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秋深まる塩原渓谷へ [橋梁]

先日、インターネットを見ていた時、「口コミで選ぶ 日本の橋ランキング」と言う記事が目に留まりました。記事の頭にエメラルド色の海の向こうの島に伸びる橋梁の写真が目を引いたからです。
記事は≪世界最大の旅行口コミサイトの日本法人トリップアドバイザー株式会社が発表した。≫として、ベスト30の橋梁名とその所在都道府県名が載っていました。
掲載されていた写真は1位の角島大橋(山口県)でした。興味が有るのは我が栃木県の橋梁はどうかという事です。見てみると、27位に「回顧の吊橋」そして29位に「七ツ岩吊橋」の2橋が栃木県としてランクインしていました。
2橋とも吊橋ですが、調べてみると両方とも、那須塩原市の塩原温泉郷の中を流れている箒川に架かるものでした。丁度紅葉も見頃という事で、今日ドライブを兼ねて行って見て来ました。
東北自動車道で「西那須野塩原IC」まで行き、国道400号線で塩原温泉郷へ向かいました。初めに一番手前の「回顧の吊橋」をみようと、近くの駐車場に入りましたが満車状態だったので、ここは後回しにして次の「七ツ岩吊橋」へ向かいましたが、その途中道路脇に「留春の吊橋」「留春の滝」の案内板の立つ駐車場が空いていたので、急遽予定を変更して「留春の吊橋」を見る事にしました。
留春の滝1.jpg留春の滝吊橋1.jpg
(留春の滝)                (留春の吊橋、右岸上流側から撮影)
次に予定をしていた「七ツ岩吊橋」です。ここも国道400号線脇の「塩原温泉ビジターセンター」の駐車場に車を置いて歩く事1・2分で吊橋に着きました。
塩原七ツ岩吊り橋1.jpg
(29位にランクされた「七ツ岩吊橋」、左岸上流側より撮影)
「七ツ岩吊橋」は2001年3月に竣工した、「下路式ダブルワーレン補剛吊橋」と言う形式です。橋長は87m、幅員は1.5m。吊橋の塔柱は右岸側のみで、左岸側はコンクリート製のガッシリとした親柱に吊橋の主索の一方を支持する方式で、私は初めて見る形の吊橋です。
塩原七ツ岩吊り橋3.jpg塩原七ツ岩吊り橋2.jpg
(親柱に取り付けられた銘板)          (吊橋の左岸橋詰より撮影)
橋詰から下を流れる箒川の左岸を少し上流に歩き、塩原渓谷の紅葉を撮影しました。
箒川(塩原渓谷)1.jpg
(七ツ岩吊橋上流部の箒川の流れ)
次は、ビジターセンターで入手した観光パンフに、「紅の吊橋」が10分ほどで行けると載っていたので、早速向かいました。「紅の吊橋」は塩原温泉郷の街中「塩原もの語り館」の直ぐ裏手に有りました。
紅の吊橋1.jpg
(紅の吊橋、右岸橋詰より撮影)
「紅の吊橋」と命名する通り、橋の周辺は紅葉が鮮やかで、見応えが有りました。
最期は、来るとき見られなかった「回顧の吊橋」に向かいました。太陽が西の山に沈むころに成ってしまい、駐車場はガラガラに成っていました。渓谷へ降りる険しい階段状の道を注意しながら急ぎ足で降りると、途中で太陽が山の陰に入ってしまいました。それほど長い距離でなかったので、吊橋の近くに有った「回顧の滝」の写真も撮影できました。
回顧の吊橋1.jpg回顧の滝1.jpg
(回顧の吊橋、右岸側より)     (回顧の滝、吊橋を渡った右岸側より撮影)
回顧の吊橋2.jpg箒川(塩原渓谷)2.jpg
(橋の銘板)               (回顧の吊橋上より下流側を撮影)
吊橋近くに有った説明板によると、「回顧(みかえり)の吊橋」≪吊橋にかかる重さ(橋自体の重さと乗っている人間の重さ)は、主索と呼ばれるケーブルによって支えられています。回顧の吊橋の主索の直径は4cmで、橋に体重55kgの大人が360人乗っても耐える力を持っています。≫と有りました。チョッと信じ難い数値の様に思えました。渡っていると結構揺れて、2・3人でも落ちるのではと不安になりました。
今日は吊橋三昧の一日でした。

栃木秋まつりの思い出 [懐かしい写真]

栃木市の秋祭りと言うと、豪華絢爛な人形山車が思い出されますが、現在この人形山車が引き出されるのは、隔年となっていて残念ですが今年は出ない年に当たります。しかし以前は5年に1度しか出ませんでした。人形山車が出ない年も、仮葬パレードやお囃子パレード、などの催しが行われました。
そんな秋祭りに一つの思い出が有ります。私が高校に通っていた時ですから、かなり昔の事に成ります。旭町の神明宮の境内にて、秋祭り協賛「素人のど自慢大会」が行われました。そののど自慢大会にクラスメイトが出場すると言うので、皆で応援しようと出かけて行き、クラスメイトの出番に舞台下から大声援を送りました。選曲した歌はその当時人気が有った、舟木一夫の「高校三年生」。制服だった黒の詰襟学生服姿で歌った。
1968年秋祭り素人のど自慢大会1.jpg1968年秋祭り素人のど自慢大会2.jpg
出場者は小さい子供からお年寄りまでいましたが、応援団は私達が断然盛り上がっていました。もちろんクラスメイトの歌も上手かったけれど。審査員の先生方も真剣に審査され、最後いよいよ結果発表となります。
下位から順に発表が有りますが、クラスメートの名前が呼ばれません。4位まで来た後何故か今度は1位の発表に成りましたがそれも無く、2位でも無く、いよいよ最後の最後3位で待ちに待った名前が呼ばれました。これに大喜びをしたのは舞台の上の当人では無く、応援団の方です。4位の商品も意外と沢山有って、舞台下の我々が分け合って持ち帰る事に成りました。
1968年秋祭り素人のど自慢大会3.jpg1968年秋祭り素人のど自慢大会4.jpg
秋祭りの時期になると、その時のことがいつも思い出されます。若い頃の楽しい思い出です。

栃木市立栃木第二小学校の思い出 [コレクション]

今日は、朝から収集した「栃木」の地形図を引っ張り出して、束の間のタイムトリップを楽しんだ。と言ってもSF小説の様に時間の流れを超越して旅する事など出来ませんが、頭の中の空想や想像の世界に身を置く事です。その手段として地形図を媒体にする訳です。
昭和40年代の地形図を眺めていれば、青春時代の出来事が浮かんできますし、昭和初期の地形図を見ると、両親が暮らした世界に思いを巡らす事も出来ます。
「栃木」の街は、江戸時代から明治の前半位までは、旧日光例幣使街道の宿場や、巴波川舟運の遡航終点として繁栄をして、明治9年には巴波川右岸、薗部村鶉島(現栃木市入舟町)に栃木県庁が建設されました。明治前期測量の迅速図を眺めると、栃木町の西側田圃の中に、長方形に区画され内側に建物が整然と並んで建っています。しかし、県庁は土木県令と云われ、自由党弾圧でも名をはせた三島通庸が、第三代栃木県令に着任すると、あっけなく宇都宮に移してしまいました。明治17年の事です。
明治19年栃木市街図2.jpg
(明治19年測量2万分1下都賀郡栃木町の地図より県庁堀跡付近を抜粋)
この堀に囲まれた県庁の跡地はその後、中学校(現在の県立栃木高等学校)や小学校(現在の栃木中央小学校)が建てられました。
私は、この中央小学校の前身に成るのか、栃木第二小学校で最初の学校生活を送りました。私が入学をした頃丁度校舎が、木造から鉄筋コンクリート3階建に建て替えられた時で、真新しい校舎で、トイレもその当時珍しかった水洗トイレでした。校庭も広々として南側の県庁堀の所まで有り、堀の南側には第一小学校が有りました。
しかし私が3年生の頃、校庭の南半分に市役所や市民ホールが建てられ狭くなってしまいました。
1963年市役所前通り2.jpg1963年栃二小全景.jpg
(1960年代の栃木第二小学校と南側の市役所前道路)
国土地理院発行の2万5千分1の地形図「栃木」は、大正6年の発行が最初の物に成ります。そして私が入学したころの様子が見られるのは、昭和40年3月に発行した、昭和33年の測量結果を反映した地形図に成ります。地図には3階建ての教室棟の前に、職員室や図書館・音楽室などの入った2階建ての棟が描かれています。南側に堀を隔てて栃一小の建物が見えます。北側に栃木高校、そして市役所は県庁堀の南東の角に二重丸の地図記号が付いています。今は使われていませんが元の市役所別館です。又、校庭の南西角に黒くカギカッコ状に描かれている建物が元の栃木図書館です。
昭和40年3月地形図栃木県庁堀跡.jpg昭和49年11月地形図栃木県庁堀跡.jpg
(国土地理院発行2万5千分1地形図「栃木」、昭和40年と昭和49年発行の県庁堀跡周辺を抜粋)
もう一枚の地形図は昭和49年11月発行の地図で、こちらは校庭の南側に東西に道路が走り、栃一小との間に新たに建物が二つ描かれています。右側の大きい方が「栃木市役所」その西側が「栃木公民館(市民ホール)」です。市役所別館と図書館の建物は残っています。
昭和40年発行の地形図を見ると道路の部分にが網目がかかっている箇所と無い箇所とが有りますが、これは、舗装がされているかいないかを表わしたものです。丁度この頃は道路の舗装が始まった頃で、この様に地形図にも表わされた様です。
1990年代に入ると、私の母校に子供達も通うようになりました。
1993年9月運動会1.jpg1993年9月運動会2.jpg
久しぶりに小学校に入ると、懐かしい光景が沢山有りました。1年生の教室の机や椅子の小さいのにも驚きました。
1994年6月15日学校祭4.jpg1994年6月15日学校祭1.jpg
6年の時に児童会で廊下を走らない様にと「歩行者免許証」をつくった事も思い出されました。
1994年6月15日学校祭2.jpg
(管理棟の2階から教室棟への連絡通路。昔、フードは無く雨の日は下を通りました)
屋上に出ると、西に太平山が広がっています。この風景は変わる事は有りません。ここで体育の授業をしたものです。
1994年6月15日学校祭5.jpg1994年6月15日学校祭3.jpg
(元栃二小の屋上より南東側<旧市役所別館>及び南西側<太平山>を望む)
その母校も2010年にはすっかり取り壊されてしまいました。
2010年6月27日栃二小の跡4.jpg2010年6月27日栃二小の跡3.jpg
(子供の頃よく遊んだ滑り台)          (東側の道路、奥には栃木高校が見える)
現在は第一小学校と一緒になり、栃木中央小学校と名前も変わりました。4階建ての立派な校舎です。私は今、選挙の投票時だけ校舎内に立ち寄る程度に成ってしまいました。
2013年9月栃木中央小学校.jpg2015年4月栃木中央小学校全景.jpg

暑かったり、寒かったり [歩く]

昨日は、我家の横を流れる清水川の土手に枯れて倒れているコスモスやクジャクソウを刈り取って、ごみ袋に詰めた。秋の陽射しですが、ジットリと汗をかいた。そんな陽気だったので、夕方からポロシャツでウォーキングに出たが、太陽が沈んだ後急に冷たい風に変わった。歩いていてもジャンパーを着てこなかったので、腕の辺りが無性に寒く感じた。

今朝も、朝の内結構冷え込みが有ったが、昼間は昨日以上に暖かくなった。午後、自転車の乗って栃木市内を回っていたが、夕方から南風が強く、風に向かて進むのがきつく感じた。
夜、9時過ぎにウォーキングに出かけた。今日はしっかりジャンパーを着て出かけた。ところが今晩は昨日と一転して、歩いていると汗ばんでくるほどで、途中でジャンパーを脱ぐ事になった。

最近は毎日欠かさず一万歩程度歩けている。この1週間の万歩計のデータを見てみると、
 21日(水)8,113歩、22日(木)11,420歩、23日(金)12,398歩、24日(土)11,278歩、25日(日)10,477歩、26日(月)9,722歩、そして今日27日(火)は12,005歩でした。
新しいウォーキングシューズにも大分馴染んできました。第3回栃木市ウォーキング大会迄2週間を切りました。大会では30km歩くので、約45,000歩になる。25kmを越える頃に、結構疲れが出てくる。今年も何とか無事に完歩したい。それまではしっかり体を馴染ませたいと思っている。

講演「2025年、超高齢化社会を考える。」を聴講して。

今日、栃木文化会館にて、≪今や、他人ごとではない!! 「2025年、超高齢化社会」を考える。≫と題した講演会を聞きに行って来ました。講師は、朝日新聞記者 エンディングデザイン研究所研究員の「星野 哲(さとし)」さんです。
今から10年後の2025年は、私もその一人ですが、団塊世代が75歳以上の後期高齢者になる年です。老後をどのように過ごし、人生の終焉をどのように迎えるか、いや どの様に迎えられるのか。
10年後健康でこれまでの様にウォーキングなどを楽しめているだろうか?幸いこれまでは、両親が丈夫な体に産んでくれたお蔭で、決して裕福では無かったが、無事に定年まで会社に勤め、今は年金生活で細々と過ごしている。
それでも老いは間違いなく進行をしてきている様です。健康診断の結果、加齢が原因だとする症状が、あちらこちらに出て来て、定期的に医療機関のお世話になっている。
幸い家族にも恵まれてはいるものの、将来の不安はいくらでも出てきます。
お墓の問題もその一つです。
今日のお話の中にも、「無縁墓の増加」が社会問題になっていると言う話も出ました。この問題は以前からテレビなどでの伝えています。「墓じまい」をする人達も多く、又それに伴うトラブルも発生していると報道しています。お墓の変化の話も有ります。山や公園全体をお墓とする「樹木葬」や、「散骨」などです。
又、葬儀の形にも変化があり。「家族葬」もその一つで、最近増加をしています。兄弟姉妹も少なく、高齢化で仕事仲間や、友達も少なくなり、結果会葬者が減っているのも現状です。病院で亡くなった後24時間後、通夜や告別式等を行わないで、火葬を行う「直葬」と言うものも有る事を今回初めて聞きました。
≪個人化≫  「跡継ぎ」不在時代。  「おひとりさま」時代。 が進んでいる様です。

2025年には、50歳まで1度も結婚をしない、生涯独身と言う人達が、男性で3人に1人、女性で5人に1人になると言うデータも紹介されました。正に「人口減少」社会の進行です。
又、2025年、高齢者の独り暮らしの割合は、4人に1人と言う数字も出ています。
「ファミレス社会」と言う言葉も初めて聞きました。ファミリーレス社会、家族が減っている社会です。
    ・少子高齢化
    ・非婚化

≪終活≫ 今回の講師「星野哲」さんの最近の著書「終活難民 あなたは誰に送ってもらえますか」の紹介も有りましたが、最近は終活の話題も良くテレビ・新聞等で耳にします。
・エンディングノート・遺言・お墓の準備・葬儀の予約・身辺整理等、人生の最期を迎えるにあたって行うべきことを、残された者に迷惑がかからない様に生前に行う活動の総括した言葉。
しかしそんな中で、終末期医療に付いて考えている人は少ないと言います。
≪平穏死≫
・延命治療をどうするか。・本人の意思は。・認知症、家族が無い場合は?など。
人生の最期を誰に頼るのか。
 ・老々介護
 ・介護離職。 年間10万人の人が介護の為に離職を余儀なくされている。
 ・下流老人
 ・親子共倒れ
このような言葉も最近よく目にし、耳にします。今日のNHKのテレビで介護離職から非正規労働者となる事例も話されていました。

若い頃は、私たちの周りは「仕事」「家族」「地域」「友達」が存在していますが、年老いてくると「仕事」や「家族」が消えてしまう。そうなると「地域」の存在が重要に成って来ていると言います。
話しの中で福岡市社会福祉協議会の「ずーとあんしん安らか事業」や横須賀市の「地域包括支援センター」の取り組み等の紹介も出ました。
 ・自助  :終活
 ・公助  :介護保険
 ・共助  :地域・NOP
終活は、身のため、世のため、家族のため。という事だとまとめています。
「自分らしいライフエンディングステージ」を私も考えて行きたいと思いました。今日の講演会では講師がパワーポイントを使って、画面にグラフや図を基に、説明をして頂けたので、内容をよく理解する事が出来ました。本当に有意義なお話を聞くことが出来た一日でした。

日本で一番大きい煉瓦アーチ橋「碓氷第三橋梁」を見て来ました。 [橋梁]

標高が900メートル程有り結構高いので、紅葉もそろそろ良いのではと思い国道18号線を走り碓氷峠の手前で見る事が出来る、旧信越本線の碓氷川に架かる煉瓦造りのアーチ橋「碓氷第三橋梁」を見に行って来ました。(ちなみに、JR日光駅付近の標高は534m、華厳の滝駐車場付近は1282mです。)
しかし紅葉はまだ少し早かった感じです。山の上の方が色付き始めて来たところです。
最近、長野方面に行くときはもっぱら「上信越自動車道」を利用してしまう為、碓氷峠を越える事はまず無くなっていましたので、本当に久々の碓氷峠でした。
上信越自動車道の松井田妙義ICで一般道に下り、国道18号で横川から碓氷峠に向かいました。碓氷バイパスとの分岐から5km、10分足らずで道路右側に目的の「碓氷第三橋梁」が姿を現します。
碓氷第三橋梁1.jpg
(国道脇から見た「碓氷第三橋梁」)
橋から300m程行った所に有る駐車場に車を置いて、橋の所に戻ります。
国道18号線から橋の上まで歩いて登り、橋の上に乗ることが出来ます。
「碓氷第三橋梁」の説明板が登り口に建てられています。
碓氷第三橋梁2.jpg
※説明板の内容を写してみました。
      旧信越本線の碓氷第三アーチ
   1.建 設 明治二十五年十二月竣工
   2.設計者 イギリス人、パゥネル技師
           日本人、 古川晴一技師
   3.構  造 煉瓦造、アーチ橋
           (径間数四、長さ八十七.七メートル)
   4.建設してからのあゆみ
     碓氷の峻険をこえるため、「ドイツ」の「ハルツ山鉄道」のアプト式を採用して
     横川、軽井沢間が明治二十四年から二十六年にかけて建設されました。
     その、こう配は1000分の66.7という国鉄最急こう配です。
     これを昭和三十八年九月、速度改良の為新線の完成と同時に使用禁止
     となりました。このアーチ橋は廃止になった構造物の中で最大のものです。
     すぐれた技術と芸術的な美しさは今なおその威容を残しております。
     ここに往時を偲ぶ記念物として、その業績を長くたたえたいものです。
         昭和四十五年一月一日
                    高崎鉄道管理局
                    松井田町教育委員会
碓氷第三橋梁5.jpg
下から見上げると、その大きさが一層迫ってくる感じです。残念ながら私は信越本線を利用した事が有りませんので、国鉄最急勾配のアプト式列車に乗車した経験が有りません。
現在、アプト式は大井川鉄道にて1000分の90という勾配で運行されていると聞きます。今度乗ってみようと思います。
碓氷第三橋梁3.jpg碓氷第三橋梁4.jpg
(5号トンネル側より碓氷第三橋梁を撮影)
横川駅から元熊ノ平駅の間は遊歩道「アプトの道」として歩いて散策できると言うので、「碓氷第三橋梁」から「熊ノ平」間を歩いて来ました。


元栃木町役場庁舎 [石碑]

10月も下旬となり日が暮れるのが早くなりました。この時期はウォーキングをするのには最高の季節で、歩き始めは少し寒いかなと感じながら歩いていると、直ぐに寒さから解放されてきます。夏の様にダラダラと汗をかく事も無く、1時間も歩くとすっかり体も温かくなります。
今日は、夕方5時半ごろから7時までいつものコースを歩いて来ました。8,113歩約5.4kmのウォーキングです。以前はこの時間帯に歩くと日が暮れてもまだ役所や商店は仕事をしている時間なので、コース途中に有る市役所別館も窓から煌々と光が漏れていました。
旧栃木町役場1.jpg
しかし昨年市役所が新庁舎に移ってからは、別館はいつも真っ暗な状態になってしまいました。少し寂しく感じる事も有ります。
元県庁堀内の南東角地に建つ元栃木町役場の庁舎は大正10年(1921)11月に竣工した木造2階建ての洋風建築で、設計は町役場の技師堀井寅吉です。平成10年(1998)9月2日国登録有形文化財に成っています。昨年まで栃木市役所別館として活用されていました。
旧栃木町役場4.jpg
正面玄関の車寄せ前に、銅板エッチングされた「栃木町役場庁舎設計図」が掲示されています。そこには設計者堀井寅吉の名前や、建築工事概要が記されています。経費総額94,847円14銭内訳として土地買上費、工事費、装飾費が出ています。
旧栃木町役場9.jpg元栃木町役場0.jpg
春には建物の北西側のコブシの木に白い花が咲きます。
旧栃木町役場2.jpg
庁舎前から栃木市街地に通ずる道路が元県庁堀を渡たる場所に「御幸橋」が架かっています。
旧栃木町役場6.jpg
「御幸橋」の名前は、明治32年11月15日から18日、近衛師団の演習がここ栃木地方で行われた際に、元県庁敷地内に建てられた、第二中学校(現栃木高等学校)が明治天皇の行在所に成りました。又、大正7年11月13日から19日の間実施された、陸軍特別大演習に大正天皇が、同じく行在所(大本営)としました。
この時、栃木駅から行在所に向かわれた際に、この橋を渡られた事に由来するものと考えられます。
現在の橋は、昭和6年(1931)12月に架設されたものです。
御幸橋1.jpg御幸橋2.jpg
この御幸橋の西側に背の高い石碑が建てられています。
旧栃木町役場8.jpg
この石碑は昭和43年(1968)10月23日の明治百年を記念して建立されたものです。碑陰に「明治百年 栃木市」と刻まれています。石碑上部の篆額「温故知新」の文字は、当時の栃木市長金子益太郎が書かれたものです。
碑文は「史蹟橡木県庁址」と題して、同じく当時栃木市文化財保護委員長であった日向野徳久撰、栃木県立栃木高等学校教諭 池澤洸謹書に依ります。
温故知新の篆額.jpg碑陰明治百年.jpg
明治4年の廃藩からの栃木県の成り立ちと、明治17年宇都宮に県庁が遷されるまでの来由が記されています。
又、この石碑の後ろ側にもう一つ、大きな自然石による記念碑が建てられています。正面に大きく横書きで、「栃木県議会発祥の地」と刻まれています。碑陰にその来由が記されたプレートが付けられています。
旧栃木町役場7.jpg
≪明治12年4月14日、都賀郡薗部村(現栃木市)の栃木県庁敷地内遙拝所を仮議場として栃木県最初の県会が開かれた。前年の府県会規則にもとづき、同12年4月第1回の県会議員選挙が行われ、36名の議員が選出された。(後略)≫と記した後に、≪昭和54年11月1日 栃木県議会建立≫最後に、大町雅美撰・七海水明書と記されています。
旧栃木町役場3.jpg
明治の初めにこの地に栃木県庁が置かれた証として、県庁堀とその県庁堀から巴波川とを結ぶ漕渠が残されました。これは栃木市にとっていつまでも大切にしたい歴史遺産です。





群馬県高崎市を流れる烏川の佐野橋 [橋梁]

先日(2015年10月4日)、読売新聞栃木版の「わが街空から」水辺編の記事が目に留まりました。群馬県高崎市に有る「佐野橋」について書かれていたからです。
佐野橋1.jpg
(佐野橋右岸下流側から撮影。奥に上越・信越新幹線の高架橋)
紙面の上半分のスペースに、「佐野橋」全体を上空から撮影した写真が掲載され、下半分に「佐野橋」にまつわる興味深い記事が載っています。
以前、橋に関する本を読んでいる中で「佐野の舟橋」と言うものが書かれていました、栃木の人間としては「佐野」と言うと、お隣の「佐野市」の事と決めつけてしまいますが、この「佐野の舟橋」は万葉集の東歌に収録されている、≪上毛野 佐野の舟橋取り放し 親は離くれど 吾は離るがへ≫と詠われている様に、群馬県に有ったものと今回改めて知る事が出来ました。
佐野橋3.jpg
(佐野橋左岸橋詰付近より撮影。背後に上毛の山並みが霞んでいます。)
かなり以前に読んだ本でしたが、改めて引っ張り出して読み直しました。岩波新書「橋と日本人」(上田 篤著)です。その中の「うきはし」の部分、挿絵に葛飾北斎・諸国名橋奇覧「かうつけ佐野ふなはしの古づ」の浮世絵が使われています。
川の両岸に杭を打ち、綱を渡して50余隻の小舟を並べて繋ぎ、上に板を置いて人馬がその上を渡って行く様子が描かれています。舟橋は中央部が川の流れで押される様を誇張してか、「く」の字に曲げて描かれています。ここにも「かうつけ」(群馬県)と記されています。
≪世阿弥はこの歌を元に「舟橋」と言う能をつくった。≫と有ります。「橋と日本人」より抜粋させて頂きます。
≪ある旅僧が上州佐野にやってくると、フナバシをかけて橋供養をしている若い男女にあう。かれらは、親が橋板を外したために川底に沈んでうかばれないまま「邪淫の鬼」となった男女の亡霊である。とうじ、人が川で死んだときは、舟に鳥をのせて鳥が鳴いたところの川底に死骸がある、といいつたえられていた。しかし、その死骸もみつけられないままに成仏できない二人なのだ。そこでつぎのような歌が詠まれる。
東路の 佐野の舟橋鳥は無し 鐘こそ響け夕暮れの空
ここで、「取り放し」が「鳥は無し」によみかえられている。その一句をいわば掛詞として、フナバシも非情さがうたいあげられたこれは古作の能である。≫
又、上毛新聞社発行の「群馬の川」の中に、「烏川にまつわる伝説」としてやはりこの「佐野の舟橋」が掲載されています。
≪烏川にかかるこの舟橋を隔てて両側に長者がいた。佐野村の長者は「朝日の長者」といい、また一方の長者は「夕日の長者」といった。朝日の長者には一人の息男があり、夕日の長者には一人の息女があったが、両方とも一人息、一人娘であった。≫ストーリーはこの美男美女の二人が、舟橋の上で出逢い、互いに慕い合う仲となって行きます。しかし二人の親達はもともと仲が良くなかったので、二人の仲を裂くために、この舟橋を切って落としてしまった。逢う事が出来なくなった二人は、毎日川の両岸に立って苦しみ、ついに二人は烏川に身を投げてしまうと言う悲恋物語です。この「佐野の舟橋」については類似した話も伝えれれているという事です。
烏川1.jpg
(佐野橋の橋上より烏川下流方向を撮影。長閑な川の風景が広がります。)
現在の「佐野橋」は当然舟橋では無く、鋼鉄製の橋脚が並んでいます。欄干と橋床は木製ですが、橋桁は鋼製と木製の部分が混ざっている様です。全長121メートル、幅2.15メートルとなっていますが、橋詰はコンクリートのガードが造られ更に幅が絞られています。人や自転車は通行可ですが、軽自動車以上は不可となっています。今日も犬を連れた散歩の人や、学校帰りの生徒が自転車で渡っています。
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(佐野橋東詰より撮影。幅員1.4mの標識が立つ)
群馬県高崎市を流れる「烏川(からすがわ)」に架けられた「佐野橋」は右岸の佐野窪町と左岸の上佐野町を繋いでいる生活道路のようです。
今回私は右岸の佐野窪町側から現地に入りましたが、田畑や河川敷が広がり思うように目標に向かうことが出来ませんでした。田圃の中の道路脇に車を置いて、歩き回り幸い散歩をしていた方に教えて頂き「佐野橋」にたどり着くことが出来ました。「佐野橋」の直ぐ上流側には「上信電鉄線」の「烏川橋梁」が架かっています。
佐野橋2.jpg
(佐野橋の上流、上信電鉄の鉄橋の上をカラフルな電車が走っていました。)
烏川の左岸には立派なマンションも建てられています。高崎駅も近い為付近にはアパートも多く建てれれています。一方右岸は河川敷や田畑が広がる長閑な田園風景が残っています。もうすぐ西の山脈に夕陽が沈もうとしています。急いで家路につきました。

とち介、ゆるキャラグランプリ2015の投票も終盤戦へ。 [ゆるキャラ]

本当に長丁場の選挙戦です。この10月17日で投票期間も3ヶ月目に入り、残すところ1ヶ月に成りました。
現状をまず1枚のグラフで確認します。10月15日から10月18日の4日間の、上位10人?10キャラの累計得票数の推移を折れ線グラフに表わしました。
ゆるキャラグランプリ2015終盤戦へ1.jpg
現在1位の愛媛県の「みきゃん」と2位の静岡県浜松市の「出世大名家康くん」とは、累計得票数が270万票で激しくトップの座を争っています。優勝はこのどちらかに絞られています。
3位埼玉県深谷市「ふっかちゃん」、4位富山県小矢部市「メルギューくん・メルモモちゃん」そして5位高知県須崎市「しんじょう君」についてはほぼ順位確定と思われますが、ここに来て5位「しんじょう君」が得票数を伸ばしていて、この状況が続くと、4位の座を狙えます。
我が栃木県栃木市の「とち介」も当初から健闘していますが、6位に留まっています。(目標は5位以内)。前年2014グランプリに初挑戦して8位と言う好成績を獲得した余勢をかって、今年度も前年以上の6位に付けています。数多くのゆるキャラが参戦している中、6位をキープしている事はそれだけでも、「とち介」のファンの結束力を感じます。その結束力を生み出す元に成っているのは、「とち介」の持っている「癒し」の力だと考えています。毎日毎日1万票と言う投票が着実に実施されているのですから。
ただ、もう一度グラフを見てみると、「とち介」の後には多くのゆるキャラが団子状に固まっています。残すところ1ヶ月、最後まで気を緩めることは出来ません。そして、最後まで上を目指して自分の持っている1票を着実に投票する。それだけです。

栃木市箱森町東部に見られた橋 [栃木市の河川と橋]

私の住む栃木市箱森町の東部地域は多くの小河川が、幾筋も流れています。最近は住宅が増えてきて、川筋が住宅地の中を流れる為、一部暗渠に成ってしまったり、道路拡張に伴い橋の高欄や親柱なども無くなり、川筋を認識する事が難しくなってきています。
私が30年ほど前よりこの地域の橋の写真を撮ったころは、小さな親柱にしっかり橋名を刻した橋も多く有りました。今もまだ残っている橋。すでに姿を消した橋を合わせて紹介したいと思います。
最初にも書いた通りこの地域には小河川が多く、私が確認した河川名も、箱森町の東の端を流れる「巴波川」。そしてその巴波川の西側を流れ、雷電橋の下流で巴波川に合流する「荒川」。
荒川橋1.jpg荒川橋2.jpg
(荒川と言う河川名を初めて認識した「荒川橋」。現在も旧荒川筋に残っている。)

更にその西側には「旧赤津川」が大きく蛇行を繰り返しながら流れています。そして更にその西側に、我家の脇を流れる「清水川」が北から南に流れています。。
清水川2.jpg清水川1.jpg
(清水川の河川名が表示された、「清水川橋」)

この清水川に「中の橋」の上で右岸(西側)から合流する「館野川」などです。他にもこれらの河川から分かれた川筋も有りますが、残念ながら名前が分かりません。
私が河川の名前を認知する方法は地図上に記載されているか、橋梁に表示されている河川名から確認しますが、地図にも橋にも表示が無いものは確認出来ません。
それでは、これらの河川がどのように流れているか、地形図で見ると、最新の地図では住宅が多く描かれていて水路が描かれなくなっている為、分かり易い時期の地形図として、昭和40年国土地理院発行の2万5千分の1の栃木の地形図が有ります。そこに描かれている、箱森町東部付近の水路と道路の位置を、現状の様子との比較が出来る様、平成25年発行の地形図と昭文社2014年発行の栃木市の地図を元に作った概略図に、重ね合わせて表示してみました。
箱森町東部概略図.jpg
(栃木市箱森町東部概略地図)

略図の左上の十二社(神社)前から南方向栃木高校西側にほぼ直線に伸びる道路が旧鍋山街道で、明治33年7月5日の開通から昭和初期の路線変更までの間、鍋山人車鉄道のルートでした。
又、十二社前から東方向に横に伸びる道路が有ります。この道路は新栃木駅まで続いていますが、現在は途中で栃木インター前から真直ぐ来た県道32号線が、合流しています。
昭和40年の地形図に有った道路の位置を赤色で略図上に記しました。先に記した河川を横切る為その場所に小さいけれども橋が架かっていました。
ここで、十二社から進んで行き昔の様子を合わせて振り返って見ます。
最初は現在「(株)カワチ薬品栃木インター店」の南側で「清水川」の上流部に架かる「岡堀橋」に成ります。
岡堀橋1.jpg岡堀橋2.jpg
(清水川の上流部に架かる「岡堀橋」、十二社前旧鍋山街道から東へ150mに有ります)
今はこの橋の上流部は「(株)カワチ薬品栃木インター店」の店舗の下を流れる為確認できません。親柱に刻まれた橋名も現在親柱が破損して判読不能になっています。「(昭和)五年四月竣功」がかろうじて確認出来ました。
岡堀橋3.jpg岡堀橋4.jpg
(現在の「岡堀橋」。親柱も損傷が激しくなってしまいました。)
東に進んで行くと、「よこやま内科小児科クリニック」の東側にて現在の県道32号線に合流しますが、その手前に「榮橋」と刻まれた橋が残っています。
榮橋3.jpg榮橋1.jpg
(「岡堀橋」から東の方向に100m程で「榮橋」が有ります。)
「昭和十二年十月竣工」の文字も確認出来ました。河川の名前は確認できません。
榮橋4.jpg榮橋2.jpg
(現在の「榮橋」。橋の直ぐ東で栃木インターから来た県道32号線に合流します。)

地形図をながめると、この橋の直ぐ上で北側から流れて来た川が分岐しているのが分かります。昔この分岐点の写真を撮影しました。上流側から撮っています。中央に住宅が有って川はその家の左右に分かれて流れています。右手に流れた所に「榮橋」が有ります。(煙が出ていて良く見えませんが)
左側には橋が見えていますが、この橋は「深町橋」となっていました。
旧赤津川1.jpg旧赤津川2.jpg
(1991年撮影、旧赤津川。左奥が「深町橋」)(元「深町橋」の有った近辺の現在の旧赤津川)
現在はこの辺は新しく県道32号が抜けてしまった為、全く風景が変わってしまった所です。当然この深町橋は全くその姿を留めていません。
深町橋(1991年).jpg深町橋(1991年)2.jpg
(1991年に撮影をした「深町橋」。現在は県道32号線が通っています。)
以前はこの「深町橋」を渡って北側に行くと、市のごみ焼却所が有ったようです。昭和40年の地形図を見ると橋の上方、道路の先に煙突の地図記号が認められます。
そしてこの深町橋の下流側で川筋は南に向きを変え、先ほどの十二社から来た道路に架かる橋の下を潜ります。この橋の名前は以前「赤津川橋」とその親柱に刻まれていました。
赤津川橋1.jpg赤津川橋2.jpg
現在はこの赤津川橋も道路拡張の為姿を消し、暗渠となって旧赤津川はこの県道32号線の下を流れています。
赤津川橋3.jpg赤津川橋4.jpg
(新しい道路は歩道の部分も含めると、以前の道路幅より3倍以上広がています。)
更に東に進んで行くと「原前橋」が有りました。小さな親柱に「原前」の文字が刻まれているのを確認しました。
原前橋1.jpg原前橋s.jpg
当然この橋も道路拡張で姿を消しました。そして次の橋が巴波川に架けられた「原ノ橋」で現在の橋は道路の拡張に合わせて2001年に竣功しています。
原ノ橋1.jpg原ノ橋2.jpg
(巴波川に架けられた「原ノ橋」。親柱のデザインは以前の橋の親柱と同じでした。)

清水川に合流する館野川の名前を知ったのは最近の事に成ります。河川改修工事が行われた時に掲示された工事の案内板に「館野川」と言う名前を見て、始めた知ったのでした。以前は田圃の中を流れる小川でしたが、現在はコンクリートの水路に生まれ変わりました。
館野川1.jpg館野川2.jpg
(河川改修前後の館野川の様子)
館野川3.jpg
(館野川改修工事の看板を見て、初めて館野川の名前を知りました。)
最近も初夏にはカルガモが姿を見せますが、昔の小川の中を泳ぐ姿はもう見られないのは残念です。
館野川5.jpg館野川4.jpg