弓南部公民館」の所に建つ観音堂との関係はどうなのか、分からなかった。

此処榎本城の建てられた場所は現在の住所区分では「栃木市大平町真弓」と成っています。最近までなぜ真弓に有るのに真弓城とせずに榎本城としたのかチョッと不思議に思っていました。
又、榎本はその真弓の南隣りの集落で「榎本宿」の有った地名で有るとこれまで考えていましたが、改めて大平町の地名を調べて見ると「下都賀郡小志」の中に、「榎本」は明治7年(1874)4月に榎本村に改名していて、それ以前は東水代村と称したと有り、更に時代を遡ると延喜年間(901~922)に、西御正水代郷水代村が分かって二村となり、西水代と東水代と成ったと有ります。
一方「真弓」は、明治22年(1889)4月1日合併によって「瑞穂村大字真弓」と成りましたが、それ以前は真弓村と称しました。更に時代を遡ると、西御庄榎本郷と称したと有りました。「真弓」が「榎本」だったのです。
ここで、「西御正」とか「西御庄」と有るのは「下都賀郡小志」に記載されたものをそのまま記しましたが、「西御荘」のことと考えます。平安末期に摂関家領荘園として立荘されたと言われる「中泉荘」で、旧栃木市の中央南部、旧大平町、小山市の西の一部、旧岩舟町の東の一部、旧藤岡町の北の一部などを包含する地域。「西御荘」とも記されている。(角川地名大辞典より抜粋)事を知りました。

榎本城跡を後に、南隣りの「大平町榎本」に向かいます。
榎本宿については以前(2015年3月24日付け)、「大平町榎本宿の事」と題して書きましたので、今回は見て歩いた場所について記します。
榎本宿旧街道(東西方向).jpg
(榎本宿を横断している旧街道。宿の東側から西方向を望む。突き当りが八坂神社)
榎本宿旧街道(南北方向).jpg
(榎本宿を縦断する旧街道。南方向を望む。道路両側の堀は暗渠化されている。)
榎本宿の石仏.jpg榎本宿の常夜燈.jpg
(旧街道沿いに建つ野仏。後方の大屋根は榎本大中寺)(県道36号の南側に建つ常夜燈)
妙性院.jpg近藤出羽守綱秀の墓.jpg
(榎本宿南の端と成る寺院「妙性院」)    (妙性院境内に有る近藤出羽守綱秀の墓)
復旧した千部橋.jpg橋中央部が流失した千部橋.jpg
(復旧して通行可能と成った旧千部橋)(2015年9月の豪雨で中央部が流失した旧千部橋)
2015年9月に発生した豪雨の影響にて流出して通行不能となった、永野川に架かる「旧千部橋」は現在復旧されて通行が可能になっていました。
この橋の直ぐ上流側に県道36号(岩舟小山線・旧国道50号線)には昭和37年(1962)1月竣功の「千部橋」が有る為、通行には大きな影響は有りませんでした。元々この「旧千部橋」は昭和9年(1934)3月に架橋された老朽化が指摘されていました。同じく榎本地区北側に架橋されている「両明橋」も同じ昭和9年竣功でしたが、両明橋は豪雨が発生した1か月前にたまたま修繕が行われていた為、難を逃れています。
修繕後両明橋.jpg両明橋57年1月.jpg
(2015年8月修繕された両明橋)     (旧千部橋と同じ昭和9年竣功、修繕前の姿)

千部橋を見学した後は、永野川を遡り再度榎本宿内に戻り、宿の西に建つ大中寺と八坂神社へ。大中寺では本堂の裏手の墓地の一番奥に建つ「本多大隅守忠純の墓」を確認しました。
本多大隅守忠純の墓.jpg
(本多大隅守忠純の墓)
手前に建てられた説明板によると、≪忠純は徳川家康の懐刀といわれた宇都宮城主本多上野介正純の実弟であり、榎本城二万八千石の城主である。≫と記されていました。
榎本村の旧村社八坂神社は榎本宿を横断する旧街道が宿の西の端で直角に折れ、南に向かうところの西の突き当りに鎮座しています。本殿部分は覆屋で保護されています。中を覗くと本殿左右の側面そして背面の胴羽目に立派な彫刻が施されています。
榎本八坂神社.jpg八坂神社本殿彫刻.jpg
(八坂神社正面鳥居越しに拝殿を拝する)    (本殿側面の胴羽目彫刻)

永野川に架かる「両明橋」を渡り橋詰の天台宗寺院「東明寺」を見た後、永野川右岸の土手上の道を遡ると、東明寺の裏手に永野川の旧河道の名残りが確認出来ます。河川改修で以前東側の榎本だった所が川の西側に1軒残されてしまったそうです。
永野川右岸に残る旧河道.jpg西野田本郷の尊武神社.jpg
(永野川右岸に出来た旧河道の跡)        (大平町西野田本郷に有る「尊武神社)
最後に訪れたのは、西野田本郷の集落の外れにポツンと建つ小さな神社で、社殿の前に赤く塗られた鳥居がひとつ建てられていました。鳥居にも社殿にも神額等は掲げられていない為、説明を受けないとどのような神社なのか分かりません。
説明に依ると、初代榎本城主「美濃守高綱が自刃の地近くに有り、「タカツナサマ」と呼ばれているそうです。この場所は丁度永野川の対岸(東側)に榎本城が有ります。この榎本城主美濃守高綱が自刃に至った経緯については、「大平町誌」の中世・榎本城を説明した中で、「下都賀郡誌」の掲載文と、この西野田本郷の「タカツナサマ」(尊武神社)の写真を載せています。

私はこれまで歩いたり自転車に乗ったりして、榎本周辺を何度か巡っていますが、今回案内された地元の人でなければ気が付かない場所を確認する事が出来、満足した「歩く会」に成りました。
榎本堰を横目に帰路に就く.jpg
(永野川の榎本堰を横目に、右岸の土手上の道を歩いて帰路に)

お花見ウォーク [歩く]

今日は天気予報通り、午前中は小雨が残っていましたが、お昼を過ぎる頃には明るくなって青空が姿を現してきました。気温もお昼の時点で19.9℃と成り、最高温度は23℃を越える暖かさと成りました。
昨日、「小平橋の桜」の満開を確認していたので、さっそく永野川緑地公園へ行って見る事に。午後2時過ぎに家を出発。セーターも薄手のジャンパーも抜いて、ポロシャツのまま出かけました。
初めに錦着山の桜を見る為、山に登りました。標高80.5メートルというものの、最近はチョッと抵抗が有ります。
満開の桜の花越しに栃木の街を見ると、いつも見ている景色がより鮮やかに感じます。
錦着山の桜.jpg
(錦着山より太平山を望む。テレビでは太平山の桜は、七分咲きと言っていました)
花見ウォークはまだ先が有ります。早々に錦着山を下り、永野川に架かる「上人橋」を渡り、永野川緑地公園へ向かいます。
「上人橋」の上から見る永野川上流を望むと、右岸に広がる緑地公園の桜並木が、太陽の光を受けて薄いピンク色に輝いて見えました。
永野川緑地公園は私が3年間通学して「栃木県立栃木工業高校」を東側から北側を囲むように広がっています。今日も多くの花見客が満開の桜の花を楽しんでいました。
永野川緑地公園の桜.jpg
(永野川緑地公園の桜)
桜並木は現在永野川の両岸に有りますが、今回は永野川右岸の堤を「上人橋」から上流側の「大岩橋」に向かって歩きました。その間桜の並木は約800メートル有りますが、どれも花の付きも良くボリュウムたっぷりでした。
永野川緑地公園.jpg
(永野川緑地公園の桜)
緑地公園の桜を満喫した後、更に永野川上流に向かいます。
向かう先は「宮の桜堤」です。ここまで歩いて来ると陽射しが暑く感じて来て、木陰が恋しくなりますが、この時期なかなか木陰は有りません。皆川街道(県道75号、栃木佐野線)を渡り、東北自動車道の下を潜った先で側道を左に入り、永野川左岸の堤に向かいます。
永野川に架かる東北自動車道の橋梁の直ぐ北から、永野川左岸を北にのびる堤にビッシリと年季の入った桜の樹が、満開の花を付けて遥か先まで続いています。
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(皆川城内町の桜並木から宮の桜並木方向を望む)
この桜並木は、約1400メートル程続いています。しかし実際の「宮の桜」は北側の半分ほどで、南側の半分は「皆川城内町」の桜並木に成ります。
この桜並木には、ここの所毎年花見に来ていますが、なかなか満開のタイミングで見られるのは難しく、これまでも二三度しか有りません。今日は青空も出て暖かくてしかも満開、最高で大満足です。
帰り道も桜並木の有る新井町に寄って行きます。ここは東北自動車道の栃木インターの南側に当たり、桜の並木は約600メートル有ります。まだ樹は若いですが、ここも満開で私を迎えてくれました。
新井町の桜.jpg
(新井町の桜並木)
満開の桜に誘われて、足の疲れも忘れ歩きました。程よい汗もかく事が出来ました。今日の総歩数は17、627歩でした。

今日の一枚 [歩く]

今朝、雨戸を開けると外は雪混じりの冷たい雨が降っていました。
3月も下旬のこの時期、寒の戻りが続いています。
午後に成って雨も止み、西の空が少し明るくなって、雲を透して白く光る太陽が確認されます。
5時近くなってウォーキングに出掛けました。途中「小平橋の桜」そして「第二公園の桜」の開花状況を確認しましたが、この寒さにピンクに色付き開きかけた蕾もちじこまっていました。
銀座通りを抜けて、大通りに出る頃には、西の空の雲が切れ、夕日に赤く染まっています。
昨年から解体工事が進んでいた、倭町交差点南西側角の「イシハラ」のビルが今、解体が一段落して、周囲を覆っていた保護塀も撤去されています。
交差点の北東側、足利銀行栃木支店側から見ると、そこから今まで見る事が出来なかった太平山が、夕日の中に黒いシルエットを見せていました。
又すぐこの地には新しい建物が建設されますから、この光景も直ぐ見られなくなります。
倭町交差点から太平山を望む.jpg
(右側が西日を写す西銀座通り、左奥に太平山のシルエットが広がっています)

ここからの太平山は似合いません。早く新しい建物の有る景色に成って欲しいと思いました。
今日の歩数は7,292歩でした。

今日の一枚 [歩く]

今日も暖かな陽射しが溢れた一日でした。何時もの通り夕方からウォーキングに出掛けました。家を出る頃はすでに太陽が赤く色付き、西の空を赤く染め始めていました。
旧県庁堀の東側の堀に沿った道を歩いている時、栃木高等学校の校舎北側の堀の先に、西の山に沈もうとする太陽が見えました。
私は瞬時に「県庁堀の先に沈む太陽が、堀の川面を赤く染める景色を撮影出来る。」と考え、急いで旧市役所の南側の堀へ向かいました。その時すでに太陽の下半分が、西の山に隠れています。いつも出かける時に上着のポケットに入れているコンパクトカメラ取り出して、急いでアングルを決めシャッターを押しました。
一枚、二枚。自動露光の為、目に見える様な赤味が出ません。カメラを明るい上空に向け絞を締めさせ、そのままの露光でシャッターを切る。何とか太陽を県庁堀の中に写し込む。
この構図の写真は太陽が真西に沈む彼岸の頃しか撮れません。計画はしていませんでした。偶然にとれた今日の一枚に成りました。
県庁堀の夕陽.jpg
(旧栃木県庁堀に写った夕陽、正面奥に見える橋が「鶉橋」)
本日の総歩数は9,029歩でした。

歴史の町、壬生を歩く [歩く]

昨日、「歴史と文化を歩く会-栃木」のメンバーと、「歴史の町、壬生を歩く」として、壬生町で最近結成されたと言う観光ボランティアガイドの方々の案内で、約2時間の街中歴史めぐりを行いました。
「壬生町城址公園」現地集合という事で、途中コンビニで今日の昼食用おにぎり2個を買って、車を走らせた。すでに殆んどの参加者が到着し、壬生町の観光ボランティアの方々も集まっていました。
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(壬生城址公園正面入口、堀に架かる橋)(公園内に有る壬生町立図書館・歴史民俗資料館)
最初に城址公園内に有る、「壬生町立歴史民俗資料館」において丁度開催されている、「鳥居元忠-山城伏見ノ別レ-」展を観覧、予備知識を得てから、ガイドさんの案内で出発しました。

最初は、城址公園の北西部に祀られている、「精忠神社」に向かいました。
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(精忠神社本殿)                  (精忠神社拝殿正面に掲げられた扁額)
この「精忠神社」は、祭神として「鳥居彦右衛門元忠公」をお祀りしています。
「鳥居元忠公」は、徳川家康の竹馬の友として幼少時代から親交が深く、また忠義を誓った武将でした。≪慶長5年(1600)徳川家康の命を受け、伏見城の主将として、西軍の城攻めを死守し自刃しました。関ヶ原の戦いの前哨戦でした。その後、徳川の世となると元忠公の戦功を徳川家は嘉し、長男忠政を磐城で10万石、のち山形で24万石を遇された≫と、社殿前の説明板に記されています。
社殿の裏手に回ると、丁度本殿の後に当たる場所に、玉垣に囲まれた石碑が建っています。
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手前に建てられた説明板に、「畳塚」について記されています。
先に記したように、鳥居元忠公は伏見城の攻防戦の末、城内にて自刃をしています。この元忠の忠義を賞賛した家康は、自刃のさいの血に染まった畳を江戸城の伏見櫓の階上に置き、登城する諸大名に彼の忠義を偲ばせたと言われています。その後、明治に至り江戸城が明け渡されたため、ゆかりの深い現在の地に納められ、「畳塚」と称えその上に記念碑が建立されました。

精忠神社を後にして、北に進み国道352号を渡った所に有る「紫雲山壬生寺」に向かいました。
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(紫雲山壬生寺の山門前)           (壬生寺境内の慈覚大師御産湯井)
壬生寺は、慈覚大師円仁の御生誕地として言われ、境内には慈覚大師産湯の井戸が有ります。慈覚大師円仁の誕生の地と言うと、我が栃木市の岩舟町三毳山東麓下津原の盥坪にも、誕生の地が有ります。
又、壬生寺は毎年3月、盛大に節分祭が行われる事でも有名になっています。

次は壬生城主の菩提所、壬生の古刹「向陽山常楽寺」へ。
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(向陽山常楽寺)         (常楽寺本堂前でボランティアガイドさんの説明を聞く)
ここ常楽寺は、室町中期の寛正3年(1462)、壬生初代城主「壬生筑後守胤業公」が、寺領26石を寄進して創建した曹洞宗の寺院。壬生氏が絶えて後も壬生城主と成った「鳥居忠英公」の帰依を受けて、鳥居家の菩提寺として篤く護持されてきました。
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(壬生家歴代の墓前で説明を受ける)     (鳥居家累代の墓) (蘭学医齊藤昌太郎の墓)
長い歴史のある寺院に相応しく、「鳥居忠英公」の肖像画や文書類の歴史資料や、壬生家歴代の墓地や鳥居家墓地、壬生藩の蘭学医「齊藤玄昌」一門の墓地等の史跡など説明を頂きました。

次は壬生の市街地中央を縦貫する、「日光道中壬生通」を横断して、市街地の東側を流れる黒川の右岸へ移動します。
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(黒川右岸にて説明を聞く、後方の橋は「東雲橋」) (この黒川両岸は東雲公園は桜の名所)
黒川のほとりで「東雲公園」の説明をボランティアガイドさんから聞きます。まだ桜が咲くまでは間が有りますが、私も毎年「東雲の桜」を見に来ています。写真は2015年4月1日に撮影したものです。私の勤め先は宇都宮市に有った関係で、壬生町は通勤時に毎日通っていました。バイパス道路が開通する前は現在の「東雲橋」の少し下流に有った「旧東雲橋」の上で、車中より黒川堤に連なる桜の並木を堪能しました。
この黒川堤の桜並木は、東雲橋の更に上流、バイパス道路に架かる「神代橋」の橋詰まで連なっています。

桜堤を下流に向かって歩くと、右手に壬生町の総氏神、総鎮守と称えられる「雄琴神社」の森が迫っています。東雲さくら橋の橋詰から堤から離れ神社の中に入ります。
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(雄琴神社の二の鳥居前で説明を聞く)     (銅製の「二の鳥居」根巻の唐獅子)
≪雄琴神社は寛治5年(1091)天照大神、天武天皇、舎人親王を祭神に鎮守府将軍清原武則の子孫保定によって創建されたと伝え、藤森神社と称していました。文明元年(1469)壬生に初めて城を築いた壬生彦五郎胤業がその祖である小槻今雄公を合祀し、社殿を建て替え社号を雄琴神社と改めました。また、現在の社殿は天和5年(1685)から三ヶ年をかけて時の城主三浦壱岐守が造営寄進したもの≫と、雄琴神社の由来を記した案内板が建てられていました。

再び市街地の中央を縦貫する道路に戻ります。この道は小山市の北で日光街道から分かれ、日光街道の西側を北上して、壬生の町を抜けて鹿沼市の南、楡木にて金崎宿から北上してきた、日光例幣使街道を合わせて、日光に向かう「日光道中壬生通」に成ります。
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(壬生町中心道路、現在「蘭学通り」と命名されている)(道路沿いに建つ蘭学通りの説明板)
実学を奨励した壬生藩主、鳥居忠挙がこの地に蘭学を導入し、多くの蘭学者を輩出しました。
日光社参の帰路、日光道中壬生通を利用する将軍家も有り。その際壬生に宿泊をした為、壬生藩としては万一の事態を想定して、優秀な医師を江戸から呼び寄せたのではないかとの事です。
≪明治初年の地図を見ると、石崎鼎吾、五十嵐順知、齊藤元昌、渡辺元良、勾坂玄皐(以上蘭方医)、神戸察(漢方医)の6人の名前が確認出来る通り、街道沿いに多くの蘭方医が開業し活躍した事が覗えます。≫との説明が有りました。

ここから出発地の壬生城址公園へ戻りました。穏やかな天候に恵まれ、興味深い「歴史の町・壬生を歩く」の企画を終了しました。多くの資料や写真を準備頂き説明して下さった観光ボランティアガイドの皆さんに感謝です。楽しい時間を過ごす事が出来ました。