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吹上地区を北上する [自然の恵み]

昨日は穏やかな日曜だったので、久しぶりに自転車で出かけました。
栃木市の市街地から北西の方向に旧鍋山街道を遡って、吹上町から大森町、仲方町へと。
東北自動車道の下を抜けると、吉野工業所や吹上中学校の有る鴻ノ巣山が右手に見えてきます。山の木々はだいぶ色付いて華やかに成って来ていました。
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(東北自動車道の下を抜ける)         (吹上町の鴻ノ巣山を望む)
吉野工業所やサントリーの工場の有る山の西側、山際の車が通らない道を選んで、自転車を走らせました。大森町の山の中腹に祀られている鹿島大明神の赤い鳥居が無くなっています。近づいて見ると、丁度建て替えを行っているのか、基礎のコンクリートだけありました。
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(2015年2月21日撮影時の鳥居。)
参道を進み石段の下に自転車を停め、神社に参拝をしました。石段を登り切った所、右側に手水舎、左側に神楽殿が有ります。正面に拝殿が有り、拝殿の手前両側に昭和13年4月14日に奉納された重量感の有る石の狛犬が、睨みを利かせています。
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(鹿島大明神の参道石段)            (鹿島大明神の境内)
拝殿と本殿の左奥の山の上に石碑が建てられていました。正面に「社殿改築記念碑」と大きく刻されています。「五位勲四等 松村光三書」と左下に見えます。碑陰には「社殿改築神楽殿新築寄附連名」として寄付をされた多くの人の名前が記され、最後に「昭和十三年四月竣工」と刻されています。先ほどの狛犬は社殿の改築に合わせて寄付された様です。
更に山裾を北上、サントリー梓の森工場への広い道路を横切り、お隣の仲方町に入ります。広がる畑の前方の山肌に黒く光る物が広がっています。山の南の斜面にビッシリと太陽光発電パネルが設置されています。ここもそうですが、今市内の多くの場所でこうした太陽光発電所が造られてきています。
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(多数の太陽光発電パネルが設置された山肌)    (道路脇の開田記念碑と石の祠)
太陽光発電所を見上げる畑の中の道の脇に、又1基小ぶりの石碑が建てられています。上半分の中央に大きく「開田記念碑」左脇に「昭和十七年四月建之」、下半分に発起人始め関係者の名前が記されています。時期的には戦争のさなかでしたが、そんな中でも新しい耕作地を広げる努力がされていたのでした。
更に先に進むと道は鍋山街道に出て来ました。丁度出た所道路の向かい側で、道路工事が行われています。脇に工事の看板が有りました。「新しく橋を架けます。」と出ています。「市道311号線 (仮称)新千塚橋下部工事(左岸部)」と下に記されています。この付近は道路の直ぐ近くまで永野川が来ている所で、栃木市はこの永野川の反対側(右岸)に新たに産業団地を造成しており、この工事はそこへのアクセス道に成るのでしょう。
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鍋山街道を北上していると、右手の山裾に銀杏の木が黄葉しているのが見えたので、脇道に入り銀杏の木の所まで近づくと、大きな銀杏の木に挟まれて石の鳥居、そして又石の階段が上の向かって伸びています。
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(仲方町の鎮守様、八坂神社の大銀杏)
122段の整備された石段を登った所に祀られているのは、仲方の鎮守様「八坂神社」です。拝殿右手奥に「拝殿新築記念」の石碑が建っています。昭和三十五年三月十三日の竣工と刻されています。こちらの拝殿前の狛犬は荒削りですが力強さを感じます。平成十一年十月には鳥居の左側より社殿脇に車で行ける迂回道路も造られ、その記念の碑も鳥居の脇に建てられていました。今も地元の人達の手によってしっかりと守られている神社でした。
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(八坂神社の拝殿と狛犬)
神社を後に再び鍋山街道に戻り北へ、梓町に入ります。道路の脇に柿が鈴なりに実っている光景が目を引きました。真っ青な空にオレンジ色に熟れた柿の実がたわわに付いています。私の子供の頃は近所の柿の実を良く採って食べましたが、今は多くが食べられることも無く、熟して落ちてしまっています。
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あちこち寄り道しながら尻内の国道まで来てしまいました。時間も正午を過ぎたので今日はここで引き返すことにしました。帰りは下り道、少しは楽に帰る事が出来ます。

葛飾北斎描くところの「足利行道山くものかけはし」 [堂々巡り]

今回は、葛飾北斎の「諸国名橋奇覧」に出てくる、足利市の行道山淨因寺を訪ねました。
「諸国名橋奇覧」は、全国の珍しい橋を画題とした全11図の名所絵揃物。大判錦絵で、天保4~5年(1833年~1834年)。版元・西村屋与八。ボストン美術館蔵。
作品を見ると画面右半分に雲海の上にそびえ立つ岩山。下に山門が見え中腹岩肌の中に、に寺の本堂等と思しき堂宇。画面中央に雲海から突き出した一塊の岩山、その断崖上に茶室「清心亭」。清心亭と本堂との断崖の間を繋ぐ「天高橋」。この光景を頭に浮かべ現地に向かいました。
国道293号から脇道に入り、北関東自動車道足利インターチェンジの南側を西に進み、山裾を南北に走る県道284号線を北に行く。途中のY字路で県道と別れ左手の細い道を北に走ると、行道山淨因寺まで約2kmと道路標識に出ている。スピードを落として登り坂となった細い道を先に進む。途中道の脇に上に観音像の附いた石柱が建てられています。正面に「観世音菩薩尊像 三萬三千體安置 行道山」の文字が刻されています。
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暫らく行くと道路脇に比較的新しい公衆トイレが有り、前に数台の駐車スペースが有ります。私はここに車を停めて、寺に向かうことにしました。その先は寺の境内を示す、一本の石柱が建てられています。「名勝行道山淨因寺境内」と刻されています。
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又、駐車スペースの脇に小さい堂宇が細い橋の架けられた先の大きな岩の上に建っています。脇に建つ案内板に「行道山 澤菅 弁財天 淨因寺」と記されていました。
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晩秋の日没は早く、まして山間の事、直ぐ太陽が山の陰に隠れてはと、先を急ぐことに。途中の舗装された道路が濡れていて滑りやすくなっています。道路の先に沢水が落ちていて、道路を濡らしている事が分かりました。道路脇の岩から滝の様に水が落ちています。
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背の高い杉木立の中の道は、結構勾配がきつく、歩いていても胸が苦しくなる感じで、休み休み登ります。500m程登った所に広く整備された駐車場が現れました。ここまで車で来られたのでした。
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ここからは石段を登るようです。石段の左側に山の上に向かって鉄製のレールの様なものが伸びています。「行道山くものかけはし」モノレールとなっています。残念ながら動いていません。
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石段をせっせと登る事にします。石段脇の山肌には大小多くの石仏や庚申塔が建っています。
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石段の先に「行道山」の扁額を掲げた山門が見えて来ました。
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ここまで来ると石段も山門の屋根も沢山の落葉で埋もれています。
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又一つ山門を過ぎると本堂の前に出て来ました。本堂の裏山の上の木立はまだ太陽の光が当たっていますが、境内はすでに山の陰に入ってしまった様です。
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境内左手奥に、葛飾北斎の描いた「くものかけはし」の光景を覗わせる風景が有りました。
岩山の上にせり出すように建つ「清心亭」と思しき建物。岩山に渡す橋が架けられている。現在は鋼製に成っているが、かっては北斎の錦絵の如き木橋が渡されていたのでしょうか。
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橋が架けられた岩山の周辺は落石の危険が有る為か、柵やフェンスで囲われて、少し興ざめですが、参拝者等の安全の為、講じられたもので、残念ですがこれも仕方がないものと考えます。
本堂の右手庫裏の裏手に、熊野社の堂宇が有り、そこから先に奥之院への山道が続いていますが、岩山を登って行くような、足元が危うい感じになったので、先に行く事は断念した。
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昭和60年9月に㈶足利市民文化財団と足利市教育委員会によって建てられた「行道山淨因寺」の説明板によると、≪行道山は今から約1,200年前、和銅年間に行基上人により開かれたと伝えられる。その後、法徳禅師が禅寺とし、室町時代には学問の道場として修行僧が多く集い”関東の高野山”と呼ばれた。元和9年(1623)には雷火のため堂塔が焼失したが、幕府から寺領20石の朱印をうけ、往時の寺勢をもりかえした。当時のおもかげは、木版刷の文献などによってうかがい知ることができる。
山頂に近い「奥の院」には寝釈迦(石仏)を中心に多くの石仏(49院)や石塔が周囲をとりまいている。ここは行基上人が分骨入定された聖地である。≫と記され境内堂宇の配置図が描かれています。
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寝釈迦を見る事が出来ませんでしたが、北斎描くところの「くものかけはし」の錦絵の世界に暫し思いを巡らすことが出来ました。
現在、この地は「関東ふれあいの道」の「山なみのみち」(行道山から名草巨石群)と、「歴史のまちを望むみち」(行道山から織姫人神社)の中継点にも成っていて、多くのハイカーも訪れています。
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今回、紅葉の時期に合わせて訪れましたが、最近の降雨の影響なのか、すでに落葉に成っていたようです。又、この地は出来れば午前中に訪れるのが良かったのかも知れないと思いました。落葉に足を取られないように気を付けて、車を停めた場所まで戻りました。



栃木市からの富士 [自然の恵み]

今日は、久しぶりに朝から青空が広がりました。ただ風が強くて、外に洗濯物が干せない。こんな日は富士山が見えるのでは、と言う期待が湧いてきます。夕方期待を持って、車で近くの太平山に登りました。
山頂近くの謙信平駐車場に着くと、すでに4、5人のカメラマンが三脚を構えています。
この場所は富士山が見える「関東の富士見百景」に成っています。
車を降りて近くに行くと、「富士山もスカイツリーも見えてますよ。」と教えてくれました。太平山連山の南西の先、岩舟山からその先の三毳山の又その先、正面奥に広がる山脈の上に富士山が頭を出しています。
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良く見ると確かに富士山や東京新宿の高層ビル群そして1本ノッポの東京スカイツリーが見えますが、今一つハッキリしません。カメラのズームを最大にしてファインダーを覗いて見ると、東京スカイツリーの姿を確認する事が出来ます。すると先ほどの若いカメラマンが教えてくれます。「陽が沈むともっとハッキリ見える様になりますよ。」と。時間はまだ4時過ぎ、日没までまだ間が有りました。日没まで待つ事にしましたが、風が冷たくなって体が冷えて来ます。次第に空の色が夕焼に赤く染まってきます。
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低い山なみはどんどん暗く色を落としていきます。待つ間、富士山の姿をズームを動かして、大きくしたり小さくしたりして何枚も写真を撮ります。光の感じが変わって来ます。
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早くから来て準備万端のカメラマン達もカシャカシャとシャッターを切っています。本格的に三脚を構えている彼らと違い、チョッと取りに来た私は手持ち撮影。光が弱くなってくると、望遠撮影は手振れが心配、そこでまだ頑張っている人達を横目に、一足先に上がって家に戻ってきました。
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とち介、最終ランキング6位 [ゆるキャラ]

昨日11月23日、ゆるキャラグランプリ2015が幕を閉じました。
我が栃木市のマスコットキャラクター「とち介」くんは、最終ランキング6位と言う好成績を達成しました。
目標とした「国内5位以内」には、一歩及ばなかったですが、栃木県内1位は達成しました。
これも、最後までシッカリと投票を続けた、多くの「とち介」ファンの熱意が有ったればこそです。
最終得票数は、992,524票でした。百万票の大台には至りませんでしたが、7位の「はにぽん」(埼玉県本庄市)に89,069票の差まで、追い上げられましたが逆転を許すことは有りませんでした。

今回の戦いでやはり熾烈だったのは、「出世大名家康くん」と「みきゃん」の首位争いでした。
11月8日以降ランキング・得票数が非表示に成ってから、最終得票数までの上積み票は、最後まで首位を守った「出世大名家康くん」が、+2,007,650票、追いかける「みきゃん」が、+1,998,225票と、両者とも殆んど譲ることなく、二百万票もの多くの票を集めていました。
この最終得票数には昨日までの3日間、「出世大名家康くん」の領地、静岡県浜松市で開催された決戦投票の結果も含まれています。「リアル投票」の票は倍率が「1.5倍」に成りますので、地元の「出世大名家康くん」に有利だったはず。事務局もトップ争いの状況から判断して、倍率を昨年の「2倍」より「1.5倍」に下げたものと推定します。
でも、結果は予想通りに成りました。

「とち介」くんの決戦投票での得票数はどれくらい上乗せされたのか、予想する事は出来ませんが、栃木からも大勢の応援団が現地に行ったと聞いています。
浜松まで出向かれた応援団の皆さん、大変お疲れ様でした。

長期間に渡った今年のゆるキャラグランプリも終了致しました。「とち介」くんもお疲れ様でした。これからも栃木市内を飛び回って、栃木市民の心を癒してください。

来年の干支は申 [堂々巡り]

速いもので今年も後、残り1ヶ月余りと成りました。来年の干支は申。来年の事を言うと鬼が笑うと言いますが、そろそろ解禁でしょう。どこのスーパーマーケットやコンビニ店でも今、来年の年賀状印刷の受け付けも始まっていますから。
という事で今回は一寸した猿の話題です。
タイ王国、バンコクから北に130km程の所に「ロッブリー」と言う名の県が有ります。日本で良く知られる世界遺産の有る「アユタヤ」県の北隣りに位置しています。17世紀のアユタヤ王朝ナーラーイ王の時、オランダの侵攻を恐れた王は、このロッブリーに第二の都市(副都)を築き、すぐにでも遷都出来る様にしました。
この町に、300匹以上の猿が住み着いている寺院が有ります。「サーン・プラカーン」と言い、ロッブリー駅の直ぐ北側に建っています。
私は5年前の正月休み(1月2日)ロッブリーに旅しました。バンコクのフワランポーン駅(バンコク中央駅)からタイ国有鉄道北本線の列車に乗り出かけました。
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(フワランポーン駅正面)                 (ロッブリーへの列車のチケット)
約3時間列車での一人旅、周りのタイの人達と会話する事も出来ずひたすら車窓から外の景色を眺めていました。
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(車窓から見た仏塔)            (途中の駅で私の横に座っていた僧侶が下車)
ロッブリー駅に着くと、タイ国の中でも長い歴史を持つ町は駅の向かいに、「ワット・プラ・シー・ラッタナ・マハタート」と言うロッブリーで最も高い仏塔の有る寺院が迎えてくれます。
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(ロッブリーの駅舎)                       (駅の向かいに建つ寺院遺跡)
「ワット・プラ・シー・ラッタナ・マハタート」と言う名前の寺院はタイ国内に数か所確認できますが、「ワット・マハタート」はタイ語の単語で、仏塔の有る仏教寺院のうち、マハタート(大いなる物質、つまり仏舎利・貴人の遺骨)の有る寺院。有名な物はアユタヤに有る木の根で覆われた仏頭が有る遺跡として有名。
このロッブリーの遺跡の歴史は古く、12世紀クメール時代に最初の仏塔が建てられました。その後数回にわたり増築、改築を行い色々な時代の仏塔が混在しています。
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(広々としたワット・プラ・シー・ラッタナ・マハタート)
次に鉄道の線路沿いを北に少し行くと、線路脇に目的の寺院「サーン・プラカーン」が建っています。噂通り周辺には多くの猿が、餌を物色したり動きまわっています。我物顔で道路や鉄道線路にもたむろしています。
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(いたる所に猿の群れが)
猿の動きが気に成って、ゆっくる写真撮影も出来ず、すぐに線路の向かいに有る遺跡に移動しました。
こちらの寺院は13世紀クメール時代に建てられた、仏塔が3つ並んでいる「「プラ・プラーン・サーム・ヨート」です。
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(町の中に建つ13世紀のクメール遺跡)
こちらの遺跡の周辺にも多くの猿がいます。この遺跡は内部に入る事が出来、内側から窓の鉄格子越しに猿を見る事が出来ますが、人間が檻の中にいて、猿の方から観察されている錯覚もします。
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(遺跡の窓にはめられた鉄格子の外にたむろする猿達)
街中のレストランで食事をしましたが、店頭にも猿の街らしく、ひょうきんな猿の置物が迎えていました。
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(ロッブリー街中のレストランで迎えてくれる猿の置物)
帰路もロッブリーの駅から列車でバンコクに戻りました。ロッブリー駅のホーム端に置かれた大きな黄金色の猿が見送ってくれました。
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(ロッブリー駅到着時に購入した復路のチケット)  (ホームで見送ってくれる黄金色の猿)
ロッブリーは遺跡と猿の町でした。この町では毎年11月の最後の日曜日にロッブリー駅前にて「猿祭り」が開けれるそうです。
尚、ロッブリーは遺跡や猿の他に、ひまわり畑が有名です。日本ではひまわりの花は暑い夏の花ですが、タイでは11月中旬から12月に咲きます。ロッブリーの郊外には一面のひまわり畑が広がり、毎年12月頃には「ひまわり祭」も行われます。
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来年、良い年でありますように。 これは少しまだ早いかな!

藤岡町に建つ田中正造翁の銅像と霊祠 [栃木市の神社]

先日、太平山の田村律之助翁の胸像の事を書いた時に、栃木市内にどれほどの人が銅像建立という形で、その功績を顕彰されたのかと、思いめぐらした。 宗教的には歴史的に著名な僧侶が、栃木市内の寺院等に見る事が出来ます。慈覚大師円仁(岩舟町下津原高平寺別院誕生寺)そして高慶大師(城内町2丁目圓通寺)です。
藤岡町藤岡、新開橋北詰の藤岡文化会館駐車場入口付近に建つ、田中正造翁の銅像は立派な鬚を蓄え、羽織袴で直立し、杖を両の手で支え、はるか前方の谷中村をジッと見据えている。
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像の高さは3.3m、大きな玉石を積み上げた台座を含めると7mにもなる。像の前に立って見上げると威圧感を感じる。作者は富山市小杉町の砂原放光氏で、昭和53年(1978)6月に藤岡町と田中会そして藤岡栃木ライオンズクラブによって建設されました。名盤の「田中正造翁」は足利市在住の島田宗三氏の筆跡。
脇に雨宮義人撰文になる、正造の生涯を記した碑も建てられています。
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但し、田中正造自身は銅像建立については、強く否定をしていたと云われています。
同所、藤岡文化会館の裏手にある「藤岡歴史民俗資料館」には、田中正造翁の遺品も多く展示されています。
銅像の前を流れる渡良瀬川左岸を約1km程遡ると、道路の右手田圃の先、大きな木立の中に神社の社殿らしき建物が見えてきます。ここが田中正造翁の遺骨の一部とカツ子夫人を祀った「田中霊祠」です。
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入口に説明板が建てられていました。境内には秋の深まった今、落ち葉が引きつめられ、参道脇のモミジが赤く色付いています。
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太平山神社表参道あじさい坂中ほどに建つ田村律之助胸像 [石碑]

栃木市の太平山神社表参道、連祥院(六角堂)を左手に見て、通称あじさい坂を230m程登った所、右ての木立の中に石段が有りその少し高くなっている場所に一基の胸像が建っているのが見えます。
あじさい坂から少し脇に入った所に有る胸像が載る台座正面に「田村律之助翁之胸像」と刻した石板が取り付けられています。
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台座の上の胸像はネクタイを締めた洋装、均整の取れた目鼻立ち、口髭の下の唇は横真一文字に閉じていますが、何か少し微笑んでいる様に見えます。
台座のうしろ側に「田村律之助翁」の経歴を記した銅板が付けられ、その下側に発起者名、建立年月日等が台座に直接刻されています。
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発起者の名前には「栃木県農会」を筆頭に県内各郡農会等が名前を連ねています。「農会」とは現在の「JAで最近まで農協(農業協同組合)」
建立は「昭和10年12月15日」その後に、彫刻家鈴木賢二作、石工藤沼庄三郎刻と刻まれています。「鈴木賢二」は栃木市の郷土玩具・土産品「巴波の鯰」や「火防の獅子」の考案者としても知られる栃木市出身の彫刻家です。
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田村律之助の経歴を記した文を読むと最後の部分に、≪茲に其偉業を偲び故旧後輩相謀り銅像を建設し以て專ら追慕の情を表す。≫と記しています。現在台座に載るのは石像に成っていますが、最初に建立された時は、台座の上に立ち姿の田村律之助翁の銅像でした。しかし、先の戦争のさなか、金属回収により供出されたのでした。日向野徳久編「ふるさとの思い出写真集・明治大正昭和・栃木」の中に、№251「田村律之助銅像」と題し、台座の上に立つ田村律之助翁の姿とそれを仰ぎ見ている数名の人物が写った写真が掲載されています。横に≪田村律之助は水代村(大平町)の人、日本の明治・大正期における農業改良の大先駆者で、下野農林会を興し、大正10年ジュネーブの万国労働会議には日本資本家側代表として活躍した。この銅像は栃木市の生んだ彫刻家鈴木賢二の作であり、太平山の一名物となったが、戦争中金属回収により供出された。≫との説明文が添えられています。

ここ太平山あじさい坂には多くの参拝者やハイカーが登って行きます。現在も丁度秋の紅葉シーズンで「太平山もみじまつり」が11月30日まで開催されています。

逆走の話 [歩く]

今日は天気予報通り、午後から雨が降り始めたが、午後4時から雨の中をウォーキングに出かけました。
普段の生活では特に体を動かすことが殆んど無いので、意識的に歩くようにしています。食事は毎日美味しく頂けているので、歩かないと直ぐに体重が増えて行ってしまいます。1日1時間程歩いて何とか体重を維持できるのです。
そんなことで、今日も雨を押していつものコースを歩いて来ました。県庁堀東側の脇の道を歩き、湊町から幸来橋の手前を巴波川縁を南に富士見橋に向かっている時です。丁度栃木カトリック教会の対岸辺りで、前方から大きな普通自動車がこちらに向かってきました。この通りは北から南方向への一方通行の通りです。雨も降っているし、時間も4時半を過ぎて街灯なども点灯、走行している車もすでにヘッドライトを点灯しているのに、その車はライトも付けていません。「逆走」して来ています。あわてて道路脇に除けると、その車はそのまま行ってしまいました。対向車が来なければ良いなと見送りましたが、車はその先の交差点を左に曲って行きました。あー良かった。と思った時、5年前の恐怖の体験を思い出していました。
その頃の私はまだ会社勤めをしていて、毎朝5時半ごろに家を出て、会社の有る宇都宮市に車で通勤をしていました。冬の朝の6時前はまだ暗く、ヘッドライトを点灯して宇都宮栃木線の今井バイパスを走っていた時です。片側二車線の道路の中央側を走って、東武宇都宮線の跨線橋を登り始めた時に、突然坂の上に光が現れたのでした。「なんだ!」「車?」「対向車!」「逆走!」瞬間的に頭の中でその事体を必死に考えました。
対向車はすごいスピードでヘッドライトをパッシングさせながら接近して来ます。
「どうしたんだ!」「なぜ!」「どうする!」その次の瞬間、私はハンドルを一気に左に切って隣りの車線に逃げ、又ハンドルを戻して何とか無事にその場をかわすことが出来ました。
心臓がバクバクしていました。幸い隣りの車線に走ってた車が無かったので事故に成らずに済んだのですが、対向車はそのまま後方へ去って行ってしまいました。
あと少し坂の上で出会ったらどうなっていたか、対向車も車線を変えていたらとか、色々考えると又恐怖がよみがえってきます。
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(私が逆走車に遭遇した現場。ここを通るとあの時の恐怖がよみがえります。)

最近、高速道路などで、逆走する車が結構いる事をニュースなどで耳にしますが、私もその度にこの恐怖の体験を思い出してしまいます。

栃木県土木遺産にもなっている栃木元県庁堀 [栃木市の河川と橋]

今回は、私の家の近くに有る「県庁堀」について書きたいと思います。この「県庁堀」について、栃木市発行の「目で見る栃木市史」の中で、≪明治4年(1871)廃藩置県の後、栃木県令となって赴任した鍋島貞幹(道太郎・幹ともいう)は、庁舎を薗部村鶉島に建てたが、そのとき県庁の敷地に堀をめぐらしたほか、うずま川に通ずる漕渠をつくって、県庁の庁舎に直接舟がつくようにした。≫と記しています。
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(南側の県庁堀を西側に架かる「鶉橋」の上より撮影。右側は元の栃木第一小学校)
この初代県庁舎は、明治5年(1872)11月に落成しました。その後県庁は宇都宮に移されることとなりますが、この県庁の跡地は、現在、県立栃木高等学校や市立栃木中央小学校の敷地となっていますが、この堀は今も昔のままの姿を残しており、平成8年(1996)8月12日に栃木県指定文化財(史跡第51号)となりました。
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(東側の県庁堀を「御幸橋」の上から北方向を撮影)
私が子供の頃は、この県庁跡地に建てられた市立栃木第二小学校に通いました。又、夏休みには県立栃木高等学校のプールに遊びに行ったり、グラウンドを借りて少年野球の練習を行ったり、栃高のグラウンドも子供の頃の遊び場でした。高校の時は家が近くでしたが、学力的にはとても遠い存在でした。
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(1965年4月に撮影した栃木県立栃木高等学校の正門)
そんな身近にある県庁堀ですが、実際の所詳しい事は何も分からなかったので、今回、少し調べてみました。
最初に所有する栃木の地形図を元に、県庁堀の移り変わりを見てみました。国土地理院発行の「栃木」の地形図の図歴よりピックアップして、県庁堀の部分を抜粋させて頂いて比較しています。

最初は、明治19年(1886)発行の2万分1フランス式彩色地図を見てみます。
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(明治19年発行2万分1フランス式彩色地図「下都賀郡栃木町」より県庁堀付近を抜粋)
地図の中央部に、長方形(東西約246m・南北約315m)に仕切られた内側が明治9年(1876)12月5日本格的な庁舎が上棟して明治17年(1884)1月に宇都宮に移されるまで栃木県庁が置かれた場所に成ります。周りにめぐらされた堀が、現在も残る県庁堀です。
県庁堀西側(1982年3月)2.jpg
(西側の県庁堀を南の角から北方向を撮影。右側が元県庁敷地になります。)
県庁敷地の西側から北側、そして東側の一部のオレンジ色に着色された所は、田圃に成ります。
地図の右側を北から南に貫流する川が「巴波川」。県庁堀の南東部角付近から巴波川までつながる漕渠も描かれています。
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(巴波川と県庁堀の間を連絡する漕渠。中間点に架かる「中ノ橋」より東方を撮影)
明治6年(1873)9月に作成された「栃木縣廰圖」には現在の元栃木町役場庁舎の北側付近に、「揚場」と記された長方形の池が描かれていました。巴波川から漕渠を通って入って来た舟の荷物を陸揚げする場所が造られていたのです。又、「栃木縣廰圖」には県庁堀周囲5ヶ所に木橋も架けられていますが、地図には南側中央部県庁表門前と東側現「御幸橋」付近の2ヶ所しか記されていません。
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(鍋山人車鉄道が渡った箇所に架かる「清水橋」。以前の「清水橋」後ろは栃木高等学校)

次の地形図は大正6年(1917)発行の2万5千分1「栃木」より抜粋した地図です。
大正六年県庁堀.jpg
(大正6年国土地理院発行2万5千分1「栃木」の地形図より県庁堀付近を抜粋)
栃木県庁が宇都宮に移ってから30年以上が経過し、県庁堀の中にも道路が通り住宅も建て込んできています。県庁堀内の北側部分には「中學校」の文字が記されています。現在の栃木県立栃木高等学校の前身です。明治29年(1896)に「栃木県尋常中学校栃木分校」として創立。明治32年(1899)分校が独立、栃木県第二中学校と改称。明治天皇が近衛師団演習叡覧の為行幸された際、行在所としています。
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(栃木高等学校の敷地内に建てられた「明治天皇栃木行在所」の碑と「大本営記念」の碑)
栃木県立栃木中学校と改称したのが明治34年(1901)、現在の名称に改称したのは、昭和26年(1951)に成ってからです。
又、地図の北西方向から中学校の西側を通り、中学校の南西角から南側の道路に特殊鉄道の軌道が描かれています。中学校の東側巴波川の手前に「停車場」の地図記号が見えます。軌道は明治33年(1900)に開業した「鍋山人車鉄道」に成ります。
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(右側、栃木高等学校前の道路。昔ここを鍋山人車鉄道が通っていました。)
明治19年の地図には見られませんでしたが、県庁堀の北西部角近くに北西方向から1本の川筋が描かれています。県庁堀への水の流入口がここに有りました。元の地図を確認すると箱森の「御邊」の東側を南流する「清水川」から分水しています。私は子供の頃この分水堰付近でも良く遊んでいましたが、そんな事は何も分からなかったです。

次の地形図は昭和40年(1965)発行の2万5千分1「栃木」より抜粋した地図です。
昭和40年県庁堀.jpg
(昭和40年国土地理院発行2万5千分1「栃木」の地形図より県庁堀付近を抜粋)
県庁堀が見ても分からなくなってしまいましたが、実際は以前のままの姿を留めています。「中學校」の表示が「栃木高校」に変わっています。北側の錦町の通り、そして西側の鍋山街道筋にも住宅街が出来て、田圃が少なくなってきています。鍋山人車鉄道の軌道も見えません。昭和35年(1960)にすでに廃止されています。栃高の南側の地図記号「文」は私が入学した頃の姿をした「市立栃木第二小学校」で北側の長い建物が3階建の教室棟、前が2階建の管理棟。その南側県庁堀を隔てて建っているのが「市立栃木第一小学校」です。
1965年4月栃一小正門.jpg1963年栃二小全景.jpg
(1964年頃の栃木第一小学校と栃木第二小学校の校舎)
この地図にはまだ「旧栃木市役所庁舎や中央公民館の建物は有りません。市役所を示す地図記号◎は、大正10年(1921)11月に竣工した「元栃木町役場庁舎」に付けられています。栃木が市制を施工した年は昭和12年(1937)4月1日ですが、この時はまだ「大宮村」「皆川村」「吹上村」「寺尾村」「国府村」の編入前の事です。
夕暮れの市役所別館1.jpg
(2009年撮影、夕暮れ時の元栃木町役場庁舎正面。2年前まで栃木市役所別館でした。)

次の地形図は昭和49年(1974)発行の2万5千分1「栃木」より抜粋した地図です。
昭和49年県庁堀.jpg
(昭和49年国土地理院発行2万5千分1「栃木」の地形図より県庁堀付近を抜粋)
第一小と第二小の様子は変わっていませんが、第二小の校庭に道路が出来、その南側の県庁堀との間に大きな建物が二つ現れています。右側が前「栃木市役所庁舎」で、左側が元「栃木中央公民館(後、栃木市民ホール)」です。私が丁度第二小に通っている時で、校庭を取られたと思っていました。
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(1963年撮影の元栃木市役所前通り。奥の建物は元の栃木中央公民館です。)
栃木高校の文字が無くな新地図記号の高校「〇の中に文」に変わっています。此の頃に成ると県庁堀の西側の田圃もすっかり住宅地に変わっています。

次の地形図は平成9年(1997)と平成25年(2013)発行の2万5千分1「栃木」より抜粋した地図です。
平成9年県庁堀.jpg平成25年県庁堀.jpg
(平成9年、平成25年国土地理院発行2万5千分1「栃木」の地形図より県庁堀付近を抜粋)
地図も三色刷となって川、水路が青色で表示され、巴波川もはっきり判る様になりました。又、県庁堀と巴波川とを結ぶ漕渠の途中から分流して南に流れ、巴波川倭橋下流右岸の「会橋」の所で巴波川に合流する「入舟川(井上堀)もはっきり確認出来る様になりました(※県庁堀・漕渠・入舟川の分流部分が実際とは違っていますが、細かい事ですから目をつぶります。)。
ただ県庁堀は実際長方形の西側と南側しか表示されていません。尚、県庁堀に流れ込む水路もはっきり見えて来ました。箱森町の特養ホーム「レユーナ」の裏手を流れて県庁堀に落ち込んでいます。
県庁堀西北角4.jpg県庁堀西北角1.jpg
(県庁堀北西部に流れ込む水路。奥に特養ホーム「レユーナ」が見える。)
平成9年と25年の地図上の変化は、新しい地図記号博物館「横山郷土館」や老人ホーム「レユーナ」が使われています。元第一小の学校の記号が無くなりました。平成22年(2010)4月1日第二小と統合して、新しく栃木市立栃木中央小学校として開校、2年後の平成24年に元の第二小の敷地に新しい校舎が落成しています。
栃木中央小学校(2015年4月12日).jpg
(栃木市立栃木中央小学校の新校舎)

県庁堀に現在架かっている橋を見ると、昭和6年(1931)竣工の「御幸橋」の親柱に「元縣廳堀」と刻まれていますが、新しく架け替えられた「清水橋」や「鶉橋」の親柱には、「県庁堀川」と表示されています。以前栃木市と栃木県栃木土木事務所により建てられた説明板に、「県庁堀川について」記されていました。一部を転載させて頂きます。
≪県庁堀川は、旧赤津川分水堰付近を源とし、(旧)市役所南側を通って、入舟川と分かれて巴波川に合流する流域面積約1.26k㎡の河川で、堀の周りは約1,100mあります。この川は、栃木市に栃木県庁が設置された明治5年ごろ、県庁周辺の洪水対策、および物資の輸送路として掘られた歴史を持つ堀割(ほりわり)で、昭和45年に栃木市の文化財に指定されています。≫と記されていました。
元県庁堀親柱.jpg県庁堀川親柱.jpg
(県庁堀に架かる御幸橋の親柱と清水橋の親柱の河川名表示。)

平成26年(2014)2月10日この県庁堀内に有った栃木市役所本庁舎が、福田屋百貨店栃木店跡地に移転をしました。使われなくなった旧庁舎は近い将来解体をされ、そこに又新しい施設が造られるでしょう。それでもこの県庁堀は何時までも歴史の証人として残されていきます。
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(役目を終えた県庁堀内の旧市役所本庁舎。2013年8月に撮影)






那珂川に架かる土木遺産の境橋 [橋梁]

昨日、那須烏山市の那珂川に架かる境橋を見に行って来ました。数日前に読売新聞栃木版に「近代化遺産を巡ろう」と言うタイトルの下に、モノトーンの朝靄の中に白く輝くアーチ橋、てまえの川面には小舟が2隻、何とも美しい風景の写真が掲載され、私の目を引き付けました。写真には「土木学会が選んだ土木遺産の境橋=那須烏山市提供」と添えられていました。
珍しい橋となると、じっとして居られません。まして栃木県内の事、実際に行って見てみたいと思い、昨日行って来たものです。
那須烏山方面は結構出かけた事が有りますが、国道294号線で通過するのがほとんどです。今回の目的地の那須烏山市の宮原と大沢とを繋ぐ、境橋は市街地より東へ向かい、那珂川の流れが天狗のお面の鼻の形の様に大きく蛇行している、丁度その鼻の先端部分で那珂川を渡る県道29号線に架かっている橋に成ります。
途中右手に折れて行く県道12号線の先に、白く高くそびえ立つ斜張橋「烏山大橋」の塔が見えます。そこを横目に目的地の境橋に向かいます。
目の前に「境橋」が見えて来ました。その境橋の西詰で県道から左に入る細い道路に入ります。道の角に「烏山町青少年野外活動広場入口」の立て看板が有りました。細い道を進むと那珂川の河川敷きに出ます。車が数台止まっていました。私も車を停め那珂川の川岸へ行くと、下流方向に目的の「境橋」を下から橋全体を見る事が出来ます。
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(境橋の上流側、那珂川右岸の川の流れの直ぐ脇から撮影)
ドッシリとして重厚な鉄筋コンクリート製、その力強さの中にも華やかで美しい曲線を持つ、三連アーチ橋が那珂川の上に架かっています。
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(二本の橋脚の上部高欄部に丸く突き出したバルコニー)
次に車を移動して橋を渡り、境橋の東詰に一寸した空き地が有ったのでその場に車を停め、橋の上を歩く事にしました。
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(橋西詰の親柱に刻まれた橋名、右側がひらがなで「さかひばし」、左側が漢字で「境橋」)
丁度車を停めた場所に、一本の記念碑が建てられていました。そこには「那須烏山市の近代化遺産」と題して、境橋についての説明が記載されています。説明文を転載させて頂きます。
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(橋の東詰に建てられた記念碑。下側に土木遺産認定書を写した石版が埋め込まれている。)
≪境橋は、主要地方道常陸太田那須烏山線の那珂川に架けられた橋長112.5m・幅員6.1mの上路式RCオープンスパンドレルアーチ橋です。現在の橋は3代目で、初代は明治30年に舟橋が、2代目は大正9年に洋式木橋が架けられましたが、度重なる洪水による被害への対応から永久橋への架け替えが昭和10年の第39回通常県議会で決議されました。設計者は、関東大震災後の帝都復興局橋梁課長として隅田川橋梁群の設計・積算や、美橋として知られる聖橋など百数十橋を手がけた当時における橋梁設計者の第一人者・成瀬勝武です。橋脚上には半円形のバルコニーが設けられるなど意匠性と希少性に富み、また、那珂川屈指の景勝地に調和した優美な景観から、平成19年度土木学会選奨土木遺産にも認定されています。≫
橋の上は自動車も頻繁に通過しますが、バルコニーに入る事で、安全にゆっくりと下を流れる那珂川の流れと周囲に広がる山々の紅葉とを堪能する事が出来ました。
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(橋の欄干から突き出たバルコニー、ここからゆっくり風景を眺めることが出来る。)
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(境橋から上流側の那珂川の様子)     (境橋から下流側那珂川の流れ)