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とち介 スタートダッシュで善戦! [ゆるキャラ]

ゆるキャラグランプリ2016の投票が、7月22日にスタートしました。
まず初日からスタートダッシュで勢いを付ける事が出来るか、期待と不安で初日の得票数を確認する。7月22日24時時点の得票数は、9,403票。初日にトップを取ったゆるキャラは、埼玉県本庄市の「ほにぽん」で、「とち介」より196票多く得票して1位。「とち介」は一歩及ばず2位からのスタートとなりました。

そして、昨日7月29日23時30分時点でも、順位は1位「はにぽん」、2位「とち介」で変わっていません。しかし、順位は変わっていませんが、得票数は日に日に差が広がって、このままズルズルと引き離されては、目標の「日本一」が遠のいてしまいます。
これまでの累計得票数の推移を見てみると、
<はにぽん>  <とち介> <票差>
    1日目   9,599票   9,403票    196票
    2日目  20,215票  17,819票  2,396票
    3日目  33,588票  26,766票  6,822票
    4日目  50,964票  38,706票 12,258票
    5日目  70,430票  50,218票 20,212票
    6日目  88,929票  64,881票 24,048票
    7日目 111,323票  80,060票 31,263票
    8日目 138,369票  95,088票 43,281票

1位の「はにぽん」の得票数がうなぎ上りに増えています。「はにぽん」の昨年2015年のグランプリの結果を見てみると、全国7位でした。 「とち介」は6位でした。勝てない筈は有りません。本庄市の人口は77,883人、それに対して新生栃木市の人口は158、735人と約2倍もいます。

今、栃木の街中を歩いていると、駅前通りや蔵の街大通りなどに、「とち介を日本一へ」の応援の幟旗が掲げられています。そして、市街地を離れた住宅街の庭先で、「とち介を日本一に」の幟旗を目にすると、連帯感が湧きあがります。
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(蔵の街大通りの街灯フラッグに「とち介」君)(住宅二階のベランダにひるがえる幟旗)

2013年に見事1位の座を獲得した、お隣佐野市のゆるキャラ「さのまる」君は、投票期間最後で先行する「出世大名家康くん」を逆転しました。この時予想外の敗北をきした「家康くん」は翌2014年のグランプリにはノミネートせずに充電を行い、昨年2015年のグランプリ争いで、愛媛県のゆるキャラ「みきゃん」と投票期間の最後まで、激しい得票数競争を繰り広げ、見事に念願の1位の座を手にしています。
3ヶ月間と言う長丁場を毎日毎日コツコツと投票続ける事は、簡単な様ですが結構気力体力が必要になると、昨年の投票活動を通して身をもって感じています。
私達の癒しのゆるキャラ「とち介」君を応援する一人一人の、1票1票を積み上げて、「日本一」と言う目標に向かって頑張りましょう。後ろからヒタヒタと高知県のゆるキャラ「しんじょう君」が迫って来ています。

巴波川河畔を飾る行灯 [懐かしい写真]

今年も栃木の市街地を貫流する巴波川の河畔に、行灯の灯がともっています。
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(現在行われている、巴波川の行灯まつりの様子)
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行灯には「横山郷土館」や「旧栃木町役場庁舎」など、市内の観光スポットを切り絵で表した、「岩舟石の資料館」の元館長、故川島健三郎さんの作品が使われています。

この巴波川河畔を飾る行灯は、私が子供の頃にも見られました。それは栃木市無形文化財に指定されている、巴波川の夏のイベント「百八灯流し」に合わせて、富士見町を流れる巴波川から分流した「九十九曲り用水」河畔で行われた、川柳行燈です。以下の写真は昭和44年(1969)8月に撮影したものです。
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富士見町の川沿いにズラッと立てられた行灯の一つ一つに、スポンサーに関する川柳と水墨画が描かれていた記憶が有ります。どんな川柳だったか良く覚えていませんが、「松栄の寿司を涙で食べており」、こんな作品が有ったような。行灯に描かれた川柳は、現在も地元で活躍している「不二見川柳社」の皆さんの作品だったと聞いています。

又、この頃は「百八灯流し」の会場、巴波川橋の下流部三番堰付近の川の上に舞台を組んで、歌やマジックショーなどが催され、巴波川橋の橋の上や川べりには見物客が溢れ、身動きが出来ないほどだった事が、思い出されます。
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(巴波川橋の上に溢れる見物人のシルエットと、光り輝く舞台)
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(巴波川の川面に写る舞台)        (舞台周りを飾るスポンサー名の入った行灯)

そして、昭和47年(1972)8月には、栃木青少年ホーム利用者の皆さんが作った川柳や水墨画の行灯が祭り会場に華を添えていた事も有りました。
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行灯の一つに夏祭りを詠んだ川柳が有りました。「出不精が 子にせがまれて 夏祭り」甚句さんの作品です。

現在の行灯も数年後には、懐かしい夏祭りの思い出になっているのかも知れません。
今年ももうすぐ、巴波川の「百八灯流し」が行われます。この日は12時から21時まで、蔵の街大通りや銀座通りなど、各所で色々な催しが行われる「蔵の街サマーフェスタ2016」です。楽しみです。




小山市の田んぼアート、残り2ヶ所を見て来ました。 [草花]

7月10日に小山市島田の田んぼアート「ブラックジャック」を見て来て、このブログにても紹介をしましたが、小山市では今年、「手塚プロダクション」とのコラボにより、手塚治虫の作品3点を、田んぼアートにしていると言うので、残りの2作品を今日、車で見て回って来ました。
最初に「絹会場」の田んぼアート「鉄腕アトム」を目指します。車で行くと栃木市からは非常に分かり易く、思川に架かる「黒本橋」を渡ってその道を何処までも真直ぐ走る。国道4号線を横切り、東北本線のアンダーを抜け、新国道4号線の下を潜る。更に直進して、「小山東部産業団地」の工場群を抜けた直後、道路左手に田んぼアートの幟旗が翻った駐車場が現れる。
小山田んぼアート絹会場1.jpg小山田んぼアート絹会場2.jpg
駐車場に車を停め、駐車場の東に広がる田んぼの中に造られた「鉄腕アトム」の作品を鑑賞しました。右手の拳を力強く突出し、空を飛ぶ「アトム」が緑や紫、黄色など色の異なる稲で見事に表現されています。
駐車場には、田植えの様子やこれまでの成長の様子を写した写真が掲示されて、日に日に変化する田んぼアートの楽しさを見る事が出来ます。
小山田んぼアート絹会場3.jpg
急いで次の会場へ移動します。三つ目の田んぼアートは、南の渡良瀬遊水地の北側の堤防、下生井桜つつみになります。この会場には昨年も行きました。小山の市街地を通り抜け、国道4号線を南下して野木町で右折して国道から分かれ、思川の「松原大橋」を渡って最初の信号の有る交差点を左折、道なりに進むと旧思川の「なまいふるさと公園」の南端部から、渡良瀬遊水地の堤防上を走る道路に入ります。下生井桜つつみ」です。与良川排水機場の手前に田んぼアートの会場が有ります。
ここで見られるのは「ジャングル大帝レオ」の可愛い「レオ」のとび走る姿です。こちらも緑色のキャンバスに、白いライオン「レオ」がハッキリと描かれています。
小山田んぼアート下生井会場1.jpg

小山市の田んぼアート、3作品を楽しくまた懐かしく「手塚治虫ワールド」を感じる事が出来ました。

夕暮れの蔵の街を歩く [歩く]

昨日、二十四節季の「大暑」を過ぎ、本格的な夏の到来となるところですが、北関東はここ数日雨模様の天候が続いています。今日は日中青空も広がりましたが、雲も多く北東からの風の所為か、比較的爽やかな1日となりました。
という事で、夕暮れを待ってウォーキングに出かけました。巴波川に架かる「沖の橋」を渡り、旧県庁堀の東側から湊町方向に歩くのが、私のお決まりのウォーキングコースです。
途中、錦町通りを横切ると、通りの両側には注連縄がはられ、祭提灯に灯がともされています。錦町も明日は夏祭りで、御神輿が町内を巡りますが、今宵は祭りの前日で、これから宵祭りが始まる様で、八坂神社の社殿の周りには、町内の人達が集まって来ています。その賑わいを横目に、先に進みます。
湊町通りを巴波川の「幸来橋」を目指します。幸来橋の上には数人の人影が見えます。今、幸来橋周辺の巴波川の両岸で、行灯まつりが行われているので、その風景を写真に収めようとして、午後7時の点灯の時を待っている様です。
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(巴波川の幸来橋上より下流側を望む。行灯はまだ点灯していない。)
私が橋の上に到着したのは7時5分前です。折角なので私も行灯に灯がともった写真を撮る事にしました。ただ待っていても勿体無いので、巴波川の西側の川沿いを下流の「巴波川橋」まで歩き、川の東側の塚田歴史伝説館の長い黒塀沿いの道を歩いて、一回りするともうじき7時になります。
午後7時丁度に、待っていた行灯に灯がともりました。歩く時にいつもポケットに忍ばせている、デジカメを取り出し、まだ夕明かりの残る巴波川沿いの土蔵群をバックに暖かいオレンジ色に変化した行灯が浮かび上がってきます。
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(午後7時を回り、川岸の行灯に灯がともる)
暫らく幸来橋の上から、巴波川の川面に写る行灯の明かりを眺め、又蔵の街大通りに向かって歩きます。いつもは、川岸を下河岸方向に歩いて、栃木映前を回って、大通りを北上するのですが、今日は少しコースを変え、西銀座通りを抜けて大通りに出ます。
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(蔵の街大通り、栃木グランドホテル屋上にビアガーデンの光りが輝く)
倭町交差点から大通りを南に下り、定願寺の参道に入り、山門前を右に折れ警察署跡地の東側から文化会館を回り、第二公園の東側入口から天王囃子の太鼓の音につられ神明宮境内へ。
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(元警察署跡地より撮影。蔵の街の光りの奥に太平山のシルエットがのぞいている)
境内では明日の神幸祭の宵宮まつりが行われていました。お囃子連の演奏や氏子の方の屋台が出て、多くの人で賑わっていました。
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(神明宮境内では神幸祭の宵宮まつりの最中でした)
神明宮参道から蔵の街大通りに戻り、万町交番前から、嘉右衛門町通りに入り、すっかり暮れて、街頭の明かりに照らされた通りを抜けて、我家に戻りました。
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(緩やかな曲線が続く、嘉右衛門町通りを歩く)

本日の総歩数は11,212歩でした。

とち介、ゆるキャラグランプリ2016の戦いが始まる [ゆるキャラ]

グーグルマップで「栃木市立南中学校」と検索、航空写真に替えて見ると、南中学校の校庭に何やら「ピンク色の物体」が見える。この航空写真は今もまだ更新されていないと思う。
撮影された日は、2014年3月28日午後1時15分ごろ。この時私は丁度この校庭にいました。恐らくこの航空写真に写っている人影の一人が私のはず。
ピンク色の物体は、熱気球「ハートランド号」。丁度この時初めて市民にお披露目されたものです。熱気球としては珍しい、ハート型で正面に「とちぎCity」の文字、背面には「天使の羽」を付けています。
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(栃木市立南中学校の校庭で行われた熱気球「ハートランド号」のお披露目)

この日、栃木市ではこの後、蔵の街大通りにて、「栃木新庁舎完成記念」のパレードが実施されました。そして、そのパレードで私は初めて、栃木市のマスコットキャラクターとなった「とち介」君を見る事になったのです。
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(蔵の街大通りに初めて表れた、栃木市マスコットキャラクターの「とち介」)

それ以来、私は「とち介」君の隠れファンとなりました。その年、初めてエントリーした「ゆるキャラグランプリ2014」、慣れない携帯からの投票に戸惑いながら、90%以上は投票しました。
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(大田原市での「ゆるキャラスポーツ大会」に追っかけ)

そして、昨年の「ゆるキャラグランプリ2015」は、投票期間が前年の3倍の3ヶ月間に及ぶ長丁場と変わりましたが、投票初日から最終投票日まで、100%完全に毎日投票を続けました。
初年の全国8位から、6位とアップしましたが、首位争いからは大幅に得票数を放されました。
今年の目標は「全国1位」と発表されました。今、駅前や蔵の街大通りには、「とち介を日本一へ」の街灯フラッグが掲げられ、毎日必ず投票する仲間を増やす「リストバンド」でハイタッチ運動大作戦などが展開されています。
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(栃木駅北口のロータリーに掲げられた、「とち介を日本一へ」の街灯フラッグ)
「とち介で栃木を元気に!」
いよいよ明日、7月22日午前10時より投票が開始します。私も又100%投票を目指します。
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(100%投票約束のリストバンド)

栃木蔵の街、大通りに対して斜めを向く店舗の訳は? [建物]

栃木の街に住んで60年以上になるが、この街の事について知らない事が沢山有ります。
その一つが、栃木市街地の中央を南北に通過する、旧日光例幣使街道に面する建物の向きが、何故か通りに対して斜めを向いている店舗が多いのです。
栃木は、旧日光例幣使街道の宿場町の一つですが、街道の両側には短冊状に屋敷割された建物が続いています。現在も江戸後期から明治時代に建てられた多くの建物が残って、昔の風情を今も感じられる「蔵の街」となっています。
通りに対して斜めを向く建物を紹介すると、
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(五十畑荒物店前より大通り北方向を望む) (本澤屋店舗前の様子)
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(栃木市観光協会案内所前)          (北蔵Cafeひがの店舗前)
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(阿部呉服店の店舗前)                (とちぎ蔵の街観光館の前)
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(小江戸そば好古壱番館の前)            (快眠館大二、店舗前)
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(人形のやまとや、店舗前)                (山本有三ふるさと記念館の前)
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(栃木グランドホテル前)                (とちぎ歌麿館の前)
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(なすび食堂、店舗前)                 (下野新聞社栃木支店前)
ホテルサンルート栃木前.jpg
(ホテルサンルート栃木前)
以上、紹介した建物、店舗は全て大通りに対して東側に建っています。
通りを南側から北方向に向かって撮影をした写真がほとんどですが、どの建物の前も奥から手前にかけて、店舗の前のスペースが広がっているのが確認できます。
建物の中には、「栃木グランドホテル」や「ホテルサンルート栃木」のビルの様に新しく建てられたものでも、敷地事態が両サイドの屋敷割に沿っている為、自ずと通りに対して斜めになっています。
もちろん、ビルを変形にして、通りに沿った面を造る事は可能でしょうが、建設時にその事に関して、何か検討をされたものか、第三者の私が知る由も有りません。

一方、大通りの西側に建つ店舗を確認してみると、殆んど東側の様な通りに対する傾きは認められず、通りに沿って建てられています。手元に有った2枚の写真を添付します。
大通り西側店舗前1.jpg大通り西側店舗前2.jpg
(ジェラテリア桜蔵の前)            (出井書店の前)

なぜこのような状態になっているのか、歴史的に何か目的が有って、意識的に造られたものか、その由来について私なりにこれまで「栃木市史」などの、郷土の歴史書の中に何か記載されていないか、調べてみましたが、未だ確認出来ていません。

栃木市嘉右衛門町の旧日光例幣使街道沿いを中心とした地域が、国の重要伝統的建造物群保存地域に指定された時、同時に群馬県桐生市の「桐生新町」(現在の桐生市本町一丁目及び二丁目の全域並びに天神町一丁目の一部)も指定されています。
今年の3月に訪問をして、地元の観光ボランティアガイドさんの案内で、保存地区の町並みや文化財に指定された建物などを見て回りましたが、その時に頂いた「桐生新町の町並み」というリーフレットの中に、≪通りに対して傾いている建物≫とする説明が記されていました。
≪桐生新町の町並みは、天正19年(1591)に徳川家康の命を受け、代官大久保長安の手代、大野八右衛門により新たに町立ちされ、在郷町として発展して来ました。≫
≪町立てに際し、地区の北端に天満宮を遷宮し、ここを起点とい南北に約5間(約10m)の道(現在の本町通り)を造り、その両脇に間口6〜7間(約12m〜14m)奥行き40間(約80m)という短冊状の敷地割が施され、・・・(後略)≫
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(桐生新町の町立ての起点として遷宮された天満宮社殿)
桐生新町1.jpg桐生新町2.jpg
(桐生新町の町並み)
と栃木宿の屋敷割と同様の町並みとなっていますが、この桐生新町では≪敷地が通りに対し直行していないため、敷地に合わせて建てられた建物は通りに対し平行ではなく、建物の壁面が雁行している箇所があります。≫との説明となっています。
私個人としては、桐生新町の地形の様子が分かっていませんので、計画的に町づくりがなされたのに、なぜ敷地が通りに直行しない箇所が出来たのか疑問も残ります。中心となっている現在の本町通りが、南北の軸に対して約29度ほど南南西方向に傾いていますが、地形図を眺めるとその地理的要素が、ハッキリ確認できます。
桐生新町は、足尾山塊が南の関東平野に突き出た山の南西部の桐生川が流れる沢の中に位置している為、その沢の広がる南南西の方向が町を形成する自然な形だったと考えられます。
栃木の街並みも同様に地形的な要素が絡んでいたのか、これから更に調べて行きたいと感じました。

※今回参考にさせて頂いた資料は、「桐生市総合政策部重伝建まちづくり課」作成の「桐生新町の町並み」です。
桐生新町の町並パンフ表紙.jpg桐生新町の町並パンフ抜粋1.jpg
(リーフレット「桐生新町の町並み」の表紙部分) (通りと敷地の関係を説明した部分)

「10万人栃木まつり」の思い出 [祭]

最近、ウォーキングも少し陽が傾いて涼しくなったころに、家を出る事が多くなりましたが、週末などは栃木の市街地を歩くと、遠くから太鼓をたたく音が聞こえる様になりました。夏祭りのお囃子の練習が始まっている様です。錦町や小平町そして十二社の境内と思しき方向からも、調子の良いリズムが、いよいよ祭りが近くなってきている事を知らせてくれます。
大通りに面した店舗のガラス戸には、神明宮神幸祭のポスターが貼られています。今年は7月24日(日)の午後5時から、蔵の街大通りを御神輿が渡御します。私も若かりし頃に担がせて頂いた経験が有りますが、早朝9時から神輿巡行をスタートさせて、旧栃木町の五ヶ町を全部回りました。
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(昨年の神明宮神幸祭の様子)
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市内の各町内の神輿が大通りに繰り出す連合渡御も、以前は沢山の神輿が集まり、大通りは人で溢れました。
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(蔵の街大通りでの、神輿連合渡御の様子。1980年7月撮影)
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8月に入ると、幸来橋下流の巴波川で行われる「百八灯流し」、そして蔵の街大通りを中心に開催される「栃木夏祭り」、最近は祭りの名称も変わって、「蔵の街サマーフェスタ」となりました。
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(幸来橋下流部の巴波川で行われる「百八灯流し」の様子。2013年撮影)
私が小さかった頃は、旭町第二公園の広場に櫓が組まれ、盆踊り会場になりました。両親と手つないで見にいった記憶が残っています。沢山の人出で櫓の周りで踊る所は、なかなか見る事が出来ませんでした。観客の後で櫓の上で演奏される、「栃木音頭」や「栃木小唄」の歌や囃子、三味線の音が今も耳に残っています。
しかし私が10代の頃の夏祭りの記憶は不思議と残っていません。
現在の様に、蔵の街大通りを会場に、盆踊りが開催されるようになったのは、昭和50年(1975)の事です。この年の4月10日に栃木バイパス道が、箱森町の十二社から大平町川連の間が仮開通した事で、大通りを全面通行止めにした祭りが可能になったのでした。
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(蔵の街大通りにて開催された「栃木まつり」盆踊り大会の様子、1977年撮影)
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その当時、栃木青年会議所の提唱によって企画された、「10万人栃木まつり」は更に時をさかのぼる事2年前、昭和48年(1973)に第一回が開催されました。この時の祭りのメイン会場となったのは、栃木東中学校の校庭で、中央に立派な「盆踊り櫓」が組まれました。
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3日間の祭りの期間の初日は、メイン会場の櫓をステージとして、10代20代の若者が主体となった「栃木ヤングフェスティバル」、会場には沢山の若者がステージ上で演奏されるプロのタレントの演奏を楽しみました。私も観客の1人として出かけ、写真を撮って来ました。
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フィナーレは大きなキャンプファイヤーの炎を中心に、歌や踊りで夏の位置やを、一緒に楽しみました。
この時の、10万人栃木まつり・ヤングフェスティバルのテーマソングは、「もう一度ふるさとを」でした。
今も懐かしく思い出します。
一番だけ紹介します。≪若さみなぎる この町の 力あふれる 若者よ 素直な心で 見つめて欲しい 忘れかけてた ふるさとを 唱えヤング 踊れヤング ランララ・ランランランララー≫
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今は遠い昔の思い出に成ってしまいましたが、栃木まつりはその時代・時代に合わせて、変化し続けられています。
今年も又、栃木の夏祭りを楽しみたいと思います。


小山市島田に作られた「田んぼアート」を見て来ました。 [草花]

夏の太陽が照り付け、暑い一日となりましたが、その暑い最中に投票所に足を運びました。
陽が西に傾く頃に車で小山市内で、毎年行われている「田んぼアート」を見に行ってきました。小山市内の「たんぼアート」は今年3ヶ所で行われている様ですが、今日は一番近くの、JR両毛線と思川に挟まれた、小山市島田に造られた「田んぼアート」を見て来ました。
小山市島田の東に当たる、思川右岸(西側)の土手の上から、その「田んぼアート」は鑑賞出来る様に造られていました。
目的の場所が分かりませんでしたが、近くまで行くと道路の脇に案内表示が立てられていて、その案内板の指示通りに進んで行くと、思川右岸の土手の上に出る事が出来ました。すでに何台かの車が来ていて、写真を撮っていました。
車を停めて、土手の上から西側広がる田圃を見ると、緑色の水田に、こげ茶色やクリーム色、茶色など色の異なる苗で何か描かれています。
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目の前に「おやま」の文字が確認できますが、その左側の絵が何か分かりません。土手の上を移動していくと、撮影ポイントと表示された場所が有り、そこから眺めると、先ほどまで全く分からなかった絵が、驚くほどハッキリと見えています。
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手塚治虫漫画の「ブラックジャック」が椅子に座って足を組み、こちらを見ています。どのような方法で、色の異なる苗を植えて行くのか分かりませんが、恐らくコンピューター解析で苗を植える図柄を造ってくのだろうと、勝手に想像しています。
それにしても良く描けているいて、感心します。

昨年は小山市下生井の渡良瀬遊水地の北東部、与良川排水機場近くの下生井堤の「田んぼアート」を見に行きましたが、今年も又、そちらにも行って見たいと思います。

皇居内旧本丸に有った午砲

丁度一週間前、一般皇居参観に出かけましたが、その折皇居東御苑の見学も行ないました。広い東御苑の中を見て歩いていると、江戸城本丸跡の南側に広がる芝生の中央辺りに、ポツンと一つ直方体の石が見えました。
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(皇居東御苑、江戸城本丸跡南側に広がる芝生広場)
「午砲台の跡です。」案内をしてくれた、ボランティアガイドの方が説明してくれました。写真を拡大してみると「午砲台跡」と刻されていました。
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(拡大写真)
ところが、昨日たまたま訪れた、小金井市に有る「江戸東京たてもの園」の中で、この旧江戸城本丸庭園に有った「午砲」が保管・展示されているのを知りました。
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(小金井市、江戸東京たてもの園内に展示されている、皇居旧本丸跡の「午砲」)
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(「午砲」の説明板)
それは、石の台座の上に据えられて、重量感たっぷりの大砲です。脇の説明板によると、
≪1871年(明治4)9月9日から、皇居内旧本丸で、この大砲により正午を知らせる空砲が発射された。「午砲」による正午の通報は、今の東京都区部の大部分に聞こえ、その音から「ドン」と呼ばれて人びとに親しまれた。・・・(後略)≫と、記されています。
又、同じく園内を見て歩いていると、やはり先日東御苑内で見た、「皇居正面石橋の旧飾電燈」と同じものを、目にしました。
正面石橋の旧飾電燈(江戸東京たてもの園内).jpg正面石橋の旧飾電燈(説明板).jpg
(江戸東京たてもの園内に展示されている、皇居正面石橋の旧飾電燈)
皇居正面石橋欄干の中央と両側の計6ヶ所に有る「男柱石」上に設置されたこれら6基の飾電燈の二つを、この一週間で見る事になりました。復元された台座の男柱石の上に設置された飾電燈。その台座に立つ部分の飾電燈の形は、爪を立て台座を捉えている四本の獅子の足の形にデザインされています。近くで見るとあらためて見事な装飾に驚くばかりです。
正面石橋の旧飾電燈2(江戸東京たてもの園内).jpg正面石橋の旧飾電燈3(江戸東京たてもの園内).jpg
(見事な装飾が施されている、飾電燈)
これら一つ一つのものが、東京のいや日本の一時代を証明すものとして、シッカリ保管され、そして私達が何時でも見られることが出来るのは、幸せな事で本当に嬉しく感じました。

館林市 歴史の小径を歩く [歩く]

先日、群馬県館林市を訪れました。これまでも館林は何度も訪れています。城沼一周ウォーキングや多々良沼一周ウォーキングもしました。そして子供が小さかった頃は、栃木から渡良瀬サイクリングロードを、自転車を走らせて訪れた事も有ります。
館林と言えば「ツツジの花」そして「分福茶釜の狸」で有名な茂林寺が思い浮かびますが、最近は日本で一番暑い気温を記録した」として最高気温が「熊谷」を抜く事でも、知られるようになりました。
私がウォーキングする時は、比較的涼しい日を選んでいますので、その日も館林市役所前の、特大の寒暖計型表示板も動いていませんでした。
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そんな館林市、今回は街の中を散策する事にしました。出発は館林駅前からです。
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(旧館林駅舎、この右隣りに新駅舎が有ります) (駅前広場に縁起物のタヌキの置物が並ぶ)
東武伊勢崎線の館林駅は、現在新旧二つの駅舎が利用されています。旧駅舎は昭和12年(1937)に改築されたもので、平成10年(1998)に「関東の駅百選」に選定されました。新しい駅舎は橋上駅舎で、東西自由通路と共に、平成21年(2009)12月竣工しました。駅前ロータリーには「分福茶釜」の街をアピールするように、ユーモラスなタヌキの置物が出迎えています。
別のタヌキの置物の隣りに、≪巨人軍栄光の初V 不屈の魂誕生の地 分福球場≫と大きく刻された石碑が建てられています。
館林駅前1.jpg館林駅前3.jpg
碑陰に、≪巨人軍初Vの原点「分福球場」≫と題した碑文が記されていました。

駅前を散策していると歩道脇に≪歴史の小径 竜の井≫と刻された、小さな石碑が目に留まりました。駅前ロータリーの北東部から東に伸びる通路の入口です。通路の北側に「歴史の小径」のルートと、その途中の「歴史的建造物」の写真と説明が記された案内板が立てられています。そこで、この案内板に従って歩く事にしました。
歴史の小径1.jpg歴史の小径2.jpg
まず、東方向に伸びる通路を進みます。早速前方の大きな2本のイチョウの木の間に、手水舎の様な建物を発見。近づいて見ると先ほど案内に有った「竜の井」です。横に説明板が有ります。
竜の井1.jpg竜の井2.jpg
≪この井戸は、「竜の井」と呼ばれ、かつてここに有った善導寺の本堂前に所在した井戸です。善導寺は、元は土橋村と加法師村の間にありましたが、榊原康政が館林城主として入城した際の城下町の整備にともなって、この地に移転しました。移転に際して寺で説教が行われた時、城沼に棲む竜神の妻が美しい女性に姿を変え真剣に聞いていたといわれ、その後、この女性は迷いから救われたお礼として、この井戸に入ってお寺をお守りしたいと井戸の中に姿を消したと言います。・・・・・(後略)≫説明板より。
井戸の脇を抜けて東へ、そして突き当りを左に折れ、約150メートル程行くと十文字交差点に出るのでここを右折して、又東の方向に進みます。交差点の南東側に、国登録有形文化財の毛塚記念館が建っています。
毛塚記念館1.jpg城下町町名表示板(本紺屋町).jpg
(毛塚記念館)                             (城下町町名表示板)
ここは「分福酒造」の店舗になります。建築されたのは、江戸時代末期と云われています。この建物が有る一帯は江戸時代は「本紺屋町」と呼ばれた町人町です。道路を更に100メートル程東に行った右側に、「紺屋町公園」が有り、公園入口に≪「本紺屋町」紺屋とは、藍染めを行う染物屋のことで、この通りに面して紺屋があったことから紺屋町と呼ばれた。≫と記された標識が建っています。館林の街中にはこのような、「城下町町名表示板」がいくつも建てられています。「歴史の小径」の周辺では他に、「谷越町」「肴町」「大工町」「鷹匠町」が、有る様です。
更に200メートル行くと、今度は左手に「外池(とのいけ)商店の前に来ます。こちらの店舗は、江戸時代中期に近江出身の商人が「和泉屋」の屋号で造り酒屋を創業したと云います。現在の店舗は昭和4年(1929)に建てられたもので、格子戸や太い梁が特徴になっています。
その場所から、南に行く細い道を70メートル程入ると、左手に今年(2016年)国登録有形文化財となった、「旧館林二業見番組合事務所」の建物が有ります。
外池商店1.jpg旧館林二業見番組合事務所.jpg
(外池商店正面より)                         (旧館林二業見番組合事務所)
この建物を資料で確認すると、≪昭和13年建築。料亭と芸妓置屋の二業の旧組合事務所。1階正面に唐破風造りの玄関、2階左右にシンメトリーに切妻造りの張り出し。風情が有り、又華やかな外観となっている。≫現在は「本町二丁目東区民会館」となっている様です。玄関脇に置かれたリヤカーが懐かしいです。
この細い道を更に南進すると、館林駅前通り(県道57号)に出ます。丁度その右手角にこじんまりした神社が有ります。境内に「青龍(青竜)の井戸」(青龍神社)の説明板が建てられていました。最初の地点にあった「竜の井」と、この「青龍の井戸」と「城沼」とが一つにつながっていたという伝説が有るそうです。
≪この井戸は、江戸時代に福寿院(現在は廃寺)の境内に有り、伝説によると、延宝年間(1673~1681)に突然清水が噴き上がり、中から女官姿の「青龍権現」が姿を現したことから「青龍の井戸」と呼ばれるようになったといわれています。・・・・(後略)≫説明板より
青龍神社1.jpg青龍神社2.jpg
少し寄り道をしました。元の「歴史の小径」に戻ります。因みのこの細い道は一方通行で、駅前通りから進入する事が出来ます。
「外池商店」前から再び東へ歩いて行くと、道が左斜めに曲っています。
城下町の堀跡1.jpg城下町の堀跡2.jpg
この道が斜めに曲った所辺りが、「城下町の堀跡」に当たり、ここまでが町人が住む町人町で、ここから東が武家屋敷の有る武家地となるのだそうです。
道はその先で突き当り、左にほぼ直角に折れています。道の左手に大きな長屋門が有ります。「鷹匠町長屋門」と書かれた表示板が付いています。この建物自体は、平成21年(2009)に豪農松澤家の門を、移築・復元したものです。
鷹匠町長屋門1.jpg城下町町名表示板(鷹匠町).jpg
(鷹匠町長屋門)                          (城下町町名表示板)
門の前を右に折れると又、東に真直ぐに伸びる石畳の綺麗な小道になります。そこを100メートルも歩くと右の角に、黒塀を備えた建物が現れます。角に案内板が建てられています。≪鷹匠町武家屋敷「武鷹館」≫の説明が記されています。公開日は、土・日・祝祭日という事で残念ながら中には入れません。外から見学して先へ進みます。
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(鷹匠町武家屋敷「武鷹館」)
直ぐ先の左手に「田中正造記念館」が有りましたが、こちらも閉館中となっていました。
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(田中正造記念館)      (歴史の小径を東から西方向望む、正面奥突き当りが長屋門)
道はその先で広い道に突き当たりました。県道7号(佐野・行田線)です。今歩いて来た細い道も、一方通行と成っていて、車の場合は、こちらの県道から進入する事になります。
横断歩道を渡って、この広い道を10メートル北に行き、直ぐ右の細い道に入ります。そして最初の小さな交差点を右に折れると、道の突き当りに現れるのが、「館林城土橋門」でこの「歴史の小径」の終点となります。
館林城土橋門1.jpg
(館林城土橋門)
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(館林城跡   土橋門の中に入った所)
木立の緑の間から漏れる光の中で、静かに江戸の昔に戻されるような空気が流れています。

今回参考にさせて頂いた資料は、この「歴史の小径」を歩いていて、「外池商店」を見ていた時に、お店の方が出来たばかりだと言う「パンフレット」を手渡して下さったものです。
歴史の小径を歩く(館林)パンフ.jpg館林城下町(江戸後期)1.jpg
古地図好きの私にはとても嬉しいプレゼントになりました。又、このパンフレットを携えて歩いて見たい館林の街でした。