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「とちまるくん」がマンホールの蓋に! [コレクション]

先日、読売新聞栃木版で、福田栃木県知事が定例記者会見中、「栃木県内流域下水道用マンホール蓋のデザインを栃木県のマスコットキャラクター「とちまるくん」を用いたものに刷新する」、との話が有ったことを報じていました。
栃木県流域下水道1.jpg
(現在布設されている栃木県流域下水道のマンホール蓋の一種)
デザインマンホール蓋の収集を趣味としているコレクターとしては、新年そうそう楽しいニュースが入って来たと喜んでいます。
一昨年の4月から発行が始まった「マンホールカード」が、最近色々なマスコミの番組で取り上げられるようになり、知名度が増して多くのコレクターが、カードを発行する自治体を歩き回る様になっています。
栃木県内で最初に、このマンホールカードに着目をした足利市は、2016年8月発行の第二弾で、足利学校の「学校門」をデザインしたカードを発行しています。更に足利市は2017年4月発行の第四弾でも、足利学校に関するデザインで2枚目を出してきました。
足利市学校門.jpg足利市「学」.jpg
(マンホールカードに成っている足利市のマンホール蓋。二種類)
(現在これらの二種類のマンホールカードは準備した枚数の配布を終了して、増刷を待っている状態と言います。それほど多くのコレクターが足利市を訪れているのです。)
足利市はこうした観光の目玉を作るのが得意な自治体だなといつも感じています。
現在多くの自治体がこの「デザインマンホール蓋」や「マンホールカード」のブームにあやかりたいと検討を進めていると聞いています。コレクターとしてもうれしい現象です。
現在、栃木県内にはどれくらいのデザインマンホール蓋が有るのか?これまで私が県内を探し回って写真に収めた枚数は57種類を数えています。同じデザインで、カラー版を設置している自治体も有りますが、カラー版は設置枚数が少ない為、見つけるのは至難の業です。それだけに発見した時は気持ちが良いものです。
那須の与一.jpg矢板市ともなりくん.jpg
(大田原市のマンホール蓋、那須与一)    (矢板市のマンホール蓋、ともなりくん)

新しい「とちまるくん」をデザインしたカラー版のマンホール蓋が、今月30日午後3時頃までに、上三川町多功に有る「栃木県県央浄化センター」の構内に設置されると言います。
今から楽しみです。
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栃木市内で見る、店舗暖簾 [コレクション]

先日、市内で見る日除け暖簾を紹介しました。店舗の前に掛けられた、屋号などを染め抜いた物で、風にあおられると「バンバン」と鳴る事から、太鼓暖簾とも呼ばれる物をまとめました。今回は一般的に店舗の入り口などに掛けられている、「店舗暖簾」を集めてみました。
暖簾と言うと私達は、お店の前に掛かっているかいないかで、お店が開いているか閉まっているかを判断する材料にしています。
市内で良く見かける一般的な暖簾は、大通り倭町に店舗を構えている「本澤商店」さんの暖簾です。
本澤商店は天保年間(1830~1843)創業と云う老舗で肥料商を営んでいました。店舗の下屋の上に掲げた「日星肥料」の大看板が現在も目を引いています。こちらのお店は、歩道と店舗の間、セットバックのスペースにいつも大八車や樽に草花を綺麗にデコレーションして、通行する私達の目を楽しませてくれています。最近掛けている暖簾は白地に茄子の絵の中に本澤屋と黒で記しています。以前の暖簾は紺色の地に白く染め抜いた物が使われていました。
本澤商店1.jpg本澤商店2.jpg
(草花等で綺麗にデコレーションした本澤商店)(2002年撮影時の暖簾は紺色の地でした)

暖簾が目立つ風景としては、嘉右衛門町通りの老舗「油伝味噌」さんでしょう。こちらも創業は天明年間(1781~1788)という歴史の有る店舗です。元々は暖簾に記されている様に油屋を営んでいました。その後味噌醸造を手がけました。こちらの暖簾は現在紺色地に白抜きされていますが、以前は白地に黒の暖簾を使用していました。
油伝味噌店1.jpg油伝味噌店2.jpg
(暖簾が目を引く、嘉右衛門町通り「油伝味噌」)(2013年撮影時は白地の暖簾でした)

銀座通りの和菓子のお店「山本総本店」さん、そしてその西側巴波川に掛かる幸来橋へ行く手前に店を構える「和菓子もめん弥」さん。これらのお店の入口にも暖簾が掛けられています。やはり暖簾には「和」に対するイメージを演出するのに欠かせないようですね。
山本総本店2.jpg和菓子もめん弥1.jpg
(創業明治25年の和菓子店「山本総本店」)(もめん弥本店、店先には太鼓暖簾を見られる)

巴波川の右岸、倭橋の橋詰で理容店を営む「松本床屋」さんは、創業明治八年と染め抜いた暖簾を入口に掛けています。
松本床屋1.jpg三桝屋本店1.jpg
(入舟町の松本床屋さん)    (大通り「三桝屋本店」さんに見る「軒暖簾」)
大通りの「三桝屋本店」さんの店先には、以前太鼓暖簾が見られましたが、現在は軒下を飾る「軒暖簾」別名「水引暖簾」だけと成っています。普通暖簾は夜には外しておきますが、軒暖簾は丈が40センチメートルから50センチメートルと短い暖簾で、外さないで一日中掛けて置くもので、お店の名前や屋号を染め抜いて有り、お店の広告塔の役目を果たしています。
同じく大通りの「なすび食堂」さんの軒下にも店舗名を染め抜いた軒暖簾が有りました。
なすび食堂1.jpgなすび食堂(島田屋).jpg
(栃木市役所向かいの「なすび食堂」の「軒暖簾」)(店舗内に飾られている「嶋田屋」の暖簾)
「なすび食堂」の建物は昭和2年に建てられたもので、元は乾物商「嶋田屋」も店舗でした。現在も店内にはその当時の看板などが見られます。写真の暖簾も当時の「嶋田屋」のもので、暖簾の左下隅に「嶋田屋」と、そしてその対角線上の暖簾の右上隅に、「カネに丸一」の屋号紋が染め抜かれた斬新なデザインです。

大通りの老舗旅館「かな半」さんの入口に掛かる暖簾。夜、ウォーキングで前を通ると玄関先の街灯に明かりが灯りその脇に掛かる暖簾の下の空間に、旅館の奥に繋がる土間が覗いていて、今日の泊り客をやさしく向い入れているように見えます。風情のある風景を醸し出しています。
かな半旅館2.jpgかな半旅館.jpg
(昼間のかな半旅館)            (陽が落ちた後、旅館の入口に明かりが灯る頃)

暖簾は私達の周りにまだまだ沢山見る事が出来ます。我家にも居間と台所の間に、娘がお土産として買ってきた暖簾が、ズット掛かっています。
我家の暖簾.jpg

栃木市内に見る、日除け暖簾 [コレクション]

栃木の市街地を歩いていると、今も店先に日除け暖簾を掛けている風景を目にする事が有ります。
その代表的な風景は、入舟町の巴波川沿いに建つ横山郷土館です。両側に石蔵を配した店舗の軒先に掛けられた日除け暖簾には、中央に横山家の屋号紋が大きく染め抜かれ、右側に「創業慶応三年」と記されています。
横山郷土館.jpg横山郷土館日除け暖簾.jpg
(巴波川沿い入舟町の横山郷土館の店頭に掲げられた日除け暖簾)

街の中央を縦貫している旧例幣使街道沿いには、江戸時代後期から明治期の土蔵造りの見世蔵が現在も多く残っていますが、それらの見世蔵を活用した観光施設の店先にも、PR用の日除け暖簾が掛けられています。
歌麿館.jpg歌麿館日除け暖簾.jpg
(見世蔵としては弘化二年(1845)の上棟と、建築年代の判明している蔵造りの店舗としては栃木町で一番古い旧古久磯提灯店の跡を活用した「とちぎ歌麿館」。その建物の前に「歌麿の 愛したまち とちぎ」と紺地に白抜きした日除け暖簾が、掛けられています。)
山本有三記念館.jpg山本有三記念館日除け暖簾.jpg
(見世蔵を活用して、栃木市出身の文豪「山本有三」の遺品や資料などを展示している、「山本有三ふるさと記念館」の前にも、紺地に記念館名を白抜きにした日除け暖簾が掛けられています。)

これらの日除け暖簾は写真にも有る通り、布帛製で紺や茶に染め、屋号や商品名・紋所を白抜きにしたものが多く見られます。その理由のひとつは、紺や茶は退色しにくいからだそうです。又職種によっても使われる色にルール的なものが有った様ですが、現在はそれほど厳格な使い分けは無く有っていると思いますが、逆に今も地方によっては常識的な使い分けが行われているのかも知れません。
ちなみに、紺色や藍色などは手堅い商いをする商家が多いと言われます。又、藍の匂いは虫が嫌うとして呉服屋の多くが藍色の暖簾を使用した様です。白地に黒文字は菓子屋や薬屋。柿色は水商売などが多かったと言われます。
日除け暖簾はその名前の通り、店先に掛けて日除けや風よけとしての目的ばかりでなく先にも記した様に宣伝の役も果たしています。
暖簾の上部には竹棹を通す為の乳が縫い付けられて、下側は風に巻き上げられないように両裾を石の重しに紐で繋がれています。その為風に吹かれると暖簾が揺れて「バン・バン」と音を発てることから、「太鼓暖簾」とも呼ばれるそうです。

大通り以外で今も日除け暖簾を掛けている店舗を探して見るとまだまだ有りました。
あおきそば粉店.jpgあおきそば粉日除け暖簾.jpg
(本町、青木ソバ粉株式会社。蔵造りの本社入口に掛かる日除け暖簾)
和菓子もめん弥.jpg和菓子もめん弥日除け暖簾.jpg
(倭町、巴波川に架かる幸来橋近くの「和菓子もめん弥」の日除け暖簾)
丸萬.jpg丸萬日除け暖簾.jpg
(倭町、蔵の街とちぎのきもの専門店「丸萬」の店頭中央に掛かる日除け暖簾)
伊勢屋日除け暖簾.jpg大和田酒店.jpg
(入舟町、だんご豆大福の伊勢屋さん)    (入舟町、おおわだ酒店はお酒のPR暖簾)
伊勢屋さんの写真は2011年に撮影したもので、現在は白地では無く紺地の暖簾に変わっている様です。
又、最近は新しい日除け暖簾も見られるようになりました。
ジェラート桜蔵日除け暖簾.jpgスリーピース.jpg
(イタリアンジェラート桜蔵の日除け暖簾)(これは新しい日除け暖簾に成るか、「333」)

尚、現在は見られ無くなってしまいましたが、私がこれまで撮影をした日除け暖簾についても紹介したいと思います。
倭町の三桝屋本店さんとその並びに以前店舗を構えていた蔵の家具や「丸三」さんの店先にも日除け暖簾が見られました。(2002年10月に撮影)
三桝屋本店.jpg家具の丸三日除け暖簾.jpg
(三桝屋本店の店先に見られた日除け暖簾)(旧丸三家具店前を飾っていた日除け暖簾)
蔵の街観光館日除け暖簾.jpg太田蔵日除け暖簾.jpg
(とちぎ蔵の街観光館の日除け暖簾) (太田蔵の前で見かけた日除け暖簾)
塚田記念館日除け暖簾.jpg小井沼jpg.jpg
(塚田歴史伝説館にて以前掲げていた暖簾)(湊町、「お茶の小井沼」の日除け暖簾)

これらの日除け暖簾の他にも、以前私が市内で見かけたものがいくつか記憶に残っています。今思えば撮影をしていなかったことを悔やんでいます。そして又、今回紹介した日除け暖簾(太鼓暖簾)とは別に、市内の店舗の店頭を飾っている他の種類の暖簾についてもまとめたいと考えています。

栃木県内のマンホールデザイン蓋 [コレクション]

今日、東北自動車道を走り、県内最北の那須高原スマートICで東北道から降り、那須町の中央部に位置する、JR東北本線の黒田原駅方面に向かいます。
今回、那須町を訪れた目的は、黒田原水処理センター区域のデザインマンホール蓋を写真に収める為で、JR黒田原駅近くの栃木県道28号線にて無事写真に収めることが出来ました。
那須町黒田原.jpg
(那須町黒田原水処理センター区域)

これで、現在栃木県内に有る下水道用デザインマンホール蓋を全て写真に収めました。もちろん今後も新しいデザインのマンホール蓋が現れて来るでしょうが、現在インターネット上に掲示された物は何とか自分の目で確認をしました。実際に場所を見つけるのに苦労をしました。特にカラーのマンホールは設置数が少ない為、その区域の中心地、駅の近く、観光施設の近く等を歩き回りました。
道路上に有るマンホールは、下水道用だけでなく、消火栓や電気・ガス・電話等沢山有りますが、ここでは下水道用だけにターゲットを絞りました。
マンホール蓋も工業製品ですから、日本工業規格(JIS)が制定されており、「JIS規格模様」というデザインが有る様です。このデザインは別名「東京市型模様」と言われます。模様の中央部分にそれぞれの市町村の自治体章を表示した蓋を多くの町で見る事が出来ます。尚東京都下水道局では平成13年に23区内のマンホール蓋を、固有のマンホール番号と管きょの布設年度(西暦)を表示したものに変更しました。
東京都jis.jpg東京下水道1.jpg
(東京都章のJIS規格模様)(東京23区下水道蓋、平成13年変更後)

最近多くの市町村でその町の特徴をデザイン化したデザイン蓋を設置していますが、他にこのJIS規格模様の蓋も設置しています。栃木市内でもこのJIS規格模様を見る事が出来ます。
栃木市jis.jpg藤岡町jis.jpg今市市jis.jpg
(旧栃木市)           (旧藤岡町)           (旧今市市)
壬生町jis.jpg足利市jis.jpg日光市jis.jpg
(壬生町)             (足利市)            (日光市、合併後)

又、「JIS規格模様」とは別に、蓋全面に亀甲模様を配し、中央部に自治体章を付けたマンホールも良く見かけます。栃木市内でも旧市内や都賀町・藤岡町などで写真に収めました。
栃木市(亀甲).jpg都賀町(亀甲).jpg藤岡町(亀甲).jpg
(旧栃木市)            (旧都賀町)            (旧藤岡町)
石橋町(亀甲).jpg鹿沼市(亀甲).jpg矢板市(亀甲).jpg
(旧石橋町)            (鹿沼市)            (矢板市)
以上の「JIS規格模様」や「亀甲模様」は、恐らく殆んどの市町村にて使用している様に感じます。その為収集しきれない為、最近は収集していません。

この「JIS規格模様」や「亀甲模様」に対して、各自治体の特徴を表現したデザイン蓋を、県内でも沢山見る事が出来ます。まず、色彩鮮やかなカラーのマンホール蓋を幾つか紹介します。
佐野市(カラー).jpg田沼町(カラー).jpg石橋町(カラー).jpg
(旧佐野市)             (旧田沼町)          (旧石橋町)

南那須町(カラー).jpg日光市今市(カラー).jpg大田原市(カラー).jpg
(旧南那須町)             (旧今市市)         (大田原市)

デザイン蓋の絵柄に採用されるものは、その自治体の花や木、鳥を描いた物が多い様です。
野木町(木花).jpg南河内町(木花).jpg芳賀町(木花鳥).jpg
(野木町)             (旧南河内町)           (芳賀町)
市貝町(花鳥).jpg矢板市(木花鳥).jpg黒羽町(木花鳥).jpg
(市貝町)              (矢板市)             (旧黒羽町)
野木町は中央に町の花「ヒマワリ」、外周に町の木「エンジュ」
旧南河内町は町の木「モミジ」、町の花「キク」、斜めに走るギザギザ模様は、町の東部を流れる「鬼怒川」「江川」「田川」を図案化したものと思われます。
芳賀町は町の木「ケヤキ」の葉、町の花「ナシ」の花、町の鳥「ヒバリ」
市貝町は町の花「キク」、町の鳥「キジバト」
矢板市は市の木「ナツツバキ」、市の花「レンゲツツジ」、市の鳥「キジバト」、後方に描かれた山は「高原山」と思われます。
旧黒羽町は町の木「スギ」、町の花「ヤマユリ」、町の鳥「ウグイス」

他に、幾何学模様や繰り返しパターン図柄のデザイン蓋も有りました。その中には自治体章や自治体名が表示されていない蓋も有り、撮影した場所で自治体を確認しなければ分からない、(下野市の旧国分寺町川中子の幾何学模様や、小山市の馬三匹をパターン化した図柄など)、珍しいデザイン蓋だと思います。
宇都宮市(パターン).jpg河内町(パターン).jpg氏家町(パターン).jpg
(宇都宮市:市の木「イチョウ」)(旧河内町:町の花「サギソウ」)(旧氏家町:町の西を流れる鬼怒川のアユ?)
小金井町(パターン).jpg小山市(パターン)jpg.jpg那須塩原市黒磯(パターン).jpg
(旧国分寺町川中子)      (小山市)            (旧黒磯市:中央に旧市章)

図柄にはユーモラスな絵やユニークなデザインも有り、集めていると楽しくなります。
さくら市上野(カエル).jpg烏山町(カラス).jpg益子町(益子焼).jpg
(旧氏家町上野:カエル)        (旧烏山町:カラス)      (益子町:陶器)
高根沢町(元気).jpg鹿沼市(杉).jpg那須町湯本(温泉).jpg
(高根沢町:人・自然・元気)       (鹿沼市:杉の子?)    (那須町湯本:温泉)

多くのマンホール蓋の材質は、鋳鉄製に成っています。又、表面は上を走る車がスリップしにくいようなギザギザ面と、成っているのがほとんどですが、特殊なものとして、鉄製本体に特殊コンクリート製の化粧円盤を組み合わせたマンホール蓋や、石畳の歩道などに設置されるマンホール蓋の様に周辺に合わせる石畳をセットしたもの、鉄製のベースに図柄を印刷した金属板をビス止めした蓋などが確認されました。
野木町(コンクリ).jpg栃木市(石畳).jpg矢板市(金属板).jpg
(野木町:ひまわり)       (栃木市:マロニエの葉)    (矢板市:ともなり君)

今回、私が栃木県内を巡って撮影したデザインマンホール蓋は56枚(同じ図柄でカラー版が有る場合や、表示された地区名が異なった場合等も、1枚とカウントします。)
大平町(カラー).jpg大平町(みずほ西).jpg大平町(下皆川).jpg
(旧大平町公共雨水カラー蓋)  (旧大平町みずほ西集排)  (旧大平町下皆川集排)
大平町(公共).jpg大平町(公共新).jpg
(旧大平町公共汚水)     (栃木市大平町公共汚水、合併後自治体章が変わる)
※上の5枚は栃木市大平町のもの、全てデザインは同一です。設置地域や栃木市との合併等により表示文字が違っています。

旅行先の町を歩いていて、珍しいデザインマンホール蓋を見付けると、何か得をした様な感覚になります。最近はこうしてマンホールの蓋を探すのが癖になって来ました。
館林市1.jpg行田市1.jpg総和町5.jpg
(群馬県館林市)          (埼玉県行田市)       (茨城県猿島郡総和町)
栃木県外は、まだまだこれからです。



栃木市立栃木第二小学校の思い出 [コレクション]

今日は、朝から収集した「栃木」の地形図を引っ張り出して、束の間のタイムトリップを楽しんだ。と言ってもSF小説の様に時間の流れを超越して旅する事など出来ませんが、頭の中の空想や想像の世界に身を置く事です。その手段として地形図を媒体にする訳です。
昭和40年代の地形図を眺めていれば、青春時代の出来事が浮かんできますし、昭和初期の地形図を見ると、両親が暮らした世界に思いを巡らす事も出来ます。
「栃木」の街は、江戸時代から明治の前半位までは、旧日光例幣使街道の宿場や、巴波川舟運の遡航終点として繁栄をして、明治9年には巴波川右岸、薗部村鶉島(現栃木市入舟町)に栃木県庁が建設されました。明治前期測量の迅速図を眺めると、栃木町の西側田圃の中に、長方形に区画され内側に建物が整然と並んで建っています。しかし、県庁は土木県令と云われ、自由党弾圧でも名をはせた三島通庸が、第三代栃木県令に着任すると、あっけなく宇都宮に移してしまいました。明治17年の事です。
明治19年栃木市街図2.jpg
(明治19年測量2万分1下都賀郡栃木町の地図より県庁堀跡付近を抜粋)
この堀に囲まれた県庁の跡地はその後、中学校(現在の県立栃木高等学校)や小学校(現在の栃木中央小学校)が建てられました。
私は、この中央小学校の前身に成るのか、栃木第二小学校で最初の学校生活を送りました。私が入学をした頃丁度校舎が、木造から鉄筋コンクリート3階建に建て替えられた時で、真新しい校舎で、トイレもその当時珍しかった水洗トイレでした。校庭も広々として南側の県庁堀の所まで有り、堀の南側には第一小学校が有りました。
しかし私が3年生の頃、校庭の南半分に市役所や市民ホールが建てられ狭くなってしまいました。
1963年市役所前通り2.jpg1963年栃二小全景.jpg
(1960年代の栃木第二小学校と南側の市役所前道路)
国土地理院発行の2万5千分1の地形図「栃木」は、大正6年の発行が最初の物に成ります。そして私が入学したころの様子が見られるのは、昭和40年3月に発行した、昭和33年の測量結果を反映した地形図に成ります。地図には3階建ての教室棟の前に、職員室や図書館・音楽室などの入った2階建ての棟が描かれています。南側に堀を隔てて栃一小の建物が見えます。北側に栃木高校、そして市役所は県庁堀の南東の角に二重丸の地図記号が付いています。今は使われていませんが元の市役所別館です。又、校庭の南西角に黒くカギカッコ状に描かれている建物が元の栃木図書館です。
昭和40年3月地形図栃木県庁堀跡.jpg昭和49年11月地形図栃木県庁堀跡.jpg
(国土地理院発行2万5千分1地形図「栃木」、昭和40年と昭和49年発行の県庁堀跡周辺を抜粋)
もう一枚の地形図は昭和49年11月発行の地図で、こちらは校庭の南側に東西に道路が走り、栃一小との間に新たに建物が二つ描かれています。右側の大きい方が「栃木市役所」その西側が「栃木公民館(市民ホール)」です。市役所別館と図書館の建物は残っています。
昭和40年発行の地形図を見ると道路の部分にが網目がかかっている箇所と無い箇所とが有りますが、これは、舗装がされているかいないかを表わしたものです。丁度この頃は道路の舗装が始まった頃で、この様に地形図にも表わされた様です。
1990年代に入ると、私の母校に子供達も通うようになりました。
1993年9月運動会1.jpg1993年9月運動会2.jpg
久しぶりに小学校に入ると、懐かしい光景が沢山有りました。1年生の教室の机や椅子の小さいのにも驚きました。
1994年6月15日学校祭4.jpg1994年6月15日学校祭1.jpg
6年の時に児童会で廊下を走らない様にと「歩行者免許証」をつくった事も思い出されました。
1994年6月15日学校祭2.jpg
(管理棟の2階から教室棟への連絡通路。昔、フードは無く雨の日は下を通りました)
屋上に出ると、西に太平山が広がっています。この風景は変わる事は有りません。ここで体育の授業をしたものです。
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(元栃二小の屋上より南東側<旧市役所別館>及び南西側<太平山>を望む)
その母校も2010年にはすっかり取り壊されてしまいました。
2010年6月27日栃二小の跡4.jpg2010年6月27日栃二小の跡3.jpg
(子供の頃よく遊んだ滑り台)          (東側の道路、奥には栃木高校が見える)
現在は第一小学校と一緒になり、栃木中央小学校と名前も変わりました。4階建ての立派な校舎です。私は今、選挙の投票時だけ校舎内に立ち寄る程度に成ってしまいました。
2013年9月栃木中央小学校.jpg2015年4月栃木中央小学校全景.jpg

文学碑土鈴 [コレクション]

今日も暑かったですね。この暑さの中外に出るのは危険なので、昼の間家の中で過ごしました。そして、運動不足を解消する為、夕食の後夜の栃木の街を、1時間程歩いて来ました。多数の行灯が灯る巴波川の河畔を歩いていると、写真のストロボの光りが、ピカッピカッと夜空を照らし出しています。巴波川橋の上から巴波川の行灯の写真を撮影をしている様です。三脚を構えて、数名の人が思い思いのアングルで撮影をしていました。
そんな訳で、今日も手持ちのコレクションの話です。昨日の「火防の獅子」と同じく、栃木土産品研究所発売の「文学碑土鈴」を紹介したいと思います。
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(コレクションの土鈴)
現在、栃木市内の神社・仏閣や公園などに多くの文学碑や歌碑・句碑が建立されていますが、その文学碑を土鈴の形にして販売されたものです。
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(同封された説明書)
ふたつの土鈴がセットに成っています。その一つは、栃木市民で有れば誰でも知っている、「山本有三」の文学碑です。山本有三の文学碑は栃木駅前を始め市内の学校の校庭などに建てられていますが、今回の土鈴のモデルとなっているのは、太平山の謙信平の高台の上に建てられたものです。
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(太平山公園謙信平に建つ、山本有三文学碑)
そして、もうひとつの碑は、前田雀郎の句碑に成ります。「前田雀郎」については、知っている人は少ないかもしれません。「前田雀郎」は栃木県宇都宮市の出身で、明治30年3月27日生まれ、宇都宮商業を卒業。講談社や都新聞社に勤務。昭和11年「せんりゅう」を創刊。昭和16年日本川柳協会委員長。昭和35年1月27日死去。62歳でした。
この土鈴となった句碑は、太平山の遊覧道路を登って行き、見晴台方面と謙信平方面に分かれる、丁度そのティー字路の突き当りに建てられています。隣りに「圓通寺中興二世となる、高慶大師の像が建てられています。
句碑に刻まれているのは≪太平の 曲れば此処も 花吹雪≫の句に成ります。
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(太平山遊覧道路大曲駐車場近くに建つ、前田雀郎n句碑)
栃木市に有る「川柳不二見吟社」が主宰して、前田雀郎を中心の全国川柳大会を太平山で開催した直後、同吟社の肝いりで、雀郎句碑第一号を花のトンネルの真っ只中の大曲りに、市の観光協会が建てたものです。この句碑が前田雀郎の生前に建てられた唯一の句碑に成ります。
もう一句、≪この町へ 西日を戻す 山車の丈≫という雀郎の句が、「とちぎ山車会館」入口の横手に建てられています。
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(とちぎ山車会館の入口前、向かって右手に建つ前田雀郎句碑)

もう一度、山本有三の文学碑に戻ります。昭和38年3月9日、太平山公園謙信平に建立されたこの文学碑の除幕式には、山本有三氏本人も出席されました。(寿像は石井鶴三制作)
碑文は有三作品の「路傍の石」の中で、担任の先生が吾一少年に言った一言、≪たったひとりしかいない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、うまれてきたかいがないじゃないか。≫です。市内に有る山本有三の碑文は殆どが、この言葉が使われています。ですから栃木市民であれば誰もこの一説は、諳んじて言う事が出来ます。
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(栃木駅の北口を出て、右手方向に向かうと、バス乗り場後方に建つ山本有三文学碑)
山本有三の石碑で他の言葉を刻したものは、日ノ出町の栃木公民館(元、栃木市民会館)広場に、≪自然は急がない≫と言う自筆の文学碑が建立されています。
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(日ノ出町栃木公民館の広場に建つ、山本有三文学碑)
又、菩提寺となる、万町の近龍寺の墓地内に有る山本有三の墓石に記された言葉は、作品「無事の人」より、≪動くもの砕けるものの中に動かないもの砕けないものが大きくからだに伝わってくる≫の言葉です。
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(近龍寺本堂裏手の墓地に眠る、山本有三の墓石)
最後に「路傍の石」の一説を土鈴に記した作品が有ります。これらの土鈴を振ると、音の高い低いは違いますが、みな素朴な音を発てます。
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火防の獅子について [コレクション]

私の書棚の中には、旅先にて買ってきた土産の人形や置物が、整列もされず並べられています。小さな物ばかりですが一つ一つに思い出が有ります。
そんな中に、栃木市の土産品にもなっている「火防の獅子」(ひぶせのしし)が有ります。この「火防の獅子」を入手したのは、もう30年以上前に成ります。栃木市の観光写真コンテストの副賞で頂いたものです。
火防の獅子2.jpg火防の獅子3.jpg
この「火防の獅子」は栃木市出身の彫塑家「鈴木賢二」氏が考案した作品です。材料となっているのは、かって栃木市の一大産業となっていた、下駄産業の加工工程の中で発生する破材を活用したものです。
私が子供の頃は、栃木の街の中で良く下駄の半完成品を円形状に積み上げて、干していた風景を、目に致しました。昭和35年頃は、栃木市の下駄の生産高は、広島県に次いで全国二位となっていました。

この土産品の元となっているのは、太平山神社社宝の「火防の獅子」です。添付されている説明書に、「火防の獅子」の由来が載っています。≪太平山神社社宝「火防の獅子」は作られた年も作者もはっきりしないが、その古さから九百年ぐらい前に作られたと云われています。この獅子は領主皆川山城守広照が、北条氏政と争い、氏政の弟氏直が攻めて来て、天正十二年(1584)ここ太平山上で激戦した時、本殿その他の建物が戦火のため焼けてしまった。その時、はげしい火の中をどうしてぬけ出したのか、木で作られた獅子だけが焼け残った。人々は「火防の獅子」と云って尊敬した。それによって作られたのが、この「獅子」である。≫と紹介されています。
考案者の「鈴木賢二」氏(1906年1月~1987年11月15日)は栃木市平井町に生まれ、1925年東京美術学校彫塑科(現、東京芸術大学)に入学。高村光雲に学ぶ。しかし、軍事教練反対のビラを学内で撒き、退学処分となっています。一時帰郷し、民芸運動を興し、この「火防の獅子」や「うづまのなまず」などの郷土玩具を考案しています。

尚、栃木山車会館前広場の道路脇に建てられた、石のモニュメント「火防の獅子」は、1946年長野県生まれの「小林亮介」氏の作品です。(1983年東京芸術大学教授、二科会会員・評議員)
重量感の有る一対の獅子が、栃木の街を鎮護してくれている様です。
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私は、太平山神社の社宝となっているこの「火防の獅子」をまだ拝見した事が有りません。前に見た事が有ると言う人の感想を聞いた事が有ります。それは「想像以上に迫力のある獅子でした。」と。是非一度実物を拝見したいと思っています。写真は、「目で見る栃木市史」(昭和53年・栃木市発行)の207頁に掲載されています。でも写真では実感が湧いて来ません。
この「火防の獅子」を栃木市大塚町出身の画家「清水登之(しみずとし)」氏が見事に描いています。私も実物を見たわけでは有りませんが、「栃木名所旧蹟物語」(大浦倉蔵編・復刻版、昭和50年1月吉日刊)の巻頭折り込み写真で見られます。モノクロ写真ですので、実際は分かりませんが、迫力のある1対の阿吽形の獅子が画面いっぱいに力強く描かれています。画面右下に「登之写」そしてその下に落款が押されています。こちらの絵も出来れば一度拝見したいと思っています。

最後にこの毎日続く烈火の様な暑さに負けないよう、「火防の最中(ひぶせのもなか)」(山本総本店・明治二十五年創業)を冷たいお茶と一緒に頂きたいと思います。
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(山本総本店の「火防の最中」、丸い饅頭は夏季限定の「夏の梅」)

栃木市の地形図のこと [コレクション]

昨日は2年ぶりに、茨城県つくば市の「国土地理院」に行って来ました。
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(国土地理院、「地図と測量の科学館」の入口)
今回も栃木市に関する旧版地形図を購入する為です。私の様な一般人が郷土の古い地図を入手するのは、国土地理院発行の旧版地図を入手するしか、手段が有りません。
ただ、なかなかこちらが希望する地図が無いのです。一般的な地形図の縮尺は「二万五千分一」ですが、大きくなった現在の栃木市の全体をカバーするには、9枚の地形図が関係をしています。
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(ピンクに塗った所が栃木市部分、太線の枠が5万分1の地図範囲、細線の枠が2万5千分1の地図範囲)
「栃木」の他に「下野大柿」「壬生」「小金井」「下野藤岡」「古河」そして僅かに係ってくる「仙波」「田沼」「佐野」です。
古い地図と言っても、明治期までは遡る事は出来ません。大正六年に発行されたのが一番古いのですが、該当するのは「栃木」「小金井」「壬生」の三ヵ所だけです。
「古河」は昭和31年、「下野藤岡」・「田沼」・「佐野」は昭和39年、「下野大柿」や「仙波」に至っては、昭和46年の発行が一番古いのです。ですから寺尾地区や都賀町、西方町に付いては、昭和40年代以前の町の姿を地形図からうかがい知る事が出来ないのです。大平町や岩舟町の南部、そして藤岡町に関しては、昭和30年代以前は有りません。
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(2万5千分1地形図の栃木市関係の発行年・図暦の一覧、着色した地図は入手済)
不思議なのは「栃木」の地図です。大正6年、昭和8年、昭和22年に発行はされているのですが、地図の左側(西側)半分が空白なのです。幸い栃木の市街地は見られるのですが、皆川城内以西、小野寺地区などは見られないのです。どうしたのでしょうか。
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(昭和22年9月30日発行の「栃木」と昭和40年3月30日発行の「栃木」、共に国土地理院発行・2万5千分1の地形図を写真撮影しました。)
国土地理院の職員の方に伺っても、「測量されなかったのか、戦前で公開をはばかる何かが有ったのか、分からない」という事です。
ちなみに同じ国土地理院発行の「五万分一」の地形図の場合は、栃木市に関するのは「栃木」「壬生」「古河」の3枚になりますが、明治42年発行の地図が有り、今回入手をして来ました。五万分一の地図で有れば、栃木市全域に付いて、明治後期の状況を確認出来る様になりました。
ただし、二万五千分一の地形図で見慣れていると、なじめませんし、国土地理院としても五万分一の地形図を今の所、更新する予定は無いとの事です。
他に「明治前期測量2万分1フランス式彩色地図」が有りますが、それでも栃木市の全域をカバーしておりませんが、明治前期の様子を探るのにとても有効です。
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(赤枠部分が、明治前期測量2万分1フランス式彩色地図が発行されている区域)

今回入手した地図を今、時間を忘れて眺めています。
新しい発見や、新たな疑問が続々出てきます。私の楽しいコレクションの一つです。

とち介もうすぐ1歳 [コレクション]

昨日は何年かぶりに熱を出して、一日寝床で安静していた。当然パソコンを開くことも無かった。
市販の風邪薬と栄養ドリンクで、体力の回復を図った。それでも今朝はまだ37.2度の微熱が残っていたので、炬燵の中ですごしていた。昼を過ぎる頃には熱も下がり、パソコンの前に座れるようになった。
という事で、今日は気持ちを楽にするゆるキャラの話をします。栃木市マスコットキャラクター「とち介」はこの4月5日で1歳の誕生日を迎えます。
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(2014年3月28日、とち介初登場)
昨年(2014年)4月5日、栃木市は新たに岩舟町と合併をして、新生栃木市となり、その日を記念して「蔵の妖精、とち介」の誕生日としたとの事です。
実際に市民の前にお披露目されたのは、それより前現在の市役所新庁舎の完成記念パレードで、私もこの日、初めてとち介の姿を目にしました。
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(2014年3月28日栃木市新庁舎完成記念写真)
白と黒のシンプルな色使い、頬に軽くオレンジの紅をさし、頭に大きな蔵の屋根を載せ、何処を見ているのかキョトンとした小さな目。思わず笑いたくなるような、まさにユルキャラの登場でした。
このキャラクターは何点かの候補から市内の幼稚園児らの人気が一番で選ばれたとか。小さい子たちの目は侮れません。私もその場ですっかりとち介のファンになりました。
ゆるキャラとの最初の出会いは、2012年7月の事、道の駅矢板に行った時、偶然に出会った「とちまるくん」でした。その時の「とちまるくん」はヨチヨチ歩きで、付添いの人にサポートを受けて動いていたのでしたが、その「とちまるくん」も現在は飛んで跳ねて躍動的に変身をしています。ゆるキャラの着ぐるみも改善進歩をしているのでしょう。
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(2012年7月28日、道の駅矢板にてとちまるくんと遭遇)(車のアクセサリーとして)
ですから、私の車に最初に飾られたゆるキャラは「とちまるくん」です。そして次に飾られたのが、2013年のゆるキャラグランプリでトップとなった「さのまる」君です。田沼の道の駅へ、さのまるのイルミネーションを見に行ったり、さのまるたい焼きも食べましたが、まだ「さのまる」君本人には有った事が有りません。
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(2013年12月道の駅田沼にて)     (さのまる君のタイ焼き)
そして、昨年2014年は我が栃木市にも「とち介」誕生となり、そのどこを見ているのか、何を考えているのかキョトンとしたまなざしにほれ込みました。
ゆるキャラグランプリ2014に参戦をしたという事で、9月2日の投票開始日から最終日10月20日まで毎日、1日も欠かさず投票を続けました。ランキングの発表に一喜一憂の連続、最初ベスト6位で好位置発進でした。しかしその後は10位前後で推移。10月3日時点では14位まで下がりました。そこから挽回をして最終結果としては8位となりました。
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(2014年8月東武宇都宮百貨店栃木店にて)(2014年9月ゆるキャラスポーツ大会in大田原にて、得意のTのポーズを決めるとち介君)
初戦でベストテンに入れてよかったと思いました。その後私は携帯電話の通信料金の高額請求に遭遇したのでした。
その後も各地でゆるキャラ達が増殖中です。我が栃木市においても昨年秋に渡良瀬遊水地PRキャラクターとして「ハーツ姫」と「わたらせ712(ナイツ)」がお披露目されました。デザインをしたのは栃木女子高美術部生徒と言う事です。「ハーツ姫」は渡良瀬遊水地に有るハート形の谷中湖にちなんだデザインで、「わたらせ712(ないつ)」は冬の渡良瀬遊水地に飛来する猛禽類のチョウヒがモデルという事です。そして騎士(ナイト)にかけた712(ないつ)の意味は、4県7市町にまたがる広大な渡良瀬遊水地の内、栃木市が占める比率が71.2%で有る所から名付けられた様です。
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(渡良瀬遊水地ハートランドのHearts姫)    (ハーツ姫を守る騎士、Watarase712)
こうして多くのゆるキャラが誕生している日本はまさに平和な国なんだなと実感するばかりです。

地図を楽しむ [コレクション]

現代の生活において、地図は無くてはならないものになっている。自動車で出かければ、カーナビ無しでは容易に目的地にたどり着くことは出来ません。
観光地でも、美味しいレストランや名所旧跡の場所も携帯電話の検索アプリで探すことが出来ます。
「グーグルマップ」を利用すれば世界中どこへでも、疑似旅行体験が出来てしまいます。
パソコンの前に一日座っていても、地図を見ていると飽きる事が有りません。

私と地図の出会いは20代にさかのぼる。もちろん小学生から学校で地図を見ていたが、地図と現地を見比べると言う作業は「オリエンテーリング」と言う競技を知った時からです。
最近はあまり見かけなくなってしまいましたが、私の20代は日本中に「オリエンテーリング」のパーマネントコースが設定されて、誰でも簡単に行ってコースを歩いて楽しむことが出来ました。
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(栃木市民オリエンテーリング大会参加記念バッチ、他)

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(栃木県内で開催された大会の記念バッチ)
「オリエンテーリング」は予め設定されたコースを記した地図と専用のコンパスを使用して、一人またはチームで指定されたポイントを探し、スタンプラリーの如く回って、より早くゴールする競技です。
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(OL専用コンパス)
起源は19世紀中頃スウェーデン軍が訓練の一環として始めたものと言われています。日本に1970年代輸入された時「国民体力づくり運動」の一環としてレクリェーション手段として、PR・普及させたため「グループ競技」が一般に普及しました。私の場合も最初は新社会人研修会の中で、チーム対抗競技として参加しています。
1977年3月に栃木県黒磯市(当時)で全国オリエンテーリング大会が開催されました。私もこの時は運営スタッフとして、スタート・ゴールの手伝いをしましたが、さすがにこの時の大会は個人競技で「クロスカントリー走」の様に選手は走り出していきました。
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(黒磯で開催された全国大会のスタートとゴールの様子)
栃木市にも太平山を中心にパーマネントコースが設定されました。今では無くなってしまいましたが、永野川沿いの「栃木市民プール」の駐車場付近をスタート・ゴールにして何度か栃木市民大会も開催されました。
こちらは、家族連れや友達同士のグループ参加で歩いて回るレクリェーションの要素が強かったです。
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(太平山中をポイントを探し回る子供達)    (大会後の表彰式の様子)
その様な経験から、地図を読んで現地の様子を窺い知る楽しみを覚えました。現在は地元の古い地図を見て、今も変わらず残っている所とか、逆にまったく変化してしまった所とか、栃木市内を歩き回って、一人楽しんでおります。

昨年(2014年)3月、宇都宮市にて「伊能忠敬展」が開催されましたが、地図好きの私としては当然出かけて行きました。広い体育館の床に並べられた伊能忠敬による日本全図を直に乗って見る事が出来ました。
海岸線の形は、現在の地図と見ている様に思えました。
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(展示会にて頂いたポスター)          (展示会の様子)
下野国に関しては奥州街道(江戸から宇都宮までは日光街道)1本しか記されていません、残念ながら日光例幣使街道は有りませんでした。当然「栃木」の地名は出ていませんでした。
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一昨日、新たに明治20年発行20万分1の「宇都宮」の地図を入手しました。
暫らくは、この地図を眺めて楽しむことが出来ます。


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