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岡田記念館(代官屋敷)の翁島別邸を巡る [建物]

栃木市嘉右衛門町の地名ともなっている、岡田嘉右衛門家は、現在の当主が26代という、栃木市屈指の旧家です。旧日光例幣使街道の栃木宿の北の木戸外に位置し、街道に面した屋敷は畠山氏の陣屋が設けられ、代官職も代行しました。この街道沿いの屋敷は現在「代官屋敷 岡田記念館」として公開されています。
岡田記念館1.jpg
(旧日光例幣使街道に面する、岡田記念館。手前右が入口となる大門)

昭和53年(1978)6月1日から9月30日までの4ヶ月間、東京を中心として社団法人栃木県観光協会が主体となり展開された、「栃木の旅」特別キャンペーン「やすらぎの栃木路」に合わせて、岡田氏が所有する土蔵三棟を「岡田記念館」として、栃木市内の民間施設として初めて開館しました。
翁島別邸もこの時一緒に公開されました。その時私も初めて記念館と翁島別邸の中に入りました。
理髪店外観1.jpg理髪店内1.jpg
(傷みの有った外観が修復された「理髪館」)   (明治時代から営業された理髪店内)

今回38年ぶりに訪れましたが、記念館の方は明治時代からの理髪店跡なども公開され、更に充実していた為予想以上に見学時間が長くなってしまいました。
翁島入口.jpg
(翁島別邸入口の門)
翁島別邸主屋.jpg
(国登録有形文化財となっている翁島別邸)
記念館から少し離れた巴波川左岸の翁島別邸の見学は、他の6名の方達と一緒に説明を聞いて巡りました。説明された女性の流暢な話。一人でただ見て回ったら気付く事の無い建物の細かい説明を丁寧にして下さいました。
翁島別邸内1.jpg翁島別邸内2.jpg
(一階座敷内の様子)
翁島別邸内3.jpg翁島別邸内4.jpg
(二階座敷内の様子)
長さ六間半、幅三尺、厚さ一寸と言う檜1枚で出来ている廊下。この廊下の材料の値段だけで家一軒が建つと言います。吉野杉の絞り磨丸太の床柱。紅葉の玉杢の床板。紫檀の違い棚。障子の桟の角も丸めて有る等、細かい所にも職人の技が多く使われ驚くばかりです。
翁島1.jpg翁島2.jpg
(襖の引き手金具の七宝焼き)      (照明器具の竹あかり)
多くの説明を聞いても感心をしながらも、凄いものだと分かるだけで、一つ一つの事は記憶に残念ながら留まってくれませんでした。
ひととおり家の中を見学した後は、外に出て庭を散策してみました。この翁島別邸の主屋と裏手に建つ土蔵は、国登録有形文化財となっています。
翁島別邸南面.jpgギアマンガラス越しの庭園.jpg
(庭に面する場所は一面「ぎやまん」のガラス戸がはめられています。)

主屋は、瓦葺で大正13年に第22代当主が、70歳を迎えた折り別荘建築を発起、隠居所として建てられました。L字型平面で一部が2階建てになっています。桟瓦葺です。
庭の中央に大きな池が造られ、以前は屋敷の南側を流れる巴波川から水を取り込めるようになっていましたが、その為に昨年9月の台風に依る大雨による巴波川の増水で、翁島全体も浸水してしまい、池で飼っていた多くの錦鯉を失ってしまったとの事です。
翁島庭園の池.jpg
(緑の木々に包まれた庭の中央に造られた池。)
翁島庭園竹林.jpg
(真直ぐに天を突く竹林を見ると、気持ちもスッと真直ぐに)
又入口北側の茶室は床上まで浸水した為、畳を全て交換する被害だったそうです、幸い文化財の建物は高床になっていた為、被害は少なかったと言う事です。
池に架かった石橋を渡り緑に囲まれた空間に身を置くと、自然と気持ちが穏やかになるのを感じます。庭の南西側には立派な竹林が見られました。
今回久しぶりに、翁島の中を見学させてもらいましたが、翁島周辺は私の散歩エリアーですから、四季を通じて巴波川の対岸から翁島を眺めています。翁島周辺全体が今も風情のある景色を見せてくれています。
翁島竹林と沖の橋.jpg
(巴波川対岸に翁島の竹林を望む。奥の橋は上流側の「沖の橋」です。)
翁島と巴波川.jpg
(翁島の南側で大きくカーブする巴波川。奥の橋は下流側の「嘉右衛門橋」です。)
翁島東側路地.jpg
(翁島入口前で北に折れる細い路地は、嘉右衛門町通りの西側を並行に走る)
翁島北側路地.jpg
(翁島の北側を通る路地。左側、細い川を挟んで茶室が見えます。)
岡田記念館&翁島概略地図1.jpg
(岡田記念館と翁島別邸の概略地図)




真岡市街地の行屋川沿いを歩く [歩く]

今日は、小雨が降る天候で、ジッとしていると少し肌寒さを感じる陽気でした。傘を差して歩くのは少し面倒くさいのですが、暑い最中に歩くより負担が少ないので、以前より歩いて見たいと思っていた、真岡市の行屋川沿いを歩く事にしました。
車は市民会館の駐車場に置かして頂き、まずは近くの国登録有形文化財「久保講堂」を見る事にしました。久保講堂前庭に「久保講堂移築記念の碑」と、分厚い本を開いた形の碑のページの表面に刻まれています。
久保講堂1.jpg久保講堂2.jpg
碑文には≪この講堂は昭和十三年五月 久保六平翁が八十歳を記念し 当時の真岡尋常高等小学校に 四万八千円の巨費を投じて建築し 寄贈されたものであります。 設計は米国の著名な建築家フランクロイド・ライト博士の高弟 遠藤新博士でありました。機能的な建築は永続する というライト博士の言葉とおり この講堂は 久保講堂 と称され 真岡のみならず 芳賀地方の教育文化の殿堂として その役割を果たし 幾多の歴史を刻んでまいりました。その間 体育館の新築により 取り壊しの運命に直面したこともありましたが 学術的にも また 芸術文化施設としても 高い利用価値を有する貴重な建造物でありますので この講堂を愛する多くの市民の願いもこめて ここに移築保存するものであります。  昭和六十一年六月 真岡市長 菊池恒三郎≫と記されていました。
次に、行屋川沿いを歩く事にします。
行屋川は真岡市の中央をほぼ北から南に貫流する「五行川」に、市内田町にて右岸より合流する小河川です。市民会館から少し西に歩くと、五行川に架かる「長瀬橋」の東橋詰に出ます。橋を渡った南西部に真岡市役所の建物が見えます。この橋から川沿いを流れに沿って500メートル程行くと、「田町橋」に出ます。
長瀬橋1.jpg田町橋1.jpg
橋を渡って直ぐ川沿いの道を左に折れると100メートル程で五行川と行屋川との合流点に突き当たります。道はここで右に直角に折れ、こんどは行屋川に沿って遡る事になります。
五行・行屋川合流点1.jpg行屋川最下流域.jpg
又100メートル程歩くと「行屋新橋」と名付けられた橋の北詰に出ました。市街地中央を東西に走る県道47号線の行屋川に架かる橋の名前は「行屋橋」となっていますので、当然名前の通りこちらの橋は比較的新しく架橋されたものと思われます。この「行屋新橋」直ぐ上流側に「女体橋」が有り、昭和20年代には「行屋新橋」はまだ架橋されていません。上流の「女体橋」と言う名前は、この橋の南西橋詰に祀られている、「熊野女体神社」から命名されたものと想像されます。
行屋新橋1.jpg女体橋1.jpg
「行屋川」の川筋は現在1300メートル程で、上流は現在暗渠化されて住宅街を抜けている様です。県道46号線が渡る行屋川の橋は高欄も親柱も無い鉄パイプの柵が設けられている程度ですが、行屋川はこの地点より暗渠から抜けて、地表に川筋を現します。ここから300メートル程西に流れ、般若寺の北西部にて向きを90度南に変えて、真岡城址の東側を先ほどの女体橋まで来て、五行川に落ちています。その位置関係で見ると正に真岡城の堀の役目を果たしていたのか、川の護岸の石積みを見ても城壁の様です。
川護岸の石積1.jpg川沿いの遊歩道1.jpg
女体橋の直ぐ又上流部に「常盤橋」が有ります。この橋の架かる道を西に400メートル程行った所が、蒸気機関車が動態保存されてる真岡鉄道の「真岡駅」になります。
ここは行屋川に沿って歩きます。常盤橋から250メートル遡ると朱色に塗った欄干、親柱の上に擬宝珠を備えた「施無畏橋」の前に出ます。橋の西詰正面に立派な山門が建っています。山門の横に建つ案内板に依ると、ここは梵音山真岡院海潮寺(ぼんおんざんしんこういんかいちょうじ)」と称する曹洞宗の寺院で、御本尊は十一面観音との説明が記されています。屋根瓦には大谷石が用いられている特色のある山門に成るそうです。
施無畏橋1.jpg鯉料理店1.jpg
鯉料理の看板の有る料亭の脇を抜け100メートル程で、メイン通り県道47号に架かる「行屋橋」の前に出ます。
行屋橋1.jpg行屋橋2.jpg
この「行屋橋」の北西側には「城山公園」が有り。橋詰には「高札場」も復元建てられていました。
行屋川右岸沿いの「行屋川水辺公園」の中の道を川に沿って北へ進みます。緑の桜の木の中を200メートル行くと「城山橋」が有ります。橋の高欄には桜の花が描かれています。今度は桜の時期に訪れてみたいと思います。
城山橋1.jpg城山橋2.jpg
近くの幼稚園からでしょうか、元気の良い子供達の声が聞こえてきます。行屋川は大きく右に折れます。緑色一色の木々の中に、黄土色に塗られた「静風橋」が現れました。周りの緑との対比が快い色合いです。
橋の上流にめずらしい川の風景が有りました。行屋川右岸から合流してきた水の流れを、行屋川に直接落とさず、高速道路合流点の進入路の様な区割りを設けて川の水を制御しています。行屋川の静的な流れに対して、合流してきた水は激しく波立ち、その対比も面白いです。
静風橋1.jpg静風橋2.jpg
1.5キロメートル弱の行屋川沿いのウォーキングでしたが、川沿いの遊歩道も整備され、又歩いて見たい場所でした。


1979年6月3日鍋山石灰工場を歩く [石碑]

栃木市の市街地から北西の方向を望むと、鍋を伏せたような形を見せる山が有ります。標高605メートルの「三峰山」です。この山はその形から通称「鍋山」と呼ばれています。この山を境にして北側は鹿沼市(旧上都賀郡粟野町)になっています。
この三峰山を含む周辺の山は、古くから石灰の産出が盛んな地域でした。
現在も、栃木の市街地からコミュニティーバスを利用して、出流山の満願寺(坂東三十三観音霊場第十七番札所)参拝や、その門前町へ名物の出流蕎麦を食べに行くときは、この鍋山の石灰工場群の中を通過しなければなりません。その道はまるで石灰工場の中に迷い込んでしまったかのような錯覚に襲われます。
私は今から37年前、昭和54年(1979)6月3日、この鍋山の石灰工場が並ぶ風景を、カメラに収めようと石灰の白い粉にまみれた道を、歩いてまわりました。私の生まれた家は鍋山街道に面していました。昔は鍋山人車鉄道が通っていましたが、私が生まれた頃には撤去されて、何の名残りも有りませんでした。そんな事も有り鍋山には何か関心が有りました。

鍋山には、栃木の市街地から県道32号(栃木粕尾線)で寺尾地区を北上し、鍋山町にて左折して県道292号(仙波鍋山線)に入り、出流川に沿った道を西に走ります。間もなく前方に山肌に岩盤が露出した風景が飛び込んできます。そして道路の両側に石灰粉にまみれ白くなった石灰会社の建物がせまります。
鍋山石灰工場1.jpg鍋山石灰工場2.jpg
「田政石灰」や「田源石灰」の会社の名前が見えます。
鍋山石灰工場3.jpg
道路は砕石を積んだダンプカーでしょうか、粉塵をまき上げて何台も通過して行きます。
鍋山石灰工場6.jpg鍋山石灰工場7.jpg
私が子供の頃、何処とも判らぬ、山鳴りと言うか地響きと言うか、「どどど・・・」「どずず・・・」そんな音を聞いた。鍋山で山を崩す為発破をかけた音が、空気を揺るがし栃木の街まで届きました。
鍋山石灰工場4.jpg鍋山石灰工場12.jpg
実際に石灰工場の中を歩くと、特殊な空間が広がっています。山の中腹に張り付く様に建てられた工場建屋、多くのベルトコンベアーが砕いた石を運んでいるのか。見た事も無い機械が、大型のショベルカーが動き回っていました。
鍋山石灰工場8.jpg
鍋山石灰工場11.jpg
この写真を撮ってから後も、幾度となくこの道を通っています。その度に車窓から見えるこの石灰工場の風景は、昔も今も同じように感じます。山は以前より大きくえぐり取られているのでしょうが、その全容を見る事は出来ません。
鍋山石灰工場15.jpg
鍋山石灰工場13.jpg

栃木市の産業に大きな位置を占めて来た、鍋山の石灰ですが、規模が大きくなっていった過程で、粉塵公害と言う問題も発生しました。この産業の特殊性から生じる白い粉の公害から労働者を守る為、地元門沢地区の全戸が昭和43年に、粉塵の無い梅沢地区に新しく住宅団地を建設して移転をしたのでした。
鍋山石灰工場14.jpg鍋山石灰工場9.jpg
現在も梅沢住宅団地入口に、「鍋山粉塵公害集団移転」の記念碑が建っています。
碑文は、「三つ峰の 白い粉より 逃れいで 朝あけ匂う 今日のこの地に」 の短歌がきざまれています。
碑陰には「梅沢住宅団地」の建設に協力をした人達の名前が連なっています。(昭和43年8月25日建之)

栃木市皆川城内町周辺の河川と橋 [懐かしい写真]

今回は、旧栃木市の西の端、皆川城内町周辺の河川と橋を、懐かしい写真と合わせて巡りたいと思います。写真は私が今から30年ほど前に撮影したものですが、あらためて見ると現在とは全然違う風景でした。
最初の写真は永野川を渡り、大皆川町から皆川城内町に入る、「大砂橋」です。現在は橋の西側に有る「栃木県立栃木特別支援学校」へのスクールバスが通行できる広い道路と立派な橋梁に変わりましたが、写真の撮影した昭和57年(1982)1月11日の頃は、二輪車が通行できる程度の細い橋が架かっていました。
大砂橋1.jpg大砂橋2.jpg
(永野川に架かる以前の「大砂橋」)      (現在の「大砂橋」)
ちなみに現在の橋が竣工したのは、平成15年(2003)3月です。
この大砂橋の直ぐ上流側で永野川右岸にそそぐ小河川が有ります。皆川城内町の中心部を流れて来た「藤川」です。大砂橋を渡り藤川に沿って、皆川城内町の中心部に向かいます。
藤川1.jpg藤川2.jpg
(河川改修工事中の藤川。奥に見える建物は特別支援学校)  (現在の藤川)
昭和57年撮影に来た時は、丁度東北自動車道の南側を西から東に流れる、藤川の河川改修工事が進められていました。
東北自動車道の下を抜け、街の中を走る県道75号線に出ます。藤川に架かる県道の橋には白い鉄パイプのガードレール状の高欄しかなく、橋名表示も一切ありません、そしてその直ぐ下流にも小さな橋が架かっています。以前はコンクリート製の高欄が付いていましたが、現在はガードレールに変わっています。
新皆橋下の橋.jpg新皆橋下の橋2.jpg
(「新皆橋」下流の橋。奥に見えるのが、県道75線に架かる「新皆橋」)
その橋の東詰めに大きな石が3個建てられています。表面に何やら文字が刻されていますが、うまく読めません。何か供養塔と思われます。東宮神社の参道にも同様に大きな石が3個並んで建てられていました。こちらも文字は確認できません。機会が有ったら今度調べたいと思います。
橋詰の三石.jpg東宮神社参道の石.jpg
(橋東詰に建てられた3個の大きい石。供養塔か) (東宮神社参道脇に立つ大きな石3個)
県道を越えた所で、藤川は西に曲ります。位置関係が説明難しくなったので、河川と橋の概略図を作ってみました。
皆川城内付近の河川と橋概略図.jpg
(皆川城内町中心部を流れる河川と橋梁の概略図)
皆川城内町の道路配置を見ると、東方の栃木の市街地から、永野川の「対嶺橋」を渡って来た県道75号(栃木佐野線)は東北自動車道を抜け、皆川城内町の中心部に来ると、Y字路になる。左手(南側)の道は県道でそのまま真直ぐ西に抜けていきます。右手は皆川城址の南麓を西に進み、皆川家歴代の祖廟が有る、金剛寺山門前に至り、寺院の南側を迂回する形で、柏倉方面へ進む。この2本の道路の間を藤川は流れている。そしてこの2本の道路を繋ぐ横道に東側から、「落矢橋」「仲倉橋」「伊勢屋橋」が架かっています。
落矢橋1.jpg落矢橋2.jpg
(落矢橋、奥が皆川城址)               (現在の「落矢橋」)
仲倉橋1.jpg仲倉橋2.jpg
(「仲倉橋。奥に皆川城址とその前に移転前の皆川中学校の校舎)(現在の仲倉橋)
伊勢屋橋1.jpg伊勢屋橋2.jpg
(伊勢屋橋。左奥に金剛寺が見える)      (現在の伊勢屋橋)
県道から伊勢屋橋へ至る路地の入口付近に立派な家が建っていました。
旧家1.jpg旧家2.jpg
(西側に現在も残る立派な店構えの建物)(東側、元旅籠の「いせや」現在は取壊されました。)
路地の西側に建つ建物は現在も残っています。路地東側に有った建物は現在は無くなりました。
「栃木市史」に掲載されている「皆川宿」の絵図面を見ると、路地西側には「造酒屋(幸島分家)」路地東側角に「いせや(旅籠)」の文字が記されています。又、路地を入り藤川に架かる橋を渡った左側には「うらいせや(旅籠)」と有ります。この橋の名前「伊勢屋橋」はこの旅籠の名前に因んだものと分かります。
藤川を遡るとこの先も西に向かい、南柏倉の県道126号の南側を流れています。その源流は、更に西方の佐野市(旧葛生町)との境の山頂に祀られた琴平神社の東麓になります。
皆川城内町にはもう1本、北柏倉の聖徳太子を祀った山の更に北西奥の沢を源流とする「柏倉川」が流れています。
この「柏倉川」は太子館の前を流れ、「久保山橋」から東へ県道126号の北側を流れ下り、金剛寺の北側「谷津橋」そして皆川城址前方の観音堂間から少し南に方向を変え、藤川の「仲倉橋」と「落矢橋」との間にて藤川左岸に合流します。
久保山橋1.jpg久保山橋2.jpg
(柏倉川に架かる久保山橋)         (現在の久保山橋)
谷津橋1.jpg谷津橋2.jpg
(柏倉川に架かる以前の「谷津橋」)              (現在の「谷津橋」)
観音橋1.jpg観音橋2.jpg
(皆川城址・旧皆川中学校校舎そして藁葺屋根の観音堂)(新しい観音橋と観音堂)







野木町煉瓦窯を見て来ました [建物]

今日は午前中曇り空で涼しい陽気だったので、ウォーキンウを兼ねて野木町煉瓦窯を、見に行って来ました。
野木町煉瓦窯1.jpg
(野木町煉瓦窯全景)
野木町の煉瓦窯の事は、2・3年前に渡良瀬遊水地と谷中村の歴史の説明を聞いている中で、その存在を知りそれから是非見てみたいと思っていましたが、修復中の為公開されておらず、これまで修復が終わるのをずっと待っていました。
そして今月10日、5年の歳月を掛けた修復が完了、公開される事になりました。最初は混雑すると考え、今日まで待って出かける事にしました。
栃木駅からJR両毛線と宇都宮線を乗り継いで、茨城県古河駅まで行き、煉瓦窯の有る下都賀郡野木町大字野木まで歩いて行きました。野木町煉瓦窯は住所こそ野木町ですが、距離的には古河駅からの方が近くなります。そこで古河駅から歩いて、煉瓦窯を見学し、そこから野木駅に来て帰るコースにしました。
実際は、古河の街中も少し見て歩いた為、距離的には長くなりましたが、目的地の煉瓦窯に到着した15時頃には、丁度青空が広がって来て、その青空を突く様に煉瓦窯の煙突がそびえる様子を見る事が出来ました。
隣接している「野木ホフマン館」内の受付にて、煉瓦窯見学料100円を支払い、ボランティアガイドさんの案内と説明を受けて、見学をしました。見学は窯の中にも入る為、ヘルメットを被って巡ります。
野木町煉瓦窯2.jpg野木町煉瓦窯3.jpg
(ボランティアガイドさんによる見学ツアー) (窯出入口。上部に窯番号の表示が見える)
野木町煉瓦窯(旧下野煉化製造会社煉瓦窯)は、昭和54年(1979)に国の重要文化財に、平成19年(2007)には、「近代化産業遺産群」の一つに選定されました。
ドイツ人フリードリヒ=ホフマンが19世紀半ばに開発し、特許を得た赤煉瓦焼成用の輪窯で、明治23年に造られています。外形は16角形、高さは34.4メートル、直径33メートル、周囲およそ100メートルです。
「ホフマン式円形輪窯」はこの野木町煉瓦窯の場合、円周上の煉瓦造りのトンネルを16区画の窯に区切って、その窯を順次循環移動しながら「窯詰め」・「予熱」・「焼成」・「冷却」・「窯出し」を繰り返しながら、連続的に赤煉瓦を焼く事によって、大量生産に対応する方式と言う説明がされました。
明治20年代、すでに日本国内においても蒸気機関車が営業を行っていたり、世界遺産にも指定された「富岡製糸場も操業を始めていましたが、まだまだ動力は普及していない時期で、この野木町の煉瓦窯も全て人力により操業されました。
野木町煉瓦窯4.jpg野木町煉瓦窯5.jpg
(窯の内部、天井に「投炭孔」が見える) (窯の境となる「リブ」や「煙道」の吸込み口)
窯出入口から頭をぶつけない様かがんで窯の中に入ります。窯の天井はアーチ状の曲面で中央部の高さは2.8メートル。壁面が少し出ている「リブ」から「リブ」までが1区画。天井には1区画25ヶ所の穴が有ります。窯の中に燃料となる粉炭を投入する穴です。窯の内周面左下隅に中央の煙突に通ずる「煙道」が設けられています。窯1区画内に「素地煉瓦」を燃焼した炎が通過出来る様間隔を空けて詰め込みます。その数は1400個から1700個。詰め込んだ後入口は煉瓦と泥によって塞がれます。15分間隔で上から粉炭を投入し、36時間かけて焼成すると説明が有りました。窯の内部は800度から1000度。
野木町煉瓦窯6.jpg
(素地煉瓦のサンプルが窯内に積まれています)
南側に位置する窯は、直射日光を受け温度変化の大きい影響で、劣化が激しい為、窯の内部に鉄骨補強が施されていました。説明では今回の補修で震度6・7の地震に耐えられるようになったと有りました。
野木町煉瓦窯7.jpg野木町煉瓦窯8.jpg
(窯内部に組まれた補強材)    (最初点火を行う為の「焚き口(ロスオル)」も見える)
これまでの説明でもまだどのように燃焼させるのか疑問が残っていましたが、これに対しても説明が有りました。最初は窯の中に「焚き口(ロストル)」を設け、薪を使用して点火を行うのだそうです。焚き口は点火が終わると取り壊され、火が一周するとこの窯でも煉瓦を焼いて行くのだそうです。
東側の階段を使って二階へ上がります。二階の窯の上の部分には、粉炭を投入する為の「投炭孔」が円周上に400ヶ所設けられ金属製の蓋が載っています。窯の内側と外側には円周上にレールが敷かれています。
野木町煉瓦窯10.jpg野木町煉瓦窯9.jpg
(窯上の様子。「投炭孔」が円周上に並ぶ)    (粉炭を担ぎ上げる為の階段)
燃料の粉炭は外側2ヶ所に設けられた階段を利用して窯上部に運ばれます。「パイスケ」と呼ばれる皿状の籠に粉炭を入れ、天秤棒の前後にぶら下げて、人力で運び窯上の炭車に載せるのです。その運ぶ重さは60キログラム、1日に25回運んだと言います。窯上ではこの粉炭を載せた「炭車」をレールで移動させ、焼成窯に投入する訳です。
次に燃焼窯を前に進ませるカラクリですが、中央の煙突の周囲に、各窯からつながる煙道に設けられた「ダンパー」がその役目を果たしています。このダンパーは通常閉じられていますが、燃焼中の3窯先の煙道より煙突へ排気されるよう、ダンパー開けてやると燃焼した空気が窯の先に流れる様になり、焼成窯の次の窯は流れてくる燃焼空気により、乾燥・予熱をさせる事が出来ます。この様にダンパーの開閉で空気の流れを変え焼成炉を順次次々と変えられることになります。
野木町煉瓦窯11.jpg野木町煉瓦窯12.jpg
(煙突周囲に設けられた「ダンパー」と「開閉用機器」)(屋内部部分の煙突、八角形)
ボランティアガイドさんの細かい説明で、疑問に思っていた事が、何とか理解できるようになりました。
帰りに「野木ホフマン館」の中の「煉瓦窯展示室」中央に展示されている、立体断面模型を見ると更に先ほど聞いた説明の内容がより明確に理解されました。

今回参考にしたのは、受付に有ったパンフレットと、ガイドさんの説明内容です。
野木町煉瓦窯パンフレット.jpg野木ホフマン館パンフレット.jpg

昭和57年1月大平町の永野川に架かる橋を巡りました。 [栃木市の河川と橋]

先日、今から34年前の昭和57年(1982)に、大平町を流れる永野川に架かる橋を巡って撮影したフィルムが、押し入れ段ボール箱の中から見つかりました。その写真の中には現在もその当時のまま残っている橋や、すでに架け替えられ姿を変えた橋も有りました。
県道11号(栃木藤岡線)に架かる「永久橋」から紹介していきます。
1.永久橋57年.jpg
(昭和57年撮影、永久橋遠望)
写真の「永久橋」は旧道側に架かる橋です。その橋の手前に現在の新道に架かる「永久橋」の橋脚が見えます。新しい「永久橋」は1983年7月の竣工ですから、撮影の翌年に開通しました。ちなみに旧永久橋の竣工は1937年という事で、架橋後79年が経っていますが、現在も現役です。
永久橋1.jpg永久橋2.jpg
(従来の永久橋の下流に架けられた「永久橋」) (新しい「永久橋」の銘板)
永久橋の下流、永野川に架かる東武日光線の鉄橋です。
2.東武日光線永野川鉄橋57年.jpg
(昭和57年撮影、東武日光線永野川鉄橋)
次は「川谷橋」です。現在の橋は1984年3月の竣工になりますから、写真に写るのは架け替え前の「川谷橋」と思われます。
3.川谷橋57年.jpg
(昭和57年撮影、川谷橋東橋詰より)
2013年川谷橋1.jpg2013年川谷橋2.jpg
(現在の「川谷橋」、上流側右岸より)          (川谷橋の銘板)
次は、川谷橋の下流に見られる堰になります。この堰の永野川右岸より取水した水は、「赤津用水」として永野川の西側をほぼ並行して南流、西野田・西水代・伯仲の水田地帯を潤していきます。
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(昭和57年撮影、永野川左岸より赤津用水取水堰)
赤津用水取水堰1.jpg赤津用水取水堰2.jpg
(現在の赤津用水取水堰、右岸下流側より)   (現在の取水口の水門)
次に来る橋は「諏訪橋」です。竣工は1934年で現在も写真の状態で利用されています。写真右奥に磯山(標高51メートル)が見えます。磯山の南麓には真弓の諏訪神社が鎮座しています。又、写真左手の木立は、蔵井の諏訪神社が祀られております。
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(昭和57年撮影、 諏訪橋を上流側左岸より)
次の橋は磯山の裏手に架かる「山下橋」です。竣工は1968年3月で現役です。県道252号(蛭沼川連線)が渡っています。
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(昭和57年撮影、山下橋を上流側右岸より)
次の橋は「町田橋」ですが、写真の橋はすでに新しい橋に架け替えられえいます。現在の「町田橋」は1992年3月の竣工になります。
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(昭和57年撮影、町田橋 下流側右岸より)
2013年町田橋1.jpg2013年町田橋2.jpg
(現在の「町田橋」)                     (町田橋の銘板)
次の橋は県道311号(小山大平線)が通る「永豊橋」、竣工は1977年1月です。この橋親柱に表示された橋名は「永豊橋」ですが、橋桁に取り付けられた橋銘板には「真弓橋」となっています。なぜ上下で名前が変わってしまったのか、興味ありますね。
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(昭和57年撮影、 永豊橋西橋詰より)
暫らく永野川沿いに南に進むと、榎本の北の端に架かる「両明橋」が現れます。この橋も竣功が1934年と古い橋でしたが、昨年2015年8月に修繕をして、橋脚や橋桁は以前の姿を留めていますが、高欄は鉄骨製に変更されています。
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(昭和57年撮影、 両明橋 西橋詰より)
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(現在の両明橋 西橋詰より)              (両明橋の銘板)
次は、1977年に竣工した「永和橋」です。この橋は太鼓橋程では有りませんが、橋の中央部が高く反っている為、自転車で渡る人には少ししんどい橋になります。
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(昭和57年撮影、 永和橋 下流側左岸より)
次の橋は旧国道50線、現在は県道36号(岩舟小山線)が渡る「千部橋」です。竣工は1962年、旧道の上流側に新しく架橋されました。橋の上流側には1985年3月に「千部側道橋」が竣功しています。
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(昭和57年撮影、千部橋 東橋詰より)
「千部橋」の下流側旧道に架かっている旧「千部橋」になります。
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(昭和57年撮影、旧千部橋。バックに写っている橋が、新しい千部橋)
この橋も、これまで紹介した上流側の「諏訪橋」や「両明橋」と同じ、1934年に架橋された古い橋でしたが、昨年2015年9月10日の台風に依る激流の為に、落橋してしまいました。
次は工事中の写真になりますが、私がこれら永野川流域の写真を撮影した昭和57年(1982)頃は、ここ永野川と東側を流れる巴波川では、建設が進む国道50号バイパス(岩舟小山バイパス)の架橋工事が行われている時だったのです。永野川には2001年12月、「新永野川橋」が竣工しています。
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(昭和57年撮影、永野川橋下部工事の表示板)  
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(現在の国道50号線が渡る「新永野川橋」、下流側右岸より)(新永野川橋の銘板)
架橋工事中の直ぐ下流側に次の「堀の内橋」が架かっています。この「堀の内橋」は1972年3月の竣工です。写真手前には下流側の堰が写っています。
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(昭和57年撮影、堀の内橋 下流側右岸より)
次の橋は高欄も無い簡単な橋です。写真には写っていませんが、橋詰に重量規制1トンの標識が立てられていました。正直この橋が何処に架かっていたか、記憶が定かでは有りませんが、フイルムの撮影順とその当時の永野川の架橋実態などから思いめぐらすと、現在「伯楽橋」の掛かる場所の以前の橋だと判断します。現在の「伯楽橋」は2008年3月に竣工しています。
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(昭和57年撮影、伯楽橋以前の橋)
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(伯楽橋、下流側左岸より撮影)       (伯楽橋の銘板)
次の「落合橋」は永野川の最下流に架かる橋でした。永野川はこの橋の下流で左側から流れて来た巴波川の右岸に合流して行きます。
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(昭和57年撮影、落合橋 上流側左岸より)
現在はこの場所から少し上流側に、「新落合橋」が架橋されています。2000年9月の竣工です。
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(上流側に新しく架橋された「新落合橋」)         (新落合橋の銘板)
そして写真の「落合橋」が架けられていた場所には、現在新しい人道橋の「落合橋」が2004年3月にかけられました。
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(元の落合橋の場所に架けられた人道橋の「落合橋」) (現在の落合橋の銘板)
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(昭和57年撮影、落合橋下流方向、左側から流れる巴波川右岸に合流する)



Windows10に一喜一憂

今、二日ぶりに平常心でパソコンに向かって、キーボードを打っています。
実はかなり前からデスクトップ画面の右下に「Windows10を入手する」の文字が頻繁に表れていました。今年の7月28日までは、Windows7以降のOSであれば無料で、アップグレード出来る様です。それでも私にとってはパソコンは正にブラックボックスで、アップグレードの処理がスムーズに出来るものか不安も多く、Windows10には興味は有りますが、これまで無視をし続けて来ました。
ところが、先週末デスクトップの画面上に「アップグレード開始まであと10分」とか言うような案内が表示されました。一瞬どうすればいいのか、手を拱いておりましたが、この際だから思い切ってアップグレード作業を開始しました。夜の11時頃でしたが、処理時間は90分程度掛かると言う案内が有り、画面中央に進行状況を表す表示が現れ、インジケーターが刻々と円周上を色を変えて進んで行きます。
私はただ画面を見て、インジケーターが進むのを見守るだけです。
Windows10へのアップグレードは無事に終わったかに思われました。
その間パスワードを入力したり少し操作を要求されましたが、新しいデスクトップの画面に戸惑いながらも、その日は夜1時近くとなった為、一度パソコンをシャットダウンして、後の確認は翌日に行う事として、就寝しました。
翌日は朝からWindows10に変わったパソコンの確認を始めました。電源を入れると予想以上に立ち上がるのに時間がかかります。
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(真っ黒な画面にフッと現れた窓) (海岸の風景画面をクリックとパスワード入力画面へ)
以前のWindows7と使い勝手が違うので、手順が良く分からず、気持ちばかりが焦ってしまいます。あれこれ操作して何とか以前と同じアイコンが表示されたデスクトップ画面が現れました。
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(パスワードを入力すると「ようこそ」の文字が)
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(以前のデスクトップに並んだアイコンが同様に現れました)
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(画面左下のウインドウのアイコンをクリックするとスタートメニューが現れました)
インターネットも無事見られます。EXCELも無事起動、その他のアプリケーションも問題なさそうでしたが、何度か再起動して使っていると、何が原因だったか分からなかったのですが、EXCEL作業中に日本語変換が出来なくなったり、ツールバーが全然使えなくなって、シャットダウンも出来なくなる始末。
ますます気持ちは動揺して来て、このままパソコンが使えなくなってしまうのかと思いました。
Windows10騒動1.jpgWindows10騒動9.jpg
(アイコンをクリックするとエラーメッセージが)(エプソンスキャンは電源を入れたら解決)
そんなこんなで悪戦苦闘、何度か再起動している内に又、ツールバーや日本語変換等が正常に使える状態に戻り、パソコンの立ち上がりもスムースに動く様になり、「あー!Windows10も結構分かってくれば使いやすいものだと感じました。気持ち良く操作を出来る様になったのですが、又不具合が見つかりました。
Windows10騒動7.jpgWindows10騒動8.jpg
(画面のアイコンをクリックすると画面右下に、「このアプリは実行できません」等表示)
ブルーレイやDVDのプレーヤーとテレビが使えない事が判明したのです。インターネットにてパソコンメーカーのホームページで確認すると、これらはWindows10に対応していませんとなっているのです。
テレビは見なければ済みますが、BDプレーヤーが使えないと、多くの作業が出来なくなってしまいます。又、色々と検討をした結果、元のWindows7に戻す事にしました。しかし、それでももし、無事に戻る事が出来るのか、又不安がよぎります。そこで万一に備え、重要な資料でまだバックアップをしていないデータをSDメモリーやUSBメモリーに出来るだけ落とし込みました。
いよいよ覚悟を決めて、Windows7へ戻す処理を開始します。
1ヶ月以内であれば、復帰が可能な様です。但しインターネットで確認すると、アップグレード後に新たにユーザーアカウントの追加や削除等の変更を加えていると、正しく回復出来ないので、やらない方が良いと言う情報も出ていたりして、不安も有りましたが、ダメもとで戻す事を決心しました。
スタートメニューから「設定」⇒「更新とセキュリティー」⇒「回復」⇒「Windows7に戻す」の手順で実行。
無事に戻る事が出来るのか、ジッと画面を見守ります。
結果は意外と速く訪れました。以前と同様にWindows7の画面が現れ、いつものようにパスワードを入力すると、以前のままのデスクトップ画面が現れ、使い慣れた私のパソコンに戻って来ました。もちろんテレビも見られます。
束の間のWindows10の経験でしたが、結構使い勝手は悪くありませんでした。私も事前にシッカリとWindows10へのアップグレードについて確認をしておけば、このような苦労はしないで済んだものの、私の「なんとかなるさ」の考えが、思わぬ事態に陥ってしまいました。

旧栃木町役場庁舎 [建物]

私が通った小学校は、旧県庁堀内に有った栃木市立栃木第二小学校です。現在は第一小学校と統合されて、校名も栃木中央小学校と変わりました。私が通っていた頃校庭の南側に新しい栃木市役所庁舎や栃木市公民館が造られて、校庭も半分の広さになりました。1年・2年の頃は校庭の南側は県庁堀まで有りました。そしてその南東の隅に旧栃木町役場の庁舎と、南西隅に後に旧栃木図書館となる建物だけが建っていました。
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(漕渠側より旧栃木町役場庁舎を望む。手前の橋は「学橋」です)
この「旧栃木町役場庁舎」の建物は、市役所が大通りの元福田屋百貨店の建物に移るまでは、「栃木市役所別館」として利用されていましたが、今は殆ど利用されていません。私もこの建物の中に入ったのは数回しか有りません。昨年の栃木蔵の街かど映画祭で、上映会場となってた時に入りましたが、暗い場内で中の様子を観察する事は出来ませんでした。
先日の映画祭では、「ありがとうのおくりもの展」の会場として演奏会やカフェ、ボタニカルスペースとなっていました。ただ若い人達が多かったので、チョッと中を覗いて直ぐ退散しました。
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(映画祭の日、庁舎の正面玄関)(庁舎内では多くの植物を飾った中で演奏会が)
元栃木県庁が置かれた此の地、残された県庁堀の南東角地に、大正10(1921)年11月、旧栃木町役場の庁舎が竣功しました。設計したのは、町役場の技師「堀井寅吉」です。木造2階建ての洋風建築です。グーグルの空中写真を参考にして、上空からの建物の様子と、周辺の旧県庁堀とそこに架けられた橋の様子を略図化してみました。
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(上空からの庁舎と周辺の県庁堀や橋梁の様子を簡略化した図)
東側に流れる巴波川から、県庁堀まで舟が入れるように開削された「漕渠」。明治初期の県庁堀の図面を見ると、「漕渠と県庁堀との合流点付近に舟で運んで来た荷物を、揚げ降ろしする為の、「揚場」が設けられていました。県庁が宇都宮に移された以降、この揚場は埋め戻された様です。
上空から庁舎の屋根の様子を見ると、北側の建物と東側の建物を直角に合わせ、その合わされた屋根の上に、時計塔を載せています。正面玄関は北側に有り、車寄せが設けられています。
一階は下見板貼り、二階は漆喰壁にハーフティンバーとなっています。木の部分は水色に塗装されています。
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(玄関の柱に刻まれた模)(街灯カバーの金属の細工)(下見板貼りと上下開閉窓)
正面玄関の前に銅板エッチングの「栃木町役場庁舎設計図」が掲示されています。そこには庁舎北面と東面の外観図と、1階・2階の間取り図が描かれています。
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(玄関前、石の台上に掲げられた庁舎の設計図をエッチングした銅板)
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(庁舎の裏手の様子)            (裏手一階中央部の出入り口)
この旧栃木町役場の玄関前の右手に春になると、コブシの白い花が咲き、4月には東側旧県庁堀に架かる「栃木橋」橋詰に枝垂れ桜が、ピンクの花を付けます。
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(春を告げるコブシの花が玄関横に咲きます)(東側「栃木橋」橋詰に咲く枝垂桜)
この「旧栃木町役場庁舎」は平成10(1998)年9月2日に、国登録有形文化財となりました。
数年前までは、栃木市役所別館として利用されていたので、夕暮れ県庁堀が夕陽に染まるころになると、庁舎の窓から明かりが漏れて来ていました。そして闇に包まれてからも、建物の中で働く人の姿が覗われました。
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(西に陽が傾き、県庁堀に夕焼を写す)(庁舎内に明かりが灯り、栃高生が家路へ)
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(すっかり暗くなった中、残業の明かりが窓から漏れる。)
その窓の明かりや屋根の上の照明を受けた時計台が、県庁堀の漕渠に映る景色は、今ではもう見ることは出来ません。
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(旧県庁堀の漕渠に、庁舎の光りが映る。)

蔵の街栃木観光のシンボル、塚田歴史伝説館へ [建物]

今回、塚田歴史伝説館を訪問しました。
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(2014年9月撮影、巴波川左岸に連なる「塚田歴史伝説館」の黒塀と土蔵)
栃木市の市街地中心部を北から南に貫流する、巴波川の左岸沿いに100メートル以上も有る長い黒塀を持つ、「塚田歴史伝説館」は、蔵の街栃木における観光のシンボル的存在となっています。この塚田家は江戸時代後期の弘化年間(1844~1847)より、巴波川の舟運を利用して木材廻漕問屋を営んでいました。
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(パンフレットの表紙を飾る写真も同様に、巴波川沿いの景色)
この蔵の街栃木の象徴とも言える景色を、私はこれまで幾度となく撮影をして来ました。最初に私のアルバムに登場するのは1968年撮影の写真です。
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(1968年撮影)
その頃の塚田家の文庫蔵は黒塀同様に、黒く染められてます。巴波川沿いの道にはまだガードレールは付けられていません。
5年後の1973年の写真には、白いパイプのガードレールが、そして1988年の写真では景観に合わせた擬木製のガードレールに変更されています。
1973年1月塚田記念館.jpg1981年塚田記念館.jpg
(1973年撮影)                    (1981年撮影)
若い頃は雪が降ったと言えば早速撮影に来ました。川岸の柳に新芽が出るのをまったり、朝霧が発生したと聞けば自転車を飛ばしました。
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(1988年撮影)              (2000年撮影、文庫蔵外壁が白く化粧替えしてる)
また、この場所は四季を通じて色々なイベントが催される場所でもあります。
4月には巴波川に色とりどりの鯉のぼりが泳ぎます。7月には市内の名所を切り絵で描いた行灯が立てられ、陽が落ちると行灯に暖かな明かりが灯ります。
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(2013年4月撮影)
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(2015年7月撮影)
8月上旬の夜には湊町二荒山神社の「百八灯流し」が行われ、冬にはLED照明による冬ホタルのイルミネーションが川岸を照らします。
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(2013年8月撮影、この年は8月4日の夜でした。)
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(2013年12月撮影)
そして、今回は約30年ぶりに塚田家の中に入ってみました。以前は「木材回漕問屋 塚田記念館」として開館しましたが、現在は「塚田歴史伝説館」と名称も変わり、展示内容もハイテク人体型ロボットによる蔵芝居「うずま川悲話」の上演など大幅に様変わりしていました。
入口で入館料700円を払い、案内に従って脇の「旧母屋」に入ると、三味線を弾く老婆やそれをジッと見ている観客らしき男性、そして老婆の脇座布団上に臥せっている猫、どれも本物と見間違えそうな人形です。三味線を弾く老婆のしぐさも良く出来ています。その人形ロボットの都都逸や案内を聞いているだけで、楽しい気分になります。
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(最初に案内された旧母屋の中に三味線を弾くおばあさんと観客らしき男性の人形)
南隣りの展示館にて、塚田家が収集した家宝など約300点や古い写真などを見て回り、山車館にて「手力男命」の人形を載せた山車やお囃子に合わせて踊るひょっとこ面を被った人形ロボットが、滑稽踊りを見せてくれます。蔵芝居館の中は撮影禁止となっています。こちらの館では全自動制御で繰り広げられる人形芝居で、巴波川に架かる「好来橋」にまつわる、人柱伝説を新しい構成の元にお話が展開していきます。結構良く出来ていると感じました。
約13分間のハイテク人形芝居を観賞した後は、その南側に広がる庭園に向かいました。
庭園には、明治末期の西洋館と共に銘木の逸品を集め、数寄屋造りの隠居所として造られた離れが建っています。
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(庭園片隅に建つ洋館と数寄屋造りの別荘)
又、庭園は枯山水を背して、ドウダン つつじ 赤松 モッコウなど、百年以上の樹木と日本各所の名石灯籠十基が配されています。
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(緑溢れる庭園)                   (庭園中央に有る水琴窟)
庭園中央部に造られた、水琴窟の竹筒に耳を当てると、地中から透き通る様に響き渡る音を聞くことが出来ます。緑の樹木に包まれ、水琴窟が奏でる音色を聴いていると、心の底まで爽やかになって来ます。

※文は「塚田歴史伝説館」のパンフレットや展示品の説明書を参考にさせて頂きました。


栃木・蔵の街かど映画祭で「路傍の石」を観賞 [祭]

今日と明日の2日間、9回目を迎える「栃木・蔵の街かど映画祭」が開催されています。
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(今年も上映会場となっている、中田蔵と旧関根邸)
昨年は、栃木高校講堂での「オープニングセレモニー」から出かけ、横山郷土館にて「しもつかれガール」、太田蔵にて「六人姉妹」などを観賞しました。
今日は11時から大田蔵にて上映された、山本有三原作の「路傍の石」を観賞して来ました。
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(今年の映画祭のパンフレットと、太田蔵の入口で手渡された上映プログラム)
「路傍の石」は、栃木市民であれば誰でも知っている、山本有三の代表的な小説で、「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間生まれてきたかいがないじゃないか」と、主人公尋常小学校6年生の、愛川吾一に対して担任の次野先生が諭す言葉の一節は、栃木市内各所に、石碑に刻されて建てられています。
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(太平山謙信平の山本有三文学碑)    (旧県庁堀の南東角付近に建つ文学碑)
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(栃木駅北口広場に建つ山本有三文学碑)  (巴波川公園橋西橋詰の文学碑)
この小説「路傍の石」はこれまで4回、映画化されています。今回上映された映画は、パンフレットには1960年公開の、久松静児監督作品と出ていましたが、実際に上映されたものは、昭和13(1938)年公開の、日活製作 田坂具隆監督作品で、最初に映画化されたものでした。パンフレットには(下視ラ16mm)と記された作品がいくつか有りました。何の事か不明でしたが、会場にて説明が有った中に、「下都賀地区視聴覚ライブラリー協議会」と言う団体の所蔵フィルムと有りました。その団体の略称だと分かりました。
78年前に公開された作品という事で、想像は出来ましたが、古い16ミリフィルムでの上映の為、映像も音声もあまり良くありませんでしたが、それでもスクリーンに映し出される懐かしい栃木の街の風景が、随所に出てくるので、スクリーンから目が離せませんでした。
冒頭に巴波川沿い塚田邸の長い黒塀をバックに、主人公の吾一少年が架ける場面が写し出されます。その後に川に架かる木橋を渡るシーンが続きます。普通に考えると「幸来橋」となりますが、作品がつくられた頃は「幸来橋」はコンクリート橋に架け替えられています。次の場面でも吾一少年達が川に架かる小さな木の橋を渡る場面が有ります。周りの建物の様子から泉町の旧平柳河岸付近と思われます。ただ撮影が行われた数年前に、映画に出てくる橋の直ぐ上流側に、現在も残る「嘉右衛門橋」コンクリート橋が竣工しています。そうすると映画に映し出された橋は、撮影の為に架けられた「セット」だったのか、実際に当時有ったものなのか、色々と想像が広がります。
又、先の次野先生が吾一少年に話した「たったひとり・・・・・・」の一節の元になる、有名な「吾一が鉄道の鉄橋にぶら下がる事件」の撮影が行われたと云われる鉄橋が、現在「栃木市総合運動公園」西隣りに、旧栃木駅駅舎の北側に、一緒に移設保存されています。
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(現在移設保存されている旧栃木駅の駅舎)  (駅舎の北側に保存された両毛線の鉄橋)
今回の映画作品は、第一部・第二部の構成で、各60分と言う長いもので、16ミリフィルムが4リールになっています。その為2台の映写機を使用して交互に映写する方法で上映されましたが、途中で1台が止まるアクシデントが発生しました。何とか1台の映写機で無事上映が終了できました。
私も20代に栃木県立図書館で「16ミリ映写機取扱い講習」を受け、実際に映写会を行った経験が有りましたが、映写機へのフィルムのセットに手こずった事や、ランプが切れる不安を感じていた事が、フッと思い出されました。
結局今回は、「路傍の石」の作品だけでなく、その後に上映されたガッツ石松さん出演の「ガッツ親父とオサム」・「栃木市市制祝典実況」そして、昨年も見た「六人姉妹」の全ての上映作品を鑑賞させて頂きました。
入場無料で、栃木の懐かしい風景などを沢山見る事が出来、大満足の一日でした。