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茶の間からの、蔵の街花火大会 [祭]

今日、永野川緑地公園河川敷を会場に、第3回蔵の街花火大会が開催された。
しかし、天候は朝から雨がぱらつき、ジッとしていると少し肌寒さを感じた。夕方から少し雨脚が強くなって花火大会の開催を危ぶんだが、ポスターには「雨天決行」となっている。
例年なら、歩いて永野川の土手の上から、川の対岸で打ち上げられる花火を見物するが、今回は悪天候となったので、外出する事は断念をしました。
花火大会の開始時間19時、遠くから花火が打ち上げられる音が響いて来ました。予定通りに花火の打ち上げが開始された様です。西の窓を開けると、西の闇の中に花火の光りが輝いては消えるのがハッキリと見えました。
大輪の花火が輝くと、闇に消えていた家や電柱がシルエットとなって、又浮かび上がります。
スターマインなどは、空高く上がらない為、低い所は近くの住宅に遮られて、上半分ほどしか見る事が出来ません。大玉は高く上がってくれるのでよく見えたのですが、低くたなびく雨雲の陰に隠れてしまうのか、逆に上半分が雲に遮られて見る事が出来ません。
窓際にカメラを据えて、束の間の花火の光の撮影を試みました。満足とは言えませんが、我家の茶の間で窓越しに見る花火に、暫し時間を忘れカメラのシャッターを切っていました。
蔵の街花火大会1.jpg
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茶の間で、お茶を飲みながら、のんびりと見る花火も、地元の花火大会ならではの事、ありがたいものです。でも天気が良ければやはり近くまで行って、花火を見上げ、腹の底まで響く花火の音を感じてみたいとも思いました。

栃木町を潤したもう一つの水源、大ぬかり沼 [栃木市の河川と橋]

栃木市街地の中央、市役所本庁舎ビルと通りを面した所に、元「古久磯提灯店」の古い見世蔵を活用し、栃木市所縁の浮世絵師「喜多川歌麿」の数少ない肉筆画の大作「雪・月・花」の高精細複製作品等を展示する、「とちぎ歌麿館」が有りますが、建物の中に入ると、北側奥の壁に大きな「江戸時代の栃木町絵図」が、掲示されています。
歌麿館1.jpg栃木町絵図1.jpg
(大通りの向かいに見える見世蔵が「とちぎ歌麿館」)(掲示されている宝暦9年栃木町絵図)
絵図は宝暦9年(1759)の栃木町を描いたもので、町の中央を縦に1本広い道路が貫いています。「日光例幣使街道」です。絵図の左側から下側を青く染めているのが、栃木市の郷土史家「日向野徳久」先生が「栃木の母なる川」と称した、「巴波川」の流れ。絵図の右側中央に現れ、右端を下に進み少し中央部に出てくる、青い線が「杢冷川」で下側で「巴波川」に落ちています。そして、上部中央から例幣使街道の東側をほぼ並行して描かれている、細い青い線が「満福寺用水路」と呼ばれた水路と思われます。
江戸時代の栃木の町は例幣使街道を中心にして、その両側に短冊状に屋敷割がされ、通りの西側の屋敷の敷地は、通りから巴波川縁まで、通りの東側は通りから用水堀まで貫いています。
そして大通り(例幣使街道)の中央にも、青色の線が上町から中町そして下町まで流れ、通りから東に外れた後、巴波川に落ちています。
この大通りの中央を流れる水路や東側を流れる満福寺用水路の水源はどこなのか、宝暦9年と栃木町絵図には、町の北の木戸外は描かれていません。栃木町を潤した水はどこから来たのか、栃木市の歴史書を開くと、答えは簡単に見つかりました。
「栃木市史資料編近世」の巻頭口絵に上記の「宝暦9年栃木町絵図」の写真と一緒に掲載されている「例幣使街道栃木宿絵図」そして「うづま川絵図」の写真の中に、栃木町の直ぐ北側、嘉右衛門新田や大杉新田(現在の泉町の西側、嘉右衛門町との境)付近に、「大ぬかり沼」と記された沼地が描かれて、その沼の南端から流れ出た水は、現在の桜井肥料店の屋敷の北西角付近で三筋に分岐。一つは北の木戸の外に架けられた土橋の下を潜って、通りの東側「満福寺用水路」として流れ、一つは上町通りの西側の屋敷の裏手を数軒下がった屋敷の間から大通り中央に出て、そこから通りの中央を流れる水路となります。そしてもう一つの流れは町の西側を南南西に流れて、巴波川に落ちています。
天保年間の栃木町と大ぬかり沼の推測絵図.jpg
(栃木市史に掲載されている絵図の写真を元に、栃木町とその北側の新田付近を模写)

現在、大ぬかり沼は姿を消しています。何時ごろ埋め立てられたのか、これまでの所資料を眼にしていません。明治19年に発行された栃木の迅速測図にもその姿は確認できませんから、江戸時代の後期に埋め立てられてしまったものと思われます。天保8年(1837)に描かれた、「栃木町並栃木続新田村屋舗図面」(栃木郷土史に掲載)には「大ぬかり沼」が描かれています。

「大ぬかり沼」の名前が記されている資料としては、栃木市史に掲載されている、「文化2年(1805)2月、栃木町明細書上帳」が有ります。その中には以下の様に記されています。
≪大ぬかり沼より落口字内善橋  一、土橋壱ヶ所 但し長さ弐間余 横幅9尺 右橋普請修覆共に栃木町に而仕候≫
又、同資料に、
≪一、用水 是は大ぬかり沼より出水、町中を相流用水并に東裏田地用水に而、右沼より10丁余過下町東裏に而 巴波川江流落申候 尤渇水の節は当町より軒別に罷出、沼浚い仕候≫
などの文章が認められました。

現在、町の中を歩いて見ると、此処彼処に昔の水路の跡と思しき風景を目にすることが出来ます。
現在の大町の大杉神社裏手には、出水の跡が存在します。
大杉神社裏手湧水池1.jpg大杉神社裏手湧水池2.jpg
(大町大杉神社北側の出水の跡)   (出水の西側から真直ぐ南に水路が伸びている)
そしてその出水から大町公民館の西側を南流する堀割が、例幣使街道と大通り(北関門通り)との間に位置する道路に沿って、嘉右衛門町のヤマサ味噌の樽洗い場の有った場所の南側で、道路の西側から東側に移って更に南に続いています。
大杉神社裏手湧水池3.jpg大杉神社裏手湧水池4.jpg
(大町と昭和町境の道路沿いを南に流れる)    (ヤマサ味噌の元樽洗い場付近)
そして、ヤマサ味噌工場の裏手(東側)、樽洗い場の南側で道路が二股に分かれます。私の思うところこの2本の道路に挟まれた場所がその昔、大ぬかり沼が有った所ではないかと、考えています。
大ぬかり沼1.jpg大ぬかり沼跡2.jpg
(嘉右衛門町と泉町との境。元大ぬかり沼の北端か?) (水路は一路、万町櫻井肥料店裏方向へ)
そして、今も残る一筋の用水路は、桜井肥料店の北西角の水門へと至ります。
桜井肥料店付近.jpg桜井肥料店裏手水門1.jpg
(万町、桜井肥料店前、江戸時代ここに栃木町北の木戸が設けられていた)(桜井肥料店裏の水門)
この水門の上流側で、桜井肥料店の北側を暗渠となって東に向かう水路の口を見る事が出来ます。又、水門の下流側は「万盛橋」の下を潜り、蚤の市通りの西側に沿って一部暗渠となって流れ、市役所の駐車場ビルの南側で巴波川に落ちています。
桜井肥料店裏手水門2.jpg巴波川合流点1.jpg
(桜井肥料店北側、暗渠化した水路が見えます)(市役所駐車場ビルの手前右手中央に用水落ち口)
大通りの中央に有った水路は、第三代栃木県令となった三島通庸の土木政策で、通りの左右に変えられています。現在は暗渠となって姿を見る事が出来ませんが、下町で通りから外れて巴波川に落ちる水路は、現在の室町古里家さんの北側道路沿いの水路となって現れ、古里屋さんの裏手(東側)住宅の間を南流して、その先にて巴波川に落ちているのが確認できます。
巴波川合流点4.jpg巴波川合流点3.jpg
(河合町東端の住宅地内の水路。この下流で巴波川へ)(巴波川開明橋下流左側の落ち口)

とち介、ゆるキャラグランプリ2016投票開始後1ヶ月は第4位 [ゆるキャラ]

ゆるキャラグランプリ2016も、7月22日の投票開始から昨日で、丁度1ヶ月が経過いたしました。
私もささやかながら毎日3票を、欠かさず投票。毎日寝る前にランキングと得票数の推移を確認する事が日課になっています。
とち介1.jpgとち介2.jpgとち介3.jpg
(8月11日、「サマーフェスタinいわふね2016」の会場にて撮影)
現在とち介は、必死で4位をキープしている状況です。今回の目標は「日本一」を目指していますが、ここまではライバルの強さが目立っています。
初日の出だしに、携帯電話の画面で確認した時、「とち介、1位」の表示を眼にして、一瞬驚きましたが、初日の最終ランキングは2位からのスタートと有りました。初日の1位は埼玉県本庄市の「はにぽん」でした。
とち介はその後、8月1日に高知県須崎市の「しんじょう君」に2位の座を奪われて3位に後退。8月3日には岡山県総社市の「チュッピー」に抜かれて4位となり、それからは今日まで4位を維持してきています。
1位の「はにぽん」も8月7日に「しんじょう君」に抜かれました。8月9日に首位の座を奪還しましたが、2日後には再び「しんじょう君」にその座を奪われています。
投票開始後1ヶ月の8月21日のランキングは、1位「しんじょう君」、2位「はにぽん」、3位「チュッピー」、4位に我等の「とち介」、そして5位は島根県の「しまねっこ」となっています。
初日に6位と出遅れた「しんじょう君」ですが、その後日に日に得票数を増やして、一気に1位まで登って来ました。
ゆるキャラグランプリ2016、トップ5累計得票数推移グラフ.png
(ゆるキャラグランプリ2016のトップ5累計得票数の推移グラフ)
8月9日から8月15日の1週間と、8月15日から8月21日の1週間における、1日の平均上乗せ票数を調べると、以下のようになっています。
    <現状ランキング> <8月9日〜15日>   <8月15日〜21日>
  1位: しんじょう君     55,250票/日      64,222票/日
  2位: はにぽん       45,150票/日      61,593票/日
  3位: チュッピー      28,605票/日      50,137票/日
  4位: とち介         15,585票/日      18,072票/日
  5位: しまねっこ      11,806票/日       9,846票/日
この結果より今後を推測すると、順位が入れ替わる可能性はかなり低くなっていると考えざるを得ないですが、 昨年2015年の「出世大名家康くん」と「みきゃん」のトップ争いを思い起こしてみても、張り合うと予想以上の結果が現れる事を、誰もが知っています。
基本的に現在首位を争っている「ゆるキャラ」は、それぞれの地域・自治体の代表の様になっています。
現在、私も地元の「とち介」を応援していますが、「とち介」が生まれていない4年前までは、お隣の「さのまる」に投票していました。でも今は「とち介」です。
ですから、本当ならば出身自治体の人口が多い方が有利になる筈なのですが、そうならないのが不思議であり、面白い所なのかもしれません。
   <現状ランキング>   <出身母体>  <人口>    <県人口>
  1位: しんじょう君    高知県須崎市  約 23,000人 約 764,000人
  2位: はにぽん      埼玉県本庄市  約 78,000人 約7,194,000人
  3位: チュッピー     岡山県総社市  約 67,000人 約1,945,000人
  4位: とち介       栃木県栃木市   約159,000人  約2,007,000人
  5位: しまねっこ    島根県観光連盟     -       約 690,000人
現在首位をキープしている「しんじょう君」のご当地、須崎市の人口は約2万3千人と少ないのに、1日の得票数は6万4千票を上回っています。これには高知県の周辺自治体も支援に加わっていると思われますが、それでは2位に付けている「はにぽん」に対し周辺自治体が支援に加わると、大きな票が動きかねません。
昨年のトップ争いでは終盤の互いの得票数は1日で14万票、15万票と言う信じられないような票が、動いて来ていますから。
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(8月7日、「蔵の街サマーフェスタ」の会場に現れた、とち介ふわふわハウス)
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(8月11日、「サマーフェスタ in いわふね2016」会場の、とち介ふわふわハウス)
最近の動きを見ても、3位の「チュッピー」の得票数が急激に増えて来ています。
「とち介」の場合でもこの最初の1ヶ月で、昨年の2倍近くの票を集めています。投票期間はまだ2ヶ月間も残っているのですから、逆転も夢ではないのです。3ヶ月と言う長丁場の投票期間の設定は、その本気度を試しているのかも知れません。


劇団四季の舞台に感動! [建物]

今日は家族揃って劇団四季の公演「ライオンキング」を観て来ました。
東京・浜松町の劇団四季専用劇場。四季劇場「春」にて、「ライオンキング」は公演されています。
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(劇団四季専用劇場となっている、JR東日本アートセンターの建物外観)
劇場の客席数は1255席。午後1時の開場を待って、さっそく場内に入り、自分の席を確認する。定刻の時刻から少し遅れて開演。
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(入場口前の待合ロビー、ここで開場時間まで待つ)
開演早々、舞台上に多くのジャングルの生き物たちをデザインした人形を操作しながら、ヒョウが、シマウマが、キリンが、そしてサイなどの動物に扮したキャストが埋め尽くす。その一人一人の口から力強く発せられるセリフが、会場一杯に広がる。心地良い歌声と共に、私の体に突き刺さってくる感じです。
演ずるキャスト達の躍動感、舞台狭しと飛び回っています。舞台のセットも次々と場面を変えていきます。何も無い舞台の床から、回りながらせりあがる、大きな岩山。床から突如現れる草木などなど、舞台セットの変化に、目を離す暇が有りません。

舞台セットで驚いた経験は以前にも有りました。バンコクに有る「サイアムニラミット」の舞台です。それは、ギネス認定された世界一大きな舞台で、最大収容人員数2,000人、舞台の高さは65メートルでその高い空中を飛び交う天女が、まるで天国を垣間見る様です。更に舞台上に突然川が現れ、大量の水が流れ、川面に燈籠を流すタイの伝統行事「ロイクラトン祭り」が繰り広げられます。
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(主面奥の大きな建物が、サイアムニラミットの劇場建屋)
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(サイアムニラミットの舞台は、世界最大舞台で有る事を、ギネスブックに認定された)

劇場では、最新の技術を駆使して繰り広げられる、豪華絢爛なカルチュラルショーを堪能する事が出来ます。
残念ながら会場内は撮影禁止になっていて、カメラや撮影機能の付いた携帯電話などは、入場時に預けなければなりません。
サイアムニラミット3.jpgサイアムニラミット4.jpg
(20時の開場時間までは、劇場前で行われるタイ舞踊を見て時間を潰す)

劇団四季の舞台も撮影禁止ですから、素晴らしいショーの状況を写真で伝えられませんが、ショーの素晴らしさはやはり実際に行って見て肌で感じるものだと、今回「ライオンキング」の舞台を観て、改めて感じました。

JR日光駅駅舎を見て来ました。 [建物]

JR日光駅の駅舎を45年振りに訪れました。
県南の栃木市に住む私としては、日光を訪れるのはいつも自動車を使用しています。子供の頃は東武日光線の電車に揺られて、東武日光駅で降り、そこからバスを利用して「いろは坂」を上り中禅寺湖へ行く事が殆んどでした。
宇都宮から日光に向かう「JR日光線」は利用した事が有りませんから、JR日光駅で降りたり乗ったりすることはもちろん有りませんでした。
ただ1度20歳の頃、宇都宮から来る友達とJR日光駅の前で待ち合わせをした事が有り、東武日光駅からJR日光駅前まで歩いて、この駅舎を見たのが初めてで、それからわざわざ立ち寄る事も有りませんでした。

今回、猛暑から逃れるために日光を訪れたので、関東の駅百選に選ばれている「JR日光駅」に立ち寄り、「明治時代の面影を残す白亜の木造建築の駅」駅舎を写真に収めました。
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(国道119号の相生町交差点を右折すると、目の前に現れる駅舎)

現在の駅舎は、明治23年(1890)8月1日開業をした日光駅の二代目の駅舎となり、大正元年(1912)8月25日に落成したものです。
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(左右対称の優雅な駅舎)
ネオ・ルネサンス様式のハーフティンバー様式木造洋風建築です。左右対称の建物は均整の取れた優雅な趣のある駅舎で、見ごたえの有る建物です。
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(駅舎正面入口)            (駅舎正面車止め天井に描かれた鳴竜)
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(駅舎内部、自動改札機も並ぶ)   (2階は、現在駅ギャラリーが設けられています。)

JR日光駅駅舎7.jpg
(どの方角から見ても見ごたえの有る建物です)

栃木の町並みについての疑問 [建物]

私の住んでいる「栃木」の街並みについて、幾つか疑問を持っている事が有ります。その疑問の一つについて、以前(2016年7月19日)ここで紹介をしていますが、街の中央を南北に貫く大通りに対し、通りの東側に面する店舗の多くが、店の向きが通りに対して少し斜めを向いて建てられています。それには何か訳が有るのか、偶然なのか必然なのか。
1軒2軒であればたまたまと言えるのですが、神明宮参道入口付近から、近龍寺参道入口付近までの店舗の多くが顕著に道路に対する傾き度合いが大きくなっています。
雁行する町並み.jpg
(建物が通りに対して斜めを向いている為、軒先がずれているのが見える)
但し大通りの東側全てと言う訳ではありません。倭町の東銀座通りの南側、富士屋さんから三桝屋本店さんの所に、軒を連ねる5棟の店舗について確認すると、通路に対して殆んど斜めになっていません。
三桝屋本店付近の町並み.jpg
(建物が通りに並行している為、店舗の軒先が連なっています)
私なりにこの現象について、幾つかの郷土史の文献を調べてみましたが、この疑問に答えるような記載は見つかりません。(もしかしたら見逃しているのかも知れませんが)
平成18年3月発行の「栃木の町並み景観:平成17年度観光資源保護調査」日本ナショナルトラスト編。(出版:日本ナショナルトラスト)と言う小冊子を栃木図書館の蔵書検索で見つけました。閉架書庫保管の為、図書館窓口で申請しなければ見る事は出来ません。その39ページ「大通り(旧例幣使街道)沿線の景観」の所に、次の様に記されています。≪また大通りに面する歴史的建造物の多くは、その敷地が通りに対してやや斜めに形成され、壁面線は道路に対して雁行しており、1.5mから3m程度のセットバック空地を持っている。この半公共的空間ともいえる空地をうまく演出することは街並み景観に大きく寄与することになる。先導的な好事例はいくつかみられる。≫と。そして好事例のひとつとして、本澤商店店舗前の写真が掲載され、「セットバック空地を活用した店先の演出」と説明書きが付してあります。
山本有三ふるさと記念館.jpg本澤商店店舗前の演出.jpg
(建物前のスペースが、右手が広くなっています)   (店舗前の三角スペースの演出)
ここでは店舗が通りに対して斜めになっているのは、「その敷地が通りに対してやや斜めに形成され」ている為と説明して終わっています。ではなぜ敷地が通りに対して斜めになったのか。その疑問に対する答えは有りません。
栃木の町が初めて形付けられたのは、天正年間に栃木町の西北西6・4kmに拠点を持っていた皆川氏の五代目皆川広照が、栃木町の南東部に栃木城を築いた時に、その城下町として巴波川の左岸(東側)に整備されたものです。この際、皆川広照は近龍寺や定願寺そして神明宮などを現在の地に移し町の要にしたと言われます。よく栃木の町は城下町として形成された為、交差する道路が微妙にずれて、見通しが効かないように造られていると言われますが、栃木町を描いた最も古いとされる宝暦9年((1759)の栃木町絵図を調べて見ると、街の中央を南北に貫通する例幣使街道(大通り)と交差する横道は、通りの西側の念仏橋に通ずる通りと、東側の横町に通ずる通りの1ヶ所のみで、確かに互いの横道は南北にずれています。
そして、その東側の横町付近の道路を見ると東西南北の通ずる4本の道路が丁字に突き当たる状態になっています。東に進む道は杢冷川に架けられた木橋の手前に設けられた「東の木戸」から城内村になります。北に進む道は近龍寺の南門に一直線に伸びています。南に進む道は直ぐその先で、定願寺の北門前に通じ、西へ進む通りは高札場近くの大通りに出ます。
以上の通りの他に、大通りの東側には近龍寺の参道と、定願寺の参道(馬場)の2本の通りが、描かれていました。
それ以外は、大通りから東西左右に短冊状の屋敷割がされた町並みが形成されているのが、確認できます。そしてこの「宝暦9年栃木町絵図」を見る限り、大通りと短冊状に仕切られた屋敷の敷地とは、通りの西側も問題の東側も斜めにはなっていないのです。ところがここに絵図と実際の町並みとの違いが有ったのです。
ここで、栃木町の道路1本1本の方向が理解しやすいように、パターン化して描いて、それぞれの通りの真北の方向に対する角度を測定、又大通りと横道との交差角度を調べました。
栃木市街地道路の変遷.jpg拡大図.jpg
(栃木市街地の道路図) (近龍寺参道入口拡大図)
 
するとまず気付く事は、絵図ではほぼ南北に描かれていた例幣使街道(大通り)が南から北に向うにつれて、東側に寄っています。大通り(例幣使街道)の真北に対する傾きを調べてみると以下の様になりました。
    ①室町の旧警察署前付近の大通りは、真北に対し1度34分の傾き。
    ②倭町の五十畑荒物店付近の大通りは、真北に対して、11度36分の傾き。
    ③万町の山本有三ふるさと記念館前は、真北に対して、16度09分の傾き。
    ④万町の歌麿館付近の大通りは、真北に対して、12度42分の傾き。
    ⑤万町の藤本陶器店付近の大通りは、14度01分の傾き。
又、近龍寺の参道の方向は、真北に対してほぼ直角(91度32分)と、東西方向を向いています。即ち、西方を向く近龍寺の参道は、山門の前から真直ぐ西に進んで、大通りに抜けている為、大通りと参道の交差角度は78度52分になっています。ここで、この参道と隣り合わせる屋敷割の敷地は、この参道とほぼ並行して仕切られる事に成る為、必然的に屋敷の敷地は通りに対して斜めになったものと推測されるのです。
同様に南側、定願寺参道の交差角度は89度30分、東横町通り85度10分と、脇道と大通りの交差角が直交状態に近い為、通りに対する屋敷の敷地の傾きが少なかった為、店舗の向きが斜めにならなかったと推測できます。
又、大通りの西側については、1本あった西横町への通りと、大通りとの交差角度は90度47分で、ほぼ直交状態になっています。又その後開通した他の脇道の大通りとの交差角度を測定しても、以下に示す通り、殆んど直交状態となっている事が分かります。
   A.市役所北側開運橋へ通じる通り(旧トロッコ道) : 92度52分
   B.常盤橋に通じる通り(旧市役所通り)       : 89度55分
   C.郷土参考館の北側の通り              : 91度40分
   D.倭橋へ通じる通り                   : 89度29分
疑問はさらに残ります。皆川広照が栃木の町立てを行った時、町の東側に近龍寺や定願寺、神明宮を配置しています。偶然かも知れませんが近龍寺から定願寺へ通ずる裏通りは、丁度真北に向かって通っています。近龍寺と定願寺の参道もほぼ真西を向いています。計画して造られた町並みであれば、大通りも真直ぐ北を向いて通せば、宝暦9年や天明7年に描かれた「栃木町絵図」の様に出来た筈なのです。
しかし、そうならずに北に向かって東に傾いた大通りの原因は、西側を流れる巴波川の流れの向きに左右されたのではないかと、勝手に想像するのです。先に掲示した「栃木市街地の道路図」を眺めると、巴波川の流れが町の北側で大きく東側に寄っている事が分かります。
利根川の流れを変更して江戸の町を築き上げた徳川家の様な、権力を有しなかった地方の皆川藩には、巴波川の流れを変える力も財力も無かったのかも知れません。
栃木城は慶長14年(1609)、皆川広照が改易された事で廃城となって、城下町としての栃木も19年間でその性格を失う事になりました。その後はそんな巴波川の舟運を基に発展を続けた事も不思議な巡り合わせだと感じます。
この推測は、全く私の勝手な想像で描いたシナリオに過ぎません。栃木の町には他にも多くの疑問を抱いています。又勝手に想像を膨らませたいと、考えています。

旧日光例幣使街道の起点、倉賀野宿閻魔堂を訪ねる。 [堂々巡り]

先週の土曜日、旧日光例幣使街道の起点となる、中山道の宿場町「倉賀野」に車を走らせました。
日光例幣使は江戸時代、正保4年(1647)から毎年4月の日光東照宮の例大祭に奉幣する為に、朝廷から派遣された奉幣使で、慶応3年(1867)まで221年間、1回の休みも無く続けられました。
日光例幣使は、毎年4月1日に京都を発って中山道を下り、上野国の倉賀野宿にて中山道より分かれ、我が栃木市街を通過して、鹿沼市楡木にて日光西街道(壬生通り)に合わさる、日光例幣使街道を通って、4月15日に日光に到着するのが慣例になっていました。
倉賀野宿の「下の木戸」を出た所で道は分岐し、「従是右江戸道、左日光道」と刻された道しるべが建てられています。
倉賀野宿4.jpg
(右が江戸に向かう中山道、左が日光に向かう例幣使街道)
そして道しるべの背後には、文化10年(1814)に立てられた立派な常夜燈と、さらにその奥に閻魔堂が建っています。
倉賀野宿1.jpg倉賀野宿3.jpg
(例幣使街道を示す新しい道路標識)         (分岐点に建つ道しるべと常夜燈)
私は、2014年9月21日に一度、この閻魔堂を訪れていますが、その時は丁度堂宇の老朽化が酷くなったとして、解体をされた後でした。昨年(2015)の5月に再建されたという事で、今回新しくなった閻魔堂を訪れました。
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(新しくなった閻魔堂)
倉賀野宿の旧中山道を、少し歩いて見ました。「連子格子」の有る建物やナマコ壁の土蔵など明治期の面影が残る建物を見る事が出来ます。
倉賀野宿6.jpg倉賀野宿9.jpg
(矢島家)                           (吉野家「叶屋」)
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(大山家)                    (街道の様子、左手に倉賀野古商家おもてなし館)
ただ午後1時を回る頃、歩いているだけでも夏の陽射しが照り付け、汗が噴き出て来ます。そこで少し空調の効いた屋内に入ろうと、近くの「群馬県立歴史博物館」に避難しました。
群馬県立郷土歴史博物館玄関.jpg
(群馬の森内、「群馬県立歴史博物館」の正面入口)
「群馬県立歴史博物館」は、先ほどの分岐から日光例幣使街道を少し行った先に有る「群馬の森」の中に有り、先月(7月23日)リニューアルオープンをしたばかりでした。
館内は空調が効いていて、最高に快適空間、ゆっくりと群馬県の歴史・文化を見て回りました。
「近世」のコーナーには、今回訪れた中山道倉賀野宿周辺の様子がジオラマで展示紹介されています。
倉賀野宿ジオラマ1.jpg
(倉賀野宿のジオラマ。左側の道の両側に家並みが続くのが中山道。右側に流れる川が、利根川支流の烏川。川には帆を掛けた舟が何隻も見えます。倉賀野宿は烏川の舟運による河岸も栄えていました。)
ジオラマをよく観察をすると、丁度中山道と日光例幣使街道との分岐付近を進む例幣使一行の行列が細かく再現されているでは有りませんか。馬に乗る人達や、長持ちを担いでいく人達、行列の中央付近に12名の人によって担がれている、一際大きい御輿には天皇からの宣命と金の幣帛を納めた櫃が収められているのか。行列後方には四枚肩の引戸駕籠が続く。数えてみると総勢74名(駕籠に乗っている人も含む)の行列となっています。
行列の先頭はすでに、「下の木戸」を抜けて分岐点を左の日光道を進んでいます。
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(倉賀野宿下の木戸を通り、閻魔堂の分岐を日光道へ進む例幣使の行列先頭部)
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(倉賀野宿内中山道を進む行列。12名で担がれた奉納される金の幣帛を納めた御輿も。)
ジオラマを眺めながら、遠い昔に思いを馳せました。
この群馬の森の公園内も、今ブームとなっている「ポケモンGO」をする若者達の姿を、多く見かけました。

バーベキューでアユとヤマメに舌鼓 [食]

朝の7時半に電話が入った。
「10時の予定だが、今日も暑くなってしまうから、早めに始まりたいから、出来るだけ早く来て。もう魚、焼き始めているから。」と言う。
今日は、高校時代の仲間と、恒例のバーベキューをすることになっている。10時の集合予定だったが、日中ドンドン暑くなるから、早く始まりたいと言う。急いで軽く朝食をとって家を8時に出る。途中のコンビニで、自分が飲み食いする物を買い込む。自転車のカゴにビールとツマミを詰め込み、友人の家に向かう。
既に庭にバーベキューのコンロがセットされ、竹串に指したアユやヤマメが炭火で焼き始められています。
この暑い最中の開催は、釣り好きの友が釣り上げたアユやヤマメが、冷蔵庫から溢れる時期だから仕方ない。でもそれは一つの口実で、高校時代の友達が気楽におしゃべりをして、飲んだり食べてりするのが、何よりも楽しい。
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(アユ・ヤマメを炭火でじっくりと塩焼きする)
私は釣りもまったくやらないし、お酒も強い方ではない、晩酌もやらない。でも友達とこうして会うのも楽しい。最近は年に2・3回、何かと言っては集まる様になっている。
準備を繰り上げた事で、予定した10時には缶ビールで乾杯となった。仲間の一人にソバやうどんの打つのを趣味にしているのが居て、彼が揃ってのスタートである。
アユやヤマメも食べごろ、熱くなった竹串を注意深く持って、背ビレを取ってからガブリと食らいつく、塩加減も上々、さっぱりとした身、苦みのある内臓、そしてビールをグイッと行く。

アユとヤマメに舌鼓2.jpgアユとヤマメに舌鼓3.jpgくだらない話にも時間を忘れる。が、気温はドンドン上昇している様、打ち水して対処する。
12時を過ぎる頃には用意されたアユもヤマメも食べつくす。ピーマン、玉ねぎ、スルメなどを焼く、焼きそばを食べ満腹に。
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(炎天下に打ち水をすると、噴霧した中に虹が現れました。)
後片付け後はクーラーの効いた室内に移動して、今日始まった高校野球をテレビ観戦。
満腹となった腹もしばらくしておさまって来たところで、ソバを打って来た友が、ソバを食べようと言い出す。「今朝5時から準備して作って来たのだから、絶対食べて。」と。実はこれまではいつもソバを打って来ても、みんな満腹になって、なかなかソバを食べる事が無かったからです。
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アルコールが入るとカラオケがしたくなるのも中年男の性。タクシーを呼んで会場を変える。
そして陽が落ちてから、今日行われる巴波川の百八灯流しを見る事に。郊外に住む友はこれまで見た事が無いという事で、幸来橋の辺へ。
巴波川ではすでに灯籠流しが始まっていました。川べりに陣取り、川面を流れる燈籠を眺めながら、市無形民俗文化財の催しを堪能しました。
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今日、仕事で参加できなかった友もいます。今もまだ海外で仕事を続けている友もいます。残念ながらすでに天国に旅立った友もいます。今回参加出来たのは4名でしたが、次回はもっと多くの顔が揃う事を、川面を静かに流れる燈籠の明かりを眺めて、そんなことを考えていました。

野木町のひまわり畑で [草花]

先日、テレビで野木町の「ひまわりフェスティバル」の様子が放映され、多くの人が畑一面に咲く大輪の黄色い花の中を、歩いて楽しんでいました。
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野木町のひまわりの花は、今から25年も前、子供がまだ小さかった頃に連れて行ったが、それ以来久しぶりに見に出かけました。
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残念ながらひまわりの花はピークを過ぎてしまっていたが、それでもこれまで見た事の無い珍しいひまわりの花を見る事が出来ました。
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(ダブルクイック)                     (フロリスタン)
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(ソニア)                          (太陽)今年はもう咲き終わりました。
草丈150センチメートルに成長し八重咲きの1本立ちの「ダブルクイック」や花びらが茶褐色と黄色の2色咲き「フロリスタン」、濃赤色で豪華な花を咲かせる「プラドレッド」などなど、「これもひまわり!」と驚きでした。

「ひまわり」の花は夏のイメージですが、1年を通して30℃の気候のタイでは、11月から12月に花を咲かせます。タイのバンコクと東京の年間の気温の変化を調べた事が有ります。毎日の最低気温と最高気温のデータをプロットして、それを近似曲線で描くと、四季のハッキリしている日本と年間を通して暑いタイの気温パターンの違いが良く分かります。
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タイの有名なひまわり畑が有るのは、首都バンコクの北北東、ロッブリー県の郊外で11月下旬に一度訪れた事が有ります。広大な畑一面が大輪のひまわりの花で、黄色に染まります。
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そして日本と同じ様に、多くのタイの人達が観光に訪れ、ひまわり畑をバックに写真を撮る姿が有りました。
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ひまわりの花言葉を調べると、「私はあなただけを見つめる」と有りました。他にも品種ごとに有る様で、野木町の会場に立てられた品種の説明板には、「未来を見つめて」(サンリッチオレンジ)や、「願望」(サンリッチレモン)、「太陽の恵み」(ソニア)、「負けない」(フロリスタン)などが記されていました。

ひまわりの花は、日本全国で見る事が出来て、多くの自治体で市町村の花としている様です。当然栃木県では、野木町が町の花にしていますので、街を歩くとひまわりの花をデザインしたマンホールの蓋を見る事が出来ます。
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