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栃木市街地に有る三角点「古城」 [歩く]

今日はウォーキングを兼ねて、栃木第四小学校の校庭に有る三等三角点「古城」を確認して来ました。
市街地に有る三角点は、学校の校庭の隅に設置されているケースが多くなっています。栃木市街地周辺でも、今回確認した、「古城」は市立栃木第四小学校、「合戦場」は市立合戦場小学校、「長原東」は市立国府南小学校、「吹上中学校」はその名前の通り市立吹上中学校、「上高島」は市立大平東小学校、「大平中学」は市立大平中学校などなど。
この三角点「古城」は最初からこの場所に設置されたものでは有りませんでした。国土地理院発行の2万5千分の1「栃木」の地形図を確認すると、大正6年から平成9年発行までは、現在の設置場所より330m程南東方向、現在の「TUTAYA栃木城内店」の北側、県道31号の新道と東武日光線との交差する丁度その場所に有りました。
大正6年に発行された地形図の城内町1丁目付近を抜粋して、スケッチした上に現状の主要道路を朱書きした概略図を下に添付しました。更にその図に明治初期の測量で製作された迅速測図に記されている、元の栃木城の土塁らしき地図記号を紫色にて記してみた。すると以前の三角点はこの土塁で囲まれた上に一致しました。設置場所の標高は「45.2」になります。
栃木城跡付近の地図.jpg
(大正6年発行の「栃木」の地形図を基に三角点の位置変更状況を示した略図)
昭和4年に東武日光線が開業した後も、その線路の直ぐ脇に三角点記号が記されていました。現在の国土地理院の三角点データベースを確認しても、この三角点「古城」の現設地目は鉄道用地と記されています。(現在設置されている場所は、学校用地に変わっているはずですが)
三角点「古城」4.jpg
(両毛線の上を東武日光線が交差している点。この東側に元の三角点は有りました。)
平成15年発行の地形図からは、現在の小学校校庭に三角点記号が変更され、標高も「42.5」に変わっています。栃木駅の高架化に伴い、設置場所の線路も高架となった為、三角点も移動しなければならなくなったのでした。
三角点「古城」5.jpg
(以前の三角点が設置されていた辺り。高架上を東武日光線が通る)
三角点「古城」3.jpg
(現在の三角点が設置されている、栃木市立栃木第四小学校)
昔と違って最近は小学校の校庭と言えども、やたらと入る事が出来ない為、これまで門の外から覗いていましたが、見つかりませんでした。今回は失礼して校庭内に入らせて頂き、探し当てることが出来ました。
三角点「古城」は、校庭の南の旧正門の脇のコンクリート製の遮蔽物の裏手に、隠れる様に建てられていました。
三角点「古城」2.jpg三角点「古城」1.jpg
(コンクリートブロックの遮蔽物の裏手に設置された、三等三角点「古城」)

三角点の設置されている栃木第四小学校の東側には、栃木城跡公園が有ります。
栃木城跡1.jpg栃木城跡2.jpg
(栃木城跡公園)  
この三角点の名称「古城」も、この栃木城跡から名付けたものと思われます。
本日の総歩数は11,364歩でした。        

東武日光線新栃木駅 [懐かしい写真]

私が電車を利用して出かける時は、以前はもっぱら栃木駅でした。距離的には新栃木駅が最寄りの駅なのですが、通った中学校が、西中学校だった為、友達が栃木駅方向に多かった事が、原因している様です。社会人に成って宇都宮市内の会社に勤めてからも、電車通勤では栃木駅を利用していました。
その為、新栃木駅を撮影した古い写真は殆ど有りません。
最近は歩いて駅まで行く為、少しでも近い方という事で、常に新栃木駅を利用するようになりましたが。
今回は、そんな新栃木駅を探ります。
2015年12月新栃木駅舎.jpg
(東武日光線新栃木駅)
新栃木駅は、昭和4年4月1日東武日光線が、杉戸(現在の東武動物公園駅)から新鹿沼駅まで開業した時に、同時に開業をしています。
2015年12月新栃木駅ホーム.jpg2013年9月新栃木駅南踏切.jpg
(改札口を入ると、単式ホーム(1番線)線路を渡って島式ホーム(2・3番線)(駅南の踏切)
2万5千分の1地形図「栃木」が大正六年7月に初めて国土地理院(当時は大日本帝国陸地測量部)より発行されましたが、その中には当然栃木には両毛線しか載っていません。次の昭和7年12月発行の地図には東武日光線が描かれ、栃木駅・新栃木駅・合戦場駅が載っています。しかし、昭和6年8月11日に開通した、東武宇都宮線がこの地形図に現れるのは戦後の昭和22年9月30日の発行を待たなければなりませんでした。
現在も新栃木駅の南西側に建つ鉄塔は、昭和49年発行の地図に「高塔」の地図記号が記されましたが、昭和40年(1965)9月に私が撮影した、新栃木駅構内の写真に、この鉄塔が写っていますから、それ以前には建てられていました。
1965年9月新栃木駅構内1(1).jpg
(1965年9月に撮影した、新栃木駅構内。駅北側から撮影)
2013年9月新栃木駅構内1.jpg
(1965年の撮影位置と同じ場所から撮影。2013年9月撮影)
2013年9月新栃木駅構内2.jpg
(駅北側の踏切を渡り、北東側より撮影。)
現在は、駅舎の有る西口と駅東側と、線路を跨ぐ通路が出来ています。
2016年1月通信塔.jpg2016年2月東武社章の付いた建物.jpg
(駅の南西部に建つ通信用鉄塔)  (鉄塔の南側に建つ建物に東武鉄道の社章が残る)

新栃木駅の北側で真直ぐ北に向かう日光線と右に大きくカーブして東へ向かう宇都宮線とに分かれます。そしてその間に東武日光線、南栗橋車両管区新栃木出張所の車両基地が有ります。
栃木の市街地から合戦場に向かう、県道3号線が日光線の線路を跨ぐ跨線橋の上に登ると、車両基地に並ぶ、いろんな東武の車両を見る事が出来ます。
2011年3月20日新栃木駅車庫.jpg
(手前の複線が東武日光線、その先の車両基地に並ぶ多くの車両)

旅先から帰り、新栃木駅の駅前に立つと、無事に帰れた安堵感に包まれます。
2015年12月夜の新栃木駅.jpg2015年12月夜の新栃木駅表示.jpg



栃木市の煙突のある風景(その2) [懐かしい写真]

2月5日に「栃木市の煙突のある風景」として、国土地理院発行2万5千分の1地形図「栃木」の中で、煙突の地図記号の有る風景を中心に、手持ちの写真を探して紹介しました。今回は「その2」として、地形図「下野大柿」「小金井」「下野藤岡」にまたがる、栃木市の範囲についても、「煙突」の記号を探してみました。
「下野大柿」の地形図を眺めてみると、昭和46年発行地図に1ヶ所煙突記号が見つかりました。栃木市西方町元、市立西方小学校の西方に有る、地酒「杉並木」の名前で良く知られている、創業文化八年(1811)と言う老舗の「飯沼銘醸株式会社」になります。(栃木市内では一番古い酒蔵のようです)
昭和52年発行地図には、煙突記号が2個記されていますが、平成元年発行地図では又、1個に戻っています。「下野大柿」の最新地図は、平成15年(2003)発行になりますが、まだ煙突記号は有りました。私が2011年3月に撮影した写真にも、立派な煙突が1本建っています。しかし現在はこの煙突も撤去されてしまった様です。
2011年3月飯沼酒造4.jpg2011年3月飯沼酒造1.jpg
(2011年3月に撮影した西方町元、飯沼銘醸(株)の煙突。現在は無くなりました。)

この「下野大柿」の地形図には、昭和52年発行から別に1ヶ所煙突記号が増えています。東北自動車道と北関東自動車道が合流する「栃木都賀ジャンクション」の東側、県道37号(栃木粟野線)の道路沿いに有ります。「多喜水」と言う日本酒を造っていた元の三和酒造の煙突になります。現在は廃業して名前も変わってしまっていますが、今もコンクリート製の煙突が建っています。
都賀町の煙突2.jpg都賀町の煙突1.jpg
(栃木市都賀町木の粟野街道沿いに建っている、元三和酒造の煙突)

平成元年発行の「下野大柿」の地形図には新たに1ヶ所が追加となり、3ヶ所となりました。増えたのは梓町のゴミ焼却施設、現在の「とちぎクリーンプラザ」の煙突です。現在の施設は平成十五年(2003)に完成した建物です。(煙突もすっかりイメージが変わりました)
栃木クリーンプラザ1.jpg
(栃木市梓町、国道293号沿いに建つ「とちぎクリーンプラザ」の煙突)

昭和55年発行の「小金井」の地形図、栃木市区域に煙突記号が2ヶ所見つかりました。一つは樋ノ口町の県道31号(栃木小山線)沿いに有った会社、フドー(株)栃木工場の煙突です。現在はこの工場も煙突も無くなりました。
1999年2月フドー化学(樋の口町).jpg
(1999年2月に撮影した、小山街道沿いのフドー(株)栃木工場の煙突)
もう一つは国府町の会社、不二ラテックス(株)の煙突です。ただこちらは平成九年発行の地形図では、無くなっています。私もこの会社の煙突は撮影していませんでした。

他に栃木市内では、地形図に記載されていない煙突も有りました。たまたま私の写した写真に残っていた煙突は、大平町下皆川の「黒龍」と言う日本酒を造っていた、創業明治元年の大平酒造(株)の煙突になります。
1974年3月大平酒造.jpg
(1974年3月撮影、栃木市大平町下皆川の大平酒造(株)の煙突)
手前の火の見櫓を撮影したものですが、背景に写っている煙突がそうです。
この煙突は現在も残っていましたので、先日行って撮影をして来ました。
大平酒造1.jpg大平酒造3.jpg
(大平酒造(株)店舗前にて撮影)        (咲き出した梅の花、背景の煙突)
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(大平町下皆川、臼井産婦人科駐車場付近から望む、大平酒造の煙突)

そして、現在は無くなってしまいましたが、藤岡町藤岡に有った岩崎醤油(株)の煙突です。私が写真を撮ったのは2014年3月ですから、今から2年前です。今回再確認に出かけましたが、すでに無くなっておりました。
2014年3月岩崎醤油(藤岡町)1.jpg2014年3月岩崎醤油(藤岡町)2.jpg
(栃木市藤岡町藤岡、県道9号線沿いの岩崎醤油(株)の煙突。現在は有りません)

栃木市では有りませんが、「小金井」の地形図に煙突記号の有る、小山市小薬の若駒酒造(株)です。こちらは創業が万延元年(1860)という事で、小山市の酒蔵で一番古いそうです。
2013年11月若駒酒造(小薬)2.jpg2013年11月若駒酒造(小薬)1.jpg
(2013年11月撮影、小山市小薬東端、県道296号より望む若駒酒造(株)の煙突)

こうして見て見ますと、煙突は酒蔵や味噌・醤油などの醸造業に多く見られることが分かります。そして酒蔵などは、西方町・都賀町・大平町・旧栃木市などそれぞれの地域に存在をしていることにも、興味を感じます。私は日本酒は殆ど飲みませんが、それでもお正月やお祝いの席では欠かせない飲み物で、最近では海外でも日本酒が注目されている話も聞きます。
それでもこうした煙突は次第に消えていく運命に有るのかも知れません。

岩舟町歴史ウォーキング [歩く]

今日は昼前から小雨が降る天候になりましたが、栃木教育委員会生涯学習課主催の、「岩船山&円仁ゆかりの地を歩こう!」に参加して来ました。
栃木駅前に集合して、JR両毛線にて岩舟駅へ。岩舟駅前にて地元岩舟地域の人達と合流して、主催側スタッフ3名、参加者18名、そして案内して下さる講師1名の総勢22名にて歩いて岩舟町の史跡スポットを巡りました。
最初は出発地「岩舟駅」の駅舎石組みについて、地元産出の岩舟石を使用して「ドイツ組み」と言う大小異なるサイズの石を組んで造られていると、説明されました。
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(JR両毛線岩舟駅駅舎)                  (岩舟石をドイツ組みしている)
次に岩船山の麓に建つ、日本で一番小さい資料館とも言われる「岩舟石の資料館」を見学しました。これまで何度も建物外観の写真は撮っていましたが、中に入るのは初めてです。
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(岩舟石の資料館)              (資料館天井から吊られた照明にも趣が有ります)
説明に依ると資料館となったこの建物は昭和初期に日本を襲った大不況の際に、石工の救済と岩舟石の細工技術の保存の為に、当地にて石材店を営んでいた川島定四郎氏によって、会社の事務所として建築されました。内装・外装ともにすばらしい細工が施され、当時の石工の技術の高さが覗われるものです。
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(資料館の外壁、岩舟石を細工して積んでいる。窓枠もモダンである)
資料館の裏手から岩船山中腹採石場跡の駐車場への道を登り、更に正面の石段の参道を登ります。少し登った右側に岩窟を利用した堂宇が有ります。中に舟の形に削った岩舟石の上に立った地蔵尊が祀られています。この場所は、宝亀元年(770)、日頃より生きている地蔵菩薩を拝みたいと願った、鳥取県大山の名僧弘誓坊明願が霊告によりはるばるこの地を訪れた時に、地蔵菩薩の化身であったとされる伊賀坊に出会った場所だと云われています。
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(坂中地蔵堂)              (岩船山で一番古い地蔵と云われる舟に乗った地蔵尊)
更に参道の残りの石段を必死の思いで登り、山頂に建てられた天台宗の寺院、「岩船山蓮華院高勝寺」へ。まず一番手前に建つ栃木県指定文化財の三重塔の元に向かいました。
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(休まずには登れない653段の石段)         (県指定文化財の三重塔)
県内の三重塔は、益子の西明寺、日光の四本竜寺、そしてここの3ヶ所だけと云います。寛延四年(1751)に建立されたもので、相輪頂上までの高さ19m、地元岩舟町駒場の大山平六と云う大工棟梁の名が棟札に記されていました。
三重塔から右手に少し下ると、同じく県指定文化財となっている、鐘楼の前に出ますが、現在修復工事の為周りを覆っている為、鐘楼を見学する事は出来ませんでした。説明に依ると文化財的価値が有るのは、地元特産の岩舟石による基礎と、岩舟石を巧みに組み上げた袴腰の部分に有るそうです。
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(県指定文化財の鐘楼)             (高勝寺本堂前参道両側の天明鋳物製燈籠)
本堂前参道両側に宝暦十三年(1763)に造られたと云われる、四基の天明鋳物製の燈籠が建っています。先の大戦において行われた共出を、菊の御紋が付いていた為免れたと云います。
奥之院まで行った後、本堂前の石段を下りて、享保十五年(1730)の建立で、栃木県内で一番大きいと云われる仁王門を見学しました。
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(県指定文化財も仁王門)         (改修前山門の花瓦。「岩舩山」の文字が見える)

岩船山の見学は終わりです。次は、三毳山も北東側の山裾、下津原手洗窪の慈覚大師誕生の地に向かいます。岩船山参道の石段653段も、下りは何の苦も無く下りる事が出来ました。
途中、岩舟町最大の規模を持つ「甲塚古墳」、径約65m、高さ約7m、二段築成の大型円墳の横を通過して、三毳山麓の誕生寺に着きました。
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(甲塚古墳)                   (古墳の脇に立てられた案内板)
テキストの一部として配布された「岩舟町文化財・史跡めぐりノート」には、この慈覚大師誕生の地のなかで、大師の事を≪平安時代随一の学僧であり、日本天台宗興隆の一大貢献者である慈覚大師は名を円仁といい、延暦十三年(794)の秋ここで誕生された。生家壬生氏は崇神天皇の第一皇子豊城入彦命の子孫といわれる名族であった。≫と記しています。この地の直ぐ近くを古代の東山道が通っていました。実際にどこを東山道が通っていたかは、遺構などが確認されていない為、ハッキリしていません。三鴨の駅として畳岡や下津原附近が言われていますがそれも確認されていないようです。この駅家の駅長が壬生公首麻呂(みぶのきみおびとまろ)で慈覚大師円仁の父親と云われているとの説明も有りました。
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(三毳山北東部山裾にひっそりと残る、慈覚大師円仁誕生の地)
次に向かったのが、慈覚大師円仁のお母さんをお祀りしたお墓へ移動します。慈覚大師御母公の墳墓は、岩舟町上岡の現在は廃寺となっている、妙光山実相院医王寺跡に祀られています。現在は新しく覆い屋根も建てられています。丁度周辺には梅の花が雨に濡れていました。
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(慈覚大師御母公の墓、実相院跡)           
此の頃に成ると、朝から気を揉んでいた雨が次第に強く降り出し、雨合羽や傘を広げる状況になって来ました。東北自動車道岩舟ジャンクションの東側を北に歩いて行くと、前方に雨雲が低く垂れこむ中、佐野市との境を成す、標高323.7mの諏訪岳が浮かんでいます。諏訪岳の南東側山麓に、本日の最終目的地、慈覚大師円仁が9歳から15歳まで修行した天台宗の寺院、小野寺山転法輪院大慈寺と、国指定文化財、延喜式内社、村檜神社が有ります。
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(標高323.7mの諏訪岳、手前岩舟ジャンクション)(雨の中小野寺を目指す)
東北自動車道東側側道脇に祀られている、小野寺禅師太郎道綱の墓を見学。保元元年(1156)に小野寺義寛がこの地に館を構えた。墓の主禅師太郎道綱は小野寺城二代目として小野寺氏を大成させ、鎌倉に幕府を開いた源頼朝の下で活躍、特に頼朝の奥州征伐の時に活躍して、奥州新田郡一帯の地頭職として東北に小野寺氏が栄えたとの説明等が有りました。また現在小野寺氏の館跡は東北自動車道が貫通した事で、西側の道路脇に小さな「小野寺城跡と刻した石碑が建てられていました。
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(小野寺禅師太郎道綱の墓)         (小野寺城跡と記す石碑が建っている)
小野寺山大慈寺に到着しました。大慈寺は寺伝によると天平九年(737)行基菩薩の開基、二世は道忠、三世は広智と伝えます。慈覚大師円仁は、広智の弟子としてこの寺で15歳まで修業の後、連れられて比叡山に登り、最澄の弟子となりました。円仁はその後承和五年(838)最後の遣唐使で唐に渡り、五台山や長安で修行して、約9年半後に無事に帰国しました。この間の旅の記録を「入唐求法巡礼行記」と言う日記に記しました。この日記は、玄奘三蔵が記した「大唐西域記」、マルコポーロによる「東方見聞録」と並んで、世界三大旅行記と言われているそうです。又、本堂裏手高台に建てられた相輪橖は、弘仁六年(815)最澄が国家鎮護の為に全国の六ヶ所に建てたものの一つです。現在の相輪橖は享保十年(1725)、回国修行の名僧常心が大慈寺を訪れた時に復元されたという事です。
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(雨に濡れる大慈寺山門)              (相輪橖の上部)
小野寺から栃木へは、栃木市の「ふれあいバス」で、「村檜神社入口」14時47分発に乗って帰る計画の為、最後の見学地の、村檜神社に急いで向かいました。
年輪を重ねた多くの杉の参道の奥、石段を登った上に祀られている村檜神社本殿は、室町時代後期の建物で三間社春日造り、檜皮葺きの屋根は50年に一度葺き替えを行うという。最近では平成18年に行われたと、その時の檜皮のサンプルと固定する為に用いる竹釘を、講師の方から見せて頂いた。
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(国指定重要文化財の村檜神社本殿)  (社殿前に奉納された絵馬、緑色のダルマと瓜の絵)
本日、スタート地点の岩舟駅から、ずっと一緒に歩いて説明をしてくれた講師の方と、村檜神社前で分かれて、ふれあいバスに乗って栃木に戻りました。今日一日、岩舟町の歴史の一部ですが色々と教えて頂きました。ここに書けた内容は、その中のほんの一部に過ぎません。私の頭脳ではとても受付けられません。ここに書けた内容の殆んども、講師の方が予め用意して渡されたレジメに依りました。ほとんどが雨の降る中の歴史ウォーキングとなりましたが、雨天の中でしか見られない景色も有ったような気がします。
本日の総歩数は、22,234歩となりました。

下野市の国分寺へ [堂々巡り]

今日は、栃木市から東方面へ自転車を走らせました。神田町から真直ぐ東に寄居町を抜け、国指定史跡の下野国庁跡の南で、思川の大光寺堰から取水した、「美田東部用水」の幹線が北から南に流れています。
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(下野国庁跡、復元された前殿が見える)         (美田東部用水幹線)
この用水は歴史が古く、開鑿されたのは元禄十二年(1699)と云われています。旧豊田、穂積村の小宅・黒本等の八つの大字の水田を灌漑しました。その後も何度も改良を加え、現在に至っています。
用水堀に橋が架かっています。「おおはし」の橋名板が付いています。長さm、幅4m程の小橋ですが、名前は大きいです。橋の下流側右岸に雑草に埋もれる様に、国土地理院が設置した「四等三角点」が有ります。
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(美田東部用水に架かる「おおはし」)        (橋の右岸の草むらに三角点「古国府」)
基準点名は「古国府」、標高は43.11mです。関東平野の田畑の中に位置し360度視界が開けています。
東側には栃木市の南東端に位置する「古国府(ふるこう)」の集落が有りその東側に思川の土手が見えます。目を西側に転じると、正面奥に太平・晃石の山並み、右手前には「下野国庁跡」、宮目神社の森が見えます。
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(三角点設置位置から西方を望む、正面奥に一等三角点の有る晃石山が見える。)
用水堀に沿って南に下がります。300m程で栃木市田村町から小山市小宅に入ります。この辺り行政区の境界線が東西に走っていますが、この境界線に沿っていにしえの「東山道」が通っていたと云われています。下野国庁が境界線の北側に面するこの場所、かっては奥州へ向かう人達や、都に戻る人達の往来が有ったと思うとロマンが広がります。
用水堀の脇に背の高さ3m強にもなる、大きな石碑が建てれれています。正面に元「栃木縣知事従四位勲三等 山縣三郎書」となる「幹線改良記念碑」の文字が刻されています。この碑は昭和十一年から昭和十五年にかけて行われた「県営用水幹線改良事業」の竣工記念碑になります。
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(美田東部用水の右岸に建つ石碑)    (石碑正面、元栃木県知事 山縣三郎による文字)
自転車は小山市小宅の集落を抜け、思川に架かる仮橋「小宅橋」を渡って、思川左岸の小山市飯塚の集落に入ります。
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(思川に架かる仮橋「小宅橋」遠望)         (小宅橋を東橋詰より)
飯塚は街の中央を南北に県道18号線が抜けています。この道はかっては「日光西街道(壬生通り)」と称し、小山市喜沢にて宇都宮を経由して日光に至る「日光街道」から分かれ、壬生を通って鹿沼市楡木にて「例幣使街道」と合流する街道です。国土地理院2万5千分の1「小金井」の地形図を眺めると、飯塚の集落は道路の両側に短冊状に町屋が形成されています。今も道路を壬生方向に走らせると、宿場町の趣を覗わせています。
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(現在の日光西街道・壬生通りの飯塚宿)
暫らく行くと「国指定 琵琶塚 摩利支天塚 古墳」の標識が道路上に見えて来ました。折角なので寄っみます。右折して脇道に入ると直ぐ正面に小丘を背にして鳥居が建っています。
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(琵琶塚・摩利支天塚古墳の標識) (摩利支天尊社の鳥居、後方の小丘が古墳)
右脇に「摩利支天尊」と刻した石柱があり、「史跡 摩利支天塚古墳」の説明板や「しもつけ風土記の丘案内図」などが建てれれています。
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(史跡説明板・摩利支天塚古墳)         (しもつけ風土記の丘案内図)
古墳の上に祀られている社殿に参拝をします。摩利支天塚古墳は説明板に依ると、≪隣接する琵琶塚古墳とともに県内で最大の規模を誇る大形の前方後円墳≫との事で、全長117m、前方部幅約75m、高さ約7m。後円部直径約70m、高さ10m。≪この古墳の築造年代は、5世紀末から6世紀初頭と推定されます。このような巨大な古墳の被葬者は、大和王権による支配体制の中で、下毛野国をはじめて統括した大首長であったとも考えられます。≫と説明されていました。
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(摩利支天塚古墳、前方部より後円部方向を望む)(後円部墳頂に祀られた摩利支天尊社)
続いて、北隣りに有る琵琶塚古墳にも登って見る事にしました。琵琶塚古墳も摩利支天塚古墳と同じ前方後円墳で、全長約123m、前方部幅約70m、高さ約9m。後円部直径約75m、高さ約11mと説明板に記されています。こちらの古墳には後円部の墳丘上に、小さな石の祠が祀られているだけでした。
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(史跡、琵琶塚古墳の説明板)     (琵琶塚古墳後円部墳頂に祀られた石の祠)
丁度墳丘周辺の発掘調査が行われていました。どのような結果に成るか、発表が待たれます。
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(国指定史跡琵琶塚古墳の東側面、左が前方部、右側が後円部)
古墳を後にして、下野市の国分寺を目指します。途中「天平の丘公園」「国分尼寺跡」を横目に、更に北に自転車を走らせます。道路は県道44号(栃木二宮線)に突き当たります。その道路の突き当たった先に真言宗豊山派の寺院「瑠璃光山安養院国分寺」が有ります。
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(瑠璃光山安養院国分寺、右手に本堂、正面奥薬師堂、火の見櫓の下が釈迦如来堂)
本堂前に「本堂会館建設経緯」を記した顕彰碑が建てられています。その冒頭に≪聖武天皇が国分寺建立の詔を発せられたのは、天平十三年(741)でありました。この詔勅によって建立された国分寺は「金光明四天王護国之寺」として僧20人がおかれてその地方の文化学問の中心をなしていたわけでございます。その後、建物の改修を重ね約三百年隆盛を極めましたが十一世紀には衰退期に入ったとされています。現在の瑠璃光山安養院国分寺がいつの頃建立されたか明確では有りませんが、先祖様が懸命に守ってきたお寺を私達の時代に潰してしまう訳にはいかないだろうと会合の都度総代相語らいその対応策を模索していました。 (後略)≫と記されています。今、立派になった本堂が建てられています。本堂に向かって左手方向に、これも立派な造りの薬師堂が建っています。
薬師堂の更に左手に、大きな五輪塔が三基並んでいます。これらの五輪塔は、下野市指定の文化財で、一説には聖武天皇、光明皇后、行基菩薩を祀ったものと云われます。
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(都賀三十三薬師、第20番札所)      (下野市指定文化財の五輪塔)
私はこの薬師堂を訪れるのは、4回目になります。最近では2013年10月12日です。栃木市教育委員会生涯学習課主催の「古代遺跡と薬師巡礼」と言う現地学習に参加した時です。国分寺は「都賀三十三薬師巡礼第20番札所」に成っています。
ここから後は交通量の少ない裏道を抜け壬生町を経由して栃木に戻りました。約28kmのサイクリングを楽しみました。

栃木県庁15階展望ロビーに登って来ました。 [建物]

今日は冷たい雨の一日となりましたが、昨日は季節外れのポカ陽気でした。その暖かさに誘われて、宇都宮市に出かけ、栃木県庁に行って来ました。
考えてみると、ここ最近昼間に宇都宮の市街地に出かけるのは有りませんでしたから、県庁付近の変わり様に驚くばかりです。現在の県庁庁舎は、平成19年12月の完成という事ですが、直接見るのは初めての事になります。
栃木から県道2号線の宇都宮街道(宇都宮市民は栃木街道と称す)を北上、桜2丁目交差点を右折して大通り(国道119号)を東へ。本町交差点を左折して中央通りを北上すると、突き当りにに地上15階の長方形のスッキリとしたデザインの県庁本館が青空を背景にそびえ立っています。
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(栃木県庁本館正面)         (4代目県庁舎、現在は昭和館として正面部分を移築)
以前有った県庁の正門は無く、県庁正門前交差点から真直ぐ県庁構内に入って行けます。門扉が撤去されたことで、まさに開かれた庁舎のイメージが広がります。
私が初めて栃木県庁に来たのは、社会人となってからです。昭和40年代は労働組合が元気な頃で、「春闘」とか「賃闘」とかが叫ばれ、毎年2月3月の頃には「春闘決起集会」なるものが、この栃木県庁前広場で開催され、まだ若かった私も組合の動員で、会社が終わってから出かけて来たのが、初めての県庁との出会いでした。(現在は県庁構内も地下駐車場出入り等の車道が縦横に走っていて、そんな集会も出来なくなっています。車で県庁に出かけるには便利になった感じですね。)
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(1970年3月撮影、栃木県庁前広場にて春闘決起集会)
それでも県庁舎の中に入ったのはたった2度だけでした。32歳に成って初めて海外に出るという事で、県庁内に有った旅券センター窓口に申請と、受取りに来た時です。現在は各市町役所で手続き出来る様になった事で、わざわざ県庁まで来る必要は無いですが)

車を地下駐車場に停めて、いざ県庁本館へ。(出入口が分からず駐車場内を右往左往してしまいました。)何とか1階正面の県民ロビーへ出て、15階展望ロビー直行のエレベーターで一気に最上階へ向かいました。
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(県庁本館1階県民ロビー)        (とちまるくんのぬいぐるみ、が出迎えてくれる)
地上65mと言う展望ロビーは、南側と北側とに分かれていますが、広いガラス窓の向こうに宇都宮の市街地が広がっています。
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(展望ロビー南主面方向、真下の交差点が県庁入口)(ロビーに展示された県庁舎の模型)
南南西の地平線上に、関東平野に突きだすように、太平山から晃石山の山並みが霞んで見えます。空気の澄んだ天候の日は丁度この太平山と晃石山の間に富士山が望めると説明が出ていました。
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(展望ロビー南西側コーナー)
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(南南東方向、手前の小丘は二荒山神社)   (南南西方向、太平連山が霞んで見える)
北側の展望ロビーに移動します。北側の窓越しに真っ先に目に飛び込んでくるのは、八幡山公園に宇都宮タワーです。北側展望ロビーには小さい子供の遊び場や、栃木県の伝統工芸品の展示場なども有り、家族連れなどが展望を楽しんでいました。
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(北側展望ロビーから宇都宮タワーを望む)    (展望ロビー北東側コーナー)
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(伝統工芸展示コーナー、栃木県内各市町の工芸品が並べられていました。)
この展望ロビーは、夜9時まで開放されていて、宇都宮のすばらしい夜景が楽しめるそうです。今度は是非、そんな夜景を見に来たいと思います。又、前の県庁舎の正面部分を復元等の改修工事を行い移築した昭和館も館内を見学できるという事なので、それも見学したいと思います。


永野川に架かる「二杉橋」 [栃木市の河川と橋]

栃木の市街地から太平山の参道に向かう、県道269号線(太平山公園線)が、永野川を渡る場所に架かっているのが、「二杉橋」です。
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(二杉橋、西橋詰に建てられた太平山神社の大鳥居、背景に太平山を望む)
「二杉橋」については、昭和53年に栃木県文化協会発行の「栃木の街道」の中に、その名前の由来が記されています。「日光例幣使街道」の六、「栃木界隈」に二本杉川と題し、≪富田宿の木戸を出ると下皆川(大平町)である。往還は下皆川の東縁部を14町ほどして川連村(大平町)に至るのであるが、下皆川地内を幅10間余の永野川が流れており、 -中略- 永野川は江戸時代この辺りでは二本杉川と呼んでいた。この上流の片柳村と平井村の境に二本の杉の大木が有り、そこには二本杉神社が祭られていた。今は二杉神社となっており、栃木市から太平山の表参道へ通ずる街道の橋が架かり、二杉橋と呼んでいるが、それから出た名称である。≫と。
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(二杉橋を下流側右岸より望む。右側の杉木立の中に二杉神社が祀られています。)
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(二杉神社社殿)                       (鳥居に掲げられた「二杉社」の神額)
現在架かっている橋は、昭和60年(1985)3月竣工、橋の東方県道沿いに竣工記念碑が建てられています。
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(二杉橋の橋桁に設置された橋銘板)         (県道沿いに建つ竣工記念碑)
永野川のこの場所には江戸時代の後期、初めて橋が架けられたと云われています。架橋に尽力した人物は、安政五年(1858)太平山内の法泉院(後に三光院と改称)に居住した名僧「慈雲律師」でした。慈雲律師は越前國(福井県)の人、安政の初期に林大学頭の元に有ったが、その後北白川宮門跡の日光律院に移っています。栃木の太平山内に来住してからは、病苦を救い、窮民に恵み、救世済民に力を尽くしていたと云います。
その徳を讃えその当時はこの橋は「律僧橋」と呼ばれていました。現在も県立太平山自然の家の東側に「慈雲律師の墓」が有ります。
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(「史蹟 慈雲律僧之墓 入口」と刻した石碑) (木立の中にひっそりと建つ慈雲律師の墓)

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(現在の橋に架け替え前の二杉橋。西橋詰の鳥居も以前は小さかった。)




太平山廻遊駅伝競走大会観戦 [駅伝・マラソン]

青空の下、穏やかな冬の陽射しの中、暑いランナーの戦いが繰り広げられました。
第60回目を迎える、栃木市伝統の駅伝競走大会、今年も早朝からスタートゴール地点となっている、永野川緑地公園に向かいました。
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(大勢の選手が集まったスタート地点)     (永野川緑地公園案内板)
インターネットなどで事前情報の収集をしましたが、昨年までの記事しかヒットしません。昨年も2月11日に開催されているので、今年も恐らく今日開催となると予想を付けて出かけた。ところがすでに駐車場は車で溢れて止められない状態。選手がウォーミングアップで走っています。
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(ウォーミングアップで走る選手の奥に日光連山) (歴史が覗える優勝カップ)
私の今日の計画では、開催が確認出来たら、撮影ポイントと決めている、太平山神社参道の隨神門付近に先行して、ランナーが来るのを待つ予定でした。
ところが念の為近くにいた大会関係者の方に尋ねると、今年はコースを変更して太平山には行かないと言うのです。危うくコースと関係の無い所で、来無いランナーを待つところでした。
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(昔、隨神門の前を走りぬける選手を撮影、当時は杉木立がうっそうとしていた)
見せて頂いた「大会実施要項」には、
≪第59回大会まで太平山を廻遊するコースで実施していましたが、コースの凍結や、特にカーブでの走路の安全の確保など、安全面を考え新たなコースとしました。≫とコース変更の理由が記されておりました。
新しいコースの状況が良く分からなかったので、スタート地点「永野川緑地公園」周辺での撮影に計画を変更しました。
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(一斉にスタートをする第一走者)
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(第一中継所、次々に襷が第二走者に手渡される)
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永野川に架かる「大岩橋」を走り抜けるランナー、遠く日光連山を望む)
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(大岩橋上を走り抜けるランナー達)
チームの襷をつなぐ為、一人一人が必死に走る姿は、いつ見ても感動もんです。

箱森町一丁目というところ [地図]

私が所属している自治会は、「箱一自治会」と言う、戸数百軒に満たない小さな自治会です。
現在の地図を見ても「箱森町」と言う町名は出ていますが「箱森町一丁目」と言う町名は見当たりません。従って箱一自治会は現在どの地域に当たるのか、知られていません。実は「箱一自治会」に所属している私自身も、正直良く判っていません。
箱森町一丁目と言う町名はどこから出て来たのか、国土地理院発行の「栃木」の地形図を遡って確認をすると、昭和40年3月発行地図に「箱森町」の区域に、「東部」「西部」そして「一丁目」の記載が確認できます。丁度私が子供の頃ですが、確かにあの頃は、「東箱森」「西箱森」それから「箱森一丁目」と言っていました。現在は東箱森自治会が二つに分かれて、「東箱森」「箱森中央」となって、4つの自治会に分かれています。
しかし、昭和49年11月に発行された地形図にはそれらの記載は消え、「箱森町」だけが表示されるようになりました。
私が子供の頃の箱森町一丁目の町内の様子を思い起こして、地図に表わしてみました。
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(昭和30年代の箱森町一丁目の様子)
町内の中心となっていたのは、現在信号機の設置されている「錦町五差路」と呼ばれるところです。地図の中央を縦に貫通している道路は、旧鍋山街道で明治33年から昭和8年まで、鍋山人車鉄道が通っていた所です。(当然、私は見た事ありません)
この道路は、南側で入舟町に入り、栃木高校の西側に至ります。北側は箱森町の十二社神社前に至ります。
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(地元を撮影した写真は意外と有りませんでした。1968年雪の日の鍋山街道)
この間、道路は一直線に出来ています。明治の19年7月発行の地図には描かれていませんから、この道路は明治の中期に鍋山人車鉄道を敷設する目的で通した、計画道路だったのでしょう。
十二社神社の前で方向を少し西に変え、野中町の増山ストアーに一直線に向かっています。
興味深い事は、栃高から十二社の間の道路上から道路前方奥に男体山を臨む事が出来て、十二社前で曲った後は道路前方奥に三峰山(鍋山)を望む様に成るのです。偶然なのか、計画的だったのか。
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(旧鍋山街道から望む男体山)           (旧鍋山街道から望む三峰山)
箱森町一丁目は、そんな鍋山街道を中心に商店が集まって出来た町で、良く言われる瓦屋さんや農家が多い西箱森や東箱森とは趣が異なります。
場所的にも栃高の直ぐ北西部に有り、入舟町や錦町に隣接する所です。
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(町内南の端、入舟町との境から栃高が見えました)(柳橋町との境辺りから錦着山を望む)
街の中には日常的に必要な商品を扱うお店が軒を連ねていました。「酒屋」「文房具店」「洋服店」「魚屋」「八百屋」「駄菓子屋」「自転車屋」「理髪店」「材木店」「石材店」「食糧品店」「御産婆さん」「加治屋」「薪屋」「大工さん」「農機具店」そして、あの時代ならではの、「懐炉灰工場」「鼻緒屋」などなど。
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(旧鍋山街道を走っていた関東バス)
今、これらの商店の殆んどが姿を消しています。昼間は通りから人影が無くなりました。ただ、自動車が通過していくだけの街に変わりました。
又、新住居表示に伴ってか、町内の境が道路境界となった事で。従来の「向こう三軒両隣り」の付き合いが分断をされ、箱一自治会は、箱森町区域、錦町区域、小平町区域へと町名が変わり、以前は学区も全員第二小から西中だったところが、錦町区域は中央小から東中へ、小平町は第三小から東中へと変わってしまいました。
元々鍋山街道沿いに出来た町の為、新たに住宅を建てる土地が町内には殆んど有りません、戸数が増加する事は今後もなさそうです。これからどのように変わって行くのか、見て行きたいと思っています。

大平町真弓の諏訪神社 [栃木市の神社]

栃木市大平町真弓の北の端、大平町蔵井との境に標高51mの小丘が有ります。北側から東側にかけて永野川が流れるこの小丘は、磯山と称して南麓中腹に「健御名方命」(タケミナカタノミコト)を祭神とする、「諏訪神社」が祀られています。
磯山の西の麓に沿った、県道252号線の旧道と思しき道の脇に、この諏訪神社の参道の入口が有り、石の鳥居が建っています。「諏訪神社」と刻した神額が掲げられています。鳥居の左手前には「郷社 諏訪神社」の石柱も建てられています。鳥居を潜り参道を進んで行くと、約100m程歩いた所で、二つ目の鳥居が現れます。
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(参道入口に建つ石の鳥居、神額「諏訪神社」)(参道途中に建つ、二番目の鳥居)
参道はその約80m先で車道を横断、その先は両側に杉木立がそびえる中を、参道が真直ぐに伸びています。杉並木の参道を更に100m程進んで行くと、参道の右手杉木立の先に、赤や青、黄色などで鮮やかに染められた滑り台やブランコなどの遊具の有る児童公園が見えます。公園に向かうとその奥に二階建ての家屋が見えます。
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(杉並木の参道の奥、社殿を望む)  (参道右脇の児童公園。奥の二階屋が社務所)
参道に戻り先に進みます。約30m程で三つ目の石の鳥居が有ります。鳥居の前後に石段が有ります。前が7段、後ろが24段です。鳥居を潜って石段を登った左手に手水舎、その裏手に古い井戸の後らしきものが有ります。手水舎の先に御神璽やお守の授与所が有ります。又右手の奥に先ほど児童公園に有った二階建ての建物の裏手二階部分から境内に通ずる橋が渡っています。建物は神社の社務所でした。
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(三番目の石の鳥居、ここから石段を登る)(社務所2階より境内に至る橋が架けてある。)
神社の社殿はここから更に一段高い所となり、21段の石段を登る事になります。石段手前左側に立札が立てられ、諏訪神社の祭神や由緒、例祭の碑に智などが記されています。
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(社殿前に向かう最後の石段)         (石段の脇に立てられた神社の由緒板)
最後の石段を登り拝殿の前に出ました。まずは参拝を済ませて、社殿の周りを散策しました。
拝殿中央に「諏訪大明神」と記した神額が掲げられています。その両側に安政六年(1859)と記した奉納額が掲げられています。「奉納百首歌合 花月雪」と題し、その後に百首の和歌が繊細な崩し字で記されてます。奉納板 川連榮四郎、 催主 真弓連となっていました。150年以上経ても、文字もシッカリ読む事が出来る、立派な奉納額です。
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(拝殿正面、神額の左右に「奉納百首歌合 花月雪」の奉納額)   (諏訪大明神の神額)
拝殿の屋根を見上げると、大棟の所に漆喰で出来ているのか、龍の装飾が施されています。このような装飾の屋根を私は初めて見ました。
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(拝殿の屋根、大棟の部分の龍の装飾)
境内には他に、「愛宕神社」や「龍神社」「白山社」「三日月社」「琴平社」などがお祀りされています。他に杉木立の中数基の石碑も建立されています。
社殿の裏手は岩場に成っていて、大きな石も見受けられます。岩場の脇にコンクリート製の円筒の構造物が建っています。前に立札が有り、それによると≪この水槽は昭和18年株式会社日立製作所栃木工場がこの大平の地に操業を開始した際、工場の工業用水供給の為建造され、その後昭和40年まで重要な役割を果たした当時を偲ぶ由緒ある建造物として爾今この水槽を永く保存するものである。≫と記されていました。
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(社殿裏手の岩場、右側に円筒の構造物が見える)     (構造物前に立つ説明板)
岩場の上に立つと北西方向に、太平山から晃石山の山並みが一望出来ます。
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今から40年以上も前になりますが、この岩場に天狗の足跡が有るという言い伝えを聞き、見に来た事や、白鷺が何羽も巣をつくっていると聞いて、見に来たりそんな思い出も有る磯山でした。