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栃木県郡市町対抗駅伝を応援して来ました [駅伝・マラソン]

今日、11時頃自転車で栃木総合運動公園に、第58回栃木県郡市町対抗駅伝競走大会の応援に出掛けて来ました。
往路のゴール予定時間の11時30分ごろに合わせて会場に到着。すでに会場正面入口の通路から、中央噴水広場には応援の人がコースの両側に陣取って、ランナーの到着を待っていました。
ほどなくランナーの到着を知らせる広報車が入って来ました。
11時34分、前後3台の白バイに先導された、先頭ランナーが私の前をアッと言う間に駆け抜けて行きました。1位は鮮やかなオレンジ色のユニホームに「大田原A」のゼッケン。シッカリと前方を向いて力強い走りを見せていました。
郡市町対抗駅伝1.jpg郡市町対抗駅伝2.jpg
(県警白バイ隊の先導で公園内に現れたトップランナー)(2位・3位のランナーが通過)
その後も続々とランナーが駆け抜けていきます。我が栃木市のランナーも6番目に通過をしていきました。周辺からも地元選手に一段と大きな声援が起こっていました。
郡市町対抗駅伝3.jpg郡市町対抗駅伝4.jpg
(4位・5位のランナーが通過)    (10位から6位へと順位を上げて来た栃木渡選手)
目の前を走り抜けていくランナーのスピード感を写真に捉えたいと思いましたが、うまく撮られる事が出来ませんでした。
郡市町対抗駅伝5.jpg郡市町対抗駅伝6.jpg
(流し撮りで選手の走りの速さを表現しようと試みましたが難しい)
11時48分ごろにはすべてのランナーが、陸上競技場にゴールしました。復路のスタートは12時30分の為、それまで運動公園内で時間を潰すことに。
郡市町対抗駅伝12.jpg郡市町対抗駅伝11.jpg
(復路スタートまでの間、運動公園内で待つ人達)(今年も地元を応援するゆるキャラさん)
公園内は穏やかな日差しの下、家族ずれや友達同士で応援に来ていました。公園内には多くのテントが張られ、大会に協賛している「JAグループ栃木」・「栃木信用金庫」・「グランディハウス」のPRのブースや、焼きそばのテントの前には大勢の人が行列を作ってました。
郡市町対抗駅伝8.jpg郡市町対抗駅伝9.jpg
(栃木市陸上競技場の外も、スタンド内も大勢の来場者で賑わっていました。)
復路のスタートを応援して家に戻り、テレビ観戦を楽しみました。
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(復路スタートを待つ、各郡市町チームの襷)
郡市町対抗駅伝10.jpg
(12時30分予定通りスタートして、競技場内を走る6区のランナー達)
我が栃木市は、往路は6位で私の前を通過するのを確認しましたが、復路は県庁前に9位でゴール。総合順位はどうなるのか、インターネットでの発表を待ちました。結果的に総合6位と、昨年を上回る成績を飾っていました。
今回の大会も、箱根駅伝で活躍した選手が大勢走って、区間新記録も出ています。「後から後からドンドン素晴らしい選手が誕生してくるなー」と感心します。中学生や高校生の走りも見逃せません。
栃木市は1チームだけでしたが、那須塩原市は3チームも参加して、選手層の厚さを物語っています。
復路のゴールでは、佐野市のAチームとBチームとが同時にゴールして来たのは、これも驚きです。ゴール直前でAチームが先にゴールをして、Aチームの意地を見せていましたが。
今年も地元の郡市町を代表して、一生懸命に走った選手の皆さんに拍手です。

鹿沼市口粟野から望む「大倉山」 [地図]

前回、我家から北北西方向に見える三角山が、栃木市と鹿沼市の境界と成る山々の稜線のひとつ、「大倉山」標高454.6メートルで有る事を確認しました。
大倉山5.jpg
(我家から見える「大倉山」、バック中央の雪山は「女峰山」、右側は都賀の里「観音山」)
地形図を確認して等高線の状態から、円錐状の山では無い事も判明しました。たまたま我家の方向から見える形は三角状に見えるのでした。
それでは、大倉山の反対側から見ても同じ三角山に見る事が出来るのではと考え、地形図上で我家と「大倉山」とを結ぶ直線の延長上を探してみると、鹿沼市口粟野の粟野城址と成る「城山」山頂が当たっている事を確認出来たので、さっそく現地確認に出掛けて来ました。
目的の「城山」は、鹿沼市口粟野の市街地中心部に有ります。街を東西につらぬく県道15号線から、入粟野方面に向かう県道246号線が分岐する交差点の西側に「城山公園」と記した道路標識が建っています。
標識の所から北に入る細い道に入り、左にカーブする坂道をそのまま進むと、城山公園の駐車場に突き当たります。
駐車場に車を停めて本丸方向に山道を登ります。公園内は「城山を守る会」の手による、道標や説明板がいたる所い建てられ、山頂への道路も綺麗に整備されて、安心して登る事が出来ました。
標高257メートルの山頂と思しき所まで約20分で到着しました。山頂に大きな石碑が建てられています。
粟野城址「城山」の碑1.jpg
(粟野城址の通称「城山」の山頂に建てられた石碑)
石碑の正面には「城山」の文字が大きく刻されています。この文字は徳川慶喜翁の揮毫と説明されていました。碑陰には横尾勝右衛門氏の撰文で粟野城の歴史が記されています。その碑文の中に「天正16年12月某日皆川山城守広照・・・」の文字が記されていました。興味が有るので後で又調べてみたいと思います。
粟野城址「城山」の碑2.jpg粟野城址「城山」の碑3.jpg
(石碑の表に刻された文字は「城山」)     (碑陰には粟野城の歴史が刻されている)
その石碑の隣りには「栃木県の防空関連施設群」のひとつ、土木学会選奨土木遺産として指定された「口粟野防空監視哨」が残されていました。
口粟野防空監視哨2.jpg口粟野防空監視哨3.jpg
(山頂に残る口粟野防空監視哨の跡)         (推奨土木遺産の銘板)
この監視哨は≪太平洋戦争開戦の昭和16年(1941)「防空監視隊令(勅令1136号)の発令を受けて策定された「栃木県防空計画」により整備・建造された。(後略)≫との説明板が脇に立てられています。
この監視哨の脇に立って南の方向を望むと、栃木市との境界と成る山々の稜線がシルエットとなって、東西方向に連なっています。
口粟野防空監視哨1.jpg
(城山山頂の土木遺産「口粟野防空監視哨跡」から南方栃木市との境界稜線を望む)
そして、有りましたその稜線にひときわ高く突き出た三角形の山、「大倉山」です。
大倉山(北から).jpg
(標高454.6メートルの「大倉山」山頂部分)
地形図上で検証した、我家からとは正反対の北側から見た「大倉山」の姿です。

三角山探訪 [歩く]

栃木市内を歩いていると、色々な山が目に入って来ます。
太平山、筑波山、男体山、三峰山、岩船山、三毳山などは著名な山々で、その方向と山の形状で栃木市民であれば誰でも簡単に認識をする事が出来る山でしょう。
そんな中で私が以前から興味を持っている山が有ります。それは見た目が三角形を呈している山です。それも、我家から望む事が出来る山で、北側と西側と二つ見る事が出来ます。
大倉山1.jpg飯盛山3.jpg
(北に見える三角山、後方は日光連山)       (西に見える三角山)
西側のひとつは以前から場所も名前も分かっていました。それは岩出町の「飯盛山」です。夕方箱森町の西側辺りをウォーキングしていると、三角形の山のシルエットが良く見る事が出来ます。
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(永野川と赤津川との合流点から西方を望む。中央の三角山が「飯盛山」)
標高は165メートル程ですが地形図を見ると等高線がほぼ同心円状に成っていて、見るからに高さの低い円錐形、丁度茶碗にご飯を盛った形に見えます。そんな形から「飯盛山」と呼ばれるようになったのではと、勝手に想像をしています。飯盛山1.jpg
(日没直後の飯盛山)

北側の三角山は数年前、栃木総合運動公園のジョギングコースを歩いている時に見つけました。遠くに有る為、見る角度が変わると手前の山や木々の陰に隠れて見えなくなってしまいます。それからどこの山なのか、もっと近くで見たいと車を走らせた事も何度も有りますが、なかなかその正体が掴めませんでした。それが最近になって我家からも見える事に気が付きました。
雪化粧をした日光連山を撮影していると、女峰山の手前に左右対称に裾野を広げる三角山が確認できたのです。さて、これはどこの山が見えるのだろうか、又、その探求が始まりました。
大倉山3.jpg
(野中町上公民館西方から「都賀の里」の有る観音山を望むと、その左にチョコット三角山が)
都賀町や西方町にも車を走らせ、三角山の見えるポイントを探して、それらのポイントから地形図上で直線を引き、その延長線上に当たる山を確認する事が出来ました。
大倉山2.jpg
(都賀町木コミニュティーセンター西方からの大倉山。後方に男体山を望む。)
その山の名前は「大倉山」と言い、現在栃木市と鹿沼市との境界線上に聳える、標高454.6メートルの山でした。地形図にて等高線の状況を確認すると、円形には成っておらず、北北西から南南東方向にほぼ楕円状に成っていて、山自体は円錐状では有りませんが、大倉山から我家の有る方角が南南東に位置していた為、丁度三角状に見えていたのでした。

今朝、日光連山は雪雲に隠れて見えませんでしたが、鹿沼との境と成る「大倉山」は、三角形の山の形を見せていました。
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(2017年1月23日撮影、大倉山。手前右手に写る山は、都賀町の観音山)


栃木市新井町周辺を歩く [歩く]

栃木の市街地から皆川城内に向かう県道75号線を走ると、泉川町の道路の右手に、元栃木市立泉川小学校跡に建てられた、栃木市屋内運動場「スパーク栃木」が有ります。
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(栃木市屋内運動場「スパーク栃木」)
今日、久しぶりに暖かな陽気に誘われ、ウォーキングで出かけました。私の祖父の出身はこの小学校の近くだと聞いた事が有りますが詳しい事は聞いていませんでした。きっと祖父はこのグランドを駆け回っていたのかも知れません。
正門の左手に今も「二宮金次郎」の薪を背負って読書をしながら歩く、お決まりの姿の像が残っています。
そしてその隣に建つ石碑は、「栃木市立泉川小学校跡」を記念するもので、閉校された昭和52年(1977)3月に建立されました。
スパーク栃木3.jpgスパーク栃木4.jpg
跡地に建つ「スパーク栃木」は屋内ゲートボール場、ここに栃木県ゲートボール協会の本拠地が有ります。
ゲートボールと言うといつの頃か大流行した時期が有ります。多くの地域の公園や広場等に、ゲートボール場が造られ、早朝に高齢者が自前のステックを持って集まり、プレーを楽しんでいました。
昭和55年(1980)に栃木市主催の第一回ゲートボール大会が行われました。又、平成元年(1989)に開催された栃木市老人クラブ連合会主催の大会には61チーム、約500人が参加したと言います。
私の子供が小学生の頃、何故かゲートボールクラブだったようで、ここ「スパーク栃木」で行われた大会で優勝をしています。
当時は本当にいたる所でステックを持った高齢者を見かけましたが、最近は殆ど見なくなった気がします。
私も65歳を過ぎて、高齢者の仲間に入りました。(最近高齢者の年齢見直しがされている様ですが)
昨年8月に毎年開催されている「栃木市民スポーツフェッスティバル」を観戦した時、今まで見た事の無い高齢者が多く参加するスポーツ競技が幾つも有る事を知りました。そこで私よりズット高齢の70代80代の方々が、ハツラツとプレーを楽しんでいるのを見ると、こうして健康で長生きできる事は素晴らしい事だなと、改めて感じました。
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(ゲートボール:現在も多くの高齢者がプレーを楽しんでいるチーム競技です)
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(グランドゴルフ:グランドが有れば何処でも出来るミニゴルフ。個人競技です)
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(ターゲットバードゴルフ:専用のコースが必要。バトミントンの羽根が付いたボールを使う。個人競技)
私自身は子供の頃より運動は大の苦手で、特に球技種目は散々でした。ですから社会人と成ってから、会社で毎年行われる職場対抗ソフトボール大会は、打ってはまともに当たらず、守ってはエラーの連続でチームの足を引っ張るばかりでした。
そんな私の現在の健康法は、唯ひたすら歩くだけと思っています。
今日も、泉川町から新井町の天満宮を回って、東北自動車道の側道を栃木インター方向に歩き、野中町を回って来ました。本日の総歩数は13,856歩になりました。


我家からの日光連山 [自然の恵み]

今朝、久し振りに男体山が現れました。
先週末より西日本から日本海側の各地に大雪を降らした、この冬一番の大型寒波の影響で、我が栃木県も北部山沿いは降雪と成りました。
我家から天気の良い日は、遠く日光連山を望むことが出来るのですが、ここ数日はいつも北の空は黒い雪雲に覆われて、男体山を見る事ができませんでした。
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(2017年1月17日撮影、日光連山は雪雲に覆われ見る事が出来ません)
それが、今朝確認をしてみると、朝日を一杯に受けて白く輝く男体山をはじめとする、日光連山が姿を現していました。
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(2017年1月18日撮影、青空をバックに朝日に輝く日光連山)
振り返って見るに、この冬の男体山の初冠雪は2016年11月1日でした。
これは、ほぼ平年並みという事です。ただ2015年は11月27日という事で、この冬は早く感じてしまいます。
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(2016年11月1日撮影、男体山初冠雪)
2016年11月24日には宇都宮気象台の観測としては、31年ぶりと言う11月の降雪に見舞われました。これは2015年の初雪より49日も早かったようです。
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(2016年11月25日、昨日の雪がまだ残る、手前吹上の鴻巣山)
2017年の正月は温かく穏やかな日が続いていました。男体山の山頂の雪も融けて少なくなっていましたが、今朝の男体山はすっかりと、化粧直しをして真っ白い山肌を朝日に輝かせていました。
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(2017年1月18日撮影、真っ白に化粧直しをした男体山が朝日に輝いています)

川越市のマンホールカードをゲットしました。 [コレクション]

先週の土曜日、東京にチョッとした用が出来た為、車で出かけました。
途中、川越市にて「埼玉県流域下水道50周年記念」の行事として、「マンホールサミット埼玉2017」が開催されている事知り、少し回り道をして会場の様子を見て来ました。
開場は川越駅西口近くに、一昨年オープンした「ウェスタ川越」。会場の外は、丁度この冬一番と言う大寒波が訪れて、冷たい風が吹いていましたが、建物内の会場には大勢の人が訪れて熱気に溢れていました。
マンホールサミット埼玉2017.jpgマンホールサミット写真展示.jpg

開場に到着したのは、午後1時過ぎでしたが、大ホールでは、「下水道って何だか楽しい!」とか、「マンホール広報は楽しい!」「マンホール蓋を発掘せよ!」などのテーマで、リレートークが繰り広げられていました。
大ホール入口前では、マンホールコースターの塗り絵の会場に多くの小さい子が、マンホールをデザインしたコースターに思い思いの色を塗っていました。
他に「埼玉の下水道フォトコンテスト写真展示」や「下水道の日関連コンクール作品の展示」、そしてマンホールグッズとして「ご当地マンホールストラップ」や「ミニタオル」、「どら焼き」などが会場狭しと並んでいました。
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冷たい風が吹き荒れる建物外の「交流広場」には、埼玉県下の各自治体のマンホールが一堂に展示されていました。それを多くの人がお気に入りのデザインのマンホールを写真に収めていました。
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私もゆっくり見ていたかったのですが、寒くて体が冷えてしまうのと、後の予定が詰まっていたので、そこそこにその場を後にしました。
最後までいると記念品として、マンホールカード「埼玉県流域下水道8種セット」が貰えたのですが残念です。ただ、受付にて川越市のマンホールの「紙コースター」と、「マンホールカード」1枚づつをゲット出来ました。
マンホール蓋コースター(川越).jpg川越市マンホールカード.jpg
天気予報では、関東地方でも所によって降雪の恐れが有る、として不要不急の外出は避ける様にと注意をしていたので、不安が有りましたが、幸い帰りの東北道も「降雪」や「凍結」も無く、無事に戻る事が出来ました。

佐野市葛生、街歩き [歩く]

先日、久しぶりに葛生の街中を散策しました。
2005年2月28日に、佐野市と田沼町と合併して葛生町と言う町名は今は無くなっています。
栃木市の皆川地区の西に南北に連なる、標高300から400メートルの山々の稜線が現在も、栃木市と佐野市の境界であり、昔からその境界のひとつに、琴平神社が祀られています。
私が葛生町を最初に訪れたのは、高校3年の時に遡ります。高校1年の夏休みに、自動二輪車の運転免許を取得したことと、高校で葛生から通学する友が出来た事も有り、初めて尻内から現在の国道293号のルートをバイクでとばしました。当時は会沢トンネルはまだ有りませんでしたから、会沢峠を越えて行きました。
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(1968年撮影、石灰工業の街葛生を最初に訪れた時)
今回は、葛生の市街地の中心に出来た、「葛生ポケットパーク」の駐車場に車を停めさせて頂き、街中を散策しました。
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(葛生の街の中央に有る、「葛生ポケットパーク」)
葛生の市街地の中央を、ほぼ南北に通る県道123号線(葛生停車場線)は、現在北側「嘉多山公園南」交差点から、南側葛生駅入口交差点付近までの約1キロメートルの区間、電線の地下埋設が行われて、すっきりとした街並みと成っていました。
この市街地中心の道路は、街の西側を流れる秋山川の右岸(西側)を通る「葛生バイパス」が開通する前は、国道293号でした。
この地域の空中写真で私達が閲覧可能な最も年代の古いものは、昭和22年(1947)11月1日の米軍撮影の写真に成ります。
その空中写真を観察すると先ほどの「嘉多山公園南」交差点付近から南側「葛生駅入口」交差点付近までの区間、周辺道路と比較してはるかに広い道路が確認出来、その道路の両側に短冊状の屋敷割と成る家並みがぎっしりと続いています。
そんな中心道路を歩いて行くと、新しい立派なお屋敷と、大正から昭和初期ごろと思われる土蔵作りの建物がポツリポツリと残っています。
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(葛生の中央の通りを散策して、目にした趣のある建物と風景)

通りの南側「葛生本町」交差点の南東側角に、葛生町道路元標と刻した石柱が残っていました。この交差点で、北から来て西に折れ秋山川に架かる「天神橋」を渡るルートが、以前の国道293号ですが、それ以前からこの交差点は各方面に向かう道路の要と成るポイントだったのです。
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(葛生町道路元標が、シッカリした姿で設置されています)
逆に通りを北側に歩いて行くと、道路は小高い山の階段の正面で突き当たります。ここは市街地の北の端に当たり、現在は「嘉多山公園」と成っています。
恥ずかしい事ですが、私はこの公園の名前をこれまでずっと「喜多山公園」と思っていました。市街地の北側に有るからそれをもじって「喜多」としたものと勝手に解釈をしていました。
この公園に初めて来たのも結構前に成ります。昭和47年(1972)12月です。その時公園で撮影した「子供二人がより添って座る像」の写真が私のアルバムに残っていました。今回訪れてその像を探してみましたが、確認できませんでした。
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(1972年12月撮影、「嘉多山公園」から南方向、原人ロードが見える)
子供がまだ小さかった頃も何度かこの公園に連れて来た事が有ります。階段を上がった所に、子供の遊び場が有ってそこに「タコ」の形のピンク色の滑り台が有り、子供達も喜んで遊んでいました。その滑り台も無くなっていました。
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(1990年6月撮影、子供達が喜んで遊んだ、ピンクのタコの滑り台)
今、その場所には、大正4年英国ベーヤピーコック社製造の四輪連結テンダー型機関車が展示されています。この機関車は東武佐野線にて活躍したもので、昭和41年11月東武鉄道佐野線の全線電化で引退したものと脇に建つ掲示板に記されていました。
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(現在の公園に展示されている、蒸気機関車。横の滑り台が昔のタコの名残りか?)
尚公園内には「吉澤石灰工業発祥の地」と記した石碑や、「吉澤兵左翁」の銅像が建てられています。
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(公園内に建てられた記念碑や銅像)
この公園は元吉澤石灰工業の石灰製造の場所と言い、近くに明治時代から大正5年頃まで石灰石を焼き石灰を製造した「七輪窯」の跡も残されていました。
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(石灰岩を焼くための「七輪窯」の跡)
尚、先ほど記した昭和24年撮影の空中写真には、この嘉多山公園前から「嘉多山公園南」交差点間に道路は無く、一面田畑だけが広がっています。他に昭和36年5月13日撮影の空中写真では景色は一変して、道路が縦横に走り、住宅が密集しています。
新たに出来た「嘉多山公園」前からの道路は、「原人ロード」と名付けられ、平成6年7月に「ふるさとを紹介する道」として、「手づくり郷土賞」を受賞している様です。以前は、この「嘉多山公園」前のこの道路を発着点として、「葛生原人マラソン大会」がおこなわれていて、私の息子が中学生の時、一度このマラソン大会に参加をしています。雨が降るあいにくの天候でしたが無事に走りきってくれました。
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(公園入口階段脇の「手づくり郷土賞」の記念銘板」「葛生原人マラソン大会スタート風景)

葛生の街は私にとっても、思い出の多い場所です。思い出を探りながら、街の中を散策する事が出来ました。



庭の蠟梅が開花しました [草花]

我家の庭の隅の蠟梅が開花しました。
昨年は野鳥に蕾を食べられてしまい、花を見る事が出来ませんでしたが、今年はなぜか野鳥も来ず、無事に蕾が膨らみ開花を始めました。
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今日は冷たい風が強く吹き付けていましたが、蠟梅の花も寒さに耐えて必死に咲いていました。

うずまの竹あかりを楽しみました。 [祭]

この冬は恒例となっていた、栃木市巴波川の冬ホタルが行われておりません。
その代りなのか、「幸来橋」の下流に架かる「巴波川橋」の北東側橋詰に有る、「蔵の街遊覧船待合処」の板塀沿いに、孟宗竹を細工して星の形や音符の形などの穴を開け、内側に照明を燈すことで、竹の表面に色々なデザインの光りが浮かび上がる「竹筒燈籠」が幾つも取り付けられています。
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巴波川沿いの道は私のウォーキングルートのひとつ、陽が暮れてから川の右岸を歩くと、対岸に続く「塚田歴史伝説館」の黒塀の先に、オレンジ色の温かな明かりが転々と灯ってます。
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巴波川橋を渡って、灯りの元に近づいて見ると、竹筒に一本一本異なったデザインの穴が開けられ、竹筒内に灯る照明の明かりにより、その細工された穴からの光りが闇の中に浮かび上がり、とても美しく見ていて楽しい気持ちに成ります。
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これらの竹筒燈籠の細工をされたのは、うずま川遊会の船頭さん達という事です。舟を操るのも上手、お話も歌も上手な方達ですが、その上デザインや工作も達者と、本当に器用な方達だと感心してしまいます。
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この「うずまの竹あかり」は2月末まで見られるそうです。

栃木市の南関門道路のこと [栃木市の橋梁]

栃木駅前から北に進み、現在のデニーズの有る交差点に至る道路は、通称「南関門道路」と呼ばれ、昭和3年に開通した道路です。
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(2015年撮影、手前の橋が「関門橋」、中央奥にNTTビルと通信アンテナ塔)
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(1964年撮影、「関門橋」より北側、消防署の火の見櫓)(1980年頃撮影、消防署移転後)
この南関門道路が出来るまでは、市街地の中央を縦断する大通りから直接、南の栃木駅を結ぶルートは有りませんでした。明治21年(1888)5月22日両毛線の小山・足利間が開通し、栃木駅が出来る以前、江戸時代を通して南側から栃木の市街地に入るルートは、栃木の市街地を西側から南側を囲むように流れる、巴波川に架かる「開明橋」を渡る、日光例幣使街道しか有りませんでした。
栃木駅が出来てから、駅前から伸びる道路は、大正4年(1915)測量・大正6年(1917)7月20日発行の、2万5千分1の地形図「栃木」を見ても、①東方向へ両毛線の線路の北側に沿って進み、例幣使街道の「開明橋」から南に伸びる、「古河街道」に突き当たり、左に折れて先ほどの例幣使街道に合わさって、「開明橋」から市街地に入るルート。②駅前から真直ぐ北に進み、例幣使街道を横切って巴波川に架かる「相生橋」を渡る、現在の「ミツワ通り」。そして③として、その西側から北北西方向に進み、これも例幣使街道を越えて、錦着山方向に向かう現在の「女子高通り」の3本しか有りませんでした。

この「南関門道路」が初めて栃木の地形図に現れたのは、昭和7年(1932)12月28日発行の地形図に成ります。この地形図は昭和4年に修正測量の結果が反映されていますから、昭和4年以前に開通していた事が分かります。それでも私はこれまでハッキリした事が分かっていませんでしたが、昨年暮れの栃木市主催の文化講座「大正から昭和にかけての栃木」の講話の中で「昭和3年に開通した」と教えて頂きました。
私の手元に栃木市観光協会が昭和26年9月1日に発行した「栃木市鳥瞰図」が有ります。この図には更に多くの道路が新たに加わっていますが、「南関門道路」周辺を抜粋して説明します。
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(栃木市鳥瞰図より栃木駅前、南関門道路付近を抜粋しています)
赤マジックインキにてハンチング表示した道路が「南関門道路」、道路上を赤マジックインキにて破線表示したルートが「例幣使街道」に成ります。
例幣使街道が栃木宿に入る前に、西から東に一度迂回するようにして、栃木宿に入って来ていますが、なぜこのようなルートを採ったのか、私にとっては一つの謎です。
それではなぜこの時期に南関門道路は造られたのでしょうか。当時の様子を少し振り返って見ますと、少し遅れる事昭和9年(1934)に太平山遊覧道路が開通しています。又、昭和11年(1936)には万町交番前交差点から北側の「北関門道路」も開通しております。御存じの通りこれらの道路は、昭和4年(1929)より顕著になった世界大恐慌の影響で日本経済は株の暴落や多くの会社倒産により、街の中は失業者で溢れていた時期で、その失業対策の一環として行われたものと言われます。
しかし、南関門道路はその計画の時期はそれよりも少し早く進められています。そこには関連する事では、昭和4年(1929)4月1日に、東武鉄道日光線(杉戸-新鹿沼間)が開通をしています。そして、それに先立って栃木駅の駅舎が昭和3年(1928)に建て替えられています。又、昭和2年(1927)には関東自動車㈱が栃木町に創設されています。(※昭和5年に本社を宇都宮に移転)という事で、栃木駅が交通の中心として大きく変わって行った時期だった事で、栃木駅と栃木市街地とを直結する道路が望まれた時だったのではと考えられます。
新しく開通した「南関門道路」について、日向野徳久先生監修の「ふるさとの思い出写真集・栃木」の中で、昭和12年4月1日の栃木市制施行当日に撮影された「南関門道路」の写真説明に、≪この頃の南関門道路はもてあますほどの広さに感じられていた≫と述べています。
又、栃木市発行の「目で見る栃木市史」のページをめくると、「霧の朝」と題し、≪南関門橋上より栃木駅方面を望む≫と説明が付けられた昭和7年頃撮影された、背景が霧で霞む「関門橋」の親柱の写真が掲載されていました。
関門橋の高欄は最近新しくなりましたが、親柱は以前のまま綺麗に化粧直しされ、橋の銘板も新しく取り付けられました。親柱の上に取り付けられた街灯も最初のデザインの方が重みが有ったと思われます。
関門橋旧親柱.jpg関門橋新親柱.jpg
(1980年撮影、旧関門橋高欄と親柱)   (1999年撮影、新関門橋高欄と親柱)
「南関門道路」の「関門橋」の南側に、巴波川から分水した「沼和田用水」に架かる「片柳橋」の高欄や親柱も新しくなりました。同時に橋の銘板も入り、橋名も分かる様になりました。
片柳橋旧親柱.jpg片柳橋新親柱.jpg
(1980年撮影、旧片柳橋の親柱)     (2013年撮影、新片柳橋の親柱)
昭和34年(1959)11月に、駅前南関門道路の商工会館前に、栃木市のネオンアーチが設置されました。そのアーチも商工会館も今はもう過去のものと、なってしまいました。
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(1964年撮影、南関門道路に設置された栃木市のネオンアーチ、手前は旧商工会館)
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(2013年撮影、元商工会館が有った丁字路は東側に道路が抜けました)
南関門道路から見た風景も時代と共に移り変わり、街の姿も大きく変わってきました。
1980年関門橋から南方向.jpg1980年関門橋から北方向.jpg
(1980年撮影、関門橋から南側を写す)    (1980年撮影、関門橋から北側を写す)
現在、栃木駅前から南関門道路周辺は多くの予備校・進学塾に変わり、夜に成るとそれらのビルから漏れる照明の明かりと看板の照明だけが目立っています。
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(2015年8月撮影、夜の南関門道路)