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栃木市郷土参考館 [建物]

栃木市の市街地中心部、大通りから西に入る細い道路(一方通行の為大通りからは進入出来ない)が有り、この道路を境に北側が万町、南側が倭町となります。ただこの細い道路が何時ごろ出来たものか分かりません、国土地理院発行2万5千分1「栃木」の地形図には載らない程度の道路の為です。しかしこの道路が抜ける、大道りと並行して西側を南北に通る通称「蚤の市通り」は、昭和22年発行の地図にはまだ現れません。それまでは西銀座通りの西端、ミツワ通りとの交差点付近から北に通る道が、巴波川に架かる「倭橋」の東詰まで通っていました。この通りに面した辺りは以前「若松町」と呼ばれていました。そして「倭橋」東詰から北に抜ける「蚤の市通り」が地図に現れるのは、昭和40年の発行地図を待たなければなりません。ですからその「蚤の市通り」に抜ける大通りからのこの細い道も、戦後に出来たと考えます。今度調べてみたいと思います。現在この道路に面した南側、倭町側に今回訪問した「栃木市郷土参考館」が有ります。
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(栃木市郷土参考館の有る通り。大通り側からと、蚤の市通り側からの様子)
一方通行に従って「蚤の市通り」からこの細い道に入ってくると、右側に白壁の土蔵が有ります。窓に格子が掛かっています、その先に洒落た構えの門、「栃木市郷土参考館」「入場料無料」など記した案内板が立っています。
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(通りから望む郷土参考館となっている土蔵)    (郷土参考館の入口から中を望む)
この「栃木市郷土参考館」は、昭和58年7月1日に開館しましたが、その前身は昭和53年6月1日に栃木市観光協会が開館させた「下野栃木民芸館」です。「下野栃木民芸館」が開館した昭和53年は、6月1日から9月30日までの4ヶ月間、昭和55年開催される「栃の葉国体」に向け、栃木県の新しいイメージアップの確立と観光客の増加を図る為、社団法人県観光協会が主体となって、実施された「栃木の旅」特別キャンペーン、「やすらぎの栃木路」のイベントのひとつでした。この時同時に嘉右衛門町の「代官屋敷 岡田記念館」も開館しています。
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(昭和53年7月5日発行の、旅の手帳臨時増刊号「やすらぎの栃木路」の表紙)

門の奥に市街地の中とは思えない風景が広がっています。門を潜って中に入ります。右手の木の根基に小さな石碑「円説  真言宗  中ノ坊 屋敷跡」と有ります。左側に栃木市教育委員会が記した「栃木市郷土参考館」の説明板が建てられています。
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(門を潜ると右側に見える石碑。「中ノ坊」と有る) (左側に建てられて案内板)
説明書に依りますと、この建物は約200年前の江戸時代の板倉家の土蔵を主体とした家です。板倉家の先祖は三重県四日市馳出村出身で、諸国修行の旅の僧であったと言われています。
この板倉家は、元は「中ノ坊」と呼ばれ、栃木郷土史に載る明治数年前と推察される木版刷「栃之花見立三幅對」の中に当時の栃木町の御三家として「円説」「善野佐治兵衛」「善野喜兵衛」と記されています。中ノ坊は当時栃木町一の富豪でした。これらの江戸後期から明治初期にかけての栃木の富豪については、「林 美一」氏の著書「歌麿が愛した栃木」に詳しい記述が有ります。
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(江戸後期の板倉家の様子が載る「歌麿が愛した栃木」の表紙)(土蔵の鬼瓦に屋号の文字)
玄関脇に古井戸が有り、水道の蛇口も整っていますが、昔ながらの手押しポンプも残っています。玄関の入口は、「くぐり戸」になっていて、腰をかがめて中に入ります。
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(玄関脇に残る手押しポンプの古井戸)          (玄関のくぐり戸)
中は昭和初期の家の雰囲気が残り、神棚・柱に架かるクラシックな時計、裸電球右手に杉の一枚戸。樹齢千年以上と説明札が付いていました。
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(玄関から入った中の座敷の様子)
脇の押しボタンを押すと奥から係りの人が出て来て、説明が有り奥の展示室にどうぞと案内される。靴を脱いで座敷に上がります。座敷の隅に当時使用していたとする帳場や家具などが残されていました。
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(格子帳場)                 (引き出しに番号が付いた薬箪笥)
座敷の奥、廊下の先に裏手の土蔵の入口が有ります。ズッシリと重量感の有る扉や土蔵の外の扉と内側の引き戸との間の空間に設けられた、「ねずみ返し」について説明が記されています。現在は通行の邪魔になるので、入口に設置される板は取り付けられていません。当時も出入りの際は外し、通常は取り付けられていたものと考えます。
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(火災から収納品を守る重厚な造りの土蔵の扉)(土蔵入口に設けられたねずみ返し支持板)
土蔵は現在、一階・二階とも展示場に成っていて、栃木市関係の歴史資料や、星野遺跡や下野国庁跡等の発掘調査にて出土した、石器や土器、木簡や瓦。その他栃木市の産業に関する道具、民族資料などが展示されています。
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(土蔵一階の内部。昔懐かしい家具や道具の展示物)
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(土蔵二階の松の一本の梁垂木は千年物と云われる。)  (この家の由来や建物の説明文)
一階廊下からガラス戸越しに見える庭の緑が新鮮に感じる。室外に出て南側に回ってみると、庭に多くのシャガの花が静かに咲いていました。
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(ガラス戸越しに庭の緑を)         (庭にはシャガの花が丁度咲いていました)

この地にて昔、実際に使われたり、造られた品々を実際に見て、懐かしく思ったり新たに知る事が出来たり、貴重な時間を過ごすことが出来ました。ただ栃木市の展示施設としては、施設のスペース等の制約も有り、思うようにはできなかったのかも知れませんが、展示内容が時系列やテーマ別の説明が無く少し物足りない感じを受けました。その為に「参考館」と命名したのかも。



国営ひたち海浜公園ネモフィラが満開に [草花]

昨日、24年ぶりに茨城県の国営ひたち海浜公園に行き、満開を迎えたネモフィラを見て来ました。夜半には音を立てて降っていた雨も、明け方には上がり回復基調の天候なので、国道50号線を車を走らせました。予想どおり目的地のひたちなか市に到着した13時頃には、白く曇った空に青空が広がって来ていました。
臨時の駐車場にもすでに沢山の自動車が詰めかけ、その来園者の列は今満開を迎えたネモフィラが群生する、みはらしの丘に向かって続いています。
みはらしの丘は、350ヘクタールと言う広大な広さを持つ公園のほぼ中央付近に位置して、標高58メートルと言う小高い丘です。その南麓の丘の斜面を小さな青いネモフィラの花が、絨毯を敷き詰めた様に咲いています。そしてそれは上空に広がる青空とまさに同化していました。
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みはらしの丘に登り、太平洋から吹き付ける冷たい風を受け、眼下に広がる青い風景を眺めていると、何時か心が静かな海を漂っている様に思われてきました。

天明元年創業の油伝味噌店 [建物]

栃木市の市街地北側に、通称「嘉右衛門町通り」と呼ばれる通りが、ゆるやかなカーブを繰り返して、南北に通っています。
通りの南側の入口は、大通りに有る万町交番前交差点から、西に50メートル程入った所で、北方向に2本の通りが有りますが、その左側の通りが「嘉右衛門町通り」になります。この入口から北に進んで、東武日光線新栃木駅前から西に通る道路との交差点までの、約750メートルの通りを中心とした区域が、平成24年(2012)7月9日に、栃木県内で最初の「重要伝統的建造物群保存地区」となりました。
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(万町交番前交差点北西部角のポケットパークに建てられた重伝建群保存地区の案内板)
この地区の中心となっている「嘉右衛門町通り」は、旧日光例幣使街道に当たり、江戸時代に朝廷から毎年日光東照宮へ幣帛を奉納する為の勅使が通った街道筋で、翌年の正保4年(1647)から慶応3年(1867)までの221年間、例幣使は1回の中止も無く継続されました。
そんな例幣使街道に面した場所に、天明年間(1781~1788)創業の「油伝(あぶでん)味噌」店は有ります。
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(油伝味噌さんを北東方向から撮影。手前の通りが「嘉右衛門町通り」になります。)
お店の案内書に依りますと、≪古くは江戸、天明年間 初代油屋伝兵衛は此の地に油屋を創業しました。その後三代目伝兵衛は、油・質業と共に味噌の醸造を始めました。≫そして≪屋号は油屋の油と、伝兵衛の伝をとって「油伝(あぶでん)」と名乗り≫と、記されています。
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(案内書の表紙)        (明治23年大日本博覧図栃木県之部に載った店舗鳥瞰図)
この「油伝味噌」さんの通りに面した店舗やその裏に続く土蔵などは、国登録有形文化財となっています。
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(門を潜った所から敷地の奥方向を撮影)           (登録有形文化財のプレート)
私はこれまで幾度となく、通りから望む建物の外観の撮影をしていますが、今回初めてお店の中に入りました。
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(通りに面した店舗前に吊られた暖簾。創業天明元年と見える)    (会社の門札)
「油伝味噌株式会社」の門札がかかる門の中に入ると右手の建物が事務所、左手の建物が御休処になっています。御休処の中には、6人掛けのテーブルや小上がりが有り、横に風情のある坪庭が有ります。お勧めの味噌田楽を頂く事にします。皿の上に串に刺さった、豆腐と里芋そしてこんにゃくの三種、それぞれ異なった味噌を付けた、味噌田楽の盛り合わせです。
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(味噌田楽の店内)                      (味噌田楽三種盛り合わせ)
お店の御主人が居られたので、例幣使街道の話や、建物の話など色々と伺う事が出来ました。
私が最近気になっていたのは、今、栃木市内の煙突の有る風景を撮影していますが、国土地理院発行の2万5千分1地形図を見ると、ここ「油伝味噌」さんの工場辺りに煙突の地図記号が記されています。1989年に撮影した写真には確かに、「油伝味噌」さんの土蔵群の屋根の向こうに高くそびえる煙突が写っていました。
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(1989年撮影、油伝味噌さんの土蔵群の奥に見えた煙突。今はもう有りません)
その煙突について伺った所、5年前平成23年3月11日に発生した、東日本大震災で被災、煙突にヒビが入って危険になった事から、その年の秋に解体撤去をしたとの事でした。
その後、中庭や建物の周囲を散策しました。
中庭に「明治23年大日本博覧図栃木県之部」銅板で造られた「油伝味噌」さんの店舗の鳥瞰図の写真が掲示されていましたが、その図に描かれた土蔵や井戸などが、そのまま現在も見る事が出来ました。
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(店舗鳥瞰図にも描かれている土蔵)   (店舗鳥瞰図で土蔵の前に描かれている井戸?)
外に出て建物の北側に回ります。建物の北側に沿って狭い路地が裏まで抜けています。路地と建物との間に、古い瓦を利用したものか、色んな形の瓦で水の流れを表現しています。
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(店舗土蔵群の北側に沿って通る路地。裏手方向から撮影)
並べられた瓦の中に「油伝味噌」さんの商標「ヤマトイチ」を表現した鬼瓦なども並べられています。
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(路地と土蔵の間に造られた、瓦を利用したアートでしょうか?)
現在の店舗の屋根にも「ヤマトイチ」の商標が表わされています。山の記号の下に漢数字で十一と書いて、ヤマ・ト・イチ(大和一)と読むまさに日本一を意識した商標がユニークですね。
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(明治40年発行「栃木営業便覧」の「油伝味噌」さん部分を抜粋。北側に路地が通っている)
「油伝味噌」さんの裏手には、工場建屋等の間に細い道が、表側の「嘉右衛門町通り」とほぼ並行して、南から北に抜けています。この道は、ここから100メートル程南に行った所、「嘉右衛門町通り」の大きな自然石の「庚申塔」が祀られている分岐で、左に向かう「三日月道」になります。
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(道標を兼ねて右日光道・おざく道、左三日月道と刻された庚申塔)
この店舗裏手には、大谷石造りの建物やタンクなどが残っています。かって煙突が建っていたと思われる場所も確認する事が出来ました。
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私は、いつもこの「嘉右衛門町通り」を歩いていますが、夕暮れ時街灯や家から漏れる明かりなど、昼間とは違う光景を見るのも好きです。
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(北側路地入口に建つ街灯)      (1991年撮影、夕暮れ時の油伝味噌さん)





栃木市の煙突の有る風景(その3) [懐かしい写真]

栃木市内で見られた煙突のある風景をこれまで2回紹介しました。今回はこれまでの様な大きな煙突では無く、今も街中に残る銭湯の煙突を探してみました。私自身は子供の頃に、数回利用した記憶が残っていますが、成人してからは利用しなくなりました。
数年前までは市内でも何軒か営業をされていたと聞いていますが、現在は室町ミツワ通りに面している、「玉川の湯」さんだけになってしまったのではないでしょうか。
私の母は生前、その「玉川の湯」さんや万町の「アルプス温泉」さんに良く出かけては、お湯につかったり、銭湯の2階で友達と会話をしたり、踊りを見たり踊ったり楽しい時間を過ごしていました。
今回改めて街中を歩いて、銭湯の煙突を見て回りました。
まずは現在も営業をされている室町の「玉川の湯」さん、通称「金魚湯」と呼ばれています。
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(ミツワ通りに面した「玉川の湯」さん。手前の鳥居は「鹽庚申」様)
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(明治22年創業と言う、玉川の湯さんの煙突と銭湯の入口)
そして万町、栃東中正門前から西に抜ける道路に面する「アルプス湯」さん。
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同じく万町、近龍寺山門前の「鶴の湯」さん。こちらの御風呂屋さんには、チョッとした思い出が有ります。まだ私が若かった頃、市内の風景を撮影していた時、「鶴の湯」さんの御主人に「写真を撮るな」としかられました。
確かに良く見ると、「撮影禁止」の張り紙がして有りました。それを見逃した私が悪かったのです。今回は遠目で煙突の見える風景として撮影をしました。
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次は旭町、神明宮第二公園の東側、文化会館方向へ向かう道路に面した「福の湯」さんです。
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他にも、市内には銭湯が有りました。私の記憶に残っている所では、泉町の北関門通りに面して「那須温泉」と言う銭湯が有りました。その当時銭湯の入口の上に「那須温泉」と記した街灯が付いていて、夕暮れになるとチョッと風情が感じられました。何度か撮影をしたいと思いましたが、とうとう撮らずじまいでした。今思うと本当に残念でした。
もう一軒、泉町には銭湯が有りました。「翁の湯」さんです。北関門通りの1本西側を通る細い裏通りに面して有りました。ここも現在は空き地になっています。北側には「積善会病院」と呼ばれていた病院の古い建物が今も残っています。
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(嘉右衛門通りを進むと右手に古くなった土蔵が残っています。その裏手に「翁の湯」の煙突が見えました。でも今はもう有りません。)
無くなってしまってから何時も思います。写真に残しておけばな!と。でもいつも見ている風景は、何時までも有るのではと錯覚をしています。煙突もいつか取り壊されて無くなって行く運命なのかもしれません。
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(幸来橋の北東側、倭町の裏通りに面し「梅の湯」が有りました。1966年撮影)



小山市琵琶塚古墳と桜 [草花]

今年も、3月の末から4月の初旬にかけ、栃木市内の桜の名所を、歩きや自転車で見て回りました。
ただ4月も中旬に入ってくると、ソメイヨシノも緑の葉が目立つようになり、最近ではすっかり花びらも散って、今年も桜のシーズンは過ぎたと感じていました。
今日、、たまたま小山市に出かけた帰りに、日光街道壬生通りを回って帰る途中、姿川の橋を渡る所で、右手前方にピンク色の並木が目に留まりました。
飯塚台林寺前の交差点を右折して、琵琶塚古墳の東側の道路に進むと、その道路の両側にピンク色した桜の並木と、黄色の菜の花畑が続いています。道路脇の駐車場に車を停めて、菜の花と桜の花、そして青い空の中を散策しました。
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(後方の小高い丘が、琵琶塚古墳になります。)
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菜の花畑の中を歩き、琵琶塚古墳の上に登り、下に広がる菜の花畑と桜の並木を眺めます。木立を吹き抜ける風が、少し冷たく感じました。古墳では今日も発掘作業が行われていました。発掘は手間暇のかかる作業ですが、いにしえのロマンに触れる作業なのでしょう。
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(琵琶塚古墳は栃木県内2位の規模の前方後円墳で、国の史跡に指定されています)
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近くのディーサービス施設の御老人達や、中年の御夫婦と見られる人達が、菜の花畑をバックに楽しそうに記念写真を撮っています。
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この先の道路を行くと、下野市の天平の丘公園に入ります。今丁度「天平の花まつり」が開催されています。

栃木市内の橋がよみがえっています。 [栃木市の河川と橋]

昨年の9月9日夜半の大雨により、栃木市内でも幾つかの橋梁が、橋脚が流され落橋し、通行が出来なくなったり、外見は問題なさそうでも、専門家が判断すると渡る事が危険と診断され、一時通行止めの処置が取られた場所が有りました。
元々今回被害を受けた橋は、架橋された年が古く、栃木市が平成25年4月に策定した、「栃木市橋梁長寿命化修繕計画」の対象にも入っている物がほとんどでした。
今、栃木市内の河川においては、多くの箇所で被害を受けた場所の河川改修が、急ピッチで進められています。
栃木市街地を流れる、巴波川に架かる「巴波川橋」「倭橋」「常盤橋」が年末年始にかけ橋の修繕が行われ、一時通行止めの期間が有りましたが、現在は全て完了したようです。
どの様な修繕が施されたものか、素人の私などに分かる訳は有りません。ただ外観を眺めて、橋の床版が再舗装され、高欄の汚れや変色も除去されて、白く綺麗な元の状態に戻った様に感じる位です。
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(修繕が完了した1934年12月竣工の「巴波川橋」。橋の高欄が綺麗な姿に戻りました)
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(修繕が完了した1930年12月竣工の「倭橋」。こちらも橋の高欄も綺麗になりました)
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(修繕が完了した1961年竣工の「常盤橋」。こちらの高欄も汚れが取れよみがえっています)
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(常盤橋の親柱、以前は鉄製のバンドで保持されていましたが、修繕後バンドが取れました)
昭和26年、栃木の市街地を洪水被害から守る為に、開削された「赤津川分水路」にも、今回の大雨は大量の水を市街地西側を流れる、永野川に流しました。その結果この区間では14橋の内、「田原橋」と「鹿島森橋」の2橋が落橋、「長宮橋」が通行止めとなりました。
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(通行止めが解除された「長宮橋」)
私は良く「新井橋」を利用していますので、心配をしていましたが、先月修繕がされた様で、橋の高欄が新しく変わっていました。「長宮橋」も先日行った時は、通行が出来る様になっていました。
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(修繕前の「新井橋」)
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(修繕後の「新井橋」。橋の高欄が付け替えられました)
赤津川分水路が造られた当時に架橋された12橋の内、県道が通っている2橋、「平和橋」(県道32号)と「泉橋」(県道75号)は、その後新しい橋に架け替えられていますが、その他の10橋は昭和24年が6橋、昭和25年が2橋、昭和26年が1橋、そして昭和30年1橋の架橋と、全て60年以上になっています。そしてこの10橋の内「長宮橋」と「新井橋」は相当な通行量が有りましたから、「長宮橋」の通行が出来なくなった時は、多くの方が大変な不便を感じられたものと、思われます。通行が再開されて本当に良かったと思います。
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(落橋した「鹿島森橋」 現在、落橋した橋の残骸は、撤去されています。)
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(橋脚・橋桁が傾いてしまった「田原橋」 現在、全て撤去され跡形も有りません)

巴波川右岸に鎮座する大平町横堀の春日神社 [栃木市の神社]

栃木の市街地を抜けた巴波川は、東武日光線とJR両毛線の「巴波川橋梁」の下を通過した後、沼和田町と城内町二丁目との境界となって、流れを一度大きく東にカーブさせ、「弁天橋」の下流で、再び南に大きく流れを変えて、浄化センター、衛生センターの西脇を流れ、「金橋」「愛宕橋」を潜ると、その先で大平町横堀と大平町北武井の境界として南流しています。
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(途中の巴波川の土手には、菜の花や桜・桃などの花が咲き誇っていました)
私もたまにはこの辺まで足を伸ばして、歩いて来る事が有りますが、その度に巴波川右岸、大平町横堀に桜の木が並ぶ参道を持つ神社を遠目に見ては、一度桜の咲く時期に訪れたいと思っていました。
今年はその気持ちが強まったので、桜の咲くのを待って今日、自転車を飛ばして行って来ました。
前回は昨年(2015)6月3日に訪れ参拝をしていますが、その時参道入口に掲げられた、神社の説明板に今日4月10日が例祭と有り、御神楽奉納も行われると記されていましたので、時期的に桜も見られると思い、巴波川の左岸の土手上の道を下って来ました。
巴波川の左岸から対岸に、ずっと桜の並木が満開の花を付けて並んでいます。
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(巴波川の対岸に太平山をバックに春日神社の参道の桜を望む)
巴波川に架かる「吾妻橋」を渡って、春日神社参道入口前に自転車を停めて、参道入口の朱塗りの鳥居を潜り、その先に拝殿前まで続く桜のトンネルとなった150メートル程の参道を進みます。
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(巴波川に架かる吾妻橋西橋詰に春日神社参道入口、朱塗りの鳥居と祭りの幟旗)
今年は開花が早いと言われていますが、こちらも参道は桜の花びらが盛んに舞い落ちて言います。桜の花に混ざってすでに緑色の葉も見られました。
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(桜のトンネルとなった参道)        (石の鳥居の奥に拝殿を望む)
拝殿ではすでに神事が始められているのか、中に大勢の人達が座って、神主さんが唱える詔の声だけが、拝殿から漏れて来ています。
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(春日神社拝殿)               (神楽殿には奉納神楽の準備も出来ていました)
その場で参拝するのは少し躊躇われたので、暫らく境内内を散策しました。でいれば奉納されるお神楽も、見たかったのですが時間の余裕も無かったので、諦めました。
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(境内に祀られた石宮)               (人丸神社)

春日神社の主祭神は、天児屋根命(あめのこやねのみこと)。
配神は、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、比売神(ひめがみ)
大平町誌に記されている春日神社(旧村社)大字横堀によりますと、境内地は1,719.97坪。氏子数は100戸。沿革については、≪当社は徳川将軍家安泰祈願のため、後光明天皇の承応元年(1652)旧2月15日、信濃守大森頼直(藤原姓)が、大和国(奈良県)三笠山より勧進建立したという。将軍家の崇敬厚く三ツ葉葵の紋章使用や、将軍家宣公御台所寄進の錦の御戸帳 信濃守寄進の石鳥居や50石の御朱印地等があった。・・・・・(後略)≫と出ていました。

150メートル程の参道を抜けると、寛文五年(1665)と刻された石の鳥居の右手、境内の端に「松長山久遠院大森寺跡地」と刻した石碑が建てられております。そしてその傍に、小さな石祠や無縫塔などが祀られています。石碑に記されてる通り明治初めの廃仏毀釈により廃寺となった、久遠院(天台宗)がこの地にあったのでした。
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(松長山久遠院大森寺跡地の石碑)         (石碑の脇に祀られた石祠や無縫塔など)

栃木市城内町二丁目に有る天台宗の寺院、星住山圓通寺が平成十四年八月に発行した、「寺史照顧(円通寺開山と中興)慈覚大師・等海法印・高慶大師」の本の中に、「第三の五、高慶大師記録 (豪弁文書)」の記事が載っていますが、そこに横堀の久遠院大森寺の開山で圓通寺22世豪弁について、詳しく記されています。
帰りに圓通寺によって参拝させてもらいました。
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(星住山圓通寺本堂)                     (独鈷泉の水面を覆う桜の花びら)

錦着山から永野川河川敷公園周辺を歩く [歩く]

今日のウォーキングコースは、まず家から錦着山に向かい、錦着山(標高80.5m)に登る。東麓の石の鳥居を潜り、坂を上ります。錦着山は4月初旬はサクラの花、5月になるとツツジの花で全山が錦を着た様に色付く事から、「錦を着た山」という事で、「錦着山」と呼ばれるようになったと云われています。以前は「箱森山」と呼ばれていました。山上には護国神社が祀られています。錦着山については、2014年11月28日付で「錦着山の紅葉」をブログに書いています。あれからもう1年半近く経ってしまいました。
普通の神社ですと参道の左右に大体狛犬が、阿吽形で見られますが、この護国神社の拝殿前、階段を登り切った所に奉納されているのは、狛犬では無く、獅子になります。それもただ座っている形では無く、故事ことわざに有る「獅子の子落とし」のお話が表現されています。
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拝殿に向かって参道右側は、岩場の上の獅子が下を向いて睨みつけていす。岩場の下には仰向けに倒れている子供の獅子の姿が有ります。一方左側の岩場の上に立つ獅子と、岩場の下で上を向いて岩場を登ろうとしている2頭の子共獅子の姿が有ります。
神社に奉納されたものとしては、珍しい形だと思います。以前この岩場に登って遊んでいると、神社社務所のスピーカーで、注意をされていました。今、境内にはブランコや滑り台などが整っていますが、遊んでいる子供の姿は、めったに見られません。
拝殿の脇を登って山頂西側へ向かいます。サクラはすでに満開を過ぎて、風に花びらが舞っています。山頂から太平山や永野川の流れを、眺める事が出来ます。山頂の西の端に建つ、小根沢登馬雄第六代栃木市長の胸像が、北北西方向、永野川と赤津川の合流点を見つめています。2011年3月11日に発生した東日本地震の影響で、倒壊の危険が有った為暫らく近くに寄れませんでしたが、その後修復した様です。
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この場所から西方、永野川の右岸に私が学んだ、県立栃木工業高等学校の校舎を一望出来ます。今、学校の周辺は永野川緑地公園として整備され桜の木も沢山植えられています、私が通っていた頃は周辺は雑木林、校庭は殺風景で広々していました。
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錦着山を下り永野川の「上人橋」を渡って、永野川緑地公園を散策します。永野川の対岸から先ほど登った錦着山が良く見えます。山頂に建つ小根沢元市長の像が白く見えます。
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永野川の右岸に広がる河川敷で、サッカーの練習をしている子供達が見えます。
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緑地公園にはお花見を楽しむ人達や、わんぱく広場に有る遊具で遊ぶ沢山の子供達の姿が有りました。永野川右岸の桜並木の下を歩いて、上流の「大岩橋」まで行きます。
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この辺りの永野川護岸は昨年9月の大雨の影響で、大きな被害を受けた場所で、現在も復旧工事が進められていました。
公園の周辺を回って、太平山遊覧道路の桜のトンネルを少し歩いて見ました。引っ切り無しにお花見客の車が通行するので、少し危険でしたが、満開の桜のトンネルを満喫する事が出来ました。
太平山遊覧道路1.jpg
本日の総歩数は12,332歩でした。

小倉川の河童伝説 [栃木市の河川と橋]

先日、栃木市西方町金崎に有る桜堤に行って来ました。金崎の桜堤の花見は50年以上前の子供の頃に、一度来た記憶がかすかに残っているのですが、その時の風景は全く覚えていません。違う記憶なのかも知れませんが、私の記憶では、思川の橋を渡った向こう側に有ると思い込んでいました。今回訪れた桜堤は思川の右岸で、記憶と重なりませんでした。
でも、今回来て観て感動しました。そこには重量感の有るごっつく幹の太いサクラの木が思川の右岸の土手上にずらっと並んで、枝を土手の下まで伸ばして、桜のトンネルを潜りながら、土手の上を散策出来ます。
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(西方町金崎さくら堤、満開のサクラのトンネル)

話しは変わりますが、今回紹介するのは、小倉川の河童伝説です。現在金崎の桜堤の東側を南流する川は、「思川」と呼ばれていますが、以前はこの辺りでは「小倉川」と呼ばれていました。この桜堤の上流側に架かる、国道293号が通る橋の名前も「小倉橋」となっています。
話しは更に時を遡り、川の名も「清瀬川」と呼ばれていた頃の話になります。
≪昔、小倉川(思川)は清瀬川とよばれていましたが、そのころは堤防も橋もなかったときで、旅人や辺りの人たちが歩いて川を渡ろうとするとき、ときどき河童があらわれて人々を困らせていました。ある日、西方城の重臣で小倉主膳介というお侍が愛馬を乗り入れ、川を渡ろうとすると、河童が躍り出て悪さをしました。豪傑の主膳介はこの河童を捕まえ、一刀のもとに切り捨てようとしました。すると、河童は命だけは助けてほしいと、涙をうかべてあやまったので、「俺は小倉という者だ。今後、川を渡る者に小倉の名を聞いたら、決していたずらをするな。いたずらをすると容赦しないぞ。」と言いふくめて許してやると、河童はあやまって淵のなかへ逃げていきました。それを聞いた旅人が、川を渡るときに「俺は小倉だ。」「俺は小倉だ。」と言いながら渡るようになり、河童に悪さをされることがなくなりました。それが、この川が小倉川と呼ばれるようになったと言い伝えられています。≫
このお話を私が初めて知ったのは、丁度1年ほど前の事になります。地元西方町在住の「語り部」の御婦人からでした。小さい頃に母親が耳元で聞かせてくれた、おとぎ話を聞いている様な、懐かしい語り口に、河童が命を長らえ、しおらしく川に帰って行く様子が、浮かんできました。
その後、小倉橋の上流側右岸に「かっぱひろば」が有る事を知り、訪れた事も有ります。
「小倉川かっぱ広場」の駐車場に、「小倉川と河童」と題して、この話が掲示されています。
河童伝説1.jpg河童伝説2.jpg
(金崎さくら堤の上流に有る「かっぱ広場駐車場に有る案内板)
今回紹介した文は、この掲示板の内容を写させて頂きました。駐車場に車を停めて広場へ行き、思川の川面を眺めていると、今にもその石の陰から、照れくさそうな顔をした河童が、姿を現すのではと思いました。
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(ゆっくりと流れている思川の川面。河童が現れそうな)
広場を散策していると、草むらに何やら、まーるいものが!おや、河童なの。そう、そこに居たのは石で造られた河童の頭のモニュメントです。
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(かっぱ広場の土手に設置されている河童の頭の石のモニュメント)
まーるい瞳が私を見つめています。見ていると楽しくなってきます。こんな愛嬌のある河童なら出て来て欲しいと思いました。
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(小倉主膳介と河童を描いた、かっぱ広場のさくら堤のモニュメント)
金崎桜堤3.jpg
(かっぱ広場も春色満開になっていました)

チョッと楽しい西方町の河童伝説でした。

 

栃木市大町北端の巴波川の流れ [栃木市の河川と橋]

今回は栃木市大町の北端域における、巴波川の流れを探ってみました。
巴波川の流れは大町の北端で、北隣りの川原田町から流れ込んでいますが、良く見ると大町に入る直前で、巴波川の流れは分岐して、二筋の流れと成って大町側に入っています。
大町北側の巴波川の分岐1.jpg
(巴波川上流側から見た分岐。右側の流れは分かり難いですが、右に隠れています)
流れの上流側から見て、右側(西側)に流れて行く方が、巴波川の本流の様です。左側(東側)の川筋にはこの季節、水量が少ない事も有って、川底が露出している様です。上流からの水は現在この分岐で、すべてが右側の本流へ流れ込んでいます。本流を示すように右側の河川の様子は、河川改修が行われて川幅も広がり堤防も確りと築かれる川へと一変しています。
大町北側部の巴波川1.jpg
(大町北端部より上流方向を望む。川筋が二つ見える。巴波川本流は左側です)
一方左側の支川の方は、左岸に住宅が迫っていて昔の姿を留めています。川幅も2メートル前後で、分岐から100メートル程下った所に、分岐水門が現れます。ここで又川の流れは左右に分けられます。それぞれの水路に水門が有って、ここで水の流れを調整している様です。
大町北端の分岐水門1.jpg
(巴波川本流の東側を流れる水路に設けられた分岐水門。右の水門の先は巴波川に戻る)
ここで右側の水門の先のながれは、上流で分かれて西側を流れている巴波川の本流に再び流れ込んでいます。左側の水門の先は、幅1.5メートル程のコンクリート製の水路へと姿を変えて、南南東の方向に直線的に流れて行きます。
その先は県道3号(宇都宮亀和田栃木線)を横切り、「かましん」の北側を流れ平柳町一丁目の田圃の中を南に流れて行きます。
二つ木橋上流側.jpg二つ木橋下流側.jpg
(県道3号通称鹿沼街道の「二ツ橋」付近より、水路上流側及び下流側を望む)
分岐水門が何時ごろ設置されたものか知りませんが、明治19年7月発行の迅速測図「栃木縣下野國下都賀郡栃木町」の2万分1の地図を確認すると、巴波川から分岐して、旧例幣使街道を横切る水色の1本の線を辿る事が出来ます。旧例幣使街道がこの川を渡る所に橋の記号が付いていますが、古くは「二ツ橋」と呼ばれていました。(現在の場所は、県道3号に嘉右衛門町通りを抜けて来た旧例幣使街道が合わさる場所で、この合流点から南、万町交番前交差点に至る県道は「北関門道路」と呼ばれ、昭和11年頃に完成した道路になります。)
さて、話を巴波川本流に戻します。川原田町から大町に流れ込んで来た巴波川は、丁度その境界辺り、「とちのき病院」の北東部から河川改修が行われた事で、立派な河川に生まれ変わってます。病院の東側には、巴波川の河道との間に、遊水地も造られて、巴波川右岸堤防には、越流堤が有り、川の水が増水した際、越流堤を超えた水を一時蓄える役目を果たしています。
大町北端の巴波川と遊水地1.jpg
(とちの木病院東側を流れる巴波川と左側遊水地。中央の堤防に見えるのが越流堤)
以前はこの付近の巴波川も、その上流側川原田町を流れる様な、素朴な堤防の無い川でした。現在病院の南側に河川改修で流路を変更した事により残った、巴波川の旧河道跡が見られます。
「とちの木病院」の西側正門辺りで新しくなった県道37号(栃木粟野線)から分岐する旧粟野街道に二つ橋が架けられています。北側の立派な橋が新しい巴波川に架かる「新藤沼橋」で、南側の小さな銘板も付いていない橋が以前の巴波川に架かっていた「藤沼橋」です。こちらも高欄は新しくなっていますが、以前コンクリート製の橋の親柱には「藤沼橋」の名前が認められました。
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(旧粟野街道の「藤沼橋」より旧巴波川河道上流側を望む)
昭和55年に開催された「栃の葉国体」の為に、この西方に建設された「栃木市総合体育館」と同時期に開通した、現在の総合運動公園南側を東西に走る新しい道路は、通称「国体道路」と呼ばれたが、この時巴波川にも新しい橋が架けられました。その当時私が確認した時、この新しい橋には橋名板が見当たらない為、橋の名前が分かりませんでした。しかし河川改修により河道の位置が変更になり、橋の架け替えが行われた。県道37号も広く真直ぐに抜けた事で、そこにも新しい橋が架けられました。これらの新しく架けられた橋を下流側から見て行くと、国体道路の橋が「高瀬橋」2003年3月竣工、県道37号の橋が「新高瀬橋」2005年2月竣工、そして旧粟野街道の橋が「新藤沼橋」2006年10月竣工、そしてその上流「とちの木病院」南東部に架かる人道橋「ふるさと橋」が2007年3月の竣工となっています。
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(高瀬橋:下流側右岸より撮影)
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(新高瀬橋:下流側右岸より撮影)
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(新藤沼橋:下流側「新高瀬橋」上より撮影)
ふるさと橋1.jpgふるさと橋2.jpg
(ふるさと橋:東側橋詰より撮影)
大町の北端域を流れる巴波川周辺は、すっかり整備が終了して様です。
今回紹介した栃木市川原田町南部から大町北部の巴波川の流れの状況を、グーグルマップの航空写真を基に概略図にしました。
大町北部の巴波川1.jpg
(栃木市大町北端域の巴波川の流れの概略図)