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やーあっと開花、小平橋の桜 [草花]

栃木市巴波川に架かる小平橋、その橋のたもとの桜の木が開花しました。
この一週間毎日、「今日は開花しているかな」と通って、その度に振られ続けていましたが、昨日は2輪ほど開花していましたので、今日は間違いないと小平橋に向かいました。
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開花しています。確認出来ただけでも10輪以上開花していました。
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今日、小平橋の桜は開花宣言です!
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チョッと残念に感じたものは、私がずっと撮り続けていた一枝が折られて無くなっていた事です。その枝は、道路から手が届く所に有ったので心配はしていたのですが。
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昨日までの空気の冷たさは、今日は有りません。この後、いっきに開花する暖かさです。ただ、天気予報によると、≪あさって土曜日は関東甲信地区は、寒さと雪に注意が必要で、朝のうちまで広い範囲で冷たい雨や雪が降るでしょう。≫と成っています。チョッと心配ですが、日曜日以降は日に日に暖かくなるようですから、来週末には満開を迎えるでしょう。
小平橋の桜開花5.jpg
これから、栃木市内各地で開花が進んで行きます。
今年もウォーキングで市内各地の桜巡りを楽しみたいです。

今日の一枚 [歩く]

今朝、雨戸を開けると外は雪混じりの冷たい雨が降っていました。
3月も下旬のこの時期、寒の戻りが続いています。
午後に成って雨も止み、西の空が少し明るくなって、雲を透して白く光る太陽が確認されます。
5時近くなってウォーキングに出掛けました。途中「小平橋の桜」そして「第二公園の桜」の開花状況を確認しましたが、この寒さにピンクに色付き開きかけた蕾もちじこまっていました。
東銀座通りを抜けて、大通りに出る頃には、西の空の雲が切れ、夕日に赤く染まっています。
昨年から解体工事が進んでいた、倭町交差点南西側角の「イシハラ」のビルが今、解体が一段落して、周囲を覆っていた保護塀も撤去されています。
交差点の北東側、足利銀行栃木支店側から見ると、そこから今まで見る事が出来なかった太平山が、夕日の中に黒いシルエットを見せていました。
又すぐこの地には新しい建物が建設されますから、この光景も直ぐ見られなくなります。
倭町交差点から太平山を望む.jpg
(右側が西日を写す西銀座通り、左奥に太平山のシルエットが広がっています)

ここからの太平山は似合いません。早く新しい建物の有る景色に成って欲しいと思いました。
今日の歩数は7,292歩でした。

栃木、小平橋の桜、開花遅れる [草花]

「小平橋の桜」について、先一昨日の3月22日に、「この陽気が続けば、今週中には開花宣言出来そうな感じです。」と記しました。今日確認に行きましたが、残念ながらまだ一輪も咲いていませんでした。
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昨日今日と青空で陽射しが有るものの、冷たい風が吹いている為、開花前線も足踏み状態です。
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膨らみ始めた蕾も、開花するのを躊躇させる冷たい空気を感じている様です。
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それでも、対岸に有る品種名は分かりませんが、すでに八分咲きと成っている桜の木?にはピンクの花びらが青空に映えています。又その脇の枝垂桜も、濃いピンクの蕾をビッシリと付けて来ています。
小平橋の桜9.jpg小平橋の桜8.jpg
明日、日曜日は朝から一日雨の予報に成っています。気温も今日より更に下がって寒くなると言いますから、開花はもう少し「おあずけ」の様です。

小山市内に残る、道路元標 [石碑]

これまで栃木県内に残る「道路元標」を見て来ましたが、今回は栃木市のお隣、小山市内の「大谷村道路元標」です。
「道路元標」は大正8年の道路法施行令にて、市町村単位で道路の基点として1ヵ所建てられました。従ってその当時の小山市の状況を調べてみると、今回訪れた「大谷村」の他に「小山町」や「豊田村」など、1町9村が明治22年(1889)4月1日の町村制施行により成立していました。
大正時代の小山の町村図.jpg
(明治22年の町村制施行後の旧小山町周辺の村、四角の記号点に道路元標が残る)
従って、以前は小山市内でも幾つか残っていたのかも知れませんが、戦時中やその後の都市開発等で、消えていってしまったのかも知れません。その中で「大谷村道路元標」は小山市指定の有形文化財として残された貴重なものです。
設置場所は、これまでも見て来たと同じく、その当時の主要道路の分岐点に成ります。現在は「大谷南小前」と名付けられている十字路の北東側に有る、小山市立大谷南小学校の校庭内、交差点際に移動保存される形に成っていました。
小山市立大谷南小学校.jpg大谷村道路元標1.jpg
(道路元標が残る東野田の交差点、正面が大谷南小学校)(校庭隅に建つ道路元標)
大谷村道路元標2.jpg大谷村道路元標3.jpg
(大谷村道路元標、フェンスの向こう側が交差点)      (横に建てられた説明板)
学校の校庭内は現在は勝手に入る事が難しくなっています。校門の脇などには「学校内への無断侵入を禁止します」とか「御用の有る方は受付にお越しください」の掲示がされています。今までも三角点を巡っていると、学校の校庭内に設置されているケースが多く、足が遠のく事も多々有りました。日曜日などは校庭で野球の練習をされているので、チョッと挨拶をして入って写真を撮って来る事も有りました。私の趣味程度で仰々しく受付して時間を取らせるのも申し訳ない気も有ります。今回は休日で校庭に人影も無く昇降口も閉ざされていましたので、校庭の隅を歩いて写真を撮らせて貰いました。

道路元標が設置された大正中期の大谷村東野田の現地の状況を確認する為、手持ちの2万5千分の1の小山の地形図を広げてみると、丁度大谷南小学校の交差点付近が地図の南の端に成っていて、それより南側は別の「諸川」の地形図に成ってしまい、私は持っていません。ただ「諸川」の地形図の図歴を調べてみると、最も古い発行年でも「昭和31年(1956)」で大正期は有りませんでした。
そこで、インターネットにて古い空中写真を確認すると、国土地理院が公開している写真の中に昭和23年(1948)3月2日米軍撮影の写真が有りましたので、その中から大谷南小学校付近を抜粋スケッチして、現在の様子と対比出来る様に作図しました。
平成20年大谷南小.jpg昭和23年大谷南小.jpg
(平成20年頃の大谷南小学校付近)   (昭和23年頃の大谷南小学校付近の道路状況)
比較してみると、小学校と野田神社の位置は変わっていません。大きく変わった所は、以前交差点は丁字路で、現在西に抜ける道路は有りませんが、現在は十字路に成っています。又、従来の幹線道路は昭和34年に県道に制定され、道路も拡幅されている状況も確認出来ます。

道路元標を確認した後、周辺を散策して来ました。
野田神社.jpg修道館分校跡地.jpg
(交差点の少し南側に祀られている野田神社) (交差点から北に行った道路際に建つ石碑)
交差点から県道54号を北に歩いて行くと、右手に大谷幼稚園が現れます。その入口の左右に石碑が建てられています。入口右手の小さい石碑には、「修道館分校跡地」と刻されています。
調べてみると、小山市立博物館のホームページの中「小山の歴史Q&A」に、「小山の学校はいつごろできたの?」の回答中に、「大谷南小学校 明治7年 小学修道館」と記されていました。
修道館は大谷南小学校の前身だったようですが、分校跡とはどう言う事なのか、一つの石碑に又新しい疑問が生まれて来ます。今後調べてみたいと思いました。

もう直ぐ開花か? 栃木、小平橋の桜 [草花]

今朝の新聞に、「東京一番桜」「全国最速開花宣言」の記事を見付けました。
赤く膨らみ始めた多くの蕾の中に、一輪開花した桜の花の写真が、大きく掲載されています。
東京での3月21日の開花は、昨年と同じですが平年よりは5日早いという事です。
そこで私も早速、家の近くで私が一番気に入っている桜のビューポイントの状態を、確認に行ってきました。
栃木第三小学校の南西側、巴波川に架かる「小平橋」橋詰に有る桜の木です。
小平橋の桜1.jpg
お彼岸の三連休の間、暖かい日が続いていました。昨日は一日冷たい雨と成りましたが、一夜明けて今日は朝から青空が広がり温かい陽射しが有りましたが、まだ開花はしていませんでした。
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それでも今日にも開花しそうな蕾が、あちらこちらの枝に見られました。
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この陽気が続けば、今週中には開花宣言出来そうな感じです。その日が待ち遠しいです。
暫らくは「小平橋の桜」を要チエックです。

今日の一枚 [歩く]

今日も暖かな陽射しが溢れた一日でした。何時もの通り夕方からウォーキングに出掛けました。家を出る頃はすでに太陽が赤く色付き、西の空を赤く染め始めていました。
旧県庁堀の東側の堀に沿った道を歩いている時、栃木高等学校の校舎北側の堀の先に、西の山に沈もうとする太陽が見えました。
私は瞬時に「県庁堀の先に沈む太陽が、堀の川面を赤く染める景色を撮影出来る。」と考え、急いで旧市役所の南側の堀へ向かいました。その時すでに太陽の下半分が、西の山に隠れています。いつも出かける時に上着のポケットに入れているコンパクトカメラを取り出して、急いでアングルを決めシャッターを押しました。
一枚、二枚。自動露光の為、目に見える様な赤味が出ません。カメラを明るい上空に向け絞を締めさせ、そのままの露光でシャッターを切る。何とか太陽を県庁堀の中に写し込む。
この構図の写真は太陽が真西に沈む彼岸の頃しか撮れません。計画はしていませんでした。偶然にとれた今日の一枚に成りました。
県庁堀の夕陽.jpg
(旧栃木県庁堀に写った夕陽、正面奥に見える橋が「鶉橋」)
本日の総歩数は9,029歩でした。

歴史の町、壬生を歩く [歩く]

昨日、「歴史と文化を歩く会-栃木」のメンバーと、「歴史の町、壬生を歩く」として、壬生町で最近結成されたと言う観光ボランティアガイドの方々の案内で、約2時間の街中歴史めぐりを行いました。
「壬生町城址公園」現地集合という事で、途中コンビニで今日の昼食用おにぎり2個を買って、車を走らせた。すでに殆んどの参加者が到着し、壬生町の観光ボランティアの方々も集まっていました。
壬生城址公園2.jpg壬生城址公園1.jpg
(壬生城址公園正面入口、堀に架かる橋)(公園内に有る壬生町立図書館・歴史民俗資料館)
最初に城址公園内に有る、「壬生町立歴史民俗資料館」において丁度開催されている、「鳥居元忠-山城伏見ノ別レ-」展を観覧、予備知識を得てから、ガイドさんの案内で出発しました。

最初は、城址公園の北西部に祀られている、「精忠神社」に向かいました。
精忠神社1.jpg精忠神社2.jpg
(精忠神社本殿)                  (精忠神社拝殿正面に掲げられた扁額)
この「精忠神社」は、祭神として「鳥居彦右衛門元忠公」をお祀りしています。
「鳥居元忠公」は、徳川家康の竹馬の友として幼少時代から親交が深く、また忠義を誓った武将でした。≪慶長5年(1600)徳川家康の命を受け、伏見城の主将として、西軍の城攻めを死守し自刃しました。関ヶ原の戦いの前哨戦でした。その後、徳川の世となると元忠公の戦功を徳川家は嘉し、長男忠政を磐城で10万石、のち山形で24万石を遇された≫と、社殿前の説明板に記されています。
社殿の裏手に回ると、丁度本殿の後に当たる場所に、玉垣に囲まれた石碑が建っています。
精忠神社3.jpg精忠神社4.jpg
手前に建てられた説明板に、「畳塚」について記されています。
先に記したように、鳥居元忠公は伏見城の攻防戦の末、城内にて自刃をしています。この元忠の忠義を賞賛した家康は、自刃のさいの血に染まった畳を江戸城の伏見櫓の階上に置き、登城する諸大名に彼の忠義を偲ばせたと言われています。その後、明治に至り江戸城が明け渡されたため、ゆかりの深い現在の地に納められ、「畳塚」と称えその上に記念碑が建立されました。

精忠神社を後にして、北に進み国道352号を渡った所に有る「紫雲山壬生寺」に向かいました。
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(紫雲山壬生寺の山門前)           (壬生寺境内の慈覚大師御産湯井)
壬生寺は、慈覚大師円仁の御生誕地として言われ、境内には慈覚大師産湯の井戸が有ります。慈覚大師円仁の誕生の地と言うと、我が栃木市の岩舟町三毳山東麓下津原の盥坪にも、誕生の地が有ります。
又、壬生寺は毎年3月、盛大に節分祭が行われる事でも有名になっています。

次は壬生城主の菩提所、壬生の古刹「向陽山常楽寺」へ。
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(向陽山常楽寺)         (常楽寺本堂前でボランティアガイドさんの説明を聞く)
ここ常楽寺は、室町中期の寛正3年(1462)、壬生初代城主「壬生筑後守胤業公」が、寺領26石を寄進して創建した曹洞宗の寺院。壬生氏が絶えて後も壬生城主と成った「鳥居忠英公」の帰依を受けて、鳥居家の菩提寺として篤く護持されてきました。
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(壬生家歴代の墓前で説明を受ける)     (鳥居家累代の墓) (蘭学医齊藤昌太郎の墓)
長い歴史のある寺院に相応しく、「鳥居忠英公」の肖像画や文書類の歴史資料や、壬生家歴代の墓地や鳥居家墓地、壬生藩の蘭学医「齊藤玄昌」一門の墓地等の史跡など説明を頂きました。

次は壬生の市街地中央を縦貫する、「日光道中壬生通」を横断して、市街地の東側を流れる黒川の右岸へ移動します。
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(黒川右岸にて説明を聞く、後方の橋は「東雲橋」) (この黒川両岸は東雲公園は桜の名所)
黒川のほとりで「東雲公園」の説明をボランティアガイドさんから聞きます。まだ桜が咲くまでは間が有りますが、私も毎年「東雲の桜」を見に来ています。写真は2015年4月1日に撮影したものです。私の勤め先は宇都宮市に有った関係で、壬生町は通勤時に毎日通っていました。バイパス道路が開通する前は現在の「東雲橋」の少し下流に有った「旧東雲橋」の上で、車中より黒川堤に連なる桜の並木を堪能しました。
この黒川堤の桜並木は、東雲橋の更に上流、バイパス道路に架かる「神代橋」の橋詰まで連なっています。

桜堤を下流に向かって歩くと、右手に壬生町の総氏神、総鎮守と称えられる「雄琴神社」の森が迫っています。東雲さくら橋の橋詰から堤から離れ神社の中に入ります。
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(雄琴神社の二の鳥居前で説明を聞く)     (銅製の「二の鳥居」根巻の唐獅子)
≪雄琴神社は寛治5年(1091)天照大神、天武天皇、舎人親王を祭神に鎮守府将軍清原武則の子孫保定によって創建されたと伝え、藤森神社と称していました。文明元年(1469)壬生に初めて城を築いた壬生彦五郎胤業がその祖である小槻今雄公を合祀し、社殿を建て替え社号を雄琴神社と改めました。また、現在の社殿は天和5年(1685)から三ヶ年をかけて時の城主三浦壱岐守が造営寄進したもの≫と、雄琴神社の由来を記した案内板が建てられていました。

再び市街地の中央を縦貫する道路に戻ります。この道は小山市の北で日光街道から分かれ、日光街道の西側を北上して、壬生の町を抜けて鹿沼市の南、楡木にて金崎宿から北上してきた、日光例幣使街道を合わせて、日光に向かう「日光道中壬生通」に成ります。
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(壬生町中心道路、現在「蘭学通り」と命名されている)(道路沿いに建つ蘭学通りの説明板)
実学を奨励した壬生藩主、鳥居忠挙がこの地に蘭学を導入し、多くの蘭学者を輩出しました。
日光社参の帰路、日光道中壬生通を利用する将軍家も有り。その際壬生に宿泊をした為、壬生藩としては万一の事態を想定して、優秀な医師を江戸から呼び寄せたのではないかとの事です。
≪明治初年の地図を見ると、石崎鼎吾、五十嵐順知、齊藤元昌、渡辺元良、勾坂玄皐(以上蘭方医)、神戸察(漢方医)の6人の名前が確認出来る通り、街道沿いに多くの蘭方医が開業し活躍した事が覗えます。≫との説明が有りました。

ここから出発地の壬生城址公園へ戻りました。穏やかな天候に恵まれ、興味深い「歴史の町・壬生を歩く」の企画を終了しました。多くの資料や写真を準備頂き説明して下さった観光ボランティアガイドの皆さんに感謝です。楽しい時間を過ごす事が出来ました。

栃木市万町、鬼瓦見て歩き [歩く]

今回は、旧栃木町の北側、万町界隈を巡り、屋根に据えられた鬼瓦を見て回ります。
万町は明治5年9月に町名改正以前は、「上町」と言われた地域で、町の中央を南北に日光例幣使街道が縦貫しており、街道の両側に短冊状に屋敷割された、宿場町の様相を今も残しています。
旧栃木町は江戸後期に4度の大火に見舞われ、多くの家屋が被災をした為、明治6年初代鍋島県令の時、≪今後町の体裁、火災等の事を考慮して、家屋を修繕新築等の際は必ず杉皮・藁葺等相ならず≫とのお達しが発せられてから、瓦屋根・土蔵造りの商家が軒を連ねる様になったと言われています。

その万町、旧栃木宿の北側の木戸が有った、現在の万町交番前交差点の南西側角に建つ、櫻井肥料店の鬼瓦から見てみたい。
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(万町交番前交差点の角に建つ櫻井肥料店)    (櫻井肥料店の鬼瓦)
櫻井肥料店の大通り側に面した店舗の屋根の鬼瓦も、裏手に続く土蔵の鬼瓦も上の写真に見る、「櫻」の漢字一字が付けられています。明治40年10月1日発行の「栃木県営業便覧」で櫻井肥料店を確認してみると、屋号紋として「カネジャクに漢字の井の文字を付けた紋が記されていますが、そちらは使われていません。

次に大通りの西側の裏手をほぼ平行に走る道路を、南に歩きレストラン「オールウェイズカマヤ」の裏手、道路の西側に面して石蔵が1棟建っています。この石蔵の鬼瓦を見ると、円の中に「足」の漢字をデザイン化した紋が確認出来ます。その紋をズームアップして見ると、周りの円を模っていた部分は、漢字の「利」の文字を丸くデザイン化した様に見る事が出来ます。以上から考えるとこの紋は「足利」をデザインしたものと思われます。以前この裏通りは無く、大通りに面した建物とは敷地が一緒でした。そして現在レストランと成っている建物は昭和9年に、「足利銀行栃木支店」として建てられたものですから、この石蔵も「足利銀行」のものだったと判断できます。
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(ALWAYSカマヤ裏手の石蔵の鬼瓦)    (拡大すると「足利」と見える)

大通りに戻って、栃木市役所の向かいに建つ「とちぎ歌麿館」に向かいます。重量感の有る古い見世蔵です。屋根の頂部、大棟部分から鬼瓦部分に、瓦が崩れ落ちないように保護ネットで覆って有りましたが、良く見ると鬼瓦には、漢字の「長」が付けられています。
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(現在は「とちぎ歌麿館」と成っている見世蔵)    (保護ネットで覆われた鬼瓦)
この鬼瓦についている「長」は何時のものか不明です。この見世蔵は現存する旧栃木町の中では、もっとも古い見世蔵と言われ、弘化2年(1845)8月に建てられています。前記の「栃木県営業便覧」には、「菓子製造業」と記されています。その後、大正期には「靴商・扇屋」に変わり、昭和60年の住宅地図には、「古久磯提灯店」と記されていて、鬼瓦の「長」に繋がりそうな発見は有りません。建物が建てられた当時がどうだったのか、遡る必要が有るかも知れません。
次の鬼瓦は近龍寺入口交差点の北西側角に建つ、元「阿部清八商店」の鬼瓦です。
「カネジャクに漢数字の二」の屋号紋が確認出来ます。「栃木県営業便覧」の中にも、「萬町常盤橋通」入口角に、「麻苧麻縄箒類畳表茣蓙荒物問屋」そして「阿部清八」と記され、その間に「カネジャクに漢数字の二」の屋号紋が認められました。
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(元の阿部清八商店の店舗)           (鬼瓦の「カネジャクに漢数字の二」の紋)

次の鬼瓦は大通りを少し南に下がった東側、「かな半旅館」の南隣りに建つ見世蔵の鬼瓦です。付いている屋号紋は、「ヤマガタに漢字の木」です。現在は「人形のやまとや」と成っていますが、この建物もこれまで多くの変遷が有りますが、この屋号紋につながる記事を発見できませんでした。
建物自体は幕末頃建てられたものと推定されているそうです。
この「ヤマガタに漢字の木」の屋号紋を使っている商店は、営業便覧を調べてみると市内に他に3軒確認する事が出来ました。
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(現在、「人形のやまとや」と成っている見世蔵)   (鬼瓦に「ヤマガタに漢字の木」の紋)

その他、万町内にはまだ多くの見世蔵や土蔵などが建っていますが、切妻・平入の建物が軒を連ねている為、鬼瓦を正面から確認が出来ません。確認出来た物を紹介します。
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興味のある方は、歩いて探してみて下さい。
最後の写真は、鬼瓦についている紋は「家紋」で、その前の「ハナブカ」に「ヤマガタに漢字の森」の屋号紋が付いています。

佐野梅林公園で [草花]

今日は、春の青空が広がり、風も無く暖かな一日と成りました。
午前中は花粉だらけと成った車の洗車を行いましたが、水も温んで水洗いも全然気に成りませんでした。
昼過ぎは家族揃って、佐野の唐沢山東麓に有る「佐野梅林公園」に梅の花を見に行きました。
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駐車場に車を停めて、紅梅・白梅の咲く公園内をのんびりと花を観賞しながら歩いて来ました。
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それほど広い梅林では有りませんが、混雑する事も無く家族でチョッと来て花見をするのには、手ごろな公園で、小さい子供連れの若い家族や、老夫婦などが思い思いに楽しんでいました。
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公園には梅の花の他、黄色い山茱萸(サンシュユ)の花も咲いて、彩りを添えていました。
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今日の一枚 [歩く]

今日は、午前中に栃木文化会館展示室で行われている「第48回花と自然、AOI写真展」を見に行きました。この写真展は昨日から明日までの3日間開催されていて、大分前に招待の葉書を頂いていて、初日と成る昨日行く予定をしていたのをすっかり忘れてしまい、今朝の新聞の記事の中にその記事を見付け、午前十時の開場前に出掛けました。
今回の写真展には17名の作品が会場狭しと多数展示され、草花の接写作品から、滝や紅葉などの風景、栃木の秋祭りの様子を捉えたものなど、多種多様の美しい作品を堪能して来ました。
「AOIスケッチカメラクラブ」は、今回の写真展が48回目という事で、栃木市内のアマチュア写真クラブでは、古くから続けられているクラブです。以前は「AOI」さんの他に、「栃木カメラクラブ」とか「うずま写友会」という、アマチュア写真の同好会が有って、年に1回の作品展を持っていました。今は懐かしい思い出だけと成りました。

午後はいつものように市内の散策を兼ねたウォーキング。その日その日で歩くコースを変えて楽しんでいます。今日は、翁島近くの巴波川に架かる「沖ノ橋」の上で、やはりウォーキング途中の叔父さんに出会いました。橋の上にいた叔父さんが私を見付けて手を振っています。
近寄って行くと、橋の下の川の中を指さし「ナマズが居る」と教えてくれました。私も目を凝らして川の流れの中を探してみると、確かにナマズが一匹、流れに抗してジッとして居ます。
まさに「巴波の鯰」だと頭の中で一人納得していました。

叔父さんと別れウォーキング再開、錦町から南へ、入舟町・湊町・富士見町・境町を抜け、栃木駅の高架下をくぐって沼和田町まで足を延ばし、帰りは河合町から「開明橋」を渡って、大通りを北上して帰宅しました。
帰路、嘉右衛門橋から翁島に来るころには、西の空は赤く染まって来ていました。
今日の総歩数は、15,309歩といつもより少し多くなりました。

今日の一枚は、西の空が赤く染まるころ、巴波川に架かる「泉橋」近くで、菜の花が咲いている風景です。
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