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「イシハラ」店舗移転、戦後の栃木市の建物が又一つ消えます。 [建物]

今年、又ひとつ、栃木市の昭和の建物が姿を消そうとしています。
栃木市街地の中心と成る、蔵の街大通りと銀座通りとの角に建っている「イシハラ」のビルです。
2012年6月10日イシハラビル.jpg
(2012年6月10日撮影、銀座通り東側入口角に建つ「イシハラ」ビル)
婦人服と学生服の専門店ということで、男の私にとっては殆ど縁の無い建物で、中に入ったのは1・2回しか有りません。最初に入ったのは、現在の建物がオープンした当初、栃木市内で初めてエスカレータとエレベータが有ると聞いて、物見遊山で行きました。まだ高校生のころです。
私の写真のアルバムに、その時「イシハラ」の屋上から真下の道路に並んだり倒れていたりしている自転車の様子をただ撮った写真が残されています。今となると他に何の記憶も残っていません。
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(1968年撮影、 「イシハラ」ビルの屋上から真下の歩道に置かれた自転車の列)
その後、写真撮影が唯一の趣味と成った私ですが、神社仏閣や風景などを撮るのが中心でした。栃木市街地の景色も、巴波川沿いや街中の蔵造りの建物などは撮りましたが、新しい建物はなかなか撮影の対象には成っていませんでした。
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(1979年4月撮影、「イシハラ」のショーウインドウは何時もお洒落でした)
それでも、「イシハラ」も店頭に有るショーウインドウのディスプレイは、栃木の街中でもお洒落でセンスが良くて、目立つものでした。
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(1979年6月撮影、まだアーケードが有った頃の「イシハラ」の角)
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(2010年7月17日撮影、お洒落なショーウインドと蔵の並ぶ町並み)
最近は栃木の街中をウォーキングして過ごす日が多くなり、日暮れの大通りを歩くのもコースのひとつに成っていました。大通りを歩くと必ずこの「イシハラ」のショーウインドウが何時も明るく照明されていて、目を引いていました。
2010年10月10日夕暮れの銀座通り.jpg
(2010年10月10日撮影、夕暮れの銀座通り、ショーウインドの照明が付く)
2015年8月29日夜の蔵の街大通り.jpg
(2015年8月29日撮影、闇の中に浮かび上がる「イシハラ」のショーウインドウ)
ところが突然そのショーウインドウに「閉店セール」の大きな文字が現れました。これは私にとっても大きな衝撃でした。「イシハラ」さんは店舗移転で、同じ銀座通りの西側、「山本総本店」の隣り、昔紳士服の「みどりや」の有った建物に移り、すでに営業を始められています。
2016年9月28日店舗移転閉店セール.jpg
(2016年9月28日撮影、シューウインドウに衝撃の「閉店SALE」の文字が)
今年も残すところ後2日に成りました。「イシハラ」のビルの解体工事は年を越します。そして「イシハラ」と交差点の対角に位置する、「足利銀行栃木支店」のビルも今、その東側に新しい建物が完成して、通りの角に建っていたビルは、すでに殆んど解体が終わろうとしています。
2016年11月30日解体工事中のイシハラビル.jpg
(2016年11月30日撮影、解体工事が始まった「イシハラ」の建物)
来年は、ここ栃木市街地の中心が大きく変わります。どのようになるのか、今から楽しみです。

旧薬師寺村道路元標について [石碑]

旧薬師寺村(現下野市薬師寺)の道路元標は、下野市の自治医科大学の南側を東西に抜ける栃木県道310号(下野二宮線)を東に走り、新国道4号線へ向かう手前の集落の中に有ります。
薬師寺村はその名前が表わす通り、古くは日本三戒壇の一つと成る下野薬師寺が有った所です。現在の薬師寺の集落は中央部を南北に貫通するように通る道路に沿って、家並みが形成されています。明治前期に作られた迅速測図「栃木県下野国河内郡薬師寺村及下都賀郡小金井驛」を調べてみると、この南北に通る道路には「従宇都宮至結城町道」(宇都宮より結城町への道)と記されています。
現在県道310号線に有る「薬師寺4丁目交差点」で、交わる道路がこの街道に成ります。先の迅速測図では交差点では無く丁字路として、西側には道路が有りません。以前はその丁字路から南側に90メートル程下った所に、西側に向かう道路の丁字路が描かれています。
明治初期薬師寺村略図1.jpg
(明治前期の薬師寺村の略図を、迅速測図を基に作成しました。赤印が道路元標の位置)

「薬師寺村道路元標」はこの南側丁字路の東側突き当りの場所に建っています。この丁字路には現在も「薬師寺郵便局」が有り、かつては集落の中心地で有ったことが覗われます。
薬師寺村道路元標.jpg薬師寺村道路元標2.jpg
(薬師寺村道路元標)        (道路元標は薬師寺郵便局の脇に建っています)
西に向かう道路は今も残っていますが、現在は集落の西側から、分岐して先ほどの「薬師寺4丁目交差点」に交わる新道が出来て、そちらが県道310号となり、旧道を通る車は殆ど無くなっています。

地形図を見てみると、道路元標の建つ直ぐ西側に三角点記号が記されています。三等三角点「薬師寺」です。標高表示は60.6メートルと成っています。この薬師寺の集落の有る地点は東側と西側とは水田が広がり、特に東側は北から南に田川が流れていて、周辺の標高は50メートル前後と低くなっています。
薬師寺の集落は、周辺より少し高くなっている所を通る、宇都宮と結城を結ぶ道路に沿って開けている事が分かりました。

道路元標より北に500メートル程行くと、道路の左側に「安国寺」が有ります。境内に建てられた説明板によると、≪安国寺は暦応2年(1339)、足利尊氏が古代の国分寺にならって全国に安国寺を建立した際、下野国には薬師寺が存在するところから安国寺を建てることなく、そのまま安国寺と寺名改称したと伝えられる。(後略)≫と記されています。入口には「史跡 下野薬師寺跡」と刻した石柱も建てられていました。
安国寺1.jpg安国寺2.jpg
(安国寺入口脇に建つ「史跡下野薬師寺跡」の石柱)    (明治38年再建の安国寺本堂)
尚、安国寺本堂北西側に建つ「六角堂」は、かっての下野薬師寺戒壇跡と伝えられる所に建てられています。更にその西側から北側一帯にかけて、史跡整備の為の発掘調査が行われ、金堂・戒壇・経蔵・講堂・回廊などの伽藍配置が明らかにされつつあります。中でも西回廊は調査結果を基に、史跡公園内に一部復元されています。
安国寺六角堂.jpg下野薬師寺回廊復元.jpg
(下野薬師寺跡のシンボル、六角堂)         (一部復元された、下野薬師寺回廊)

又、安国寺の東側、ほぼ並行して通る道路沿いに、薬師寺八幡宮が祀られています。参道前に建つ案内板によると、≪薬師寺八幡宮は、奈良時代前期に建てられた下野薬師寺の寺内社といわれ、貞観17年(875)石清水八幡宮の祭神を東北守護の大神として鎮座されたものといわれています。(後略)≫と記されていました。
薬師寺八幡宮3.jpg
(道路沿いに建つ二つの鳥居、奥が薬師寺八幡宮。手前は天狗山雷電神社の鳥居)
薬師寺八幡宮2.jpg薬師寺八幡宮1.jpg
(薬師寺八幡宮の参道入口)                (薬師寺八幡宮拝殿)

一方、道路元標前から南へ90メートル程進むと右に入る道が有り、その先に下野薬師寺別院「龍興寺」山門が現れます。手前に有る駐車場に車を停めて、山門を潜ると、整然とした境内に美しく均整の取れている本堂が迎えてくれます。境内には日本三戒壇を開いた鑑真和尚の碑や、弓削道鏡の墓所と言われる「道鏡塚」が有ります。
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(龍興寺本堂)                  (本堂に向かって左手方向に有る史跡道鏡塚)

今回は、旧薬師寺村の道路元標を中心に、古き昔の名残を今に留める社寺をめぐりました。

デザインマンホール蓋ブーム到来か? [コレクション]

最近、デザインマンホール蓋の話題が、新聞やテレビで良く見聞きするようになった気がします。
今日の読売新聞朝刊の栃木版、≪学業成就のマンホール 足利学校ちなみ新デザイン≫のタイトルを目にしました。記事の内容は≪足利市は22日、日本遺産の足利学校(足利市昌平町)内など3か所のマンホールの蓋を、同校にちなんだ新しいデザインのものに付け替えると発表した。(後略)≫
足利市は今年8月に、足利学校の門をデザインしたご当地マンホールを、栃木県内で最初の「マンホールカード」として作成、配布を始めていました。配布しているのは足利学校近くの「太平記館」、広い駐車場を併設しているので便利です。
このマンホールカードは国土交通省系の下水道の大切さをPRする任意団体「下水道広報プラットホーム」が企画し、今年度(2016)から発行が始まったばかりです。4月に第一回目として28自治体30種類、8月に第二回目として40自治体44種類が加わり、この12月から更に46自治体46種類が発行され、現在114自治体120種類と増加をしています。
栃木県内では12月に宇都宮市と大田原市とが新たに加わり、3種類に成っています。
マンホールカード足利市1.jpgマンホールカード宇都宮市1.jpgマンホールカード大田原市1.jpg
配布は無料ですが、一人1枚、事前予約や郵送は行わない為、欲しい人は現地に足を運ばないとゲットできません。マンホールカードや実際のマンホールを写真撮影する為、全国を巡るカードコレクターも増えていると言います。ご当地マンホールは観光客の誘致にも一役買っている様です。
マンホールの蓋に描かれているデザインは、それぞれの自治体の花や鳥、木の他、歴史的建造物、祭り、ご当地キャラクターなど様々で、全国に1万2000種類も有ると言われます。私達栃木県内でも私が収集したもので、55種類(内カラーマンホール19種類)です。又、一般的な標準デザインにそれぞれの自治体の市町章をあしらっただけの物や、同じデザインでも「農集排」の地域の違いや、「雨水」や「汚水」「公共」など名称の異なるものを入れるときりが有りません。私が写真に収めた数はこれまで120種類に成りました。まだ私が探し切れていないものや新しく作られた物も出て来ていますから、更に種類は増えているでしょう。
(※2016年10月21日に「栃木県内のマンホールデザイン蓋」をまとめて、このブログで紹介しました。)

これからも色々な町を歩きながら、新しいマンホールのデザインに出会うことも、楽しみの一つです。

上三川町道路元標について [石碑]

これまで、真岡市や益子町、茂木町方面は良く出かけています。
栃木市からですと、壬生町から国道352号線をひたすら東方向へ、新国道4号線の立体交差の下を抜け、そこから県道47号線で更に東へ、鬼怒川を渡って行く事に成ります。ですから東北新幹線の高架下を過ぎた所から、鬼怒川を渡るまでの間、いつも上三川町を通過している訳ですが、何故か上三川町を訪れた事は一度も有りませんでした。強いて思い起こすと、会社勤めをしていた現役時代に、一度「日産自動車栃木工場」の工場見学をさせて頂いた事が有りましたが、上三川町を訪れたと言う感じは有りません。
ですから今回、「上三川町道路元標」の設置場所確認という事で、初めて上三川町の市街地を訪れた事に成ります。
最初に「上三川町役場」を訪れて、玄関ロビーにて「上三川町文化財マップ」を頂き、それを元に町の中を探索する事にしました。
まずは近くの「白鷺神社」に参拝、境内は早くも新年を迎える準備が始められており、来年の干支である鳥を描いた大きな絵馬が飾られておりました。又境内東側には<日本一の「平和の剣」>と言う、白鷺神社御鎮座1,220年(平成15年)を記念し奉製された、長さ1,220センチメートル、青銅製の剣が翔舞殿と呼ばれる建物に収められています。
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(上三川町、白鷺神社正面入口より撮影)
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(翔舞殿に収められた「日本一の剣」)
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(来年の干支の鳥を描いた大きな絵馬)
この白鷺神社が上三川町の中心と成っているようで、この神社の正面から南に町の大通りが通っています。文章では説明がおぼつかない為、今回も概略図を作ってみました。現在の道路状況では多くの新しい道路が出来ていますので、明治初期に作られた迅速測図を今回も参考にさせて頂いて、古くから通っていた道路が分かる図にしました。
明治初期上三川村略図1.jpg
(明治初期の上三川村の概略図)
白鷺神社から南に伸びる広い道路を歩いて行くと、右手(西側)に立派な寺院が建っています。その付近で道路は少し西側にずれる様に曲り、又真直ぐ南に伸びています。この道のずれを町の人に尋ねて見たかったのですが、歩いている人が居りませんでした。
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(道路正面奥に白鷺神社、手前左手の寺院が「普門寺」)
その先を更に進んで行くと、道路沿いに大きくて立派な建物が現れました。町の文化財マップにも出ています。立派なはずです、国の登録有形文化財に指定された建物で、「旧生沼家住宅」でその説明文によると≪町中心部の角地に建つ商家。桁行、梁間とも7間半とし、切妻造、平入の南北棟の北端に、東西棟の入母屋造の2階部を載せた特異な構造。(後略)≫
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(国登録有形文化財となっている、旧生沼家住宅と、手前カラクリ時計)
この商家は明治40年発行の「栃木県営業便覧」によると「肥料商」と記されています。
そしてこの交差点の南西角付近に、探す「上三川町道路元標」が建てられています。この場所は先の「栃木県営業便覧」によると、「宇都宮警察署上三川分署」の有った所ですが、現在は「夢のジャングルジム〜希望の響き〜」と題する「カラクリ時計」が建てられています。
上三川町町道路元標1.jpg上三川町からくり時計.jpg
(上三川町道路元標と脇に建つカラクリ時計)
又、このカラクリ時計の足元には「道路元標」の他に、もう一つ古い四角柱の道標が建っていました。
その道標の4面はそれぞれ東西南北に面していて、「北 宇都宮方 」一番下の文字がハッキリしない。「東 大沼渡舩場經眞岡道」「南 吉田村結城町道」「西 石橋町栃木」の文字が確認出来ました。
上三川町道標1.jpg上三川町道標2.jpg
(カラクリ時計の脇に建っている古い道標、東西南北に行先の地名が刻されている)
この道標からもこの場所が、幹線道路の交差点であった事を物語っています。
あらためて明治初期に作られた迅速測図「栃木県下野国河内郡上三川村」を確認してみると、街の中央を白鷺神社を迂回しながらも南北に縦断する道路には、「従宇都宮至結城町道」(宇都宮より結城町に至る道)と記され、道標の建つ交差点で東西に街を横断する道路には、「従眞岡町至石橋驛道」(真岡町より石橋町に至る道)と記されています。この交差点から東に向かう道路は、現在ではセンターラインも無く、車がすれ違うのがやっと出来る程度の道幅で、恐らく昔のままでしょうが、通りの名前は「城址公園通り」と成っています。
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(真岡方面への道、街路灯に「城址公園通り」と出ている)
名前の通り交差点から200メートル程行くと左手に「上三川城址公園」の入り口が有りました。
入口から入ると駐車場が有り、「上三川城」の案内板が立っています。
≪上三川城は建長元年(1249)、宇都宮氏の一族である横田越中守頼業が築いた城で以来、慶長2年(1597)に芳賀高武に攻められて落城するまで、348年間続いた城です。(後略)≫との説明が記されていました。
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(城址公園入口駐車場に建つ説明板)(入口の堀に架かる橋)
城址公園は上三川城の本丸跡で周りは土塁と堀が巡り、中は現在芝生広場に成っていました。
上三川城址濠1.jpg上三川城址濠2.jpg
(城址公園の周りを囲む堀、東側と西側を北側より撮影)
道路元標の脇に建つカラクリ時計、説明板に演奏時間1日5回と記され、午後3時にも演奏されると成っていました。折角だからとその時間にカラクリ時計の前に、3時に成るのを待ちました。どんな曲が流れるのか、どんな動きをするのか楽しみに待ちましたが、時計の針が3時を過ぎても演奏は始まりませんでした。
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(カラクリ時計)
少し残念な気持ちを残して、上三川町を後にしました。




栃木県都市計画道路、小山栃木都賀線 平柳町工区開通式が執り行われる [橋梁]

今日12月17日、栃木県都市計画道路3・3・3号線(小山栃木都賀線)の内、栃木市平柳町の工事区間の片側2車線が完成、開通式が午前中に執り行われました。
都市計画道路小山栃木都賀線は、小山駅前の国道4号線から栃木市の東部を縦断して北関東自動車道の都賀インターチェンジを結ぶ、延長約16キロメートルの広域的バイパス道路です。
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(式典会場に掲示されていた、平柳町工区の「位置図」)
今回開通式が行われた平柳町工区とは、主要地方道宇都宮栃木線の栃木環状線と市街地に入る旧道との分岐する五差路部分から、北方向に進み跨線橋と成って東武宇都宮線を跨ぎ、すでに北側から市道01028号線まで伸びて来ている合戦場工区の道路につながる1,300メートルの区間に成ります。
将来的には4車線道路として計画されていますが、今回は2車線での開通と成っています。
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(式典会場に掲示されていた説明資料の内、「代表断面図」)
私も式典が始まる10時20分に合わせて会場に向かいました。式典会場となるのは東武宇都宮線北側、大宮町と都賀町合戦場との境界付近です。すでに式典会場は多くのテントが張られ、沢山の人が集まって来ていました。
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(式典会場に建てられた開通式典ゲート)
天候に恵まれた式典会場ではすべてが整い、通り初め式が始まるのを待っています。
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(通り初め式の開始を待つ真新しい道路)
花火の合図とともに「開通式典」が始まり、最初に栃木県の福田知事より式辞、その後工事関係者や来賓の方々から事業経過報告や祝辞が寄せられました。その後地元の東陽中学校ブラスバンド部の演奏が行われ、式典を盛り上げました。
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(東陽中学校ブラスバンド部の演奏を聴く多くの観衆)
開通式典に続き、通り初め式が始まりました。
最初は、新しく開通する道路の交通安全を祈願して、道路に記された「祈交通安全」の文字を代表の方達がお清めのお酒にてなぞりました。
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(路面に記した「祈交通安全」5文字をお酒を以てなぞり、交通安全を祈願する)
続いて、栃木県知事や来賓者によってテープカットが行われました。
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(代表者によるテープカット)
次は「くす玉開披」、代表者の他会場に来られた人達も一緒になってくす玉の紐を曳きました。
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(大勢の参加者が一緒になって「くす玉開披」)(開通を祝う垂れ幕がくす玉の中から)
そして最後は栃木県警パトカーの先導にて来賓を載せた車両が、新しい道路の通り初めを行い式典が終了いたしました。
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(先導の栃木県警パトカーに続いて来賓を載せた車両が、通り初めを行う)

一般車両の通行は、午後3時以降という事で、さっそく夕方私も通り初めを行ってきました。
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(東武日光線を越えて北側に下りる。夕陽を反射している建物は、合戦場小学校に成ります)
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(戻って来て南側に下りる。前方の広い交差点は「平柳町東口交差点」に成ります)

平柳町東口交差点より南側「大宮工区」はまだ工事が進んでおりません。式典の来賓挨拶の中からも、計画道路の全線が一日も早く開通出来る様願う言葉が述べられていました。
この道路が全線開通をすれば、栃木市街地中央の大通りの渋滞も大幅に改善をされるものと期待されます。

壬生町の道路元標について [石碑]

下都賀郡壬生町は、慶安4年(1651)に作られた「下野一国」に記された、下野国の五つの大道筋の内の2街道が交差する、江戸時代からの交通の要衝です。
壬生の町を南から北に抜け、更にその北側で向きを90度西に変え、その後北北西方向に進んで鹿沼へ至る、「日光西街道」(日光道中壬生通りとも呼ばれる)と、栃木と宇都宮とを結ぶ街道の2街道です。
東京方面から壬生町に来るには「日光街道」を北進、小山の市街地を抜けた喜沢の分岐で「日光街道」から外れ左方向へ、雑木林の中の道「日光西街道」(現在は栃木県道18号線です)を進みます。
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(日光西街道飯塚宿付近)             (日光西街道花見が丘付近)
姿川を渡った後思川の左岸(東側)を北上、飯塚宿を抜け国分寺跡を右手奥に見ながら、花見が丘の交差点を通過すると、壬生町の入口となる黒川に架かる「御成橋」が見えてきます。
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(黒川に架かる「御成橋」、この辺りが壬生下河岸)    (国指定史跡「壬生一里塚」)
御成橋を渡ると街道の右側が「壬生町元町」、街道左側が「壬生町表町」。
道路の左側に用水堀、途中で道路の右側に移ります。その先で道路左側に国指定史跡の「壬生一里塚」が現れます。脇に壬生町教育委員会が建てた説明板によると、
≪壬生の一里塚は、「日光道中壬生通」に設けられた一里塚の一つで、日本橋から数えて23里目(約96km)にあたります。(中略)壬生の一里塚は、この地が壬生城の入り口に当たるため、将軍の日光社参の際は壬生の城主はここに出迎えるのを例にしたと言われています。≫と記しています。
東武宇都宮線の踏切を過ぎると、道路左側は「壬生町本丸二丁目」右側は「壬生町中央町」と町名が変わります。踏切から北側50メートルの交差点を左に折れると、思川を渡って栃木市に入ります。
この交差点の手前、道路と歩道の境に「壬生町道路元標」が建てられています。大正11年8月18日内務省令第20号「道路元標ニ関スル件」の第三条に、「道路元標ハ其ノ位置ヲ表示スル為道路ニ面シ最近距離ニ於テ路端ニ之ヲ建設スヘシ」と定めている通りに建てられています。
その為か、その表面には車が擦ったと思われる横筋が付いています。
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(写真右下に道路元標、交差点を左に曲ると栃木へ至る)   (壬生町道路元標の正面)
道路元標の設置場所を記した、壬生町の明治時代の道路状況を略図で表してみました。
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(明治期の壬生町の道路の様子を略図にしました。道路元標は赤の印を付けました)
当然まだ東武鉄道は有りません。町の中央部に壬生城跡、町内には5つの寺院が認められます。
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(壬生城址は現在中央公民館や図書館、歴史民俗資料館が建つ、城址公園に成っています)
町の南側で西側から「日光西街道」に合わさった「宇都宮・栃木道街道」は、町の北側で東に折れて黒川を渡った後北方向に向きを変え宇都宮へ至ります。
黒川に架かる橋は「東雲橋」と言い以前より桜の名所に成っています。
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(黒川に架かる「東雲橋」と桜の花、2015年4月1日撮影)

※今回参考にさせて頂いた文献は、栃木県文化協会発行「栃木の街道」です。

京都三条大橋の橋詰に建つ駅伝発祥の地の碑 [石碑]

京都三条大橋は東海道五十三次終点の地に成ります。
京都鴨川に架かるこの橋の西橋詰には、十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」の二人の主人公、弥次さんと喜多さんの像が建てられています。そしてその前で多くの観光客が、記念写真を撮りあっています。
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(擬宝珠を載せた京都三条大橋の高欄)    (西橋詰に建っている弥次さん喜多さんの像)
一方、丁度その反対側東橋詰に、ひっそりと駅伝発祥の地を記念した碑が建てられています。
台座部分に大きく「駅伝の碑」、その下にスタート地「三条大橋」からゴール地「東京上野不忍池」、そしてその間22箇所の中継点の名前が刻されています。
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(京都三条大橋東橋詰に、2002年日本陸上競技連盟によって建てられた「駅伝の碑」)
そして台座の上、碑のデザイン、これは襷を表わしているのでしょうか。何となくカタツムリの形にも見えますが。碑文は、
≪駅伝の歴史ここに始まる≫と題して、≪我が国、最初の駅伝は、奠都五十周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競走」が大正6(1917)年4月27日、28日、29日の3日間にわたり開催された。スタートは、ここ京都・三条大橋、ゴールは、東京・上野不忍池の博覧会正面玄関であった。≫と記されて、襷を掛けた二人のランナーの走る姿をシルエットで描いて有ります。
同じ内容の碑が、ゴール地点の東京上野不忍池のほとりにも、建てられているそうです。
碑文にも有る様に、競技としての最初の駅伝とされるこの大会は、この三条大橋を午後2時に出発、東京上野不忍池までの23区間、約508キロメートルを昼夜問わず走り抜けるもので、ゴールに到着したのは翌々日の午前11時34分だったそうです。
「駅伝」の名前は、開催に当たり当時の大日本体育協会副会長及び神宮皇學館長、武田千代三郎が名付けました。江戸時代の伝馬制からヒントを得たと言われています。
来年2017年は、この最初の駅伝競走が開催されてから、丁度100年目と言う節目の年と成ります。

12月に入って毎週末には、日本のどこかで駅伝大会が開かれる季節に成りました。1月2日・3日に開催される「箱根駅伝」の話題も今から色々とニュースになっていて、どの大学が優勝をするのか、注目選手は誰かなど、早くも盛り上がっています。
箱根駅伝・絆の像1.jpg箱根駅伝歴代優勝校掲示板.jpg
(読売新聞社・社屋前に建つ箱根駅伝「絆」のブロンズ像)(歴代優勝校の銘板がならぶ)

その前、この12月25日には、「全国高等学校駅伝競走大会」が、京都市西京極総合運動公園陸上競技場をスタート・ゴールに、全国各都道府県の高校生の代表選手が夢の都大路を走り抜けます。
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(京都・西京極陸上競技場でゴールする選手を待つ観衆)
今年の栃木県代表は男子が「佐野日本大学高等学校」、女子が「白鷗大学足利高等学校」が、さる11月3日の栃木県大会にて代表の座を獲得しています。
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(各出場高校を応援する幟旗が立ち並ぶ西京極陸上競技場スタンド)

男子代表の佐野日本大学高等学校は那須拓陽高等学校に遅れ2位でゴールをしています。しかし、1位の失格による繰り上がりという思わぬ形で3年ぶりの栄冠を手にしたのでした。
翌日の下野新聞の記事には≪閉会式で優勝旗を手渡されても、報道陣にカメラを向けられても一度は「完敗」を受け入れた選手たちの表情に笑顔はない。それでも各自が口にしたのは「責任」の2文字。「那須拓陽のためにも全国大会で結果を出すしかない」と大森主将。ライバルの思いも背負って都大路を駆け抜ける。≫と載っていました。
結果として佐野日本大学高等学校は、3年ぶり15回目の優勝を果たし、都大路への切符を獲得しています。北関東枠代表と合わせ4年連続17回目の全国出場。昨年、一昨年の都大路では不本意な結果でしたので、今年は日頃の練習の成果を大いに発揮しての力走を期待したいと思います。
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(西京極陸上競技場でスクールカラーの小旗を持って応援する佐野日大高校の応援団)

栃木県女子代表の白鷗大学足利高校の選手の皆さんは、3年連続3回目の出場です。実力を出し切って念願の都大路を襷を繋いで駆け抜けて下さい。

蔵の街栃木の風景① [建物]

私の住む栃木市は、その中心市街地に今も多くの蔵造りの建物が残っています。
市街地の中央を北から南に抜ける幅18メートル程の大通りは、江戸時代の初め徳川家康の柩を、その遺言によって久能山から日光に改葬する際に、整備されたのがきっかけとなっています。
栃木の町はそれより先、天正年間(1573~92)に皆川広照によって、栃木城の城下町として町並みが形成されたと言われます。
室町時代の町並みセット.jpg
(天正年間、栃木町が建ち始めた頃は、こんな感じだったのではないでしょうか。)
※写真はNHK平成3年大河ドラマ「太平記」のオープンセット。中世期の町並みです。

正保3年(1646)、朝廷から例幣使が初めて日光東照宮に派遣されていますが、栃木町を通るこの街道は正式に「例幣使街道」と呼ばれるようになりました。以後、毎年4月の日光東照宮大祭には、例幣使一行や中山道筋の諸大名等が例幣使街道を利用、それに伴って栃木宿はその主要な宿駅として本格的な街並みを形成する事に成りました。
昭和53年10月31日発行の「栃木の街道」(栃木県文化協会)の中に、日光例幣使街道の章が有ります。その中で栃木宿の記述に、≪宿内の大通りでもある例幣使街道は、その中央を幅1間の堀が流れ、その左右にそれぞれ3間道幅であった。≫と有り、これから換算をすると道幅は約12.7メートルだった事に成ります。それからすると、江戸時代から比べると道幅は少し広がった様です。

それから現在に至る370年間に、町並みは変化を続けて来ました。
栃木の町並みを明らかにすることの出来る最古の資料は、承応4年(1655)に作成された「栃木町屋敷間数帳」というものです。その資料を基に、現在倭町交差点の南東部、通りに面して立派な見世蔵等が5棟、軒を連ねている、栃木蔵の街観光ポイントの一つに焦点を当ててみたいと思います。
2002年1月撮影蔵の街栃木の風景1.jpg
(見世蔵などが5棟、軒を連ねる倭町一丁目東側、2002年1月撮影)

まず、現在の市道11201号(東銀座通り)は、東横町道巾3間2尺5寸と記されています。メートル換算すると約6.2メートルですが、現在の道幅を確認すると、通りの東側入口付近で6メートル、西側の出口付近で5.5メートルと成っていますので、江戸時代から道幅はそのままで変わっていません。

その通りの南側には、道路に沿った間口が狭く、奥に長い短冊状の屋敷割が続きます。
最初は五郎左衛門、屋敷表8間1尺(約14.8m)、座敷裏8間(約14.5m)、屋敷竪48.5間(約88.2m)、
その南隣りの屋敷は嘉右衛門、屋敷表7間2尺5寸(約13.5m)、座敷裏8間(約14.5m)、屋敷竪48.5間(約88.2m)。
そしてその又、南隣りの屋敷は太郎右衛門、屋敷表7間4尺(約13.9m)、座敷裏7間(約12.7m)、屋敷竪49間(約89.1m)。
更に南隣りの屋敷は七兵衛、屋敷表8間(約14.5m)、座敷裏8間(約14.5m)、屋敷竪53間(約96.4m)、
そして、その南隣りの屋敷は源次郎、屋敷表8間(約14.5m)、座敷裏7間5尺5寸(約14.4m)、屋敷竪52間(約94.5m)。
ここまで5軒の屋敷表の間数をトータルすると、38間7尺5寸(71.4m)と成り、現在のNTT東日本栃木ビルの北側辺までと成ります。

この区域の屋敷割のその後の変遷を、確認出来る資料を探し比較してみました。資料として宝暦9年(1759)栃木町絵図、明治40年(2016)栃木県営業便覧と、現在の町並みとを比較する概略図を作成してみました。
倭町一丁目東側屋敷割り1.jpg倭町一丁目東側屋敷割り2.jpg
こうして比較してみると、屋敷割が次第に細分化されて来た事が分かります。ただ面白い事に住所表示は承応4年頃の屋敷割が今も基に成っているのか、現在の「MORO craft」さんと「毛塚紙店」さんは同じ住所です。
一番南側に建つ「三桝屋本店」さんは、明治40年発行「栃木県営業便覧」では、「足袋商・須藤半次郎」と成っています。この時の三桝屋本店さんは「玩具商・殿塚久平」として、東横町通りの北側現在の足利銀行栃木支店の一画に名前が記されています。
㈱三桝屋本店さんのホームページを拝見させて貰うと、この区域は明治41年、火災によって焼失、その後一斉に建て替えられたと記され、その後の再生した蔵の街並み、活気あふれる商店街の写真が掲載されています。
現在の三桝屋本店さんの屋根を飾る鬼瓦を良く見ると、中央に昔の「足袋商・須藤半次郎」の屋号が残っています。
三桝屋本店.jpg三桝屋本店鬼瓦.jpg足袋商須藤1.jpg
(三桝屋本店さん正面)       (鬼瓦には足袋商・須藤商店の屋号、山にカタカナのス)

三桝屋本店さんの北隣り「金澤邸」は、営業便覧に「呉服太物商・金澤庄七」と記されています。こちらの建物は高さが低く両側に挟まれた形となっている為、鬼瓦の正面を見る事が出来ません。現在はご商売も止められた様子です。
金澤邸.jpg金澤邸1.jpg
(金澤邸正面)           (鬼瓦は確認できませんが金澤商店の屋号、矩に正)
   
そのお隣は、営業便覧に「和洋紙・諸帳簿・商 毛塚源蔵」と記されています。今も変わらず「毛塚紙店」の看板を掲げています。屋根の鬼瓦そしてその前を飾るハナブカにも屋号が記されています。
毛塚紙店.jpg毛塚紙店鬼瓦.jpg毛塚紙店1.jpg
(手塚紙店の正面)      (鬼瓦とその前のハナブカに手塚紙店の屋号、矩に中)

次は、数年前まで「家具の丸三」の看板が掲げられていましたが、現在は日用雑貨・古道具のお洒落なお店「モロクラフト」さんの建物。鬼瓦の屋号は「矩(カネ)に井」が確認できます。営業便覧にも屋号と共に「堺屋本店」と有ります。「酒類商 井上留吉」と記されています。又、屋根の箱棟の漆喰部にも中央に屋号、その両側に分かれて「堺 屋」と描かれています。
MORO craft.jpgMOROcraft鬼瓦.jpg井上酒店1.jpg
(モロクラフトさんの正面)    (鬼瓦には酒類商井上商店の屋号、矩に井)
MORO craft箱棟.jpg
(屋根の上部、箱棟の漆喰部に屋号と「堺屋」の文字が見えます)

そして最後5軒目は自慢焼の「冨士屋」さん。営業便覧では「乾物商・山本貞次郎」と記されています。冨士屋さんの創業は昭和9年11月と言いますので、後にこちらに店を構えたのでしょう。
富士屋.jpg富士屋1.jpg
(名物自慢焼の冨士屋さん正面)   (鬼瓦の中央部に屋号は付いていません)
富士屋1979年.jpg2015年2月撮影蔵の街栃木の風景.jpg
(1979年撮影、昔は看板で土蔵を目隠しに)(現在、看板やアーケードも無く土蔵を前面に出しています。2015年2月撮影。冨士屋さんは一番手前、いつも名物の自慢焼を求める観光客の姿が絶えない。)

明治・大正期の姿を留める栃木の町並みも、長い間に少しづつ変化してきています。そしてその変化の名残りが古い建物に潰されること無く残され息づいています。そのような時代の忘れ物を探し当てた時、何とも言えない喜びを感じる栃木の街歩きです。

2013年12月撮影蔵の街栃木の風景.jpg
(冬の夕暮れは早く訪れ、照明のついた通りは又、別の顔を見せてくれます。)

初めて大阪城を訪れました [建物]

一昨日、昨日とプライベートで初めて大阪を旅行して来ました。仕事では何度か訪れましたが、いつも日帰りでしたので、大阪に宿泊したのも初めてでした。
NHKの大河ドラマ「真田丸」も、今まさに大阪城を舞台に、真田幸村と徳川家康との最後の戦いの場面に入ろうとしている所、そんな事も有って一度大阪城公園を見て回りたいと思っていました。
あいにく、日曜日は午後過ぎに雨に成るとの天気予報で、午前中に大阪城公園に向かいました。
曇り空の割には、暖かな陽気になったので、寒さは全然感じずに歩いて回れました。
大阪弁1.jpg大阪弁2.jpg
(京橋駅前の歩道面に、放置自転車防止を呼び掛ける「アカン!!」の文字に大阪を感じる)

大阪城公園の中は、予想通り多くの観光客で溢れています。東南アジアからの観光客も多く、中国語や韓国語・タイ語などが周りで飛び交っています。
JR大阪城公園駅から、紅葉する公園内の木々の上に頭を覗かしている。噴水広場から大阪城ホールの脇を通って「青屋門」へ。
青屋門1.jpg青屋門2.jpg
(大阪城・青屋門)                 (青屋門の先に大阪城天守閣)
目の前に満々と水を溜めた内堀が広がり、その先には高くそびえる様な城郭が、左右に伸びています。内堀沿いに石垣を右手に見ながら、時計回りに歩いて二の丸から「桜門」に向かいます。
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(本丸東側の内堀を北から南方向に望む。幕末までこの石垣上に糒櫓・月見櫓・馬印櫓が有った。)
内堀石垣2.jpg内堀石垣3.jpg
(石垣の隙間にたくましく根を張る木々も紅葉しています)
本丸の南側二の丸から「桜門」を抜けて、本丸内に入ると目の前の桝形に巨大な石が二つ。城内第一位となる巨石は「蛸石(たこいし)」と呼ばれ、表面積がおよそ36畳(59.43平方メートル)、重量が約108トンと推定されています。感心して見ていて、写真を撮るのを忘れました。周りの石垣もどれもこれもパズルの組み合わせの様に、見事な積み上げがなされていました。
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(パズルの如く見事に積み上げられた石垣)
桝形の先を曲ると本丸広場の奥に天守閣が聳え建っています。入場料600円、多くの観光客の列に並び案内に従って天守閣の中へ。
天守閣3.jpg天守閣1.jpg
現在の「大阪城天守閣」は昭和6年(1931)、「大阪夏の陣図屏風」に描かれた豊臣時代の天守を参考に建設されました。鉄筋コンクリート造り、本丸から最上層の鯱までの高さは約54.8メートル。古典建築を近代的な技術によって再現した、わが国の復興天守第一号であると、説明のパネルに記されています。
平成7年(1995)、構造補強を伴う復興後最大規模の「平成の大改修」が実施され、同9年に竣功しました。同年、歴史的景観に寄与する近代建築物として、国の登録有形文化財となりました。
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(8階地上50メートルの展望台からは、アベノハルカスや通天閣を確認出来ました)

途中の階の展示も興味の有るものばかりでしたが、ともかく沢山の人の波にのまれて、なかなか思うように鑑賞できませんでした。これも「真田丸」効果なのでしょうか。
天守閣から出て、今度は本丸北側の「極楽橋」を渡り、今度は北西の方向から内堀越しに、城郭の上に聳える天守を撮影して、大阪城を後にしました。
極楽橋より.jpg天守閣2.jpg
(極楽橋北橋詰より天守閣を望む)           (北西側内堀越しに天守閣を望む)