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赤津川分水路にも大雨の爪痕が! [栃木市の河川と橋]

去る9月9日から10日にかけて降った、栃木市でも50年に1度と言う大雨の影響で、市内各所で大きな被害をもたらされています。市街地では小平町から錦町・入舟町の一帯で、多くの家が床上まで浸水をして、現在もまだ不自由な生活をされている方が、大勢いると聞いています。
話しを聞いていると、あの地域が、この地域が、大変な状態になっていると、今に成って知らされます。
その中で赤津分水路も多くの被害が出ていると言う話を耳にしました。
「赤津川分水路は、今から60年以上前、それまで頻発をしていた栃木市街地の洪水を防ぐために、昭和23年から三年間の工期を掛け、昭和26年に竣功した、巴波川に流れ込んでいた「赤津川」の水を永野川に流すように、吹上町新田橋の下(現在、東北自動車道が交差している辺り)から、南に田畑を開削して、錦着山の北西部、泉川町で北西方向から流れて来た永野川左岸に至る分水路です。
分水路となっていますが、実際は赤津川の水を100%永野川に流すものでした。この工事の成果でそれから後は目に見えて栃木の街の洪水は小規模な部分的な被害で留まる状況に改善されたと言われています。
実際私が生まれてから60年以上経ちますが、今回の様な状況を目にしたのは初めてです。
その「赤津川分水路」に被害が出ていると言うので昨日、現地を見に行ってきました。
永野川の合流点近くに架かる「九反田橋」を渡り、「赤津川分水路」の右岸を上流方向に歩いて行きます。県道75号線(栃木佐野線)が渡る「泉橋」の少し下流側左岸の土手が大きく削り取られています。
泉橋付近1.jpg
(2015年9月27日撮影、泉橋下流部、赤津川分水路右岸より)
堤防決壊に至らなかったのは幸いですが、増水した水の力の恐ろしさを垣間見た様です。
なぜこの場所がこの様な状況になったのか、家に戻ってから以前の様子を撮影した写真が無いか探してみました。1枚泉橋の上から下流側「九反田橋」方向が写っている写真が有りました。
泉橋付近2.jpg
(2013年6月27日撮影、泉橋の上より下流側を望む)
分水路は泉橋から真直ぐ南に流れますが、問題の個所付近から東方向に僅かにカーブしています。水路でカーブが有ると内側は流速が遅くなるためそこに土砂等が堆積しやすくなります。その結果その場所に草や木が育つようになります。正に写真には左岸側に大きな雑木が茂っているのが確認できます。写真は2013年6月に撮影したものですから、それから2年経ってこの雑木も更に大きく成長していたとみられます。実際土手が削り取られた箇所近くには、水位が下がった現在も大きな木が土砂を被って横たわっていました。増水した水の勢いに耐え切れず根元から倒れた木の為に、川に流れが乱されて、土手がえぐり取られたものと推定されます。
更に上流に向かいます。途中に架けられた多くの橋の支柱部分に増水時に引っかかったと思われる草や木のごみが増水時の名残りを残しています。
「新井橋」の支柱の部分も周りの土がえぐり取られていました。私の家のお墓は新井町に有りますから、この間の秋の彼岸には、お墓の掃除や墓参りにと何度もこの橋を車で渡っていました。今橋の様子を見ると少し不安がよぎりました。
新井橋1.jpg
(2015年9月27日撮影 新井橋)
新井橋2.jpg
(2015年2月21日撮影、新井橋、下流側右岸より)
「新井橋」の上流、「中ノ町橋」のその上に、正にその悲惨な情景を見る事に成りました。「鹿島森橋」が3支間を支える2ヶ所の支柱の一つが流失して橋桁2個が無残な姿を見せています。
鹿島森橋1.jpg
(2015年9月27日撮影、鹿島森橋)
鹿島森橋2.jpg
(2015年2月21日撮影、鹿島森橋、上流側右岸より)
そのすぐ上流側に架かる「平和橋」は栃木インターチェンジの入口近くの、県道32号線(栃木粕尾線)が渡っています。さすがに問題は有りません。しかしその上流に架かる「田原橋」が被害を受けています。橋桁は辛うじて落ちていませんが真中に建つ支柱が下流側に倒れ、崩壊寸前の状態で通行不能になってました。
田原橋1.jpg
(2015年9月27日撮影、田原橋)
田原橋2.jpg
(2011年2月6日撮影、田原橋、下流側左岸より)
更にその上流に架かる「永宮橋」も通行止の処置がされております。
永宮橋2.jpg永宮橋1.jpg
(2015年9月27日撮影、永宮橋)
永宮橋3.jpg
(2015年2月21日撮影、永宮橋、下流側左岸より、大型車通行禁止の標識が見える)
赤津川分水路には建設当時、それまでの田畑を分断する形で水路が開削された為、地元の農作業の便を考慮してそれまでの農道の箇所に多くの橋が架けられました。県道が通過する「泉橋」と「平和橋」それと東北自動車道の側道となる「境橋」以外の橋は、「赤津川放水路」を開削した当時に竣功して、老朽化が進んでいた橋です。
「赤津川放水路」に架かる橋を列挙すると以下の様になります。(上流側より)
 <橋名>             <架設年><橋長><幅員><今回の被害>
①境橋(東北自動車道側道橋)  1971年 28.80m 4.8m 
②東北自動車道
③永宮橋               1950年 33.40m 4.0m 通行止処置
④田原橋               1951年 27.60m 2.5m 崩壊
⑤平和橋(県道32号線)
⑥鹿島森橋              1949年 24.70m 3.0m 崩壊
⑦仲ノ町橋              1955年 24.80m 3.0m
⑧新井橋               1949年 24.70m 4.0m 
⑨樋口橋               1949年 24.90m 4.0m 
⑩前田橋               1949年 24.70m 3.0m 
⑪風泉橋               1949年 24.70m 3.0m 
⑫桧原橋               1949年 24.70m 3.0m 
⑬泉橋 (県道75号線)
⑭九反田橋              1950年 27.80m 2.9m
<永野川に合流>
※上記数値は平成25年4月発行「栃木市橋梁長寿命化修繕計画」を使用させて頂きました。

県道以外に橋の幅員が4.0m以上の橋は、これまでも車の通行が多くなっていましたので、「新井橋」と「樋口橋」に関しては、安心して通行できるか良く点検をして頂きたいと感じました。又、幅員3.0m以下の橋は車の通行は当分控えた方が良さそうです。




9月27日、中秋の名月 [自然の恵み]

今日、9月27日は中秋の名月。だが、天気予報では曇り。朝の内まだ小雨がパラパラと降っています。庭のクジャクソウは満開。雨の水滴が花びらに付いてキラキラと輝いて見えました。
クジャクソウ1.jpg
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シュウメイギクも満開になっています。
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午後に成って雲の間から青空が覗き始めてます。太陽も顔を出して、体を動かしていると、汗ばむ陽気になって来ました。この調子でいけば、中秋の名月を見る事が出来る期待が膨らんできます。
夕方、東の空を見ると低い所に雲が広がっています。雲が多かったので、あきらめて家に入りました。暫らくして外に出た娘から、「満月が出てるよ!」と。急いでカメラを持って庭に出ます。すでに東の家の屋根のテレビアンテナの上まで上がってしまった月が、黄色く色付いて光っていました。
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(2015年9月27日17時50分撮影)
子供の頃は親がススキを飾ったり、丸い団子を十五個皿に盛って供えていました。今は親子で暫らく真丸い月を眺め、私はデジカメで、娘はスマホで「中秋の名月」と呼ばれる今日の月を写真に収めています。
夜の8時過ぎに再度外に出て見ると、雲の間から丸い白い月が現れていましたが、又直ぐ黒い雲の陰に隠れてしまいました。
中秋の名月2.jpg
(2015年9月27日20時35分撮影)
明日は「スーパームーン」が見られると言います。明日は地球と月との距離が1年で一番近くなる満月だからだそうです。明日の天気はどうでしょうね。

栃木市の道路元標 [石碑]

日本橋」は日本人であれば誰もが良く知っている、日本の代表的な橋です。橋の南西詰にこの「日本橋」についての説明板が建てられています。
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説明文には
①日本橋が初めて架けられたのは、徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603)と伝えられている。
②そして、幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋としました。
③現在の日本橋は東京市により、石造り二連アーチの道路橋として、明治44年に完成しました。
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(現在の日本橋、下を流れるのが日本橋川、上を走るのが首都高速都心環状線)
④橋銘は第15代将軍徳川慶喜の筆によります。
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⑤青銅の照明灯装飾品の麒麟は、東京市の繁栄を、獅子は守護を表わしています。
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(日本橋の親柱の上に建つ獅子。その獅子が右手で支えているのは東京市章です。)
⑥橋の中央に有る「日本国道路元標」は、昭和42年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、昭和47年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。
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(写真は橋の北西詰に設置されている複製です。本物は車道の中央の為撮影困難)
と説明されています。

明治六年(1873)12月20日、政府は太政官達第413号により各府県ごと「里程元標」を設け陸地の道程の調査を命じています。明治四十四年(1911)に現在の日本橋が架けられたとき「東京市道路元標」が設置され、大正八年(1919)の旧道路法では各市町村に一個づつ道路元標を設置することとされました。

栃木町の道路元標は、栃木市倭町大通り、足利銀行栃木支店の交差点に建っています。一辺が25cm高さ60cmの四角柱で上面に少し丸味を付け、大通りに面した側面に「栃木町道路元標」と彫られてます。
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(写真の左端に建つ「栃木町道路元標」)          (道路元標を拡大した写真)

1年続きました [懐かしい写真]

丁度昨年の今日、このブログ「巴波川日記」を書き始めました。何も分からないままのスタートでしたが、栃木市の身近なテーマについて、思いつくままに書いて来ました。その中で私が中学の頃からの趣味で、撮り集めた栃木近辺の風景写真を、懐かしい風景として紹介して来ましたが、1年間で殆んど使い切りました。以前は24枚撮りや36枚撮りのフィルムを買って、撮影すると写真店でフィルムを現像して、印画紙に焼き付けて貰わないと、写真として見られません。現在ではデジタルカメラで何十枚・何百枚も撮影して、パソコンハードディスクコンパクトディスク等に簡単に保存して、又表示して観賞する事が出来、ありがたい事に殆んどお金が掛からなくなりました。これからも身の回りの風景を撮って行きたいと思ています。今、何気なく撮った風景が、10年後、20年後変わっているかも知れません。
1枚の写真で表現できるのは1ヶ所の事象です。それは私の場合、橋であったり、神社仏閣であったり、石碑や石仏であったりします。そして1枚の写真では、撮影したその瞬間の現実しか表現できません。そこに時間の流れや、時代の変化を見る為に、写真の場合「定点撮影」と言う手段を使い、同じ場所で時間・年代を変えて撮影した、2枚・3枚と言う複数の写真で、時の流れを表現します。
そういう事で、2年目開始の今日は10代の頃のホームグランドの様な、錦着山周辺の写真で、時間の流れを感じて頂きたいと思います。栃木工業高校に通学していましたので、錦着山の横を毎日歩いて通っていました。その頃永野川に架かる「上人橋」が、台風の為流失し通行が出来なくなった事があり、下流の「高橋」を一時渡っていた事も思い出されます。

最初の写真は、錦着山の上から筑波山方向を撮影したものです。1966年3月に撮影したものです。そして対比写真として2014年11月撮影の写真を添付しました。
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次の写真も同じく錦着山の上から東方向を撮影した、1968年の写真と2014年11月の写真です。
錦着山より2.jpg
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次の写真は、以前栃木市の流れるプールが有った、永野川右岸の風景で、1966年4月のプールが出来る前の写真と、1015年3月の比較写真です。
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どの写真も約50年と言う時間の流れの中で、住宅地が広がっている事が見て取れます。その一方市街地の中心部では次第に空き地が増加して来ている事を私達は感じています。
これから50年間後、栃木市の姿がどのように変わって行くのか?私自身でそれを見る事は出来ませんが、明るい未来が来ることを思い描きたいと思います。

秋の夕暮 [自然の恵み]

今日、秋彼岸の中日、午前中は菩提寺の大施餓鬼会に出かけて来ました。今年は19日の土曜日から今日までの5日間連休となる「シルバーウィーク」という事で、新聞テレビニュースでは、行楽帰りの高速道路渋滞の様子が、昨日から出ています。現役を引退している私には、ここはジッと我慢の日々です。今は庭先から秋の夕暮をのんびりと見ています。田圃には稲穂が頭を垂れていますが、まだ収穫には間が有りそうな、色付き具合です。清水川の土手のコスモスの花が夕日を受けて輝いています。
秋桜1.jpg
眼を凝らして空を見つめると、何やら夕日の中に飛び回るものが、目に入りました。トンボが沢山飛んでいます。田圃の畦に差してある棒の先端にとまっては、又飛び立ちます。すると又、他のトンボがとまりに来ます。どの棒の先にもトンボがとまっては又飛び立ちます。その様子をズーッと眺めていると、面白くなって来たのでカメラに収める事にしました。
ズームレンズを最大の望遠にして、棒の先を捉えていると、トンボが入れ替わり立ち代わりとまってきます。
とんぼ2.jpgとんぼ3.jpgとんぼ1.jpg
高速シャッターで飛んでくるトンボを撮影していると、今まで気付かないトンボの姿が観察できました。
目標に向かって急降下してくるトンボは、足を折りたたんで体に付けています。とまる瞬間足を伸ばして目標物につかまります。
棒の先端の一つの指定席にとまって、休憩を終えると又飛び立ちます。疲れていたのか20秒以上休んでいるトンボ、場所が気に食わないのか直ぐに飛び立つトンボ。平均すると10秒そこそこ休んでは又飛んでいきます。
「田に差した 竿にトンボの 指定席」(一味)。
もうすぐ日没です。明日からは日に日に夜が長くなってきます。

白河の関にて [石碑]

今日、福島県いわき市へ行った帰りに、「白河の関」に寄ってきました。栃木市田村町に有る国指定史跡「下野国庁跡」、下野国庁は律令制の奈良・平安時代、下野国統制の中核として設置された役所ですが、その国庁の南側を西から東へと通っていた、当時の都から陸奥国に通じる官道「東山道」が下野国から陸奥国に至る要衝に、白河の関は設けられました。
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(復元された下野国庁の前殿)     (下野国庁跡資料館に展示されている国庁復元模型)
白河の関は鼠ケ関(ねずがせき)・勿来関(なこそのせき)とともに、奥州三関の一つに数えられる関所でした。私も以前から来てみたいと思っていた所です。実は昨年(2014年)の11月30日に白河方面にドライブした際、往路は東北自動車道を使いましたが、復路は下を通る事にして、白河から「旧奥州街道」に入りました。山里の道を進み、福島県から栃木県へ入った時、「境の明神」の存在に気付き、道路沿いの駐車場に車を停めて、那須町指定史跡「境の明神」にお参りして帰宅しました。
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(栃木県側の「境の明神」と説明板)
その際、「白河の関」の有る旧東山道は別なルート、県道76号線で有る事を知りました。
又、「境の明神」も私がその時お参りした栃木県側の他に、県境の峠の北側に福島県側の「境の明神」の存在にも気付きました。何時も行き当たりばったりの観光をしているので、中途半端な事が多いです。それで、先日8月24日に再度「旧奥州街道」国道294号線を走り、「境の明神」の福島県側にもお参りをして来たばかりです。
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(福島県白河市との境)       (福島県に入ると街道左手に石灯籠が建つ「境の明神」)
福島側の「境の明神」の境内には、寄進された多くの石灯籠や石碑が立ち並んでいました。社殿に向かって左手奥側には、松尾芭蕉の句碑も建てられていました。
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(福島県側の「境の明神」)
句碑は安永六年(1777年)の建立となっています。境の明神は文禄四年(1595)に当時白河を支配していた会津藩主蒲生氏が社殿を造営しています。松尾芭蕉は元禄二年(1689)四月二十日(新暦6月7日)に、この「境の明神」を通って、初めて陸奥国(白川領)に足を踏み入れています。
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「風流の はじめや 奥の 田うへ唄」(はせを)
松尾芭蕉はここから白坂の宿に進み、宿の入口で右に折れて、旧東山道の旗宿へ向かいました。しかし芭蕉が旅した頃は、歌枕として著名であった「白河の関」は廃れてしまい、その場所さえ特定出来ていない状態だったようです。
「白河の関」を現在の白河神社の地としたのは、寛政十二年(1800)白河藩主松平定信です。
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(白河神社の社殿と拝殿正面に掲げられた扁額)
白河神社の境内には「古関蹟」の石碑が建てられています。昭和四十一年(1966)9月12日に「白河関跡」として国の史跡に指定されました。
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(白河藩主松平定信が寛政12年8月、ここが白河関跡であることを断定した古関蹟の碑)
神社に参拝した後境内を散策しました。周辺には土塁や空堀の跡も有り、又「従二位の杉」と称する、鎌倉時代前期の歌人、従二位藤原宮内卿家隆が手植えし、奉納したと伝えられる老木も有りました。
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(境内に建つ「奥の細道」の碑)                  (従二位の杉)
又、白河神社の参道入口より少し北側に行った街道沿いに、芭蕉の句碑が建てられています。
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「西か東か 先早苗にも 風の音」(芭蕉)
句碑の建つ街道の反対側には、お地蔵さんや馬頭観世音や二十三夜塔などの文字塔が、多数祀られておりました。
少し離れた「白河関の森公園」の中に芭蕉と曾良の像が建てられていました。
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(芭蕉と曾良の像)
日が暮れかかって来たので、急いで帰路の途につきました。

栃木市ウォーキング [歩く]

今年で第3回となる、「来て、観て、歩こう、あったか栃木市ウォーキング大会」の参加申し込み用紙が、今月の始め栃木市から郵送されてきました。
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第1回、第2回と「栃木市縦断健脚コース、30km」に参加して何とか完歩しています。今年も参加を予定していますが、30kmは結構きつくなっています。
第一回栃木市ウォーキング大会完歩証.jpg第二回栃木市ウォーキング大会完歩証.jpg
スタート時は大勢の参加者と一緒に、群れを組んで歩くのですが、次第に列が長く伸びて来て、栃木の市街地を抜ける「20km地点」頃になると、前も後ろも歩いている人はまばらになって、ただゴールに向かって一歩一歩足を前に進める状況に成ります。
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(大会当日の受付付近)              (スタート直後、渡良瀬遊水地堤防上を歩く)
途中二ヶ所に設けられた休憩所にて、水分補給とチョコレートやキャンディーを頂いて糖分補給。
コース途中の交差点や曲り角で誘導される大会スタッフから励ましの声を掛けられ、又元気を取り戻して歩きます。ゴールゲートを潜って、スタッフの皆さんからの「お疲れ様」の声そして拍手を聞いて完歩出来た安堵感に暫らく浸ります。
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(途中の休憩所、水分当分の補給をする)     (道の駅にしかたのゴールゲート)
今年の夏は前半猛暑、後半雨の日が多かった為、なかなか歩く事が出来ませんでしたので、これから大会当日まで、足慣らしを始めました。

小山市生井桜づつみの田んぼアートは。 [石碑]

今日、小山市生井の桜づつみに行って来ました。ここは栃木県の南の端に位置する渡良瀬遊水地の北東部で、巴波川、与良川、思川が渡良瀬遊水地に流れ込む場所に築かれた堤防の上に成ります。
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(2011年4月2日撮影、栃木市側桜づつみより南東方向を望む)
堤防の中間辺り与良川と旧巴波川の合流点に、「与良川排水機場」が有り、与良川の南側が小山市下生井、与良川と旧巴波川の間に小山市白鳥、そして旧巴波川を境に北側が栃木市藤岡町石川が交わっています。そして小山市側の堤防が「生井桜づつみ」と称し、栃木市側堤防が「部屋南部桜づつみ公園」と称しています。
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(2015年3月30日撮影、与良川排水機場。第一機場は老朽化で現在廃止、県土木遺産)
私は時々この場所に訪れますが、前回来たのは7月30日でした。目的は思川西部土地改良区の「2015思川西部田んぼアート実行員会が企画した「田んぼアート」を見る為です。今年のデザインは小山市観光協会のゆるキャラ「政光くん・寒川尼ちゃん」で、びっくるするほで良く出来ていました。
今日はその田んぼアートと堤防外渡良瀬遊水地の様子を見に来ました。
田んぼアートはしっかりと残っておりました。稲穂が育って来た為か、全体的に褐色に変化して来ています。まるで真夏の太陽の陽射しに焼けてしまった様に見えました。
田んぼアート小山1.jpg田んぼアート小山2.jpg
(現在のアートの様子)             (7月30日撮影時の田んぼアート)
田んぼアートは桜づつみの上から見学できるようになってますが、近くにカスリン台風の堤防決壊の場所として「決壊口跡」の石碑が建てられていました。石碑背面の碑文に依りますと、
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(決壊口跡の碑の脇に、当時の被災状況の説明と碑文を記した案内板が建てられています。)
≪利根川の治水のために≫と題して
≪カスリン台風に因る異常な降雨を集めた利根川と渡良瀬川の水は、昭和22年9月15日夜半この堤防を溢流決壊し、生井村一帯を水底に没しました。昭和10年と昭和16年にも大出水があり、過去の改修工事では利根川を守りきれない事が明らかとなったにも拘らず、戦争の噪音にまぎれて治水を怠ったからであります。敗戦後の乏しい国力と変動する社会情勢の下にあって、利根川の復旧と増補に苦しんだ我々は、この国土に住む限り、治水を疎かにしてはならない事を痛感し、沿岸の方々と我々に続く河川工事関係者に不断の努力を、切望いたします。≫と刻まれています。碑文は決壊発生日から3年後の昭和25年9月15日の日付で、利根川上流工事事務所長 横田周平氏のものです。
最後に≪因みに昭和22年9月は、7ヶ所決壊したるも、茲1ヶ所に建之≫と記しています。
※碑文内容はそのままですが、句読点を適宜追加、漢字も当用漢字にしています。
栃木市発行の防災ハザードマップには、現在此処「部屋南部桜づつみ」は、緊急避難地となっています。
今日、堤防の上から堤外の渡良瀬遊水地を望むと、先日の大雨に因る増水も、もうすっかり水も引いた様子で、前回来た時とほぼ同様の状況に戻っている様に見えました。
渡良瀬遊水地1.jpg渡良瀬遊水地2.jpg
(現在の遊水地内の様子)             (7月30日撮影時の遊水地内の様子)
帰りに寄った思川の土手には彼岸花が咲き、蝶がせわしく飛び回っていました。
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とち介、ゆるキャラグランプリ2015は中盤戦に入りました [ゆるキャラ]

ゆるキャラグランプリ2015の投票も、今日2ヶ月目に入りました。
8月17日投票を開始して、丁度1ヶ月が過ぎ栃木市のマスコットキャラクター「とち介」は、6位の順位を必死でキープしています。ただ、目標としている全国5位以内に対して、今一歩の所で足踏み状態です。
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今年のトップ3は、愛媛県イメージアップキャラクター「みきゃん」、埼玉県深谷市イメージキャラクター「ふっかちゃん」、そして静岡県浜松市マスコットキャラクター「出世大名家康くん」の3キャラにほぼ絞られた感が有ります。この上位3キャラは毎日の投票で「3万票」もの票を上乗せし続けています。
昨日から9月23日の中間発表を演出する為、順位と票数が非表示となり、確認が出来なくなりました。
現在「とち介」の上を行く、5位の高知県須崎市の「しんじょう君」に追いつき、追い越すためにはもうひと踏ん張りする必要が有ります。「とち介」に対しては1日約1万2千人の支援者が投票を続けています。「とち介」も今毎日のように市内を回り、元気と癒しを広げています。
今日も街角で「とち介カー」が走って行くのを見かけました。又、どこかで頑張っているな。

秋の花が咲き出しました。 [草花]

先日の大雨にて、我家の小さな庭も、家の周りの田圃も、清水川から溢れた水で冠水しましたが、ここ数日の陽射しで、草花も息を吹き返してきました。
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(清水川が溢れて、田圃が冠水。 9月10日午前7時撮影)
清水川の川べりには、彼岸花と田圃の稲穂とが、長閑な秋のひとときを輝かしている様です。
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(清水川に架かる「中の橋」)               (田圃の畦に咲き出した彼岸花)
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清水川の川べりのコスモスは、大分溢れた水でなぎ倒されてしまいましたが、残ったコスモスが花を広げています。
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庭のシュウメイギクも沢山蕾を持っていますから、これから暫らく楽しませてくれそうです。
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今日は一日曇り空でしたので、西の窓に広がったアサガオのグリーンカーテンを片付けました。明日から又雨の予報です。洪水で被災した方には恨みの雨に成ります。出来れば降らない事を願います。