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旧佐野町の道路元標 [石碑]

先日、佐野市に出かけた折りに、新しくなった佐野市役所の南東部交差点近くに建つ、道路元標を見て来ました。
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(後方左の高い建物が新築された佐野市役所庁舎に成ります)

この道路元標は、旧佐野町の物で、近くに説明板が設置されていました。説明文を読むと
≪この「佐野町道路元標」は大正11年の内務省令に基き、道路の起点を示すため設置された。 かって佐野市域の各町村にも置かれたが現存するのはこの道路元標だけであり、歴史的に貴重な資料である。 駅南区画整理事業に伴いここに移設する。≫ と刻されています。添えられた図によると「元地」は現在地より南だったが、現在は道路にかかっている。
佐野町道路元標1.jpg佐野道路元標説明板.jpg
近くには現在地の標高や経緯度を刻した三角点プレートが埋め込まれています。それによると標高は33メートル、東経は139度34分54秒、北緯は36度18分37秒に成るそうです。
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又、近くの歩道上にて、佐野市のカラー版デザインマンホール蓋を見る事が出来ました。
佐野町道路元標4.jpg

我が栃木町の道路元標は、倭町交差点の北東部角(足利銀行栃木支店前)に、車道と歩道の境界として置かれた他の石柱らに紛れて建っています。
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(栃木町道路元標)  (分かり難いですが写真中央少し背の高い石柱が道路元標です)

関東地方に54年ぶりの積雪 [自然の恵み]

今日、予報通りに関東地方の広い範囲に、11月としては54年ぶりとなる降雪と成りました。
明け方5時に確認した時は、まだ雨も雪も降っていませんでしたので、又、布団にもぐりこみました。
その後、朝の6時24分ごろに枕元に置いていた携帯電話が緊急地震情報を知らせる警報音が鳴り、急いで起床しました。その時にもまだ外は雪は降っていません。雪にならなくて良かったと思っていましたが、その後気が付いたら雪がぱらつき始めていました。
次第に激しく降り出した雪に、あっという間に家の周りは雪景色に変わりました。
サザンカに雪降る.jpg
(サザンカに雪降る)
南天に雪1.jpg
(南天の赤い実に白く積もる雪)
雪の中、柿に群がる雀.jpg
(降雪中も激しく飛び回り、柿の実をついばむ雀の群れ)

昼過ぎまで続いた雪も、午後2時を過ぎる頃には止み、雲をすかすように太陽の光が確認出来る程に回復して来ました。周囲の田んぼの雪はまだまだ残っていますが、道路の雪はすっかり消え、一安心です。

箱森町鷲宮神社の、お酉様 [栃木市の神社]

今日11月23日は「勤労感謝の日」です。私の家の近く、箱森町の「鷲宮神社」ではお酉様が行われ、神社の境内において、地元自治会のバザーやお囃子の演奏が行われて、我家まで太鼓の音が聞こえてきました。
この日は地元の農家で作った、鳥の卵を模した米の粉で作った団子を藁で包装して、境内にて販売されます。「これを食べると風邪をひかないよ」と子供の頃、親から聞かされました。
私も昼近くに成ってから、自転車を飛ばして神社に向かいました。
箱森町鷲宮神社1.jpg箱森町鷲宮神社2.jpg
境内は地元の関係者の方が大勢集まっていました。まずは神前で参拝を済ませた後、さっそくお目当ての「米団子」を2本買って家に戻りました。
箱森町鷲宮神社3.jpg箱森町鷲宮神社4.jpg
さっそく藁の包装を開け、中身を取り出し電子レンジで「チン」して、私の好きな「砂糖醤油」を付けて食べました。「これで、この冬も元気で乗り切れるかな。」

天気予報では明日は雪の朝になると言っています。11月に雪が降ると54年ぶりだそうです。
幸い一昨日、車のタイヤを冬用に交換しました。少し早いかなと考えていましたが、今年は例年よりも早く雪が降る予感がしていたので、少し安心です。でもどちらかというと雨に成って欲しいです。

栃木の鬼瓦 [建物]

蔵の街栃木の市内には、多くの見世蔵や文庫蔵が今も点在しています。それらの建築物の瓦葺屋根の棟の両端に据えられた「鬼瓦」について見て行きます。
「栃木の鬼瓦」については、栃木市倭町の「栃木郷土参考館」に掲げられた説明文によると、≪寺や見世蔵、文庫蔵などの屋根は鬼瓦が必要であり、その鬼瓦を作る人を「鬼板師」または「鬼師」と呼んでいます。≫と、記されています。ではなぜ屋根の棟の両端に鬼瓦が必要なのでしょうか。
先日、栃木市の文化課主催講座で、栃木市嘉右衛門町通りの「重要伝統的建造物保存地区」を、市の担当職員の方の説明を聞きながら、歩いて巡りました。
その時に、この鬼瓦についても説明が有りました。説明が有った場所は、嘉右衛門町通りの脇の駐車場内に残る古い土蔵の所です。
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(江戸時代後期、安政5年の土蔵)(②青海波の棟、鬼面の鬼瓦、影盛が配されている)

この建物が建てられたのは、安政5年(1858)という事で、この地区で年代が判明している土蔵の中では1番古い建物に成るそうです。
屋根の一番上の部位を棟と言い、その形状は幾つかあるが、栃木で見られるのは、①一般的に熨斗瓦を重ねた「あつのし」、②半円状の瓦を交互に積んで波の形に見せる「青海波(せいがいは)」(※日本の伝統的な吉祥模様)、③棟の側面を漆喰で平らにする、寺社の屋根に多く見られる「箱棟」の三種類です。
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(①の一般的な熨斗瓦を積み上げた棟に成っている、下野新聞社栃木支局の屋根)
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(③の箱棟と鬼面の鬼瓦、そして影盛を配した、湊町の白旗山勝泉院の屋根)

こうした棟を両側から押さえつける様に取り付けられたものが鬼瓦ですが、鬼瓦は寺院建築を中心に普及したそうですが、その本来の役目は棟部分の端から雨水が浸入する事を防ぐ為のものです。その上で更に建物と中に住む人に禍が及ばない様、魔除けとする為、邪気などの侵入を阻む様、鋭い形相の鬼面を模った瓦を配するようになったようです。
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(嘉右衛門町の土蔵の屋根の上で睨みを利かす鬼面の鬼瓦、背後に影盛も有る)

但し一般の家では鬼瓦に鬼面を配しているのは殆ど見ません。市内で見る多くの鬼瓦に配されているのは、その家の家紋や屋号を表わしたものです。他に家を火災から守る願いを現し、「水」の文字を付けたものも見受けられます。

岡田記念館1.jpg岡田家1.jpg
上の鬼瓦は、岡田記念館の物。中央に配した紋は岡田家の家紋「車前草(おおばこ)」です。

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上の鬼瓦は、横山記念館の物。中央に配した紋は横山家の屋号か?横山記念館のお店の前の日除け暖簾や、共立銀行だった入口の扉の、曇りガラスに描かれた紋。金庫の扉にも描かれています。

水の文字1.jpg舘野家1.jpg
(水の文字が付いた鬼瓦)   (鬼瓦の後、一回り大きく漆喰で模ったものが影盛です)

またこうした大きな鬼瓦に多く見られるのは、鬼瓦の後に一回り大きく漆喰にて模った成形物ですが、これが「影盛」と呼ばれるものです。その役目は、説明を聞くところによると、鬼瓦に横風が当たると、その背後の瓦2枚分ほどが風の影響を受けて剥がれ易くなる。横風のあおり止めの為漆喰で重りの役目をさせたのが、「影盛」の目的という事でした。ただ最近の鬼瓦を見ると、影盛も鬼瓦と一体となっている物も多くなっている気がします。私が思うに、これは鬼瓦を大きく豪華に見せるだけの物に変わってきているのでは無いかと考えます。
最近は、栃木の街の中を歩くと、屋根の棟や鬼瓦の形に目が向く様になりました。今まで気が付かなかった屋根の見方が、少し分かって来た気がしました。






川原田町粟野街道の分岐に建つ常夜燈について [石碑]

栃木市街地から北に伸びる県道37号(栃木粟野線)を北に向かって走ると、ヤオハン川原田店の先で信号の有る交差点が現れます。交差する道路は市道114号(吹上合戦場線)に成ります。川原田町のこの周辺一帯はその昔「しめじが原」と呼ばれた所で、湧水が多く見られました。
交差点の北東部には、巴波川の源流の一つと成る、白地沼や二股沼が有り、西方向には大淵沼や笹淵そして天神淵などの湧水が分布しています。
交差点を通過して更に500メートル程進んだ所で、道路はY字路に成ります。分岐の左方向が県道37号線、右方向は細い脇道で、通行するほとんどの車は左方向に進みます。右の細い道は普通車が1台やっと通れる幅しか有りません。以前、私も間違って進入してヒヤヒヤした事が有ります。
この細い右の道路も、れっきとした県道に成ります。県道177号(上久我都賀栃木線)です。
この分岐点の中央に1基の石の常夜燈が建てられています。
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(川原田町の分岐、左は鹿沼市旧粟野町へ、右は鹿沼市上久我へ)
この様に街道の分岐に建てられた常夜燈は道標の役目をすることが多いです。群馬県高崎市倉賀野の旧中山道と旧日光例幣使街道との分岐点にも同じような常夜燈がたっています。長野方面から碓氷峠を越えて倉賀野宿でこの常夜燈前まで来ると、台石の上「竿石」の正面に「左 日光道」、右側面に「右 中山道」、左側面には「常夜燈」と刻されて、旅人に道を教えています。
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(旧倉賀野宿の旧中山道よ旧日光例幣使街道の分岐に建つ常夜燈)

一方、ここ川原田町の分岐に建つ常夜燈を観察すると、風化が激しく刻されている文字がハッキリと判別できません。
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(川原田町の粟野街道よ上久我街道の分岐に建つ常夜燈)

まず正面を見ると、台石には大きく「中子氏」(もちろん古いものですから横書きは右から左に読みます)、その上側「竿石」には上から下に文字が刻されていますが、判読出来ません。
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(常夜燈正面台石に刻された文字は「氏子中」)

台石の左側面には「左 尾鑿山道」と読めました。
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(台石左側面の文字、「左 尾鑿山道」と有る)

台石の右側面に刻されている文字は縦書きに「齊藤内」その左隣りに「手代」その左隣りは「〇達」、その下に「中」(〇の部分は削られていて、文字が欠落して不明です)
左半分の部分にはこれも削れてはっきりしませんが、恐らく「赤」その下に「津」そしてその左隣りに「坪中」と刻されています。こちらは、「赤津坪中」と読むのでしょう。
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(台石の右側面、齊藤の名前などが刻まれている)

台石背面にも文字が刻されていますが、残念ながら判読困難です。この常夜燈を建てた年代や寄付した人達の名前が刻されていたのか、名前と思われる字が僅かに読む事が出来ます。
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(常夜燈背面の台石の文字は判読が難しい)

この常夜燈でハッキリと示しているのは、「尾鑿山道」は左の道ですよ、と教えている事です。
私は「尾鑿山」については何も知らなかったので、さっそく調べてみると、鹿沼市の西方山岳部に、「石裂山(おざくさん)」と言う標高879.5メートルの山が有ります。国土地理院発行の2万5千分の1地形図「古峰原」を確認すると「石裂山」(※”おざく”とルビが付いています。)の隣りに(尾鑿山)と記されています。そしてこの「石裂山」の南麓に「尾鑿」と言う字名が有ります。また近くに「賀蘇山神社」の名前が記されています。
この「賀蘇山神社」(がそやまじんじゃ)こそ、川原田町に建つ常夜燈が案内する所だったのです。

確かに川原田町分岐の常夜燈の所から、左の道は「粟野街道」と呼ばれて、鹿沼市の旧粟野町につながっていますが、更に目的の「賀蘇山神社」には、その粟野の町の口粟野交差点から更に北に向かう県道246号(草久粟野線)を14km程進むことになります。そのルートを通る事でやがて、道路の右側に「下野國尾鑿山」と刻した石柱が建つ場所に到着するのです。
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(下野國尾鑿山の石柱が建つ、賀蘇山神社入口)
栃木市川原田町の常夜燈の所から測ると、30kmも離れたこの二つの地点には、どのような関係が有ったのか、興味が湧いて来ましたので、「栃木市史」の中に関連する記事が有るか確認すると、民族編に「尾鑿山講」という信仰の記事が見つかりました。
≪江戸時代から作神として、尾鑿山信仰が盛んであり、各村々に講が有り、尾鑿山からの配札が行われていた。講中が太太神楽を奉納する日は9月11日以降それぞれ日割りが定められていたが、一番初めに奉納するのが、上川原田村(川原田町)の講中の人々であり、上川原田村講中は特別待遇で、「川原田座敷」という上段の間で接待された。(後略)≫
なぜこのような特別な関係と成ったかは、更に時間を遡る事に成ります。
「栃木県神社誌」の「賀蘇山神社(がそやまじんじゃ)」の項に、≪正応2年(1289)4月1日、朝臣小野道綱が都賀郡上河原田村(栃木市)に落居し、当社を参詣して奥社および参道を改修した。以来毎年旧暦4月1日に、小野氏子孫が参詣登山をする習わしが有る。≫と、記されています。こうして、尾鑿山と上川原田村との特別な関係が築かれて来た事が、この常夜燈建立にも繋がったものと考えられます。
常夜燈の年代は安政4年(1857)、台石に刻された「齊藤家中」とは、尾鑿山神社の齊藤壱岐守の家中のことと市史に記されていました。

先日、初めてこの賀蘇山神社(尾鑿山)へ出向いて参拝をして来ました。鹿沼市の西の山懐は丁度紅葉が色鮮やかに出迎えてくれました。途中道路際に「熊注意」の警告板が多く見られ、山に入るのは躊躇されます。賀蘇山神社への県道246号は、粟野川に沿って伸びています。神社の駐車場が道路の右側に開けその北側は「石裂山(尾鑿山)」が立ちふさがります。道路の左手は粟野川が音を発てて流れています。
石段を登り境内に入り参拝を済ませます。
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(賀蘇山神社境内、背後の山が「石裂山(尾鑿山)」と思われます。)
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(賀蘇山神社の神額、見事な彫刻が施されています)(境内の紅葉が綺麗でした)
今は道路も整備され、車で簡単に来ることが出来ますが、500年以上前は一日掛かりいやもっと大変な行程であったと想像されます。

栃木瓦は燻し瓦だった [建物]

私が生まれ、そして今も住んでいる栃木市箱森町は、昔は瓦屋さんが沢山有りました。その分布は、当初は錦着山の北東部、皆川街道沿いに集落を形成するように有った様です。その後、箱森町から赤津川分水路周辺の泉川町や新井町方面に広がっています。現在はだいぶ軒数も減ってしまいましたが、まだ瓦屋さんの看板を見かけます。しかし現在生産している瓦は、陶器瓦だと言います。昔の「栃木瓦」は製造に手間がかかる、燻し瓦という物だそうで、戦後に成ると徐々に衰退をして、現在では日常的に「栃木瓦」の生産を行っている製造者はいなくなっているそうです。
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(子供の頃は瓦を干している景色や、瓦を焼くダルマ窯の姿を其処彼処で見られました)
そんな「栃木瓦」の歴史をひも解くと、文政年間(1813~1830)の頃に、三河の国三州から来た職人、田村綱五郎・梅吉、そして泉文次郎の3名で製造が始まったと言われています。箱森町周辺には良質な粘土が取れた様です。私も子供の頃永野川や赤津川で良く遊びましたが、赤津川に沢山粘土が有った記憶が残っています。
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(赤津川の土手の上を行く、粘土を積んだ馬車)

現在多く使用されている瓦は、陶器瓦で粘土瓦の一種です。粘土を瓦の形にかたどったものの上に釉薬(うわ薬)をかけて、窯の中に入れて高温で焼き上げた瓦だそうです。瓦表面の釉薬がガラス質になっているため、水が浸透せず、長い年月を経ても美しい状態を保て、メンテナンスの必要が無いと言われます。我家の屋根もこの陶器瓦で守られています。
一方、栃木瓦と言われた燻し瓦(いぶし瓦)は、陶器瓦同様に粘土瓦の一種ですが、陶器瓦と焼成方法が違い、粘土を瓦の形にかたどったあと、何もかけずに窯の中に入れて焼き、その後むし焼き(燻化工程)にして瓦の表面に炭素膜を形成させてあげると、瓦全体(裏も表も)が渋い銀色をした瓦が出来上がるのだそうです。
日本建築のお城や社寺の屋根に多く使われ、深い味わいを醸し出しています。ただ、表面の炭素膜が年月の経過と共に剥がれ落ち、変色してしまうと言われます。(それでも現在は改善されているのでしょうが)
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(藤岡町甲の浄光院本堂が新築されましたが、屋根は「銀いぶし瓦」が使用されていました)

私が宇都宮市内の工場に働き出した当初、私の住所が栃木の箱森町と知ると、「瓦屋の多い田舎だね。」と良く言われていましたが、それも昔の事と成りました。

※瓦の製法については、石州瓦生産の株式会社シバオさんのホームページを参考にさせて頂きました。


とちぎ秋まつりに、昔を懐かしむ [祭]

今日の夕方、ウォーキングを兼ねて、蔵の街大通りの「とちぎ秋まつり」会場へ行ってきました。丁度昼間の山車巡行が一段落して、各町内とも夕食休憩になるところでした。又、夜の巡行に向けて、照明用の提灯飾りを取り付ける作業など始まっていた。
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(今年の秋祭りの山車会館付近の様子)
それでもまだ一ヶ所、銀座通りの入口交差点辺りに人だかりが出来て、激しいお囃子の演奏が聞こえて来ました。そこでは祭りのひとつのハイライト、「ぶっつけ」が行われていて、3台の人形山車が向かい合って、互いに負けじとお囃子を必死で演奏し合っています。山車と山車の間では、祭り衣装に着飾った大勢の男衆や少女達が、提灯を振ったり扇子を振って、お囃子を盛り上げています。そしてその周囲にはそれを見よう、写真に撮ろうとする観衆が合わさって、騒然となっています。
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(銀座通り入口付近での「ぶっつけ」の様子)
暫らく「ぶっつけ」でのお囃子の競演を楽しんだ後、たこ焼きと肉まんを土産に、家路に着きました。

夜は昔の秋祭りのアルバムを振り返って見て、昔を懐かしみました。
最近はデジタルカメラなので、何枚も撮影して後でパソコンに取り込んで、整理する事が出来て便利になりましたが、それ以前のフィルムの頃は24枚撮り・36枚撮りを祭撮影の時は、2本3本とフィルム交換して撮影をする状況でした。私が最初に秋祭りを撮影したのは昭和41年(1966)でしたが、その頃はまともに見られるものは有りません。枚数もたった6枚でした。
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(初めて撮影したのは神武天皇の人形でした)(明日の巡行を待つ静御前の山車)

それから5年後昭和46年(1971)には、私もカラーフィルムを使うようになっていました。
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(この頃、大通りは全面通行止めの規制はしていません)
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(当時は大通りに横断歩道橋が有った為、山車は通過出来ずUターンしました)

昭和51年(1976)は、栃木市制40周年の年に当たりました。
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(やはり祭りのハイライトはお囃子の競演「ぶっつけ」でした)
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(歩道橋の南と北の山車が、橋を挟んでの「ぶっつけ」も有りました)

昭和56年(1981)、旧栃木第二小学校(現在の栃木中央小学校)校庭に山車が勢揃いした時見に行きました。
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(秋晴れの下、旧栃二小校庭に勢揃いした人形山車)
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(旧栃二小から湊町を通って帰る室町桃太郎の山車)(当時は電線対応も大変でした)

昭和61年(1986)は栃木市制50周年の節目の年と成りました。
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(大通りに勢揃いして、夜の巡行が始まります)
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(この年に初めて大町の弁慶が、巡行に参加しました)
年号が昭和から平成に変わり、平成3年(1991)に開催された秋祭りは、文化会館北側の駐車場に人形山車が集合いたしました。
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(旭町の文化会館北側駐車場に集まった山車)
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(華やかな祭り衣装)     (毎回元気な子供達に担がれる倭町一丁目の獅子頭)

平成8年(1996)、この回は栃木県立栃木高等学校が創立百周年の年と成り、祝賀の為万町1丁目・2丁目・3丁目の山車が栃高の正門を入り勢揃いをしました。
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(県立栃木高等学校から戻る万町の人形山車)
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(電線地中化工事が済み、電柱が消えすっきりした蔵の街大通りの巡行)

平成13年(2001)の秋祭りも例年通り華やかに開催されましたが、たまたまこの年準備をしている今泉町閑古鳥の組み立て風景を見る事が出来ました。
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(クレーンでニワトリを吊り上げ組み立てを行う)(巡行する泉町の山車「閑古鳥」)

その5年後、平成18年(2006)の秋祭りの頃は、仕事の関係で地元にいなかった為、残念ながら祭りを見に来ることが出来ませんでした。又、この後「とちぎ秋まつり」の開催が、これまでの5年毎から2年毎へ変更となり、次の開催が平成20年(2008)と成りましたが、この時もまだ単身赴任の状態が続いて見る事が出来ませんでした。平成22年(2010)の春に戻って来ましたから、さっそくその年の秋祭りは見物に出ました。
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(この時に初めて嘉右衛門町の仁徳天皇の山車が参加している事を知りました)
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(夜空に揺れる多くの提灯、「ぶっつけ」は見ているだけで興奮して来ます)

そして最近は2012年・2014年そして今年2016年と、2年毎に開催されている山車巡行を毎回満喫しています。
各町内会で所有・保存していた山車の収納に関して、昭和43年(1968)8月15日に、元栃木宿内の室町・倭一・倭二・萬一・萬二・萬三の6台を保管する山車収納庫が神明宮の境内に建設されました。
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(現在も神明宮の境内の一角に残されている元の山車収納庫)
その後これらの人形山車を3台づつ交換展示する「とちぎ山車会館」が平成7年(1995)2月10日にオープンしています。
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(いつでも秋祭りの気分が味わえる山車会館)(建物は「栃木県マロニエ建築賞」を受賞)
現在は他の、泉町「閑古鳥」・大町「弁慶」・嘉右衛門町「仁徳天皇」のそれぞれの山車についても、各町内に立派な収納庫が造られています。

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(快晴となった最終日、栃木駅前にて秋祭りに来栃された観光客を出迎える山車)

蚤の市通り、栃木市 [地図]

栃木市に「蚤の市通り」と呼ばれている通りが有ります。栃木市街地中央を南北に通る「蔵の街大通り」の西側をほぼ平行に通っている道路に付けられた名前です。現在の栃木市道11196号線に当たります。
第一回の蚤の市が開催されたのは昭和28年2月でした。
昭和55年(1980)2月の蚤の市の様子を撮影した写真を紹介します。
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栃木の市街地では、その発展に合わせて多くの新しい都市計画道路が整備されてきました。
江戸時代、日光例幣使街道の宿場町だったころは、町の中央を例幣使街道(現在の大通り)が通っていましたが、横道は現在の様に多くは有りませんでした。江戸時代の天明七年(1787)に描かれた栃木町の絵図を見ても、通りの西側へ抜ける道路は巴波川に架かる「念仏橋」(現在の幸来橋)へ通ずる道(現在の銀座通り)の1ヶ所しか描かれていません。(もちろん絵図には描かれていない路地は、幾つも有ったと考えますが。)
それでは現在の「蚤の市通り」は、いつごろ整備されたのだろうか、ずいぶん前からそんな疑問に駆られていました。地元の方に尋ねれば簡単に解決をする事なのでしょうが、なかなかその機会も有りません。
そこで国土地理院発行の地形図を調べてみました。まず明治19年(1886)7月に発行された迅速測図を確認すると、大通りから西に抜ける横道は、4ヶ所現れています。銀座通りの他に、元の下都賀郡役所(現在の室町駐車場)への道、カシワヤ事務機店脇から倭橋へ抜ける道、そして常盤橋に抜ける旧市役所通りです。しかしこの地図にもまだ「蚤の市通り」は現れていません。
栃木の地形図上に初めて「蚤の市通り」が描かれたのは、昭和40年4月30日発行の2万5千分1の地形図に成ります。その前に発行された昭和22年9月30日の地形図には、まだ描かれていません。又、翌年の昭和23年6月8日に米軍によって撮影された、栃木市街地の航空写真の中にも、この「蚤の市通り」は現れていません。従って、「蚤の市通り」は昭和24年以降に整備された事が分かります。

栃木市観光協会が栃木市制15周年記念として、昭和26年9月1日に発行した、「栃木市鳥瞰図」が有りますが、その絵図には万町一丁目の裏通りの部分、倭橋から常盤橋の間に道路が描かれています。
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この「栃木市鳥瞰図」は現在も「栃木蔵の街観光館」にて購入出来る様です。
又、昭和28年1月20日発行の「栃木市政だより」の記事の中に、第9回栃木市議会臨時会報告が有りました。そこに、≪まず、会議は、さきの市議会において土木常任委員会に付託となっておりました万町二・三丁目大通り西側への平行道路新設されたいとの誓願について委員長の報告が有り、本道路が新設されることによって地元は勿論のこと、栃木市発展上にも裨益するところ大なるものがあるとして満場異議なくこれを採択し、≫と記されていました。
以上の情報から、「蚤の市通り」は昭和30年代に工事は進み開通されたものと考えます。

現在、蚤の市通りを歩いて見ると、道路脇歩道部分に蚤の市に出店するお店の区画割番号表示が付けられています。
番号1は一番南側、倭橋の東橋詰付近、元「静」という割烹のお店が有った前辺りで、番号60は現在の栃木市役所の裏手に有る、たこ焼き屋さん付近に有りました。更に北側の万町三丁目付近は番号は付けられていません。
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(現在の栃木市役所裏手となる、蚤の市通り)
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(歩道部分の敷石に刻まれている、蚤の市出店区画の表示番号)
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(蚤の市通りの南の端、道路脇に残る石灯籠、近くに番号1の表示が有ります)

蚤の市通りの最北端部、万町三丁目櫻井肥料店裏手に道路開通に伴って、大町大杉神社裏手の湧水池より流れて、市役所の駐車ビル南側にて巴波川に落ちる水路に架けられた橋が有ります。竣功したのは昭和30年8月の表示が有ります。
この橋の名前には、この道路を開通させた当時の地元の人達の気持ちが表れています。
「萬盛橋(まんせいはし)」 萬町(よろずちょう)がこれから更に盛んになります様にと。
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渡良瀬川と三杉川との合流点へ [栃木市の河川と橋]

栃木市内の最も西側を流れている三杉川。その源流は栃木市の小野口町と岩舟町小野寺との境界部と成る山間の沢水としています。
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(三杉川の最上流部に架かる「境橋」、元は栃木市と岩舟町との境界と成っていた)
その後、小野寺地区にて東北自動車道に沿って西に向かい、村檜神社東方付近で大きく流れを南に変え、同じく南に方向を変えた東北自動車道に沿って南流。岩舟JCTの東から、岩舟町上岡、下岡を抜け、その南にて古江地区と新里地区の境界を三毳山の北麓まで至ります。
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(岩舟町古江と新里の境界を流れる三杉川、正面の山は三毳山)
三毳山に南進を阻まれた流れは方向を南南西に変え、両毛線の北側に沿って佐野市関川町に至ります。三杉川は東北自動車道の下を潜った所で再び流れを南に変え、そこからほぼ一直線に流れて渡良瀬川との合流点に向かいます。
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(旧例幣使街道に架かる「関川橋」、右手三毳山、左手奥に岩船山)
昭和20年の終戦前までは、三毳山の西側には「越名沼」と言う大きな沼が存在していました。それまでは三杉川はこの越名沼に流入していたと思われます。戦後に成って、越名沼の干拓が本格的に進められ次第に沼は姿を変えて、水田地帯となります。
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(越名沼干拓により出来た水田地帯の中央を流れる「三杉川分水路」)
三杉川は昔の越名沼の西縁を南流する形となり、越名沼の南端付近、現在の願成寺橋以南にて再び、栃木市と佐野市の境界付近を流れ、佐野市高山町地先にて西方向から流れて来た渡良瀬川の左岸に合流しています。
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(イオンモール佐野の東に沿って南流する三杉川)
現在この合流点には「越名水門」と称する、高さ10.8m、幅20.0m、長54.5mの水門が1974年8月に建設されて、水門北側三杉川右岸に立派な「三杉川排水機場」が建っています。
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(渡良瀬川左岸に建つ「越名水門」、下流側より撮影)
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(水門の先で三杉川は渡良瀬川に合流している)
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(越名水門と銘板)
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(三杉川排水機場、右奥の山は三毳山)
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(三杉川排水樋管と前方を流れる渡良瀬川)

これら、水門・排水機場・排水樋管の役目は、台風等で渡良瀬川が増水した時に、支流の三杉川に逆流するのを防ぐ為の仕組みに成ります。通常時は越名水門は開いていて三杉川の流水は水門を抜けて渡良瀬川に落ちて行きます。その渡良瀬川の水位が上がって来た時には、水門を閉じ三杉川に逆流しないようにします。一方三杉川を流れて来た流水は、三杉川排水機場にてポンプアップして水位を上げて、三杉川排水樋管を通して、渡良瀬川に放水させます。従って、排水機場が正常に動かないと、三杉川の水が堤外に放出出来ず、堤内が浸水被害を受けてしまう事に成ります。
そんな重要な施設を再確認して帰路に付きました。帰りは登り坂と成る為自転車のペダルが重く感じられました。




国府村と大宮村との境界付近に有った「いちどん橋」 [栃木市の橋梁]

相当以前の事ですが、栃木市国府町の歴史の本を読んでいた時に、「一度橋(いちどんはし)」と呼ばれた橋が有ったと言う記事を目にしました。それ以来ずっとその橋が何処に有るのか、有ったのか気に成って、機会有る事に探していました。
半ばあきらめていましたが、先日自転車で大宮町から国府町を通って、下野市方面に出かけた時、偶然に途中の道端に「一度橋跡」と記した、案内板が目に留まりました。
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(枯れた夏草に覆われた「一度橋(いちどんはし)」の説明板)
案内板の建てられた場所は、大宮町と国府町との境界を成す道路の脇で、そこには橋長2m程、橋幅4m程のコンクリート製の、橋と気付かぬ程の小さな橋が現在も架かっています。橋から西北西に350m程戻った所に、国府町の日枝神社の参道入口が有ります。
この「一度橋」の架かる場所は、現在も大宮町と国府町との境界線上に成っていますが、大正6年発行の地形図にても同様に境界線と成っています。
周辺には耕地整理により直線的なあぜ道が交差しておりますが、橋の架かるこの道だけは昔のままの曲線状の姿が残っています。しかし、橋の下を流れる堀の姿は大きく変わり、コンクリート製の水路が直線直角の流れと成っていました。
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(一度橋の北側には圃場整備事業に伴う調整池が、奥に「四季の森」住宅団地を望む)
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(調整池の東側から南側を囲むように流れる「延長用水堀」、左奥に太平山を望む)

一度橋を渡り東に少し行った道路脇に又同じような説明板と小さな石の祠が祀られています。道端の小さな石の祠は「見返り浅間」と言う様です。先ほどの「一度橋」とも関連する一つの伝承が、ここ国府町に残っているのでした。
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(木花咲耶姫のロマンと悲話とが残る地に祀られた「見返り浅間」)

※「二度と渡れぬ、一どん橋」の悲話が載っている、島田順三郎著「坂東下野国 坂東鎮護の地 室の八島ものがたり」は、栃木市図書館にて閲覧しました。