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昭和初期の看板建築が残る石岡市へ [歩く]

そこは、まるで昭和初期の映画撮影セットの様な商店が建ち並んでいます。
石岡市1.jpg
茨城県石岡市国府・府中の旧水戸街道の町並み)
茨城県石岡市、私の住む栃木市からも東の方向に望む事の出来る、加波山から筑波山に連なる筑波山地の東麓に広がる街です。その石岡市の東側に位置する常陸府中は、奈良時代に栃木市と同じように常陸国の国府が置かれました。府中の街の北側には常陸国分寺や常陸国分尼寺も建てられました。
江戸時代に入って元禄13年(1700)には水戸徳川家の分家と成る松平頼隆が、常陸府中藩主として入封、その城下町として栄えました。
この街の中央をほぼ縦貫する形に成る街道は、かっての水戸街道でここ府中宿は千住宿から14番目の宿場町でも有りました。
石岡市4.jpg
(店頭の街灯が趣の有る蕎麦店「東京庵」)
現在、町の中央部に多く残る昭和5年から7年頃に建てられた看板建築と言うスタイルの店舗兼住宅は、昭和4年(1929)3月14日に発生した「石岡大火」により、石岡町の中心市街地の4分の1を焼失した為、その後の復興において、その当時流行していた「看板建築」が多く建てられ、まさに映画のオープンセットの様な町並みが出来上がりました。
石岡市8.jpg
(最上部に屋号を掲げた「玉川屋」の味の有る看板建築)
現在では既にシャッターを下ろした店舗も見られますが、多くが今も商売を続けておられます。
石岡市16.jpg
(十七屋履物店:昭和5年建築、木造2階建て看板建築) 
石岡市17.jpg
(久松商店:昭和5年建築、木造2階建て看板建築)
石岡市9.jpg
(福島屋砂糖店:昭和6年建築、木造2階建て商家建築)
そんな建物のいくつかは「登録有形文化財」に指定されています。
私が車を駐車したのはその町の中心地に建つ「丁子屋」脇の駐車場でした。
石岡市5.jpg石岡市10.jpg
(丁子屋店舗:江戸時代末期、木造2階建ての商家建築)
この建物も江戸時代末期に建築された建物で、元は染物屋だったと有りますが、現在は観光施設の「まち蔵藍」と成っています。先の「石岡大火」の難からも逃れて残った貴重な建物で、中は駄菓子屋風で、お土産なども販売していました。
この「丁子屋」から直ぐ南の道路際に大きな石の鳥居が建って、その参道の奥に立派な社殿が見えます。「金刀比羅神社」で、祭神は大物主神です。≪文政10年(1827)讃岐国象頭山(香川県琴平山)の金毘羅大権現の御分霊を勧進して、「こんぴら信仰」のよりどころとして多くの人々の参詣を集めている。≫と参道脇の案内板に記されていました。
石岡市2.jpg石岡市3.jpg
(国府平の森 金刀比羅神社の社殿)   (神社参道右手に建つ、正岡子規の句碑)
又、境内には正岡子規が第一高等中学校在学中の明治22年(1889)春、水戸の学友を訪ねて徒歩で旅行し、その時著した「水戸紀行」の中に、≪二日目は、小雨の中土浦「總宜園」(跡地に句碑有)で霞ヶ浦を眺め、「醤油の名所、石岡まで辿りつき萬屋に宿を定め」る。≫と石岡に1泊している事を記した案内板と、「二日路は筑波にそふて日ぞ長き」の句碑が建てられていました。

現在は市街地に入る南側にて国道6号線が分岐して、東側をバイパスする様に北東方向に伸びています。多くの車がこの分岐で右に進み、左の旧道に入ってくるのは少なくなっています。

栃木総合運動公園のサトザクラが満開に [草花]

今日は久しぶりに総合運動公園方面を歩きました。
ソメイヨシノは既に葉桜に成っていますが、今、陸上競技場や硬式野球周辺の桜が満開になっています。
何と言う桜なのか、木に付けられたプレートを確認すると、「サトザクラ オオシマザクラを母種とした園芸品種 開花期おそく花は大形の八重咲きが多い」と記されていました。
実際、陸上競技場の裏手の外周路(ジョギングコースと成っています)を歩くと、濃いピンク色や白色、そして薄緑色などの八重咲きの花をビッシリと付けた枝が、重そうに垂れ下がっています。
運動公園の里桜6.jpg
(野球場周辺は濃いピンク色のサトザクラ)
運動公園の里桜1.jpg
(陸上競技場の裏手は、色々な色のサトザクラを楽しめます。)
運動公園の里桜2.jpg
(薄いピンク色のサトザクラ)
運動公園の里桜3.jpg
(濃いピンク色のサトザクラ)
運動公園の里桜4.jpg
(薄緑色のサトザクラ)
運動公園の里桜5.jpg
(白色に少しピンク色が入ったサトザクラ)

家に戻ってインターネットで「サトザクラ」を検索してみると200以上の品種が有ると言います。改めて桜の花の品種の多いのに驚くばかりです。

永野川沿いを歩き、榎本城址と榎本宿を巡る [歩く]

私が所属している歩く会の4月例会が去る14日に行われました。今回は大平町の運動公園から永野川の土手上の道を歩いて下り、大平町真弓から榎本まで行き、永野川左岸の榎本城址周辺からその南側の榎本宿の寺社等を、現地榎本に住む会員の案内で巡って来ました。
永野川沿いを歩き榎本宿を巡る1.jpg
永野川沿いを歩き榎本宿を巡る2.jpg
(大平町運動公園から榎本宿までの、永野川沿いの歩行ルートとポイント)
※説明図には、永野川の現在の流れに合わせて、明治初期に作られた迅速測図に表わされた大きく左右に蛇行を繰り返す永野川の旧河道の様子も表示しました。

大平町運動公園を出発して最初に向かった所は、真弓地区の北端に有る「磯山」(真弓山とも称していた)。西側の山の斜面から登り山頂に有る天狗岩へ、標高51メートル、比高は僅か15メートル余りの小さな山ですが、しょっぱなからの坂道に、早くも息が上がります。
天狗岩の上からは北西方向に、太平山や晃石山の山並みが連なっています。手前に栃木市立大平中学校の新築された校舎が有り、左手方向に目をやると、大平町の桜の名所「さくら通り」の桜並木がまだ満開の状態を見せています。
磯山山頂天狗岩より西方を望む.jpg
(大平町真弓の磯山山頂、天狗岩からの眺望)
この磯山の北側部分は「天狗岩」など大きな岩肌を露出させていますが、南側中腹には、下野押領使藤原秀郷が信濃一の宮諏訪神社を勧進して創立したと伝える、元郷社の「諏訪神社」が祀られています。
社殿前から南に真直ぐに続く参道を歩いて、永野川右岸に向かいます。
真弓諏訪神社参道.jpg
(諏訪神社参道、両側に杉の大木が続いています。)
町田橋を渡り永野川の左岸へ。黄色の絨毯を敷いた様な菜の花が群生する永野川の土手上の道を、川の流れと共に南に歩きます。春の陽光を浴びながら歩く川沿いの道は気持ちの良いものです。
途中、榎本宿の旧街道の中央を流れていた堀割の水を供給した永野川に設けられた「榎本堰」の取水口を見学。(元々は榎本城の濠へ供給していたものか?)
榎本堰.jpg
(コンクリート製の堰が永野川を横切り、左岸の取水口を抜けた用水堀が榎本へのびる)
榎本堰から少し歩くと、永野川の東側真弓南部地区に成ります。この地域にかつての小山氏の出城「榎本城」が有りました。
ここで最初に訪れたのが、集落に一番北側うっそうとした竹林に埋もれる様に一軒の大きな家屋。既に住んでおられる方も無く、屋根の大棟や軒の瓦も一部落ちています。この家は「大平町誌」の郷土出身の人物でも大きく取り上げられている、川連虎一郎義路の実家に成ります。
「川連虎一郎義路」は真弓村関宿藩領の割本名主、川連一郎兵衛義種の子。尊王攘夷の志士たちと交わり、水戸天狗党が太平山に滞留した時、藤田小四郎と通じ、軍用金や兵糧を献じた。元治元年(1864)8月3日、佐幕派の関宿藩家老杉山対軒派に捕えられ、洲崎で斬首されました。23歳であったと云います。
そこから更に少し南に行った道路の脇に「大平町史跡 榎本城跡」と刻した石碑が建てられ、石碑の後方にその説明板が建てられています。
榎本城址.jpg
(永野川左岸土手上から榎本城跡を眺める。中央奥の林の手前に石碑が建っている)
榎本城址の碑.jpg
(「大平町史跡 榎本城跡」の石碑と説明文を見る、歩く会の参加者)
城の跡は殆どが田畑と成ってしまっていますが、石碑後方の林の中に僅かに濠や土塁の跡らしき地形を覗う事が出来ます。
榎本城堀跡.jpg観音堂旧蹟.jpg
(榎本城の濠跡らしき地形)             (木立の中に建てられた石碑と祠)
石碑後方の林の南側に回り込むと、濠の跡らしき地形が残っている。又その林の中に入って見ると中に小さな石の祠脇に、「観音堂旧蹟」と刻された石碑が建っています。石碑の建てられた時期は碑陰の日付で、「大正十一年三月」と分かりますが、実際この場所に観音堂が何時まで建っていたのか?又、現在近くに有る「真弓南部公民館」の所に建つ観音堂との関係はどうなのか、分からなかった。

此処榎本城の建てられた場所は現在の住所区分では「栃木市大平町真弓」と成っています。最近までなぜ真弓に有るのに真弓城とせずに榎本城としたのかチョッと不思議に思っていました。
又、榎本はその真弓の南隣りの集落で「榎本宿」の有った地名で有るとこれまで考えていましたが、改めて大平町の地名を調べて見ると「下都賀郡小志」の中に、「榎本」は明治7年(1874)4月に榎本村に改名していて、それ以前は東水代村と称したと有り、更に時代を遡ると延喜年間(901~922)に、西御正水代郷水代村が分かって二村となり、西水代と東水代と成ったと有ります。
一方「真弓」は、明治22年(1889)4月1日合併によって「瑞穂村大字真弓」と成りましたが、それ以前は真弓村と称しました。更に時代を遡ると、西御庄榎本郷と称したと有りました。「真弓」が「榎本」だったのです。
ここで、「西御正」とか「西御庄」と有るのは「下都賀郡小志」に記載されたものをそのまま記しましたが、「西御荘」のことと考えます。平安末期に摂関家領荘園として立荘されたと言われる「中泉荘」で、旧栃木市の中央南部、旧大平町、小山市の西の一部、旧岩舟町の東の一部、旧藤岡町の北の一部などを包含する地域。「西御荘」とも記されている。(角川地名大辞典より抜粋)事を知りました。

榎本城跡を後に、南隣りの「大平町榎本」に向かいます。
榎本宿については以前(2015年3月24日付け)、「大平町榎本宿の事」と題して書きましたので、今回は見て歩いた場所について記します。
榎本宿旧街道(東西方向).jpg
(榎本宿を横断している旧街道。宿の東側から西方向を望む。突き当りが八坂神社)
榎本宿旧街道(南北方向).jpg
(榎本宿を縦断する旧街道。南方向を望む。道路両側の堀は暗渠化されている。)
榎本宿の石仏.jpg榎本宿の常夜燈.jpg
(旧街道沿いに建つ野仏。後方の大屋根は榎本大中寺)(県道36号の南側に建つ常夜燈)
妙性院.jpg近藤出羽守綱秀の墓.jpg
(榎本宿南の端と成る寺院「妙性院」)    (妙性院境内に有る近藤出羽守綱秀の墓)
復旧した千部橋.jpg橋中央部が流失した千部橋.jpg
(復旧して通行可能と成った旧千部橋)(2015年9月の豪雨で中央部が流失した旧千部橋)
2015年9月に発生した豪雨の影響にて流出して通行不能となった、永野川に架かる「旧千部橋」は現在復旧されて通行が可能になっていました。
この橋の直ぐ上流側に県道36号(岩舟小山線・旧国道50号線)には昭和37年(1962)1月竣功の「千部橋」が有る為、通行には大きな影響は有りませんでした。元々この「旧千部橋」は昭和9年(1934)3月に架橋された老朽化が指摘されていました。同じく榎本地区北側に架橋されている「両明橋」も同じ昭和9年竣功でしたが、両明橋は豪雨が発生した1か月前にたまたま修繕が行われていた為、難を逃れています。
修繕後両明橋.jpg両明橋57年1月.jpg
(2015年8月修繕された両明橋)     (旧千部橋と同じ昭和9年竣功、修繕前の姿)

千部橋を見学した後は、永野川を遡り再度榎本宿内に戻り、宿の西に建つ大中寺と八坂神社へ。大中寺では本堂の裏手の墓地の一番奥に建つ「本多大隅守忠純の墓」を確認しました。
本多大隅守忠純の墓.jpg
(本多大隅守忠純の墓)
手前に建てられた説明板によると、≪忠純は徳川家康の懐刀といわれた宇都宮城主本多上野介正純の実弟であり、榎本城二万八千石の城主である。≫と記されていました。
榎本村の旧村社八坂神社は榎本宿を横断する旧街道が宿の西の端で直角に折れ、南に向かうところの西の突き当りに鎮座しています。本殿部分は覆屋で保護されています。中を覗くと本殿左右の側面そして背面の胴羽目に立派な彫刻が施されています。
榎本八坂神社.jpg八坂神社本殿彫刻.jpg
(八坂神社正面鳥居越しに拝殿を拝する)    (本殿側面の胴羽目彫刻)

永野川に架かる「両明橋」を渡り橋詰の天台宗寺院「東明寺」を見た後、永野川右岸の土手上の道を遡ると、東明寺の裏手に永野川の旧河道の名残りが確認出来ます。河川改修で以前東側の榎本だった所が川の西側に1軒残されてしまったそうです。
永野川右岸に残る旧河道.jpg西野田本郷の尊武神社.jpg
(永野川右岸に出来た旧河道の跡)        (大平町西野田本郷に有る「尊武神社)
最後に訪れたのは、西野田本郷の集落の外れにポツンと建つ小さな神社で、社殿の前に赤く塗られた鳥居がひとつ建てられていました。鳥居にも社殿にも神額等は掲げられていない為、説明を受けないとどのような神社なのか分かりません。
説明に依ると、初代榎本城主「美濃守高綱が自刃の地近くに有り、「タカツナサマ」と呼ばれているそうです。この場所は丁度永野川の対岸(東側)に榎本城が有ります。この榎本城主美濃守高綱が自刃に至った経緯については、「大平町誌」の中世・榎本城を説明した中で、「下都賀郡誌」の掲載文と、この西野田本郷の「タカツナサマ」(尊武神社)の写真を載せています。

私はこれまで歩いたり自転車に乗ったりして、榎本周辺を何度か巡っていますが、今回案内された地元の人でなければ気が付かない場所を確認する事が出来、満足した「歩く会」に成りました。
榎本堰を横目に帰路に就く.jpg
(永野川の榎本堰を横目に、右岸の土手上の道を歩いて帰路に)

平柳星宮神社の御神楽祭 [祭]

去る4月13日(木)に、栃木市平柳町一丁目に鎮座する「星宮神社」にて行われた、「御神楽祭」を見に行ってきました。
3月ごろから市内をウォーキングしている時に、街中にて「星宮神社御神楽祭」のポスターを見かけるようになっていました。昨年はポスターに気が付いた時には、既に終わった後だったので、今年は忘れず必ず見に行こうと心掛けていました。
御神楽祭ポスター.jpg平柳星宮神社1.jpg
こうした神社にて行われるお神楽は、その地域その町で守り引き継がれているのでしょうが、なかなか見る機会が有りません。私はこれまで旭町神明宮や都賀町家中の鷲宮神社それから柳橋町の日限富士浅間神社で行われているお神楽を見ていますが、平柳星宮神社は初めてでした。
今年の平柳星宮神社の御神楽祭は、天候に恵まれ、青空の下時折強く吹く春風に、境内の桜が花びらを舞わせています。それが丁度神楽殿で舞う御神楽と共演して、一段と鮮やかな祭りの風景を醸し出していました。
午前11時前に会場に向かいました、平日の午前中という事で境内にはまだ数名の人影しか有りません。氏子等関係者の皆さんは10時から拝殿内で行われている「大前の儀」に参列している様でした。私もまず拝殿前で参拝を済ませ、御神楽の始まるのを待つ事に。
平柳星宮神社2.jpg
やはりこうしたお祭りにもマニアの方がいらっしゃるのか、ビデオカメラを三脚にセットして、御神楽の一部始終をビデオに収める様です。
予定通り11時には「御神楽の儀」が始まりました。
お神楽(式射).jpgお神楽(幣舞).jpg
最初は「式射」、これは二人の舞手が弓矢にて四方、四隅、天地を祓い神楽殿を清浄にする舞であると説明されています。次に「幣舞」(祭主の舞)、祭主が御幣を持ち四方、四隅、〇(和)、☐(四季)、△(天・地・人)と舞って天下泰平、五穀豊穣をお祈りする舞。
お神楽(翁の舞).jpgお神楽(春日の舞).jpg
続いて「翁の舞」住吉の大神(土地の長老)の五穀豊穣をお祈りする舞、「春日の舞」春日の大神(天児屋根命)の神徳を称える舞へと続きます。
お神楽(猿田彦の舞)1.jpgお神楽(猿田彦の舞).jpg
次いで「猿田彦の舞」(天狗の舞)、そして午前の部の一番の見せ場と成る「岩戸開きの舞」へと移ります。
お神楽(岩戸開きの舞)1.jpgお神楽(岩戸開きの舞)2.jpg
(面白おかしく舞う「天細女命」)              (岩戸を開く「手力男命」の舞)
「天の岩戸」の神話は有名なお話です。「天の岩戸」に御隠れに成った天照大御神(アマテラスオオミカミ)を、岩屋の前で芸能の神「天細女命」(アメノウズメノミコト)が面白おかしく舞って、その賑わいに外の様子を伺おうとした天照大御神を、「手力男命」(テジカラオノミコト)が岩戸を開き、お出まし頂く事が出来、これにより世の中が再び明るく平和に成ったと言うものです。
お神楽(岩戸開きの舞)3.jpg
(しずしずと天の岩戸からお出ましに成る「天照大御神」)
こうして午前の部が終了。休憩の後1時30分から午後の部に成りますが、私はここで帰宅。
午後の部ではお宝撒きも行われると有って少し残念でした。
平柳星宮神社3.jpg
今回の御神楽を演じたのは、大平町横堀の御神楽保存会の皆様でした。何時までも継承される事を願います。



今日の一枚 [草花]

今日は栃木市と鹿沼市との境を流れる思川の右岸、栃木市西方町に有る「小倉川カッパ広場」の桜堤に行きました。午後になって男体山が我家から良く見える様になっていたので、もっと近くで満開の桜と雪化粧の日光連山を一緒に撮れないかと、カッパ広場の桜堤を選びました。
目的地の近くまで来た時、丁度カッパ広場の東側を通る東武日光線に特急スペーシアが通過するでは有りませんか。急いで車を停めて後部座席からカメラ取り出し、必死でズームアップしてシャッタを切りました。
桜と特急スペーシア.jpg
偶然に撮れた今日の一枚です。

「小平橋の桜」今年の撮り納め [草花]

先週の金曜日に満開と成った「小平橋の桜」、その後4日間が過ぎました。
小平橋の桜撮り納め1.jpg
今日の午前中少し青空が顔を出したので、今年の桜の撮り納めをしようと、「小平橋」に出掛けました。
小平橋の桜撮り納め2.jpg
桜の樹の下は、昨日降った雨の影響も有り、花びらが落ちて薄っすらと雪が降った後の様です。
小平橋の桜撮り納め3.jpg
それでもまだまだ満開の桜に見とれてしまいます。
小平橋の桜撮り納め4.jpg
良く見ると少し緑の葉が顔を出し始めています。
小平橋の桜撮り納め5.jpg
今年も十分に私の目を楽しませてくれました。
小平橋の桜撮り納め6.jpg
今日まで「小平橋の桜」にお付き合いを頂き、ありがとうございました。

お花見ウォーク [歩く]

今日は天気予報通り、午前中は小雨が残っていましたが、お昼を過ぎる頃には明るくなって青空が姿を現してきました。気温もお昼の時点で19.9℃と成り、最高温度は23℃を越える暖かさと成りました。
昨日、「小平橋の桜」の満開を確認していたので、さっそく永野川緑地公園へ行って見る事に。午後2時過ぎに家を出発。セーターも薄手のジャンパーも抜いて、ポロシャツのまま出かけました。
初めに錦着山の桜を見る為、山に登りました。標高80.5メートルというものの、最近はチョッと抵抗が有ります。
満開の桜の花越しに栃木の街を見ると、いつも見ている景色がより鮮やかに感じます。
錦着山の桜.jpg
(錦着山より太平山を望む。テレビでは太平山の桜は、七分咲きと言っていました)
花見ウォークはまだ先が有ります。早々に錦着山を下り、永野川に架かる「上人橋」を渡り、永野川緑地公園へ向かいます。
「上人橋」の上から見る永野川上流を望むと、右岸に広がる緑地公園の桜並木が、太陽の光を受けて薄いピンク色に輝いて見えました。
永野川緑地公園は私が3年間通学して「栃木県立栃木工業高校」を東側から北側を囲むように広がっています。今日も多くの花見客が満開の桜の花を楽しんでいました。
永野川緑地公園の桜.jpg
(永野川緑地公園の桜)
桜並木は現在永野川の両岸に有りますが、今回は永野川右岸の堤を「上人橋」から上流側の「大岩橋」に向かって歩きました。その間桜の並木は約800メートル有りますが、どれも花の付きも良くボリュウムたっぷりでした。
永野川緑地公園.jpg
(永野川緑地公園の桜)
緑地公園の桜を満喫した後、更に永野川上流に向かいます。
向かう先は「宮の桜堤」です。ここまで歩いて来ると陽射しが暑く感じて来て、木陰が恋しくなりますが、この時期なかなか木陰は有りません。皆川街道(県道75号、栃木佐野線)を渡り、東北自動車道の下を潜った先で側道を左に入り、永野川左岸の堤に向かいます。
永野川に架かる東北自動車道の橋梁の直ぐ北から、永野川左岸を北にのびる堤にビッシリと年季の入った桜の樹が、満開の花を付けて遥か先まで続いています。
宮の桜.jpg
(皆川城内町の桜並木から宮の桜並木方向を望む)
この桜並木は、約1400メートル程続いています。しかし実際の「宮の桜」は北側の半分ほどで、南側の半分は「皆川城内町」の桜並木に成ります。
この桜並木には、ここの所毎年花見に来ていますが、なかなか満開のタイミングで見られるのは難しく、これまでも二三度しか有りません。今日は青空も出て暖かくてしかも満開、最高で大満足です。
帰り道も桜並木の有る新井町に寄って行きます。ここは東北自動車道の栃木インターの南側に当たり、桜の並木は約600メートル有ります。まだ樹は若いですが、ここも満開で私を迎えてくれました。
新井町の桜.jpg
(新井町の桜並木)
満開の桜に誘われて、足の疲れも忘れ歩きました。程よい汗もかく事が出来ました。今日の総歩数は17、627歩でした。

今日、満開に!小平橋の桜 [草花]

この日を待ちに待ちました。小平橋の桜、今日満開になりました。
小平橋の桜満開1.jpg
昨日の夕方、ウォーキング途中で確認した時は、大分開花して来たけれど、今一つ満開とは言い切れないものが有りました。そして天候が下り坂という事で、青空の下で満開の桜は見られないかも、と少し諦めの気持ちも有りました。
小平橋の桜満開2.jpg
ところが、今朝起きてみると外は青空。早速小平橋のたもとへ直行。
昨日から続く暖かな陽気に、一気に開花が進んで、薄ピンク色の上品な花びらが、目の前一杯に広がっています。
小平橋の桜満開3.jpg
これまで狙いを定めた枝の開花を一つ一つ確認、みんな良く開花しています。
小平橋の桜満開4.jpg
今日は夕方から小雨が降り始めました。天気予報では明日の午前中には雨も収まり、曇り空で午後には花見も出来そうと言っています。気温は日中20℃以上に成ると言います。まだ小平橋の桜も楽しめそうです。
小平橋の桜満開5.jpg
それから昨日、小平橋のたもとに交通安全を呼び掛ける幟旗が幾つも立てられました。
今日4月6日から「春の交通安全運動」が始まりました。満開の花に目を奪われて事故を起こさない様、十分気を付けていきます。「高齢者事故多発!!」他人ごとでは有りません。
小平橋の桜満開6.jpg

栃木市の石碑を巡る「親臨賜宴之處」 [石碑]

毎日のように栃木の市内を、西に東にウォーキングしていると、思わぬところに発見が有ります。
今回は、日ノ出町から小金井街道、現在の県道44号(栃木二宮線)の東武日光線の踏切を渡って直ぐ左に折れ、線路沿いの細い道に歩を進めました。この道を歩くのは初めてです。道路は線路からしだいに離れ住宅街の中へ。すると間もなく左手に広場が現れました。道路沿いに建つお洒落な街灯の下に「今泉二丁目公民館」の表示板が付いています。公民館前広場の南塀際に、大きな石碑が1基建っています。
親臨賜宴之處の碑4.jpg親臨賜宴之處の碑3.jpg
(今泉二丁目公民館の街灯) (公民館前広場、左手奥の塀際に石碑が1基建っている)
思わぬところで出くわした石碑、どんな石碑なのか近くに寄って確認します。
親臨賜宴之處の碑1.jpg親臨賜宴之處の碑2.jpg
(碑陽:「親臨賜宴之處」と大きく刻されています)(碑陰:石碑を建てた由来が刻されています)

石碑の表面中央部には縦に「親臨賜宴之處」と大きく刻されています。その左横には小さく「元帥陸軍大将正二位勲一等功一級子爵川村景明謹書」と有ります。
石碑の裏側には碑文が刻されています。内容は
「大正七年十一月、天王統監陸軍大演習練武于栃木茨城兩縣下既畢同月十八日親臨栃木町外大宮村今泉之地賜酺文武官僚及士民無慮數千人寔可謂盛典矣今茲大宮村民胥議欲建碑於黼座之跡以傳 聖恩於無窮請余文乃謹記其由云爾」と有ります。
文末に「大正八年二月 第十四師團長陸軍中将正四位勲二等功三級栗田直八郎撰文并書」と刻されています。
親臨賜宴之處の碑5.jpg
(今泉二丁目公民館の広場に建つ石碑「親臨賜宴之處」の碑文)

碑文に有る「天皇統監陸軍大演習」とは、天皇の統監の元に原則として毎年一回行われる大規模な演習のこと。栃木市史資料編近現代Ⅰの中に、「陸軍特別大演習 (-栃木町に大本営-)」と題して記載されています。
又、その時撮影された写真が記念絵葉書「佐藤写真館謹写」として発売されています。その写真が、2012年12月17日発行の写真集「片岡寫眞館」片岡惟光編の巻末に(参考図版)として掲載されています。

石碑が建立された場所は、碑文に有る様に陸軍大演習の終了後、その労をねぎらう為に行われた賜宴の場所でした。この「賜饌場(しせんじょう)」について、前記の栃木市史に詳しく記されていました。一部抜粋をさせて貰うと、
≪大正七年十一月十八日午前閲兵式終ハルヤ、天皇陛下ハ大演習中ノ労ヲ犒ラワセラルゝノ大御心ヲ以テ、同日午後二時三十分大本営御出門賜饌場ニ臨御アリ。(中略) 是ヨリ先キ宮内省御用地トシテ栃木町大宮村トノ接続地タル小字榎堂ト米附道トニ地ヲ相シ、面積六千三百九十坪ヲ撰定(内大宮村分五千九百九十三坪、栃木町分四百二坪)尨大ナル賜饌場ヲ造営シ、一大偉観ヲ呈ジタリ。≫

この資料を基に「賜饌場」の状況を推定してみようと試みました。まず分かっている情報について。
①石碑の建つ場所が含まれる。(建立当時から移動されていないならば)
②大正7年の栃木町と大宮村との接続地である。
③小字榎堂や米附道に有る。
④面積は6,390坪(約21,119㎡)、これは現在の栃木中央小学校グランド3個分程の広さに相当します。
以上の情報を基に、まずその当時の「栃木」の地形図を確認すると、丁度その前年となる大正6年7月30日大日本帝国陸地測量部発行の「栃木」が有ります。その地形図から石碑が建つ周辺の部分を抜粋スケッチをして、現地図を描く事から始めました。
大正6年の地形図には、石碑が建っている地点付近に描かれている道路は、小金井街道(現在の県道44号)と今回踏切脇から入って行った、北北東方向に進む細い道路だけが確認出来る。他には栃木町と大宮村との境界線、そしてその西側に北から南に流れる細い川(現在の杢冷川)。この地形図に記された地図記号により情報の①と②が確認出来る。そして、再度現地を巡り、小字名「榎堂」「米附道」に関する情報を探していくと。現在の日ノ出町内に、「榎堂稲荷神社」の場所を確認出来ました。
榎堂稲荷神社1.jpg榎堂稲荷神社2.jpg
(榎堂稲荷神社) (社殿基礎部分に「榎堂稲荷神社改築記念」を刻した石板が有りました)    
更に現地を歩くと「榎堂稲荷神社」前の道路を東に行くと、石碑の建つ今泉二丁目公民館の所へ通じていることも確認出来ました。
この道路については、大正6年の地形図には記されておりませんが、明治19年7月発行の迅速測図「栃木町」を調べてみると、なんと明治期の小金井街道は、この榎堂稲荷神社前を通る道路だった事が確認出来ました。恐らく大正時代もこの道路は存在していたものの、地形図には反映されていなかったと考えられます。
これらの情報を基に大正6年の地形図に追記をしていくと、「賜饌場」と成った場所の範囲が推定されてきました。
大正7年陸軍特別大演習賜饌場周辺地図1.jpg
(賜饌場の場所を推定の為に作図した現地図、大正6年発行の地形図「栃木」を参考とした)

以上より大正7年11月18日に行われた「親臨賜宴」の場所は、南側は小金井街道(現在の県道44号)、東側はその小金井街道と交差して北北東に進む道路、北側は「榎堂稲荷神社前を東西に通っている旧小金井街道とに面し、西側は大宮村と栃木町の境界を越え、杢冷川の手前までの畑だったところを「賜饌場」として、造営されたと推定いたします。

現在、賜饌場の推定地を縦貫する東武日光線は、昭和4年4月1日に杉戸(現在東武動物公園駅)と新鹿沼間が開通しており、大正期はまだ有りませんでした。
その大正6年の地形図には賜饌場の上空を送電線が引かれていました。現在も当時とは少し位置が変わっていますが、今泉二丁目公民館の西側に送電線用の鉄塔が建っています。
この送電線は現在も泉町の北東部に有る変電所から来ています。大正期の様子は分かりませんが、私が昭和40年代に撮影した、変電所と小金井街道の南側に建つ電柱がアルバムの中に残っていました。
東電変電所(昭和40年9月)1.jpg1968年小金井街道の送電線.jpg
(昭和40年撮影、泉町北東部の変電所)(昭和43年撮影、小金井街道脇水田に建つ電柱)

今回の石碑の事を調べる中で、これまで気にしていなかった史実を、幾つも知る事が出来ました。

5から6分咲きに、小平橋の桜 [草花]

今日は風も無く、穏やかで暖かな一日に成りました。
小平橋の桜5分咲き1.jpg
小平橋の桜も、5分から6分程度まで開花が進んできました。
小平橋の桜5分咲き2.jpg
対岸の枝垂桜も満開となって、鮮やかなピンクの花が、青空に映えています。
枝垂れ桜1.jpg早咲きの桜1.jpg
この週末までには満開となるでしょうが、又週末にかけて天候が下り坂に成ると言う予報が出ていて心配です。出来れば青空の下、満開を迎えたいですね。
小平橋の桜5分咲き3.jpg
小平橋の桜5分咲き4.jpg
小平橋の桜5分咲き5.jpg
開花までの道のり、太い幹の部分から芽を出した蕾の開花を追いました。
桜開花1.jpg桜開花2.jpg桜開花3.jpg桜開花4.jpg
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