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マンホールカードを求めて、新潟県村上市へ [コレクション]

先日、マンホールカードを求めてはるばる新潟県の村上市まで車を走らせました。
これまで収集したマンホールカードの枚数は50枚、栃木県の周辺県はほぼ手に入れました。ただこの8月1日に第5弾が発行されて、福島県は二本松市などが新たに加わった為、出来れば冬が来る前に収集して来たいと計画中。
今回向かった村上市も第5弾で山形県境に近い「勝木」が加わった為、2ヶ所でマンホールカードを入手して来ました。
村上市マンホールカード1.jpg村上市マンホールカード2.jpg
(今回入手した新潟県村上市のマンホールカード2枚)
栃木から「北関東自動車道」「関越自動車道」「北陸自動車道」更に「日本海東北道」を乗り継いで4時間、やっと村上市の市街地に到着。
新潟中央JCT.jpg
(新潟中央JCTにて「北陸自動車道」から村上方面、「日本海東北道」に入る。)
中条本線料金所.jpg
(日本海東北道・中条本線料金所を通過)
日本海東北自動車道.jpg
(料金所通過後も無料区間の高速自動車道が続く。但し二車線対面通行道路)
最初の配布場所は村上市三之町に有る「村上市郷土資料館(おしゃぎり会館)」。
三之町は村上城跡の有る本町の北西側、二之町に続く。近くに市役所も有る。
村上市郷土資料館.jpg
(マンホールカードを配布する「村上市郷土資料館(おしゃぎり会館)」正面入口)
「おしゃぎり」とは、村上市で呼ばれる「祭屋台」の事だと知りました。
若林家住宅.jpg
(「おしゃぎり会館」の隣りに有る国指定重要文化財「若林家住宅」の入口付近)
村上市肴町.jpg
(連子格子の建物も見られる、村上市肴町の通り)
村上市1(カラー).jpg村上市1.jpg
(配布所近くの道路に有ったマンホール蓋。色付けした方が絵柄がハッキリしますね。)

村上市のもう1枚は更に日本海沿岸を走る国道354号線で、40分以上北上しなければならず、復路の時間も考え早々に勝木に向けて出発をしました。次の配布場所は、「福祉センターゆり花会館」この施設では21時まえ配布してくれる為、時間切れの心配は有りませんが、今日中に自宅に帰る為には、そんなに時間的余裕は有りません。
村上市の市街地を出ると間もなく、車の前方が開けて日本海が現れました。
夕暮れの日本海1.jpg
(目の前に現れた日本海は穏やかな水平線をずっと広げていました)
そこからはずっと車の左手に日本海を見ながら走ります。燃料計を見ると残り3目盛、出発時満タンにして来たので、帰路を考えるとそろそろ給油をしておきたくなり、ガソリンスタンドを見付けながら目的地の勝木を目指しました。が、日本海沿岸の集落になかなかガソリンスタンドが現れてくれません。不安が広がって来ました。この先進んでガソリンスタンドが無かったら!ここは断念して村上市街地へ戻るか!
村上市街地から勝木まで片道約1時間。もし勝木まで行ってガソリンスタンドが無かったら。でもここまで5時間近く走って来てここで戻るのは、又来ればとは簡単にならない。何とかなる!と決めて勝木に向かいました。途中海岸線は「笹川流れ」と言う、国の名勝地となり奇岩が次々と現れて来ますが、気に成るのは燃料計。景色を楽しむ余裕が有りません。
ところが勝木の町に入るとこれ前の海岸沿いの町並みと違い、道路も広くなり配布地の「ゆり花会館」周辺にはコンビニや待望のガソリンスタンドの看板も遠目に確認出来ました。
まずはガソリンスタンドに向かい給油をして貰いました。そしてコンビニでトイレ休憩と食料の補給を行い。目的のマンホールカードを無事ゲットしました。
ゆり花会館.jpg
(今日2枚目のマンホールカードを入手した、村上市勝木の「ゆり花会館」)
村上市2(カラー).jpg村上市3.jpg
(「ゆり花会館」近くで見つけた2種類のマンホール蓋)

帰路は来た道を引き返すことにしました。日暮れが迫って来ていましたのでもしかしたら、日本海に沈む夕日が見られるかもと言う期待と、来るときは燃料が気に成って景色を堪能できなかった事も有りましたから。
暫らくは日本海がオレンジ色に染まって行く景色を見ながら車を走らせていましたが、そうは良い事ばかりでは無く、ナビの画面に「前方に大雨の恐れ」の注意表示が突然現れ、黒い雲が増え残念ながら水平線に沈む夕日は見られません。暫らく行くと雨も降り始めてしまいました。
笹川流れ1.jpg
(勝木からの戻りで、さっそく現れた大きな岩。「鉾立岩」です。)
粟島.jpg
(水平線上に薄く見える島は「粟島」です)
日本海の夕日.jpg
(時間に余裕が有れば車を停めて、ジックリ日本百景の景色を写真に納めたかった)
日本百景とは1927年に指定されたもので、この新潟県の「笹川流れ」と同時に指定された栃木県の場所は、日光市の「中禅寺湖」一ヶ所です。

その後、雨の降り方はそんなにひどくはならず、「日本海東北道」を走る頃は雨も止んでいました。
復路新潟中央JCT.jpg
(北陸自動車道に入る「新潟中央JCT」を通過する頃は、辺りはすっかり暗くなっていました)
帰路はここから磐越道に入って、東北道で帰るコースも検討していましたが、まだ磐越道のこの新潟・会津若松間は1度も通った事が無い為、夜道は景色も見えず危険と思い、今回は往路のコースを戻る事にしました。無事家に戻ったのは夜の10時近くに成っていました。
新潟県はまだ新潟市と三条市のカードが残っています。次回来るときは磐越道を利用しようと考えています。
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日光例幣使街道「富田宿」を歩く [歩く]

今年も10月の声を聞いて、昼間のウォーキングも苦に成らない陽気になって来ました。
先日も久しぶりで「日光例幣使街道」の「富田宿」を歩いて来ました。
この街道は、私が若かった頃は栃木から佐野や藤岡方面に行くとき、必ず通る所でしたが、現在は「富田宿」の町並みの直ぐ西側を並行する形で、片側二車線の「富田バイパス」を通る為、この旧道を車で通行する事は無くなりました。
富田バイパス.jpg
すっかり交通量の少なくなったこの街道を、のんびりと周りの景色を眺めながら歩き、途中街道筋から脇道にも入り込んで、富田宿を満喫しました。
例幣使の一行が通った様に富田宿南の、古橋村(現在の栃木市岩舟町静和)との境界から歩き、宿内を南から北に縦貫して、北の宿外れで下皆川村(現在の栃木市大平町下皆川)との境界まで歩きます。
富田宿概略図.jpg
大平町が昭和57年3月31日に発行した「大平町誌」には、「富田宿」の項に≪富田宿が例幣使街道の宿駅となったのは、公式には正保三年(1646)からであるが、実際には元和三年(1617)徳川家康の霊柩を日光に埋葬する為、3月29日霊柩を奉護する行列がこの地を通行したときにはじまるということが出来る。≫と記しています。又、富田村の中を通過する往還の長さは「25町58間」(約2.83km)、そしてこの内富田宿を形成するのが「12町12間」(約1.33km)、宿の入口と出口にそれぞれ木戸が設けられた。としています。しかし現在街道を歩いても木戸がどの辺りに有ったのか記すものは何も有りません。
栃木県文化協会が昭和53年10月31日に発行した「栃木の街道」の「日光例幣使街道・富田宿」の中で、≪富田宿右手に薬師堂が有るが、ここが富田宿の入口で、往還には木戸が有った。≫と記していますが、現在は薬師堂が何処に建てられていたのか、確認出来ませんでした。
現在、岩舟町と大平町の境界付近を流れる小河川(河川名は上流の大平町側では「猿淵川」、下流の岩舟側では「静和川」)と呼ばれています。)に架かる橋(正明橋)を渡り、暫らく行くと右側に、小さな神社が祀られています。社殿前の鳥居は小柄で有りますが重量感の有る物。扁額等が無い為、神社名や祭神等は分かりません。その神社の先を進むと又街道の右側に火の見櫓が見えて来ます。この辺までに恐らく宿の入口となる木戸が有ったのでしょう。
富田宿1.jpg富田宿2.jpg
火の見櫓の脇を過ぎて150m程行くと、左に入る細い道が有り、その角に「真言宗豊山派 玉正寺」と大書した看板が建てられています。その脇に「富田坊玉正寺」と刻した古い石柱。ここから西に向かうと140m程、現在は富田バイパスの西側にその寺院は有ります。
「光明山持光院玉正寺」は大同二年(807)玄意法師の創立と云います。天正十九年(1591)徳川家康より朱印地10石与えられています。春には境内の梅や桜の花が咲き誇ります。
玉正寺1.jpg玉正寺2.jpg
歩を先に進めます。少し先に信号機の有る、少し広い道路と交差します。交差する道路は県道311号線(小山大平線)、右に曲って500m程行くと東武日光線の踏切となります。その踏切の直ぐ北側に「新大平下駅」が有ります。交差点の北西側角の家の門脇に「日光例幣使街道 富田宿本陣跡」と刻した石碑が建てられています。
本陣跡の碑.jpg富田宿3.jpg
先に掲示した富田宿の概略図ではこの場所は十字路では有りません。西に抜ける道は無く元は丁字路で、この突き当りに陣屋が有ったと思われます。
更に北上すると、道路左手に「八坂神社」が祀られています。
「八坂神社」は旧村社、主祭神は「素盞鳴命」。永享年間(1429~1441)、富田氏が中根に築城の折りに城内に牛頭天王を祀ったのを、寛永十七年(1640)現在の地に移したと伝えられています。(大平町誌より)
八坂神社.jpg八坂神社2.jpg
八坂神社を過ぎて更に北に歩を進めると、又道路の左側にポツンポツンと2棟モダンな洋風の木造建築の建物が現れます。最初の建物は「五月女醫院」、
富田宿4.jpg富田宿41.jpg
そして次の建物が「大平下病院」の文字が確認出来ます。
富田宿5.jpg富田宿51.jpg
これまでほぼ真直ぐ北に向かって進んで来た街道筋も、この大平下病院の辺りから緩やかな曲線を描いて、北東方向に向きを変えていきます。丁度カーブした辺りに左に入る細い道路が県道312号線(大平下停車場線)で、ここ例幣使街道からJR両毛線「大平下駅」前までの200m程の区間です。
富田宿6.jpg大平下駅.jpg
駅に入る丁字路を越えた所に、今度は通りの右手に連子格子の家なども有って、かっての富田宿の面影を伝えています。
富田宿7.jpg富田宿8.jpg
本陣跡の有った交差点から大分進んできました。そろそろ富田宿の出口の木戸が有った辺りに来ている筈です。残念ながら現在はその場所を記すものは何も有りません。すると前方の道路が急に広がる場所に出ます。街道の右手に朱塗りの堂宇が2棟建っています。街道近くに建つ二間四面、向拝付銅板吹きの屋根、最近塗り替えられたように鮮やかな朱色の堂宇。正面に「地蔵尊」と記した扁額が掲げられています。
その地蔵尊の手前で、道路から更に奥に入った間口3間・奥行き2間、同じく朱塗りの建物。正面に掲げられた扁額に「冨明山新田院 宗光寺」と記されています。時宗の寺院 開基は小山七郎左衛門宗光。沿革はこの寺は中世より時宗大本山相模国藤沢の遊行寺(元は清浄光寺)の末寺。かつて小山宗光は時宗を深く信仰していたので、永正二年(1505)この地に一寺を建立し、自分の名前をとって宗光寺と名付けた。(大平町誌より)
この場所の先で街道は異常に広くなっています。現在の道路は真直ぐに抜けていますが、明治初期の様子を表した「迅速測図」を良く観察すると。この場所で街道は少し筋違いになって右にずれています。これは私の勝手な予想ですが、この筋違いだった場所が、かって富田宿の出口の木戸が有った所ではないかと考えています。
富田宿地蔵尊.jpg富田宿宗光寺.jpg
そこから更に先に進むと、春には桜の花がトンネルの様になる桜通りの交差点を抜けた所、街道左手に朱塗りの鳥居が建つこじんまりとした社が現れます。鳥居の横に「樋下正一位稲荷神社」とした表示が有ります。
樋下正一位稲荷神社.jpg
その前を過ぎて暫らく進むと街道は再び県道11号に合流する交差点に出ます。この交差点の所で県道には行かず、そこから再び右手斜め前方に進む細い道路が、かつての例幣使街道に成りますが、その道路もその先は新たに区画整理された住宅街に変わり、かつての街道筋は無くなってしまいました。
現在県道の交差点から少し入った道路脇に忘れられたように、火口や傘など上部が落ちてしまった常夜燈が建っています。常夜燈の手前には一対の狛犬が残っています。
常夜灯の竿の部分と言うのでしょうか、正面に「太平山」、右側面に「日光山」、左側面「御神社」、そして背面には建立年月でしょうか「文政二皇紀己卯十一月」と刻されていました。文政二年は1819年に成ります。
この常夜灯の建つ位置は、富田村と下皆川村との境界に当たる所に成ります。
常夜燈1.jpg常夜燈2.jpg
ここでかつての富田村を縦貫する日光例幣使街道の南の古橋村の境界から、北の下皆川村の境界の区間を、ずっと見て歩きました。まだまだ分からない所が多い「富田宿」、また何時か歩いて見たいと思います。


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モロのフライはやっぱり美味しい [食]

今日の昼食は、ウォーキングを兼ねて外食にしました。月曜日は栃木の商店街は定休日とするお店が多い中、外食の候補と成っていた市役所前の「なすび食堂」が営業をしていたのでラッキーでした。
なすび食堂.jpg
当然このお店で頂く料理は、何と言っても「モロのフライ」を使った料理です。
「モロ」とはサメ肉の事ですが、私は子供の頃からモロのフライが大好きでした。
6月に食べた時は「モロフライ定食」だったと思いますが、少しボリュームが有ったので今回は「モロかつ丼定食」を注文しました。
モロかつ丼定食.jpg
やはりモロのフライは柔らかくて食べやすく、白米も美味しく最高です。ミニうどんも美味しく頂きました。それでもまだボリューム的には多い感じです。と言いながら食後のデザートとして「黒みつ寒天」も頂きました。
黒みつ寒天.jpg
カロリー取り過ぎた様なので、食後のウォーキングは何時もより頑張って歩きました。
今日の総歩数は、14,256歩でした。
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長沼川(栃木市)について [栃木市の河川と橋]

「長沼川」と聞いても、それが栃木市の何処を流れているか、御存じの方は殆ど居ないと思います。知っている方と言えば「市内の河川を管理されている専門の市職員」だけではないでしょうか。私もこの河川の名前を教えて頂いたのは「市役所の河川維持管理の窓口ですから。
「長沼川」は、現在の大町に有る「八幡宮」の西側60メートルの所、県道32号線を北から南に横断するように流れる水路です。
此の所には昔、「栃木の三名水」と称された「八幡水」が湧いていました。(他は杢冷川の水源「杢冷水」と、圓通寺境内の「独鈷水」。)
県道32号線として道路が拡張される以前は、この場所に「八幡橋」と言う橋が架けられていました。
1986年6月八幡橋.jpg
(以前の「八幡橋」、後方奥に写る煙突は「油伝味噌」に有った物、現在両方共無い)
以前はこの湧水池は縦に細長い形をしていた事からか、「長沼」と呼ばれていました。
「栃木市史」史料編近世や、「栃木郷土史」の巻頭写真に、天保七年、天保八年ころに作成された古地図が掲載されていますが、それらの古地図の中に「長沼」が描かれています。そして「長沼」から流出した水路が、現在の嘉右衛門町や小平町を流れ、最終的に巴波川に合流しています。
長沼川1.jpg
(天保8年の古地図を参考に「長沼」周辺の水路を表わしました)
古地図には「長沼」との記載は有りますが、水路には「長沼川」との記載は確認できません。この名称は昭和に成って河川管理を進める上で、管理上からその水路に名付けられたものと考えられます。
以前にも「長沼」に関しては、このブログにて書いていますが、その時には水路の名前はまだ確認出来ていませんでした。
今回「長沼川」として改めてその流路の風景を巡ってみましたので、紹介いたします。
長沼川2.jpg
(県道32号線より南側を望む。この辺がかって長沼の有った所に成ります。)
長沼川3.jpg長沼川4.jpg
(左の写真中央の道路は、栃三小と嘉右衛門町通りを繋ぐ道。正面奥の建物は油伝味噌店の石蔵等です。右側の写真は嘉右衛門町と小平町との境界を流れる「長沼川」)
長沼川5.jpg長沼川6.jpg
(上の左の写真は、以前有った小平保育園の北東部辺りを南流する「長沼川」。右の写真は妙唱寺の西側の墓地の中を貫流する「長沼川」です。)
長沼川7.jpg長沼川8.jpg
(上の左の写真は、妙唱寺墓地の南側「寺内歯科」の西側駐車場辺りを、暗渠化して南流し、住宅地の間を流れて行く「長沼川」。右側は巴波川左岸の翁島の北側のへりに沿って流れる「長沼川」。水路右岸は翁島の茶室に成ります。)
長沼川9.jpg
(最後の写真は、手前の巴波川に長沼川が落ち合う所に成ります。写真左側が翁島です。)
写真を撮っていると、巴波川からカルガモ2羽が、長沼川方向に泳いで行く姿が有りました。
今回辿った所は、長沼川の本流で水路もはっきりと確認が出来ましたが、先の天保七年の「小平柳村川東絵図」には、長沼の南端から水路は二方向に分かれています。今回確認しなかった流れは嘉右衛門町通り(旧日光例幣使街道)のひとつ西側を並行して走る道路に沿ってほぼ南流する様に描かれています。
現在も残るその裏通りには、暗渠化された水路が有り、翁島の東側で巴波川に合流する手前の先の本流にその落ち口を見る事が出来ます。
街の風景は大きく変わりましたが、栃木の街の中を流れる多くの水路は今も江戸の昔の流れを殆んどそのまま残しています。


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今日の一枚 「虹」 [自然の恵み]

虹.jpg
今日の夕方、外出先からの帰宅途中、美しい虹が東の空に現れました。
急いで車を道路の脇に停め、ハザードランプを作動させ、カメラを取り出して撮影をしました。するとたちまち私の車の前後に数台の車が止まりだし、みんなこの虹の写真を撮り出しました。
ところが、私のカメラでは、目の前に現れた虹全体を捉える事が出来ません。
従って「今日の一枚」は、4枚の写真を合成して作ったものです。でもこれが私が見た「虹」そのもので、このように完全な姿の「虹」を、私は生まれて初めて見ました。
この「虹」も数分で姿を消して行ってしまいました。

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栃木第二公園の築山上に建つ「藤田高綱先生之碑」 [石碑]

栃木市旭町の神明宮南隣りに位置する「栃木第二公園」は、私が小学生時代に遊び場としていた公園です。
公園には大きな噴水池や池の東側に築山が有り、そこで木登りをしたりして遊んでいました。
第二公園噴水池.jpg
(栃木第二公園の噴水のある池。バックの高い木が茂ってるところが築山)
第二公園内にはこれまでも紹介をした「日下開山二代横綱力士綾川五郎次碑」の石碑や、第二代栃木県令と成った「正五位藤川君碑銘」などの石碑が建てられています。
今回は先の築山の上に建てられている、「藤田高綱先生之碑」について調べてみました。
今日さっそく石碑の建つ「栃木第二公園」の築山に行ってきました。丁度築山の上には赤い曼珠沙華の花が沢山咲いていました。
第二公園築山上の石碑.jpg
(今、赤い曼珠沙華の花が咲く築山の上に建っている「藤田高綱先生之碑」)
石碑は大小2期建てられ、背が高く大きな石碑は、≪大正十年九月二代目藤田錦太郎正綱ノ時建之≫と碑陰左側に刻されています。
石碑正面上部に四角に囲んで「藤田高綱先生之碑」を篆書体文字で書かれている。篆額と碑文は≪大正五年四月 平安 劉須撰併書≫と記されている通り、明治34年3月31日から大正3年12月27日まで栃木県立栃木中学校(現栃木県立栃木高等学校)の第二代校長を勤めた人物です。
藤田高綱先生之碑.jpg藤田高綱先生追悼.jpg
(劉須先生の撰併書による碑文の石碑) (左横に建てられた「藤田高綱先生追悼之碑」)
碑陰を見ると「寄附者芳名」と下側に「発起者」とが連刻されていますが、当初の人数より寄附者が増えてしまった為なのか、枠からはみ出る様に、石碑の裏面一杯に名前が刻されています。
寄附者の芳名欄を見て行くと、最初に「栃木町」として「県立栃木中学校」の文字が有りました。これは碑文の中に記されている様に「藤田高綱」が明治35年5月より、栃木中学校の剣道指南をされていた由縁です。
他に栃木町関係者の名は80名に及びます。その他「北犬飼村」25名、「富山村」20名、この中には「下皆川青年会」の文字も見えます。「岩舟村」13名、「小野寺村」18名、「南摩村」9名、「粟野町」6名、「清洲村」10名、「結城町」5名、「栃木警察署員」34名、「吉田村」3名、「地方部」21名、「親戚」4名。その他枠外となられた方が25名も有ります。
碑陰下側の「発起人」欄を見ると、「有志」として10名の名前、次に「門人」として41名が名前を連ねています。
私はこの「藤田高綱」と言う人物がどのような人であったか、全く知らなかったのでインターネット検索に頼って、「藤田高綱」と打ち込むと、「栃木武徳殿」のページ情報facebookの検索結果が表示されました。
それを開いて見ると、画面に雪が降り積もる「栃木武徳殿」の建物に目を奪われます。素敵な写真です。
そこに「藤田高綱」の名前が出ていました。その内容を引用させて頂きます。
≪藤田高綱は、若年から文武両道を修め剣術の腕前は郡を抜いていた。やがて宇都宮藩主・戸田越前守の江戸邸に勤め、信心流剣法・下江又市の門に入り文久3年宇都宮藩の剣術指南役となる。明治15年下毛存武社という剣道場創設、のちに尊武館と改める。高綱はさらに、信武館道場を設立、下都賀を中心に上都賀、河内、安蘇郡下から県外結城にまでいたった。≫
と説明されています。まさに碑陰の寄付者の地域の広さがそこにも表わされています。

さて、「栃木武徳殿」の建物は私も以前から興味を持っている建物です。今日も足を運んで写真を撮って来ました。
武徳殿全景.jpg
(「栃木武徳殿」の建物全景)
この建物は先の「藤田高綱」先生の尽力により、明治44年4月3日に開設されたもので、現在は栃木市が管理をしている様です。
武徳殿玄関部.jpg
(玄関部分、入口上部に「武徳殿」の扁額)
現在入口左側に「栃木市剣道連盟道場」と「武徳殿剣道少年団」の木札が掲げられています。

昭和53年(1978)6月に私が撮影した、武徳殿の写真が有りました。そこには「青雲館道場」の扁額が写っています。
1978年6月青雲館道場 (5).jpg1978年6月青雲館道場 (4).jpg
道場では豆剣士たちが稽古に励んでいる様子が、垣間見られます。剣道や柔道などの武道は、「礼に始まり礼に終わる」と言います。躾がきちっとされている様子が、玄関先の下駄箱や土間に並んだ靴が整列されている所にも覗われる写真です。
「栃木青雲館」に関しては、ホームページが公開されていました。その中の説明を引用させて頂きます。
≪栃木青雲館創設は昭和28年にさかのぼります。戦後間もなく剣道が復興、繁栄し始めた頃、現在の栃木武徳殿に先生方が集まり稽古をする中で、子供の入門が少しずつ増えていくことがきっかけとなり初代館長石沢先生が栃木市内初の少年剣道場として、栃木青雲館が開かれました。≫
と、記されています。上の写真を撮影した当時は、「栃木青雲館」が武徳殿の道場を練習場としていたものでしょう。
栃木武徳殿のこの建物、栃木市剣道界のレガシーとして、保存と活用を続けて欲しいと思いました。
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古河 歴史と伝統が息づく町を歩く [歩く]

今日は、「歴史と文化を歩く会-栃木-」のメンバー20名で、茨城県古河市の街を、「古河市観光ボランタリーガイド協会」の方に案内をお願いをして巡って来ました。
JR古河駅西口前にてガイドの方と待ち合わせを行い、いざ古河の街巡りスタートです。
古河駅前.jpg
(本日のスタートとゴール地点、JR古河駅西口)
最初にガイドさんから古河市の成り立ちと現況について、説明が有りました。
≪平成17年に古河市と三和町・総和町とが合併して現在の古河市に成り、現在14万4千人ですが、人口は減少している。≫これは、大方の地方都市に共通して言える事で、私達の栃木市も同様です。
≪その歴史は、800年前、下河辺氏がこの地に入った、その当時は砦程度か。室町時代に古河公方が館を構え、江戸時代には徳川家の大老職や老中職と成った譜代大名が、古河城主となっている。その中でも特に土井家は150年間古河城主と成っている。≫説明はもっと細かく話されていましたが、私の頭に入って残ったのはこの程度。さすがに地元のガイドを20年もされてきているベテランだと最初から関心させられました。
最初に向かった所は、「日光道中古河宿道標」です。
現在古河の街中を縦貫するメインストリートは鍛治町通りとの交差点の北側にも直進して抜けていますが、この北に抜ける道路は昭和13年に開通していて、以前の日光道中は南側から古河宿内を北上この場所で突き当たると、日光道は左へ、右は筑波道と左右に分かれ、日光道中は左に折れた後140メートル程で直ぐ又折れて北方向に進んで行きます。この形態は栃木市の万町交番前交差点と同じです。
江戸時代、日光例幣使街道栃木宿の北の木戸が有った、現在の万町交番前交差点から北側に直進する道路は「北関門道路」と呼ばれ、昭和7年に開通。それ以前は古河宿と同じように左に折れた後60メートル程で再び北に折れ、嘉右衛門新田を抜ける道路と成っています。
古河市の道標は大きな四角柱で上部は常夜燈の形状。南面に「左日光道」、西面には「右江戸衜」と大きく刻されています。東面には「東筑波山」と大きく刻されその下に、「下妻・結城」他もう一つ地名が小さく刻されています(江川と読めそう)。北面にはこの常夜灯を建てた年月や建てた人の名前、揮毫した人の名前等が刻されています。常夜燈の脇に古河市教育委員会による説明板が建てられていました。
道標南東面.jpg道標北西面.jpg日光道中道標説明板.jpg
(日光道中道標南東側) (道標北西側)        (道標脇に立てられている説明板)
次は西に向かう「日光道中」へ。この辺りは「かぎのて銀座」と呼ばれ、かっては賑わった場所だったと言います。
かぎのて銀座.jpg
(道標の建つ交差点から西に入った通り、「かぎのて銀座」)
その先の交差点にて右に曲って北に向かう道路が日光道中。現在は「よこまち柳通り」と言うこの通りは、明治期から昭和初期に花柳界で賑わっていた所と言います。現在は「武蔵屋」という立派な店構えのお店がその名残を伝えています。
よこまち柳通り.jpg武蔵屋.jpg
(旧日光街道、現在は「よこまち柳通り」以前は花柳界が有り賑わっていた)(武蔵屋さん)
私達はその建物を遠目に見て、西側の「杉並通り」方向に歩きます。
「杉並通り」は、通りの北側に江戸時代が偲ばれる武家屋敷の面影を残すお屋敷が目を見張ります。
古河の町歩き1.jpg
(武家屋敷の面影残す「杉並通り」を歩く)
次に訪れた所は土井家も菩提寺「正定寺」です。境内東側の入口に建つ「黒門」は、昭和8年文京区に有った土井家の江戸下屋敷から移築されました。
正定寺表門.jpg正定寺黒門.jpg
(正定寺の朱塗りの門、手前右手にかつて池が有り弁財天が祀られていた)(黒門を見学)
境内にて古河領内高島村(現在の栃木市大平町)出身の、徳川四代将軍家綱公の生母「お楽の方」の供養塔や、土井家墓所を見学しました。
古河の町歩き2.jpg古河の町歩き3.jpg
(「お楽の方」の供養塔、隣りが岩船地蔵尊)  (土井家墓所)
墓所の正面に建つ二基の宝篋印塔は初代土井利勝夫妻(左側が利勝、右側が奥方)を供養した物。墓所は元東京浅草の誓願寺に有ったもので、大正12年の関東大震災後の東京復興計画によって移転をせまられ、昭和2年に当地に移されたと言います。
次に永井路子旧宅を見学。
永井路子旧宅.jpg永井路子旧宅中庭.jpg
(歴史小説家・永井路子旧宅)        (店藏奥の和室縁側からの眺め)
計画では永井路子旧宅については、外から見学で予定していましたが、邸内に入り座敷にも上がって、旧宅内の雰囲気にも浸ることが出来ました。その為20分程の遅れが出て来ました。少しスピードをアップして次の見学予定の「古河歴史博物館」へ向かうことに。
煉瓦造りの建物.jpg古河第一小学校.jpg
(古河街角美術館と篆刻美術館の間の通りを南へ)(古河第一小学校の煉瓦門)
途中、煉瓦積みした建物が多く見かけられます。石畳みの通りを先に進みます。古河で一番古いと言う「古河第一小学校の東側に沿って南へ。この小学校、昨年改築されて新しい校舎に変わった様です。
雪華を刻した歩道.jpg
(歩道に敷き詰められた六角形の石畳には色々な図柄の雪華が描かれている)
足元の六角形の石畳みにひとつひとつ異なる六角形の図柄が刻されています。これらの図柄は藩主の土井利位が20年の歳月を掛けて観察を続け、183種の雪の結晶を「雪華図説」に著した図柄を刻したものだそうです。尚これらの雪の結晶の図柄は古河市内の小中学校の校章にも成っているとの事です。
途中、時間の関係で「古河文学館」前も素通りして、古河城の諏訪曲輪(出城)の跡に建てられた「古河歴史博物館」へ到着。ガイドさんより前もって館内の案内を博物館の学芸員の方にお願いして有りましたので、展示物の説明を詳しく聞く事が出来ました。
古河の町歩き4.jpg
(かつての古河城諏訪曲輪跡に建てられた、古河歴史博物館)
最初に受付横の展示ホールで、オランダ製の大きなストリートオルガンの生演奏を実演して頂きました。前もって大きな音が出ますとの説明がされましたが、実際予想以上の音量で驚きました。
館内の展示品の説明を聞きながら、後のスケジュールの時間が気に成って時々時計を確認、20分の遅れが解消されていません。もっと聞いていたいところですが、申し訳なかったのですが、途中で説明を打ち切って頂きました。
つぎは博物館を出てすぐ前の「鷹見泉石記念館」の見学へ。
鷹見泉石記念館全景.jpg
(鷹見泉石が最晩年を送った武家屋敷を平成2年に記念館として開館)
この建物は土井家の元家老を勤めた者が入った場合が多かった。元治元年には、水戸天狗党100名余が一時収容された屋敷でも有りました。
邸内にて天然記念物に指定されている古木「楓樹」や、古河城二ノ丸御殿に有ったと伝えられる石燈籠などを見学しました。
古河の町歩き5.jpg石燈籠.jpg
(江戸時代以来の古木「楓樹(ふうじゅ)」) (重量感たっぷりの石燈籠)
今日は、秋の彼岸の入りです。庭には赤い曼珠沙華の中に、白色の曼珠沙華の花も丁度咲いていました。
古河の町歩き6.jpg
(竹林には赤や白の曼珠沙華が咲いていました)
いよいよ帰りの電車の時間が迫って来ています。古河駅に12時丁度に戻る計画でしたが少し遅れるのがハッキリして来たのでこの後は、ゴールに向かって歩く事に。
両毛線が昼間のこの時間帯、1時間に1本の為、目的の電車に乗り遅れると、次1時間待ちと成ってしまう為です。それでも何とかガイドさんの案内で、最終的には時間に間に合わせて古河駅に到着する事が出来ました。
古河の町にはまだまだ見たい所が残っています。歴史博物館の展示物も、もっとゆっくりと鑑賞したいと感じました。
本日の総歩数は7,582歩でした。
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日暮れ後ウォーキングへ [歩く]

今朝は花火の音で目を覚ましました。今日の開催を知らせる花火です。今日は近くの栃木第三小学校の運動会の日です。
天気予報の通り曇り空、時折薄い雲を透かして白い太陽が現れます。気温は少しひんやりと感じられ、最近の残暑から一転した陽気です。幸い今日は一日曇り空と成って、体を動かすのにも苦にならない運動会日和に成りました。
ここ数日、30℃を越える気温で午後になると毎日のように青空に真っ白な積乱雲が黙々と湧きあがり、その後急に空気が冷たく変わると、決まった様に夕立となる為、暑さが治まった後のウォーキングも控えていました。
積乱雲2.jpg
(真っ青な空に湧き上がる積乱雲)
積乱雲.jpg
(積乱雲をバックに、田圃の稲穂は重そうに頭を垂れています)

現在、台風18号がゆっくりと方向を東に変え沖縄から九州方向に進んできて、西日本に激しい風と雨をもたらしていますが、まだ私の住む栃木県は雲は多いものの、予報でも降雨は今夜遅く、日付が変わる頃と伝えていましたので、陽が暮れてから久しぶりのウォーキングに出掛けました。
巴波川沿いを歩くと、先日まで川岸にロープで結ばれていた川船が今日は見当たりません。先日歩いた時には、屋形の中に照明を付け影絵にして、御大尽の舟遊びの雰囲気を演出していました。
巴波川舟遊び図1.jpg
(川面に浮かび上がる屋形船、後方に宵闇に沈む白壁土蔵)
屋形の障子に映る影は、花魁らしき女性が御大尽に御酌をしています。又一方では扇子を持って踊る芸者さんらしき影も。
巴波川舟遊び図2.jpg
(屋形船の障子に映る人影が、巴波川の川面にも映る)
今日はもうこの風景も見られ無くなっていました。既に今年はこうした演出を終了したのか、それとも近づいて来ている台風に備えて、一時避難をしたものか。
今は光を失った巴波川を横目にウォーキングを続けました。
本日の総歩数は、9,052歩でした。

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蛇行の姿を今に留める旧赤津川(栃木市) [栃木市の河川と橋]

赤津川と言うと、昭和26年に竣工した分水路が出来るまで、幾度となく栃木の街に洪水をもたらした河川として知られた名前でしたが、先の赤津川分水路が開鑿されて、吹上町の新田橋下流部から真直ぐに南の方向に流して、錦着山北西部の泉川町地内にて西方向から流れて来た永野川の左岸に落す事で、栃木の街を洪水の災禍から解放をすることが出来ました。それまで吹上町から野中町、箱森町、小平町を激しく蛇行を繰り返し、巴波川に架かる小平橋の直ぐ下流部で右岸に合流していた以前の河道は、現在も旧赤津川として残っています。
その旧赤津川の河道も、栃木環状線(県道309号線)より北側は、栃木総合運動公園の造成と、その公園の前から環状線との間の区域で行われた「栃木市運動公園前土地区画整理事業」の竣工に伴い、その姿を大きく変えてしまいました。
運動公園前の住宅地を流れる旧赤津川.jpg
(運動公園から真直ぐに南方向に流れている現在の旧赤津川)
しかし、環状線の南側となる箱森町と小平町の区域を流れる「旧赤津川」の河道は、明治19年発行の地形図「迅速測図」に初めて描かれた時の河道とほぼ同じ姿を今に留めています。
国土地理院のホームページにて戦後の昭和22年頃から現在に至るまで撮影された栃木市街地の空中写真を閲覧することが出来ますが、戦後早々に米軍によって撮影された空中写真を見ると、その頃の旧赤津川流域の様子がハッキリと写っています。
現在、栃木外環道路の内側に位置する箱森町や小平町は、殆んどが宅地に変わっていますが、昭和22年の写真を見ると、一面に田んぼが広がり、集落は旧赤津川流域付近に点在をしているだけです。
この地域が住宅地に変化した要因として考えられるのは、県道32号線(栃木粕尾線)が栃木環状線を抜けて、大通りまでの間、従来の細い道路から拡張されて歩道付きの二車線道路に整備された事。更にいまだ完全な形には至っていないものの、この県道32号線から南の方向へ、小平団地を抜ける新道が部分的にでも開通した事で、従来田んぼの中に位置した星宮神社周辺が、全面的に住宅地に変わった事が、この地域から田んぼが消えた大きな要素と考えます。
それだけ大きく変化をしたこの地域に有って、以前からこの地を西に東に大きく蛇行を繰り返して流れていた旧赤津川だけはなぜ、昔の河川の姿を今も殆んど変わることなく現在に至ったのか。
ここまで文書だけでダラダラと説明して来た為、状況把握がもう少し理解して頂けるよう、この地域の河川の姿と周囲の姿を、模式図に表わしてみました。
旧赤津川流域模式図.jpg模式図の凡例.jpg
(箱森町・小平町を流れる旧赤津川とその周辺を模式図に描いた物)

模式図の右側部分上から下に向かって、荒川を合わせた巴波川が流れています。その他にこの箱森町から南の小平町にかけては、幾筋もの小さな水路が南流していますが、その中で大きくその流路を左右に蛇行させている河川が、旧赤津川です。
旧赤津川は模式図の左上「栃木環状線」と「県道32号線」が交差する「箱森町交差点」の東側、メンズプラザアオキ栃木店とユニクロ栃木店の間付近で、栃木環状線の下を潜って、南側に移ります。
環状線の下を抜ける旧赤津川.jpg
(栃木環状線の北側、メンズプラザアオキ栃木店の東側で暗渠化して道路を横断する)
そこから、近くの「はこのもり保育園」の西側を回り込む様にして流れて、県道32号線に沿って1本裏の道路沿いを東南東方向に流れています。
とちぎコミュニティープラザ.jpgはこのもり保育園.jpg
(旧赤津川左岸の建物は「はこのもり保育園」に併設されてる「とちぎコミュニテープラザ」)
がってん寿司栃木店やモスバーガー栃木店の北側を流れ、その先で県道32号線の下に潜り南側に流れを移していきます。
深町橋跡辺り.jpg
(モスバーガー栃木店の北側を流れる、旧赤津川の流れ)
以前は現在の河道より南側迄流れて来ていましたが、32号線の拡張工事に伴い現在の位置に変わりました。
深町橋(1991年)付近.jpg
(私が1991年に撮影した現在のモスバーガ栃木店の南側付近に有った深町橋)

現在、拡張された県道32号線の下を潜る場所に橋らしい構造物は有りませんが、以前はこのところに「赤津川橋」と称する橋が架かっていました。しかし今この場所で昔の名残を留めてるのは、橋の北側に建つ長い板塀に囲まれた旧家だけに成りました。
現在の赤津川橋辺り.jpg1980年赤津川橋 周辺.jpg
(暗渠化され県道の下を潜る旧赤津川)(1980年に撮影した赤津川橋、後方の家は今も変わらない)
旧赤津川は県道の南側に移ると、新しく開発された住宅地の中を160メートル程南流して、星宮神社の西側で又90度流れを変え西方向に180メートル程流れて行き、再度流れを南に変えています。
星宮神社北西部付近.jpg
(星宮神社北西部の新しい住宅地の入口付近から、流れを西に変えた旧赤津川)
新しい住宅地から西に流れるとこの辺では少なくなった田んぼの中を流れて行きます。
小平町入口付近.jpg
(旧赤津川の両側には収穫期を迎えた田んぼ、川岸にはヒハンバナが咲いています)
この辺りが旧赤津川の蛇行が一番西側に寄った所で、橋の東側に「小平町入口」の表示板が建てられています。橋の西側には、明治30年(1897)に敷設され、昭和5年(1930)にそのルートを変更する迄、鍋山人車鉄道が通っていた、旧鍋山街道が走っています。
旧鍋山街道脇を流れる旧赤津川.jpg
(旧鍋山街道の東側に沿って流れる旧赤津川)
旧鍋山街道によって行く手を阻まれた流れは、道路に沿って40メートル程流れ、又住宅の裏手に姿を消していきます。
地形図を見ると旧赤津川の流れは、ハウディーズカフェの東側付近で大きく方向を東北東に変え、旧小平団地の北側付近で新しく通った道路の所に、姿を現します。
新道付近1.jpg新道付近2.jpg
(旧小平団地を南北に縦断して開通した新道から見える旧赤津川)(補強整備された護岸)
旧赤津川の大蛇行はこの新道付近で又流れる方向を南東から南へと変えて行きます。今から2年前に発生した豪雨による洪水は、赤津川分水路が昭和26年(1951)に竣工して以降、60年以上経過した現在に昔の悪夢をよみがえられました。この地域の被害も大きなものに成りました。恐らくこの地域には旧赤津川上流からだけでなく、東側を流れている巴波川からの逆流も激しかったのではないかと考えられます。
若葉幼稚園付近.jpg
(U字状に蛇行する旧赤津川が、一番南の端となる場所に有る若葉幼稚園付近)
小平町の住宅地を南流して来た、旧赤津川は若葉幼稚園付近で又大きく蛇行して向きを北に変え、その後東側を南流している巴波川の右岸に合流して行きます。
巴波川合流点.jpg小平橋.jpg
(旧赤津川と巴波川との合流点) (合流点の直ぐ上流部に架かる、巴波川の小平橋)
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今日の一枚 [草花]

我家の脇に有る田んぼの畦に、今年も曼珠沙華が咲きました。
今年の夏、曇りや雨の日ばかりで、日照時間が少なかった為、稲の生育が悪くなるのではと、心配をしていましたが、稲穂も重そうに頭を垂れています。
曼珠沙華.jpg
私はずっと会社勤めでしたので、稲作の事は全く分かりませんが、今、近くで「鳥脅し」のパーンと言う音に、前の田んぼに水を送るポンプ小屋まで電気を送る電線から、一斉に雀が飛び去って行きました。
以前この「鳥脅し」はカーバイトに水を滴下、その反応によりアセチレンガスを発生させ、そこに点火して爆発させました。その爆発音で稲穂を啄ばむ鳥を追い払っていたと思いますが、現在はプロパンガスが使われていると聞きます。
私は工業高校で機械科でしたから、授業で溶接作業にこのアセチレンガスを使っていました。実習棟の裏にカーバイトを使ってアセチレンガスを発生させる設備が有りました。私はこのガス溶接作業実習は好きでは有りませんでした。作業を間違えると逆火して爆発する危険が有ったからです。
会社に入ってからも溶接部門が有り、高校時代に受けたこの授業はとても役に立ち、このアセチレンにもお世話に成りました。
稲刈りが終わるまでこの爆発音が轟きます。

今日は一日、陽が射していたかと思うと、急に雨が降り出したりして、爽やかな秋晴れとはならず、むしろ蒸し暑くなりました。夜の11時を過ぎても目の前の温度計は26℃を越え、湿度は80%と高いままです。昼間も今も扇風機の前から離れられません。それでも日が暮れてからウォーキングに出掛けた時、周囲に虫の声が溢れていました。
曼珠沙華の花や虫の声に、シッカリと秋を感じました。もう直ぐ秋の彼岸です。

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