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栃木市の南関門道路のこと [栃木市の橋梁]

栃木駅前から北に進み、現在のデニーズの有る交差点に至る道路は、通称「南関門道路」と呼ばれ、昭和3年に開通した道路です。
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(2015年撮影、手前の橋が「関門橋」、中央奥にNTTビルと通信アンテナ塔)
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(1964年撮影、「関門橋」より北側、消防署の火の見櫓)(1980年頃撮影、消防署移転後)
この南関門道路が出来るまでは、市街地の中央を縦断する大通りから直接、南の栃木駅を結ぶルートは有りませんでした。明治21年(1888)5月22日両毛線の小山・足利間が開通し、栃木駅が出来る以前、江戸時代を通して南側から栃木の市街地に入るルートは、栃木の市街地を西側から南側を囲むように流れる、巴波川に架かる「開明橋」を渡る、日光例幣使街道しか有りませんでした。
栃木駅が出来てから、駅前から伸びる道路は、大正4年(1915)測量・大正6年(1917)7月20日発行の、2万5千分1の地形図「栃木」を見ても、①東方向へ両毛線の線路の北側に沿って進み、例幣使街道の「開明橋」から南に伸びる、「古河街道」に突き当たり、左に折れて先ほどの例幣使街道に合わさって、「開明橋」から市街地に入るルート。②駅前から真直ぐ北に進み、例幣使街道を横切って巴波川に架かる「相生橋」を渡る、現在の「ミツワ通り」。そして③として、その西側から北北西方向に進み、これも例幣使街道を越えて、錦着山方向に向かう現在の「女子高通り」の3本しか有りませんでした。

この「南関門道路」が初めて栃木の地形図に現れたのは、昭和7年(1932)12月28日発行の地形図に成ります。この地形図は昭和4年に修正測量の結果が反映されていますから、昭和4年以前に開通していた事が分かります。それでも私はこれまでハッキリした事が分かっていませんでしたが、昨年暮れの栃木市主催の文化講座「大正から昭和にかけての栃木」の講話の中で「昭和3年に開通した」と教えて頂きました。
私の手元に栃木市観光協会が昭和26年9月1日に発行した「栃木市鳥瞰図」が有ります。この図には更に多くの道路が新たに加わっていますが、「南関門道路」周辺を抜粋して説明します。
南関門道路鳥瞰図.jpg
(栃木市鳥瞰図より栃木駅前、南関門道路付近を抜粋しています)
赤マジックインキにてハンチング表示した道路が「南関門道路」、道路上を赤マジックインキにて破線表示したルートが「例幣使街道」に成ります。
例幣使街道が栃木宿に入る前に、西から東に一度迂回するようにして、栃木宿に入って来ていますが、なぜこのようなルートを採ったのか、私にとっては一つの謎です。
それではなぜこの時期に南関門道路は造られたのでしょうか。当時の様子を少し振り返って見ますと、少し遅れる事昭和9年(1934)に太平山遊覧道路が開通しています。又、昭和11年(1936)には万町交番前交差点から北側の「北関門道路」も開通しております。御存じの通りこれらの道路は、昭和4年(1929)より顕著になった世界大恐慌の影響で日本経済は株の暴落や多くの会社倒産により、街の中は失業者で溢れていた時期で、その失業対策の一環として行われたものと言われます。
しかし、南関門道路はその計画の時期はそれよりも少し早く進められています。そこには関連する事では、昭和4年(1929)4月1日に、東武鉄道日光線(杉戸-新鹿沼間)が開通をしています。そして、それに先立って栃木駅の駅舎が昭和3年(1928)に建て替えられています。又、昭和2年(1927)には関東自動車㈱が栃木町に創設されています。(※昭和5年に本社を宇都宮に移転)という事で、栃木駅が交通の中心として大きく変わって行った時期だった事で、栃木駅と栃木市街地とを直結する道路が望まれた時だったのではと考えられます。
新しく開通した「南関門道路」について、日向野徳久先生監修の「ふるさとの思い出写真集・栃木」の中で、昭和12年4月1日の栃木市制施行当日に撮影された「南関門道路」の写真説明に、≪この頃の南関門道路はもてあますほどの広さに感じられていた≫と述べています。
又、栃木市発行の「目で見る栃木市史」のページをめくると、「霧の朝」と題し、≪南関門橋上より栃木駅方面を望む≫と説明が付けられた昭和7年頃撮影された、背景が霧で霞む「関門橋」の親柱の写真が掲載されていました。
関門橋の高欄は最近新しくなりましたが、親柱は以前のまま綺麗に化粧直しされ、橋の銘板も新しく取り付けられました。親柱の上に取り付けられた街灯も最初のデザインの方が重みが有ったと思われます。
関門橋旧親柱.jpg関門橋新親柱.jpg
(1980年撮影、旧関門橋高欄と親柱)   (1999年撮影、新関門橋高欄と親柱)
「南関門道路」の「関門橋」の南側に、巴波川から分水した「沼和田用水」に架かる「片柳橋」の高欄や親柱も新しくなりました。同時に橋の銘板も入り、橋名も分かる様になりました。
片柳橋旧親柱.jpg片柳橋新親柱.jpg
(1980年撮影、旧片柳橋の親柱)     (2013年撮影、新片柳橋の親柱)
昭和34年(1959)11月に、駅前南関門道路の商工会館前に、栃木市のネオンアーチが設置されました。そのアーチも商工会館も今はもう過去のものと、なってしまいました。
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(1964年撮影、南関門道路に設置された栃木市のネオンアーチ、手前は旧商工会館)
2013年元栃木商工会議所前付近.jpg
(2013年撮影、元商工会館が有った丁字路は東側に道路が抜けました)
南関門道路から見た風景も時代と共に移り変わり、街の姿も大きく変わってきました。
1980年関門橋から南方向.jpg1980年関門橋から北方向.jpg
(1980年撮影、関門橋から南側を写す)    (1980年撮影、関門橋から北側を写す)
現在、栃木駅前から南関門道路周辺は多くの予備校・進学塾に変わり、夜に成るとそれらのビルから漏れる照明の明かりと看板の照明だけが目立っています。
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(2015年8月撮影、夜の南関門道路)

国府村と大宮村との境界付近に有った「いちどん橋」 [栃木市の橋梁]

相当以前の事ですが、栃木市国府町の歴史の本を読んでいた時に、「一度橋(いちどんはし)」と呼ばれた橋が有ったと言う記事を目にしました。それ以来ずっとその橋が何処に有るのか、有ったのか気に成って、機会有る事に探していました。
半ばあきらめていましたが、先日自転車で大宮町から国府町を通って、下野市方面に出かけた時、偶然に途中の道端に「一度橋跡」と記した、案内板が目に留まりました。
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(枯れた夏草に覆われた「一度橋(いちどんはし)」の説明板)
案内板の建てられた場所は、大宮町と国府町との境界を成す道路の脇で、そこには橋長2m程、橋幅4m程のコンクリート製の、橋と気付かぬ程の小さな橋が現在も架かっています。橋から西北西に350m程戻った所に、国府町の日枝神社の参道入口が有ります。
この「一度橋」の架かる場所は、現在も大宮町と国府町との境界線上に成っていますが、大正6年発行の地形図にても同様に境界線と成っています。
周辺には耕地整理により直線的なあぜ道が交差しておりますが、橋の架かるこの道だけは昔のままの曲線状の姿が残っています。しかし、橋の下を流れる堀の姿は大きく変わり、コンクリート製の水路が直線直角の流れと成っていました。
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(一度橋の北側には圃場整備事業に伴う調整池が、奥に「四季の森」住宅団地を望む)
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(調整池の東側から南側を囲むように流れる「延長用水堀」、左奥に太平山を望む)

一度橋を渡り東に少し行った道路脇に又同じような説明板と小さな石の祠が祀られています。道端の小さな石の祠は「見返り浅間」と言う様です。先ほどの「一度橋」とも関連する一つの伝承が、ここ国府町に残っているのでした。
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(木花咲耶姫のロマンと悲話とが残る地に祀られた「見返り浅間」)

※「二度と渡れぬ、一どん橋」の悲話が載っている、島田順三郎著「坂東下野国 坂東鎮護の地 室の八島ものがたり」は、栃木市図書館にて閲覧しました。

新しい大光寺橋が今日開通しました。 [栃木市の橋梁]

今日、栃木市の東の縁を北から南に流れる「思川」に新しい橋が完成して、盛大に開通式が執り行われました。
栃木市日ノ出町から東に進み、下野市を通って、真岡市久下田に至る、栃木県道44号線(主要地方道)が、栃木市大光寺町内にて思川を渡る「大光寺橋」になります。
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(右側に新しい大光寺橋、左側がこれまでの大光寺橋)
今までの旧大光寺橋は、昭和36年の架橋から55年の月日が経ち、老朽化が著しくなっていました。又、通行量の増加に伴い、平成3年に自転車や歩行での通行の安全をはかるため為、北側に「大光寺側道橋」も併設して対応して来ました。その為以前から新しい橋の完成に大きな希望が寄せられていました。
大光寺橋(1981年)1.jpg旧大光寺橋(2015年4月).jpg
(昭和56年撮影の大光寺橋)        (平成27年4月撮影、建設中の新橋を望む)
今日、開通式を迎えた新しい「大光寺橋」は、従来の橋の60メートル南側(下流側)に建設され、橋の長さ339メートル、橋の全幅13.3メートル(有効幅員12.5メートル。7.5メートルの車道の両側に2.5メートル幅の歩道を完備)、橋の左岸(東側)で大きく北にカーブし、下野市に入った蓮華寺の前方で旧道につながっています。
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(渡り初め式を待つ、新大光寺橋)
開通式が始まる前、少しみぞれらしきものが落ち、冷たい風が吹いていましたが、そんな中でも着々と準備が進められていました。新しい橋の西橋詰に開通式典用の多くのテントが張られ、式典を盛り上げる為、地元の円光寺お囃子保存会、栃木市立国府南小学校和太鼓部、栃木市立東陽中学校ブラスバンド部の皆さんが待機をしています。栃木県建設業協会下都賀支部によるポップコーンやとん汁、わたあめのブースも設けられていました。
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(式典が開始するのを待つ人達)
そして、「とち丸くん」や「とち介」もお祝いに駆けつけていました。
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(栃木のTのポーズで写真に写るとち介)(とち介が示す橋名プレートの文字は平池県議の書)
式典が始まる頃には、雲が切れ青空が顔を出して来ました。そして、それに伴って多くの一般の参列者も集まって来ました。
開通式式典が始まり、栃木県知事をはじめ県議会副議長、地元栃木選出の県会議員、栃木土木事務所長、栃木市長他関係者の方々から挨拶が有りました。引き続き橋の袂に移動して、新しい大光寺橋の交通の安全を祈る式や、関係者代表によるテープカット、くす玉開披が粛々と進められました。
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(交通安全祈願の文字を清める)     (テープカットに臨む県知事他代表者の皆さん)
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(地元の幼稚園の園児たちも加わって、くす玉を開披)
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(一般の参加者も新しい橋の渡り初め)  (先導するパトカーに続いて新橋を渡る関係車両)
大勢の関係者の人達と一般の参列者で祝賀ムードに包まれた一日。新しい橋の上から役目を終えた旧大光寺橋を眺め、「長い間お疲れ様でした」と声を掛けました。
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(役目を終えようとしている、これまでの大光寺橋)

栃木市内の寺社に見る橋、ここにも有りました。 [栃木市の橋梁]

栃木市内には特別に紹介をするような有名な橋は有りません。
唯一、県の土木遺産となっている錦着山南東麓に有る石造りアーチ橋「八雲橋」については、前に私のブログでも紹介をしました。
今回は市内の社寺の境内・参道等に架けられた、神聖な場所と俗界との境界の印としての橋を紹介したいと思います。今まで何気なく渡っていた所も有るかも知れません。
最初は、これは皆さんご存知でしょう、太平山神社の神橋です。この橋は渡ることは出来ません。
太平山神社神橋(1981年)0.jpg太平山神社神橋(1981年)1.jpg
(1981年に撮影しました。新しく架け替えられた時です。)
次は惣社町大神神社の境内、室の八島に架けられた「八嶋橋」です。杉木立の中、緑に包まれた朱塗りの橋が趣を増しています。
八嶋橋0.jpg八嶋橋1.jpg
岩舟町小野寺、村檜神社参道に架かる石橋。風化した石が歴史を感じさせます。
村檜神社0.jpg村檜神社1.jpg
以上の神社は、市内では誰も名前は知っている歴史の有る所ですが、次は近場に有っても以外と気付いていない神社です。
入舟町県庁掘りの直ぐ傍、井上神社参道に架かっている「神代橋」です。
井上神社0.jpg井上神社1.jpg
箱森町鷲宮神社参道入口に架かる橋です。親柱に「昭和三年」と刻まれています。
箱森鷲宮神社0.jpg箱森鷲宮神社1.jpg
同じく都賀町家中の鷲宮神社です。毎年11月23日の例大祭(酉の市)にはお囃子や御神楽などが賑やかに行われます。
参道には赤く塗られた「御禊橋」が有ります。「昭和34年11月竣工」、「皇太子御成婚記念」と親柱に刻まれています。この年の4月に現在の天皇皇后両陛下がご結婚なされました。それを記念して造られました。
家中鷲宮神社0.jpg家中鷲宮神社1.jpg
皆川城内町の東宮神社参道に有る「御神橋」の高欄には「紀元二千五百七十二年 氏子中」とも刻まれています。西暦では1912年になります。
皆川東宮神社0.jpg皆川東宮神社1.jpg
東宮神社には子供の頃、流鏑馬や草競馬を見に、親に連れられて来ました。その時の大勢の人の活気が今も思い出します。
次は寺院の境内に架けられた橋を紹介します。最初は旭町定願寺の弁天堂前に架かる橋です。
定願寺0.jpg定願寺1.jpg
大平町富田の玉正寺境内に架けられた「極楽橋」です。寺院ならではの命名です。平成10年8月吉日と記されております。
玉正寺0.jpg玉正寺1.jpg
最後も大平町です榎本の大中寺の参道に架かっている。「吉祥橋」と刻まれております。昭和41年6月と読めます。又別の親柱には「先祖報恩」などとも刻まれています。
大中寺1.jpg大中寺0.jpg
それぞれの橋には氏子の方や檀家の方の色々な思いが込められ奉納されたものに違いありません。

巴波川に架かる雷電橋 [栃木市の橋梁]

私が住む栃木市に巴波川(うずまがわ)と言う名の小河川が北から南に流れています。
この川に「雷電橋」と名付けられた橋が二つ有ります。
その一つは、栃木市の大町と箱森町の間に架けられた橋です。この「雷電橋」へのルートは嘉右衛門町の街中を通る旧日光例幣使街道がY字路に分岐する所が有ります。その分岐点に「庚申塔」と刻まれた大きな石が祀られており、「右日光」・「左三日月」と有ります。
嘉右衛門町庚申塔0.jpg
ここを左の三日月道に進みます。途中大きな道路に出ますが、その通りを渡ってその先の細い道を進みますと、正面に川上稲荷神社が見えてきますので、そこを又左に行き墓地の中を抜けます。
川上稲荷神社0.jpg墓地の中の通路.jpg
道の左手にずっと公園が細長く続くが、古い栃木の地図を見ると川の印に成っています。ここは旧巴波川の河川跡に作られた公園です。
旧巴波川跡公園.jpg旧巴波川跡公園1.jpg
道はその先でT字路にぶつかります。左折すると橋が架かっています。この橋が現在の「雷電橋」の場所となります。現在の橋は昭和41年(1966)の竣工になります。
栃木雷電橋0.jpg1980年頃栃木雷電橋.jpg
大正6年の頃は巴波川は現在公園に整備されている方向に流れていましたが、現在は昭和40年発行の栃木の地図では、雷電橋の所から真直ぐに荒川との合流点に向かう流れに変わっています。
巴波川荒川合流点.jpg
(下流の合流点、左から荒川、右から巴波川、手前の水門が旧巴波川の合流点)
雷電橋を渡った三日月道は北北西に進んで行きます。片側二車線の広い通り(栃木バイパス道)が有りますので近くの信号の有る横断歩道を渡って、又通りの先の細い道を少し進むと、杉木立の有る神社の脇に出ますが、この神社が橋の名前となった箱森の「雷電神社」です。昭和40年の地図には鳥居の記号が記されています。
箱森雷電神社0.jpg箱森雷電神社1.jpg
(箱森町の雷電神社)
三日月道はこの神社から更に北方向700m程先に有る三日月神社に向かっています。
三日月神社0.jpg
(川原田町の三日月神社)

分からない事ばかりの八雲橋 [栃木市の橋梁]

栃木市箱森町の錦着山の東を風野堀と言う用水掘りが有ります。
栃木環状線の錦着山入口交差点を錦着山に向かう方向に曲がると、正面に錦着山東側登り口に有る石の鳥居が見える。その手前右手に糸きり団子やいも串で有名な「うえき屋」さんが有り、その手前に小さな橋が架かっています。「錦橋」と言いますが、その下を流れているのが「風野堀」になります。
錦橋0.jpg錦橋2.jpg錦橋1.jpg
「風野堀」の源流は昭和の初期までは新井町に有る天満宮脇の湧水池でした。途中で風野と言う集落を抜けて流れるのでこの名が付けられたものと考えます。
今回の話題は、この風野堀に架かる石橋(アーチ橋)です。所在は先ほどの「錦橋」の50m程下流に架かっています。現在この橋の東側は「かっぱ寿司栃木店」の駐車場になっていますが、この橋は通行できません。
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この橋は栃木県の土木遺産に登録をされています。大正五年に架けられたもので、橋の長さ5.0m、橋の幅員は2.9mと小さな橋ですが、大谷石造りのアーチ橋です。アーチ部中央の要石に橋梁名の「八雲橋」の他施工年と施工者名が記されています。施工者は地元の石工大塚藤吉氏となっています。
八雲橋1.jpg八雲橋2.jpg
なぜこんな所に、何の目的で架けられたのか、以前この橋の東側に一軒の住宅が有りましたが、その家の出入りの為に架けられたものではないかと考えています。
八雲橋(1988年11月).jpg
(私が1988年11月に撮影した八雲橋の写真には見難いですが右手に住宅が見えます)

グーグル地図を元にして、錦着山周辺の道路網をスケッチして、その上に国土地理院大正6年発行2万5千分1「栃木」の地形図に描かれている道路を朱書きした概略図を作成してみました。
錦着山周辺道路変遷図.jpg
概略図の中央左上から右下に斜めに走る道路が、現在の県道75号線(栃木佐野線)です。(明治19年の地図には「至葛生町道」と有ります。)その道路から、左中央に有る「錦着山」に向かう道路が錦着山の東麓に突き当たる所に橋が有ります。北から真直ぐ南流している下を流れる川が「風野堀」で、架かっている橋が「錦橋」です。(明治19年の地図にはすでにこの場所に橋の記号が記されています。)
道路は錦着山を南に回り込んで西側の永野川方面に進みます。
尚、錦着山の西方向から南側を流れ、錦着山の南で風野堀を合わせて南流する川が東郷堀ですが、この頃は現在の流路と大きく異なっています。
大正6年の地図を見ると、主要な道路は変わっていませんが、東郷堀が整備されて、真直ぐに南流する様に変わっています。この流路は現在も同じです。
この東郷堀に風野堀が合わさる東岸に住宅が有ります(概略図にピンク色にて図示しました)が、この住宅が初代栃木県令「鍋島幹」氏の住まわれた家です。(現在は、先にも書いたように「かっぱ寿司栃木店」の駐車場に成っている所です。)
問題の「八雲橋」の位置ですが、この鍋島幹の住居敷地の北西角辺りになりますので、概略図でも明らかなようにこの宅地へ通ずる道はこの風野掘りを渡って行くのが妥当と考えます。
ただ、この石橋の架橋年は大正五年と有りますから、それ以前は別な橋が架けられていた物と考えます。
鍋島幹氏は明治13年(1880)に栃木県令を藤川為親氏に継がせて栃木を離れていますが、その後この住まいがどうなったか、又この「八雲橋」を架橋したのは誰か、調査不足で分かっておりませんが、明治の代はどんどん遠くなっています。
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