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栃木市大平町のさくら通りは、今満開です [草花]

昨日、車で通過した栃木市大平町、日立アプライアンス栃木事業所の北側を東西に走る「さくら通り」、満開の桜のトンネルが見られましたが、運転中の為撮影出来なかったので、さっそく今日出かけて撮影をして来ました。
大平町さくら通り1.jpg
近くの大平運動公園の駐車場に車を停めて、さくら通りの歩道を、満開の桜の花を見ながら、ゆっくり歩いて撮影を楽しみました。
大平町さくら通り2.jpg大平町さくら通り3.jpg
さくら通りの東の突き当りに「磯山」という標高51メートルの小丘が有ります。51メートルと言っても、周辺の標高が35メートル程有りますから、比高としては15〜16メートルと言った所です。その磯山を北側から東側へ巻く様に永野川が流れています。
磯山の北側、永野川との間に小さな「磯山桜づつみふれあい公園」が有ります。こちらでも今満開の桜を見る事が出来ます。
大平町さくら通り5.jpg大平町さくら通り4.jpg
公園の駐車場に車を停めて、磯山に登って上から「さくら通り」を眺めてみました。
桜はやはり下から仰ぎ見る方が、良いかもしれません。
今日も暖かな春の陽気に包まれ、のんびり桜の花を堪能しました。
大平町さくら通り6.jpg大平町さくら通り7.jpg
大平町さくら通り8.jpg

栃木市内のシダレザクラが見ごろを迎えました [草花]

一昨日まで頑張っていた寒気も、北に後退し昨日から暖かな日が戻ってきました。明日で3月も終わり、いよいよ桜の季節到来です。
私の経験上、太平山東麓の太山寺の枝垂れ桜は、毎年4月1日が満開指定日になります。昨今は地球温暖化の影響も有るのでしょうか、少し早めに成って来ているのかも。ただ今週末の天気が下り坂という予報も出ているので、今日少し花曇りの空模様でしたが、午後1時に車で栃木市内のシダレザクラの名所を回ってみました。
最初は一番近く、太山寺に向かいました。太平山神社の表参道を国学院大学栃木高校前から、右折して直ぐ太山寺山門前駐車場になる。すでに沢山の車が来ていましたが、幸い空いている場所に停めることが出来ました。
山門を潜ると、本堂前の樹齢約400年と云われる枝垂れ桜は、ほぼ満開状態になっていました。三脚を構えて写真を撮っている人達や、桜をバックにお互いに記念写真を撮りあっている、老夫婦と見られるカップル。私もアングルを変え何枚か撮影をして、次の場所に移動します。
枝垂れ桜(太山寺)1.jpg
(江戸幕府三代将軍徳川家光の側室で、四代将軍徳川家綱の生母宝樹院お手植えと伝う)
枝垂れ桜(太山寺)2.jpg枝垂れ桜(太山寺)3.jpg
次に向かったのは、岩舟町三谷の成就院へ。途中大平町下皆川の長楽寺前のシダレザクラをチェック。まだ花の付きが少ない、今週中には満開になるか。
枝垂れ桜(長楽寺).jpg
(大平町下皆川の長楽寺前のシダレザクラ)
ぶどう団地の道を走って、岩舟町三谷へ、細い田圃の中の道を案内板に従って進む。寺院山門前の駐車場卯は満車。案内に従って境内裏側の第二駐車場へ回る。こちらは十分に余裕が有り楽に駐車出来ました。こちらのシダレザクラも十分に開花しています。
枝垂れ桜(成就院)1.jpg
(東国花の寺百ヶ寺、栃木三番となる梅花山成就院のシダレザクラ)
枝垂れ桜(成就院)2.jpg枝垂れ桜(成就院).jpg
(境内には石仏と共に、多くの花が咲き誇っています)
次は一転して北の都賀町富張の長福寺へ。ここでも途中大平町の日立アプライアンス栃木事業所の北側の通称さくら通りを確認の為走ってみましたが驚きです、見事な桜のトンネルが出来ていました。運転中で撮影出来ないのが残念でした。栃木の市街地を抜けて都賀町へ向かい、赤津川右岸の長福寺へ到着しました。2年前に来た時は、シダレザクラの傍まで車を入れられましたが、今回は境内への車の進入は禁止の立札が立てられていました。代わりに赤津川左岸、中の内橋東橋詰に仮設駐車場が準備されていました。
こちらのシダレザクラも樹齢約70年と云われ見事な枝振りです。
枝垂れ桜(長福寺)1.jpg
(太醫山長福寺のシダレザクラ)
枝垂れ桜(長福寺)2.jpg枝垂れ桜(長福寺)3.jpg

その後、西方町元に有る中新井家そして、都賀町大柿の龍興寺のシダレザクラについても、行って見ましたがまだ2~3分咲きくらいです。昨年は3月31日見た時はすでに満開でしたので、こちらは少し遅れている様です。改めて来ることにして写真は撮りませんでした。
一度家に帰ってから、ウォーキングを兼ねてライトアップをする、太山寺のシダレザクラを歩いて見に行く事にしました。家から歩いて1時間弱でライトアップにより、暗闇に浮き上がるシダレザクラを見る事が出来ました。光量が少ない為、手持ち撮影は手振れしてしまい自動撮影出来ません。歩いて来たので三脚など有りません。シャッタースピード優先で速度1/4秒セット、露光不足の表示を無視して撮影したり、色々と工夫してブレの少ない、何とかみられる写真を数枚撮りました。
枝垂れ桜(太山寺)4.jpg
(ライトアップにより浮き上がる、太山寺のシダレザクラ)
枝垂れ桜(太山寺)5.jpg
夜桜見物をして又、歩いて家まで戻りました。セーターと薄いジャンパー姿でしたが、ジットリ汗をかきました。
これからソメイヨシノも満開になって来ます。家の近く、巴波川に架かる「小平橋」たもとの桜も、大分開いて来ました。こちらも今週中には満開になりそうで、楽しみです。




栃木市川原田町の河川巡り [栃木市の河川と橋]

栃木市総合運動公園には、ウォーキングで良く出かけて、園内に設定されているジョキングコースを歩いています。この公園の東側のエリアーには、「憩いの森」「芝生広場」そして「せせらぎゾーン」が有って、その中を巴波川の支流となる一級河川の「荒川」が貫流し、市民の憩い場となっています。
運動公園1.jpg運動公園2.jpg
(栃木市総合運動公園内に建つ案内板)
今日の午前中、暖かな日差しの中、園内を歩いたり、ジョギングする人達や、子供達とボール遊びをする家族の姿、川辺に設置されているベンチに座って休んでいる人など、多くの市民が訪れていました。
この場所は、運動公園が造られる前は、幾筋もの河川が集まって来ている場所で、「御手洗沼」と呼ばれていました。
御手洗沼4.jpg
(運動公園内荒川、御手洗沼が有った所)
ここは「川原田町」という町名の通り、現在も巴波川や荒川が、分岐や合流をしつつ、北から南に向かって流れている地域になっていますが、以前は多くの・・・沼や・・・淵と呼ばれる場所が多く有ったようです。
昭和50年頃の地図を基に、川原田町付近の川の様子と、沼や淵の場所を概略図に表わしてみました。
川原田町東部の川沼.jpg
(川原田町内の河川や沼の状態)
総合運動公園内に有った「御手洗沼」の東側、現在川原田西市営住宅の南側に「吉根沼」その先、上流部鹿嶋神社の東に「天神淵」、更にその上流に「笹淵」、そして「大淵沼」の名前が見えます。一方川原田町東部を流れる巴波川には、川原田東市営住宅付近に「入沼」が、そしてその上流、巴波川の源流のひとつとする「白地沼」の名前が見えます。
それでは、これらの地を巡りたいと思います。
最初は巴波川の源流とする「白地沼」です。合戦場町と吹上町とを結ぶ市道と巴波川とが交わる箇所に架かっている小さな橋が有ります。「二股橋」の文字を親柱のひとつに確認出来ます。橋の上に立って上流側の田圃の先に東方向に向かう川の土手を確認できますが、地形図に記されるよな、川の分岐(合流)の様子を見る事は出来ません。ただここの橋の橋名にもなっている様に、橋の直ぐ上流点で二股に分かれ、左手の流れを遡ると白地沼となります。一方右方向の流れを遡ると、東武日光線の線路沿いに其の上流を確認できます。
二股橋1.jpg白地沼1.jpg
(二股橋より上流側を望む)             (白地沼の中央部付近の状態)
現在「白地沼」の南側は住宅街に変わっています。そして白地沼の上流端、「標茅が原(しめじがはら)」の説明板が建てられている辺りには、水は全く認められません。
白地沼2.jpg
(白地沼の上流端に建つ、標茅が原の説明板)
沼の中ほどに小高くなった島だった場所の上に、「下野名所 しめじが原」と刻した石碑が一基建てられていました。碑陰には「昭和39年9月30日 吹上村 合併記念有志一同 川原田一同」の文字が記されています。
白地沼3.jpg白地沼4.jpg
(白地沼上流点に建つ「下野名所 しめじが原」の石碑)(夏から秋になると雑草に埋もれる)
次は巴波川を少し南に下った、川原田東市営住宅付近に有る「入沼」ですが、明治以降発行された地形図上では沼らしきものは見当たりません。もっと昔に溯れば沼が有ったのか知れませんが、今地名として残っています。
入沼1.jpg
(川原田東市営住宅の東から南に流れる巴波川の上流域)
今度は荒川に沿って上流側から巡って行きます。川原田町の北端、木野地町との境界で二つの流れに分かれる荒川、南西に向かう川筋は更に西側からの流れと合流して南流、合戦場町と吹上町を結ぶ道路に架かる北橋の下を流れ、南橋を潜ってその下流で総合運動公園の中に流れ込んで行きます。
北橋の上流部1.jpg南橋付近1.jpg
(川原田町北橋上流域の荒川の流れ)     (川原田町南橋上流域の荒川の流れ)
一方分岐後南に流れる川筋の西側には現在、やはり涸れ沼となっている「大淵沼」を見る事が出来ます。雨の少ない冬期だったせいか、一面枯草に覆われた大きな沼の跡が広がっていました。
大淵沼1.jpg
(川原田町北端に有る大淵沼を望む)
大淵沼2.jpg大淵沼3.jpg
(大淵沼の東側を流れる荒川支流)           (大淵沼南東部に建つ石仏)
大淵沼から荒川支流の右岸の道を下って行くと「笹淵」と呼ばれる場所に来ます。ここに来て川幅が膨らみますが、下流に架かる橋の所で又狭まっています。
笹淵1.jpg
(笹淵を上流側から撮影、右奥の建物は川原田町浄水場)
橋の下流側左岸に栃木市水道事業川原田町浄水場が川に沿って建てられています。浄水場の西側の流れは、幅2メートル程のコンクリート製の水路が100メートル程続きますが、その下流でまた自然の土手を持つ川の姿に戻り川幅も又膨らんでいます。この辺りが「天神淵」と呼ばれるところです。
天神淵1.jpg
(天神淵を下流側から撮影、正面奥が川原田町浄水場)
天神淵の南側を合戦場町と吹上町を結ぶ道路が通っていますが、そこに架かる橋の名前は分かりません。この道を西に行った直ぐ北側に鹿嶋神社が祀られています。神社の境内に「鹿島神社拝殿建設記念碑」が建てられていますが、その碑文を読むと、≪下野国上川原田鎮座鹿嶋神社は現栃木市運動公園中央部に在たるも明治35年9月の台風に依り境内に聳えし杉の倒伏にて本殿拝殿が倒壊され・・・・後略)≫そして現在の地に再建されたのは大正2年5月、他の神明神社、三島神社、権現神社、日光神社、高龗神社を合祀したと記されています。この神社の前の道を更に西に進むと、荒川本流に架かる「北橋」に達します。
鹿島神社(川原田)1.jpg鹿島神社(川原田)2.jpg
(天神淵の西方に鎮座する鹿嶋神社拝殿)   (神社境内に建立された拝殿建設記念碑)
天神淵を過ぎると川は真直ぐ南、田畑の広がる中を流れて行きます。川の左岸方向に川原田市営団地の高い建物が見えまが、流れはここからその川原田の団地の西側の境を南流した後、大きく向きを西に変え、川原田西市営住宅の前を西に流れます。この付近の地名に「吉根沼」の名が見られましたが、地形図の上では確認できません。
吉根沼1.jpg
(吉根沼の地名が見える川原田西市営住宅南部)
この後水の流れは三日月道の下を潜って、市総合運動公園の「せせらぎゾーン」へと流れ込んで、「芝生広場」の先で北側から流れて来た荒川本流と合わさります。
御手洗沼3.jpg
(運動公園内東端部せせらぎゾーンを流れる荒川支流)
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(運動公園内芝生広場の中を流れる荒川支流)
御手洗沼2.jpg
(運動公園内プールの東側を北から流れてくる荒川の本流)
そしてこの辺りいったいがが「御手洗沼」と呼ばれた場所になります。
川原田町内には、中央部を北から南に貫流する荒川とその支流が分岐したり合流したりして、その水路を網の目の様に這わせています。又そこには前日光や足尾山塊の山々から幾筋もの沢を下った川の流れが、関東平野の平地に至り、扇状地を広げ、川の水は地下へと一時姿を消し、ここ扇状地の先端で出水となって再び地表に現れて来ます。栃木市にはそんな出水がいたる所に有ったと言われています。
私の栃木の川巡りはまだまだこれからです。

30年ぶりの筑波山へ [自然の恵み]

昨日は30年ぶりに筑波山に行って来ました。私の住む栃木市からは、関東平野の東南東方向に望む、男体・女体の二つの峰を見せる美しい山です。見る方からこの二つの峰が重なる為、雰囲気が違ってきますが、私は栃木市から見える筑波山の形が一番好きです。
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(今年の初日の出、錦着山より)       (太平山神社拝殿前より望む筑波山)
栃木市の郊外を歩いていると、北に男体山をはじめとする日光連山がそびえ、西には足尾山塊の南東の端、関東平野に突き出た、太平山・晃石山から三毳山、そして東の方向に筑波山の各山並みがを望む事が出来ます。
これまでも何度か筑波山に行こうとした事が有ります。一昨年の正月にも家族で出かけましたが、初詣の車で登山道が渋滞して、途中であきらめて戻った事も有ります。今回はシーズンオフだったのか、スムーズに筑波山神社入口前まで車で登り、観光案内所にてパンフレットを頂き、筑波山神社を参拝。それからケーブルカーに乗って山頂まで。
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(筑波山への道を進む)           (筑波山神社の大鳥居、ここから歩いて登る)
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(筑波山神社の立派な隨神門)         (筑波山神社の拝殿)
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(ケーブルカー宮脇駅へのゲート)        (宮脇駅の乗降ホーム)
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(急勾配の軌道が山頂駅に向う)         (山頂駅前御幸ヶ原に建つ「道程元標」)
ケーブルカーの山頂駅から出ると、ヒヤッとする空気に包まれました。筑波山は男体山頂が標高871メートル、女体山頂が少し高く標高877メートルという事で、周辺にはまだ残雪も見られます。
高い方の女体山頂には、30年前にも登りましたので、今回もそちらに向かいました。15時40分発のケーブルカーに乗って来ましたが、最終は16時40分という事で、山頂の滞在時間は50分も有りません。
パンフレットには、山頂駅から女体山頂まで15分と有ります。余裕は有りませんが、女体山頂に設置されている、一等三角点も確認をしたく、急ぎ足で向かいました。
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(女体山頂への途中、ガマ石)           (女体山頂近く、日陰には残雪が有る)
いざ山道を登り始めると、残雪が融けて少しぬかるんでいます。山道は石段の様になっていますが、石の上は泥で滑りやすくなっています。足元が悪く滑らないように用心して一歩一歩確認して足を運びます。途中に有る「ガマ石」は昔と同じカエルの形を見せていました。女体山山頂には「女体山御本殿」が建てられています。本殿裏手には「天の浮橋」。本殿右手奥の岩場に「日本百名山」と記した石柱も建てられています。筑波山は百名山の中では一番標高が低く、九州鹿児島県の「開聞岳(924m)」と、2山が標高1,000メートル以下の山で、百名山に選ばれています。
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(女体山御本殿と裏手の「天の浮橋」)   (女体山頂に建つ「日本百名山筑波山」の碑)
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(別名「薩摩富士」とも言われる、鹿児島県薩摩半島南端の開聞岳)
山頂の岩場の石の上に、三角点の石柱が設置されていました。岩場の先には霞ヶ浦や遠く地平線が広がっています。
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(女体山頂の一等三角点)            (女体山頂より南東方向を望む)
ゆっくりと景色を眺めていたいところでしたが、最終のケーブルカーの発車時刻が気になり、急いで戻る事にしました。最終の車両には外国人観光客の方が多く、話している言葉を聞くと中国人と思われます。米国人の青年もいました。以前富士山の五合目に行った時もやはり中国系の団体観光客で賑わっていた事を思い出しました。
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(1984年1月15日撮影の「天の浮橋」と「ケーブルカー」)
今度はもっとゆとりを持って、男体山頂にも行って見ようと思いました。

下野新聞社栃木支局の建物 [建物]

昨夜来の雨が朝まで残っていましたが、天気予報通り午後になる頃には、雲間から青空が顔を出してきました。空気は寒の戻りらしく冷たく感じますが、風も無く穏やかだったので、うすいジャンパーを羽織って、日課としているウォーキングに出かけました。
万町交番前交差点から、大通りを南に歩きます。栃木市役所前で通りの反対側、元明治座への細い道の南側に建つ土蔵造りの建物が有ります。現在は「下野新聞社栃木支局」になっています。
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(下野新聞社栃木支局となっているのは、文久元年六月に建築された見世蔵になります。)
建物の前に「下野新聞と栃木」の関係について、説明する立札が立てられています。説明文には≪「下野新聞」の前身である「栃木新聞」は栃木町で産声を上げた。いわゆる第一次栃木新聞である。ここからさほど遠くない栃木町万町一丁目317番地の万象堂から1878(明治十一)年6月1日に創刊された。・・・・(後略)≫説明には、その後県庁が栃木町から宇都宮町に移転した為、宇都宮への移転を決定、1984(明治十七)年3月7日、題字を「下野新聞」として第一号が誕生した事等が、記されていました。そして、付記として、現在栃木支局として使用している建物について説明がされています。
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(建物の前に建てられた説明板)
≪本建物は元肥料豪商で知られた毛塚惣八が建てた蔵屋敷を修復したものである。・・・・・(後略)≫と記されていますが、私の記憶の中では、「石川眼科」で子供の頃、眼の治療で何度か通った所です。入口を入った左側に畳敷きの待合室が有って、奥に診察室そして処置室だったような、一度モノモライが出来た時だったか、診察後処置室のベットに寝かされた記憶が残っています。薄暗い処置室に、何をされるのか不安を感じた記憶だけが、今もよみがえってきます。
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(以前、石川眼科で有った頃の名残りを残す写真が有りました。)
この建物が、元は肥料商の見世蔵だったというのは、この下野新聞社の立札で知る事が出来ました。私の手元に復刻版ですが、明治40年10月1日発行の「栃木県営業便覧」が有ります。栃木町の12ページ、大通りと明治座への通り角に、「海陸肥料 麻苧 商 毛塚惣八」の名前が大書されています。大きく書かれているのは「大店」であった事を表しています。
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(栃木県営業便覧より抜粋しました。)
縦に走っている通りが、大通り(旧日光例幣使街道)、左への道の先に「明治座」の文字が見えます。大通りの中央の点線は「鍋山人車鉄道」の軌道の印になります。図の上方向が「栃木駅」に、下方向は現在の万町交番前の、桜井源右衛門商店まで通っていました。右方向の横道にも点線が有りますが、この先には巴波川のトロッコ橋を渡った右側に鍋山人車鉄道会社の「旅客及荷物取扱所」が有りました。現在の「石塚歯科医院」の所です。

今日のウォーキングは、そこから更に大通りを進み、神明宮参道に入り、第二公園で瓢箪池脇の桜の木で、開花の状態を確認してみました。少し咲きかけた花びらも有りましたが、開花とはまだ行かないようです。この寒さで又、開花も少し先になりそうです。
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子供の頃にチョッとタイムスリップした様な [建物]

昨日は道路の脇にまだ残雪が残る、八ヶ岳のふもと「南清里」に車を走らせました。中央自動車道の須玉I.Cで降り、八ヶ岳の東側山麓を北上する国道141号線で清里方面へ向かい、途中「道の駅 南きよさと」にて休憩。駐車場の案内板の周辺マップで、「三代校舎」の文字が気になりました。場所も道の駅から近くなので寄る事にしました。
八ヶ岳1.jpg
(三代校舎の建つ場所から望む、八ヶ岳)
三代校舎は八ヶ岳を背にする、山梨県北杜市須玉町下津金に建つ、明治学舎・大正学舎・昭和学舎という、三時代の学校の校舎が現存する所で、今も農業体験施設やレストラン・パン工房などとして活用されています。
明治学舎は、日本で現存する最古の擬洋風学校建築のひとつとして、山梨県指定有形文化財になっています。
三代学舎1.jpg
(三代校舎。右奥が明治学舎、手前は大正学舎、その手前の昭和学舎は写っていません)
近くに掲示された説明板によると、≪旧津金学校の藤村式校舎は、明治7年着工、明治8年10月21日に落成した。甲府市にある陸沢学校などと共に現存する日本最古の年代の擬洋風建築です。擬洋風建築とは、明治のはじめ西洋建築を強く志向しながらも技術的には日本の建築技術で建てられた建物の総称で山梨では、当時、近代化を奨励した藤村県令(知事)にちなみ藤村式と呼ばれています。校舎は大正校舎とともに諏訪神社のもとの境内にあり、学校を建てる前、村の共有地で村の中心であったこの場所が選ばれました。規模は県か最大、創建から今日まで同じ場所に有ります。≫と記されています。
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(擬洋風建築の明治学舎)
正面入口で入場料200円を払い、スリッパに履き替えて校舎の中へ。入口左側青いドアの向こうは「カフェ明治学校」が営業している様です。ドアの横に古いオルガンが置いてあります。白い鍵盤を指で押すと、予想以上に大きな音が鳴りました。今までの静かな空間が一瞬で壊れる様で、慌てて指を放しました。
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(明治学舎の入口、二階への階段が見える)(アンティークなオルガン、音はシッカリ鳴ります)
目の前の二階への急な階段を注意して登ります。二階には昔の教室の様子が復元されています。小学校低学年生が使用したような高さの低い机や椅子が並んでいます。
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(昭和30年代の教室を復元したものと、説明が有りました)
南側の窓には障子が嵌っていて、柔らかい光が室内を照らします。壁際にはお習字の作品が並べて貼られていました。
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(障子越しの光りの中に木の温もりが浮き上がります)
他の部屋には、昔の小学校などで使われていた懐かしい教材や備品が展示されていて、自分の小学生の頃の思い出がふとよみがえってきます。
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(私もこれで日食や月食のしくみを学びました)(パンツ姿で乗った。あの頃はガリガリだった)
明治学舎の西隣に建つのは大正学舎です。校舎の前には何故か「野口英世像」が建てられていました。
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(大正学舎、今は農業体験実習などが行われています)(校舎前に建てられた野口英世の像)
明治学舎と大正学舎との間の裏手に諏訪神社社殿が祀られていましたので、参拝をして来ました。社殿前に大きな石碑が建てられています。正面に「古宮の城迹」と大きく刻されています。どのような史跡なのか碑陰に説明文が有りました。
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(裏手高台に鎮座する諏訪神社社殿)       (社殿前の「古宮の城迹」の碑)

≪此の地は 甲斐国志が記す古宮の城迹である 戦国時代の頃 武田家に仕えて甲信の国境警護に任した武士団 津金衆の旗頭津金氏歴代の居城・・・・≫ そして、≪室町後期文明年間 常陸佐竹氏の一族薩摩守胤義とその子美濃守胤秀が 武田信昌を慕って来甲し 戦功により津金郷に封せられ 苗字も佐竹を津金と改めた・・・・≫と記しています。ただ津金氏の先祖については他にも説が有るようです。
時代は移って明治となり、明治学制の頒布に伴って、この古宮の城迹に明治8年新しく津金学校が建てられ、≪星霜115年の今尚儼存している。≫と結んでいます。≪平成四年四月吉日 氏子一同建之≫

八ヶ岳の南麓のこの地にて、僅かな時間でしたが、遠い昔の思い出を呼び起こすような、小さい頃に戻ったような気持ちに浸ることが出来ました。

群馬県桐生市の重伝建保存地区を歩く [歩く]

今日は、「歴史と文化を歩く会-栃木」のメンバー16名にて、お隣の県群馬、桐生市の街中を歩いて来ました。今回歩いた所は桐生新町重要伝統的建造物群保存地区で、我が栃木市の嘉右衛門町と同じ、平成24年7月9日に同時に重伝建保存地区に選定された所になります。
天気予報では、朝から1日雨、所によっては強く、雷の発生も有るという最悪の状況。朝家を出る時にはすでに小雨が降っていました。それでも「雨の時は雨の時でなければ見られない景色が見られる。」とポジテブ思考で出発しました。
栃木駅からJR両毛線の列車に揺られて50分後、桐生駅に到着。桐生の空は予想以上に明るく、雨粒も時折頬を濡らす程度で、用意した雨傘もまだ広げる程でもない。「これ位で降るのを辛抱してほしい」と、天に願う。
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(歩き始めて目に留まった歴史を感じるビル)(街中に立つ、「桐生新町町立て祭」の幟旗)
まず、桐生駅から歩いて重伝建保存地区となっている、本町二丁目の「有鄰館」へ向かいます。この有鄰館の中に有る、「桐生からくり人形芝居館」にて、毎月第一と第三土曜日に開演されるからくり人形芝居を見る事が、今回の桐生行のひとつの目的にもなっていました。
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(有鄰館の奥、「からくり人形芝居館」へ)    (桐生からくり人形芝居館入口)
保存会の方々から、展示されているからくり人形の動く仕組みの説明や、保存会のこれまでの活動の様子などを聞いた後、実際にからくり人形による芝居の鑑賞をしました。演目は「曽我兄弟夜討」と天女の人形が空を優雅に舞う「羽衣」の二つを見せて頂きました。芝居の様子を撮影する事は叶わなかったのですが、反面シッカリと上演されるからくり人形達の演じる様子を見る事が出来ました。
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(館内撮影禁止のなか、撮影OKの一コマ) (昭和初期上演の写真を基に復元された人形)
からくり人形の芝居鑑賞を終え、外に出ると白い雲の間から青い空が覗いて、朝からの小雨もすっかり止んでいました。時計はすでにお昼の12時になろうとしていて、お腹もかなり空いて来ています。そこで弁当を食べる為に、本町1丁目の「四辻の斎嘉」に向かいます。
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(外はすっかり雨も上がり青空も。有鄰館煉瓦倉庫) (雨傘も日傘代わりに。四辻の斎嘉へ)
途中通りに建つ多くの歴史を感じる建物を横目に、まずは腹ごしらいを済ませて、午後の地元のガイドさんの案内に依る街歩きに期待を膨らませます。
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(昼の弁当を食べる場所として、御庭を貸して頂いた「四辻の斎嘉」さん)
午後1時より地元のボランティア観光ガイドの方二名の案内で保存地区の歴史的背景を含め説明を聞きながら、桐生の街中ウォークを堪能しました。
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(絹織物業の街のシンボル「のこぎり屋根」の工場の説明を聞く)
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(現在はパン工房やワイン貯蔵庫等に利用されている、旧機織り工場)
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(本町通りの北端に遷座する天満宮社殿)  (本殿周りに施された見事な彫刻装飾)
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(天満宮裏手の群馬大学理工学部に残る、国登録有形文化財の建物)
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(からくり人形芝居館の有る有鄰館は中も外も見どころ満載でした)
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(いたる所で見かける土蔵も、それぞれ個性が有ります)
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(本町通りで現役で営業している銭湯) (桐生信用金庫本町支店屋根の風見鶏)
楽しい時間はあっという間に経ってしまいます。両毛線は予定する時間に遅れてしまうと、次の電車まで30分以上待たなければなりませんので、後半は早歩きで駅に向かいました。案内して下さったガイドの方々には無理ばかりお願いしてしまいましたが、無事に予定の電車で、栃木へと帰る事が出来ました。
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(JR桐生駅下り線ホーム) (下り線ホーム反対側、わたらせ渓谷鉄道の車両が発車を待つ)

又、何時かじっくりと歩いて見たい、桐生の街でした。今日の総歩数は、11,493歩。

平柳町1丁目鎮座の星宮神社 [栃木市の神社]

今日の午前中は陽射しも有り、暖かさにつられて栃木市内の散策に出かけました。嘉右衛門町から東へ折れて新栃木駅前通りを進み、途中で左手に入る細い路地を抜けて行くと、杉木立に覆われた平柳の星宮神社の前の通りに出ます。
ここに来るのは4年ぶりになりますが、神社境内入口付近がすっかり綺麗に改修され、車いすでも拝殿前まで楽に行ける様、入口段差部にはスロープが設けられ、参道の敷石も新しくなっていました。
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(星宮神社前より、ここに神社専用駐車スペースが2台分有ります。)
神社境内入口に向かって左側、塀際に十九夜供養の石仏などが祀られていますが、それらと並んで「花崗石橋寄付人名■」と刻された石柱が建てられています。石柱の右側、星宮神社境内との間に、幅1メートル弱の水路が流れています。現在付近に石橋は確認出来ません。おそらく以前この水路に石の橋を架けたものではないかと想像致します。
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(神社入口左手の石仏群)           (神社境内西側に沿って流れる水路)
この星宮神社境内の西側に沿て流れている水路は、明治十九年発行の迅速測図を確認しますと、大町の北部において、巴波川から分岐したもので、この神社から更に南に流れ、杢冷川につながっています。
石の鳥居を潜り参道を進みます。右手に社務所が有ります、今日は閉まっている様です。玄関には「社務所」と書かれた木札の他に、「宮本公民館」の木札も掲げられています。地元自治会の集会場も併設されている様です。
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(拝殿正面)                          (社務所兼宮本公民館)
左側には手水舎、そしてその先にこれは最近設置されたモニュメントでしょうか、「なでうなぎ」との表示が有ります。
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(参道左側に設置されている「なでうなぎ」
半球盤の上面に八角形の方位図と十二支の文字が描かれています。中央の球面上に三匹の「うなぎ」が泳ぐ様に造られています。説明が難しいので写真を見て下さい。
傍に「なでうなぎの由来」が有りました。説明に有ったように私もうなぎと自分の干支の文字をなでさせてもらいました。
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(「なでうなぎ」の由来が記されています)   (「なでうなぎ」上から見るとこうなっています)
拝殿前に進み、参拝を済ませます。この星宮神社の祭神は、「磐裂命」「根裂命」「経津主命」であると拝殿前に記されています。
参拝の後、境内の中を散策させて頂きました。拝殿前の狛犬はドッシリとした感じで、とても重量感が有ります。
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(重量感たっぷりの狛犬。後方に写る天水桶は昭和46年10月13日の日付が有ります)
境内には沢山の石の祠が祀られています。参道左側に建つ神楽殿の左側に六社、神楽殿に近い方から「須賀神社」「大杉神社」「御祖神社」「稲荷神社」「血方神社」「産泰神社」です。
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(参道左手に並ぶ境内社、六社)           (神楽殿)
社殿の左手奥にも「白山神社」「山神社」「水神社」「神明社」「稲荷社」「大国社」が祀られています。
社殿右手奥は、宮司さんのお住まいへ通じている様です。
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(社殿左側奥に祀られている境内社)      (社殿右側、奥の宮司さんのお住まいに続く)
神社の由緒については、境内に説明板等見かけませんので分かりませんが、社殿西側の木立の中に、背の高い大きな「星宮神社改築記念碑」と大書した石碑が建てられています。その碑陰に寄付者芳名がビッシリと刻されています。「昭和9年4月13日竣成」と有りますので、この日付が現在の社殿が造られた時と考えられます。
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(星宮神社改築記念碑)                (星宮神社本殿、左側面)
神社については素人で何も分かってませんが、星宮神社は明治初期の神仏分離以前は、虚空蔵菩薩を祀っている事が多く有った様で、ここの神社も先ほどの「なでうなぎ」の由来文に記されていますが、≪当神社の御祭神のお遣いであるうなぎは・・・・・(後略)≫とあるところから、やはり虚空蔵菩薩に関係している物と思われます。
機会が有ったら、宮司さんにお尋ねしたいと思いました。

栃木市平井町内を流れる六か村用水 [栃木市の河川と橋]

栃木の市街地の西方、太平山の東麓を北から南に流れる永野川、その流れは私が見て来ている半世紀においては、その川筋は殆ど変っていません。しかし明治に成って作られた地形図を追っていくと、幾つかの大きな変化を見る事が出来ます。
その一つは、太平山神社表参道に向かう道筋に架かる「二杉橋」の下流域、現在の平井町と片柳町との境界を流れ、大平町下皆川に至る永野川は、昭和の初めごろまでは、二杉橋から250メートル程下流の所で、大きく流れを東の方向に変えた後、左右に大きく蛇行を繰り返し、昨年9月の台風によって大きな被害を受けて、使用中止となった「栃木市営片柳住宅」の北側から西側へと流れ、現在の川に合流しています。と言うより、元々の永野川の流れが、そのように大きく蛇行して流れていたものを、昭和の初期に河川改修によって、その間をほぼ真直ぐ開鑿して、現在の様に変えたのでした。
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(栃木環状線の東側に残る、永野川の旧河道)    (片柳市営住宅北側の永野川旧河道)
国土地理院の2万5千分1の地形図「栃木」では、昭和22年9月発行分でも、永野川の流れは旧河川の流れが描かれています。
平井町の南東部、大平町下皆川との境界近くに小さな共同墓地が有ります。その墓地の中に小さな記念碑が建てられています。碑文を確認すると≪栃木町大字平井字柴崎平井共有恵光院墓地は昭和10年1月24日永野川河線改修工事の為河線敷と為れるを以てこれを廃止し同月30日栃木町有として■地に新設改葬せるものなり   栃木町長長谷川調七識≫と刻されています。
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(平井町南東部の共同墓地内に建つ、恵光院墓地改葬記念碑)
この石碑に刻された「恵光院墓地」はどこに有ったのか。
昭和22年発行の地図を見ると、二杉橋の直ぐ下流の所で永野川から分岐して真直ぐに流れる用水堀が描かれています。この用水堀に現在永野川にかけられている「大柳橋」を渡って来た道筋に小さな橋が架かっています。現在の橋は何の表示も有りませんが、35年ほど前私が見た以前の橋の親柱には、「恵光院橋」と確かに刻されていました。そしてその橋の北東側橋詰に墓地の地図記号を確認出来ました。
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(大柳橋西側交差点付近、六か村用水に架かる現在の恵光院橋と高欄)
現在は河川改修により作られた新しい永野川の右岸の土手になっている所になります。
現在も永野川の右岸の西側を、永野川とほぼ並行して流れるこの用水堀は、「六か村用水」と呼ばれる、農業灌漑用水堀です。
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(永野川右岸土手上より下流側を撮影。左永野川、右の道路沿いに六か村用水。)
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(恵光院橋上より六か村用水上流方向を撮影)
「六か村用水」については、大平町誌に記されています。
≪下皆川村・富田村など六か村用水≫と題して、以下の様に説明されています。
≪二本杉川の二杉というところに、大口堰という堰を設けて片柳村の用水をひき、さらにその川下の下皆川村境の和田山に、小堰という堰を設けて、下皆川村・富田宿を経て古橋村・沖島村・赤塚村・曲ヶ島村をうるおす用水を引き、これを六ヵ村用水と呼んでいた。≫

河川改修後の新しい川筋に架けられた「大柳橋(だいりゅうばし)」が有る。現在の橋は昭和65年2月の竣工。橋長54メートル、幅員9.25メートルと立派に架け替えられた。
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(大柳橋の東橋詰より西方向を。奥に太平山を望む)(上流側左岸より大柳橋を望む)
大柳橋周辺の様子、永野川の川筋の変化を概略図に表わしてみました。現状の地図上に昭和初期前の旧永野川の河道を朱書きで追記して、河川改修前後の姿を表現してみました。
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(平井町・片柳町・大平町下皆川境界付近の永野川の様子)

以下に現在も見られる六か村用水の風景を載せてみました。
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(二杉橋下流側に設けられた堰、右奥に見えるのが「二杉橋」)
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(堰の上流部右岸に見える取水口)  (六か村用水堀の上流端。太平沢の水も注ぎこむ)
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(大柳橋下流、下皆川境界部に設けられた堰、後方に大柳橋を望む)
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(大平町下皆川入口の六か村用水に設けられた、分岐水門)(下皆川街道脇の暗渠部水門)

新しい大光寺橋が今日開通しました。 [栃木市の橋梁]

今日、栃木市の東の縁を北から南に流れる「思川」に新しい橋が完成して、盛大に開通式が執り行われました。
栃木市日ノ出町から東に進み、下野市を通って、真岡市久下田に至る、栃木県道44号線(主要地方道)が、栃木市大光寺町内にて思川を渡る「大光寺橋」になります。
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(右側に新しい大光寺橋、左側がこれまでの大光寺橋)
今までの旧大光寺橋は、昭和36年の架橋から55年の月日が経ち、老朽化が著しくなっていました。又、通行量の増加に伴い、平成3年に自転車や歩行での通行の安全をはかるため為、北側に「大光寺側道橋」も併設して対応して来ました。その為以前から新しい橋の完成に大きな希望が寄せられていました。
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(昭和56年撮影の大光寺橋)        (平成27年4月撮影、建設中の新橋を望む)
今日、開通式を迎えた新しい「大光寺橋」は、従来の橋の60メートル南側(下流側)に建設され、橋の長さ339メートル、橋の全幅13.3メートル(有効幅員12.5メートル。7.5メートルの車道の両側に2.5メートル幅の歩道を完備)、橋の左岸(東側)で大きく北にカーブし、下野市に入った蓮華寺の前方で旧道につながっています。
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(渡り初め式を待つ、新大光寺橋)
開通式が始まる前、少しみぞれらしきものが落ち、冷たい風が吹いていましたが、そんな中でも着々と準備が進められていました。新しい橋の西橋詰に開通式典用の多くのテントが張られ、式典を盛り上げる為、地元の円光寺お囃子保存会、栃木市立国府南小学校和太鼓部、栃木市立東陽中学校ブラスバンド部の皆さんが待機をしています。栃木県建設業協会下都賀支部によるポップコーンやとん汁、わたあめのブースも設けられていました。
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(式典が開始するのを待つ人達)
そして、「とち丸くん」や「とち介」もお祝いに駆けつけていました。
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(栃木のTのポーズで写真に写るとち介)(とち介が示す橋名プレートの文字は平池県議の書)
式典が始まる頃には、雲が切れ青空が顔を出して来ました。そして、それに伴って多くの一般の参列者も集まって来ました。
開通式式典が始まり、栃木県知事をはじめ県議会副議長、地元栃木選出の県会議員、栃木土木事務所長、栃木市長他関係者の方々から挨拶が有りました。引き続き橋の袂に移動して、新しい大光寺橋の交通の安全を祈る式や、関係者代表によるテープカット、くす玉開披が粛々と進められました。
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(交通安全祈願の文字を清める)     (テープカットに臨む県知事他代表者の皆さん)
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(地元の幼稚園の園児たちも加わって、くす玉を開披)
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(一般の参加者も新しい橋の渡り初め)  (先導するパトカーに続いて新橋を渡る関係車両)
大勢の関係者の人達と一般の参列者で祝賀ムードに包まれた一日。新しい橋の上から役目を終えた旧大光寺橋を眺め、「長い間お疲れ様でした」と声を掛けました。
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(役目を終えようとしている、これまでの大光寺橋)