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35年ぶりの鎌倉へ [歩く]

梅雨の中休みとなった今日、35年ぶり5回目の鎌倉の街を訪れました。
5回目と言っても、最初の訪問は小学6年の修学旅行で、何処をどう行ったか全く記憶は残っていません。ただ私の古いアルバムの中に、セピア色に変色をした記念写真が2枚、鎌倉大仏の前と海岸の砂浜で江の島をバックに撮影された、6年2組の集合写真が、僅かな記憶を呼び戻してくれるのみです。
鎌倉大仏1.jpg
(青空と深緑とをバックに昔ながらの姿を見せる鎌倉大仏)
今日も昔と同様に大仏前の石段の所で、小学生の一団が記念の写真を撮っている姿が有りました。

2回目と3回目は1977年に訪れていました。6月にアジサイ寺で知られる「明月院」へ、北鎌倉駅から歩いて巡り、鶴岡八幡宮を参拝、参道の段葛を真直ぐに海に向かって歩き鎌倉駅へ。

撮影者1.jpgさざえ壺焼き.jpg
(1977年6月、雨の降る中アジサイを撮るカメラマン)(八幡宮境内で見た「さざえのつぼ焼き」の屋台)
そして11月には、鎌倉駅から「坂東三十三観音霊場」の第一番札所「杉本寺」と鶴岡八幡宮を、参拝しています。
杉本寺1.jpg杉本寺2.jpg
(1977年11月に訪れた杉本寺)
そして前回、35年前の1981年3月には、鎌倉大仏から銭洗い弁天、そして江の島を見物して、帰りは由比ヶ浜の砂浜を歩いて、江ノ電に乗り鎌倉駅から帰っています。

そして今回は初めて車で訪れました。圏央道が東北道から茅ヶ崎の新翔南バイパスまで接続したので、栃木市から2時間半ほどで江の島に行ける様になりました。鎌倉の街中の駐車場では渋滞が心配なので、江の島から江ノ電を利用して鎌倉に向かいました。
35年ぶりの鎌倉はJR鎌倉駅の駅舎も昔の面影も有りませんでした。
鎌倉駅2.jpg鎌倉駅1.jpg
(現在のJR鎌倉駅の駅舎)         (1981年3月撮影時の旧国鉄鎌倉駅の駅舎)
1984年10月に現在の駅舎に改築されました。現在のものは三代目になるそうです。旧駅舎の屋根の上に有った時計塔は、現在駅西口広場に移設保管されていました。
鎌倉駅時計塔2.jpg鎌倉駅時計塔1.jpg
(西口広場に有る旧駅舎の時計塔)   (1981年、旧駅舎の屋根上に建つ時計塔)
     
鶴岡八幡宮の参道「若宮大路」、二の鳥居から段葛を歩いて行きます。段葛もすっかり整備されています。
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(若宮大路に建つ二の鳥居、鶴岡八幡宮社殿に真直ぐと伸びる整備された段葛)
新しく生まれ変わった段葛は、2014年11月1日の起工式から整備工事を始めて、今年3月30日に竣功式と通り始めが行われたばかりでした。

今日の天気は予報通り湿度が低く、陽射しは強いものの、カラッとして海に近い為か涼しい風が肌に心地よく吹き抜けて行きます。
三の鳥居1.jpg
(三の鳥居前から社殿方向を望む。手前に見えるのが太鼓橋です)

段葛から三の鳥居を潜り、源平池に架かる橋を渡る。中央の石造りの太鼓橋は現在は通行が出来なくなっていました。
太鼓橋1.jpg太鼓橋2.jpg
(石造りの太鼓橋)                 (1981年3月、太鼓橋を用心して渡る参拝客)

石橋の脇に架かっている朱塗りの橋を渡って、社殿に向かって進みます。
鶴岡八幡宮1.jpg
(手前が「舞殿」、その後方石段の上に拝殿)
前回来た時までは、社殿に向かった左手石段の直ぐ脇に、大きな銀杏の木がそびえていましたが、平成22年(2010)3月10日未明に強風の為に根元から倒れてしまいました。倒伏した大銀杏の本体(親木)は従来の場所の左隣りに移植されていました
大銀杏1.jpg大銀杏2.jpg
(現在の石段脇の様子。手前に移植された親木)      (1981年撮影時の大銀杏)
元の大銀杏の場所には、残された根から若い木が育ってきています。

鶴岡八幡宮を参拝した後、平日にも関わらず大勢の観光客で賑わう小町通りを抜けて、江ノ電鎌倉駅から長谷駅へ移動。鎌倉大仏と長谷寺を参拝しました。
長谷寺もアジサイの寺としても有名でここも多くの観光客が訪れ、アジサイを観賞するするのに30分以上順番待ちをすることになりました。
長谷寺1.jpg
(長谷寺の山門前)
長谷寺2.jpg長谷寺3.jpg
(本堂への途中、参道脇にかわいらしい石仏)(観音山アジサイの径では多くの種類が観賞できる)

最後に江の島駅まで江ノ電に乗って移動、35年ぶりの鎌倉の街を堪能することが出来ました。
江ノ電2.jpg江ノ電1.jpg
(長谷駅で電車の到着を待つ)         (1981年撮影、江ノ電)

鎌倉の街中散策総歩数は15,000歩でした。


栃木市旭町神明宮境内の石灯籠 [栃木市の神社]

栃木市旭町に鎮座している「神明宮」は、私の子供の頃からの遊び場の一つでした。現在では正月、家族揃っての初詣に行くのが恒例になっています。
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(神明宮参道入口の大鳥居、正面奥に神明宮の社殿を望む)
大きな鳥居を潜って参道に入ると、参道の両側に石灯籠が対と成って、社殿まで4対建てられています。それらの燈籠と少し様子の違う石灯籠がただ一基、丁度手水舎の反対側に建てられています。
神明宮(旭町)2.jpg
(参道車止め前より社殿を撮影。右手手前は手水舎、左手手前が目的の石灯籠)
この石灯籠について、社務所にて配布している「神明宮略誌」の中で、[境内建造物]として、≪琴平宮奉献の石燈籠(亀田鵬斎揮毫)壱基≫と記されています。
神明宮石燈籠1.jpg神明宮略誌.jpg
(琴平宮奉献石灯籠)                       (神明宮略誌の表紙)
この石灯籠について、もう少し細かく見て行きます。上部から順に見て行きますと、
神明宮石燈籠2.jpg神明宮石燈籠3.jpg
(石灯籠の最上部)                  (屋根の部分、上部に文字が確認出来る)
最上部は擬宝珠の形の石が見えますが、石の色や艶の具合を見ると、この部位だけ新しく取り付けられた様です。以前撮影した写真を見ると形が変わっています。
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(昔、撮影した石灯籠、最上部の形状が異なる)
その下の屋根の部分をカメラをズーミングして確認すると、六分割した部分の一つ一つに文字が刻まれています。参道の入口方向を正面とし、時計回りにその文字を読んでみると、「金比羅大権現」と彫られている事が分かりました。
神明宮石燈籠13.jpg神明宮石燈籠14.jpg
①正面部分「金」の文字                     ②正面の左隣り「昆」の文字
神明宮石燈籠15.jpg神明宮石燈籠16.jpg
③「羅」の文字                           ④「大」の文字
神明宮石燈籠17.jpg神明宮石燈籠18.jpg
⑤「權」の文字                           ⑥「現」の文字

屋根の下に「火袋」、その下には龍の姿が刻されています。
神明宮石燈籠4.jpg神明宮石燈籠5.jpg
(屋根の下「火袋」の部分)              (火袋の下側、龍が刻されている)

龍の下側にひとまわり大きく「象」が刻されています。
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(龍の下には、体を丸めて休んでいる「象」が刻されています)

更にその下側の台座の部分、四面に刻された文字を見て行きます。文字は国語の教科書に記されるように、右から左に刻されていますが、その内容は、
まず正面に位置する面、「常明神燈」。その右側面には、「五穀豊穣」
神明宮石燈籠7.jpg神明宮石燈籠8.jpg
(正面:常明神燈)                        (右側面:五穀豐饒)
そして、左側面の文字は「慈航安穏」。そしてうしろ側の面には、「文化十四年丁丑秋九月十日 立之 鵬斎興書」と刻されています。
神明宮石燈籠9.jpg神明宮石燈籠10.jpg
(左側面:慈航安穏)                    (後面:建立年月日と鵬齊の名前)
「文化14年」と言うのは、今から199年前の1817年になります。「鵬斎」とは、江戸時代、化政文化の書家・儒学者で、栃木町に来遊していた様です。
この石燈籠は、台座に刻された日付に有る様に、文化十四年(1817)に建立されたものですが、その後慶応二年(1866)にその下に更に石の台座を組んで高くしていました。
その追加された下の台座には、多くの人名が連ねて刻されています。「太々講中」の文字も読み取る事が出来ました。台座裏面左端の部分に「願主」と有り、少し間を空けて「清水儀左衛門」「押田彌次郎」の名前が確認できます。
神明宮石燈籠11.jpg神明宮石燈籠12.jpg
(後ろ側台座の左隅の「願主」の文字と人名)(台座積石後ろ側左上隅の石に「石工」の名前)
その下台座の石組みの左上端の石の表面を少し削り、「石工」の文字の下側に「野口藤右衛門」「宮田清兵衛」の名前を何とか確認できます。
何気なく見過ごしてしまう石燈籠ですが、ジックリと観察すると、色々と発見が有るものです。

※人名など漢字の判読が難しい所も有り、違っているかも知れませんが。

栃木市境町の中洲親水公園 [栃木市の河川と橋]

今回は、栃木市境町の「中洲親水公園」を紹介します。この公園は私のウォーキングのルートになっています。
巴波川に架かる「巴波川橋」の直ぐ下流部に設けられた瀬戸河原堰にて分流した、瀬戸河原用水(九十九曲り用水)は右岸(西側)の富士見町と左岸(東側)境町との境界と成って南流、「新開橋」の下流部にて再び左右に分流しています。この左右に分かれた流れに挟まれた部分に、昭和62年2月26日「中洲親水公園」が竣功しました。
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(南側から見た「中洲親水公園」、手前の池が「ジャブジャブ池」です)
それまでも草花などが植えられ、季節ごとの花を咲かせていましたが、草木がうっそうとすることも有りました。子供の頃の思い出として、夏祭りの時期にこの中洲で、お化け大会など催されました。
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(昭和53年7月撮影、奥に栃木カトリック教会を望む)
この中洲は南側、栃木駅から県立栃木女子高校方面に通ずる、通称「女子高通り」に架かる「富士見橋」の東橋詰から北に伸びています。
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(公園下流側、女子高通りに架かる「富士見橋」)
以前は他に橋は架かっていませんでしたが、公園として整備された時、北の端に富士見町側に通ずる橋が架けられた事で、中洲を北から南に通り抜けられるようになりました。説明用に又、概略図を作ってみました。
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(中洲親水公園周辺概略図)
公園の東側には尖がり屋根の上に十字架をのせた、「栃木カトリック教会」の建物を望む事が出来ます。
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(1952年の建築となる栃木カトリック教会。教会の東側を通る道路より撮影)
上流側に架かる「新開橋」の上から下流側を望むと、川が左右に分流している事が良く分かります。この二つの流れの間の細長い土地に、「中洲親水公園」が整備されました。
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(上流側に架かる「新開橋」の上から下流側を撮影)
北側の端に架けられた橋を渡って、中洲の中の道を通って富士見橋の東の袂まで約120メートル有ります。途中に休憩用のベンチや、子供がチョッと水遊び出来る「ジャブジャブ池」などが有ります。
中洲親水公園5.jpg中洲親水公園6.jpg
(2016年5月8日撮影)
公園の中ほどに、頭に鳩を載せ、両手を大きく上に広げた子供のブロンズ像が建っています。平成4年「栃木うずまライオンズクラブ」が創立記念として寄贈されたモニュメントで、信田進氏の「なかよし」と題した作品です。
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(ブロンズ像「なかよし」)
時折、この中洲親水公園を通って行く観光客の姿を目にすることが有ります。


栃木市鍋山の石灰工場を見学しました [自然の恵み]

昨年開催された栃木市の市民大学講座のひとつ、「石灰を通して見る栃木」というテーマで、栃木の地場産業の一つと成っている、栃木市北西部寺尾地区に有る石灰産業発生の歴史に付いて、講師のお話を聴講しました。そして本日は実際に石灰を採掘し多くの製品に加工して販売している、石灰工場を訪問して話を聞くと言う、現地学習に参加して来ました。
始めに工場長さんから「石灰とはどの様な物質なのか」、実際に目の前で実験をして、生石灰に水を加えると激しく反応して発熱・膨張する。加える水に或る物質を混合させてやることで、反応を遅らせ、反応を持続させられるなど、反応をコントロールすることが出来る。そしてこのような性質を利用した商品が、私達の身の回りの色々な分野で、活用されている。との説明が有りました。
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(生石灰の性質を説明する為の、簡易実験を見せてくれる)
これまで石灰と言うと、古くは漆喰壁用として、その後肥料・農薬、それからセメントの原料(お隣佐野市の旧葛生町を通る時、セメント会社の名前を大きく記したプラントを眼にして、理解してました。)程度の認識しか持っていませんでした。
又、今回の説明の中で、「上部石灰」とか「ドロマイト」などの名前が出て、理解が今一つ出来ていません。どうやら鍋山周辺の山は、断面すると表面の土の下に、「上部石灰の層」「下部石灰の層」「ドロマイトの層」などが地層を成しているのだそうです。石灰石とドロマイト石を比較すると、外観的にも色合いが異なり、石灰石が白く、ドロマイト石は少し暗緑色をしている。これらの石に一滴の希塩酸をかけてみると、石灰石は直ぐに反応して泡が発生した。一方ドロマイト石は泡がチョボチョボとしか発生しない。こう実験してその違いを説明してくれた。
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(右白い方が石灰石、左暗緑色の方がドロマイト石)
石灰石(炭酸カルシウム)の成分は、54%〜55%が酸化カルシウム・残り炭酸ガス44%。
ドロマイト石は、酸化カルシウム35%・酸化マグネシウム約18%・炭酸ガス46%と、炭酸ガスが2%ほど多い。
「石灰石」に熱を加える(900℃以上)と、中に含まれている炭酸ガスが空気中に出て、残るのは酸化物(酸化カルシウム)となる。これが「生石灰」 反応性が非常に高い性質を持つ。その為生石灰に水をかけてしまうと、爆発的な反応を起こして飛び散ると言います。
「消石灰」はこの「生石灰」を水和消化し、製灰・粒度調性をして製造されたもの。
これまであまり縁の無い物質の名前で、理解が困難でしたが、それらの物質が「大気汚染対策」や「鳥インフルエンザの消毒」「酸性雨対策」などにも、活躍している事を知る事が出来ました。

説明は1時間以上に及びましたが、鍋山石灰の歴史、時代背景で一時は消費が低迷した厳しい時期を乗り越えて来た事。製造の工程など興味深い話に、引き込まれ時間を忘れさせるほどでした。

説明の後はヘルメットを付けて、製造現場の見学へ。
グランドキャニオンの様に、採掘で切り立った石灰岩の山肌が前面に広がります。私が若かった頃、尻内から葛生町へ峠越えで行くと、峠を越えた先の前方の岩肌の露出した山の中腹にいくつも大きな穴が見えました。この穴は昭和50年以前、良い成分の鉱床部分だけ採掘する、「トンネル掘り」の跡。その方法では増加した需要に生産が間に合わなくなって来た為、昭和50年以降は露天掘りとして、ベンチカット(階段掘り)法に変え、大量に採掘が出来る様になったという事で、前面には正に階段状に掘り進められた採掘現場が広がり、大型の重機が岩を砕く様子を見る事が出来ました。
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(ヘルメットを付けて説明を受ける)
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(採掘現場、手前の水溜りは採掘跡に雨水や地下水などが溜まったもの)
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(階段状に採掘がおこなわれている)
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(採掘場で石灰岩を砕く重機)
直径50センチメートル大の石を山から採掘して、それをジョークラッシャー(粉砕機)に入れて、100ミリメートル以下の粒度に変え、篩分けを行う。次に、1100℃〜1200℃の工業炉にて6時間程焼成し、炭酸ガスがほぼ全量取り除く。その為の工場建屋が県道の両側に立ち並んでいる、運搬するベルトコンベアーが縦横に走る。
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(山際に立ち並ぶ石灰石を破砕焼成を行う工場建屋群)
寺尾地区の三峰山(鍋山)の西麓から南、佐野市旧葛生町喜多山にかけて多くの石灰工場が日々大量の石灰石を採掘しています。
栃木の市街地から望める鍋山は変わらぬ姿を見せていますが、その裏側では大規模な採掘が進んでいる事も、今回改めて認識する事が出来ました。遠い将来はこの風景も変わって行くのかも知れません。
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(県道202号仙波鍋山線の鍋山から仙波に抜ける山道から見える採掘場)

※今回の工場見学をさせて頂いた会社は、鍋山の石灰工場で一番早く、嘉永4年(1851)創業した「田源石灰工業株式会社」さんです。詳しく説明して下さり大変勉強になりました。そして石灰石の有効性に改めて感心を致しました。

うずま公園と瀬戸河原公園を渡す巴波川の「公園橋」 [栃木市の河川と橋]

栃木市街地の中央を流れる巴波川に、公園内の橋としては立派過ぎると思える橋が架けられています。
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(回遊型双子橋の「公園橋」)
橋名はシンプルに「公園橋」です。巴波川の左岸(室町側)の「うずま公園」と、右岸(境町側)の「瀬戸河原公園」との間に架けられています。

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(「うずま公園」東側入口、子供の遊具の左奥に「公園橋」が有ります)
栃木市のホームページによると「うずま公園」は、≪市の中心部、栃木都市計画瀬戸河原公園の東側に位置した、南北70メートル、東西45メートル、面積2,608㎡の広さが有り、芝生広場・噴水池・時計塔・トイレ・水飲み・ベンチ・ブランコ・滑り台・砂場を備え、市民の慰楽と健康の増進に利用されている。≫
公園が造られているこの場所は、北から流れて来た巴波川の流れが、ひらがなの「し」の字の形の様に、大きく蛇行した内側に当たります。明治11年11月新政府の、「郡区編成法」が施行され、都賀郡が上都賀郡・下都賀郡に分けられ、下都賀郡役所の庁舎が栃木町のこの地に、明治16年10月建築されています。
その後、昭和46年2月18日、下都賀郡役所のあと栃木県庁下都賀庁舎として使用していたものを、神田町に移転した事で、跡地の南側を室町駐車場とし、昭和52年11月4日北側部分を、「うずま公園」として整備開園していました。
1966年4月室町付近の巴波川.jpg2015年4月室町付近の巴波川.jpg
(1966年4月撮影、現在の室町駐車場に建っていた、栃木県庁下都賀庁舎)
うずま公園の南隣り、室町駐車場中央部の木立の下に、1基石碑が建っています。
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(室町駐車場の中央部に有る、「幕末志士西山謙之助の遺跡」と刻された石碑)
石碑には、幕末志士西山謙之助の遺跡」と刻されています。碑陰は背後の木が邪魔して確認できません。石碑の脇に説明の立札が建っています。最近は石碑を雨露から守る屋根が設けられました。今もまだ石碑を守っている方が居られると思うと、感激します。

「瀬戸河原公園」については、栃木市ホームページの情報によると、≪市街地のほぼ中央を流れる巴波川の一部河川敷を利用したもので、公園の三方は巴波川に囲まれている。昭和63年度から平成2年度にかけて、自治省のふるさとづくり特別対策事業として、うずま公園と合わせて再整備が行われました。芝生広場・トイレ・水飲み・四阿・ベンチ・文学碑・滝型噴水・滑り台・スプリング遊具・砂場・のぼり棒・雲梯が有り、広さは「うずま公園」よりは狭く、1,505㎡となっています。≫
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(「瀬戸河原公園」西側入口、右奥が「うずま公園」に渡る「公園橋」)
「瀬戸河原公園」の方が早く設置されましたが、何時かは確認できませんでした。ただ公園西側の富士見町側から公園に渡る為の橋が架けられたのは、昭和42年8月頃、長さ9メートル、幅2メートルのコンクリート橋で、橋の中央部に踊り場を設けたモダンな橋でした。この橋が架けられる前は、南側の境町側からしか公園には行けず不便だったようです。この以前の橋は再整備の際に、現在の「瀬戸河原橋」に架け替えられました。
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(1980年撮影の前の「瀬戸河原橋」と幅が広くなった現在の橋)

文章での説明では、ロケーションが上手く説明できないので、公園橋周辺の様子を概略図にしました。
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(「公園橋」と「瀬戸河原公園」「うずま公園」周辺の概略図)
巴波川の流れと二つの公園と周辺の架橋状態が分かり易くなったかと思います。

昭和52年11月に「うずま公園」が出来た時に、巴波川右岸(西側)の「瀬戸河原公園」との連結を計る為、最初の「公園橋」が架けられましたが、歩きや自転車で渡る程度の橋でした。
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(1980年撮影の最初の「公園橋」と、現在の「公園橋」)
平成3年2月25日に再整備された「うずま・瀬戸河原公園」の完成を祝う地元自治会主催の祝賀会が、約150人の参加者にて行われました。新しく整備された公園の中心となるのは、回遊型双子橋の立派な「公園橋」です。うずま公園側には水辺に降りられる親水護岸を設け、瀬戸河原公園側には百八燈流しをレリーフした滝型噴水を設けています。
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(下流側公園橋から「瀬戸河原公園」側の百八燈流しのレリーフ)

先日、うずま公園を訪れた時は、この公園橋の親水護岸が「舟のりば」となっていて、大勢の団体観光客の方が、舟による巴波川観光を楽しんでいました。通常は上流側「塚田歴史伝説館」の長い黒塀と土蔵群の脇の巴波川で運航されていますが、昨年9月の洪水の影響で流入した土砂と、最近の水不足の影響で水位が十分に確保できない為、うずま公園周辺に変更されている様です。その時々の川の水位の様子を見て、運航場所を変えて営業している様です。船頭さんの唄う声が、公園の中に流れています。
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(「公園橋」の上より、巴波川の上流側を望む。奥に見えるのは「巴波川橋」です)
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(百八燈流しのレリーフを説明する船頭さん)

公園内には栃木市内の多くの場所で目にする、山本有三先生の文学碑や、元栃木市長の「金子益太郎翁顕彰之碑」も見る事が出来ます。
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(公園橋西側中央部に設置された山本有三文学碑)(金子益太郎元市長の顕彰碑)
天気の良い日には、御近所の老人達が集い、お話を楽しんだりベンチに座って休んでいる姿が有ります。公園の遊具で遊ぶ子供達の姿を見る事が出来ないのは、少し寂しい気がしました。

栃木県民の日 [祭]

栃木県民の日は、6月15日水曜日です。平日という事で昨日(11日)と今日(12日)の二日間、県内各地でイベントが開催された様です。私の地元栃木市においても、「県名発祥の地 十千木縁日」と銘打って、多くのイベントが企画されました。
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(イベント会場となった「とちぎ山車会館前広場」)
私も、「とちぎ山車会館」や「とちぎ蔵の街美術館」の入館料が無料になるという事で、「無料」という言葉に誘われて、イベント会場である「とちぎ山車会館前広場」まで出かけて来ました。
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(入館料が無料となった「とちぎ山車会館」と「とちぎ蔵の街美術館」)
私が興味が有ったイベントは、「栃木の歴史写真パネル展示」でした。片岡写真館所蔵の明治期の栃木市街地各所を撮影した写真と合わせ、現在の姿を比較して観賞できるように展示されていました。栃木県内で最初の写真館が栃木で営業をした御蔭で、今もこうして自分が育った町の歴史を写真で目にすることが出来るのは、恵まれたと思います。
「とちぎ山車会館」の中は、撮影が出来ませんでしたが、展示物や秋祭りの人形山車の映像をゆっくりと堪能出来ました。又、山車会館前のイベント会場には、栃木市のゆるキャラ「とち介」君も姿を見せていました。
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(栃木の歴史写真パネル展示)                (イベント会場に「とち介」君の姿も)

6月15日が栃木県の「県民の日」と制定された由来について調べて見ると、「栃木市史 資料編 近現代Ⅰ」(昭和56年3月31日発行)の第一章「栃木県設置」と言う項目に、江戸から明治に世の中が変わる時代、政治・行政のしくみが、新しく変わる中で、「栃木県」が生まれる経緯が、その章の冒頭部分「概説」に表わされていました。
「概説」には、≪慶応4年(1867)鳥羽伏見の戦いに始まる戊申戦争は下野国へも波及し、・・・・(中略)・・・・明治4年4月1日出庁を栃木町にうつし、定願寺に日光県出庁を設け、間もなく県号を栃木県と改めたのである。≫と記され、ここで「栃木県」の名称が初めて表れました。
明治4年(1871)の廃藩置県で、旧栃木県と宇都宮県の2県となり、明治6年(1873)6月15日にこの二つの県が合併して、ほぼ現在の栃木県の形が誕生したのです。この合併日「6月15日」を栃木県の誕生した日として、県民の日と制定されたのでした。

6月15日の「県民の日」当日にも、栃木県庁をはじめ県内各所にて、イベントが開催される様です。時間が有ったらどこか参加したいと思います。
今日の帰路、嘉右衛門町にて、通りを走る懐かしい「ボンネットバス」に行き合いました。これも今回のイベントの一つで、バスの窓から乗っている子供達の元気な声を残して、バスは通り過ぎて行きました。
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(嘉右衛門町通りを走る、昔懐かしいボンネットバス)

栃木市街地に有った建物 [懐かしい写真]

今回は以前栃木の市街地で見かけた建物で、現在はすでに無くなって、見る事が出来なくなった写真を紹介したいと思います。これらの写真は私が40年ほど前に撮影をしたものです。
最初は旭町の神明宮参道、現在の蔵の街観光館脇の道を入った左手に有った、通称「蔵のアパート」です。
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(蔵のアパート、道路正面突き当りが神明宮)
この写真の建物は、栃木市出身で長崎市に住んでいる田村家の方が、平成4年5月に栃木市に寄贈されました。明治40年発行の「栃木県営業便覧」を調べると、大通りの神明宮入口左側の角、現在の蔵の街観光館の場所に、「麻荒物商、八百屋号 田村金五郎の名前が記されています。通称「八百金」と呼ばれていたそうです。大通りに面した見世蔵を現在観光案内や物産店とし、その裏に続く土蔵群は整備してお食事処や多目的ホールとして活用。栃木市の観光拠点の一つに成っています。
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(左手前の土蔵が現在の「蔵の街観光館」)(現在は綺麗に生まれ変わった土蔵群)

参道を神明宮に向かって進むと、鳥居を潜った先、やはり左側に有ったのが、藤沼写真館の建物です。
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(藤沼写真館)
神明宮に詣でる時には、この前を必ず通りお店の前のショーウインドウに飾られた写真を眺めるのも楽しみでした。七五三祝いの記念写真などが飾ってありました。

神明宮に隣接する第二公園の南側に有る、三鬼尊で有名な万福寺北側の築地塀です。
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(万福寺の築地塀)
この築地塀とその奥の竹林が、落ち着いた風情を漂わせていて、私の好きな風景でした。何度も足を運んでは、同じ風景を撮影していました。
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近龍寺の南門から神明宮の大鳥居の前を横切って南に抜ける道路と、東銀座通りとがぶつかる角に、昔「勧工場」と呼ばれた建物が有りました。
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二階窓の鎧戸が珍しく感じて、写真に収めました。

煉瓦造りの倉庫と思しき建物の写真、撮影場所が今一つはっきりしませんが、倭町の大通りから西に入った道路沿いに有った記憶が残っています。
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(煉瓦造りの倉庫)
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(ドアの取っ手や蝶番のデザインが面白い)

今ではすでに姿を変えたり、取り壊されて無くなっています。
最近、栃木の街の中を歩いていると、空き地が増えて今まで見えなかった風景が現れたりしています。何時も脇を通っていたのに、無くなってしまうと時々、ここにはどんな家が有ったのか思い出せない事が有ります。そんな昔の事など知らない若い人たちが、どんどん増えているのでしょう。
今回紹介した建物なども、昔はどんな様子だったのか、私にも分からないのと同じように。






都賀町原宿桜内辺りまで足を延ばす。 [歩く]

昨日は曇り空だったので、久しぶりに昼を回った頃、ウォーキングに出かけました。
栃木総合運動公園のベンチで、コンビニで買った菓子パンで腹ごしらえをして、いざ出発。
運動公園の西側を南北に走る道路が、現在真直ぐに北に抜けて、都賀町木にて南南東方向から北上してきた県道37号線(栃木粟野線)に合流します。栃木市の地図を見ると、運動公園西側から来た道路も、県道37号線の表示になっています。旧道と新道と言う関係でしょうか。
田圃の中を真直ぐに抜けている新道を野中町から川原田町に入ります。進行方向左前方に、吹上小学校が現れます。
前方道路右脇に小高い小丘が有ります。雑木が生い茂って中に立ち入れませんが、この丘の上に三角点が有るようです。まだ確認した事が有りませんが。
左手(西方向)に低い山なみが北に伸びています。南側の端に少し高くなっている所に鉄塔が見えます。山の名前は「鴻ノ巣山」です。この山の南麓には現在「吉野工業所栃木事業所」が経っています。又、戦国時代には皆川藩の支城「吹上城が、南東中腹(現在は吹上中学校となっている)に築かれていた所です。
新県道37号の歩道から望むとその西側の山並みの手前を東北自動車道が走り、多くの車が走って行くのが見えます。
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(左手に吹上小、前方の森は三角点の有る小丘)(奥が鴻ノ巣山、手前に東北自動車道)
真直ぐ伸びる道路を北上、栃木市木野地町から栃木市都賀町木に入った右手に長方形の大きな灌漑用ため池が見えます。「赤津南部土地改良区荒川第2号ため池」です。このため池の東側を今歩いている道路とほぼ平行するように、荒川が北から南に流れているのでした。
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(荒川第2号ため池)      (この付近の水田、何故か赤く染まっている。赤津だから?)
更に歩を進めると、栃木都賀ジャンクションの直ぐ東側で、北関東自動車道の下を潜り、その先で旧道との合流点になります。合流点の都賀町の「木の北」で、県道37号を横断して、脇道を選んで歩きます。
脇道に入った所で墓地の有る広場に出ます。「木の北公民館」の手前に、庚申塔や十九夜供養塔など建っている中で、「太子堂跡」と刻した新しい石碑が目に留まります。碑陰に刻まれた文によると、現在この地の西方の山の中腹「つがの里」に建つ「観音堂」は、2000年にこの場所から移築をしたと記されています。
太子堂跡から先に進み、愛宕神社の東側の道を北上していくと、信号機の有る交差点に出ます。
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(木の北集落に建つ「太子堂跡」の碑) (都賀町木の県道脇に祀られた愛宕神社、東方より)
この交差点を東西に走る道路は、県道288号(大橋家中線)で、真直ぐ進むと赤津小学校の正門脇に行きますが、この交差点を右折して、東方向に見える大きな建物「都賀地区ライスセンター」の北側に有ると言う、「赤津TBGコース」へ寄って見る事にします。「TBG」とは、「ターゲット・バードゴルフ」の略で、ゴルフボールにバトミントンの羽根を付けた様な合成樹脂製の「シャトルボール」をクラブで打って、コウモリ傘を逆さに立てた様なホールに、何回で入れられるかを競う、ゴルフをミニ化した様なスポーツの様です。
私はゴルフもしないので良く分かりませんが、行って見ると平日にもかかわらず十数名の人達がプレーしていました。
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(赤津TBGコース)        (コウモリ傘を逆さに立てた様な、TBGのホール)
少し見ていると、ボールに羽根が付いているので、打っても思うように飛ばず結構難しそうです。ここは赤津TBG協会が設置している常設コースで、他にゲートボール場も併設されていて、駐車場やトイレも完備している様です。
コースの東側の木立の中に石碑らしき物を見付けたので、近くに行って見ました。一つは自然石に水神と刻まれているのが確認できますが、碑陰の文字は判読が困難でした。すぐ隣の石碑には、碑文を記した銅板に「荒川用水土地改良事業〇〇〇〇施設竣工記念」と題し、事業内容が刻されています。更に少し離れて新しく大きな石碑が建っています。「県営圃場整備事業赤津北部土地改良工事竣工記念」の題字の下に、「台地の恵みここに結集」と大書され、更にその下に「事業沿革」や「事業概要」が記されています。
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(荒川の流れの脇に立てられた石碑。後方に赤津TBGコースを望む)
石碑の直ぐ北側には、先ほどのTBGコース北側で直角に流れを変えて東に流れる荒川が有りました。
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(石碑の北側を西から東に流れる荒川。前方にTBGコースでプレーする人達が見えます)
ここまで1時間程歩いて来たので、これ以上先に行くのを止めて戻る事にします。来た道は戻らず少し東側へ進みます。途中桜内公民館の傍、荒川に架かる「大田橋」を撮影します。荒川には多くの橋が架かりますが、橋名の分かるのは少なく、この橋も県道に架かる為、橋桁に銘板が有りました。
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(荒川に架かる「大田橋」東橋詰より)    (「大田橋」の橋桁に取りt蹴られた銘板)
県道288号を東に歩き、桜内十文字の先で斜め右に入る脇道を選び、さらにその先で真直ぐ南に下がる道を進みました。この辺りの畑には今、夏蕎麦の白く小さい花が咲いている所が見受けられました。
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(原宿周辺の畑一面に、ソバの白い花が咲いています)
北関東自動車道の下を抜けて、南側に出て、都賀文化会館や公民館の南東側交差点を右折して都賀町家中の中新田から、東武日光線の線路西側の道路を線路に並行して南へ合戦場方向に歩きます。この線路際の道路は「栃木市ウォーキング大会」の30キロメートルコースに当たり、これまで3度歩いた道路です。
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(東武日光線西側の薬師堂と黄金色のスペーシア)   (2両編成がローカルらしい)
合戦場駅の北側付近で西側の川原田町の住宅地内の道を選びました。巴波川の上流域で、「二股橋」上流で北東方向からの流れで白地沼からの流れに合流する支川がこの住宅地内を流れています。この流れを追うように歩いて見ました。
最後は県道37号(旧道)に出て、一路栃木市街地に向かって歩きました。
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(二股橋を北方向から撮影)     (新蟹田橋からの巴波川。左後方雷電神社の森)

本日の総歩数は22,295歩、約15キロメートルのウォーキングになりました。


栃木市街地、すっきりと綺麗に [懐かしい写真]

今回も私のアルバムから、昭和54年(1979)栃木市の駅前大通りから銀座通りにて撮影した写真です。今から37年前という事で、大きく変わってしまった所は有りませんが、大通りは電柱の地中化や商店街のアーケード撤去が行われ、街並みがすっきりとなり、空が広がって綺麗に感じる様になりました。
しかし、最近は大通りもミツワ通りもすっかり人影も無くなってしまい、寂しい限りです。
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(1979年栃木駅前大通り。正面突き当りが栃木駅)
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(栃木駅前は、駅舎が高架駅に又周辺の建物も、三階・四階のビルに建て替えられました)
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(1979年みつわ通り商店街入口。左側がイトーヨーカドー栃木店)
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(みつわ通りの入口付近、以前はイトーヨーカドー周辺は自転車が溢れていましたが。)
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(1979年、沼和田用水。奥に見える橋が南関門通りの「片柳橋」)
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(現在の「片柳橋」付近。橋の高欄も新しくなりました。右側は駐車場に変わりました)
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(1979年の栃木警察署前の大通り。「ヤオハン」や「鯉保」の文字を確認できます)
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(現在の旧栃木警察署前付近。今右側警察署跡地活用の検討が進められています)
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(足利銀行栃木支店前より、西銀座通りを撮影。歩道には自転車が溢れています)
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(栃木商店街の中心「西銀座通り」も、今は自転車も人影も消えてしまった様です)

これから20年後、30年後、この街並みはどんなふうに変わって行くのか。

変わる栃木の街(1981年の2枚の写真) [懐かしい写真]

1981年のフィルムを整理していたら、懐かしい写真が目に留まりました。
一枚は、現在「ALWAYSカマヤ」と言うレストランとして活用されている建物の写真。撮影をした当時は栃木市の教育委員会庁舎でしたが、元は昭和9年(1934)に足利銀行栃木支店として建てられたものです。
昭和48年(1973)から平成16年(2004)まで教育委員会庁舎でしたが、その後一時空き家になっていました。解体する話も有りましたが建物を活用する為、公募によって地元老舗のうなぎ屋「釜屋」が、フレンチと和とを融合した食事を提供するレストランをオープンしました。
お店の名前「ALWAYSカマヤ」は2005年に公開された映画「Always三丁目の夕日」の撮影ロケ地となった事に因み付けたと言われます。
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(栃木市教育委員会の庁舎だったころの写真)
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(レストラン「ALWAYSカマヤ」となっている現在の写真)
もう一枚は上記場所の南側、現在は栃木市役所にもなっているビルの建つ場所の、1981年当時の写真です。手前の商店に、「洋品の大谷」の名が確認できます。
平成2年(1990)に福田屋百貨店のビルが建てられ、古い商店街の風景が一変しました。その福田屋もお客さんの減少に、平成22年(2010)閉店を決定、その後市街地の活性化を図るものとして、平成26年(2014)栃木市の市役所新庁舎として生まれ変わり、現在に至っています。
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(福田屋百貨店のビルが建つ前、洋品店と酒店が写る写真)
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(1階に東武百貨店も入っている、栃木市役所の新庁舎。)
福田屋百貨店については、一つ思い出が有ります。開店した当時に家族で買い物に出かけた時、私が1階フロアーの椅子で待っていた時、目の前のエスカレーターが急に停止したのです。そしてその場には警備員の方と私の息子が立っていました。警備員さんの説明に依ると、小さい子がエスカレーターのベルトに触って遊んでいて、その手が挟まれそうになったので、緊急停止ボタンを押して停めたのだそうです。その後店舗の奥に行って怪我をしていないか確認、幸い問題は無かったのですが、開店して最初にエスカレーターを停めてしまったのでした。今では遠い昔の話になってしまいました。