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栃木市における釜屋号 [懐かしい写真]

今日、関東地方の梅雨明け宣言が有りました。私の住む栃木市も連日30℃を越える暑い日が続いていましたから、「やっと梅雨明け宣言が出たな。」と言った感じです。今後の天気予報を見ても最高気温が35℃から40℃に迫る日が続きそうで、毎日冷たいものばかり取り過ぎて、お腹の方も大分疲れて来ています。
ここは鰻でも食べてスタミナを付けたいところです。もう直ぐ7月25日、土用の丑の日です。市内の鰻屋さんも忙しくなります。
栃木市内にも多くの鰻を扱うお店が有りますが、その中のひとつに「釜屋」さんが有ります。創業は明治2年と言う老舗に成ります。
蒲焼釜屋1.jpg蒲焼釜屋2.jpg
(現在の釜屋さんの店舗入口)       (玄関に掛かる釜屋さんの店舗暖簾)
現在の店舗は城内町2丁目に有りますが、以前は河合町の巴波川に架かる「開明橋」の南東橋詰で営業されていました。
手元の「栃木県営業便覧」(明治40年10月発行)を見ると、そこには「釜屋」とでは無く、「鳥屋」と記されています。釜屋さんは元々は鳥料理がメインだったのでしょうか?確かに釜屋さんで頂く焼き鳥、とても美味しいです。
1979年4月開明橋と釜屋.jpg
(巴波川の開明橋の橋詰で営業していた「釜屋」さん。1979年4月撮影)
栃木の市街地には以前、「釜屋」という屋号を用いていたお店が多く見られました。 私が子供の頃、「釜芳さん」とか「釜重さん」とか言うお店の名前を耳にした事が有ります。
そこで、先ほどの「栃木県営業便覧」を調べて、明治40年当時栃木町で「釜屋号」を付けた商店を見付けて行くと、9店舗有りました。
①釜屋   善野喜平    味噌醤油醸造元  室町(現在はNTT東日本栃木ビル.)
②釜屋號  早乙女峰次郎 美術両中形小紋更紗問屋 倭町(元蔵の街第三駐車場)
③釜芳   伊藤芳次郎  砂糖石油肥料食塩商 倭町(現在は足利銀行栃木支店)
④釜屋號  善野伊平   呉服太物商      倭町(現在は中原証券栃木支店)
⑤釜屋   竹澤傅次郎  醤油味噌漬物和洋酒瓶詰 万町(栃木信用金庫本店)
⑥釜屋號  長谷川峰七 染物業          旭町(場所不明、神明宮の東方?)  
⑦釜屋號  篠山長平   染物業         片柳(現在は境町19 駐車場)
⑧釜屋   篠山傅吉   製茶煙草商      相生町(現在は室町4 ミツワ通り)
⑨釜屋號  金子忠吉  萬染物業        入舟町(現在錦町11 かねこ整骨院)
  ※屋号・氏名等は掲載内容、( )内は所在箇所の現在の状況です。
釜長.jpg
(境町、旧例幣使街道沿いの染物業「釜長」さん⑦の当時の様子。1978年6月撮影)

釜屋号に関する外の資料を探してみると、栃木市図書館に明治31年(1898)12月発行の「日本全国商工人名録 全」が有りました。この商工人名録は全国的にその頃の商人工人を調べた名簿で、栃木町では97名掲載され、その内8名の釜屋が名を連ねています。
①釜屋  伊藤善次郎  萬町  麻苧商   (現在万町6 空き店舗)
②釜屋  坂本重藏   倭町   麻苧商  (現在は倭町8 再開発中)
③釜屋  大塚金兵衛  室町  呉服太物商 (現在は室町6 デニーズ駐車場)
④釜屋  大塚敬吉   倭町   呉服太物商 (現在は倭町8 再開発中)
⑤釜屋  前澤藤平   萬町   絲類商   (現在は万町4 快眠館大二)
⑥釜屋  善野喜平   室町   醤油醸造  (現在は室町12 NTT東日本栃木ビル)
⑦釜屋  舘野茂吉   泉町   肥料商   (現在は泉町3 旧例幣使街道に東面)
⑧釜屋  伊藤芳次郎  倭町   砂糖商   (現在は倭町11 足利銀行栃木支店)
釜平1.jpg
(泉町、旧例幣使街道、嘉右衛門町通り入口に建つ「釜平」さん、舘野家住宅兼店舗)

明治31年の商工人名録の中で釜屋号と記した8店舗の内、明治40年発行の営業便覧で釜屋号が付記されなかった商店が5軒(①釜善、②釜重、③釜金、④釜敬、⑥釜平)そして店舗名自体が確認出来なかった⑤釜藤の1軒でした。この釜藤と言うお店は大正時代の萬町(大通り)の店舗名を記した資料によると、営業便覧に出ている「正直屋」と言う、洋傘製造帽子各種の店舗の南隣りに、「釜藤」の名前が出ています。
これまでの資料で確認された釜屋号の店舗は15に成ります。が、この中には最初に話題にした鰻の釜屋さんは出ていません。又、現在も質店を続けている万町の「釜佐」さんも出て来ていません。

図書館で更に資料を確認して行くと、栃木商工会議所が発行した、「栃木商工案内 昭和十年版」の中に釜屋号の店舗を確認する事が出来ました。
 <商号> <営業別>  <営業所>    <氏名>
①釜藤    糸綿        萬町     合名会社釜藤商店
②釜平    履物(肥料)   泉町      舘野惣吉
③釜屋    金物        萬町      田村福三郎
④釜忠    染物業      錦町      金子愛之助
⑤釜伊    呉服太物     倭町      善野碩之助
⑥釜重    麻眞縄      本町      坂本 喬
⑦釜重    荒物(立麻)   萬町      坂本千代三郎
⑧釜芳    砂糖石炭茶製粉 倭町     釜芳商店
⑨釜屋    川魚(蒲焼)    河合町    渡邊為吉
⑩釜佐    質商        萬町      善野佐次平
この資料で新たに確認された店舗は、5軒(③・⑥・⑦・⑨・⑩)と成り、合計20店舗です。
釜屋金物店1.jpg
(現在万町山車会館入口南側の空き店舗が釜屋号③の金物店でした。1994年8月撮影)
釜佐1.jpg
(現在も質商を営む、「釜佐」善野家土蔵。現在は「とちぎ蔵の街美術館」と成っています)

更に、栃木の街の中を歩いていると、今も釜屋号の看板を掲げた店舗を確認出来ます。店舗の名前は「釜利」さんです。大正時代の万町大通りの店舗名を記した資料の中にも、「釜利」(ポンプ屋)と出てました。
釜利.jpg
(万町、出井書店から北側3軒目に、「釜利」と記した看板を掲げた店舗)

今回確認出来ただけでも、栃木市内で釜屋号を付けた店舗は21軒有りました。栃木県の県都「宇都宮市」には栃木市よりはるかに多い屋号を付けた店舗が有りますが、釜屋号の店舗はそんなに多くは有りません。それではなぜ栃木の街にこんなに釜屋号を付けた店舗が現れたのでしょうか。
そんな疑問に答える資料となる書籍が最近発行されました。石崎常蔵氏が著した「栃木人 (明治・大正・昭和に活躍した人びとたち)」です。その本の中に正に「釜屋考」としてまとめて有ります。私が以前から興味を持っていた「釜屋号」について今回さらに踏み込む貴重な資料を多く提供して頂けました。参考にさせて頂きました。

栃木町にて最初に「釜屋号」を名乗ったのは、何時の頃で誰だったのか。
江戸文学研究家の林美一氏の著書「歌麿が愛した栃木」(昭和47年9月発行)の中に、初期の善野家の様子が記されています。以下はその要約です。
≪宝暦年間(1751~1763)に近江の守山から、この栃木に来て土着した善野一族は苦労の末に成功をして財を築きました。善野御三家と言うと、「釜喜」・「釜佐」・「釜伊」という事に成りますが、まず最初は善野喜左衛門が「釜屋号」を名乗りました、「釜屋の喜左衛門」略して「釜喜」となります。初代「釜喜」です。そしてこの初代がその弟に2代目喜兵衛として「釜喜」を譲り、その後喜佐衛門は別家をして「善野佐次兵衛」を名乗ります。これが「釜佐」の始まりに成ります。即ち「釜喜」と「釜佐」の初代は同一人物という事に成ります。もう一つの「釜伊」の始まりは、釜喜の2代目の長男が3代目釜喜を継ぎ、弟の伊兵衛が「釜伊」の初代を名乗ったものと云われています。≫
「栃木人」の中で石崎氏は、≪このように「釜屋」は栃木地方の善野三家の成功によって、「信用」のブランドと認められ使用された。≫と記しています。
この事が栃木の街に多くの「釜屋号」の商家が現れた大きな要因と言って良いのかも知れません。

そんな「釜屋号」も時代の流れの中で次第に消えて少なくなってしまいましたが、喜多川歌麿の肉筆画の大作「雪月花」三部作のひとつ「深川の雪」が長い間所在不明と成っていたものが、平成24年(2012)に発見された事で、再び脚光を浴びることと成った,栃木の豪商「釜伊」と、歌麿の作品中に狂歌が載る通用亭徳成こと「釜喜」の4代目善野喜兵衛。これからもずっと栃木の「釜屋号」を大切に語り継いでいきたいものです。

足利学校から鑁阿寺へ [懐かしい写真]

私は足利の町が好きで、若かった頃は良く出かけていました。両毛線の電車に揺られて足利駅へ、そして足利学校から鑁阿寺界隈を当ても無く歩く。社会人なりたての私に与えられて時間は日曜日だけ、その頃は土曜休みなど考えてもいなかった。仕事で休日出勤すると、1カ月間の内自由に成れる時間はそう無かった。
そんな時代だったからか、日曜日の鑁阿寺境内に有った広場は、市民の憩いの場所で何時行っても沢山の人が休日を楽しんでいる様だった。
境内の南西部に広場が有って、その中央部に1本大きな銀杏の木、その周りにベンチが有り天気の良い日は、その木陰に大勢の市民が身を寄せる様に集まっていました。
鑁阿寺境内木陰1.jpg
(足利鑁阿寺境内南西部広場中央部の銀杏の木陰に集う足利市民、1974年5月5日)
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(1974年6月16日、今日も木陰は満員状態)
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(木陰では一斗缶に将棋盤を広げてお年寄りが将棋の真剣勝負中)

又、その頃足利を訪れるもう一つの楽しみは、毎年5月のゴールデンウィークを中心に開催されていた、「足利まつり、ヤングヤング大行進」のパレードを見る事でした。(その頃は私もヤングでした)
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(1974年5月の足利まつり、ヤングヤング大行進)
足利祭り5.jpg足利祭り6.jpg
(1977年5月の足利まつり風景)
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(1978年5月の足利まつり風景)

それから、足利の町もご無沙汰をしていたが、昨日久しぶりに足利学校から鑁阿寺界隈を訪れました。
日本最古の学校として国指定史跡となる足利学校には、1974年4月最初に訪れました。その頃の記憶は「学校門」「字降松(かなふりまつ)」「孔子廟」が撮影した写真に残るだけでした。
足利学校門2.jpg
(1974年4月撮影、足利学校の学校門)
足利学校字降松1.jpg
(1974年4月撮影、「孔子廟杏檀門」の手前右側に「字降松」が見える)
孔子廟1.jpg孔子廟2.jpg
(1974年6月撮影、廟周囲に廻らされた築地越しに孔子廟を望む)

現在、足利学校は孔子廟の東側に「方丈」や「庫裡」「庭園」等が復元され、綺麗に整備されていました。
足利学校全景1.jpg
(東側を通る国道293号の歩道橋上から足利学校を写す)
学校門1.jpg
(現在の学校門)
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(孔子廟の中央に祀られているのが「木造孔子坐像」右側に「木造小野篁坐像」)
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(孔子廟の北西角方向より写す)
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(平成二年に孔子廟の東隣りに復元された「方丈」
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(同じく平成二年に方丈の裏手に復元された「北庭園」、奥に写るのが孔子廟)

閑静な雰囲気の足利学校を後にして、鑁阿寺に向かいます。鑁阿寺に向かう通りもすっかり観光客向けの食事処やお土産物店が立ち並び、平日にもかかわらず団体の観光客の方々が、ボランティアガイドに案内されていました。
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(鑁阿寺に向かう大日大門通り、平日でも観光客の姿も多い)

鑁阿寺の境内は栃木市の旧県庁堀の様に、周囲を堀が廻らされています。南側中央部の堀に架けられた屋根付きの太鼓橋は鑁阿寺の正面入口に当たり、橋を渡ると大きな山門(仁王門)が建っています。
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(鑁阿寺の正面堀に架かる屋根付きの太鼓橋を東横側から写す)
鑁阿寺太鼓橋2.jpg
(太鼓橋正面とその後ろに山門)
山門の右横に上部に「御橋再建」と刻された石碑が有ります。碑の正面右側に「安政三年丙辰十一月建之」、中央に「寄附連名碑」そして左下に「発起人 小俣宿 木村半兵衛」「補助 桐生町 松屋元右衛門」「補助 學校 牛窪平兵衛」と3名の名が刻されています。碑陰には碑銘に有る通り、寄付金の額と寄付者の名前が連ねて刻されています。ちなみに発起人の木村半兵衛が筆頭に有り「35両」となっています。丁度今から160年前に再建されたことが分かります。
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(本堂手前左側に樹齢550年以上と云われ、天然記念物の大銀杏が目を引きます)
鑁阿寺大御堂1.jpg
(鎌倉時代の建物で、平成25年国宝に指定された金剛山鑁阿寺の本堂)
境内には他に国指定の重要文化財の「経堂」と「鐘楼」、栃木県指定有形文化財として、「御霊屋」「多宝塔」「太鼓橋」「山門」「東門」「西門」等が建っています。

参拝した日が平日だった為か、寺院堂塔周辺には参拝者も多く見受けられましたが、境内南西部の広場には殆んど人の姿が見られませんでした。広場中央の銀杏の木の根元のベンチも無くなっていました。人影が無いと鳩も寄って来ません。一方入口の太鼓橋周辺には今日も沢山の鳩が群がっていたのですが。
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(その木陰に大勢の市民が集っていた銀杏の木は、今日ひっそりとしていました)

栃木皆川街道、湊町通り界隈 [懐かしい写真]

私が昭和43年(1968)に撮影をした湊町通りの写真が1枚有ります。
1968年湊町通り1.jpg
(昭和43年撮影、湊町通り)
写真はナガサワ商店の前辺りから東方に向かって、湊町通りを写したもので、高村洋品店の交差点付近で道路は「く」の字に曲って、その先の巴波川に架かる「幸来橋」は見えません。
通りの両側には店舗が軒を連ね、お店の前には自転車が何台も停められています。

平成20年(2003)1月に、今度は高村洋品店付近から西方向を撮影した写真には左端に正喜屋の暖簾とくさ餅の幟旗が店先に見えるのみで、その先の家は店先のガラス戸やシャッターは閉じられたままです。
そして昨年(2015)4月に撮影した写真では通りに面した場所は駐車場に変わり、ただ正喜屋さんの店前だけは以前と変わりなく幟旗が写っていました。その幟旗も今は見る事が出来なくなりました。
2003年1月湊町通り1.jpg2015年4月12日湊町通り1.jpg
(平成20年1月撮影)             (平成17年4月撮影)

高村洋品店の交差点の東側には以前、栃木警察署湊町派出所は建っていましたが、現在はポケットパークになっています。ポケットパークの東隣りに建つ小井沼商店の土蔵は、以前の姿を留めています。
小井沼商店1.jpg1978年12月湊町交番3.jpg
(平成26年11月撮影小井沼商店土蔵)    (昭和53年12月撮影湊町派出所)

江戸時代には巴波川に架かる幸来橋(江戸時代には念仏橋とか天王橋などと呼ばれていたそうです)の東橋詰に栃木町の木戸が有り、橋を渡った西側は木戸の外、片柳村になります。幸来橋を渡って西に160メートル程行ったナガサワ商店の所で道は、右の皆川方面に向かう「主要地方道栃木佐野線(県道75号)」と、太平山神社表参道につながる「県道269号」とに分岐しますが、この県道269号から真直ぐ皆川街道を抜けて中野病院方向に抜ける細い道を境に、道路の南側が湊町(旧片柳村)、道路の北側は祝町(旧薗部村)となっています。

明治初期に栃木町に栃木県の県庁が置かれましたが、場所は巴波川の西側で実際は栃木町では無く、薗部村字鶉島でした。周囲に濠を廻らした県庁敷地の正面から真直ぐ南に抜けた道路は、皆川街道のナガサワ商店の所に出ていました。現在栃木中央小学校として栃二小と統合された栃一小の正門前の道路が、旧栃木県庁の正門への道路でした。
1965年4月栃一小正門1.jpg2013年栃一小正門.jpg
(昭和40年4月撮影、栃一小正門)          (平成24年3月撮影、栃一小正門)

弘化3年(1846)の「片柳新田 字上河岸 絵図」という、念仏橋(現在の幸来橋)の西橋詰の巴波川沿いに広がる旧片柳河岸の屋敷割の様子を描いた絵図が有ります。
この絵図に「元亀橋」と記された橋の絵が描かれています。その場所は念仏橋から皆川往還と記された道を西方向に70メートル程行った所、現在の湊町派出所跡のスポットパークの南側、この元亀橋の下を流れた水は更に南側の徳田商店土蔵脇の暗渠の中を流れ、下流側で白旗山勝泉院裏手方向から流れて来た、巴波川支流の「清水川」に合わさります。この清水川はそこから東に流れて、巴波川右岸(西側)沿いの道路に架かる「湊橋」(絵図の中では「相橋」と記されています)の下を抜けてその先で巴波川に合流しています。
御用蔵1.jpg
(徳田商店土蔵の脇、暗渠になっています)

明治40年10月1日発行の「栃木県営業便覧」をめくってみると、現在の徳田商店さんの所には、「小間物袋物材料造 花材料壜細工材料 商 仁科屋號 大久保岩雄」と記されています。仁科屋は弘化3年の絵図には、「利右衛門」と記されています。ここが江戸期に片柳河岸で日光御用の諸荷物を独占して扱っていた船積問屋の仁科利右衛門の屋敷や土蔵の跡の一部になります。

現在、この湊町通り沿いの商店も年々少なく成って来ていて寂しい限りです。先の栃木県営業便覧には多くの職種の店が記されていますが、その中で現在もこの湊町通りにて営業をされている店舗は、「谷津薬舗」さん(以前は皆川街道北側、醸造業谷田吉右衛門と書かれた西隣に、薬種店として記されています)と、創業が明治元年と言う「小井沼商店」さん(以前から現在の場所に有り「茶砂糖商」と記されています)の2店舗が確認出来るだけです。
1965年8月幸来橋.jpg
(昭和40年8月撮影、幸来橋。橋南西部にお店を構えた「谷津薬舗」さん)

最近、栃木の市街地を歩いていると、空き地やそれを利用した駐車場が急に増えて来た感じがします。ここ湊町通りも状況は同じ様です。





宣教師アンドレス居宅 [懐かしい写真]

栃木市入舟町、旧県庁堀の内側に、宣教師アンドレスが住んでいた洋館が建っていました。
この写真は、私が1978年5月に撮影したもので、その時は何も知らずに、ただ旧県庁堀沿いに建つ、古い洋館という事で、写しました。
1978年5月撮影宣教師アンドレス居宅.jpg
(以前宣教師アンドレスの居宅だった洋館。右奥に栃二小の校舎の屋上部分が見える。)
1978年5月撮影宣教師アンドレス居宅2.jpg1978年5月撮影宣教師アンドレス居宅3.jpg
(この頃、県庁堀の西側は原っぱが多かった)  (県庁堀に映るアンドレス邸)

この写真の建物が、宣教師アンドレス居宅ではないかと分かったのは、栃木郷土史編纂委員会が昭和52年(1977)8月20日に発行した「栃木郷土史」の、第三章県庁設置より移転までの記事の中に、
≪官舎は敷地西側にあった。県令官舎は今の宣教師アンドレス居宅の位置に、参事は今の小根澤登馬雄宅、その南側は凡て県属僚の官舎、錦着山西南側の家宅は知事の別荘であった。・・・・(後略)≫
との注記を見付けたからです。残念ながらこの洋館はすでに立て替えられていて、見る事は出来ません。

ただ、アンドレスさんがどの教会の宣教師だったのか、その本の中には記載されていません。栃木市内のキリスト教会の歴史的な事は全く分かっていませんが、私の生活圏の中で目に留まった教会の建物は、栃木駅近く、境町の「栃木カトリック教会」と入舟町の元栃木町役場庁舎東側に建つ、「栃木聖アルバン教会」の二つです。(他にも栃木市内には多くの教会が有るのでしょうが)
栃木カトリック教会.jpg
(境町と富士見町の境界を成す九十九曲用水の左岸(東側)に建つ栃木カトリック教会)
聖公教会3.jpg
(入舟町の旧県庁堀南東角、旧栃木町役場庁舎の東側に建つ栃木聖アルバン教会)

「栃木聖アルバン教会」の沿革につきましては教会のホームページに詳しく記されています。現在の地に礼拝堂が建てられたには、昭和3年(1928)ですが私が子供の頃に、礼拝堂の脇の建物で珠算塾が開かれていました。明治40年10月1日に発行された「栃木県営業便覧」には、県庁堀の漕渠に架かる「学橋」の南東橋詰には、「宮島耳鼻科医院」の名前が見えます。平成2年(1990)現在の礼拝堂に建て替えられる前の、と煉瓦積みの門扉は宮島耳鼻科医院」当時のものでした。昭和56年2月26日発行された「ふるさとの思い出写真集・栃木」(日向野徳久編著・国書刊行会発行)の中に、「宮島耳鼻咽喉科医院」の写真が載っていますが、そこに煉瓦造りの門扉を見る事が出来ます。
聖公教会1.jpg聖公教会2.jpg
(栃木聖アルバン教会の旧拝礼堂と現在の礼拝堂)

巴波川河畔を飾る行灯 [懐かしい写真]

今年も栃木の市街地を貫流する巴波川の河畔に、行灯の灯がともっています。
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(現在行われている、巴波川の行灯まつりの様子)
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行灯には「横山郷土館」や「旧栃木町役場庁舎」など、市内の観光スポットを切り絵で表した、「岩舟石の資料館」の元館長、故川島健三郎さんの作品が使われています。

この巴波川河畔を飾る行灯は、私が子供の頃にも見られました。それは栃木市無形文化財に指定されている、巴波川の夏のイベント「百八灯流し」に合わせて、富士見町を流れる巴波川から分流した「九十九曲り用水」河畔で行われた、川柳行燈です。以下の写真は昭和44年(1969)8月に撮影したものです。
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富士見町の川沿いにズラッと立てられた行灯の一つ一つに、スポンサーに関する川柳と水墨画が描かれていた記憶が有ります。どんな川柳だったか良く覚えていませんが、「松栄の寿司を涙で食べており」、こんな作品が有ったような。行灯に描かれた川柳は、現在も地元で活躍している「不二見川柳社」の皆さんの作品だったと聞いています。

又、この頃は「百八灯流し」の会場、巴波川橋の下流部三番堰付近の川の上に舞台を組んで、歌やマジックショーなどが催され、巴波川橋の橋の上や川べりには見物客が溢れ、身動きが出来ないほどだった事が、思い出されます。
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(巴波川橋の上に溢れる見物人のシルエットと、光り輝く舞台)
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(巴波川の川面に写る舞台)        (舞台周りを飾るスポンサー名の入った行灯)

そして、昭和47年(1972)8月には、栃木青少年ホーム利用者の皆さんが作った川柳や水墨画の行灯が祭り会場に華を添えていた事も有りました。
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行灯の一つに夏祭りを詠んだ川柳が有りました。「出不精が 子にせがまれて 夏祭り」甚句さんの作品です。

現在の行灯も数年後には、懐かしい夏祭りの思い出になっているのかも知れません。
今年ももうすぐ、巴波川の「百八灯流し」が行われます。この日は12時から21時まで、蔵の街大通りや銀座通りなど、各所で色々な催しが行われる「蔵の街サマーフェスタ2016」です。楽しみです。




栃木市街地に有った建物 [懐かしい写真]

今回は以前栃木の市街地で見かけた建物で、現在はすでに無くなって、見る事が出来なくなった写真を紹介したいと思います。これらの写真は私が40年ほど前に撮影をしたものです。
最初は旭町の神明宮参道、現在の蔵の街観光館脇の道を入った左手に有った、通称「蔵のアパート」です。
蔵のアパート.jpg
(蔵のアパート、道路正面突き当りが神明宮)
この写真の建物は、栃木市出身で長崎市に住んでいる田村家の方が、平成4年5月に栃木市に寄贈されました。明治40年発行の「栃木県営業便覧」を調べると、大通りの神明宮入口左側の角、現在の蔵の街観光館の場所に、「麻荒物商、八百屋号 田村金五郎の名前が記されています。通称「八百金」と呼ばれていたそうです。大通りに面した見世蔵を現在観光案内や物産店とし、その裏に続く土蔵群は整備してお食事処や多目的ホールとして活用。栃木市の観光拠点の一つに成っています。
蔵のアパート3.jpg蔵のアパート2.jpg
(左手前の土蔵が現在の「蔵の街観光館」)(現在は綺麗に生まれ変わった土蔵群)

参道を神明宮に向かって進むと、鳥居を潜った先、やはり左側に有ったのが、藤沼写真館の建物です。
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(藤沼写真館)
神明宮に詣でる時には、この前を必ず通りお店の前のショーウインドウに飾られた写真を眺めるのも楽しみでした。七五三祝いの記念写真などが飾ってありました。

神明宮に隣接する第二公園の南側に有る、三鬼尊で有名な万福寺北側の築地塀です。
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(万福寺の築地塀)
この築地塀とその奥の竹林が、落ち着いた風情を漂わせていて、私の好きな風景でした。何度も足を運んでは、同じ風景を撮影していました。
雪の萬福寺築地塀.jpg萬福寺北側築地塀2.jpg

近龍寺の南門から神明宮の大鳥居の前を横切って南に抜ける道路と、東銀座通りとがぶつかる角に、昔「勧工場」と呼ばれた建物が有りました。
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二階窓の鎧戸が珍しく感じて、写真に収めました。

煉瓦造りの倉庫と思しき建物の写真、撮影場所が今一つはっきりしませんが、倭町の大通りから西に入った道路沿いに有った記憶が残っています。
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(煉瓦造りの倉庫)
煉瓦倉庫2.jpg煉瓦倉庫3.jpg
(ドアの取っ手や蝶番のデザインが面白い)

今ではすでに姿を変えたり、取り壊されて無くなっています。
最近、栃木の街の中を歩いていると、空き地が増えて今まで見えなかった風景が現れたりしています。何時も脇を通っていたのに、無くなってしまうと時々、ここにはどんな家が有ったのか思い出せない事が有ります。そんな昔の事など知らない若い人たちが、どんどん増えているのでしょう。
今回紹介した建物なども、昔はどんな様子だったのか、私にも分からないのと同じように。






栃木市街地、すっきりと綺麗に [懐かしい写真]

今回も私のアルバムから、昭和54年(1979)栃木市の駅前大通りから銀座通りにて撮影した写真です。今から37年前という事で、大きく変わってしまった所は有りませんが、大通りは電柱の地中化や商店街のアーケード撤去が行われ、街並みがすっきりとなり、空が広がって綺麗に感じる様になりました。
しかし、最近は大通りもミツワ通りもすっかり人影も無くなってしまい、寂しい限りです。
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(1979年栃木駅前大通り。正面突き当りが栃木駅)
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(栃木駅前は、駅舎が高架駅に又周辺の建物も、三階・四階のビルに建て替えられました)
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(1979年みつわ通り商店街入口。左側がイトーヨーカドー栃木店)
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(みつわ通りの入口付近、以前はイトーヨーカドー周辺は自転車が溢れていましたが。)
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(1979年、沼和田用水。奥に見える橋が南関門通りの「片柳橋」)
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(現在の「片柳橋」付近。橋の高欄も新しくなりました。右側は駐車場に変わりました)
1979年旧警察署前.jpg
(1979年の栃木警察署前の大通り。「ヤオハン」や「鯉保」の文字を確認できます)
2015年旧警察署前.jpg
(現在の旧栃木警察署前付近。今右側警察署跡地活用の検討が進められています)
1979年西銀座通り.jpg
(足利銀行栃木支店前より、西銀座通りを撮影。歩道には自転車が溢れています)
2016年西銀座通り.jpg
(栃木商店街の中心「西銀座通り」も、今は自転車も人影も消えてしまった様です)

これから20年後、30年後、この街並みはどんなふうに変わって行くのか。

変わる栃木の街(1981年の2枚の写真) [懐かしい写真]

1981年のフィルムを整理していたら、懐かしい写真が目に留まりました。
一枚は、現在「ALWAYSカマヤ」と言うレストランとして活用されている建物の写真。撮影をした当時は栃木市の教育委員会庁舎でしたが、元は昭和9年(1934)に足利銀行栃木支店として建てられたものです。
昭和48年(1973)から平成16年(2004)まで教育委員会庁舎でしたが、その後一時空き家になっていました。解体する話も有りましたが建物を活用する為、公募によって地元老舗のうなぎ屋「釜屋」が、フレンチと和とを融合した食事を提供するレストランをオープンしました。
お店の名前「ALWAYSカマヤ」は2005年に公開された映画「Always三丁目の夕日」の撮影ロケ地となった事に因み付けたと言われます。
1981年旧教育委員会庁舎.jpg
(栃木市教育委員会の庁舎だったころの写真)
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(レストラン「ALWAYSカマヤ」となっている現在の写真)
もう一枚は上記場所の南側、現在は栃木市役所にもなっているビルの建つ場所の、1981年当時の写真です。手前の商店に、「洋品の大谷」の名が確認できます。
平成2年(1990)に福田屋百貨店のビルが建てられ、古い商店街の風景が一変しました。その福田屋もお客さんの減少に、平成22年(2010)閉店を決定、その後市街地の活性化を図るものとして、平成26年(2014)栃木市の市役所新庁舎として生まれ変わり、現在に至っています。
1981年用品の大谷商店前.jpg
(福田屋百貨店のビルが建つ前、洋品店と酒店が写る写真)
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(1階に東武百貨店も入っている、栃木市役所の新庁舎。)
福田屋百貨店については、一つ思い出が有ります。開店した当時に家族で買い物に出かけた時、私が1階フロアーの椅子で待っていた時、目の前のエスカレーターが急に停止したのです。そしてその場には警備員の方と私の息子が立っていました。警備員さんの説明に依ると、小さい子がエスカレーターのベルトに触って遊んでいて、その手が挟まれそうになったので、緊急停止ボタンを押して停めたのだそうです。その後店舗の奥に行って怪我をしていないか確認、幸い問題は無かったのですが、開店して最初にエスカレーターを停めてしまったのでした。今では遠い昔の話になってしまいました。

栃木市皆川城内町周辺の河川と橋 [懐かしい写真]

今回は、旧栃木市の西の端、皆川城内町周辺の河川と橋を、懐かしい写真と合わせて巡りたいと思います。写真は私が今から30年ほど前に撮影したものですが、あらためて見ると現在とは全然違う風景でした。
最初の写真は永野川を渡り、大皆川町から皆川城内町に入る、「大砂橋」です。現在は橋の西側に有る「栃木県立栃木特別支援学校」へのスクールバスが通行できる広い道路と立派な橋梁に変わりましたが、写真の撮影した昭和57年(1982)1月11日の頃は、二輪車が通行できる程度の細い橋が架かっていました。
大砂橋1.jpg大砂橋2.jpg
(永野川に架かる以前の「大砂橋」)      (現在の「大砂橋」)
ちなみに現在の橋が竣工したのは、平成15年(2003)3月です。
この大砂橋の直ぐ上流側で永野川右岸にそそぐ小河川が有ります。皆川城内町の中心部を流れて来た「藤川」です。大砂橋を渡り藤川に沿って、皆川城内町の中心部に向かいます。
藤川1.jpg藤川2.jpg
(河川改修工事中の藤川。奥に見える建物は特別支援学校)  (現在の藤川)
昭和57年撮影に来た時は、丁度東北自動車道の南側を西から東に流れる、藤川の河川改修工事が進められていました。
東北自動車道の下を抜け、街の中を走る県道75号線に出ます。藤川に架かる県道の橋には白い鉄パイプのガードレール状の高欄しかなく、橋名表示も一切ありません、そしてその直ぐ下流にも小さな橋が架かっています。以前はコンクリート製の高欄が付いていましたが、現在はガードレールに変わっています。
新皆橋下の橋.jpg新皆橋下の橋2.jpg
(「新皆橋」下流の橋。奥に見えるのが、県道75線に架かる「新皆橋」)
その橋の東詰めに大きな石が3個建てられています。表面に何やら文字が刻されていますが、うまく読めません。何か供養塔と思われます。東宮神社の参道にも同様に大きな石が3個並んで建てられていました。こちらも文字は確認できません。機会が有ったら今度調べたいと思います。
橋詰の三石.jpg東宮神社参道の石.jpg
(橋東詰に建てられた3個の大きい石。供養塔か) (東宮神社参道脇に立つ大きな石3個)
県道を越えた所で、藤川は西に曲ります。位置関係が説明難しくなったので、河川と橋の概略図を作ってみました。
皆川城内付近の河川と橋概略図.jpg
(皆川城内町中心部を流れる河川と橋梁の概略図)
皆川城内町の道路配置を見ると、東方の栃木の市街地から、永野川の「対嶺橋」を渡って来た県道75号(栃木佐野線)は東北自動車道を抜け、皆川城内町の中心部に来ると、Y字路になる。左手(南側)の道は県道でそのまま真直ぐ西に抜けていきます。右手は皆川城址の南麓を西に進み、皆川家歴代の祖廟が有る、金剛寺山門前に至り、寺院の南側を迂回する形で、柏倉方面へ進む。この2本の道路の間を藤川は流れている。そしてこの2本の道路を繋ぐ横道に東側から、「落矢橋」「仲倉橋」「伊勢屋橋」が架かっています。
落矢橋1.jpg落矢橋2.jpg
(落矢橋、奥が皆川城址)               (現在の「落矢橋」)
仲倉橋1.jpg仲倉橋2.jpg
(「仲倉橋。奥に皆川城址とその前に移転前の皆川中学校の校舎)(現在の仲倉橋)
伊勢屋橋1.jpg伊勢屋橋2.jpg
(伊勢屋橋。左奥に金剛寺が見える)      (現在の伊勢屋橋)
県道から伊勢屋橋へ至る路地の入口付近に立派な家が建っていました。
旧家1.jpg旧家2.jpg
(西側に現在も残る立派な店構えの建物)(東側、元旅籠の「いせや」現在は取壊されました。)
路地の西側に建つ建物は現在も残っています。路地東側に有った建物は現在は無くなりました。
「栃木市史」に掲載されている「皆川宿」の絵図面を見ると、路地西側には「造酒屋(幸島分家)」路地東側角に「いせや(旅籠)」の文字が記されています。又、路地を入り藤川に架かる橋を渡った左側には「うらいせや(旅籠)」と有ります。この橋の名前「伊勢屋橋」はこの旅籠の名前に因んだものと分かります。
藤川を遡るとこの先も西に向かい、南柏倉の県道126号の南側を流れています。その源流は、更に西方の佐野市(旧葛生町)との境の山頂に祀られた琴平神社の東麓になります。
皆川城内町にはもう1本、北柏倉の聖徳太子を祀った山の更に北西奥の沢を源流とする「柏倉川」が流れています。
この「柏倉川」は太子館の前を流れ、「久保山橋」から東へ県道126号の北側を流れ下り、金剛寺の北側「谷津橋」そして皆川城址前方の観音堂間から少し南に方向を変え、藤川の「仲倉橋」と「落矢橋」との間にて藤川左岸に合流します。
久保山橋1.jpg久保山橋2.jpg
(柏倉川に架かる久保山橋)         (現在の久保山橋)
谷津橋1.jpg谷津橋2.jpg
(柏倉川に架かる以前の「谷津橋」)              (現在の「谷津橋」)
観音橋1.jpg観音橋2.jpg
(皆川城址・旧皆川中学校校舎そして藁葺屋根の観音堂)(新しい観音橋と観音堂)







栃木市の煙突の有る風景(その3) [懐かしい写真]

栃木市内で見られた煙突のある風景をこれまで2回紹介しました。今回はこれまでの様な大きな煙突では無く、今も街中に残る銭湯の煙突を探してみました。私自身は子供の頃に、数回利用した記憶が残っていますが、成人してからは利用しなくなりました。
数年前までは市内でも何軒か営業をされていたと聞いていますが、現在は室町ミツワ通りに面している、「玉川の湯」さんだけになってしまったのではないでしょうか。
私の母は生前、その「玉川の湯」さんや万町の「アルプス温泉」さんに良く出かけては、お湯につかったり、銭湯の2階で友達と会話をしたり、踊りを見たり踊ったり楽しい時間を過ごしていました。
今回改めて街中を歩いて、銭湯の煙突を見て回りました。
まずは現在も営業をされている室町の「玉川の湯」さん、通称「金魚湯」と呼ばれています。
玉川の湯1.jpg
(ミツワ通りに面した「玉川の湯」さん。手前の鳥居は「鹽庚申」様)
玉川の湯2.jpg玉川の湯3.jpg
(明治22年創業と言う、玉川の湯さんの煙突と銭湯の入口)
そして万町、栃東中正門前から西に抜ける道路に面する「アルプス湯」さん。
アルプス湯1.jpgアルプス湯2.jpg
同じく万町、近龍寺山門前の「鶴の湯」さん。こちらの御風呂屋さんには、チョッとした思い出が有ります。まだ私が若かった頃、市内の風景を撮影していた時、「鶴の湯」さんの御主人に「写真を撮るな」としかられました。
確かに良く見ると、「撮影禁止」の張り紙がして有りました。それを見逃した私が悪かったのです。今回は遠目で煙突の見える風景として撮影をしました。
鶴の湯1.jpg鶴の湯2.jpg
次は旭町、神明宮第二公園の東側、文化会館方向へ向かう道路に面した「福の湯」さんです。
福の湯1.jpg福の湯2.jpg
他にも、市内には銭湯が有りました。私の記憶に残っている所では、泉町の北関門通りに面して「那須温泉」と言う銭湯が有りました。その当時銭湯の入口の上に「那須温泉」と記した街灯が付いていて、夕暮れになるとチョッと風情が感じられました。何度か撮影をしたいと思いましたが、とうとう撮らずじまいでした。今思うと本当に残念でした。
もう一軒、泉町には銭湯が有りました。「翁の湯」さんです。北関門通りの1本西側を通る細い裏通りに面して有りました。ここも現在は空き地になっています。北側には「積善会病院」と呼ばれていた病院の古い建物が今も残っています。
翁の湯.jpg
(嘉右衛門通りを進むと右手に古くなった土蔵が残っています。その裏手に「翁の湯」の煙突が見えました。でも今はもう有りません。)
無くなってしまってから何時も思います。写真に残しておけばな!と。でもいつも見ている風景は、何時までも有るのではと錯覚をしています。煙突もいつか取り壊されて無くなって行く運命なのかもしれません。
「梅の湯」.jpg
(幸来橋の北東側、倭町の裏通りに面し「梅の湯」が有りました。1966年撮影)



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