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クラモノ。9 [祭]

クラの街でタカラモノ探し。「クラモノ。9」が、昨日と今日の2日間、嘉右衛門町通りを中心に開催されています。昨日は少し小雨がぱらつく曇りの天候でしたが、今日は雲が少し残るものの、青空が広がりました。
今日は朝から夫婦なのでしょうか、2羽のツバメが我家の玄関先で巣造りを始めています。
暫らく玄関前に座り込んでその様子を、ボケーッと眺めていました。そんな所に巣が造れるのか、クチバシで運んで来た泥や藁クズを一生懸命壁にくっ付けています。折角つけても下に落ちてしまう事が多いのか、玄関先が落ちた泥やワラクズで汚れて来ます。
昼過ぎ、ウォーキングを兼ねて「クラモノ」を見に行く事に。
陽射しが強くなっていますが、時折吹く風が気持ち良く感じられます。日陰を選んで歩き、嘉右衛門町通りへ。通りの入口で「クラモノ」の係りの青年から会場マップを頂きました。
クラモノ1.jpgクラモノ2.jpg
何時もとは違う雰囲気、通りは多くの人が行きかっています。普段は人影のない店舗の前も人だかりが出来ています。
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何時もは通りをただ歩いて過ぎる、嘉右衛門町の古い土蔵造りや石蔵の中へ入り、出店している沢山のお店を覗いて回りました。
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手作りアクセサリーを売る店。お洒落な麦わら帽子を売る店。可愛らしい食器を並べるお店など、興味深く見て回りました。
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陽気が暑くなった為かドリンクや氷を売るお店の前には長い列が出来ています。建物の陰に座り込んで、お話をしながら食事をしている家族。意外にベビーカーを押しながら歩く若いお母さん達も大勢います。
クラモノ10.jpgクラモノ11.jpg
娘が食事に行くと言うお店に初めて入ってみました。お店の中も大勢のお客さんです。若い人が多いので、特製デミグラスソースの煮カツベーグルをテイクアウトにして、我家に戻って食べる事にしました。
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家に戻ると、相変わらず2羽のツバメが、せっせと巣造りを続けています。何時に成ったら巣の形が出来上がるのだろうか、暫らく静かに様子を見て行こうと思います。

道の駅「めぬま」でバラの花を堪能する [草花]

ここ最近真夏の様な暑い日々が続いていましたが、昨日からしのぎやすい気温に戻りました。今日も朝から小雨交じりの天候と成ったので、車で埼玉県熊谷市に行ってきました。熊谷市と言えば「日本一暑い都市」と言われて来ていました。最近その暑さの中心が少し北に移動して群馬県館林市が一番高い温度を示す事が多くなりましたが、晴れた日には少し行くのが躊躇われる場所です。
今回訪れたのは、国道407号線で利根川を渡った先に有る「道の駅めぬま」です。この道の駅にはこれまでも何度か訪れています。この春にも「吟子桜(河津桜)」を見に来ました。ここは「めぬまアグリパーク」が有り、丁度今バラ園の花が見頃に成っています。
午後2時半頃に到着しましたがビックリです。駐車場が満車で止められないのです。暫らく待ってやっと駐車する事が出来ました。
到着した頃は雨も止んでいました。バラ園には色とりどりのバラが咲いています。種類が多くてとても品種名を覚える事など出来ません。
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道の駅のパンフレットに依れば、≪イングリッシュローズ、オールドローズ、モダンローズ等約400種2,000株のバラが5月頃から初冬まで楽しめます。≫と記されています。
どのバラも素敵でしたので撮影して来たバラを何点か掲載します。
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雨上がりだったので、バラの花も先日来の暑さから解放されたように生き生きとしている様に感じました。


カトリック松が峰教会(宇都宮市) [建物]

高校を卒業した後、宇都宮市の工場に就職しました。東武宇都宮線の電車は途中でドンドン通勤客が載って来て混雑してくる、途中で下車する私は直ぐ降りられるドアのすぐ横のシートが私の指定席でした。
終点の東武宇都宮駅まで乗るのは、年に何度有っただろうか、5月1日にはメーデーに参加する為に、駅から競輪場通りの会場まで、ぞろぞろと歩いて行く大勢の人達の後について行きました。忘年会や送別会などでも東武百貨店の店内を抜け、エスカレータを下りてオリオン通りのアーケードの人混みに吸い込まれていきました。
定年後は年に1・2回誘われて昔の職場の仲間と会う為、宇都宮市内の居酒屋に出掛ける時しか、東武宇都宮線に乗る事は無くなりました。それでも宇都宮に向かい、終点近くなると今も電車の窓の外に、大谷石造りの「カトリック松が峰教会の重厚な建物を探しています。

久しぶりに宇都宮に行きました。待ち合わせの時間に余裕が有ったので、駅を降りた後、駅の東側を南に歩いて教会の脇まで行って見ました。こうして近くでゆっくりと見るのは初めてでした。
松ヶ峰教会1.jpg
(カトリック松が峰教会)
夏の太陽は夕方のこの時間に成ってもまだ十分に強い光を教会の大谷石を照らしつけています。

この建物は平成10年(1998)12月11日に、国登録有形文化財と成っています。
教会のホームページに依りますと、聖堂はスイス人建築家マックス・ヒンデル氏の設計による建築物。聖堂の内外壁に用いられている大谷石は、旧帝国ホテルに用いられた場所と同じ大谷の採石場から切だされたものに、石工職人によりさまざまな意匠が施されています。
松ヶ峰教会5.jpg松ヶ峰教会2.jpg
古代および中世初期の教会建築とロマネスク様式によって建設されてり、日本では数少ない双塔を持った教会建築。
松ヶ峰教会3.jpg松ヶ峰教会4.jpg
・昭和6年7月起工
・昭和7年11月20日竣工
・施行統括者 宮内初太郎
・石工棟梁 安野半吾
・大谷石造り(鉄筋コンクリート・一部木造)

機会が有ったら、一度は中に入って見たいと思っています。そして、昭和53年(1978)4月に奉献されたというパイプオルガンの音色を聴いて見たいものです。

人柱伝説「おゆわ淵」 [栃木市の河川と橋]

日本の各地に、「人柱」に関する伝説・民話が、語り継がれて来ていますが、その「人柱伝説」で有名なのは、摂津国(現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部の一部)淀川に架かる「長柄橋」が有ります。この橋は弘仁三年(812)に初めて架設されたとするのが定説と成っていると云われます。
吉田巌編「橋のはなしⅡ」(技報堂出版)に、「長柄の人柱」の伝説について、「摂津名所図会」のものを紹介しています。
私はこれまで単に「雉も鳴かずば撃たれまい」のフレーズだけを何かで聞いて、家の近くの田んぼの中で、よく鳴き声をたてている雉を観察していましたが、この歌「物言わじ父は長柄の人柱 鳴かずば雉子も射たれざらまし」と云うもので、長柄橋の人柱と成ってしまった父親を持つ娘が、全く物を言わなかった事で、嫁ぎ先から離縁され、夫の送られて実家に帰る途中、雉が鳴いたのを聞いた夫がその雉を射止めた時に、その娘がこの歌を口にしたと言うものです。
父親が人柱に成ってしまった経緯は、長柄橋の架橋工事は難工事で、架けても直ぐ又流されるという事を続けていた為、この父親が「継の有る袴をはいている人を人柱にすればうまくゆく」と提案。ところが不幸にも自分の袴に継ぎが有った為、人身御供として水底に埋められてしまっていたのでした。
<雉も鳴かなければ気付かれる事も無く、射止められる事も無かった。>
<父親も人柱の提案をしていなかったら、そこで死ぬことは無かった。>と。

こうした人柱の伝説は、殆んどこのパターンに成っていて、犠牲に成るのは人柱を提案した本人や、その身内(娘)と成っています。

栃木市を流れる「巴波川」にも、同じような人柱伝説が有ります。
「おゆわ淵」と言うお話は、栃木市藤岡町部屋地区に伝わる物で、「とちぎの民話 第一集」日向野徳久編・㈱未来社発行の中に、「うずま川の人柱」の話が載っていて、その一つとして「おゆわ淵」が紹介されています。話の内容では、伝説としては多くの具体的な事柄が出て来ています。
何時:慶長三年(1598)2月、 どこで:部屋村涸沼堤防、 誰が:押切村の大久保唯一の14歳ばかりの娘<おゆわ>、どうなった:堤防工事の穴の中に生き埋めにされてしまった。
昔の事ですから本当に「人柱」が行われたケースも有った事は否定できませんが、この「おゆわ淵」の人柱の話も先に紹介した「長柄の人柱」の様な昔話を、地方の多くの人が伝え聞いて、地元の話として脚色して、その子供達に話して聞かせたもののひとつであると考えたいと思います。
「おゆわ淵」の話は、他の伝承では「部屋」「名主」「名主の娘、おゆわ」の名前が出て来ますが、何時か?という事に関しては「昔」とだけに成っています。時代が分かりませんから、「名主」も具体的に誰とは確定できません。
私は物語の地元に住んでいませんので、「おゆわ淵」が何処に有ったのか知りません。部屋地区を流れる巴波川の流域の何処かにそれらしき所が有ったのかも知れませんが、この川も長い月日の中でその姿を変えて来ているでしょうから、今それを特定する事は無理な話なのかもしれません。色々と地図や地元の書物などを調べていると、「村では小さな祠を建てて祀った」としており、大正7年に「おゆわ稲荷」だけは部屋地区の帯刀研修館の中に移転されたと記されています。(地元の方ならだれか、その「おゆわ稲荷」が祀られていたという場所を知っているのかも知れません)
帯刀研修館1.jpg
(おゆわ稲荷が移転された部屋地区の帯刀研修館)
「うずま川の人柱」の話には、もう一つの人柱伝説が紹介されています。その話は、「おゆわ淵」から一里半(6キロメートル)ばかり上流の、下初田村(現在の小山市下初田)というところにある「亀の子堰」に関するもので、内容的には「おゆわ淵」と同様です。
こちらの人柱と成ってしまうのは、やはり名主の幼い娘、名前を「かめ」と云いました。何度も何度も直してはまた切れてしまう「堰」の工事に、「これじゃ、賽の河原の石積みと同じこんだんべ」「ふんだ。」「むだだからやめとくべじゃねえか」とつぎちぎに働く手をやめてしまう。そのときひとりの老人が「やっぱし人柱でもたてなくっちゃなあ」とつぶやいてしまう。それを聞いたある村の名主が、「ええ事に気がついてくれた。それがよかんべ。」ということになり、名主のいう事に逆らえない状況に成って、結局いちばんはじめに弁当をとどけた者を人柱にすると決まってしまいます。ところが、皮肉なことに、一ばんはじめに弁当を持ってきたのは、「かめ」という名主の幼い娘。(あわてた名主は手を振って「戻れ戻れ」と必死で静止をするのを、娘は父親が「早く来い早く来い」と呼んでいるものと急いで駆けて来て、無残にも人柱と成ってしまう。)かわいそうな娘の名を堰の名として今に伝えています。
※小山市観光協会ホームページの中にも、「小山の伝説」にてこの「亀の子堰」の話も紹介されていましたので、参考にさせて頂きました。

私の悪い癖でこうした話の場所を、特定したくなるのですが、やはり地元では無いので分かりません。先ほどの「おゆわ淵」同様、小山市の方に聞けば良いのでしょうが。
小山市観光協会ホームページで紹介している「小山の伝説」に記されている内容をじっくりと読み直してみると。<巴波川の支流与良川の流れを取り入れた、生駒・下河原田・小袋・井岡・鏡・中里・寒川・迫間田などの水田をうるおすために設けられた。>と成っていますが、これらの地域は現在の巴波川の左岸(東側)で、与良川との間に分布しています。
私は「亀の子堰」の所在を当初、巴波川から現在の与良川に水を取り入れている堰の事と考えていましたが、この堰の有る場所は下初田よりかなり北側、上初田の更に北側に当たる大平町北武井に取水口が設けられています。
川島堰.jpg
(私がこれまで「亀の子堰」と勝手に決めていた「川島堰」、後方の橋は「寿橋」)
川島堰から取水した用水路.jpg川島堰記念碑.jpg
(取水口から出て巴波川左岸の堤防の脇を南流する用水路)  (川島堰改修記念碑)
「亀の子堰」は小山市下初田に有る筈として、見直してみると、下初田の南西部の巴波川左岸に取水口が有ります。
中村橋下流の堰.jpg
(下初田南西部の巴波川中村橋下流の堰、対岸の森は「大川島神社」)  
ここから取水された用水は南隣りの「生駒」との境界に沿って東側を大きく回り込んだ後、巴波川の左岸に沿って下流の本郷橋近くまで流れそこから南に流れを変えて、下河原田から小袋・井岡方面の水田を潤しています。こちらの用水路の方が、ロケーションとして合っているのではと、勝手に納得をしています。
小山市生駒の用水路.jpg巴波川廃川敷開田記念碑.jpg
(巴波川左岸を生駒方向に流れる用水路)  (水路脇に建つ「巴波川廃川敷開田記念碑」)
蔵前橋付近の水路.jpg蔵前橋親柱.jpg
(生駒で県道36号と交差する水路上流側を望む) (県道に架かる「蔵前橋」の親柱)
昭和40年頃の国土地理院発行の2万5千分も1の地形図を確認するとこの地域はまだ土地改良事業以前の状態で、水路が網の目の様になっていて、現在の様な畦道が直行する碁盤目の様な農地では有りません。もしかしたら「亀の子堰」は巴波川では無く、巴波川から分流した支流の更に分岐点で有った可能性も考えられ、結局「ここでは」と言う場所を特定できませんでした。

巴波川の幸来橋のたもとの「塚田歴史伝説館」では、全自動ハイテク人形が登場する、「巴波川悲話」というこれまで紹介したものと同じような「人柱伝説」のお話を、人形劇として見せています。
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(幸来橋と巴波川左岸に続く塚田歴史伝説館の土蔵と黒塀)
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(最初に塚田歴史伝説館の説明をする老婆の人形、手前の話を聞く男性も人形)
「人柱伝説」の電動人形劇は、撮影禁止でしたので、写真は有りません。

河川や橋梁には、こうした伝説が色々な形で語り継がれて来ています。


旧大内村役場庁舎 [建物]

今回は、旧大内村役場の庁舎として昭和4年に建てられた建物を見たいとおもいます。
住所は真岡市飯貝、真岡市街地の荒町から県道156号(石末真岡線)を北に4km程の所で、国道121号との交差点北東側に成ります。ただ、道路から細い道を少し入った場所で通りから見えない為、気が付きにくい建物です。
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大内村は昭和29年(1954)3月に、当時の真岡町と山前村や中村と1町3村合併を行い真岡町に成りました。そして、その年の10月に真岡市と成っています。
真岡市ホームページの説明によりますと、建物の構造はその当時としては最新技術の、鉄筋コンクリート造り2階建ての洋風建築という事です。
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現在真岡市登録文化財として、市内で出土した土器や埴輪等の、埋蔵文化財の展示をしている「大内資料館」として利用されているそうです。

箱森町の鬼瓦見て歩き [歩く]

これまで栃木市内の、嘉右衛門町や大町そして万町の鬼瓦について見て歩きましたが、今回は栃木瓦の発祥の地ともいうべき、「箱森町」の鬼瓦を見て歩きました。
箱森町を歩いていると、今でも〇〇瓦店という看板を見かけることが出来ます。瓦屋さんが多い所ですから立派な鬼瓦も多いと思いましたが、意外と新しくなった建物では瓦葺の家も少なくなっています。
皆川街道、現在の県道75号(栃木佐野線)沿い、泉川町との境界、箱森町の西の端に有る瓦屋さんの建物の屋根の上に大きな鬼面の鬼瓦が据えて有りました。大棟の西側端に口をギュッと結んだ「吽形」の鬼、そして反対側東側にはガッと口を開けた「阿形」の鬼の顔に成っています。
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(阿形の鬼面)                      (吽形の鬼面)
この鬼瓦の有る建物は、幸栄瓦工業㈱さんです。道路沿いの塀の上にも瓦が載っていますが、そこに「おすまし顔の猫」の形の瓦?が置かれています。お洒落な感じがしました。
幸栄瓦工業.jpg幸栄瓦工業(猫形).jpg
(箱森町の西の端、幸栄瓦工業㈱さん)        (塀の上に猫の置物も瓦製)

鬼瓦にお目出度い七福神の内の、大国様と恵比寿様を付けたものも、栃木市内に幾つか見付けましたが、箱森町の中にも有りました、これまで気が付かなかったのですが、「とりせん」さんの近くの屋根の上を飾っています。ただ少し気に成った事が有ります。その前の屋根の端の棟と棟が合わさった場所についている丸い瓦「棟巴瓦」の端部についている文様が左右で異なっています。恵比寿様の前には「笹りんどう」の文様、大国様の前には「ミツウロコ」の文様が付いています。機会が有ったら訪ねてみたいですね。
稲葉工業(恵比寿様).jpg稲葉工業(大黒様).jpg
(東側が釣竿を持った恵比須様)        (西側が俵に乗った大国様)
同じく「とりせん」さんの近くで見る土蔵の屋根に据えられた鬼瓦、こちらは家紋が付けられているのでしょう、見難いですが「丸に揚羽蝶」の紋の様です。気に成ったのはその前の棟巴瓦に描かれた屋号紋なのでしょうか、「入り山形に漢数字の三、更にその下にカタカナのフ」、判じ絵では無いでしょうが、どのような意味が込められているのでしょうか。
もう一つ、こちらは鍋山街道沿いの瓦屋さんの屋根の上に見つけました。この形は屋根の形が切妻では無い寄棟屋根の場合に成ります。鬼瓦の中央部にはこちらも揚羽蝶の文様が見られます。
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(棟巴瓦の判じ絵屋号紋?の意味が気に成ります)(良く見る鯉が描かれた東鬼台)
箱森町を歩いて見ると、敷地の広い家が多く、建屋が道から奥まった所に建っている為、鬼瓦の形や図案がどのようなものか確認出来ない場合が多く残念でした。

「栃木瓦」はその昔、「カイロ灰」や「野州麻」「下駄」などと共に、栃木の地場産業を支えて来ました。栃木の市街地を貫流する巴波川、その右岸、幸来橋近くのポケットパークの中に、「栃木瓦」を紹介する展示がされています。
栃木瓦1.jpg栃木鬼瓦1.jpg
(栃木瓦を紹介展示している「幸来橋」近くのポケットパーク)   (大棟用鬼面付き鬼瓦)
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(展示されている「菊水化粧鬼瓦」)       (展示されている「ビン張り菊水化粧鬼瓦」)

市内の鬼瓦を見て歩くと、新しい発見が有ると同時に、多くの疑問も生まれて来ます。これからももっと調べて行きたいと思います。

マンホールカード、ゲット出来ず [コレクション]

ゴールデンウィークの期間中、少し足を延ばして福島県と埼玉県に車を走らせました。目的はマンホールカードを貰う為です。
高速道路渋滞にはまる可能性が高いと考え、一般道路を利用して、福島県は白河市と郡山市の2カ所を回って予定通り2種類のカードをゲットする事が出来ました。

国道4号線を走って福島県へ。最初に「JR新白河駅」前にて「西郷村」のマンホール蓋の写真撮影。
新白河駅.jpg南郷村マンホール.jpg
(東北新幹線停車駅「新白河」) (新白河駅は西郷村に有り、駅前歩道でマンホール発見)
マンホール蓋のデザインは、西郷村の村章に村の木「カシワ」の葉3枚を配し、その周りに村の花「ミズバショウ」の花を廻らしたものです。

新白河駅前から車は白河市街地へ向かい、マンホールカードを配布している「白河観光物産協会」へ。車のナビに目的地の住所を入力して行くと、JR白河駅前に到着。「白河観光物産協会」の場所は駅舎の直ぐ左隣りに有りました。窓口で「マンホールカード」と言うと直ぐに対応して頂けました。他に白河市の観光マップなども頂き、さっそく駅の周辺を散策してみると、駅舎の反対側(北側)の高台にマンホールのデザインに描かれている「小峰城」の復元された天守を望む事が出来ました。
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(JR白河駅、左隣りに「白河観光物産協会」)(駅前市街地で見つけた白河市マンホール)
小峰城.jpg小峰城道場門跡.jpg
(白河駅ホームの屋根上に小峰城の復元された天守)(線路の手前に発掘保存展示されている小峰城道場門跡)
白河駅の近くで見つけたマンホール蓋は前面に梅の花が散りばめられています、梅は白河市の花に指定されています。
マンホールカードに有るデザインの蓋を探しに、駅から2km程南側に有る、国指定史跡で名勝の「南湖公園」へ。
南湖公園.jpg白河市カラーマンホール.jpg
(享和元年、白河藩主松平定信により築造された南湖公園)(カラーマンホールを湖畔で発見)
今度はゆっくり訪れて、湖を周遊する道を存分に散策してみたい、赤松の緑が湖面に映えて美しい風景がそこには有りました。
今回はもう一枚のカードを求めて更に国道4号線を北上、郡山市へ向かいました。
郡山市のマンホールカードを配布している「郡山市開成館」へ急ぐ。開館時間が16時30分迄という事で、なんとか閉館前にたどり着く事が出来、こちらでも窓口で快く対応して頂けた。
開成館.jpg郡山市カラーマンホール.jpg
(郡山市開成館)           (JR郡山駅前近くで発見したカラーマンホール)
郡山市のマンホール蓋のデザインは、市章の「山」の字をデザイン化して三分割された扇状の空間へ、郡山市の「木・花・鳥」を描いたもので、花は「ハナカツミ」、木は「ヤマザクラ」、鳥は「カッコウ」です。

この日は予定通り2枚のマンホールカードがゲットする事が出来ました。
白河市マンホールカード.jpg郡山市マンホールカード.jpg

この後連休の最後に今度は埼玉県越谷市のマンホールカードを貰う為に、国道4号線を南に走らせました。カードを配布している場所は、「越谷レイクタウン水辺のまちづくり館」内の、「越谷市観光協会」。周辺は新しく造成された都市景観の町並み、武蔵野線が東西に走り「越谷レイクタウン駅」、南北に新国道4号線が縦断、大型商業施設も有り、大勢の市民が集まって来ているのでしょうか、道路も大きな駐車場も車でいっぱいに成っていました。
やっとの思いで目的の場所にたどり着き、観光協会の窓口で「マンホールカードは?」と尋ねると、少し申し訳なさそうに「既にカードは無くなっていて、次回いつ配布に成るか未定」と言うお話でした。
仕方がないので、周辺を散策してカードのデザインのマンホールを撮影して帰りました。
越谷市カラーマンホール.jpg
(越谷市の木の「ケヤキ」と鳥の「シラコバト」を描いたカラーマンホール蓋)

帰宅してから早速、インターネットの「下水道広報プラットホーム」のホームページからマンホールカードの配布情報を確認したところ、越谷市は「配布を終了しました」と成っていました。私が確認したのは少し前の情報だったので、今後は出発前に確認するようにしたいと思いました。
改めて大勢の方がマンホールカードを集め始めているんだなと、感じました。

県庁堀川流域を歩く [歩く]

先日、「元県庁堀」を見て歩きましたが、その時 堀に架けられた「清水橋」や「鶉橋」の親柱に、「県庁堀川」と言う河川名が表示されている事に気付きました。これらの橋は比較的最近新しく架け替えられたもので、残念ながら竣功年月表示が有りません。「元県庁堀」には他に「御幸橋」と「栃木橋」が架けられていますが、昭和6年12月架設された「御幸橋」の親柱のひとつには「元縣廰堀」と表示されています。「栃木橋」こちらも竣功年月表示は有りませんが「県庁堀」との表示に成っています。
県庁堀川銘板.jpg元県庁堀銘板.jpg
(鶉橋の親柱、「県庁堀川」と成っている) (御幸橋の親柱、「元縣廰堀」と成っている)

県庁堀が作られた当時の「杤木縣廰圖」(明治六癸酉九月)には、堀に繋がる川は、県庁堀と巴波川との間の舟運を目的に同時期に造られた漕渠(運河)しか描かれていません。
薗部村鶉島に県庁が建てられた後、南側と東側とに市街地が形成されますが、明治19年7月発行「栃木町」の迅速測図(2万分1)を見ても、県庁堀の西側から北側にかけての一帯は、一面に水田が広がっているのみです。
その当時の県庁堀には相当の湧水が流れ出てもいた様です。
その後、大正6年7月30日、大日本帝国陸地測量部発行の2万5千分1「栃木」の地形図には、県庁堀の北西部近くに北西方向箱森から一筋の河川が合流して居ているのが確認出来ます。
現在の県庁堀を確認すると、更に堀の西側に柳橋の日限富士浅間神社方向から一筋、そして北東側の栃高グランドの東側に沿って、北側の錦町から一筋と水路が合流しています。
戦後の復興期から高度経済成長期と時代が流れ、栃木町の周辺にも住宅が建てられるようになると、その生活雑排水の流入による河川の汚染が深刻な問題となって来ました。昭和40年の頃市内では、「川をきれいにしよう」という事が盛んに叫ばれ、巴波川に鯉は放流されたり、白鳥がお目見えしたのもこの頃です。
その後、下水道の整備が進み、次第に環境も良くなってきました。
何時だったか、県庁堀脇を歩いていた時、「県庁堀川木炭浄化施設」と言う説明板が、栃木県栃木土木事務所と栃木市の名前で建てられていました。
県庁堀川木炭浄化施設説明板.jpg
(元県庁堀脇に立てられていた「県庁堀川木炭浄化施設」の説明板)
そこには≪木炭浄化システムを日本で初めて川の中に直接設置するもので、川の水がどのくらいきれいになるかを調べる実験施設です。≫と説明されていました。改めて見直すと、そのに「県庁堀川について」の説明も記されています。
≪県庁堀川は、旧赤津川分水堰付近を源とし、現在地(旧栃木市市役所南側)を通って、入舟川と分かれて巴波川に合流する流域面積約1.26k㎡の河川で、堀の周りは約1,100mあります。≫以上の説明文に添えて「県庁堀川流域図」が記されていましたので、それを参考に流域図を作成して、その流域を実際に歩いてみました。
県庁堀川流域図.jpg
県庁堀川の流域界は、北側は「旧赤津川」、東側は「巴波川」、そして西側は「清水川」の三つの河川に囲まれ、南側は皆川街道のによって仕切られた範囲で、ここは私が生まれてから現在まで生活をして来た場所です。
まず一番北の端は、旧赤津川の分水堰で、本流から分かれ南に流れる水路です。箱森町の十二社から東に新栃木方向に行く道路に、昭和12年10月竣功の「榮橋」の親柱を確認する事が出来ます。最終的に県庁堀に繋がる水路はこの橋の少し上流側で、旧赤津川から分かれたものですが、現在は県道32号の新道が通った為、分水堰は無く、周辺の景色も全く変わってしまいました。私が1980年にこの分水堰付近を撮影した写真が有りました。
旧赤津川分水堰付近.jpg旧赤津川分水堰の現状.jpg
(1980年撮影、旧赤津川分水堰付近) (堰は現在モスバーガー栃木店の北側辺りでした)
水路は「榮橋」下流から南西方向にカーブして、明治33年から昭和5年の路線変更に成るまで、鍋山人車鉄道が通っていた「旧鍋山街道」の下を流れ、箱一自治会の公民館の脇を南流、「レユーナ特別養護老人ホーム」の西脇を南東方向に流れて、元県庁堀の北西部に合流しています。
鍋山街道と交差.jpgレユーナ西側水路.jpg
(旧鍋山街道に架かる橋の下、U字溝に変わる)    (中央奥の三角屋根がレユーナ)
旧鍋山街道のコンクリート橋の高欄の長さは、2メートル以上あり、私の子供の頃は2メートル程の小川が流れていて、ドジョウやザリガニなどを採りました。

又、柳橋町に有る「日限富士浅間神社」の北側にて、清水川の分水堰で東側に分流した水路は、柳橋町の住宅街の中を南東方向に流れ、元県庁堀の南西部付近に合流しています。
清水川分水堰.jpg浅間神社方向からの水路.jpg
(清水川の分水堰、右方向が本流)(住宅街の中を抜ける水路、この手前で県庁堀に合流)
私が子供の頃はこの清水川の分水堰で良く水遊びに興じていました。水路の土手で「ノノヒロ」を採って来て味噌を付けて食べ、空腹を満たしていました。

今回は、栃木高等学校の許可を得て、校庭内に平成7年復元された県庁堀も見学させて貰いました。堀は校舎や体育館が建つ区域とその北側のグランドとの境を東西に続いています。
北堀西方向.jpg北堀東方向.jpg
(中央部に架かる橋から西側を撮影)      (中央部に架かる橋から東側を撮影)
私の子供の頃はまだ小学校にプールが無かったので、夏休みには友達と誘い合って栃高のプールに行きました。深いプールで足が着かなかったので、少し怖い思いをしました。その頃は校庭内の堀は埋められて、プールが堀の西側の位置に有りました。
現在、復元された県庁堀の脇、昔のプールが有った辺りに成るでしょうか、当時のプールに有ったスタート台の一部が残されて有りました。
復原された県庁堀には、地下水が汲み上げられて、勢いよく堀を流れていました。
プールスタート台.jpg汲み上げ水.jpg
(昔のプールに有ったスタート台)     (復元された県庁堀水面に湧き上がる水)

県庁堀川の流域範囲は、そのまま私の生活域にも成っていた事を今回知る事が出来ました。

今日の一枚 [草花]

長い所では9連休にもなった今年のゴールデンウィークも、今日が最終日。比較的好天に恵まれ、家族や友達との旅行を楽しんだり、スポーツに汗を流したりと、思い切りリフレッシュされた方も多いと思います。私も今日は高校時代のクラスメートと昼間から、「つがの里」にてビール蕎麦とを楽しんできました。
「つがの里」は今、深まる木々の緑の中、ツツジが赤や白、紫など色鮮やかに咲いていました。
東北自動車道の側道脇の駐車場近くの池には、赤と白の水連の花がたくさん咲いていました。
そんな中、今日の一枚は赤と白の水連が並んで咲いているところを、切り撮りました。
水連の花.jpg

明日から又、いつもの生活が始まります。

元県庁堀、見て歩き [歩く]

今日は朝から気持ちの良い五月晴れと成ったので、上着を一枚減らして家の近くに有る栃木県の土木遺産「元県庁堀」を見て歩く事にしました。
この「県庁堀」は明治5年(1872)11月に落成した、栃木県最初の県庁舎が有った所。その当時は巴波川の西側は栃木町では無く、薗部村の鶉島と言いました。
栃木県庁は三島通庸が栃木県令に成った明治17年(1884)9月に、宇都宮町へ移転しましたので、ここに県庁が有った期間は僅か12年間に過ぎません。県庁舎は移転しましたが現在その跡地は、県立栃木高校や栃木市立中央小学校の敷地として利用されています。
堀は長方形をしていますが、北側の一辺が栃木高等学校の中に成る為、歩いて一周する事は出来ません。今回は北東側の角から堀沿いの道を南に歩き、南東角を回って南側を西に歩く。南西角から北に向きを変え、北西の角から東に折れて、県庁堀が旧鍋山街道の下に潜り、栃木高等学校内へ消える点迄歩いてそこから同じコースを戻りました。距離的には片道約900メートルに成りました。
写真と共に「元県庁堀」を見て歩きます。
まずスタート点は堀の北東側角です。
元県庁堀北東角.jpg元県庁堀北東角から西方向.jpg
(元県庁堀北東部角、堀の内側には栃木高校)(北側の堀は栃高校内に入り側道は有りません)
堀の角に立って見ると、堀の北側には家が迫り、堀に沿った道が有りませんので、東側の堀に沿っている道路を南方向に歩きます。この道路は南から北方向への一方通行と成っていますから、前方からの車に注意しつつ堀沿いの歩道を歩きます。
元県庁堀東側の道.jpg
(元県庁堀の東側の辺と成る道路から南方向を望む、奥に元市役所別館の時計塔が見える)
100メートル程歩くと堀に橋が架かっています。「清水橋」と橋の親柱に表示が有ります。この橋を渡る道路は、栃木高等学校の南側を通る道路で、明治33年に鍋山人車鉄道の軌道が敷設された所で、ここから東の巴波川に架かる「開運橋」(その当時は「トロッコ橋」と呼ばれていました。)の間には、鍋山人車鉄道会社の旅客及び荷物取扱い所などが有った様です。(昭和5年に街の中を通っていた路線が女子高方面に変更に成っています。)
清水橋.jpg清水橋橋名.jpg
(現在の「清水橋」、橋の北西側正面奥が栃木高等学校)
更に堀に沿って南に160メートル程歩くと、二つ目の橋「御幸橋」の東橋詰に出ます。
御幸橋.jpg
(御幸橋、橋の東南橋詰より歩いて来た北方向を望む。)
この橋はその名前に有る様に、明治32年11月15日から4日間、近衛師団北関東大演習の時に明治天皇が。又、大正7年11月13日から7日間行われた陸軍特別大演習の時大正天皇が、共に行在所と成った栃木高等学校への途中、御渡りした場所に架かる橋で、現在のものは「昭和6年12月架設」と親柱のひとつに刻されています。
御幸橋1.jpg御幸橋2.jpg御幸橋3.jpg
(御幸橋の親柱には橋名・河川名・架設年月、残る一つには「みゆきはし」と刻されています。)
この御幸橋の南西部に最近まで栃木市の市役所別館として利用されていた、大正10年(1921)11月竣功の旧栃木町役場庁舎(国の登録有形文化財)が建っています。私はこの建物を結構気に入っています。
元栃木市役所別館.jpg
(大正10年11月竣功の旧栃木町役場庁舎)
尚、「元県庁堀」の内ここ御幸橋が架かる南東部分は、町役場庁舎の他にも多くの見どころが集まっている場所です。栃木市街地を貫流する「巴波川」とこの県庁堀との間を舟で行き来をする為の「漕渠(運河)」が、御幸橋の南東側で繋がっています。ここに建てられている県庁堀の説明板に、明治六癸酉九月の「杤木縣廰圖」が掲示されています。
県庁堀説明板1.jpg県庁堀説明板2.jpg
(堀の内側に県庁堀の説明板が建つ)     (県庁が作られた当時の県庁敷地の図面)
図面を見ると漕渠が県庁堀に繋がった場所の、県庁敷地内に舟で運んだ荷物の荷揚げ場が描かれていますが、その後埋め立てられてしまいました。又、図面では堀は東西南北供直線で囲まれていますが、現在は
御幸橋の南側から堀の南東側角まで、少し東側に膨らむ様にずれています。明治19年7月に発行された栃木町の迅速測図を確認すると、既に荷揚げ場は無く、その近辺で堀は少し東にずれた形で描かれています。
県庁堀漕渠分岐.jpg水草1.jpg
(堀は御幸橋の南側で少し東側に曲っている。写真左手の橋は漕渠に架かる「学橋」)
元県庁敷地の南東側の角に立つと、堀の東側方向と南側方向が見渡せます。東側の堀は御幸橋の南で東にずれている為に、脇の道路も鉤の手に折れている為、漕渠に架かる「学橋」の先で「神道栃木」に突き当たる形に成ります。
<堀の南東部角からの景色>
南東角から西方向.jpg南東角から北方向.jpg
(南東角から南側の堀を撮影)      (南東角から東側の堀を撮影。正面奥は「栃木橋」)
ここから南側の堀沿いの道を西に向かって歩いて行きます。堀にはカルガモや緋鯉真鯉がゆったりと泳ぐ姿が見えます。
カルガモ.jpg鯉.jpg
東の角から130メートル程歩いた所に木橋が架けられています。県庁が置かれた当時、南側の堀の中央付近に表門に入る橋が架けられましたが、その当時の橋を模した様です。
木橋.jpg
更にその先に架かる橋は、この県庁が置かれた土地の地名「鶉島」を採り「鶉橋」(うずらばし)と命名されています。
鶉橋.jpg鶉島1.jpg
(元県庁敷地の南西側に架かる「鶉橋」)     (「鶉橋」親柱に付いた橋名プレート)
鶉橋から40メートルほどで堀の南西部角に着きます。

<堀の南西部角からの景色>
南西角から北.jpg南西角から東.jpg
(南西角から西側の堀を撮影)      (南西角から南側の堀を撮影。正面奥は「鶉橋」)

ここから西側の堀沿いの道を北に向かって歩いて行きます。西側の堀沿いの元県庁敷地内には現在は一般の民家が建てられています。当初は「県令」や「大参事」の住まいが建てられていた所です。
堀には綺麗な水が流れ、水草を見ているとピンクの桜の花びらが、水草に留まっています。その桜の花びらが何処から流れて来たものか、その先で発生元がすぐわかりました。堀の対岸に枝を張った八重桜が満開の花びらを5月の風に任せて舞って水面に落ちていました。
水草2.jpg水草3.jpg
南北約315メートル、一直線に伸びた堀沿いの道を一気に歩き北西の角へ。

<堀の北西部角からの景色>
北西角から東.jpg北西角から南.jpg
(北西角から北側の堀を撮影)       (北西角から西側の堀を撮影)
北西角から東に35メートル程で、堀は行き止まりに。その先を横断する道路は、旧鍋山街道でした。以前は鍋山人車鉄道が走っていた所です。私は小学校6年間この道を通り、栃木第二小学校へ通っていました。道路の東側は、栃木高等学校の校内に成ります。
鍋山街道脇の堀.jpg
(道路の手前で県庁掘りは塞がれています。ブロック塀の先は栃高校内)
私の家の近くに残る土木遺産ですが、今回改めてグルッと見て回りました。見慣れた風景でも有り、何処か新鮮な感じもしました。
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