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栃木市の太平山あじさい坂が見頃に [草花]

今日、早朝に太平山のあじさい坂を登り、色とりどりに咲いた紫陽花の花の写真を撮って来ました。
太平山あじさい坂0.jpg太平山あじさい坂6.jpg
(あじさい坂の上り口)                (登り口左手、大平山般若寺、通称六角堂)
太平山あじさい坂12.jpg太平山あじさい坂13.jpg
(六角堂境内より、正面奥高台の石碑は平岩幸吉氏善行旌表碑)(六角堂境内にて)
あじさい坂を登って行くと、両側に品種の異なる紫陽花が、青や紫、そしてピンクや白色と鮮やかに咲き誇っています。
太平山あじさい坂1.jpg太平山あじさい坂2.jpg
太平山あじさい坂3.jpg太平山あじさい坂4.jpg
太平山あじさい坂5.jpg太平山あじさい坂11.jpg

紫陽花の花を撮影していると、その脇を色々な人達が通り過ぎて行きます。中年の御夫婦や若いカップル、ビシッと山歩き姿をした御婦人のグループ、観光バスで来られた一団、一人山歩きを楽しむ男性等々。互いに「おはようございます」と挨拶を交わして登って行きます。その背中を見送り、又、色や形の良い紫陽花を探す。
太平山あじさい坂7.jpg太平山あじさい坂10.jpg

石を敷き詰めた石段を登って行くと、正面に「太平山」の額を掲げた大きな鳥居が現れます。あじさい坂はここまで、この先は太平山神社の石段に変わります。
今、太平山のあじさい坂は紫陽花の花が丁度見頃を迎えました。
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栃木城内町に建つ大正天皇野立記念の碑 [石碑]

これまで数回に渡って、栃木市内に残る天皇の御聖蹟に建てられた記念の石碑について書いて来ましたが、今回新たに一ヶ所確認出来ましたので紹介いたします。
今回の石碑は、栃木市城内町二丁目の愛宕神社境内に建てられていました。
城内町愛宕神社1.jpg城内町愛宕神社2.jpg
(小山街道、両毛線跨線橋東側の愛宕神社)

城内町二丁目の愛宕神社は、県道栃木・小山線を小山方面に走らせ、JR両毛線跨線橋の所で左側側道に入ると、直ぐその先道路左手に木々の茂る小丘が目に入って来ます。この小丘上に祀られているのが愛宕神社に成ります。そしてその道路際に目指す石碑が建てられています。
石碑正面.jpg碑陰.jpg
(大正7年陸軍特別大演習、11月18日栃木城内の御野立所記念碑)

石碑の正面には大きく「聖駕駐蹕記念碑」、その左脇に「陸軍大将松川敏胤謹書」と刻されています。
又、その碑陰には以下の碑文が刻されています。
     ≪ 今上講武于常毛之野閲兵于栃木之郊駐蹕于城内
       賜謁於將校實大正七年十一月十八日也栃木町民
       不堪欣躍建立記念之碑以傳              
       聖跡於無窮                        
       大正八年十月   栃 木 町 長  榊原經武謹撰
                    正五位勲三等日髙秩父謹書≫

この石碑がこの地に建てられた経緯は、田代善吉著の「栃木縣史・皇族・系図編」や「栃木市史資料編近現代Ⅰ」の第四節「天皇の行幸」に詳しく記されています。
大正7年11月13日より11月19日の7日間、栃木縣立栃木中學校(現、栃木高等学校)に大本営を置かれ、近衛師団を始め第一、第二、第八、第十三、第四、第十五の七個師団ならびに重砲兵第一旅団、交通兵団の一部を以て、栃木・茨城両県の広野に於いて陸軍特別大演習を実施。
11月13日の午後3時55分、御召列車は予定通りに栃木停車場に到着、御馬車にて行在所へ。翌14日は茨城県下館の演習地へ。15日は同じく新治の演習地、16日結城の演習地へと仰出された。11月17日は早朝より秋雨冷涼を冐して錦着山御野立所にて演習に臨み、次いて同午後1時栃木第二尋常高等小学校校庭にて参集した大演習参加将校等と御講評所に臨まれた。
翌18日は小山の閲兵式場に臨まれ式を終えた後、その場の最終地点に続く『栃木城内の地にて馬車より下りて、予め整列して迎え奉る在郷軍人将校に謁を賜い御少憩』されていますので、この事を末永く伝える為にこの地に記念碑を建てたのでした。
大正天皇は同18日午後2時30分、大本営から栃木町と大宮村の接続地に設けられた賜饌場に臨み、文武百官及外国武官吏員名望家等六千余人を召され、宴を共にされています。
そして翌11月19日、予定通り特別大演習の御統裁を終了され午前8時35分大本営を後にして御還幸されました。

こうして大正7年11月の陸軍特別大演習に関わった各所に、記念の塔や石碑が建立されたのでした。
改めて栃木市内の記念碑の場所を以下に記します。
  ①県立栃木高等学校構内    :「大本營記念」      大正9年11月建立
  ②錦着山山上            :「聖駕駐蹕記念塔」  大正8年10月建立
  ③市立栃木中央小学校校庭   :「聖駕駐蹕記念之碑」 大正8年10月建立
  ④城内町二丁目愛宕神社境内 :「聖駕駐蹕記念碑」   大正8年10月建立
  ⑤今泉町二丁目賜饌場跡    :「親臨賜宴之處」    大正8年 2月建立
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今日の一枚(餌をねだるツバメの雛達) [自然の恵み]

今日、玄関先のツバメの巣に、親に大きく口を開き、首を精一杯に伸ばして、餌をねだる雛の姿を確認しました。
餌をねだるツバメの雛たち.jpg

6月7日の朝、玄関ポーチのタイルの上に小さな卵の殻を発見してから1週間、今日まで雛の姿を確認出来なかったので、チョッと心配をしていました。ですから雛が親から餌を口の中に入れて貰っている姿、元気そうな雛のクチバシ5つを確認した時は、あー元気に孵化出来たんだと安心を致しました。

今、ツバメの両親が入れ替わり立ち代わり飛んできては、雛達が大きく開けた口の中に、餌を押し込んでいます。まだ目が見えないのでしょうか?親ツバメが飛び去ると5羽の雛達は、巣の中に隠れる様に姿が見えなくなりますが、親が飛んでくると其の気配を感じてか、一斉にクチバシを大きく開けて、巣から首を突き出して餌をせがんでいます。

これから当分我家では玄関ポーチに落された沢山の糞を片付ける仕事が増える事に成ります。

まだ心配は残っています。昨年玄関ポーチの上に落ちて巣が壊れたのも、此の頃だったからです。5羽の雛が餌を求めて動く振動が大きくなるのでしょうか。
今年の巣作りは昨年に比べて非常にスピーディーであっさりと完成した感じでしたが、上手に出来上がったのか、その結果が分かるのはこれからです。

今年も、5羽の雛が全員無事に巣立っていく事を願っています。
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今日一日で5枚のマンホールカードをゲット [マンホールカード]

久しぶりに今日、マンホールカード収集の旅に出かけて来ました。
今回の目標枚数は6枚、この枚数は1日の収集数では最多枚数に成ります。
今まで1日5枚収集したのは2回だけ、最初は昨年6月2日の埼玉県中部の流域下水道関係など。2回目も昨年6月29日の千葉県北西部で、比較的集中した区域に配布先が集まっていると言う条件が有って、初めて可能になります。
これまで1日1枚収集が26回にもなります。収集場所が次第に遠距離に成って来ると効率が悪くなります。
これまで一番遠くまで出かけたのは、新潟県村上市勝木。高速自動車道を乗り継いでも片道5時間近く掛かってしまいました。ただ村上市は2ヶ所有ったので2枚ゲット出来ました。次に遠かったのは静岡県富士市で高速道路を飛ばして3時間。これで1枚しか入手出来ませんでした。
今回は、狭山市・羽村市・昭島市・国分寺市・小平市・小金井市と回って6枚まとめてゲットを目指しました。
狭山市民交流センター.jpg狭山市カラーマンホール蓋.jpg
(狭山市の配布場所:狭山市市民交流センター)(狭山市駅近くに設置されたマンホール蓋)

ところが、昭島市役所でその計画は頓挫してしまいました。既に配布が終了していると言うのです。
以前、越谷でも配布窓口にやっとたどり着いたのに「配布は終了しています。」と云われてしまいました。
その後は出発前に「下水道広報プラットホーム」のサイトを確認してから出かける様にしています。ですから今回「配布終了」は、「えっ、どうして」と思いましたが。(帰宅後、直ぐにサイトを確認をすると、そこには「配布を終了しました」とはなっていません。しかし、もう一度良く全体を確認すると、「現在、在庫状況の更新を行っておりません。最新の配布状況は各配布場所に、お問い合わせください。」と「カード配布についての注意事項」の中に記載されていました。「最終更新日:2018年5月15日」という事で、昭島市はそれ以降、配布が終了していたのに、更新されなかったのでした。ただ、この状況はこのサイトのリニューアル工事終了後、7月初旬頃からは新しいサイトで、これまで通りの配布状況の更新がされる様で安心をしました。)

結果としては、今回も5枚入手に留まりました。それでもそれほど悪い結果では有りません。
狭山市.jpg羽村市2.jpg国分寺市.jpg
小平市.jpg小金井市.jpg
(今回ゲットしたマンホールカード5枚)

それでも毎回感じる事ですが、マンホールカードを渡して下さる、各自治体市役所下水道課の皆さんの対応は、忙しい仕事の合間にも関わらず、とても親切にしてくれる事です。私達貰う方としては無料で頂くので少し気が引けるのですが、窓口で「マンホールカードを貰いに来ました」と言うと、自然体で明るく対応下さるので、こちらも安堵感に包まれます。(良くカードの趣旨が徹底されているなと言う感じです。)

今回出向いた中で、小平市の配布先は「ふれあい下水道館」は下水道に関するさまざまな資料が展示されている興味の有る施設ですが、到着したのが4時の閉館間際だった為、急ぎ足で館内を見学して来ました。地下5階の最下部で本物の下水道の中に入れるという事ですが、今回は地下4階まで見て時間切れ、戻りました。
小平市ふれあい下水道館1.jpgふれあい下水道館マンホール蓋.jpg
(小平市ふれあい下水道館)      (小平市ふれあい下水道館を表示したマンホール蓋)
その後は周辺を散策。直ぐ近くに「玉川上水」が流れていました。
玉川上水.jpg小平市カラーマンホール蓋.jpg
(緑に包まれている玉川上水の流れ) (玉川上水近で発見、小平市カラーマンホール蓋)

マンホールカード収集の旅は、カード収集の楽しみだけでなくこうした、出先の散策も楽しみで、思わぬ風景に出合う事も沢山有ります。

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また、心配の種が増えました。 [自然の恵み]

人間生きていれば、何かしら心配事の一つや二つは常に抱いますが、出来れば心配する事が少ない方が良いですね。そんな私に最近心配の種が突然増えて来ています。
その一つは、今年も我が家の玄関先で巣作りを始めたツバメの事です。
ここ数年毎年やってくるようになって、毎年やきもきするばかりです。一昨年はまだ卵から孵化する前に巣が落ちて、卵が割れて駄目になってしまいました。去年来たツバメも巣作りが下手で時間を大分掛けていたのに、又も途中で巣を落としてしまいました。
幸い孵化した後だったので、私が段ボール箱で応急の巣を作り、其の中にまだ小さな雛5羽を入れて置いたら、親ツバメも戻って雛達に餌を与える様になり、無事全員巣立っていきました。
今年も又ツバメが玄関先に巣作りを始めた時は、また心配の種が出来たと思いましたが、今年のツバメはテキパキと巣作りをして、今は抱卵の真っ最中です。
又、巣が落ちないか、ヘビが襲ってこないか、毎朝起きると早々に巣の様子を観察しています。
ツバメ抱卵中.jpg
(今年も玄関先に巣作りして、抱卵中の親ツバメ)

そこへ来て又心配事が増えてしまいました。
我家の脇を流れる清水川に、カルガモの親子が姿を現したのです。
家の外からカルガモの鳴き声がしたので、出て川の中を見ると、親鳥の後をまだ小さな雛が10羽チョコチョコ並んでついて行くのが見えました。
親鳥が、土手の上に飛び上ると雛達はその場で川底を突いたり、首をクルクル回し自分の体を突いたり毛づくろいでもしているのか。又、親鳥が下に降りると後を追って行進の開始です。川の水も少ないので雛達も泳がずに歩いて付いて行きます。
カルガモの親子.jpg
(水嵩の少ない清水川を散歩する、カルガモの親子)

ところが、昨日の夕方には10羽いた雛が、今朝現れた時は9羽と、1羽いなくなっているのです。
昨夜、何ものかに襲われてしまったのか。
今日は、気のせいか親鳥も元気無さそうです。昨日は何度も姿を見せていたのに、今日は朝一度現れた後、その後は声が聞こえて来ませんでした。
この辺はカラスも多いのでカラスが狙っているのか、この後雨の予報も有るので、川の水嵩が増えたら雛達は流されてしまうのでは、とか心配ばかりです。
廻りを警戒するカルガモの親.jpg近くにはカラスの姿も.jpg
(土手の上で周囲を警戒するカルガモの親)   (そしらぬ振りして近くで様子を伺うカラス)

ツバメの雛が大きな口を開いて親鳥から餌を貰う姿や、カルガモの雛のチョコチョコ歩きの姿を見られるのは嬉しいのですが、元気で巣立つまでは気が気では有りません。

早くこの心配事から解放されたいです。
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錦着山護国神社と山内に建てられた石碑を巡る [石碑]

今回は錦着山の山上に祀られた「錦着山護国神社」と、山内に建てられた石碑を見て回ります。
護国神社社殿正面.jpg
(錦着山山上に祀られている「錦着山護国神社」、右側に建つ燈台は日露戦争記念)

錦着山については昭和52年栃木市発行の「栃木郷土史」によると、
≪錦着山は旧名「箱森山」といい、当時は一部の私有地を除き、他は箱森村農民の共有地で草刈場の他、死馬捨場であった。その他山麓には古墳群もあり、その下方は池沼点在する湿地であった。
この箱森山が一躍して護国の英霊鎮まる霊場と化したものは、初代県令鍋島幹が大参事藤川為親、小参事柳川安尚らと相計り、朝野有志の醵金を以て、戊辰・西南両役における戦死者を祀り、以てその忠魂を慰めんがため、招魂社建築の発起人となったことに始まる。≫などと記されています。
明治11年10月土工を起こし、同12年9月社殿・社務所その他の建築が落成したので、同月24日祭典を執行していました。
初期の合祀者は、明治10年の「西南の役」における戦死者111名内栃木県下の士民65名。筑波挙兵に加わり遂に捕われ洲崎堤で切られた隣村瑞穂村の川連虎一郎。出流挙兵に従い遂に巴波川幸来橋の畔で殺された西山謙之助など10名も合祀されています。
明治17年に栃木県庁が宇都宮に移るとともに、招魂社は下都賀郡役所に管理を委ねられたが、郡はその後間も無く栃木町に管理を移しています。
大正2年には、帝国在郷軍人会栃木町分会にて、社殿の傍らに玉垣を設け美観を添えています。
大正10年4月10日、栃木町長と分会長との協議の結果、日清戦争以後の靖国神社合祀の本郡英霊293柱を、招魂社に合祀する事に成り、昭和14年5月4日招魂社制度の改正に伴い、私祭栃木招魂社を錦着山護国神社と改称されたまでの祭神、西山謙之助以下448柱はその後の合祀530柱を加えて、昭和15年11月6日現在978柱となった。
その後は、上海・満州・日支事変の戦没者の英霊も合祀されました。

尚、かつての錦着山について元栃木市文化協会副会長で有った故長沼秀雄さんは、著書「わが町さんぽ 栃木周辺見てある記」の中で、「歴史ある錦着山公園」と題して、≪この錦着山はかつて女子学習院の遠足指定地にされ、照宮様などが在学中、御来遊になったこともあり、風光明媚な地として、当時は都会から訪れる人も多かった。≫と記しております。

その様な関係からか、この錦着山の山内には、記念碑や慰霊碑など多くの石碑が建てられています。その石碑のひとつひとつに明治維新以降の錦着山護国神社の歴史や、国を守るために戦場に赴き、尊い命を落とされた人達と、残された遺族の思いが多く残されています。
錦着山石碑分布図.jpg
(錦着山内に建てられた石碑の分布図)
それでは分布図に表わした石碑を、東側山麓の参道登り口に建つ「①錦着山護国神社大鳥居移転記念碑」から順に見て行きたいと思います。
錦着山大鳥居.jpg①大鳥居移転記念碑.jpg
(錦着山東麓参道登り口に建つ大鳥居)    (①錦着山護国神社大鳥居移転記念碑)

この石の大鳥居は、大正12年11月帝国在郷軍人会下都賀郡連合分会により建てられたものですが、鳥居の脇に建てられた「大鳥居移転記念碑」に刻されている日付には、昭和44年3月と成っています、これは鳥居が現在の場所に移された時期を示しています。移転前は今の場所より東、県道75号(栃木佐野線)との分岐近く錦着山に通ずる道路上に建てられていました。その頃私はこの鳥居を潜る様にして、栃木工業高校に通学をしていました。
1966年3月撮影錦着山より東方を望む.jpg
(錦着山山上より東の方向を望む、道路の先に鳥居が見えます。昭和41年3月撮影)

次に鳥居を潜り、山の東面に沿うスロープの道を登って行きます。なだらかな坂道を登り、少しクランク状に折れ曲がった道路の先に、2番目の石碑が現れます。
②「感恩頌徳」碑.jpg②「感恩頌徳」碑1.jpg
(黄色く塗られたベンチの奥に建つ石碑)(②石碑の上部に篆書体で「感恩頌徳」と有る石碑)
石碑の上部に篆書体で「感恩頌徳」、その下側に碑文。420文字の漢字で埋まっている。冒頭部分を読んで行くと「黒子兵藏諱勝楚號錦陵又誠之軒遠近常以錦陵先生相通下野下都賀郡稲葉村人父・・・・・・」と漢字が続いて行きます。筋書きを追うように読む事は出来ませんが、なんとなく内容は理解出来そうです。
建立されたのは「昭和7年5月」、碑文は「従四位勲四等安達常正撰幷書」と刻されています。

そこから又坂を登ると正面に3番目の石碑が建っています。前橋耕圃の句碑です。
この句碑については今年の3月4日に紹介をしているので、ここでは省略して4番目の石碑に向かいます。
4番目の石碑は、南側に回り込んで、護国神社の正面階段方向に回り込む道の途中に有ります。
③前橋耕圃句碑.jpg④華表寄附人名碑.jpg
(③前橋耕圃の句碑)                (④「華表寄附人名」の碑)
4番目の石碑は上部の題額に「華表寄附人名」、その下側に寄付をした人達の名前が市町村ごとに区分されてビッシリと並んで刻されています。一番下の段に発起人16名の名前も並んでいます。
ここに有る「華表」(とりい)は、社殿に向かう正面石段の中段に建つ石の鳥居の事と思います。
二の鳥居.jpg華表.jpg
(参道石段の途中に建てられた石の鳥居)        (神額には「招魂社」の文字)

鳥居を潜り、石段を登って社殿前へ。石段を登り終えた両側に狛犬が迎える。ただここの狛犬は通常神社で見かける狛犬では無い、「獅子の子落とし」の形を表わしています。
狛犬(左).jpg狛犬(右).jpg
(左側)                                  (右側)

神社の境内には多くの記念碑・慰霊碑が建てられています。まず大きなものでは、碑と言うよりは塔に成りますが、社殿に向かって右隣りに高くそびえる「燈台」。錦着山のランドマーク的存在で、山上に建つ塔は遠くからも望む事が出来ます。いつごろ建てられたものか分かりませんが、日露戦争を記念して建てられたと書かれた書籍が多いです。一部「日清戦役記念燈台」(下都賀郡小志)としているものも有りましたが。
記念燈台.jpg⑤記念塔.jpg
(日露戦争記念燈台)             (⑤記念塔)
燈台の南側に少し小ぶりな塔が建っています。塔の南面には当初表示されていた文字を塗りつぶした箇所、そしてその下側に碑文を記したプレートが外されたような形跡が残されています。
この塔は何を記念して建てられたものか、一つ考えるものは、大正天皇錦着山御遺蹟が有ります。田代善吉著「栃木縣史・皇族・系図編」の中に記された記念塔です。そこには次のように記されています。
≪大正7年11月17日 大元帥陛下 には午前5時大本營御出門、大纛を御野立所に進められ、親しく両軍の交戦を御統裁あらせらる、其御遺蹟なる錦着山に記念の塔を建つ。≫と。
錦着山の上に建つ塔でそれらしいものは、他に有りませんから間違いは無いと思っています。建てられたのは大正8年10月、碑文は栃木町長榊原経武謹撰、日高秩父謹書でした。

更に境内の石碑を見て行きます。
⑥大久保○之碑.jpg⑦田村半次之碑.jpg
(⑥「大久保〇之碑」と篆額も不鮮明)       (⑦「田村半次之碑」と題額も鮮明)
記念塔の東側に建つ石碑は上部に篆書体で「大久保」と読める。その後の一文字が何と言う文字か分からない、その後は「之碑」と読めるので、大久保さんと言う人物の顕彰碑に成るのか?碑文を何とか辿ると、この方29歳と言う若さで病死されたと書かれています。明治31年3月建碑、栃木縣師範学校長従七位小濱宗介撰、栃木縣師範学校助教諭村田鉄太郎書と有りました。
7番目は境内の東の端に建っています。「田村半次之碑」とハッキリと確認出来ますが、碑文は漢文で私には難読ものです。冒頭部分を書き写してみます。
≪故陸軍一等兵卒田村半次君此地之産也明治十年西南役従征討軍・・・・・≫以上よりこの方は、明治10年に下都賀郡より西南の役に参加して戦死された一人で、それを慰霊して明治28年10月に建碑された様です。≪下毛 長谷川展撰并書≫と、碑文末尾に刻されています。

⑧「遺烈維馨」の碑.jpg⑨「男體山」の碑.jpg
(⑧「遺烈維馨」と篆額に有る石碑)      (⑨「男體山」と刻された石碑)
8番目は記念燈台に向かって、手前右側に建つ石碑です。上部に陸軍大将従二位勲一等功二級子爵川上操六による篆額が有ります。この篆書体の文字をどう読んで良いか長い間分かりませんでしたが、最近判読出来ました。「遺烈維馨」と書かれている様です。
碑文冒頭に「陸軍歩兵一等卒正八位赤羽根春次郎碑」とあり、碑文の中に≪赤羽根春次郎下野下都賀郡吹上村農常彌第三子・・・・・・≫と記されています。この方は明治28年の日清戦役にて、27歳の若さで戦死されている様です。
次の石碑は、8番の石碑の直ぐ脇に半分ほど埋まった丸っぽい自然石、正面に「男體」の文字が見えます。なぜこんな所に男体山信仰の石碑が祀られたのか?確かに石碑の有る所から少し山の裏手に回り込むと、男体山をはじめとする日光連山の山々を望む事が出来ます。此処錦着山山上から日光の霊峰を拝んでいたのかも知れません。

⑩栃木市海友会創立15周年記念の碑.jpg⑪栃木市海友会の碑.jpg
(⑩栃木市海友会創立15周年記念の碑)       (⑪栃木市海友会の碑)
次の10番と11番の碑は、社殿に向かって右側に並んで建てられています。二つとも栃木市海友会が建てたもので、10番目の船の錨を載せた栃木市海友会創立15周年を記念して建てた碑には「七つの海は桜に錨」の文字が刻されています。設置は昭和52年5月27日です。
社殿に寄った11番の石碑には、「貴様と俺とは同期の桜・・・・」の御馴染みの軍歌の歌詞が刻まれています。こちらは昭和46年5月27日の建立です。

⑫御大典記念碑.jpg⑬「表忠」の碑.jpg
(⑫「奉祝」 御大典紀念碑)           (⑬「表忠」 碑)
次に、10番11番目の石碑後方一段高い場所に建つ2基の石碑を見ます。
向って右側(燈台側)の12番目の石碑、正面上部に「奉祝」の題額、そしてその下中央部に大きく「御大典紀念碑」と刻しています。碑陰を確認すると、「下都賀郡傷痍軍人會」「昭和3年閏戊辰11月10日建之」等の文字が確認出来ることから、この碑はその年、昭和3年(1928)11月6日の昭和天皇即位の礼を祝って建碑されたものです。
その隣(社殿側)に建つ13番目の石碑は、正面上部に「表忠」の篆額、その下、最初の行に、
≪第十四師團長陸軍中将正四位勲二等功三級鈴木孝雄篆額≫と刻されています。2行目からの碑文冒頭部分を紹介すると、≪大正三年乃至九年戦役は欧州戦乱に方り帝国が日英同盟の義に依り独逸国に対し戦を宣し先ず青島を攻略して東洋の平和を擁護し次で南洋地中海等に転戦し・・・・・≫と刻されていきます。
碑文を更に読み進めると、この第一次世界大戦における戦勝したこと、そしてそこには戦死された方々の「忠勇義烈」があった事等を忘れ無い様、下都賀郡在郷軍人会にて大正13年5月建碑されたものです。この碑文の中に最初に紹介した大鳥居が、これに先立って献納された事についても記されています。

⑭日露戦役忠魂碑.jpg⑮建碑及招魂祭執行旹趣幷發起人名.jpg
(⑭日露戦役忠魂碑)               (⑮建碑及招魂祭執行旨趣并發起人名)

先に紹介した2基の石碑の間に有る石段を登ると、一番上の場所に一段と大きな背の高い石碑が建っています。この14番目の石碑には「日露戦役忠魂碑」と大書された文字、その横に「貞愛親王」と記されています。
「貞愛親王」とは、調べてみると「伏見宮貞愛親王殿下」と言う方です。
この忠魂碑の建碑の仔細については、直ぐ脇に建てられた15番目の碑に記されています。石碑上部に「建碑及招魂祭執行旨趣并發起人名」と刻されています。
碑文には≪嚝古の大戦に空前の國威を宣揚したる日露戦役に従軍し義勇奉公の大任を完うせられし名誉ある下都賀郡出身軍人忠死諸士の英霊を弔祭せんため郡内有志者相謀り寄付金を募集し明治39年5月12日遺族諸氏及朝野貴賓八千八百餘名を招待して第一回招魂祭を執行し又其芳名偉績を千載不朽に伝えるため日露戦役忠魂碑建設工事を起し明治41年12月20日竣工し同日遺族諸氏及朝野貴賓九百餘名を招待し第二回招魂祭を挙行し忠死諸士に対する本郡民の誠意を表したり≫と刻されています。

以上で、社殿右側エリアに建つ石碑の確認が全て終わりました。
次に社殿の左側に移動します。こちらのエリアにも全面・中段・最上段にと合計6基の石碑が見られます。
⑯慰霊碑口誌(栃木市青年學校同窓会建碑).jpg⑰戦歿者慰霊碑(栃木市青年學校同窓会建碑).jpg
(⑯慰霊碑口誌)              (⑰戦歿者慰霊碑)
一番前の区域は石柱と鉄の鎖とで囲った所、手前右端に16番目の石碑「慰霊碑口誌」、又中央部3段程石段を登った所、17番目の石碑手前両側に石燈籠が建つ。碑面には「支那事変大東亜戦争 戦歿者慰霊碑」と刻されています。碑陰の文は16番の石碑に刻された文と同じもの。建立は共に「栃木市青年学校同窓会」、17番石碑の建立年は「昭和38年9月24日建之」と刻されています。

その後方、露出した岩肌の上に18番目と、更にその情報に19番目の石碑。
⑱社殿補脩工事紀念.jpg⑲神社修復工事記念之碑.jpg
(⑱「錦着山護國神社社殿補脩工事記念」の碑) (⑲「錦着山護国神社修復工事記念之碑)
こちらの2基の石碑は共に神社社殿の修復工事を記念して建てられたもので、18番の補脩工事記念碑は、昭和31年3月の建立。19番の修復工事記念の碑は、昭和53年7月の建立となっています。
その碑文は下記の様に刻しています。
≪錦着山護国神社は去る昭和14年及び昭和30年に補修工事がなされたが、創建以来春秋を数うることを百回、その破損は甚だしいものがあった。我が栃木市遺族連合会は一致団結し残力を挙げて再補修することに決定したが、これを伝え聞いた軍恩栃木市各支部傷痍軍人会栃木支部青睦会海友会等の諸団体ならびに篤志者多数からの協力の申し出があった。これより、四月に工を興し本殿を修理し幣殿を新設してその屋根には銅板を用いた。なお拝殿は瓦をふきかえるなどし七月に竣工を見た。こうして、遠くは明治戊辰の役から日清日露の両役近くは大東亜戦争において祖国のために散華をした下都賀郡二市八町の八千三百余柱の英霊を合祀する壯厳な社殿を仰ぐことを得た。ここに本工事を記念してこの碑を建てる。≫と。

次は社殿左側の最上段へ登ります。ここに建つ20番目の石碑は、社殿右側最上段に建つ石碑同様に大きく背が高い。正面に大きく「征清役忠死者哀悼之碑」と刻されています。
⑳派清役忠死者哀悼之碑.jpg㉑「西山尚義」の碑.jpg
(⑳征清役忠死者哀悼之碑)                  (㉑西山尚義碑)
この石碑には他に刻された文字を確認出来るものが有りません。碑の正面左上方に、正方形に何か埋め潰した形跡が二ヶ所認められますが、落款の様なものが有ったのか分かりません。
「下都賀郡小誌」に載る招魂社の記事を読むと、≪境内に征清役忠死者碑(小松宮殿下御親筆)、日露戦役忠魂碑(伏見宮貞愛親王殿下御真筆)・・・・・・≫と記されています。
「小松宮彰仁親王殿下」は明治28年から31年、日清戦争征清総督でした。
社殿近くに立てられた石碑の最後は21番目「西山尚義碑」です。神社幣殿の西側、玉垣近くの斜面に建っています。この「西山尚義」と言う人物は、幕末・美濃(岐阜県)出身の尊攘家、栃木町幸来橋の畔で落命した「西山謙之助」その人です。

社殿から離れて、西側に広がる山頂方向に移動します。この山頂部に見られるのは、国土地理院が設置している三角点(22番)です。錦着山山頂の三角点は三等三角点に成ります。この地点の標高は80.45メートルに成ります。
㉒3等三角点.jpg㉓小根沢登馬雄胸像1.jpg
(㉒三等三角点「錦着山、80.45」)        (㉓小根澤登馬雄胸像)
いよいよ錦着山山内の石碑記念碑巡りも最後に成りました。三角点の場所から更に山頂広場を西側に進むと、広場の西端に円柱の上に胸像を載せた碑が建っています。胸像の下側に「小根澤翁之像・栃木縣知事小平重吉謹書」の銘板が埋め込まれています。円柱の反対側に碑文の銘板が付いています。
≪小根澤登馬雄翁市長在任中卒先赤津川分水に着工議員一同の協力小平知事の支援により遂に完成長年の水禍を断ち栃木市一円を安居樂業の處となす此處に像を建立翁の偉業を頌す≫と有ります。
胸像の視線の先には、永野川と赤津川分水路の合流点が有りました。

現在、錦着山公園は訪れる人も少なくなっています。私の子供がまだ小さかった頃は、よく遊びに連れて行きました。桜の季節、ツツジの咲く頃、紅葉の季節と。そしてそこにはいつも大勢の家族連れの姿が有りました。今、子供達の遊び場は新しい永野川緑地公園に移った事も要因かもしれません。
錦着山公園1988年4月1.jpg錦着山公園1988年4月2.jpg
(昭和63年4月、桜の花の下大勢の家族連れで賑わっていた)
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草むらに埋もれる石碑の残骸 [石碑]

最近、岩舟町に足を向ける事が多くなっています。先日は両毛線を走る蒸気機関車を見に、岩舟駅へ。そしてその前は、岩船山南東側の中腹となる「兜山公園」に建つ、「御野立記念之碑」撮影の為です。
この石碑は、明治32年11月に明治天皇が此処、鷲巣御野立所にて近衛師団小機動演習を御統監されたことを記念して建立されたものです。
田代善吉著「栃木縣史・皇族系図編」には、≪11月16日午前9時、行在所御出門、同9時10分汽車に召され岩舟駅御着、龍馬に召され岩舟及び新里方面に進軍諸兵を御観戦の為、真先に龍馬を進められ、同地の高丘に登らせられて戦況をご覧遊ばされ、更に新里山麓に龍馬を驅らせられ、佐野方面より進軍せる南軍と、北軍との激戦を親しく御覧ぜらるること約2時間余に及びしが、激戦終わるや、更に岩舟山より坊主山中よりの両軍の動揺及地形等を見そなはさるること約1時間程であった。≫と記されています。
ここで、行在所とは当時の「栃木第二中学校」で現在の県立栃木高等学校に置かれた、明治天皇の御宿泊所で、当校にはその時行在所となった建物が「記念館(御聖蹟)」として保存されています。
更に「栃木縣史」を読み進めると、≪新里の御野立所より岩舟山鷲巣字兜山通称坊主山に行幸御観覧遊ばさる、此地は眺望よき地形である。此御野立所に於いて、御昼食を食し召さる、午後2時岩舟駅御発、午後2時15分栃木駅御着、御料の馬車にて午後2時25分行在所に御還御遊ばさる。≫と、その日を締めています。
ここで記されている「新里の御野立所」にも、記念の石碑が建てられていました。上記の岩船山鷲巣、兜山公園の石碑の他、岩舟町にはこの明治32年11月の近衛師団小機動演習の記念の碑が建てられていたのでした。その当時、鷲巣字兜山は岩舟村、そして新里字天狗は小野寺村と分かれていました。
この小野寺村大字新里字天狗に建てられた石碑を撮影したく、その場所が何処であるか地形図上で探索をしましたが、「下野藤岡」2万5千分1の国土地理院地形図には、「新里」の集落区域内に石碑の地図記号は記されておらず、ヒントを見付ける事が出来ません。そこでゼンリン住宅地図「栃木市6(岩舟)」で探索すると、岩舟町新里の西端、佐野市との境に近い両毛線の線路の北側に、石碑の記号を2個確認出来ました。
この場所は、三毳山の北東端にコブの様に連なる小丘の北側の山裾に当たります。
岩舟町新田、天狗山.jpg
(岩舟町古江から東方向を望む。左に岩船山、右側に三毳山の山裾、中央の小丘が天狗山)

このコブの様に突き出た小丘は標高55メートル。恐らくこの小丘が天狗山と思われます。この山の南側には、主要地方道桐生岩舟線が三毳山との間、切通となって通っています。また北側の裾野に沿って両毛線が走っています。
さっそく確認の為に現地に車を走らせました。
新里の集落の中央を南北に縦貫する「市道1052号線」を南に進むと両毛線の踏切が有ります。この踏切の手前線路に沿って西に入る細い道が有るので、右折して細い道を少し進むと、線路の北側が少し広場の様になっているので、そこに車を停め探索開始です。
すっかり緑の葉が生茂った桜木の木々の間に、ゼンリン住宅地図に記された如く2基の石碑を確認しました。しかしそれは目的の石碑とは違うものでした。
手前に建つ石碑には「小野寺公園」、碑陰には「明治四十年十月」「大字新里」の文字が刻されているのが確認出来ました。その奥の石碑は「轢死者供養塔」と刻されていました。
小野寺公園の碑.jpg轢死者供養塔.jpg
(小野寺公園と刻された石柱)          (轢死者供養塔と刻された石碑)

小野寺公園について、「下都賀郡史・第2巻」に以下の様に記されています。
≪大字新里字天狗山にあり、明治32年11月近衛師団機動演習を本県下に行せらるるや、大元帥陛下には親しく兵を閲し給い、同月16日本村大字新里 今の公園の地に蹕を止め給う。村民は此の千歳一遇の盛事を永遠に伝えんと欲し、明治40年1月御駐蹕の碑建設の計画を立て、先ず近辺一帯3.5アールの地を買収して村有となし、同年9月1日建碑式を挙げたり。明治44年2月12日本碑管理規定を設けて皇謨を無窮に伝へんと謀り更に此の地に植えうるに桜樹50余本を以てし小野寺公園となす。≫
小野寺公園.jpg
(小野寺公園は今、桜木に緑の葉を付け、こもれびに溢れていました)

ここで、この小野寺公園の横を走る両毛線について、開業は明治21年(1888)5月22日(小山-足利間・両毛鉄道)ですから、近衛師団機動演習を此の地に展開した時には、既に天狗山の北麓に沿って走っていました。従って明治天皇が御野立された場所が山上であれば、鉄路越しに演習の様子をご覧になったと思われます。
岩舟町新里1.jpg
(小野寺公園の北側に広がる田畑、ここに近衛師団の機動訓練が繰り広げられた)

現在、両毛線の岩舟駅と西隣りの佐野駅との間は、なぜか複線区間に成っております。この複線化工事は昭和43年(1968)に行われています。又、現在は有りませんが昭和27年(1952)には、この天狗山の北側、現在の踏切の場所から直ぐ西側の所に、小野寺駅が開業をしております。
天狗山と両毛線.jpg
(天狗山を東側から望む、両毛線が山の北麓を抜ける。その右側の森が小野寺公園)

昭和39年11月30日発行、国土地理院2万5千分「下野藤岡」の地形図を見ると、確かに踏切の直ぐ西側の所に駅の記号と「おのでら」の文字が記されています。
「小野寺駅」はその後昭和41年には休止となり、昭和62年に至って廃止されています。今はその面影は全く残っておりません。
両毛線の線路元小野寺駅付近.jpg
(かつて小野寺駅が有った所。今は何の名残りも認められない)

この事から、現状の姿から、明治32年当時の様子を伺う事は困難な事です。
御野立ちの所は何処だったのか、記念の石碑は何処に有るのか。

たまたま公園にいらした現地の古老に、この石碑の事について尋ねたところ、ご存知でした。話を伺うと、石碑は複線化に伴う造成工事の折りに重機で誤って破損させてしまい、公園の隅に移動して寝せてそのままになっているとして、その場所に案内してくれました。
そこは雑草が生い茂っていて、草をかき分けてみるとその陰から、石碑の残骸が現れました。
石碑の残骸1.jpg石碑の残骸2.jpg
(小野寺公園の草むらに横たわる、石碑の残骸)

この残骸と化した石碑に刻された碑文が、冒頭に紹介した「栃木縣史」に掲載されています。
石碑正面に、
≪御駐蹕之碑   海軍大將東郷平八郎書≫
碑陰には、
≪明治三十二年十一月 天皇 近衛兵を下毛の野に閲し十六日武を講し兵を觀し
 蹕を焉に駐めらる思布方雍熙の世皥皥の民治に居て亂を忘れず石に樹て蹕の
 址を表し以て皇謨を無窮に傳へむと欲す於戯盛倍大業民の忘る能はざるめ乃と
 謂ふべき乎
  明治四十年九月      栃木中學校長従七位 劉須謹撰并書
                                 小野寺村建設≫
と有り、横たわる石碑の残骸にも、碑文の文字を見つける事が出来ます。

こうした石碑の現状に時の流れと、時代の変化を改めて知る事が出来ました。
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両毛線岩舟駅にSLが停車 [祭]

今日は、現在行われている栃木県の大型観光キャンペーン「本物の出会い 栃木」のイベントのひとつ、「SL本物の出会い栃木号」が、1日限定で両毛線、小山・足利間を運行しました。
今日の運行を前に、3回の試運転が実施されたが、私も前回の試運転の時に線路際にて、SLの雄姿をカメラに収めました。
今回は、岩船山を背景にして走るSLの姿を撮る為に少し離れた、田圃沿いの道路に撮影の場所を確保しました。前回の試運転でSLの岩舟駅付近の運行スケジュールを確認していたので、岩舟駅に到着する時間、そして発車する時間、汽笛を鳴らすタイミングなど頭に入れていた為、余裕を持って撮影することが出来ました。
岩舟駅前にSLが姿を現すのは11時57分ごろ、その時間が近づく頃には、岩舟駅を望む南側の道路沿いは、カメラを構えた人達がズラッと並んで、SLが現れるのを今か今かと待ちわびています。
近くの踏切の警報器が鳴り出し、東の方向からSLの鳴らす汽笛の音と同時に、真っ黒な車体のSLが姿を現しました。
岩舟駅に進入するSL.jpg
(岩舟駅に進入して来たSL、ホームには大勢の人達で溢れている。)
岩舟駅に停車中のSL.jpg
(岩船山をバックに、岩舟駅に停車中のSL)
出発前煙をはくSL.jpg
(SLを少しでも近くで見ようと集まる人達)
岩舟駅を出発するSL.jpg
(12時28分、岩舟駅を出発するSL)
いよいよ出発です、甲高い汽笛を一つ鳴らした後、静かに四つの動輪が回り始めると、重量感の有る黒い鉄の車体がゆっくりと動き出します。そして次第に速度を上げ、岩舟駅を後にして佐野方向に姿を消して行きました。最後に長く汽笛を鳴らし、真っ青になった今日の岩舟の空に一筋の黒い煙を残して。
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栃木中央小学校の校庭隅に横たわる石碑 [石碑]

私が子供の頃6年間過ごした栃木市立栃木第二小学校は、2010年4月1日、栃木市立栃木中央小学校と名前が変わってしまいました。通学する学童数減少に伴って、直ぐ前に有った第一小学校と統合されての名称変更でした。
それからすぐ、私が、そして私の子供等が学んだ校舎やプールなど全てが取り壊され、2010年6月27日に訪れた時は、更地と化していました。
2010年6月27日更地と化した栃二小の跡.jpg
(校庭東側の道路、奥の突き当りは「栃木高等学校」。2010年6月撮影)
その後、栃木中央小学校としての新校舎建築工事が始まり、2012年2月14日に、4階建ての新校舎が完成しています。
栃木中央小学校.jpg
(新築された4階建ての「栃木中央小学校」校舎、2013年9月撮影)
その新しくなった栃木中央小学校の校庭の南西隅に、建てられずに横たわる石碑が有ります。建てていないのは、石碑の中ほどを横断する様に、ひび割れが起きている為、安全上の理由という事です。
横たわる聖駕駐蹕記念之碑.jpguts246.jpg
(栃木中央小学校の校庭南西隅に横たわる石碑2015年4月撮影と碑文書き写し)
そしてその下側にもう一基、石碑の右上部分が欠損した為か、コンクリートに埋め込まれた石碑も、同様に横に寝かせて据えられています。
石碑の説明碑1.jpg
(上記の碑の足元に同じく設置されている石碑、同日撮影)
この碑は、上の「聖駕駐蹕記念之碑」が、先の第二次世界大戦に敗れた後、地中に埋められたが、昭和42年当時の学校長やPTA会長らが、掘り起こして修復、栃二小の管理棟の東側、玄関脇に再び建てた経緯が記されています。右上の破損部分欠落した文字について、文章の前後関係で推察される文字を(カッコ)内に記し、下に書き写し文を載せます。
uts014.jpg
(「聖駕駐蹕記念之碑」の経緯を説明した碑文を書き写しました)
私が通学をしていた当時には、まだこの石碑は建っておりませんでした。もし建っていても小学生の私には、絶対気が付かなかったでしょうが。私のアルバムに残る、昭和38年(1963)に撮影した当時の第二小学校管理棟の東側に石碑の姿は当然石碑は写っていません。
1963年栃木第二小學校.jpg
(昭和38年撮影の、栃木第二小学校校舎、手前2階建てが管理棟)
昭和53年(1978)1月の雪が降った後に撮影した、第二小学校の管理棟東側に、周囲を石柱で囲まれた中に建つ石碑の姿が写っています。
1978年1月雪の第二小.jpg
(昭和53年撮影の、降雪後の栃木第二小学校、管理棟東側に石碑が建つ)
戦後校庭の地中に埋めた石碑を掘り出して修復した昭和42年、その年の4月に校庭の遊具で遊ぶ子供達を撮影した写真を見直してみると、遊具の奥に石柱の囲いとその時植樹した木の支柱などと共に石碑の一部が写っているのを確認しました。正にこの年の3月に建てられていたのでした。
1967年4月校庭にて.jpg
(昭和42年4月撮影、遊具の奥2階建ての管理棟の横に植樹された木の支柱等が写る)

管理棟の東側、玄関脇に掲示された「栃木市立栃木第二小学校」の銘板の左に写る、在りし日の「聖駕駐蹕記念之碑」の姿。私のアルバムの中に残っていました。
聖駕駐蹕記念之碑1.jpg
(栃木第二小学校の管理棟東側に建つ「聖駕駐蹕記念之碑」の様子)

大正7年11月、栃木中学校(現、栃木県立栃木高等学校)に大本営を置かれ、栃木・茨城両県下に於いて挙行された陸軍特別大演習、最初の14日は演習地下館駅へ。2日目15日の演習地新治駅へ。3日目16日は結城駅へと仰出され、4日目の17日は栃木町周辺に演習地を求め、朝5時50分に大本営を御出門。その日の午後は栃木第二尋常高等小学校(現、栃木中央小学校)の校庭に行幸され、演習に参加した各将校をこの所に集めて、親しく御講評を行われました。この石碑は、碑文にも刻されている通り、その所に記念碑を建て、その御遺蹟を永遠に保存する事を目的としたようです。
しかし、その後第二次世界大戦に敗れた事で、記念碑も地中に埋められてしまう事と成り。その後は昭和42年3月に建てられた石碑が記す如き経緯を辿り、現在はここ栃木中央小学校の校庭の隅に静かに寝かして置かれる事と成りました。

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JR両毛線にSLが走る [祭]

栃木県で現在行われている、「本物の出会い 栃木」デスティネーションキャンペーン。
この4月1日から6月30日の3ヶ月の期間中に、県内各所で色々なイベントが行われています。
その一つとして、今月19日(土曜日)に、JR両毛線の小山駅から足利駅間を、蒸気機関車が1回限定で運転されます。
この「SL本物の出会い栃木号」の編成は、SL+旧型客車5両+EL(全車指定)という。
この本番1回の運転を前に、同じスケジュールにて試運転が3回計画され、そしてその試運転の最後、3回目が本日行われました。
地元で蒸気機関車が走る所が見られる。これは見逃す訳にはいかない。
私は3月この情報を知った時、試運転と本番の合わせて4回の運転を、写真に収めようと運転日をカレンダーにメモしておりました。
ところが、1回目・4月5日はすっかり忘れて、我家でのんびりしている時、昼近く遠く栃木駅の方向から、ピーィという甲高い汽笛の音を耳にして、気付いた時は手遅れでした。
2回目は4月26日、準備万端で出かけました。頭に描いたアングル、太平連山を背景に爆走するSLが撮れる撮影ポイントへ。ところが何処にもカメラを構えた人がいないでは有りませんか。再確認をすると、なんてことか2回目の試運転は前日4月25日でした。どうもカレンダーに書き込むとき間違っていた様です。
そして試運転3回目は今日、5月9日。今度こそミスは許されません。準備を完璧に整え撮影ポイントに出掛けました。その途中、両毛線の線路沿いには多くの車が止まり、多くのカメラマンが思い思いの場所に陣取りSLが来るのを待っているでは有りませんか。
逸る気持を抑え、予定した駐車場に車を停めて、小走りに撮影場所へ移動。そこにもすでに数十人のカメラマンが、三脚をセットしたり、カメラを点検したり準備を進めていました。
今日は朝の内、結構本降りの雨模様でしたが、昼近くには小康状態に変わり、傘を差す必要が無くなっていました。暫らく鉄路の先、大平駅辺りを通過しているのか、何度も汽笛の音が聞こえてきます。
汽笛は聞こえてきたが、なかなか姿を現しません。カメラのレンズを一杯に伸ばして、SLの姿を捉えようとしていると、いよいよ姿を現しました。周囲のカメラマンの方達も一斉にシャッタを切り始めています。
SLは白い煙を吐きながら、ドンドンと近づいてきます。
夢中で構図を見定め、シャッタを切り続けました。あっと言う間に列車は私の横を過ぎて、岩舟駅の方向に走り去り、その姿も見えなくなってしまいました。
両毛線にSL1.jpg
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両毛線にSL8.jpg

三度目の正直で、やっとSLの雄姿を撮影する事が出来ました。
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