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人柱伝説「おゆわ淵」 [栃木市の河川と橋]

日本の各地に、「人柱」に関する伝説・民話が、語り継がれて来ていますが、その「人柱伝説」で有名なのは、摂津国(現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部の一部)淀川に架かる「長柄橋」が有ります。この橋は弘仁三年(812)に初めて架設されたとするのが定説と成っていると云われます。
吉田巌編「橋のはなしⅡ」(技報堂出版)に、「長柄の人柱」の伝説について、「摂津名所図会」のものを紹介しています。
私はこれまで単に「雉も鳴かずば撃たれまい」のフレーズだけを何かで聞いて、家の近くの田んぼの中で、よく鳴き声をたてている雉を観察していましたが、この歌「物言わじ父は長柄の人柱 鳴かずば雉子も射たれざらまし」と云うもので、長柄橋の人柱と成ってしまった父親を持つ娘が、全く物を言わなかった事で、嫁ぎ先から離縁され、夫の送られて実家に帰る途中、雉が鳴いたのを聞いた夫がその雉を射止めた時に、その娘がこの歌を口にしたと言うものです。
父親が人柱に成ってしまった経緯は、長柄橋の架橋工事は難工事で、架けても直ぐ又流されるという事を続けていた為、この父親が「継の有る袴をはいている人を人柱にすればうまくゆく」と提案。ところが不幸にも自分の袴に継ぎが有った為、人身御供として水底に埋められてしまっていたのでした。
<雉も鳴かなければ気付かれる事も無く、射止められる事も無かった。>
<父親も人柱の提案をしていなかったら、そこで死ぬことは無かった。>と。

こうした人柱の伝説は、殆んどこのパターンに成っていて、犠牲に成るのは人柱を提案した本人や、その身内(娘)と成っています。

栃木市を流れる「巴波川」にも、同じような人柱伝説が有ります。
「おゆわ淵」と言うお話は、栃木市藤岡町部屋地区に伝わる物で、「とちぎの民話 第一集」日向野徳久編・㈱未来社発行の中に、「うずま川の人柱」の話が載っていて、その一つとして「おゆわ淵」が紹介されています。話の内容では、伝説としては多くの具体的な事柄が出て来ています。
何時:慶長三年(1598)2月、 どこで:部屋村涸沼堤防、 誰が:押切村の大久保唯一の14歳ばかりの娘<おゆわ>、どうなった:堤防工事の穴の中に生き埋めにされてしまった。
昔の事ですから本当に「人柱」が行われたケースも有った事は否定できませんが、この「おゆわ淵」の人柱の話も先に紹介した「長柄の人柱」の様な昔話を、地方の多くの人が伝え聞いて、地元の話として脚色して、その子供達に話して聞かせたもののひとつであると考えたいと思います。
「おゆわ淵」の話は、他の伝承では「部屋」「名主」「名主の娘、おゆわ」の名前が出て来ますが、何時か?という事に関しては「昔」とだけに成っています。時代が分かりませんから、「名主」も具体的に誰とは確定できません。
私は物語の地元に住んでいませんので、「おゆわ淵」が何処に有ったのか知りません。部屋地区を流れる巴波川の流域の何処かにそれらしき所が有ったのかも知れませんが、この川も長い月日の中でその姿を変えて来ているでしょうから、今それを特定する事は無理な話なのかもしれません。色々と地図や地元の書物などを調べていると、「村では小さな祠を建てて祀った」としており、大正7年に「おゆわ稲荷」だけは部屋地区の帯刀研修館の中に移転されたと記されています。(地元の方ならだれか、その「おゆわ稲荷」が祀られていたという場所を知っているのかも知れません)
帯刀研修館1.jpg
(おゆわ稲荷が移転された部屋地区の帯刀研修館)
「うずま川の人柱」の話には、もう一つの人柱伝説が紹介されています。その話は、「おゆわ淵」から一里半(6キロメートル)ばかり上流の、下初田村(現在の小山市下初田)というところにある「亀の子堰」に関するもので、内容的には「おゆわ淵」と同様です。
こちらの人柱と成ってしまうのは、やはり名主の幼い娘、名前を「かめ」と云いました。何度も何度も直してはまた切れてしまう「堰」の工事に、「これじゃ、賽の河原の石積みと同じこんだんべ」「ふんだ。」「むだだからやめとくべじゃねえか」とつぎちぎに働く手をやめてしまう。そのときひとりの老人が「やっぱし人柱でもたてなくっちゃなあ」とつぶやいてしまう。それを聞いたある村の名主が、「ええ事に気がついてくれた。それがよかんべ。」ということになり、名主のいう事に逆らえない状況に成って、結局いちばんはじめに弁当をとどけた者を人柱にすると決まってしまいます。ところが、皮肉なことに、一ばんはじめに弁当を持ってきたのは、「かめ」という名主の幼い娘。(あわてた名主は手を振って「戻れ戻れ」と必死で静止をするのを、娘は父親が「早く来い早く来い」と呼んでいるものと急いで駆けて来て、無残にも人柱と成ってしまう。)かわいそうな娘の名を堰の名として今に伝えています。
※小山市観光協会ホームページの中にも、「小山の伝説」にてこの「亀の子堰」の話も紹介されていましたので、参考にさせて頂きました。

私の悪い癖でこうした話の場所を、特定したくなるのですが、やはり地元では無いので分かりません。先ほどの「おゆわ淵」同様、小山市の方に聞けば良いのでしょうが。
小山市観光協会ホームページで紹介している「小山の伝説」に記されている内容をじっくりと読み直してみると。<巴波川の支流与良川の流れを取り入れた、生駒・下河原田・小袋・井岡・鏡・中里・寒川・迫間田などの水田をうるおすために設けられた。>と成っていますが、これらの地域は現在の巴波川の左岸(東側)で、与良川との間に分布しています。
私は「亀の子堰」の所在を当初、巴波川から現在の与良川に水を取り入れている堰の事と考えていましたが、この堰の有る場所は下初田よりかなり北側、上初田の更に北側に当たる大平町北武井に取水口が設けられています。
川島堰.jpg
(私がこれまで「亀の子堰」と勝手に決めていた「川島堰」、後方の橋は「寿橋」)
川島堰から取水した用水路.jpg川島堰記念碑.jpg
(取水口から出て巴波川左岸の堤防の脇を南流する用水路)  (川島堰改修記念碑)
「亀の子堰」は小山市下初田に有る筈として、見直してみると、下初田の南西部の巴波川左岸に取水口が有ります。
中村橋下流の堰.jpg
(下初田南西部の巴波川中村橋下流の堰、対岸の森は「大川島神社」)  
ここから取水された用水は南隣りの「生駒」との境界に沿って東側を大きく回り込んだ後、巴波川の左岸に沿って下流の本郷橋近くまで流れそこから南に流れを変えて、下河原田から小袋・井岡方面の水田を潤しています。こちらの用水路の方が、ロケーションとして合っているのではと、勝手に納得をしています。
小山市生駒の用水路.jpg巴波川廃川敷開田記念碑.jpg
(巴波川左岸を生駒方向に流れる用水路)  (水路脇に建つ「巴波川廃川敷開田記念碑」)
蔵前橋付近の水路.jpg蔵前橋親柱.jpg
(生駒で県道36号と交差する水路上流側を望む) (県道に架かる「蔵前橋」の親柱)
昭和40年頃の国土地理院発行の2万5千分も1の地形図を確認するとこの地域はまだ土地改良事業以前の状態で、水路が網の目の様になっていて、現在の様な畦道が直行する碁盤目の様な農地では有りません。もしかしたら「亀の子堰」は巴波川では無く、巴波川から分流した支流の更に分岐点で有った可能性も考えられ、結局「ここでは」と言う場所を特定できませんでした。

巴波川の幸来橋のたもとの「塚田歴史伝説館」では、全自動ハイテク人形が登場する、「巴波川悲話」というこれまで紹介したものと同じような「人柱伝説」のお話を、人形劇として見せています。
幸来橋と塚田歴史伝説館.jpg
(幸来橋と巴波川左岸に続く塚田歴史伝説館の土蔵と黒塀)
塚田歴史伝説館.jpg
(最初に塚田歴史伝説館の説明をする老婆の人形、手前の話を聞く男性も人形)
「人柱伝説」の電動人形劇は、撮影禁止でしたので、写真は有りません。

河川や橋梁には、こうした伝説が色々な形で語り継がれて来ています。


渡良瀬川と三杉川との合流点へ [栃木市の河川と橋]

栃木市内の最も西側を流れている三杉川。その源流は栃木市の小野口町と岩舟町小野寺との境界部と成る山間の沢水としています。
三杉川2.jpg
(三杉川の最上流部に架かる「境橋」、元は栃木市と岩舟町との境界と成っていた)
その後、小野寺地区にて東北自動車道に沿って西に向かい、村檜神社東方付近で大きく流れを南に変え、同じく南に方向を変えた東北自動車道に沿って南流。岩舟JCTの東から、岩舟町上岡、下岡を抜け、その南にて古江地区と新里地区の境界を三毳山の北麓まで至ります。
三杉川3.jpg
(岩舟町古江と新里の境界を流れる三杉川、正面の山は三毳山)
三毳山に南進を阻まれた流れは方向を南南西に変え、両毛線の北側に沿って佐野市関川町に至ります。三杉川は東北自動車道の下を潜った所で再び流れを南に変え、そこからほぼ一直線に流れて渡良瀬川との合流点に向かいます。
三杉川1.jpg
(旧例幣使街道に架かる「関川橋」、右手三毳山、左手奥に岩船山)
昭和20年の終戦前までは、三毳山の西側には「越名沼」と言う大きな沼が存在していました。それまでは三杉川はこの越名沼に流入していたと思われます。戦後に成って、越名沼の干拓が本格的に進められ次第に沼は姿を変えて、水田地帯となります。
三杉川5.jpg
(越名沼干拓により出来た水田地帯の中央を流れる「三杉川分水路」)
三杉川は昔の越名沼の西縁を南流する形となり、越名沼の南端付近、現在の願成寺橋以南にて再び、栃木市と佐野市の境界付近を流れ、佐野市高山町地先にて西方向から流れて来た渡良瀬川の左岸に合流しています。
三杉川4.jpg
(イオンモール佐野の東に沿って南流する三杉川)
現在この合流点には「越名水門」と称する、高さ10.8m、幅20.0m、長54.5mの水門が1974年8月に建設されて、水門北側三杉川右岸に立派な「三杉川排水機場」が建っています。
越名水門1.jpg
(渡良瀬川左岸に建つ「越名水門」、下流側より撮影)
越名水門5.jpg
(水門の先で三杉川は渡良瀬川に合流している)
越名水門2.jpg越名水門3.jpg
(越名水門と銘板)
越名水門4.jpg
(三杉川排水機場、右奥の山は三毳山)
越名水門6.jpg
(三杉川排水樋管と前方を流れる渡良瀬川)

これら、水門・排水機場・排水樋管の役目は、台風等で渡良瀬川が増水した時に、支流の三杉川に逆流するのを防ぐ為の仕組みに成ります。通常時は越名水門は開いていて三杉川の流水は水門を抜けて渡良瀬川に落ちて行きます。その渡良瀬川の水位が上がって来た時には、水門を閉じ三杉川に逆流しないようにします。一方三杉川を流れて来た流水は、三杉川排水機場にてポンプアップして水位を上げて、三杉川排水樋管を通して、渡良瀬川に放水させます。従って、排水機場が正常に動かないと、三杉川の水が堤外に放出出来ず、堤内が浸水被害を受けてしまう事に成ります。
そんな重要な施設を再確認して帰路に付きました。帰りは登り坂と成る為自転車のペダルが重く感じられました。




栃木市嘉右衛門町に有った長沼 [栃木市の河川と橋]

現在、県道32号(栃木粕尾線)は、北隣り鹿沼市粟野町下永野より、栃木市星野町に入り南東方向の栃木の市街地中心部に向かう。国道293号線を横切り、東北自動車道栃木インター入口前を通過し、イオン栃木店の南の箱森町交差点にて、県道309号(栃木環状線)を横切り、そこから向きを東方向に変え、真直ぐに東武日光線新栃木駅前に突き当たります。
実際は途中の県道3号線(宇都宮亀和田栃木線)と交差する、新栃木駅入口交差点までになり、そこから新栃木駅前までは県道117号(新栃木停車場線)に変わります。
現在この道路を境に南側は嘉右衛門町、北側が大町となっている場所に、長沼と呼ばれた東西に細長い沼が有りました。
県道32号線、八幡橋付近1.jpg
(県道32号、長沼が有った付近。明治中期頃までこの道路は有りませんでした。)

江戸時代の天保七年と言うと、西暦では1836年になりますが、その時代の絵図にその「長沼」が描かれています。その絵図は小平柳村川東絵図面」で、此処に有る川とは現在の巴波川の事ですが、絵図には川の名前は記載されていません。
描かれている範囲は、西から南は巴波川の左岸、東側は嘉右衛門町の旧日光例幣使街道から西側、北は八幡宮から川上稲荷神社辺りまでになり、その中の八幡宮の西側に「長沼」と記された沼が描かれています。
八幡宮社殿.jpg八幡宮扁額.jpg
(県道32号の北側に祀られている八幡宮)      (八幡宮社殿正面に掲げられた扁額)

明治19年に発行された迅速測図には沼としては描かれず、1本の線にて水路の存在が確認出来るだけです。その後発行された栃木の2万5千分の1地形図を調べてみると、昭和7年12月28日大日本帝国陸地測量部発行と、次の昭和22年9月30日地理調査所発行の2枚に、虫眼鏡で良く確認すると、南北100メートル、東西10メートル程の細長い沼が見えます。その北側の端に橋の地図記号が確認出来ました。
この橋は今ではその存在も確認し難くなってしまいましたが、道路拡張前まではコンクリート製の高欄を持った小さな橋でした。私が1986年に撮影した写真に、橋の高欄が写っています。橋の名称は「八幡橋」といい、橋の東方に祀られている「八幡宮」から命名されたものと考えます。
八幡橋(旧).jpg八幡橋(新).jpg
(八幡橋、1986年撮影)              (2015年撮影の八幡橋)

現在、この八幡橋より上流側下流側を見ると、かってどれほどの大きさの沼だったものか、想像する事は難しい。
八幡橋の上流側.jpg八幡橋の上流側水路.jpg
(橋の上流側、元長沼の上流端)         (その先に有る細い水路は八方堂方向へ)
八幡橋の下流側.jpg長沼流出水路1.jpg
(橋の下流側、両側に住宅が迫る)     (沼の下流側南西方向住宅地へ続く水路)
元長沼からの流出水路は、現在の栃木第三小学校正門に向かう道路の下を抜けて南西方向の住宅の間を流れて行きます。水路はその先の住宅地の中で「くの字」に曲り南東方向に向きを変え、妙唱寺の裏手(西側)を南流して、翁島の北側から東側を回り込んで、巴波川に落ちています。
妙唱寺裏手の水路1.jpg翁島北側の水路1.jpg
(妙唱寺西側を南流する水路)        (翁島北側から東側へ流れる水路)

天保七年の絵図面に描かれている「長沼」には、下流端で流出ルートが2本有り、上記の妙唱寺裏を流れる水路の他に、東側に向かって流れ出し、東側を南北に通る「三日月道」に沿って南流した後、例幣使街道の西側を並行して通る裏通りに沿って、翁島東で西側ルートの水路と合流、すぐその先で巴波川に落ちる水路が有ります、こちらは現在殆んど暗渠となっています。
長沼流出水路2.jpg巴波川への落ち口.jpg
(油伝味噌店舗裏手三日月道の暗渠)(翁島入口の下を流れ巴波川への落ち口、写真右側)

昭和23年頃の長沼周辺図.jpg
(元「長沼」の周辺の様子を昭和23年撮影の空中写真を基に概略図を作成)
上記概略図にて赤く塗った道路は、明治19年発行の迅速測図に記された道路になります。この長沼から翁島の所で巴波川に至る水路は、現在も確認することが出来ます。そしてその水路の位置が、天保七年に描かれている水路の位置と殆んど一緒で有る事に、驚きを感じずにおれません。

※上記概略図を作成する為の基とした空中写真は、国土地理院所有空中写真「UR1514-CA-19」になります。撮影日は昭和23年(1948)6月8日です。






栃木町を潤したもう一つの水源、大ぬかり沼 [栃木市の河川と橋]

栃木市街地の中央、市役所本庁舎ビルと通りを面した所に、元「古久磯提灯店」の古い見世蔵を活用し、栃木市所縁の浮世絵師「喜多川歌麿」の数少ない肉筆画の大作「雪・月・花」の高精細複製作品等を展示する、「とちぎ歌麿館」が有りますが、建物の中に入ると、北側奥の壁に大きな「江戸時代の栃木町絵図」が、掲示されています。
歌麿館1.jpg栃木町絵図1.jpg
(大通りの向かいに見える見世蔵が「とちぎ歌麿館」)(掲示されている宝暦9年栃木町絵図)
絵図は宝暦9年(1759)の栃木町を描いたもので、町の中央を縦に1本広い道路が貫いています。「日光例幣使街道」です。絵図の左側から下側を青く染めているのが、栃木市の郷土史家「日向野徳久」先生が「栃木の母なる川」と称した、「巴波川」の流れ。絵図の右側中央に現れ、右端を下に進み少し中央部に出てくる、青い線が「杢冷川」で下側で「巴波川」に落ちています。そして、上部中央から例幣使街道の東側をほぼ並行して描かれている、細い青い線が「満福寺用水路」と呼ばれた水路と思われます。
江戸時代の栃木の町は例幣使街道を中心にして、その両側に短冊状に屋敷割がされ、通りの西側の屋敷の敷地は、通りから巴波川縁まで、通りの東側は通りから用水堀まで貫いています。
そして大通り(例幣使街道)の中央にも、青色の線が上町から中町そして下町まで流れ、通りから東に外れた後、巴波川に落ちています。
この大通りの中央を流れる水路や東側を流れる満福寺用水路の水源はどこなのか、宝暦9年と栃木町絵図には、町の北の木戸外は描かれていません。栃木町を潤した水はどこから来たのか、栃木市の歴史書を開くと、答えは簡単に見つかりました。
「栃木市史資料編近世」の巻頭口絵に上記の「宝暦9年栃木町絵図」の写真と一緒に掲載されている「例幣使街道栃木宿絵図」そして「うづま川絵図」の写真の中に、栃木町の直ぐ北側、嘉右衛門新田や大杉新田(現在の泉町の西側、嘉右衛門町との境)付近に、「大ぬかり沼」と記された沼地が描かれて、その沼の南端から流れ出た水は、現在の桜井肥料店の屋敷の北西角付近で三筋に分岐。一つは北の木戸の外に架けられた土橋の下を潜って、通りの東側「満福寺用水路」として流れ、一つは上町通りの西側の屋敷の裏手を数軒下がった屋敷の間から大通り中央に出て、そこから通りの中央を流れる水路となります。そしてもう一つの流れは町の西側を南南西に流れて、巴波川に落ちています。
天保年間の栃木町と大ぬかり沼の推測絵図.jpg
(栃木市史に掲載されている絵図の写真を元に、栃木町とその北側の新田付近を模写)

現在、大ぬかり沼は姿を消しています。何時ごろ埋め立てられたのか、これまでの所資料を眼にしていません。明治19年に発行された栃木の迅速測図にもその姿は確認できませんから、江戸時代の後期に埋め立てられてしまったものと思われます。天保8年(1837)に描かれた、「栃木町並栃木続新田村屋舗図面」(栃木郷土史に掲載)には「大ぬかり沼」が描かれています。

「大ぬかり沼」の名前が記されている資料としては、栃木市史に掲載されている、「文化2年(1805)2月、栃木町明細書上帳」が有ります。その中には以下の様に記されています。
≪大ぬかり沼より落口字内善橋  一、土橋壱ヶ所 但し長さ弐間余 横幅9尺 右橋普請修覆共に栃木町に而仕候≫
又、同資料に、
≪一、用水 是は大ぬかり沼より出水、町中を相流用水并に東裏田地用水に而、右沼より10丁余過下町東裏に而 巴波川江流落申候 尤渇水の節は当町より軒別に罷出、沼浚い仕候≫
などの文章が認められました。

現在、町の中を歩いて見ると、此処彼処に昔の水路の跡と思しき風景を目にすることが出来ます。
現在の大町の大杉神社裏手には、出水の跡が存在します。
大杉神社裏手湧水池1.jpg大杉神社裏手湧水池2.jpg
(大町大杉神社北側の出水の跡)   (出水の西側から真直ぐ南に水路が伸びている)
そしてその出水から大町公民館の西側を南流する堀割が、例幣使街道と大通り(北関門通り)との間に位置する道路に沿って、嘉右衛門町のヤマサ味噌の樽洗い場の有った場所の南側で、道路の西側から東側に移って更に南に続いています。
大杉神社裏手湧水池3.jpg大杉神社裏手湧水池4.jpg
(大町と昭和町境の道路沿いを南に流れる)    (ヤマサ味噌の元樽洗い場付近)
そして、ヤマサ味噌工場の裏手(東側)、樽洗い場の南側で道路が二股に分かれます。私の思うところこの2本の道路に挟まれた場所がその昔、大ぬかり沼が有った所ではないかと、考えています。
大ぬかり沼1.jpg大ぬかり沼跡2.jpg
(嘉右衛門町と泉町との境。元大ぬかり沼の北端か?) (水路は一路、万町櫻井肥料店裏方向へ)
そして、今も残る一筋の用水路は、桜井肥料店の北西角の水門へと至ります。
桜井肥料店付近.jpg桜井肥料店裏手水門1.jpg
(万町、桜井肥料店前、江戸時代ここに栃木町北の木戸が設けられていた)(桜井肥料店裏の水門)
この水門の上流側で、桜井肥料店の北側を暗渠となって東に向かう水路の口を見る事が出来ます。又、水門の下流側は「万盛橋」の下を潜り、蚤の市通りの西側に沿って一部暗渠となって流れ、市役所の駐車場ビルの南側で巴波川に落ちています。
桜井肥料店裏手水門2.jpg巴波川合流点1.jpg
(桜井肥料店北側、暗渠化した水路が見えます)(市役所駐車場ビルの手前右手中央に用水落ち口)
大通りの中央に有った水路は、第三代栃木県令となった三島通庸の土木政策で、通りの左右に変えられています。現在は暗渠となって姿を見る事が出来ませんが、下町で通りから外れて巴波川に落ちる水路は、現在の室町古里家さんの北側道路沿いの水路となって現れ、古里屋さんの裏手(東側)住宅の間を南流して、その先にて巴波川に落ちているのが確認できます。
巴波川合流点4.jpg巴波川合流点3.jpg
(河合町東端の住宅地内の水路。この下流で巴波川へ)(巴波川開明橋下流左側の落ち口)

栃木市境町の中洲親水公園 [栃木市の河川と橋]

今回は、栃木市境町の「中洲親水公園」を紹介します。この公園は私のウォーキングのルートになっています。
巴波川に架かる「巴波川橋」の直ぐ下流部に設けられた瀬戸河原堰にて分流した、瀬戸河原用水(九十九曲り用水)は右岸(西側)の富士見町と左岸(東側)境町との境界と成って南流、「新開橋」の下流部にて再び左右に分流しています。この左右に分かれた流れに挟まれた部分に、昭和62年2月26日「中洲親水公園」が竣功しました。
中洲親水公園2.jpg
(南側から見た「中洲親水公園」、手前の池が「ジャブジャブ池」です)
それまでも草花などが植えられ、季節ごとの花を咲かせていましたが、草木がうっそうとすることも有りました。子供の頃の思い出として、夏祭りの時期にこの中洲で、お化け大会など催されました。
中洲親水公園7.jpg
(昭和53年7月撮影、奥に栃木カトリック教会を望む)
この中洲は南側、栃木駅から県立栃木女子高校方面に通ずる、通称「女子高通り」に架かる「富士見橋」の東橋詰から北に伸びています。
中洲親水公園8.jpg
(公園下流側、女子高通りに架かる「富士見橋」)
以前は他に橋は架かっていませんでしたが、公園として整備された時、北の端に富士見町側に通ずる橋が架けられた事で、中洲を北から南に通り抜けられるようになりました。説明用に又、概略図を作ってみました。
中洲親水公園概略図.jpg
(中洲親水公園周辺概略図)
公園の東側には尖がり屋根の上に十字架をのせた、「栃木カトリック教会」の建物を望む事が出来ます。
栃木カトリック教会1.jpg
(大正時代の建築となる栃木カトリック教会。教会の東側を通る道路より撮影)
上流側に架かる「新開橋」の上から下流側を望むと、川が左右に分流している事が良く分かります。この二つの流れの間の細長い土地に、「中洲親水公園」が整備されました。
中洲親水公園3.jpg
(上流側に架かる「新開橋」の上から下流側を撮影)
北側の端に架けられた橋を渡って、中洲の中の道を通って富士見橋の東の袂まで約120メートル有ります。途中に休憩用のベンチや、子供がチョッと水遊び出来る「ジャブジャブ池」などが有ります。
中洲親水公園5.jpg中洲親水公園6.jpg
(2016年5月8日撮影)
公園の中ほどに、頭に鳩を載せ、両手を大きく上に広げた子供のブロンズ像が建っています。平成4年「栃木うずまライオンズクラブ」が創立記念として寄贈されたモニュメントで、信田進氏の「なかよし」と題した作品です。
中洲親水公園1.jpg
(ブロンズ像「なかよし」)
時折、この中洲親水公園を通って行く観光客の姿を目にすることが有ります。


うずま公園と瀬戸河原公園を渡す巴波川の「公園橋」 [栃木市の河川と橋]

栃木市街地の中央を流れる巴波川に、公園内の橋としては立派過ぎると思える橋が架けられています。
公園橋1.jpg
(回遊型双子橋の「公園橋」)
橋名はシンプルに「公園橋」です。巴波川の左岸(室町側)の「うずま公園」と、右岸(境町側)の「瀬戸河原公園」との間に架けられています。

うずま公園.jpg
(「うずま公園」東側入口、子供の遊具の左奥に「公園橋」が有ります)
栃木市のホームページによると「うずま公園」は、≪市の中心部、栃木都市計画瀬戸河原公園の東側に位置した、南北70メートル、東西45メートル、面積2,608㎡の広さが有り、芝生広場・噴水池・時計塔・トイレ・水飲み・ベンチ・ブランコ・滑り台・砂場を備え、市民の慰楽と健康の増進に利用されている。≫
公園が造られているこの場所は、北から流れて来た巴波川の流れが、ひらがなの「し」の字の形の様に、大きく蛇行した内側に当たります。明治11年11月新政府の、「郡区編成法」が施行され、都賀郡が上都賀郡・下都賀郡に分けられ、下都賀郡役所の庁舎が栃木町のこの地に、明治16年10月建築されています。
その後、昭和46年2月18日、下都賀郡役所のあと栃木県庁下都賀庁舎として使用していたものを、神田町に移転した事で、跡地の南側を室町駐車場とし、昭和52年11月4日北側部分を、「うずま公園」として整備開園していました。
1966年4月室町付近の巴波川.jpg2015年4月室町付近の巴波川.jpg
(1966年4月撮影、現在の室町駐車場に建っていた、栃木県庁下都賀庁舎)
うずま公園の南隣り、室町駐車場中央部の木立の下に、1基石碑が建っています。
室町駐車場.jpg助西山謙之の遺跡碑.jpg
(室町駐車場の中央部に有る、「幕末志士西山謙之助の遺跡」と刻された石碑)
石碑には、幕末志士西山謙之助の遺跡」と刻されています。碑陰は背後の木が邪魔して確認できません。石碑の脇に説明の立札が建っています。最近は石碑を雨露から守る屋根が設けられました。今もまだ石碑を守っている方が居られると思うと、感激します。

「瀬戸河原公園」については、栃木市ホームページの情報によると、≪市街地のほぼ中央を流れる巴波川の一部河川敷を利用したもので、公園の三方は巴波川に囲まれている。昭和63年度から平成2年度にかけて、自治省のふるさとづくり特別対策事業として、うずま公園と合わせて再整備が行われました。芝生広場・トイレ・水飲み・四阿・ベンチ・文学碑・滝型噴水・滑り台・スプリング遊具・砂場・のぼり棒・雲梯が有り、広さは「うずま公園」よりは狭く、1,505㎡となっています。≫
瀬戸河原公園.jpg
(「瀬戸河原公園」西側入口、右奥が「うずま公園」に渡る「公園橋」)
「瀬戸河原公園」の方が早く設置されましたが、何時かは確認できませんでした。ただ公園西側の富士見町側から公園に渡る為の橋が架けられたのは、昭和42年8月頃、長さ9メートル、幅2メートルのコンクリート橋で、橋の中央部に踊り場を設けたモダンな橋でした。この橋が架けられる前は、南側の境町側からしか公園には行けず不便だったようです。この以前の橋は再整備の際に、現在の「瀬戸河原橋」に架け替えられました。
1980年瀬戸ヶ原橋.jpg瀬戸河原橋.jpg
(1980年撮影の前の「瀬戸河原橋」と幅が広くなった現在の橋)

文章での説明では、ロケーションが上手く説明できないので、公園橋周辺の様子を概略図にしました。
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(「公園橋」と「瀬戸河原公園」「うずま公園」周辺の概略図)
巴波川の流れと二つの公園と周辺の架橋状態が分かり易くなったかと思います。

昭和52年11月に「うずま公園」が出来た時に、巴波川右岸(西側)の「瀬戸河原公園」との連結を計る為、最初の「公園橋」が架けられましたが、歩きや自転車で渡る程度の橋でした。
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(1980年撮影の最初の「公園橋」と、現在の「公園橋」)
平成3年2月25日に再整備された「うずま・瀬戸河原公園」の完成を祝う地元自治会主催の祝賀会が、約150人の参加者にて行われました。新しく整備された公園の中心となるのは、回遊型双子橋の立派な「公園橋」です。うずま公園側には水辺に降りられる親水護岸を設け、瀬戸河原公園側には百八燈流しをレリーフした滝型噴水を設けています。
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(下流側公園橋から「瀬戸河原公園」側の百八燈流しのレリーフ)

先日、うずま公園を訪れた時は、この公園橋の親水護岸が「舟のりば」となっていて、大勢の団体観光客の方が、舟による巴波川観光を楽しんでいました。通常は上流側「塚田歴史伝説館」の長い黒塀と土蔵群の脇の巴波川で運航されていますが、昨年9月の洪水の影響で流入した土砂と、最近の水不足の影響で水位が十分に確保できない為、うずま公園周辺に変更されている様です。その時々の川の水位の様子を見て、運航場所を変えて営業している様です。船頭さんの唄う声が、公園の中に流れています。
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(「公園橋」の上より、巴波川の上流側を望む。奥に見えるのは「巴波川橋」です)
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(百八燈流しのレリーフを説明する船頭さん)

公園内には栃木市内の多くの場所で目にする、山本有三先生の文学碑や、元栃木市長の「金子益太郎翁顕彰之碑」も見る事が出来ます。
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(公園橋西側中央部に設置された山本有三文学碑)(金子益太郎元市長の顕彰碑)
天気の良い日には、御近所の老人達が集い、お話を楽しんだりベンチに座って休んでいる姿が有ります。公園の遊具で遊ぶ子供達の姿を見る事が出来ないのは、少し寂しい気がしました。

昭和57年1月大平町の永野川に架かる橋を巡りました。 [栃木市の河川と橋]

先日、今から34年前の昭和57年(1982)に、大平町を流れる永野川に架かる橋を巡って撮影したフィルムが、押し入れ段ボール箱の中から見つかりました。その写真の中には現在もその当時のまま残っている橋や、すでに架け替えられ姿を変えた橋も有りました。
県道11号(栃木藤岡線)に架かる「永久橋」から紹介していきます。
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(昭和57年撮影、永久橋遠望)
写真の「永久橋」は旧道側に架かる橋です。その橋の手前に現在の新道に架かる「永久橋」の橋脚が見えます。新しい「永久橋」は1983年7月の竣工ですから、撮影の翌年に開通しました。ちなみに旧永久橋の竣工は1937年という事で、架橋後79年が経っていますが、現在も現役です。
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(従来の永久橋の下流に架けられた「永久橋」) (新しい「永久橋」の銘板)
永久橋の下流、永野川に架かる東武日光線の鉄橋です。
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(昭和57年撮影、東武日光線永野川鉄橋)
次は「川谷橋」です。現在の橋は1984年3月の竣工になりますから、写真に写るのは架け替え前の「川谷橋」と思われます。
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(昭和57年撮影、川谷橋東橋詰より)
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(現在の「川谷橋」、上流側右岸より)          (川谷橋の銘板)
次は、川谷橋の下流に見られる堰になります。この堰の永野川右岸より取水した水は、「赤津用水」として永野川の西側をほぼ並行して南流、西野田・西水代・伯仲の水田地帯を潤していきます。
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(昭和57年撮影、永野川左岸より赤津用水取水堰)
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(現在の赤津用水取水堰、右岸下流側より)   (現在の取水口の水門)
次に来る橋は「諏訪橋」です。竣工は1934年で現在も写真の状態で利用されています。写真右奥に磯山(標高51メートル)が見えます。磯山の南麓には真弓の諏訪神社が鎮座しています。又、写真左手の木立は、蔵井の諏訪神社が祀られております。
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(昭和57年撮影、 諏訪橋を上流側左岸より)
次の橋は磯山の裏手に架かる「山下橋」です。竣工は1968年3月で現役です。県道252号(蛭沼川連線)が渡っています。
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(昭和57年撮影、山下橋を上流側右岸より)
次の橋は「町田橋」ですが、写真の橋はすでに新しい橋に架け替えられえいます。現在の「町田橋」は1992年3月の竣工になります。
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(昭和57年撮影、町田橋 下流側右岸より)
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(現在の「町田橋」)                     (町田橋の銘板)
次の橋は県道311号(小山大平線)が通る「永豊橋」、竣工は1977年1月です。この橋親柱に表示された橋名は「永豊橋」ですが、橋桁に取り付けられた橋銘板には「真弓橋」となっています。なぜ上下で名前が変わってしまったのか、興味ありますね。
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(昭和57年撮影、 永豊橋西橋詰より)
暫らく永野川沿いに南に進むと、榎本の北の端に架かる「両明橋」が現れます。この橋も竣功が1934年と古い橋でしたが、昨年2015年8月に修繕をして、橋脚や橋桁は以前の姿を留めていますが、高欄は鉄骨製に変更されています。
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(昭和57年撮影、 両明橋 西橋詰より)
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(現在の両明橋 西橋詰より)              (両明橋の銘板)
次は、1977年に竣工した「永和橋」です。この橋は太鼓橋程では有りませんが、橋の中央部が高く反っている為、自転車で渡る人には少ししんどい橋になります。
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(昭和57年撮影、 永和橋 下流側左岸より)
次の橋は旧国道50線、現在は県道36号(岩舟小山線)が渡る「千部橋」です。竣工は1962年、旧道の上流側に新しく架橋されました。橋の上流側には1985年3月に「千部側道橋」が竣功しています。
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(昭和57年撮影、千部橋 東橋詰より)
「千部橋」の下流側旧道に架かっている旧「千部橋」になります。
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(昭和57年撮影、旧千部橋。バックに写っている橋が、新しい千部橋)
この橋も、これまで紹介した上流側の「諏訪橋」や「両明橋」と同じ、1934年に架橋された古い橋でしたが、昨年2015年9月10日の台風に依る激流の為に、落橋してしまいました。
次は工事中の写真になりますが、私がこれら永野川流域の写真を撮影した昭和57年(1982)頃は、ここ永野川と東側を流れる巴波川では、建設が進む国道50号バイパス(岩舟小山バイパス)の架橋工事が行われている時だったのです。永野川には2001年12月、「新永野川橋」が竣工しています。
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(昭和57年撮影、永野川橋下部工事の表示板)  
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(現在の国道50号線が渡る「新永野川橋」、下流側右岸より)(新永野川橋の銘板)
架橋工事中の直ぐ下流側に次の「堀の内橋」が架かっています。この「堀の内橋」は1972年3月の竣工です。写真手前には下流側の堰が写っています。
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(昭和57年撮影、堀の内橋 下流側右岸より)
次の橋は高欄も無い簡単な橋です。写真には写っていませんが、橋詰に重量規制1トンの標識が立てられていました。正直この橋が何処に架かっていたか、記憶が定かでは有りませんが、フイルムの撮影順とその当時の永野川の架橋実態などから思いめぐらすと、現在「伯楽橋」の掛かる場所の以前の橋だと判断します。現在の「伯楽橋」は2008年3月に竣工しています。
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(昭和57年撮影、伯楽橋以前の橋)
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(伯楽橋、下流側左岸より撮影)       (伯楽橋の銘板)
次の「落合橋」は永野川の最下流に架かる橋でした。永野川はこの橋の下流で左側から流れて来た巴波川の右岸に合流して行きます。
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(昭和57年撮影、落合橋 上流側左岸より)
現在はこの場所から少し上流側に、「新落合橋」が架橋されています。2000年9月の竣工です。
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(上流側に新しく架橋された「新落合橋」)         (新落合橋の銘板)
そして写真の「落合橋」が架けられていた場所には、現在新しい人道橋の「落合橋」が2004年3月にかけられました。
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(元の落合橋の場所に架けられた人道橋の「落合橋」) (現在の落合橋の銘板)
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(昭和57年撮影、落合橋下流方向、左側から流れる巴波川右岸に合流する)



栃木市内の橋がよみがえっています。 [栃木市の河川と橋]

昨年の9月9日夜半の大雨により、栃木市内でも幾つかの橋梁が、橋脚が流され落橋し、通行が出来なくなったり、外見は問題なさそうでも、専門家が判断すると渡る事が危険と診断され、一時通行止めの処置が取られた場所が有りました。
元々今回被害を受けた橋は、架橋された年が古く、栃木市が平成25年4月に策定した、「栃木市橋梁長寿命化修繕計画」の対象にも入っている物がほとんどでした。
今、栃木市内の河川においては、多くの箇所で被害を受けた場所の河川改修が、急ピッチで進められています。
栃木市街地を流れる、巴波川に架かる「巴波川橋」「倭橋」「常盤橋」が年末年始にかけ橋の修繕が行われ、一時通行止めの期間が有りましたが、現在は全て完了したようです。
どの様な修繕が施されたものか、素人の私などに分かる訳は有りません。ただ外観を眺めて、橋の床版が再舗装され、高欄の汚れや変色も除去されて、白く綺麗な元の状態に戻った様に感じる位です。
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(修繕が完了した1934年12月竣工の「巴波川橋」。橋の高欄が綺麗な姿に戻りました)
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(修繕が完了した1930年12月竣工の「倭橋」。こちらも橋の高欄も綺麗になりました)
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(修繕が完了した1961年竣工の「常盤橋」。こちらの高欄も汚れが取れよみがえっています)
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(常盤橋の親柱、以前は鉄製のバンドで保持されていましたが、修繕後バンドが取れました)
昭和26年、栃木の市街地を洪水被害から守る為に、開削された「赤津川分水路」にも、今回の大雨は大量の水を市街地西側を流れる、永野川に流しました。その結果この区間では14橋の内、「田原橋」と「鹿島森橋」の2橋が落橋、「長宮橋」が通行止めとなりました。
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(通行止めが解除された「長宮橋」)
私は良く「新井橋」を利用していますので、心配をしていましたが、先月修繕がされた様で、橋の高欄が新しく変わっていました。「長宮橋」も先日行った時は、通行が出来る様になっていました。
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(修繕前の「新井橋」)
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(修繕後の「新井橋」。橋の高欄が付け替えられました)
赤津川分水路が造られた当時に架橋された12橋の内、県道が通っている2橋、「平和橋」(県道32号)と「泉橋」(県道75号)は、その後新しい橋に架け替えられていますが、その他の10橋は昭和24年が6橋、昭和25年が2橋、昭和26年が1橋、そして昭和30年1橋の架橋と、全て60年以上になっています。そしてこの10橋の内「長宮橋」と「新井橋」は相当な通行量が有りましたから、「長宮橋」の通行が出来なくなった時は、多くの方が大変な不便を感じられたものと、思われます。通行が再開されて本当に良かったと思います。
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(落橋した「鹿島森橋」 現在、落橋した橋の残骸は、撤去されています。)
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(橋脚・橋桁が傾いてしまった「田原橋」 現在、全て撤去され跡形も有りません)

小倉川の河童伝説 [栃木市の河川と橋]

先日、栃木市西方町金崎に有る桜堤に行って来ました。金崎の桜堤の花見は50年以上前の子供の頃に、一度来た記憶がかすかに残っているのですが、その時の風景は全く覚えていません。違う記憶なのかも知れませんが、私の記憶では、思川の橋を渡った向こう側に有ると思い込んでいました。今回訪れた桜堤は思川の右岸で、記憶と重なりませんでした。
でも、今回来て観て感動しました。そこには重量感の有るごっつく幹の太いサクラの木が思川の右岸の土手上にずらっと並んで、枝を土手の下まで伸ばして、桜のトンネルを潜りながら、土手の上を散策出来ます。
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(西方町金崎さくら堤、満開のサクラのトンネル)

話しは変わりますが、今回紹介するのは、小倉川の河童伝説です。現在金崎の桜堤の東側を南流する川は、「思川」と呼ばれていますが、以前はこの辺りでは「小倉川」と呼ばれていました。この桜堤の上流側に架かる、国道293号が通る橋の名前も「小倉橋」となっています。
話しは更に時を遡り、川の名も「清瀬川」と呼ばれていた頃の話になります。
≪昔、小倉川(思川)は清瀬川とよばれていましたが、そのころは堤防も橋もなかったときで、旅人や辺りの人たちが歩いて川を渡ろうとするとき、ときどき河童があらわれて人々を困らせていました。ある日、西方城の重臣で小倉主膳介というお侍が愛馬を乗り入れ、川を渡ろうとすると、河童が躍り出て悪さをしました。豪傑の主膳介はこの河童を捕まえ、一刀のもとに切り捨てようとしました。すると、河童は命だけは助けてほしいと、涙をうかべてあやまったので、「俺は小倉という者だ。今後、川を渡る者に小倉の名を聞いたら、決していたずらをするな。いたずらをすると容赦しないぞ。」と言いふくめて許してやると、河童はあやまって淵のなかへ逃げていきました。それを聞いた旅人が、川を渡るときに「俺は小倉だ。」「俺は小倉だ。」と言いながら渡るようになり、河童に悪さをされることがなくなりました。それが、この川が小倉川と呼ばれるようになったと言い伝えられています。≫
このお話を私が初めて知ったのは、丁度1年ほど前の事になります。地元西方町在住の「語り部」の御婦人からでした。小さい頃に母親が耳元で聞かせてくれた、おとぎ話を聞いている様な、懐かしい語り口に、河童が命を長らえ、しおらしく川に帰って行く様子が、浮かんできました。
その後、小倉橋の上流側右岸に「かっぱひろば」が有る事を知り、訪れた事も有ります。
「小倉川かっぱ広場」の駐車場に、「小倉川と河童」と題して、この話が掲示されています。
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(金崎さくら堤の上流に有る「かっぱ広場駐車場に有る案内板)
今回紹介した文は、この掲示板の内容を写させて頂きました。駐車場に車を停めて広場へ行き、思川の川面を眺めていると、今にもその石の陰から、照れくさそうな顔をした河童が、姿を現すのではと思いました。
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(ゆっくりと流れている思川の川面。河童が現れそうな)
広場を散策していると、草むらに何やら、まーるいものが!おや、河童なの。そう、そこに居たのは石で造られた河童の頭のモニュメントです。
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(かっぱ広場の土手に設置されている河童の頭の石のモニュメント)
まーるい瞳が私を見つめています。見ていると楽しくなってきます。こんな愛嬌のある河童なら出て来て欲しいと思いました。
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(小倉主膳介と河童を描いた、かっぱ広場のさくら堤のモニュメント)
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(かっぱ広場も春色満開になっていました)

チョッと楽しい西方町の河童伝説でした。

 

栃木市大町北端の巴波川の流れ [栃木市の河川と橋]

今回は栃木市大町の北端域における、巴波川の流れを探ってみました。
巴波川の流れは大町の北端で、北隣りの川原田町から流れ込んでいますが、良く見ると大町に入る直前で、巴波川の流れは分岐して、二筋の流れと成って大町側に入っています。
大町北側の巴波川の分岐1.jpg
(巴波川上流側から見た分岐。右側の流れは分かり難いですが、右に隠れています)
流れの上流側から見て、右側(西側)に流れて行く方が、巴波川の本流の様です。左側(東側)の川筋にはこの季節、水量が少ない事も有って、川底が露出している様です。上流からの水は現在この分岐で、すべてが右側の本流へ流れ込んでいます。本流を示すように右側の河川の様子は、河川改修が行われて川幅も広がり堤防も確りと築かれる川へと一変しています。
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(大町北端部より上流方向を望む。川筋が二つ見える。巴波川本流は左側です)
一方左側の支川の方は、左岸に住宅が迫っていて昔の姿を留めています。川幅も2メートル前後で、分岐から100メートル程下った所に、分岐水門が現れます。ここで又川の流れは左右に分けられます。それぞれの水路に水門が有って、ここで水の流れを調整している様です。
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(巴波川本流の東側を流れる水路に設けられた分岐水門。右の水門の先は巴波川に戻る)
ここで右側の水門の先のながれは、上流で分かれて西側を流れている巴波川の本流に再び流れ込んでいます。左側の水門の先は、幅1.5メートル程のコンクリート製の水路へと姿を変えて、南南東の方向に直線的に流れて行きます。
その先は県道3号(宇都宮亀和田栃木線)を横切り、「かましん」の北側を流れ平柳町一丁目の田圃の中を南に流れて行きます。
二つ木橋上流側.jpg二つ木橋下流側.jpg
(県道3号通称鹿沼街道の「二つ木橋」付近より、水路上流側及び下流側を望む)
分岐水門が何時ごろ設置されたものか知りませんが、明治19年7月発行の迅速測図「栃木縣下野國下都賀郡栃木町」の2万分1の地図を確認すると、巴波川から分岐して、旧例幣使街道を横切る水色の1本の線を辿る事が出来ます。旧例幣使街道がこの川を渡る所に橋の記号が付いていますが、古くは「二つ木橋」と呼ばれていました。(現在の場所は、県道3号に嘉右衛門町通りを抜けて来た旧例幣使街道が合わさる場所で、この合流点から南、万町交番前交差点に至る県道は「北関門道路」と呼ばれ、昭和11年頃に完成した道路になります。)
さて、話を巴波川本流に戻します。川原田町から大町に流れ込んで来た巴波川は、丁度その境界辺り、「とちのき病院」の北東部から河川改修が行われた事で、立派な河川に生まれ変わってます。病院の東側には、巴波川の河道との間に、遊水地も造られて、巴波川右岸堤防には、越流堤が有り、川の水が増水した際、越流堤を超えた水を一時蓄える役目を果たしています。
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(とちの木病院東側を流れる巴波川と左側遊水地。中央の堤防に見えるのが越流堤)
以前はこの付近の巴波川も、その上流側川原田町を流れる様な、素朴な堤防の無い川でした。現在病院の南側に河川改修で流路を変更した事により残った、巴波川の旧河道跡が見られます。
「とちの木病院」の西側正門辺りで新しくなった県道37号(栃木粟野線)から分岐する旧粟野街道に二つ橋が架けられています。北側の立派な橋が新しい巴波川に架かる「新藤沼橋」で、南側の小さな銘板も付いていない橋が以前の巴波川に架かっていた「藤沼橋」です。こちらも高欄は新しくなっていますが、以前コンクリート製の橋の親柱には「藤沼橋」の名前が認められました。
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(旧粟野街道の「藤沼橋」より旧巴波川河道上流側を望む)
昭和55年に開催された「栃の葉国体」の為に、この西方に建設された「栃木市総合体育館」と同時期に開通した、現在の総合運動公園南側を東西に走る新しい道路は、通称「国体道路」と呼ばれたが、この時巴波川にも新しい橋が架けられました。その当時私が確認した時、この新しい橋には橋名板が見当たらない為、橋の名前が分かりませんでした。しかし河川改修により河道の位置が変更になり、橋の架け替えが行われた。県道37号も広く真直ぐに抜けた事で、そこにも新しい橋が架けられました。これらの新しく架けられた橋を下流側から見て行くと、国体道路の橋が「高瀬橋」2003年3月竣工、県道37号の橋が「新高瀬橋」2005年2月竣工、そして旧粟野街道の橋が「新藤沼橋」2006年10月竣工、そしてその上流「とちの木病院」南東部に架かる人道橋「ふるさと橋」が2007年3月の竣工となっています。
高瀬橋1.jpg高瀬橋2.jpg
(高瀬橋:下流側右岸より撮影)
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(新高瀬橋:下流側右岸より撮影)
新藤沼橋1.jpg新藤沼橋2.jpg
(新藤沼橋:下流側「新高瀬橋」上より撮影)
ふるさと橋1.jpgふるさと橋2.jpg
(ふるさと橋:東側橋詰より撮影)
大町の北端域を流れる巴波川周辺は、すっかり整備が終了して様です。
今回紹介した栃木市川原田町南部から大町北部の巴波川の流れの状況を、グーグルマップの航空写真を基に概略図にしました。
大町北部の巴波川1.jpg
(栃木市大町北端域の巴波川の流れの概略図)



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