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東京都文京区目白台の新江戸川公園を訪れました。 [歩く]

東京23区内に立派な公園が幾つも有ります。日本の人口の1割以上が集まり、高層ビルが林立する大都会の中に、緑豊かな公園が整備されているのに、驚きと羨望を感じています。
今回訪れた「新江戸川公園」は、面積が約1.85ヘクタールと、比較的こじんまりした公園です。
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現在は文京区が管理する公園になっていますが、庭園入口「中門」横に建てられた案内板によると、この庭園は「肥後熊本細川侯下御殿の面影を残す池泉回遊式庭園」と有り、説明文には「大名の下屋敷から細川家へ」として、≪この地は、江戸中期以来旗本の邸宅となりました。江戸末期には、徳川三卿のひとつ清水家の下屋敷となり、のち一橋家の下屋敷に転じ、幕末に、肥後熊本54万石の藩主細川越中守の下屋敷、抱屋敷となりました。≫さらに「公園の開設」とつなぎ、≪第二次世界大戦後、数度にわたって所有者が変わり、その後、昭和36年(1961)9月、都立公園として開園した後に、昭和50年(1975)4月、文京区に移管されて現在に至っています。≫と記されています。
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正門を入った所、左手奥の建物は「松聲閣」は、明治時代に細川家下屋敷跡に学問所として建設され、大正時代に改修された木造2階建ての建物で、≪松聲閣から庭園を見た景色は、目の前に広がる池、左手の斜面地の林、燈籠のようすなど明治期からの変わらぬ風情を留めています。≫と説明されています。
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松聲閣前に設けられた椅子に座り、庭園を眺めながら用意したおにぎりを頬張りました。この場所は案内板にビューポイントの一つとして記されています。目の前に梅の木が緑の葉を付けています。早春の梅の花が咲く頃に、また訪れてこの風景がどのように変わるか見てみたいと思いました。
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食後ゆっくりと庭園内を散策しました。木陰は今日の蒸し暑さから解放してくれます。
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一面緑の木々に覆われた庭園に、ポツリポツリと赤い曼珠沙華が彩りを添えていました。

新江戸川公園の東隣り、坂の上には江戸時代から戦後にかけて所在した、広大な細川家の屋敷跡の一隅に有り、細川家に伝来する歴史資料や美術品等の文化財を管理保存・研究し、一般公開を行っている「永青文庫」が有ります。
現在は10月2日まで平成28年度夏季展「歌仙兼定登場」が、開催されていました。
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永青文庫3.jpg永青文庫4.jpg
展示品の国宝や重要文化財の太刀や細川忠興所用の「黒糸威二枚胴具足」等々を見て、その繊細な美しさを堪能しました。
今回は地下鉄「早稲田」駅から早稲田大学「演劇博物館」を観賞、都電早稲田駅前を歩き、神田川左岸沿いを新江戸川公園へ。その後「永青文庫」、日本女子大学「成瀬記念館」を見て歩きました。距離的には2キロメートル足らずのコースになりますが、展示館や公園内を見て歩いた為、総歩数は11,527歩となりました。駅構内の階段の上り下りも有り、帰りの電車内では、ほど良い疲労と振動で、しばし眠りに落ちていました。

一週間ぶりの晴れ間 [自然の恵み]

今日は、9月17日以来、ほぼ一週間ぶりの太陽が顔を現しました。
我家は右も左も田圃が広がっているのですが、今朝はその田圃の緑が一段と鮮やかに、目に飛び込んで来ました。
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稲穂はすでにたわわに実って、頭を垂れています。「もう直ぐ稲刈りかな」と勝手に予想などしています。
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毎年、秋のお彼岸の時期が来ると、赤い曼珠沙華の花が田圃の畦に彩りを添えてくれます。
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自然は几帳面です。季節季節でキチンと芽を出し、花を咲かせ、実を付け、萎れて大地に戻ります。
我家の周りは、今秋真っ盛りです。
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とち介、善戦するも目標の日本一は厳しい! [ゆるキャラ]

ゆるキャラグランプリ2016の投票期間も、終盤戦に突入しました。
とち介のランキングは、8月3日に3位から4位にダウンしてしまった後は、ズット4位をキープしています。
今週火曜日から金曜日の4日間の平均1日得票数は、30,873票でした。でも、先日の敬老の日を含む3連休は19,055票と言う、2万票を割り込む結果でした。
とち介の得票数のパターンを分析すると休日に弱い事が、以前より気になっていました。ですから直近一週間だけの1日当たりの平均得票数は、25,808票になってしまいます。
現在すぐ後ろの5位で追いかけて来ているゆるキャラは、徳島県の「ゆずがっぱ」になりますが、こちらの同期間の得票数は27,186票と、とち介の得票数より1,378票多くなっていますので、油断をしていると逆転される可能性が出て来ます。
とち介のこれまでの成績は、初戦となった2014年は全国第8位、そして昨年2015年は全国6位に順位を上げました。ですから私としては今年は何としても4位を死守したいと、個人的には考えています。
そんな事を言うと、全国一位を目標として戦っているのに弱気だと言われてしまうかも知れませんが。
ただ、現在先を走っている「はにぽん」「しんじょう君」「チュッピー」の上位3キャラさんは、現在累計得票数650万票と言う、とち介の120万票の遥か彼方で、三つ巴のトップ争いを繰り広げています。そして毎日の上乗せ票がとち介の10倍ともなる25万票と言うとんでもない得票数を重ねているだけに、これを逆転する事は今やほぼ不可能な状況になりました。

そんな中、最近、日々の得票数を観ていると、どうにも不思議な現象が現れて来ています。トップ争いをしている「はにぽん」と「チュッピー」の得票数が激変して来ています。どうなってしまったのでしょうか。トップ争いに疲れてしまったのでしょうか。これまでアクセルを最大に踏み込んで進んできたのに、突然急ブレーキを踏んだ感じです。それも「はにぽん」と「チュッピー」とがほぼ同時に起こっています。

今後の動向が気になります。投票も丁度残り1ヶ月となりました。とち介も最後まで油断は禁物です。私が持っているのはたった3票です。1票たりとも無駄にしないで、最後の日までシッカリ投票したいと思っています。
とち介1.jpg
(100%投票の約束)

栃木市昭和町を訪ねる [地図]

栃木の市街地北側に昭和町と言う町名の町が有ります。その名前の由来は昭和になってから誕生をした町という事です。
昭和町の区域は、万町交番前交差点から北に伸びる、県道3号(宇都宮亀和田栃木線)に沿った商業地域に有り、新栃木駅入口交差点を中心として、南側と北側にそれぞれ2ブロック、東側と西側にそれぞれ1ブロック、但し1番南の東側のみ何故か2ブロックの範囲になります。
1ブロックの広さは多少のばらつきは見られますが、南北方向が約110メートル、東西方向約90メートルの長方形になっています。昭和町全体の広さは、南北方向が約450メートル、東西方向は約190メートル(南端の3ブロック有る場所は約280メートルになっています。)
昭和町の南側は泉町と、北東部を含む東側は平柳町1丁目、北西側を大町、南西側は嘉右衛門町と言う、四つの町に囲まれています。
昭和町の周辺の略図を作ってみました。図の中央部オレンジ色に着色した所が昭和町になります。
昭和町周辺略図.jpg
この略図は、昭和48年(1973)修正測量、昭和49年発行国土地理院2万5千分の1地形図を基に作成しています。
略図の下側、赤く着色をした曲がりくねった道路が、旧日光例幣使街道で略図右側方向が南で、例幣使街道が桝形になっている所が、江戸時代に栃木宿の北の木戸が設けられていた所で、現在の万町交番前交差点になります。反対側略図左方向が北で、例幣使街道は次の宿場町の合戦場宿に至ります。現在はこの略図の先で東武日光線の跨線橋となります。そしてこの右と左を直線的に繋いでいる中央の黄色く着色した道路が、通称「北関門通り」と呼ばれていますが、開通したのは昭和11年になります。
現在この北関門通り周辺の道は、碁盤の目の様に東西と南北の道が直行していますが、大正6年(1917)に発行された地形図に依ると、例幣使街道の両側は栃木町から北の一乗院付近まで家並みがずっと繋がっていましたが、その裏側は東側も西側も殆んど水田が広がっていました。ただ東側の星宮神社の周辺は集落が出来ていた為、神社の周辺だけは今も古い曲った、道端に石仏などが残る道路が残っています。
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(平柳町1丁目に鎮座する星宮神社)     (星宮神社に至る道路脇に建つ石仏)

ところが、その後その田園風景が一変します。例幣使街道の東側に東西南北に直線的に走る道路が現れます。昭和7年発行の地形図にも、その変化の状態が確認できます。現在の北関門通りの位置にも直線道路が出来ていますが、北側はすでに例幣使街道と繋がっていますが、南側は現在の泉町交差点付近で止まって、その南に有る泉町の雲龍寺周辺の町並みはそのまま残されています。
この変化は、大正15年1月から始められた、「下都賀郡栃木町大宮村耕地整理事業」によるものでした。この事業は昭和7年3月に完了しています。
今、大町大杉神社の境内南東の角に、事業の完成を記念する背の高い記念碑が建てられています。
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(昭和町北隣りに鎮座する大町の大杉神社) (境内南東部に建つ耕地整理記念碑)

1965年9月頃撮影した、泉町北東部の変電所付近の写真、昭和町の南東部もその頃はまだ水田が残っています。
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(変電所は大正6年発行の地形図に、初めて水田の中に地図記号が現れています)
昭和町はこうして、昭和11年に開通した北関門通りを中心に次第に人家が増えて来た事で、住民からの要望によって、昭和30年9月8日新しく「昭和町」の誕生と成ったようです。
昭和町誕生当時の町内の世帯数は103戸、人口は466人でした。(昭和30年1月調べ) 
現在は、世帯数は殆ど変らず100戸、人口は大きく減少して239人となっています。(平成28年8月末)
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(1968年撮影、泉町交差点付近より北に向かう北関門通り)
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(2015年に上の写真と同じ感じで北関門通りを撮影しました)

北関門通りは、新栃木駅入口交差点より南側はすでに電線の埋設が済んでいます。そして北側も現在埋設工事が進められ、栃木環状線の大町交差点までは、近いうちにすっきりした町並みに変わります。
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(新栃木駅入口交差点より南の方向を撮影)
2012年北関門通り.jpg
(新栃木駅入口交差点より北の方向を撮影)

昭和町は今年大きな火災が発生して多くの家屋が焼失してしまいました。今やっとその後片付けも進んでいる様です。又その北側に有ったマンションも解体されて、現在は新しくスポーツジムの建物の建設が進んでいます。
これからも又、元気に新しい町へと変化を続けて行って欲しいと思います。

栃木市嘉右衛門町に有った長沼 [栃木市の河川と橋]

現在、県道32号(栃木粕尾線)は、北隣り鹿沼市粟野町下永野より、栃木市星野町に入り南東方向の栃木の市街地中心部に向かう。国道293号線を横切り、東北自動車道栃木インター入口前を通過し、イオン栃木店の南の箱森町交差点にて、県道309号(栃木環状線)を横切り、そこから向きを東方向に変え、真直ぐに東武日光線新栃木駅前に突き当たります。
実際は途中の県道3号線(宇都宮亀和田栃木線)と交差する、新栃木駅入口交差点までになり、そこから新栃木駅前までは県道117号(新栃木停車場線)に変わります。
現在この道路を境に南側は嘉右衛門町、北側が大町となっている場所に、長沼と呼ばれた東西に細長い沼が有りました。
県道32号線、八幡橋付近1.jpg
(県道32号、長沼が有った付近。明治中期頃までこの道路は有りませんでした。)

江戸時代の天保七年と言うと、西暦では1836年になりますが、その時代の絵図にその「長沼」が描かれています。その絵図は小平柳村川東絵図面」で、此処に有る川とは現在の巴波川の事ですが、絵図には川の名前は記載されていません。
描かれている範囲は、西から南は巴波川の左岸、東側は嘉右衛門町の旧日光例幣使街道から西側、北は八幡宮から川上稲荷神社辺りまでになり、その中の八幡宮の西側に「長沼」と記された沼が描かれています。
八幡宮社殿.jpg八幡宮扁額.jpg
(県道32号の北側に祀られている八幡宮)      (八幡宮社殿正面に掲げられた扁額)

明治19年に発行された迅速測図には沼としては描かれず、1本の線にて水路の存在が確認出来るだけです。その後発行された栃木の2万5千分の1地形図を調べてみると、昭和7年12月28日大日本帝国陸地測量部発行と、次の昭和22年9月30日地理調査所発行の2枚に、虫眼鏡で良く確認すると、南北100メートル、東西10メートル程の細長い沼が見えます。その北側の端に橋の地図記号が確認出来ました。
この橋は今ではその存在も確認し難くなってしまいましたが、道路拡張前まではコンクリート製の高欄を持った小さな橋でした。私が1986年に撮影した写真に、橋の高欄が写っています。橋の名称は「八幡橋」といい、橋の東方に祀られている「八幡宮」から命名されたものと考えます。
八幡橋(旧).jpg八幡橋(新).jpg
(八幡橋、1986年撮影)              (2015年撮影の八幡橋)

現在、この八幡橋より上流側下流側を見ると、かってどれほどの大きさの沼だったものか、想像する事は難しい。
八幡橋の上流側.jpg八幡橋の上流側水路.jpg
(橋の上流側、元長沼の上流端)         (その先に有る細い水路は八方堂方向へ)
八幡橋の下流側.jpg長沼流出水路1.jpg
(橋の下流側、両側に住宅が迫る)     (沼の下流側南西方向住宅地へ続く水路)
元長沼からの流出水路は、現在の栃木第三小学校正門に向かう道路の下を抜けて南西方向の住宅の間を流れて行きます。水路はその先の住宅地の中で「くの字」に曲り南東方向に向きを変え、妙唱寺の裏手(西側)を南流して、翁島の北側から東側を回り込んで、巴波川に落ちています。
妙唱寺裏手の水路1.jpg翁島北側の水路1.jpg
(妙唱寺西側を南流する水路)        (翁島北側から東側へ流れる水路)

天保七年の絵図面に描かれている「長沼」には、下流端で流出ルートが2本有り、上記の妙唱寺裏を流れる水路の他に、東側に向かって流れ出し、東側を南北に通る「三日月道」に沿って南流した後、例幣使街道の西側を並行して通る裏通りに沿って、翁島東で西側ルートの水路と合流、すぐその先で巴波川に落ちる水路が有ります、こちらは現在殆んど暗渠となっています。
長沼流出水路2.jpg巴波川への落ち口.jpg
(油伝味噌店舗裏手三日月道の暗渠)(翁島入口の下を流れ巴波川への落ち口、写真右側)

昭和23年頃の長沼周辺図.jpg
(元「長沼」の周辺の様子を昭和23年撮影の空中写真を基に概略図を作成)
上記概略図にて赤く塗った道路は、明治19年発行の迅速測図に記された道路になります。この長沼から翁島の所で巴波川に至る水路は、現在も確認することが出来ます。そしてその水路の位置が、天保七年に描かれている水路の位置と殆んど一緒で有る事に、驚きを感じずにおれません。

※上記概略図を作成する為の基とした空中写真は、国土地理院所有空中写真「UR1514-CA-19」になります。撮影日は昭和23年(1948)6月8日です。






足利学校から鑁阿寺へ [懐かしい写真]

私は足利の町が好きで、若かった頃は良く出かけていました。両毛線の電車に揺られて足利駅へ、そして足利学校から鑁阿寺界隈を当ても無く歩く。社会人なりたての私に与えられて時間は日曜日だけ、その頃は土曜休みなど考えてもいなかった。仕事で休日出勤すると、1カ月間の内自由に成れる時間はそう無かった。
そんな時代だったからか、日曜日の鑁阿寺境内に有った広場は、市民の憩いの場所で何時行っても沢山の人が休日を楽しんでいる様だった。
境内の南西部に広場が有って、その中央部に1本大きな銀杏の木、その周りにベンチが有り天気の良い日は、その木陰に大勢の市民が身を寄せる様に集まっていました。
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(足利鑁阿寺境内南西部広場中央部の銀杏の木陰に集う足利市民、1974年5月5日)
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(1974年6月16日、今日も木陰は満員状態)
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(木陰では一斗缶に将棋盤を広げてお年寄りが将棋の真剣勝負中)

又、その頃足利を訪れるもう一つの楽しみは、毎年5月のゴールデンウィークを中心に開催されていた、「足利まつり、ヤングヤング大行進」のパレードを見る事でした。(その頃は私もヤングでした)
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(1974年5月の足利まつり、ヤングヤング大行進)
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(1977年5月の足利まつり風景)
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(1978年5月の足利まつり風景)

それから、足利の町もご無沙汰をしていたが、昨日久しぶりに足利学校から鑁阿寺界隈を訪れました。
日本最古の学校として国指定史跡となる足利学校には、1974年4月最初に訪れました。その頃の記憶は「学校門」「字降松(かなふりまつ)」「孔子廟」が撮影した写真に残るだけでした。
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(1974年4月撮影、足利学校の学校門)
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(1974年4月撮影、「孔子廟杏檀門」の手前右側に「字降松」が見える)
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(1974年6月撮影、廟周囲に廻らされた築地越しに孔子廟を望む)

現在、足利学校は孔子廟の東側に「方丈」や「庫裡」「庭園」等が復元され、綺麗に整備されていました。
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(東側を通る国道293号の歩道橋上から足利学校を写す)
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(現在の学校門)
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(孔子廟の中央に祀られているのが「木造孔子坐像」右側に「木造小野篁坐像」)
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(孔子廟の北西角方向より写す)
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(平成二年に孔子廟の東隣りに復元された「方丈」
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(同じく平成二年に方丈の裏手に復元された「北庭園」、奥に写るのが孔子廟)

閑静な雰囲気の足利学校を後にして、鑁阿寺に向かいます。鑁阿寺に向かう通りもすっかり観光客向けの食事処やお土産物店が立ち並び、平日にもかかわらず団体の観光客の方々が、ボランティアガイドに案内されていました。
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(鑁阿寺に向かう大日大門通り、平日でも観光客の姿も多い)

鑁阿寺の境内は栃木市の旧県庁堀の様に、周囲を堀が廻らされています。南側中央部の堀に架けられた屋根付きの太鼓橋は鑁阿寺の正面入口に当たり、橋を渡ると大きな山門(仁王門)が建っています。
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(鑁阿寺の正面堀に架かる屋根付きの太鼓橋を東横側から写す)
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(太鼓橋正面とその後ろに山門)
山門の右横に上部に「御橋再建」と刻された石碑が有ります。碑の正面右側に「安政三年丙辰十一月建之」、中央に「寄附連名碑」そして左下に「発起人 小俣宿 木村半兵衛」「補助 桐生町 松屋元右衛門」「補助 學校 牛窪平兵衛」と3名の名が刻されています。碑陰には碑銘に有る通り、寄付金の額と寄付者の名前が連ねて刻されています。ちなみに発起人の木村半兵衛が筆頭に有り「35両」となっています。丁度今から160年前に再建されたことが分かります。
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(本堂手前左側に樹齢550年以上と云われ、天然記念物の大銀杏が目を引きます)
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(鎌倉時代の建物で、平成25年国宝に指定された金剛山鑁阿寺の本堂)
境内には他に国指定の重要文化財の「経堂」と「鐘楼」、栃木県指定有形文化財として、「御霊屋」「多宝塔」「太鼓橋」「山門」「東門」「西門」等が建っています。

参拝した日が平日だった為か、寺院堂塔周辺には参拝者も多く見受けられましたが、境内南西部の広場には殆んど人の姿が見られませんでした。広場中央の銀杏の木の根元のベンチも無くなっていました。人影が無いと鳩も寄って来ません。一方入口の太鼓橋周辺には今日も沢山の鳩が群がっていたのですが。
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(その木陰に大勢の市民が集っていた銀杏の木は、今日ひっそりとしていました)

栃木皆川街道、湊町通り界隈 [懐かしい写真]

私が昭和43年(1968)に撮影をした湊町通りの写真が1枚有ります。
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(昭和43年撮影、湊町通り)
写真はナガサワ商店の前辺りから東方に向かって、湊町通りを写したもので、高村洋品店の交差点付近で道路は「く」の字に曲って、その先の巴波川に架かる「幸来橋」は見えません。
通りの両側には店舗が軒を連ね、お店の前には自転車が何台も停められています。

平成20年(2003)1月に、今度は高村洋品店付近から西方向を撮影した写真には左端に正喜屋の暖簾とくさ餅の幟旗が店先に見えるのみで、その先の家は店先のガラス戸やシャッターは閉じられたままです。
そして昨年(2015)4月に撮影した写真では通りに面した場所は駐車場に変わり、ただ正喜屋さんの店前だけは以前と変わりなく幟旗が写っていました。その幟旗も今は見る事が出来なくなりました。
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(平成20年1月撮影)             (平成17年4月撮影)

高村洋品店の交差点の東側には以前、栃木警察署湊町派出所は建っていましたが、現在はポケットパークになっています。ポケットパークの東隣りに建つ小井沼商店の土蔵は、以前の姿を留めています。
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(平成26年11月撮影小井沼商店土蔵)    (昭和53年12月撮影湊町派出所)

江戸時代には巴波川に架かる幸来橋(江戸時代には念仏橋とか天王橋などと呼ばれていたそうです)の東橋詰に栃木町の木戸が有り、橋を渡った西側は木戸の外、片柳村になります。幸来橋を渡って西に160メートル程行ったナガサワ商店の所で道は、右の皆川方面に向かう「主要地方道栃木佐野線(県道75号)」と、太平山神社表参道につながる「県道269号」とに分岐しますが、この県道269号から真直ぐ皆川街道を抜けて中野病院方向に抜ける細い道を境に、道路の南側が湊町(旧片柳村)、道路の北側は祝町(旧薗部村)となっています。

明治初期に栃木町に栃木県の県庁が置かれましたが、場所は巴波川の西側で実際は栃木町では無く、薗部村字鶉島でした。周囲に濠を廻らした県庁敷地の正面から真直ぐ南に抜けた道路は、皆川街道のナガサワ商店の所に出ていました。現在栃木中央小学校として栃二小と統合された栃一小の正門前の道路が、旧栃木県庁の正門への道路でした。
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(昭和40年4月撮影、栃一小正門)          (平成24年3月撮影、栃一小正門)

弘化3年(1846)の「片柳新田 字上河岸 絵図」という、念仏橋(現在の幸来橋)の西橋詰の巴波川沿いに広がる旧片柳河岸の屋敷割の様子を描いた絵図が有ります。
この絵図に「元亀橋」と記された橋の絵が描かれています。その場所は念仏橋から皆川往還と記された道を西方向に70メートル程行った所、現在の湊町派出所跡のスポットパークの南側、この元亀橋の下を流れた水は更に南側の徳田商店土蔵脇の暗渠の中を流れ、下流側で白旗山勝泉院裏手方向から流れて来た、巴波川支流の「清水川」に合わさります。この清水川はそこから東に流れて、巴波川右岸(西側)沿いの道路に架かる「湊橋」(絵図の中では「相橋」と記されています)の下を抜けてその先で巴波川に合流しています。
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(徳田商店土蔵の脇、暗渠になっています)

明治40年10月1日発行の「栃木県営業便覧」をめくってみると、現在の徳田商店さんの所には、「小間物袋物材料造 花材料壜細工材料 商 仁科屋號 大久保岩雄」と記されています。仁科屋は弘化3年の絵図には、「利右衛門」と記されています。ここが江戸期に片柳河岸で日光御用の諸荷物を独占して扱っていた船積問屋の仁科利右衛門の屋敷や土蔵の跡の一部になります。

現在、この湊町通り沿いの商店も年々少なく成って来ていて寂しい限りです。先の栃木県営業便覧には多くの職種の店が記されていますが、その中で現在もこの湊町通りにて営業をされている店舗は、「谷津薬舗」さん(以前は皆川街道北側、醸造業谷田吉右衛門と書かれた西隣に、薬種店として記されています)と、創業が明治元年と言う「小井沼商店」さん(以前から現在の場所に有り「茶砂糖商」と記されています)の2店舗が確認出来るだけです。
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(昭和40年8月撮影、幸来橋。橋南西部にお店を構えた「谷津薬舗」さん)

最近、栃木の市街地を歩いていると、空き地やそれを利用した駐車場が急に増えて来た感じがします。ここ湊町通りも状況は同じ様です。





宣教師アンドレス居宅 [懐かしい写真]

栃木市入舟町、旧県庁堀の内側に、宣教師アンドレスが住んでいた洋館が建っていました。
この写真は、私が1978年5月に撮影したもので、その時は何も知らずに、ただ旧県庁堀沿いに建つ、古い洋館という事で、写しました。
1978年5月撮影宣教師アンドレス居宅.jpg
(以前宣教師アンドレスの居宅だった洋館。右奥に栃二小の校舎の屋上部分が見える。)
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(この頃、県庁堀の西側は原っぱが多かった)  (県庁堀に映るアンドレス邸)

この写真の建物が、宣教師アンドレス居宅ではないかと分かったのは、栃木郷土史編纂委員会が昭和52年(1977)8月20日に発行した「栃木郷土史」の、第三章県庁設置より移転までの記事の中に、
≪官舎は敷地西側にあった。県令官舎は今の宣教師アンドレス居宅の位置に、参事は今の小根澤登馬雄宅、その南側は凡て県属僚の官舎、錦着山西南側の家宅は知事の別荘であった。・・・・(後略)≫
との注記を見付けたからです。残念ながらこの洋館はすでに立て替えられていて、見る事は出来ません。

ただ、アンドレスさんがどの教会の宣教師だったのか、その本の中には記載されていません。栃木市内のキリスト教会の歴史的な事は全く分かっていませんが、私の生活圏の中で目に留まった教会の建物は、栃木駅近く、境町の「栃木カトリック教会」と入舟町の元栃木町役場庁舎東側に建つ、「栃木聖アルバン教会」の二つです。(他にも栃木市内には多くの教会が有るのでしょうが)
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(境町と富士見町の境界を成す九十九曲用水の左岸(東側)に建つ栃木カトリック教会)
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(入舟町の旧県庁堀南東角、旧栃木町役場庁舎の東側に建つ栃木聖アルバン教会)

「栃木聖アルバン教会」の沿革につきましては教会のホームページに詳しく記されています。現在の地に礼拝堂が建てられたには、昭和3年(1928)ですが私が子供の頃に、礼拝堂の脇の建物で珠算塾が開かれていました。明治40年10月1日に発行された「栃木県営業便覧」には、県庁堀の漕渠に架かる「学橋」の南東橋詰には、「宮島耳鼻科医院」の名前が見えます。平成2年(1990)現在の礼拝堂に建て替えられる前の、と煉瓦積みの門扉は宮島耳鼻科医院」当時のものでした。昭和56年2月26日発行された「ふるさとの思い出写真集・栃木」(日向野徳久編著・国書刊行会発行)の中に、「宮島耳鼻咽喉科医院」の写真が載っていますが、そこに煉瓦造りの門扉を見る事が出来ます。
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(栃木聖アルバン教会の旧拝礼堂と現在の礼拝堂)

日光北街道、大渡宿 [建物]

先日、鬼怒川の北側に位置する塩谷町をドライブして、道の駅「湧水の郷しおや」にて休憩を取った後、県道461号を走り、今市から鹿沼回りで帰宅をしました。
県道461号は以前にも1・2度は走った事は有ると思いますが、あまり記憶は有りません。今回たまたま通る事になりましたが、道路が狭い割に交通量が結構有りました。又、道路脇にお堂を沢山目にしました。
鬼怒川に架かる「大渡橋」を渡って塩谷町を離れ、日光市に入って最初の集落の中ほどで、道路脇に建つ火の見櫓が目に留まりました。
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(鬼怒川に架かる「大渡橋」を渡り、塩谷町から日光市大渡に入る)
道路脇の空き地に車を停めて、火の見櫓の所に行くと、火の見櫓の前に多くの石仏や石塔そして小さな祠などが祀られています。
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(道路脇に建つ火の見櫓と、その前に並ぶ石塔や石仏)
そしてその脇に大谷石で建てられた消防小屋が有ります。その風景を写真に収めました。道路は頻繁に車が通過するので、のんびりと撮影出来ませんが、大谷石造りの消防小屋が気に入りました。
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(入口上部の大谷石には「豊岡消防組 第六部 機具置場」と彫られています)

県道461号は江戸時代に奥州街道大田原宿と日光街道今市宿とを結ぶ脇街道で、日光北街道と呼ばれています。「奥の細道」で芭蕉と曾良が、日光参拝の後黒羽に向かう為に、大渡宿を通過しています。
私の手元に丹羽佳岐著「おくのほそ道 奥州古道 日光から今市への直道をゆく」(随想舎)が有ります。以前、東武日光駅から東武日光線沿線を歩いて東京浅草駅まで歩いた時に、参考にした本です。
この本の中に「大渡宿と東光寺跡」と言う記事が掲載されています。
≪宿の中央の火の見櫓付近には、日光山妙道院門徒東光寺があった。慶長の頃大貫茂植右衛門屋敷裏にあった庵を、倉ヶ崎村の法蔵寺を介して、日光山妙道院配下の寺にしたという。そこには一本の百日紅があり、男体山、湯殿山の塔や常夜燈、僧の墓石が建っている。≫
今回、なにげに撮影した風景でしたが、そこにも昔を語り継ぐ物が散りばめられていた事を、あらためて知る事になりました。

塩谷町の西荒川に架かる「落合橋」 [橋梁]

昨日は、あても無く車を走らせていました。不安定な天気で途中で急に激しい雨の中を走ったかと思うと、青空の下を走る所も。宇都宮環状道路から田原街道を北上して、県道63号線を更に北に向かいました。走って行くと前方に水色に塗られたアーチ橋が見えてきます。橋好きとしては、ここは素通り出来ません。橋詰の駐車スペースに車を停めて周辺を散策しました。
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橋の親柱に大きな自然石を置き、「落合橋」、「西荒川」の文字を彫り込んでいます。この橋は平成11年(1999)10月に架け替えが完成しました。大きなアーチからのワイヤーにより橋桁を吊っています。ローゼ橋(補剛アーチ橋)と言う種類の橋になるのでしょうか。
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橋の名称「落合橋」と言うのは、この橋の直ぐ下流部にて、西から橋の下を流れて来た「西荒川」が、北側から流れて来た「東荒川」に合流する、「西荒川」と「東荒川」とが落ち合う場所に架けられている事から、名付けられたものと考えられます。
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(落合橋の北東側橋詰より下流側を。左下側から東荒川、右下側から西荒川)
このような例は、栃木市を流れ下った永野川が、小山市中里付近にて巴波川に合流する場所に架かる「落合橋」や、同じく栃木市出流町にて北の端「片角」から、出流ふれあいの森の中を流れ下りた、出流川(片角川)の右岸(西側)に、出流山満願寺の境内から流れて来た「観音入り沢」の水が落ちる、丁度落ち口に架けられた「落合橋」にも見る事が出来ます。

合流点の下流部に架けられた橋の所まで行って見ると、「落合橋」と同様に大きな自然石の親柱には、「熊ノ木橋」「荒川」の文字が彫られています。「西」と「東」の荒川が合わさって、この橋の下を流れる時には、「荒川」と名前を変えていました。
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熊ノ木橋の道を少し東に歩いて行くと、田圃の畦に”星ふる学校「くまの木」”と手書きされた案内の柱が建てられています。後方に校舎らしき建物が見えます、興味が有ったので行って見ました。入口の石の門柱に「栃木県塩谷郡塩谷町立熊ノ木小学校」の表示が付いています。
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小学校は平成11年(1999)3月に廃校となり、現在は本格的な天体ドームで星空観察体験等も出来る、宿泊型体験学習施設に生まれ変わっているそうです。
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一度宿泊して、この山の中で真っ暗な空に輝く数えきれない星の光を、ジックリと見てみたいと思いました。
施設周辺の田んぼも緑から黄色く変わろうとしています。田圃に刺さっている棒の先端にトンボがとまっていました。もうすぐ収穫の秋になります。
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